の坐すと地と魂の鎭まる地

社や陵、墓所についてや、について勝手氣ままに綴っていきます。

大丹倉と丹倉社

2010年05月17日 22時28分29秒 | 近畿(三重、和歌山)
■大丹倉(縣道52号線より)■
(1st March 2009)



★大丹倉★ 三重県熊野市育生町赤倉字大仁倉

 三重縣天然記念物および名勝

・地元の方々には「おおにぐら」と呼ばれているが、正式には「おにぐら」。

・熊野酸性岩の一部を構成するノ木流紋岩による高さ二百メートル以上,水平距離数百メートルにわたる巨大な急崖の形成地。

・崖の表面が岩石中に含まれる赤鉄鉱にため全體に赤みを帶びる。

・昔から丹倉權現として崇められていた。


■大丹倉頂上付近■
(1st March 2009)



■丹倉社(あかくらじんじゃ):體の磐座と木■
(1st March 2009)




★丹倉社★ 三重県熊野市赤倉

・祭は大丹倉の山守であった武士であり修験者でもあった近藤兵衛と倉下命。

・由緒等不詳。


■赤倉周辺の磐々■
(1st March 2009)





■水の流れ■
(1st March 2009)



((コメント))

2009年3月1日

丹倉と書いて、「あかくら」ということから、「おおあかくら」と呼ぶ人も少ないながらおり、「大」の字が冠されるために、ほとんど、百人いれば九十五人以上はおそらく、「おおにぐら」と読まれているように思う。實際、ほとんどのホームページには「おおにぐら」と記されている。が、三重縣教育委員会によると、公式には「おにぐら」とされているようである。「丹」は丹生の「丹」と同じく、鉄を示し、この地で、「あか」と呼ぶのは、鉄分の赤色によるものであるという。

 個人的には、「おにぐら」が正しいと思い、實際のところ、「鬼倉」がその語源ではなかったか、と疑っている次第。花乃窟にしてもそうだが、これらは、武東征という名の侵略戰争において、それ以前に平和に暮らしていた先住民に關係があると思わざるを得ないのだ。そして、花乃窟に關わりがあり、彌生遺跡もある有馬の産田社にも關係がないのか疑っているのだ。今は、社殿があり南向きであるのだが、元は、朝日のほうに向いており、祭祀は大丹倉の方を拜して行っていたのではないか、と、ふと思い浮かんだのだ。

 今のところは、繋がるものを見つけれていないけれど、産田社の體がないことが不思議であり、籬を作り祀るとき、拜す對象があったはずであるので、疑っている次第なのだ。

 可能であれば、調べたいと思う。

 しかし、下から見る大丹倉は圧巻だった。

 ところで、もし、この地の方々が、本当に丹敷戸畔の末であるならば、あの橿原宮遥拜所というのは屈辱の象徴であろう。何せ、武東征で殺された人たちの子孫なのだからね。

 ちなみに、住民の方を二人見かけたのだが、おそらくはこの地で生まれ育った人であろう、容姿が少し我らと異なり、琉球などの人のような顔つきだったのが古代のイズモ族や丹敷戸畔を思い起こさせ、産田社や花乃窟を結ばせてしまうのである。

 丹倉社周辺も磐が非常に多く、山岳地域の巨岩信仰であることは間違いない。おそらく、太古には、他にも祀られていたところが山中にはあったであろうと推測する。その跡のようなところが無数にあった。そのような土地である。


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