随分前の話で申し訳ないが、元クリエイションのドラマーである樋口晶之が亡くなった。享年63歳。かねてから病気療養中だったそうな。慎んでご冥福をお祈り致します。
クリエイションと言っても、知らない人も多いだろう。1970年代から80年代にかけて活躍したバンドで、1969年に竹田和夫(ギター)を中心に結成されたブルース・クリエイションが母体。当初はブルース・バンドだったらしいが、1972年にクリエイションに改名すると、ブルースをベースにしたオーソドックスなハードロックを志向して、1975年に『クリエイション』、翌年にはクリームやマウンテンで有名なフェリックス・パパラルディと組んで『クリエイション・ウィズ・フェリックス・パパラルディ』、そして1977年にはプロレスのテリー・ファンクのテーマ曲として知られる「スピニング・トー・ホールド」を含む『ビュア・エレクトリック・ソウル』と、立て続けにアルバムを発表して、高い評価を得た。樋口晶之は1971年からバンドに参加。当時のクリエイションは、某ML誌の人気投票では、四人囃子、紫といったところと常にトップ争いをしていた人気バンドであり、そのせいか他の日本のロック・バンドにくらべると、FM等で耳にする機会も多く、僕も何曲か知ってて、割と好きだった。『クリエイション』収録の「ユー・ベター・ファインド・アウト」なんて、カッコ良かったなぁ。
それ以降の活動については、やや記憶が曖昧。70年代後半にフュージョン・ブームが到来すると、猫も杓子もフュージョンをやるようになってしまったが、クリエイションもというか竹田和夫も例外ではなく、フュージョン的方向に走って、ダイレクト・カッティングのレコードまで作っていたような気がする。ちなみに、一応これを読んでいる若い人たち(笑)の為に説明すると、ダイレクト・カッティングとは、レコードを作る際、テープ等に録音しないで、演奏しながらレコード盤に直接録音する方法で、テープ等を介さない為、音質がチョーハイクォリティ、というのが売り文句で、主にジャズ・フュージョン系の連中がやってたのではなかったかな。今となっては、このダイレクト・カッテイングにどういう意味があったのかが疑問だが(笑) 当時ダイレクト・カッティングで制作されたレコードって、CD化とかされたのかな? ダイレクトだから、マスター・テープなんてないだろうし、CD化は難しいというか、当時のレコード起こしでもない限り、無理という気がする。
閑話休題。
そういった活動を経て、いつの間にか、クリエイションはアイ高野がボーカルとして加入し、ツインドラム編成になっていた。音楽性もシティ・ポップ路線に変化した1981年、ついに「ロンリー・ハート」がヒットし、『ザ・ベストテン』にも出演した。この頃が全盛期という事になるのだろうか。この「ロンリー・ハート」って、ドラマの主題歌だったうな気がするのだが、違うかもしれない。そんなに良い曲とは思わなかったが、クリエイションがヒット曲を出したのは、素直に嬉しかった。ただ、この頃、樋口晶之がいたのかどうか、今イチ定かではない。
「ロンリー・ハート」のヒットからしばらくして、久々にクリエイションをテレビで見たら、ボーイズ・オン・ザ・ロックスと名乗っていた。どうも、バンド名を変えたらしい。という事は、その時点でクリエイションは消滅というか、発展的解消を遂げた事になるのか。
僕にとってクリエイションとは、70年代半ばに、分かりやすいハード・ロック(それも英語)をやっていた時期の印象が強く、ヒットは飛ばしたものの、「ロンリー・ハート」のクリエイションとは、やはり違うバンドである。竹田和夫のギターも日本人離れしたテクニックとセンスで、当時のロック少年たちを虜にしており、あの四人囃子と並んで、外国のロック・バンドに対抗出来る日本のバンドであった、と言えるだろう。あのフェリックス・パパラルディがクリエイションに惚れ込み、プロデュースを買って出たのも納得。ただ、パパラルディと組んだアルバムは、前後の作品と比べると、あまり出来は良くなかったのが、面白いと言えば面白い(笑)
