の坐すと地と魂の鎭まる地

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都祁水分神社

2010年03月06日 15時21分05秒 | 近畿(奈良)
■中門、玉垣、本殿■
(20th November 2008)



★都祁水分神社★ 奈良県奈良市都祁友田町

・延喜式内社、大和國山邊郡、都祁水分神社、大、月次新嘗。

・旧社格は縣社。

・祭神は速秋津彦命、天之水分神、國之水分神。

・神武天皇皇子の神八井命の後裔を称する闘鶏國造の氏神であった。

・吉野、葛木、宇太とともに大和國四水分社としての格式を持つ。

・創祀年代は不詳だが、天平二年(730)、大倭國正税帳に「都祁神戸」とあり、すでに鎮座していたことがわかる。

・『水分大明神垂迹記』『老翁傳』を考合した『大和志料』によると、元慶三年(879)、伊勢國度会郡の玉造村丸が伊勢の御裳濯川の靈水を捧持して遊行中、その靈水が二匹の白龍となって飛昇し、一匹は宇陀水分神となり、もう一匹は小山戸庄高山へ飛び降りて都祁水分神になった。この神はたびたび奇瑞をあらわすので、小山戸に住む藤原時忠がこれを祀ったが、道路狭隘のため、鞆田庄坂窪山に神殿をつくって天禄二年(971)九月二十五日に遷祀した。以来、小山戸を上山宮、鞆田を下山宮と呼び、九月二十五日に上山宮に神を遷し祀り、翌二十六日に下山宮に戻し、祀る祭礼が成立したという。上山宮は現在の都祁山口神社である。但し、この縁起書の鎮座した年代は、『續日本後紀』『文徳実録』『三代実録』における、水分社の記載よりもあとであり、年代に矛盾を生じるため、『大和志料』などは、この説を退けている。だが、水分神が降臨したのが、上山宮の御社尾と呼ばれる神石であるという伝承があり、またその立地条件より、現鎮座地より、水分神を祀るのにふさわしい地であり、上の縁起書である水分大明神垂迹記』『老翁傳』は、この伝承を元に作ったものである可能性が高い。

・縁起の内容を正しいとするのであれば、上山宮こと、都祁山口神社と当社の祭神は同じでなければいけないが、実際、異なり、また、両社の関係も不明確であり、水分神と山口神が同所に並祀された例も他に存在しないため、都祁水分神と都祁山口神については不明な点が多い。


■鳥居■
(20th November 2008)



■参道■
(20th November 2008)



■舞殿■
(20th November 2008)



■拝殿■
(20th November 2008)



■本殿■
(20th November 2008)


 国重要文化財

・明応八年(1499)造営。
・一間社春日造、檜皮葺。
・本殿前の狛犬は鎌倉末期の作と伝えられる。


■山邊の御井■
(20th November 2008)



■聖武天皇堀越頓宮跡■
(20th November 2008)



((コメント))

2008年11月20日

 大和の國の四水分社として知られ、一応、これが最後。ま、宇太に関しては三社あり、菟田野の惣社水分神社がまだなので、近々行く予定。

 平安時代に遷座ということなので、今のような土地のない時代とは違い、吟味された地への遷座と思われ、悪くはない。だが、本来の鎮座していた地での姿が気になる。また別物であったのかもしれないゆえ。


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