回遊魚の旅日記

時の流れる音をききながら歩いたり歌ったり
少しづつ昔の暮らしをとりもどしつつ。

東海道を歩く⑭浜松~舞坂~新居~白須賀~二川

2010-12-07 20:02:48 | 東海道五十三次

12月5日(日)晴れ

風が昨日よりだいぶおさまる。

6:50

昨夜コンビニで買っておいたパンとインスタントコーヒーで簡単な朝食をすませ、ホテルを出発。

大通り(東海道)に戻り、ひとつ間違えて道を左折しまったことに気づいて踵を返し、正しく田町の交差点を左折。このあたりが浜松宿のメインらしい。高札場、本陣跡などの立て札があるが、いずれも大きなビルや道路の脇に埋没しまっている。浜松城は田町の交差点を北へ行くらしい。

↓間違えた通りにあったバス停。楽器の町らしくピアノです。

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新幹線のガードをくぐると左側に「二つ堂」のお堂が見える。二つ堂と云うからには、もうひとつどこかにあるだろうと見回すと、道の向かい側に双子のようにありましたありました!

藤原秀衡の奥州征伐の折りに、彼の許嫁が、秀衡が病死した知らせを受けてこのお堂を建てた亡くなった。ところが、彼は生きていて今度は彼女のためにもうひとつのお堂を建てたといわれる。

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道を挟んで仲良く建っている。↑↓

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ここからは途中に「麦飯長者」の立て札や高札場跡がみられるが、次の宿場「舞坂」までは、ずっとまっすぐな国道257号線。

こんな地名の郵便局があり、なんと読むのかふたりで首を捻る。

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地図を丹念に調べたら「ぞうら」と小さく出ていた。歩いているとおもしろい地名に出くわして、それも楽しい。

やがて、257号がふたつに分かれる地点で右の道をとる。東海道は静かな道になって延々と続く。小休止を取りながら歩いて行くと、舞坂の松並木が見えてくる。770メートルも続く長い立派な並木。左側歩道には東海道五十三次の宿場を示した石碑が五十三個並べられている。

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松並木が途絶えると、目指す舞坂はもうすぐ。古くはこのあたりからを「今切」と呼んだ。

淡水湖であった浜名湖が、室町時代の地震で海とつながったことにより、陸地がここで途切れたことで海上を舟で渡ることになり、この「今切」という名がついたらしい。

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舞坂宿に入ると、湖が正面になるので前方が開けたのどかな宿場の道となる。

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11:00

本日の目当てのひとつである舞坂宿脇本陣跡に着く。東海道の中でただひとつ残された当時のままの脇本陣である。旅籠「めうがや」も兼ねていた。(「めうが」は茗荷の転訛、紋どころが茗荷をかたどっている)

中に入ると「自由にご覧ください」と上り框に立て札あり。

無料である。誰もいない~。中は暗い。

「ごめんくださ~い」と二,三度声を出してみたら、ボランティアのおばさんがやってきた。

「すみませんね、今日初めてのお客さんですよ。今電気をつけますからね」と言って、ちょっと説明をしたあとまた消えてしまった。

もう一度現れたら、今度は10歳くらいの3人の女の子がおばさんのあとにケラケラ笑いながらついてきた。サンダル履きだから地元の子たちである。

おばさんがいろいろ説明してくれる間、奥座敷に設えてある殿様用の座布団に(手を触れてはいけないはずなのに)座って談笑したり、よく手入れされた中庭で駆け回っている。

おばさんに、「この子たちが遊びまわっているけどいいのでしょうか?」と聞いたら、「ときどき遊びに来るんですよ、こっちはハラハラしますけど、こんな重要な遺構で遊んだことは大きくなって懐かしく思い出すでしょうね~」と仰る。う~ん、素晴らしい考え方だ!と唸る。

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東海道の地図、次の宿場にある新居関所を通るための女手形なども展示。新居関所を境に東西の文化が大いに違ったらしい。

