■拜殿■
(12th June 2010)
★美談社★ 島根県出雲市美談町182
・延喜式内社、出雲國出雲郡、美談社。
・延喜式内社、出雲國出雲郡、同社比賣遲社、合祀。
・舊社格は村社。
・祭は經津主命、武甕槌命、息長足姬命。比賣遲命を配祀。風土記の記述より、本來、祭は和加布努志命と思われる。
・『出雲國風土記』出雲郡の在祇官社五十八所中第十四社彌太彌社に比定。
・近世には八幡宮を稱した。
・風土記によると、所造天下大の御子和加布都努志命が、天と地が初めて分かれた後、天つの御領田の長として奉仕された。この中にそのが住まわれている。だから、〔御田を見るということにちなんで〕三太三という。龜三年(726)に字を美談に改めた、とある。
・建長年中、佐佐木次左衞門泰七男廣田が八幡宮を勸請合祀、以後、正八幡宮を稱す。
・享保二年(1717)の『雲陽誌』美談村の條には正八幡宮の社名はあるが、美談社の名は見えず、天保四年(1833)の『出雲社巡拜記』美談村條にて、美談社は八幡宮の合殿になっている、ということ、祭は經津主命なるべし、と記されている。
・明治時代にはいっての式内社復活思想により、八幡宮から美談社と名を改めているが、書が當社を式内美談社とする根拠は不明とされている。
■社號標■
(12th June 2010)
■鳥居■
(12th June 2010)
■木■
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/24/e95d55839fcd2265242b64c3ac660938.jpg)
■本殿■
(12th June 2010)
■末社印波社■
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/d0/307155e5ea9021dafe3738fe2dff2a71.jpg)
・延喜式内社、出雲國出雲郡、印波社。
■末社縣社、和加布都努志社■
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/a7/b71dbc769ef9a09830829f04e929ef82.jpg)
・延喜式内社、出雲國出雲郡、縣社。
・延喜式内社、出雲國出雲郡、同社和加布都努志社。
((コメント))
2010年6月12日
社號標を見ると、式内社であることが判明、參道石段を驅け上がった。社殿を見たとき、拜殿のガラス戶が衝擊的で、かなりがっかりすることに。まあ、本殿は惡くなかったが。個人的には參道石段途中にあった木の周邊が一番何かを感じたように思う。ただ、實際の所、當社が本當の式内社であるのかな、という氣が强い。別の風土記記載の彌太彌社のような氣がしないでもない。
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/a9/f5f83e712351a3d02b03d6b5c617ff2c.jpg)
★美談社★ 島根県出雲市美談町182
・延喜式内社、出雲國出雲郡、美談社。
・延喜式内社、出雲國出雲郡、同社比賣遲社、合祀。
・舊社格は村社。
・祭は經津主命、武甕槌命、息長足姬命。比賣遲命を配祀。風土記の記述より、本來、祭は和加布努志命と思われる。
・『出雲國風土記』出雲郡の在祇官社五十八所中第十四社彌太彌社に比定。
・近世には八幡宮を稱した。
・風土記によると、所造天下大の御子和加布都努志命が、天と地が初めて分かれた後、天つの御領田の長として奉仕された。この中にそのが住まわれている。だから、〔御田を見るということにちなんで〕三太三という。龜三年(726)に字を美談に改めた、とある。
・建長年中、佐佐木次左衞門泰七男廣田が八幡宮を勸請合祀、以後、正八幡宮を稱す。
・享保二年(1717)の『雲陽誌』美談村の條には正八幡宮の社名はあるが、美談社の名は見えず、天保四年(1833)の『出雲社巡拜記』美談村條にて、美談社は八幡宮の合殿になっている、ということ、祭は經津主命なるべし、と記されている。
・明治時代にはいっての式内社復活思想により、八幡宮から美談社と名を改めているが、書が當社を式内美談社とする根拠は不明とされている。
■社號標■
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/fe/a2337dee236e807692d26f4f72415386.jpg)
■鳥居■
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/bb/95b915bcd227d5dffd761cece2aa377e.jpg)
■木■
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/24/e95d55839fcd2265242b64c3ac660938.jpg)
■本殿■
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/47/f5/b986f6d238f34d16f8eb200dfd1ecd1a.jpg)
■末社印波社■
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/41/d0/307155e5ea9021dafe3738fe2dff2a71.jpg)
・延喜式内社、出雲國出雲郡、印波社。
■末社縣社、和加布都努志社■
(12th June 2010)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2e/a7/b71dbc769ef9a09830829f04e929ef82.jpg)
・延喜式内社、出雲國出雲郡、縣社。
・延喜式内社、出雲國出雲郡、同社和加布都努志社。
((コメント))
2010年6月12日
社號標を見ると、式内社であることが判明、參道石段を驅け上がった。社殿を見たとき、拜殿のガラス戶が衝擊的で、かなりがっかりすることに。まあ、本殿は惡くなかったが。個人的には參道石段途中にあった木の周邊が一番何かを感じたように思う。ただ、實際の所、當社が本當の式内社であるのかな、という氣が强い。別の風土記記載の彌太彌社のような氣がしないでもない。