前述したが、クリエイションの代表作と言ってもいい「スピニング・トー・ホールド」はプロレスラーのテーマに使われて有名になったが、この曲が収録されている『ピュア・エレクトリック・ソウル』には、「エレクトリック・ソウル・マン」という、実にベタで分かりやすいリフが印象的な曲も収録されており、当時、ギター小僧たちは一所懸命コピーしていた。僕もそう(爆) 笑うなかれ、ガキどもがコピーしたいと思うような曲こそが、後世に残る名曲なのだ(爆爆) 最近、耳にする機会はないけど(笑)
という訳で、いい機会なんで(笑)是非聴いて下さい。
エレクトリック・ソウル・マン
そういえば、今思い出したけど、中学生の頃、友人たちがバンドを結成し、団地の夏祭りで演奏した事があるが、その時「エレクトリック・ソウル・マン」もやってたなぁ(笑)
この頃(1970年代半ば)は日本のロックにとっては、まだまだ茨の時代で、多くのバンドが登場したものの、外国のバンドの猿真似と言われ、独自のオリジナリティを確立したバンドもいたけど、そのほとんどは売れず、一般的には無名の存在で、ほんと不遇を囲っていた。クリエイション、紫といったハード・ロック、ウェスト・ロード・ブルース・バンド、ソー・バッド・レビューといったブルース・ロック、四人囃子、コスモス・ファクトリー、ファー・イースト・ファミリー・バンドといったプログレ、めんたんぴん、アイドルワイルド・サウスといったサザン・ロック、とちょっと思いつくだけでも多士済々、色々なバンドが活動してて、なかなかに凄い事をやってたような気がする。当時、もっとこういった日本のバンドを聴く機会があったらなぁ、と今でも残念に思う。
余談だが、その頃のロック・バンドの大半は売れてるとは言い難い状況だった訳で、言っちゃ何だか生活は成り立っていたのだろうか? 四人囃子のメンバーは、その話題になると途端に口をつぐんでしまうそうだが、やっぱり苦労してたんだろうな。クリエイションなんて人気あった方だけど、アルバムはどれくらい売れたんだろう? 聞いた話だと、その頃の細野晴臣の『トロピカル・ダンディ』とか鈴木茂の『バンドワゴン』とかいったアルバムは、2万枚くらい売れて、採算は取れたらしいので、クリエイションだって、それくらい売れたのでは、なんて思ってしまうけど。というか、『バンドワゴン』が2万枚売れた、だなんて、物凄く意外(笑)
確か、1977年の春頃だったと思うが、文部省主催(!)のロック・コンサートが開かれ、テレビでも(たぶん、というか間違いなくNHK)放送されたのを見た記憶がある。出演は、クリエイション、チャー、カルメン・マキ&OZ、とあともう1バンドいたような気がするが、そこで初めて見たクリエイションは実にカッコ良かった。今と違って、なんのギミックも演出もない、ひたすら演奏するだけの、地味なステージではあったけど、でもカッコ良かった。あの頃のミュージシャンは、ステージではひたすら真摯だったな、と思う。
前述したクリエイションのアルバム、『クリエイション』と『ピュア・エレクトリック・ソウル』の2枚は、内容はもちろんのこと、ジャケットも印象的だ。裸の子供の写真を扱った物だが、今なら児童虐待とか言われて発禁処分だろうな(笑) もしかして、CD化されてないかも、と思ったが、無事CD化になってました(笑) しかも、ジャケットは当時のまま(笑)
『クリエイション』
『ピュア・エレクトリック・ソウル』
ジャケットについては、ちと載せづらいので、↑でご確認下さい^^;
そんなこんなで、古き良き時代(苦しい事もあったと思うけど)を知るミュージシャンが、また一人いなくなった。
話変わるが、この4月に亡くなったアラン・ホールズワースを、ファンが集まって追悼するイベントが、先日京都RAGで開催され、友人がゲスト出演するというのもあって、見に行ってきた。予想以上に素晴らしいライブだった。
せっかくなので、友人の写真を中心に(笑)
ホールズワースは亡くなってしまったが、その精神はこの日本でも確実に受け継がれ、継承されていくであろうと感じさせるイベントだった。出演者の皆さん、お疲れさまでした。