「あっち(新居から先)は言葉がかなり違いますよ、お雑煮の餅の形もこのへんで変わるようです」と、おばさん。

彼女の言葉からは、この舞坂は「東文化圏」にある、というニュアンスが伝わって、面白かった。わたしたちの感覚だと、「東」はせいぜい静岡県あたりまでなんだけどなあ。(ここで、まだ舞坂は静岡だったことに気づく。静岡県は事ほど左様に横長である)

女の子たちは、依然として、ここかと思えばまたあちら、と場所を替えて笑いながら遊んでいる。まるで「座敷わらし」のようだ。

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脇本陣を出るとすぐ浜名湖が見えて、今切の渡し場「北の雁木」になる。雁木(この地域では「がんげ」と読む)とは船着き場のことらしい。本来、東海道はここから水の上をゆく。

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内海(湖側)と外海(海側)をわけるのは、現在浜名湖バイパス。舟のない今はJR弁天島駅野前を通って新居宿まで陸路を迂回する。真昼の太陽が照りつけてきた。顔の左側だけ陽に焼けそう~~(--;)、今も渡しがあればよいのに!

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↑新居宿の手前のうなぎ屋さんの前に泳ぐうなぎの吹き流し(^^)。

新居宿に着く。道の左側に関所が待っていた。

箱根の関所、中仙道の木曽福島の関所、と並んで三大重要関所である。ここは当時の建物がそのまま復元されて残っている。

地震や津波の地殻変動、その後の道路変遷で今や道の上だが、当時は湖から直接上がったところに関所があった。ここを越える人も越えられなかった人も大変な思いをしたことだろう。

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105←改め方の蝋人形。

109 ←手前の用水は、湖から入る関所入り口(東口)を模している

関所を出ると突きあたりが本陣跡、ここを左に折れ、次の宿場「白須賀」をめざす。

1:00

お腹がすいてきたが、食べるところもコンビニも全く見当たらない。ここまで、神社の境内などで持参したお菓子やパンを食べたので、どうにか持ちこたえられそうだが、白須賀あたりは、電車は通らず、バスは休日運休、お店もほとんどないとわかっているので、少々心もとなく、ペースもガクンと落ちる。道はここから遠州灘に向かって南下する。

加宿(本宿のあとにできた宿場)の橋本を過ぎると左側に若い松並木が延々と続く。

江戸時代からあといったん立ち枯れた松を昭和になって植え直したらしい。

落ちた松葉が降り積もり、その上を歩くとなんとも心地よい。土や植物は疲れた足にとてもやさしい。

通りには殆ど車も通らず、右側の家々はひっそりと静まり返り、すべての住民がいっせいに昼寝をしているようにも感じられる。ほんとに静かだった

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さあ、がんばって歩いていると白須賀宿の看板がみえてきた。ただしここは、元の白須賀宿

宝永年間の津波でこれから登る汐見坂の方へ宿場ごと引っ越したらしい。忘れ去られそうなひっそりとしたこの元宿場町の趣もまたよい。

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これから坂を登るぞ~、と覚悟したその頃、ひとりのおばあさんが枯れ草を積んだ手押し車を押してやってきた。わたしたちはずいぶんと疲れた風体をしていたのだろう、

「××××・・、がんばって行きんよ~~!」と声をかけてくれた。(×の箇所は方言のせいか聞き取れない)

こんなふうに思わぬところで思わぬ人に声援をかけられると本当に嬉しくなってがんばれる気がする。

坂の手前の曲がり道にある農家の前にたたずんでいたおばあちゃんも、さかんに「寄って行きんさい、いいもの見せるから~」と呼んでいる。「いいものってなんだろ??」と後ろ髪引かれながら、「ありがとうございます、時間がないので先に進みます」と断って歩く。

汐見坂に入る。まあ、少しはきつかったが、エールが効いているのか、たいしたことなく頂上?の「おんやど白須賀」に着く。

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「おんやど白須賀」は、食べるものはなく、お茶だけは自由に飲めるようになっている茶店&資料館で、ボランティアだか管理人だかのおじさんが常駐している。

