12月5日(日)晴れ
風が昨日よりだいぶおさまる。
6:50
昨夜コンビニで買っておいたパンとインスタントコーヒーで簡単な朝食をすませ、ホテルを出発。
大通り(東海道)に戻り、ひとつ間違えて道を左折しまったことに気づいて踵を返し、正しく田町の交差点を左折。このあたりが浜松宿のメインらしい。高札場、本陣跡などの立て札があるが、いずれも大きなビルや道路の脇に埋没しまっている。浜松城は田町の交差点を北へ行くらしい。
↓間違えた通りにあったバス停。楽器の町らしくピアノです。
新幹線のガードをくぐると左側に「二つ堂」のお堂が見える。二つ堂と云うからには、もうひとつどこかにあるだろうと見回すと、道の向かい側に双子のようにありましたありました!
藤原秀衡の奥州征伐の折りに、彼の許嫁が、秀衡が病死した知らせを受けてこのお堂を建てた亡くなった。ところが、彼は生きていて今度は彼女のためにもうひとつのお堂を建てたといわれる。
道を挟んで仲良く建っている。↑↓
ここからは途中に「麦飯長者」の立て札や高札場跡がみられるが、次の宿場「舞坂」までは、ずっとまっすぐな国道257号線。
こんな地名の郵便局があり、なんと読むのかふたりで首を捻る。
地図を丹念に調べたら「ぞうら」と小さく出ていた。歩いているとおもしろい地名に出くわして、それも楽しい。
やがて、257号がふたつに分かれる地点で右の道をとる。東海道は静かな道になって延々と続く。小休止を取りながら歩いて行くと、舞坂の松並木が見えてくる。770メートルも続く長い立派な並木。左側歩道には東海道五十三次の宿場を示した石碑が五十三個並べられている。
松並木が途絶えると、目指す舞坂はもうすぐ。古くはこのあたりからを「今切」と呼んだ。
淡水湖であった浜名湖が、室町時代の地震で海とつながったことにより、陸地がここで途切れたことで海上を舟で渡ることになり、この「今切」という名がついたらしい。
舞坂宿に入ると、湖が正面になるので前方が開けたのどかな宿場の道となる。
11:00
本日の目当てのひとつである舞坂宿脇本陣跡に着く。東海道の中でただひとつ残された当時のままの脇本陣である。旅籠「めうがや」も兼ねていた。(「めうが」は茗荷の転訛、紋どころが茗荷をかたどっている)
中に入ると「自由にご覧ください」と上り框に立て札あり。
無料である。誰もいない~。中は暗い。
「ごめんくださ~い」と二,三度声を出してみたら、ボランティアのおばさんがやってきた。
「すみませんね、今日初めてのお客さんですよ。今電気をつけますからね」と言って、ちょっと説明をしたあとまた消えてしまった。
もう一度現れたら、今度は10歳くらいの3人の女の子がおばさんのあとにケラケラ笑いながらついてきた。サンダル履きだから地元の子たちである。
おばさんがいろいろ説明してくれる間、奥座敷に設えてある殿様用の座布団に(手を触れてはいけないはずなのに)座って談笑したり、よく手入れされた中庭で駆け回っている。
おばさんに、「この子たちが遊びまわっているけどいいのでしょうか?」と聞いたら、「ときどき遊びに来るんですよ、こっちはハラハラしますけど、こんな重要な遺構で遊んだことは大きくなって懐かしく思い出すでしょうね~」と仰る。う~ん、素晴らしい考え方だ!と唸る。
東海道の地図、次の宿場にある新居関所を通るための女手形なども展示。新居関所を境に東西の文化が大いに違ったらしい。
「あっち(新居から先)は言葉がかなり違いますよ、お雑煮の餅の形もこのへんで変わるようです」と、おばさん。
彼女の言葉からは、この舞坂は「東文化圏」にある、というニュアンスが伝わって、面白かった。わたしたちの感覚だと、「東」はせいぜい静岡県あたりまでなんだけどなあ。(ここで、まだ舞坂は静岡だったことに気づく。静岡県は事ほど左様に横長である)
女の子たちは、依然として、ここかと思えばまたあちら、と場所を替えて笑いながら遊んでいる。まるで「座敷わらし」のようだ。
脇本陣を出るとすぐ浜名湖が見えて、今切の渡し場「北の雁木」になる。雁木(この地域では「がんげ」と読む)とは船着き場のことらしい。本来、東海道はここから水の上をゆく。
内海(湖側)と外海(海側)をわけるのは、現在浜名湖バイパス。舟のない今はJR弁天島駅野前を通って新居宿まで陸路を迂回する。真昼の太陽が照りつけてきた。顔の左側だけ陽に焼けそう~~(--;)、今も渡しがあればよいのに!
