お盆になるとやはり比較的早く亡くなった両親を思い出す。決して思い通りには行かなかっただろう人生だが、それでも幸せだった一瞬を探して記憶を辿る。自分も母親より30年近く、父親より5年も歳がいってしまった。今を思えばどんなに短い人生を送ったのかと。それでも母親は姉に初孫ができたとき、私が大学に入ったとき言葉に出さなかったが病床で喜んでいたに違いない。父親は妹が無事嫁いで行ったとき、私に男の子が出来た時、口には出さなかったが、やはり病床で喜んでいただろう。もう少し長生きすれば、それなりに暮らし、心配することなど無くなった子供の姿や9人の孫全員を見ることができただろう。しかし二人ともそんな未来など想像する余裕など無い状況で亡くなってしまった。盆入りの今日、もし見れるものなら来て見て欲しい。真っ白いお骨を箸で拾い、骨壷に入れてお墓に納骨したことを昨日のように思い出す。死んでしまうと何も残らないことを実感したはずなのに今頃になって子供のようなことを考える。
少し前にモーガン・フリーマンの司会で死後の世界を探求するTV番組があった。それは主に記憶の分野にメスを入れた斬新なものだった。人間の脳は電気信号のやりとりによって意志を表す。記憶も想像も簡単に言えばコンピュータと同じである。もしある人の電気信号のやり取りを他人に移すことができれば、記憶や考え方まで移動することになる。物理的肉体の創造は遺伝子情報によるだろうが、考えるということは必ずしも固有の肉体に依拠しないのではと思えた。霊魂や魂と言う物が肉体を離れることはありうるのではないかと。
信号の移動はUSBメモリーのように必ずしも目に見える媒体でなくとも無線でも可能である。目に見えないから何も無いと言うわけではない。もし、ある人の記憶が何らかの媒体を通じて他に移るとしても不思議ではない。そのときは子供の頃の記憶まで移ってしまう。魂の乗り移りと言えるかもしれない。歳が行くに従ってだんだん親に似て来ることが良く有る。脳の一部は予め占拠されているのかも知れない。他愛の無い思い巡りだが、お盆というのはこんなことも考えさせてしまう瞬間でもある。
信仰心が篤かったとは思えない母親が神道であった父親に遠慮してか、へそくりを叩いて自分用の小さな仏壇を買ってきた。一度目の手術が終わり、皆が回復を信じていた頃である。ただ一人自分の死を予感していたのだろうか、1年余りで亡くなってしまった。49歳だった。その小さな仏壇が我が家にある。ポロポロ折れる乾燥しきった線香に火をつける。