次の宿の二川(ふたがわ)まではどのくらいでしょうかね?と聞くと「あと8キロ」と、のたもう。

「ひえ~、8キロ!!」と半分わかっていたのに雄叫びをあげてしまった。

実は、今日の歩行は、新居宿にするか、白須賀までにするかさんざん迷ったのだった。

新居だと、浜松から約17㎞で短すぎる、二川までだと新居から約12㎞ で長い。

白須賀から帰るのが、距離的にはちょうどよいのだが、白須賀は前述のように交通手段がないので、ヒッチハイクでもするしかないのだ。わたしが、そうしようかしら?と冗談で言ったら、ろくさんが「ヒッチハイクはもう少し若くないと・・!」ですと~。

おじさんが「白須賀本宿を過ぎると国道1号を歩くようになるよ、コンビニは2軒だけあるよ、まあ、がんばって行きなさい」と情報&エールをくれたので、この際、もう二川まで行くしかない、と決定。だいいち、二川まで歩いておくと次回が楽なのだ。

3:00

「おんやど白須賀」を出発。汐見坂公園跡からは遠州灘が一望できる。運が良ければ東に富士山も見えるらしい。

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少しづつ坂を下って行くような感じで歩くと、やがて白須賀の本宿(元の宿から移転したもの)の街並みになる。

まったく静かである。黒い格子の家々はひそやかに立ち並び、人が住んでいるのかしら?と思っていたら一軒の家から、お葬式でもあるのか、黒い服を着た男女がふたり出てきてどこかにでかけた。宿場の入り口には曲尺手(かねんて)の標識板がある。曲尺手とは、今まで幾度となく宿場に入る際に見てきた枡形(宿場、あるいは城下町の外敵の侵入を防ぐためなどに、わざと直角に近く曲げて作られた道)と、同じ意味の道。

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白須賀を過ぎると、国道1号線を4㎞ほどひたすら歩くことになる。

おじさんの言っていたコンビニをでチキンバーガーなどを買い、立って食べる。遅いお昼ごはんである。

しかし~、お腹がすけばなんでも美味しいものだ。

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さて!出ました!境川の小さな流れを越えると「愛知県」の標識。けっこう感動ものでした。

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この国道1号線はもちろん車がビュンビュン通り抜けていくのだが、途中はどこまで眺めても一面のキャベツ畑!!

コオロギを売ってるお店などもあり、なかなか飽きないし、愛知県に入ったという喜びで疲れも吹き飛んでいた。

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やがて国道と別れを告げて新幹線のガードをくぐり、JRの踏み切りを渡ると「二川」の宿場である。

二川は、各家々の玄関先に必ず花が飾られており、昔の面影の残る趣のある宿場である。

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こんなノレンも多くの家の玄関に下がっている。→

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宿場の中ほどに本陣跡がある。ここも数少ない当時の遺構を今に伝えるもので、見学しようとしたら4時半で受け付け終了。時間はすでに4時40分。

それでも表から中の様子がよく見えるようになっているのでありがたい。

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本陣と併設されていたのか、旅籠で草鞋を脱ぎ足を洗っている旅人の蝋人形などが展示。本陣の方の部屋には、高貴な女性が宿泊するためにあるのか、色とりどりの着物が掛かっている部屋もある。

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5;00

もはや陽が落ちて、紺色の帳に包まれた宿場町をJR二川駅へと向かう。駅は街道筋にあるので楽であった。

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5時16分発浜松行きに乗り、浜松から6時36分発「ひかり」に乗り換え東京駅に8時近くに到着。

いやいや、疲れたけれど、充実した長くておもしろい1日であった。今日のコースは東海道でも屈指の、昔の風情を漂わせる街道歩きだと思う。

本日の歩行距離、約30㎞(今までの最長距離)。京都まで約210㎞。