クリエイションと言っても、知らない人も多いだろう。1970年代から80年代にかけて活躍したバンドで、1969年に竹田和夫(ギター)を中心に結成されたブルース・クリエイションが母体。当初はブルース・バンドだったらしいが、1972年にクリエイションに改名すると、ブルースをベースにしたオーソドックスなハードロックを志向して、1975年に『クリエイション』、翌年にはクリームやマウンテンで有名なフェリックス・パパラルディと組んで『クリエイション・ウィズ・フェリックス・パパラルディ』、そして1977年にはプロレスのテリー・ファンクのテーマ曲として知られる「スピニング・トー・ホールド」を含む『ビュア・エレクトリック・ソウル』と、立て続けにアルバムを発表して、高い評価を得た。樋口晶之は1971年からバンドに参加。当時のクリエイションは、某ML誌の人気投票では、四人囃子、紫といったところと常にトップ争いをしていた人気バンドであり、そのせいか他の日本のロック・バンドにくらべると、FM等で耳にする機会も多く、僕も何曲か知ってて、割と好きだった。『クリエイション』収録の「ユー・ベター・ファインド・アウト」なんて、カッコ良かったなぁ。
それ以降の活動については、やや記憶が曖昧。70年代後半にフュージョン・ブームが到来すると、猫も杓子もフュージョンをやるようになってしまったが、クリエイションもというか竹田和夫も例外ではなく、フュージョン的方向に走って、ダイレクト・カッティングのレコードまで作っていたような気がする。ちなみに、一応これを読んでいる若い人たち(笑)の為に説明すると、ダイレクト・カッティングとは、レコードを作る際、テープ等に録音しないで、演奏しながらレコード盤に直接録音する方法で、テープ等を介さない為、音質がチョーハイクォリティ、というのが売り文句で、主にジャズ・フュージョン系の連中がやってたのではなかったかな。今となっては、このダイレクト・カッテイングにどういう意味があったのかが疑問だが(笑) 当時ダイレクト・カッティングで制作されたレコードって、CD化とかされたのかな? ダイレクトだから、マスター・テープなんてないだろうし、CD化は難しいというか、当時のレコード起こしでもない限り、無理という気がする。
閑話休題。
そういった活動を経て、いつの間にか、クリエイションはアイ高野がボーカルとして加入し、ツインドラム編成になっていた。音楽性もシティ・ポップ路線に変化した1981年、ついに「ロンリー・ハート」がヒットし、『ザ・ベストテン』にも出演した。この頃が全盛期という事になるのだろうか。この「ロンリー・ハート」って、ドラマの主題歌だったうな気がするのだが、違うかもしれない。そんなに良い曲とは思わなかったが、クリエイションがヒット曲を出したのは、素直に嬉しかった。ただ、この頃、樋口晶之がいたのかどうか、今イチ定かではない。
「ロンリー・ハート」のヒットからしばらくして、久々にクリエイションをテレビで見たら、ボーイズ・オン・ザ・ロックスと名乗っていた。どうも、バンド名を変えたらしい。という事は、その時点でクリエイションは消滅というか、発展的解消を遂げた事になるのか。
僕にとってクリエイションとは、70年代半ばに、分かりやすいハード・ロック(それも英語)をやっていた時期の印象が強く、ヒットは飛ばしたものの、「ロンリー・ハート」のクリエイションとは、やはり違うバンドである。竹田和夫のギターも日本人離れしたテクニックとセンスで、当時のロック少年たちを虜にしており、あの四人囃子と並んで、外国のロック・バンドに対抗出来る日本のバンドであった、と言えるだろう。あのフェリックス・パパラルディがクリエイションに惚れ込み、プロデュースを買って出たのも納得。ただ、パパラルディと組んだアルバムは、前後の作品と比べると、あまり出来は良くなかったのが、面白いと言えば面白い(笑)