↑新居宿の手前のうなぎ屋さんの前に泳ぐうなぎの吹き流し(^^)。
新居宿に着く。道の左側に関所が待っていた。
箱根の関所、中仙道の木曽福島の関所、と並んで三大重要関所である。ここは当時の建物がそのまま復元されて残っている。
地震や津波の地殻変動、その後の道路変遷で今や道の上だが、当時は湖から直接上がったところに関所があった。ここを越える人も越えられなかった人も大変な思いをしたことだろう。
関所を出ると突きあたりが本陣跡、ここを左に折れ、次の宿場「白須賀」をめざす。
1:00
お腹がすいてきたが、食べるところもコンビニも全く見当たらない。ここまで、神社の境内などで持参したお菓子やパンを食べたので、どうにか持ちこたえられそうだが、白須賀あたりは、電車は通らず、バスは休日運休、お店もほとんどないとわかっているので、少々心もとなく、ペースもガクンと落ちる。道はここから遠州灘に向かって南下する。
加宿(本宿のあとにできた宿場)の橋本を過ぎると左側に若い松並木が延々と続く。
江戸時代からあといったん立ち枯れた松を昭和になって植え直したらしい。
落ちた松葉が降り積もり、その上を歩くとなんとも心地よい。土や植物は疲れた足にとてもやさしい。
通りには殆ど車も通らず、右側の家々はひっそりと静まり返り、すべての住民がいっせいに昼寝をしているようにも感じられる。ほんとに静かだった。
さあ、がんばって歩いていると白須賀宿の看板がみえてきた。ただしここは、元の白須賀宿。
宝永年間の津波でこれから登る汐見坂の方へ宿場ごと引っ越したらしい。忘れ去られそうなひっそりとしたこの元宿場町の趣もまたよい。
これから坂を登るぞ~、と覚悟したその頃、ひとりのおばあさんが枯れ草を積んだ手押し車を押してやってきた。わたしたちはずいぶんと疲れた風体をしていたのだろう、
「××××・・、がんばって行きんよ~~!」と声をかけてくれた。(×の箇所は方言のせいか聞き取れない)
こんなふうに思わぬところで思わぬ人に声援をかけられると本当に嬉しくなってがんばれる気がする。
坂の手前の曲がり道にある農家の前にたたずんでいたおばあちゃんも、さかんに「寄って行きんさい、いいもの見せるから~」と呼んでいる。「いいものってなんだろ??」と後ろ髪引かれながら、「ありがとうございます、時間がないので先に進みます」と断って歩く。
汐見坂に入る。まあ、少しはきつかったが、エールが効いているのか、たいしたことなく頂上?の「おんやど白須賀」に着く。
「おんやど白須賀」は、食べるものはなく、お茶だけは自由に飲めるようになっている茶店&資料館で、ボランティアだか管理人だかのおじさんが常駐している。
次の宿の二川(ふたがわ)まではどのくらいでしょうかね?と聞くと「あと8キロ」と、のたもう。
「ひえ~、8キロ!!」と半分わかっていたのに雄叫びをあげてしまった。
実は、今日の歩行は、新居宿にするか、白須賀までにするかさんざん迷ったのだった。
新居だと、浜松から約17㎞で短すぎる、二川までだと新居から約12㎞ で長い。
白須賀から帰るのが、距離的にはちょうどよいのだが、白須賀は前述のように交通手段がないので、ヒッチハイクでもするしかないのだ。わたしが、そうしようかしら?と冗談で言ったら、ろくさんが「ヒッチハイクはもう少し若くないと・・!」ですと~。
おじさんが「白須賀本宿を過ぎると国道1号を歩くようになるよ、コンビニは2軒だけあるよ、まあ、がんばって行きなさい」と情報&エールをくれたので、この際、もう二川まで行くしかない、と決定。だいいち、二川まで歩いておくと次回が楽なのだ。
3:00
「おんやど白須賀」を出発。汐見坂公園跡からは遠州灘が一望できる。運が良ければ東に富士山も見えるらしい。
