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鳥天皇安樂壽院陵 / 鳥羽天皇安楽寿院陵

2014年06月03日 17時54分36秒 | 天皇陵、皇族墓所
■陵■
(3rd March 2012)



★鳥天皇安樂壽院陵★ 京都府京都市伏見区竹田浄菩提院町

・人皇第七十四代。

・諱は宗仁。

・人皇第七十三代堀河天皇の皇子。母は贈皇太后藤原苡子。外祖父は藤原北家閑院流藤原實季。

・父堀河天皇の死後、五歳で即位。政務は白河法皇が執った。世に言う院政である。

・永久五年(1117)、白河法皇の養女である藤原璋子(待賢門院)が入内、その翌年に中宮となる。璋子が第一皇子である顯仁親王こと、のちの崇天皇を產むが、入内前に白河院が手をつけて產ませた子という說もあり、いずれにせよ、鳥院はこの親王を疎んだという。このことは、後の保元の亂の原因のひとつとなっている。ちなみに、『古事談』によると、鳥院は崇のことを、「本來、叔父であるにも關らず、子である」ということで「叔父子」と呼んだとされる。

・白河法皇死後、大治四年(1129)より院政を敷く。白河法皇に疎んじられていた藤原忠實を呼び戾し、娘の泰子(陽院)を入内させるなど、院の要職を自らの側近で固めるにいたる。

・康治元年(1142)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となる。

・鳥の安樂壽院御所にて崩御、遺諡によって、鳥羽院と追號されたが、明治以後、院號は廢止、鳥天皇とされる。


■陵■
(3rd March 2012)



((コメント))

2012年3月3日

 鳥法皇が死んだ地がここであり、その時に驅けつけた系圖上の一宮であった崇上皇は中に入ることを許されず追い返され、保元の亂となっている。その舞臺にまさしくいたということに驚く。崇上皇は個人的に好きな人であり、先祖とは幾ばくかの緣もある方であり、この時代に生きておれば、有馬の熊野水軍を率いて、崇上皇方についただろうと思うが、實際には戰さを知らぬ藤原通が如きの言うことを聞き、ただでさえ不利であるのに勝ち目を失っているのだから切ない戰さである。今の自分の生き方からすると從わずに鎭西八爲朝をこっそり抜け出して、義朝、義康、盛が出ていたを縫い、帝や通憲、忠通を生け捕りにしようと試みたのではなかろうかと思ってしまう。そもそも、戰さが出來そうな人があとは賢のみで、宇野親治が生け捕られている段階でどうしようもなかったであろうから。敗北を予測して、院の逃走經路を確保し、熊野の山中で追っ手と戰う道を選んだかもしれない。


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