■參道、拜殿■
(30th December 2007)
★物部社★ 島根県大田市川合町川合1545
・延喜式内社、石見國安濃郡、物部社。
・舊社格は國幣小社。
・祭は宇麻志摩遲命(物部氏初代)。相殿右座に饒速日命、布靈、左座に天御中主大、天照大、客座に別天(天之御中主、御產巢日、產巢日、宇麻志阿斯訶備比古遲、天之常立)及び鎭魂八(皇產靈、皇產靈、魂留產靈、生產靈、足產靈、大宮賣、事代主、御食津)を配祀。
・石見國一之宮。
・物部氏の祖宇摩志麻遲命を祀る唯一の舊官社。
・繼體天皇八年(513)、敕命により殿創建という。
・武天皇が大和國侵畧のとき(いわゆる東征)に大功を表し橿原の朝廷を守護する。その功により靈劔(石上宮奉齋)を腸う。
・物部社は物部氏初代を主祭として祀る物部氏の社で、物部氏の氏である大和國布留大明石上宮とは表裏一體をなす社。
・蘇我馬子にに物部守屋が破れ、一族は各地に離散し歷史の表舞臺から消えた。出雲國に逃れた一族はそれ以前に入植していた石見の國造家(現在の金子氏)を中心として物部社の護持、祭典を奉仕してきた。その奉仕してきた社家は 江戸中期に六十數軒に減ぜられ、明治の制で世襲を解かれるまで續いた。
・天文十一年(1542)、大内義が太刀を奉納。
・弘治二年(1556)、毛利元就大家の内三ケ所を寄進。
・文五年(1665)、四代將軍家綱より社領三百石の朱印狀。
・石見國造金子家は明治初年(1868)に出雲大社の千家、北島家と共に男爵を與えられた。
■鳥居■
(30th December 2007)
■本殿■
(30th December 2007)
■末社■
(30th December 2007)
■折井田の腰掛岩■
(30th December 2007)
・傳承によると、物部社の祭宇麻志摩遲命が白い鶴に乘ってこの川合に天から降りてきた。そこを鶴降山という。そこから國見をしたところ大和の天香具山によく似ているので八百山麓に住むことにしたという。そのとき鶴降山から白い鶴に乘って降りたところを折井田という。そこには宇麻志摩遲命が腰を掛けたという大きな岩があった。それを道路擴張のときに社境内へと移したというのがこの岩。
■富金石の手水鉢■
(30th December 2007)
((コメント))
2007年12月30日
龍御前社のあと、メインの訪問先の一つ石見國一之宮物部社へと行った。大雑把な道路地圖しかなく少し迷った。世界遺產になった石見銀山も行きたかったが、今回はそこまで時を割くことができず殘念。
ここは、物部守屋は以後の守屋に組んだ物部の一族が逃げた地の一つであると聞くが、鄰の出雲とは非常に仲が惡かったらしく、さらに奧に逃げてきた感じになっている。出雲が、大和王朝以前の古代イズモ族が移ってきたところというのだから、大和王朝に組した物部を嫌うのは當然の結果かな。
(30th December 2007)
★物部社★ 島根県大田市川合町川合1545
・延喜式内社、石見國安濃郡、物部社。
・舊社格は國幣小社。
・祭は宇麻志摩遲命(物部氏初代)。相殿右座に饒速日命、布靈、左座に天御中主大、天照大、客座に別天(天之御中主、御產巢日、產巢日、宇麻志阿斯訶備比古遲、天之常立)及び鎭魂八(皇產靈、皇產靈、魂留產靈、生產靈、足產靈、大宮賣、事代主、御食津)を配祀。
・石見國一之宮。
・物部氏の祖宇摩志麻遲命を祀る唯一の舊官社。
・繼體天皇八年(513)、敕命により殿創建という。
・武天皇が大和國侵畧のとき(いわゆる東征)に大功を表し橿原の朝廷を守護する。その功により靈劔(石上宮奉齋)を腸う。
・物部社は物部氏初代を主祭として祀る物部氏の社で、物部氏の氏である大和國布留大明石上宮とは表裏一體をなす社。
・蘇我馬子にに物部守屋が破れ、一族は各地に離散し歷史の表舞臺から消えた。出雲國に逃れた一族はそれ以前に入植していた石見の國造家(現在の金子氏)を中心として物部社の護持、祭典を奉仕してきた。その奉仕してきた社家は 江戸中期に六十數軒に減ぜられ、明治の制で世襲を解かれるまで續いた。
・天文十一年(1542)、大内義が太刀を奉納。
・弘治二年(1556)、毛利元就大家の内三ケ所を寄進。
・文五年(1665)、四代將軍家綱より社領三百石の朱印狀。
・石見國造金子家は明治初年(1868)に出雲大社の千家、北島家と共に男爵を與えられた。
■鳥居■
(30th December 2007)
■本殿■
(30th December 2007)
■末社■
(30th December 2007)
■折井田の腰掛岩■
(30th December 2007)
・傳承によると、物部社の祭宇麻志摩遲命が白い鶴に乘ってこの川合に天から降りてきた。そこを鶴降山という。そこから國見をしたところ大和の天香具山によく似ているので八百山麓に住むことにしたという。そのとき鶴降山から白い鶴に乘って降りたところを折井田という。そこには宇麻志摩遲命が腰を掛けたという大きな岩があった。それを道路擴張のときに社境内へと移したというのがこの岩。
■富金石の手水鉢■
(30th December 2007)
((コメント))
2007年12月30日
龍御前社のあと、メインの訪問先の一つ石見國一之宮物部社へと行った。大雑把な道路地圖しかなく少し迷った。世界遺產になった石見銀山も行きたかったが、今回はそこまで時を割くことができず殘念。
ここは、物部守屋は以後の守屋に組んだ物部の一族が逃げた地の一つであると聞くが、鄰の出雲とは非常に仲が惡かったらしく、さらに奧に逃げてきた感じになっている。出雲が、大和王朝以前の古代イズモ族が移ってきたところというのだから、大和王朝に組した物部を嫌うのは當然の結果かな。