少しづつ坂を下って行くような感じで歩くと、やがて白須賀の本宿(元の宿から移転したもの)の街並みになる。
まったく静かである。黒い格子の家々はひそやかに立ち並び、人が住んでいるのかしら?と思っていたら一軒の家から、お葬式でもあるのか、黒い服を着た男女がふたり出てきてどこかにでかけた。宿場の入り口には曲尺手(かねんて)の標識板がある。曲尺手とは、今まで幾度となく宿場に入る際に見てきた枡形(宿場、あるいは城下町の外敵の侵入を防ぐためなどに、わざと直角に近く曲げて作られた道)と、同じ意味の道。
白須賀を過ぎると、国道1号線を4㎞ほどひたすら歩くことになる。
おじさんの言っていたコンビニをでチキンバーガーなどを買い、立って食べる。遅いお昼ごはんである。
しかし~、お腹がすけばなんでも美味しいものだ。
さて!出ました!境川の小さな流れを越えると「愛知県」の標識。けっこう感動ものでした。
この国道1号線はもちろん車がビュンビュン通り抜けていくのだが、途中はどこまで眺めても一面のキャベツ畑!!
コオロギを売ってるお店などもあり、なかなか飽きないし、愛知県に入ったという喜びで疲れも吹き飛んでいた。
やがて国道と別れを告げて新幹線のガードをくぐり、JRの踏み切りを渡ると「二川」の宿場である。
二川は、各家々の玄関先に必ず花が飾られており、昔の面影の残る趣のある宿場である。
こんなノレンも多くの家の玄関に下がっている。→
宿場の中ほどに本陣跡がある。ここも数少ない当時の遺構を今に伝えるもので、見学しようとしたら4時半で受け付け終了。時間はすでに4時40分。
それでも表から中の様子がよく見えるようになっているのでありがたい。
本陣と併設されていたのか、旅籠で草鞋を脱ぎ足を洗っている旅人の蝋人形などが展示。本陣の方の部屋には、高貴な女性が宿泊するためにあるのか、色とりどりの着物が掛かっている部屋もある。
5;00
もはや陽が落ちて、紺色の帳に包まれた宿場町をJR二川駅へと向かう。駅は街道筋にあるので楽であった。
5時16分発浜松行きに乗り、浜松から6時36分発「ひかり」に乗り換え東京駅に8時近くに到着。
いやいや、疲れたけれど、充実した長くておもしろい1日であった。今日のコースは東海道でも屈指の、昔の風情を漂わせる街道歩きだと思う。
本日の歩行距離、約30㎞(今までの最長距離)。京都まで約210㎞。
「コオロギ。今日は、いいのが入ったから、おすそ分け」
なんて・・・やりませんよね。
200匹以上なんて、何に使うんだろう?
スズムシならまだわかるのだけど、コオロギとはびっくりでしょう?
ウイリアム・ホールデンとジェニファー・ジョーンズが共演した「慕情」という古い映画があって、香港の夜店でコオロギの格闘ゲームのシーンがあったのを思い出しました。
香港に売り飛ばすのかなあ~~?
コオロギはイナゴみたいに佃煮とかしないよね?(鳥肌・・(*_*;)
20㎞までならスイスイ歩けそう。
ろくさんなんか職場(新宿区若松町)から自宅まで15㎞くらいだから、大地震があっても歩いて楽勝で帰れる!なんて威張ってたよ(ただし、途中の橋が落っこちなければね^^)
>コオロギはイナゴみたいに佃煮とかしないよね?(鳥肌・・(*_*;)
コオロギってきれいな声だけど、なんかに似てるよね~~、「ゴ」のつくものとか・・(鳥肌×10(*_*;;;;)
そうそう、白須賀宿は潮見坂のほうに
移動しているんですよ。舞坂の松並
木、懐かしいですね。確かに白須賀宿
の辺は、交通の便は悪いでしょうね。
JRは遠州灘を離れて、二川・豊橋へと
向かっていきますから。
濵松では、やはりウナギを食べられた
んですか?
ところで姫街道には気が付きました?