前述したが、クリエイションの代表作と言ってもいい「スピニング・トー・ホールド」はプロレスラーのテーマに使われて有名になったが、この曲が収録されている『ピュア・エレクトリック・ソウル』には、「エレクトリック・ソウル・マン」という、実にベタで分かりやすいリフが印象的な曲も収録されており、当時、ギター小僧たちは一所懸命コピーしていた。僕もそう(爆) 笑うなかれ、ガキどもがコピーしたいと思うような曲こそが、後世に残る名曲なのだ(爆爆) 最近、耳にする機会はないけど(笑)
という訳で、いい機会なんで(笑)是非聴いて下さい。
エレクトリック・ソウル・マン
そういえば、今思い出したけど、中学生の頃、友人たちがバンドを結成し、団地の夏祭りで演奏した事があるが、その時「エレクトリック・ソウル・マン」もやってたなぁ(笑)
この頃(1970年代半ば)は日本のロックにとっては、まだまだ茨の時代で、多くのバンドが登場したものの、外国のバンドの猿真似と言われ、独自のオリジナリティを確立したバンドもいたけど、そのほとんどは売れず、一般的には無名の存在で、ほんと不遇を囲っていた。クリエイション、紫といったハード・ロック、ウェスト・ロード・ブルース・バンド、ソー・バッド・レビューといったブルース・ロック、四人囃子、コスモス・ファクトリー、ファー・イースト・ファミリー・バンドといったプログレ、めんたんぴん、アイドルワイルド・サウスといったサザン・ロック、とちょっと思いつくだけでも多士済々、色々なバンドが活動してて、なかなかに凄い事をやってたような気がする。当時、もっとこういった日本のバンドを聴く機会があったらなぁ、と今でも残念に思う。
余談だが、その頃のロック・バンドの大半は売れてるとは言い難い状況だった訳で、言っちゃ何だか生活は成り立っていたのだろうか? 四人囃子のメンバーは、その話題になると途端に口をつぐんでしまうそうだが、やっぱり苦労してたんだろうな。クリエイションなんて人気あった方だけど、アルバムはどれくらい売れたんだろう? 聞いた話だと、その頃の細野晴臣の『トロピカル・ダンディ』とか鈴木茂の『バンドワゴン』とかいったアルバムは、2万枚くらい売れて、採算は取れたらしいので、クリエイションだって、それくらい売れたのでは、なんて思ってしまうけど。というか、『バンドワゴン』が2万枚売れた、だなんて、物凄く意外(笑)
確か、1977年の春頃だったと思うが、文部省主催(!)のロック・コンサートが開かれ、テレビでも(たぶん、というか間違いなくNHK)放送されたのを見た記憶がある。出演は、クリエイション、チャー、カルメン・マキ&OZ、とあともう1バンドいたような気がするが、そこで初めて見たクリエイションは実にカッコ良かった。今と違って、なんのギミックも演出もない、ひたすら演奏するだけの、地味なステージではあったけど、でもカッコ良かった。あの頃のミュージシャンは、ステージではひたすら真摯だったな、と思う。
前述したクリエイションのアルバム、『クリエイション』と『ピュア・エレクトリック・ソウル』の2枚は、内容はもちろんのこと、ジャケットも印象的だ。裸の子供の写真を扱った物だが、今なら児童虐待とか言われて発禁処分だろうな(笑) もしかして、CD化されてないかも、と思ったが、無事CD化になってました(笑) しかも、ジャケットは当時のまま(笑)
『クリエイション』
『ピュア・エレクトリック・ソウル』
ジャケットについては、ちと載せづらいので、↑でご確認下さい^^;
そんなこんなで、古き良き時代(苦しい事もあったと思うけど)を知るミュージシャンが、また一人いなくなった。
話変わるが、この4月に亡くなったアラン・ホールズワースを、ファンが集まって追悼するイベントが、先日京都RAGで開催され、友人がゲスト出演するというのもあって、見に行ってきた。予想以上に素晴らしいライブだった。
せっかくなので、友人の写真を中心に(笑)
ホールズワースは亡くなってしまったが、その精神はこの日本でも確実に受け継がれ、継承されていくであろうと感じさせるイベントだった。出演者の皆さん、お疲れさまでした。
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