いよいよ次からは、名鉄の出番ですね。
白須賀に南下してまた吉田(豊橋)に北上するより姫街道のが近道のような気がしますね~。昔は地形の関係で白須賀方向に下りなくてはいけなかったんでしょうかね。
(ここまで書いて、確信が持てなくなったので地図や本を調べたら、姫街道は山越え60㎞だからやっぱり、東海道の方がらくですね^^;、浜名湖が海と繋がって女性たちが舟渡しを恐れたことや、新居の関所破り、軍事用の道として姫街道は意味があったわけですね。)
うなぎ、食べました。浜松の「八百徳」というお店です。注文してから出てくるのがすごく早くて、ほんとにちゃんと焼いてるのかな?というギモンが~(^^+)
名鉄沿線、楽しみです[E:note]
>浜名湖が海と繋がって女性たちが舟渡>しを恐れたことや、新居の関所破り、
>軍事用の道として姫街道は意味があ
>ったわけですね。
1498年に起きた明応の大地震、それに伴う津波で浜名湖は割れて、切れてしまったそうですね。今切りというのが「今切れた」とか「縁が切れた」ということで縁起が悪い、というのも女性が回避する理由の一つだったとか。舟に乗るのが嫌だかといって、陸の姫街道に迂回しても、ちゃんと「気賀の関所」もあるので、悪事を働く際の抜け道にはならないですけどね。
豊橋から名鉄に乗ると、御油・名電赤坂・藤川の各駅は、普通しか停まりませんよ。藤川駅は、近くに高校が2つあるので、朝とかは準急・急行が止まるという例外もあるようですが。
やっぱり、吉田宿へ来たら「きく宗」かなあ。あそこは「菜飯田楽」が食べられますからね。まあ、来てからのお楽しみ、ということで。
姫街道、わたしなら「縁起が悪い」で遠回りするよりも舟で楽に行く方を選びそうです(^^;)
昔の人はそれだけ、縁起や謂われを大事にしたのでしょうね。今のようにこっちがダメならこっちで、というような選択もあまりできなっかでしょうし。
>藤川駅は、近くに高校が2つあるので、朝とかは準急・急行が止まるという例外もあるようですが。
名鉄情報ありがとうござます。詳しいですね、沿線にお住まいなのかしら?
高校生相手だと、もしかしたら日曜は止まらないかもしれないですね。気をつけます☆
>回りするよりも舟で楽に行く方を選びそ
>うです(^^;)
ハハハ、そうですか。しかし、大雨で水
かさが増した時なんかは、舞阪or新居
宿で足止めを食らう可能性はありますよね。
姫街道を車で行く場合、昨年度までは、本坂トンネルは250円の有料だったん
ですよ。(この辺は、国道362号線)いつの間にか、無料になったんですけど。
これも「街道てくてく旅」がブームになっている証拠でしょうか?
本坂峠(三ヶ日宿-嵩山宿=静岡県浜松市北区三ヶ日町、旧、引佐郡三ヶ日
町-愛知県豊橋市嵩山町、すなわち愛知・静岡県境)は、姫街道最大の難所
だったそうです。昔、橘 逸勢が峠越えの際、急死したとのことで、看板というか
碑が立っていますしね。
>名鉄情報ありがとうござます。詳しいで
>すね、沿線にお住まいなのかしら?
ハハハ、あんまり言ってしまうと、母校がバレそうですわ。普段は、名鉄は利用
しないですけどね。藤川駅は、念のために一応、調べましたよ。
逆に、更に進んで東岡崎(岡崎宿)・知立(池鯉鮒宿)・神宮前(宮宿)の各駅
は、特急が停まるので便利だと思いますけどね。愛知県内の名鉄は、熱田神宮あ
たりまでは国道1号線に沿って走っていますからね。
池鯉鮒宿⇔宮宿の有松絞のほうを寄り道されるのなら、有松駅で下車がいい
ですね。以前、マラソン解説者の増田 明美さんが旅番組で誰かと東海道を歩い
ていて、有松で食事していたんですけどね。戦国史に興味がおありなら、一つ
手前の中京競馬場前駅で下車して、あの織田 信長が奇襲戦法で今川 義元を倒
したことで有名な桶狭間古戦場跡地に立ち寄るのもアリですね。
旅がまた進んで来たらBlogがUPされると思うので、その時にまた情報を提供さ
せてもらいますね。