日々の覚書

MFCオーナーのブログ

沈黙

2017年03月06日 00時07分04秒 | 映画
先日、マーティン・スコセッシ監督の『沈黙-サイレンス-』を見た。あの有名な遠藤周作の小説が原作である(余談ながら、最近、同じ遠藤周作の小説『真昼の悪魔』がテレビドラマ化されている。偶然?)。遠藤周作は自身もクリスチャンとして知られているけど、その日本人のクリスチャンが書いた重いテーマの作品を、アメリカ人のマーティン・スコセッシ監督がどんな解釈で映画化するのか、結構興味津々だった。キリスト教国家アメリカで、この作品がどう受け止められるのだろう。

遠藤周作の小説は若い頃読んだ。衝撃的だった。ネタバレになるかもしれんが、神のしもべたちが苦しんでいて、神の助けを必要としているのに、神は声すらかけてくれない。本当に神はおられるのか? 本当に神は我々しもべの事を思っていて下さるのか? 本当に神は我々に道を示して下さるのか? 僕のような無宗教とは違い、信徒にとっては重大な問題である。というか、信徒というのは神を信じているのが当たり前であり、その信徒がわずかでも神の存在を疑う、という事自体あり得ないのであり、矛盾した行いなのてあるにもかかわらず、いや矛盾しているからこそ、小説の主人公は苦しみ続ける。これ自体、キリスト教徒として失格と言えるのではなかろうか。アメリカ人は、そういうのを許すのか?

という訳で、『沈黙-サイレンス-』である。ま、確かに、原作同様暗く重い映画だった。キリシタン達をあの手この手で拷問するシーンには、目を背けずにはいられなかった。信徒たちの、そして宣教師たちの苦しみはイヤというほど伝わってくる。宣教師は悩み、苦しむ。自分が転べば(棄教すれば)信徒たちは苦しみから解放される。どうしたらいいのか。でも神は何も言ってくれない。彼の苦しみは果てしなく続く。

ネタバレになるかもしれんが、原作では、悩み苦しんだ末に、この宣教師は棄教し、日本人の僧侶となる。いや、映画でも同じだ。けど、さすがハリウッド映画である。かような、キリスト教徒にとって到底受け入れられない結末を、ただで許す訳にはいかないと見えて、予防線を張ってある。言い訳とか逃げ道とかに言い換えてもいい。その逃げ道(と僕には思えたもの)については、ここでは触れずにおくが、良くも悪くもハリウッドというか、自国民の反感を買わないように手は打っている(笑) さすがに、巨匠マーティン・スコセッシと言えども、その呪縛からは逃れられないようだ。アメリカ人というか、キリスト教徒の業は深い(意味不明)

という訳で、良い映画ではあるものの、手放しでは評価出来ない、中途半端な作品になってしまったのは残念だ。所詮、遠藤周作が小説に書き綴った思いは、日本人だからこそ理解出来る類のものなのか。

あと、ついでに言うと、登場人物の大半は日本人なのだが、ほとんどがカタコトとはいえ英語が喋れる、というのも、ハリウッド映画のお決まりだな、と思った。それと、主人公の宣教師の同僚で一緒に日本に来て、棄教を拒んで死んでいく宣教師が、アンガールズの山根によく似てたなぁ(爆)

ところで、『沈黙』といえば、この曲をご存知の人はどれくらいいらっしゃるのか?

https://www.youtube.com/watch?v=F7W8NWw2HtQ

そう、野口五郎の「沈黙」である。1977年のシングル曲だ。人気絶頂の頃である。この頃の野口五郎は、正に飛ぶ鳥落とす勢い、出す曲出す曲ヒット・チャートを賑わせていた。そんな時期の一曲がこの「沈黙」であり、ツインギターによるイントロのフレーズが印象的だった。確かに、40年近くが経過した今となっては、知る人ぞ知る名曲に過ぎないんだろうな、とは思ってたし、それなりに覚悟(?)はしてたんだけど、こないだ行ったカラオケボックスには、やっぱりこの曲はなかった(笑)

ま、なんたって野口五郎と言えば、「私鉄沿線」であり「甘い生活」であったりする訳で、これらにも顕著なように、哀愁漂うメロディとドラマティックな曲構成の昭和青春歌謡路線なのである。野口五郎自身はギターが得意で、青春歌謡路線ではなく、もっとAOR風の音楽を志向していたのは有名な話だけど、でもやっぱり彼には青春歌謡が似合う。「私鉄沿線」に代表されるように、この手の曲は素人が歌うと平坦になってしまって、なかなか盛り上げる事が出来ない。野口五郎みたいに感動的に歌い上げる、なんて事は不可能。結構難しいのだ。やっぱり五郎って上手いよな、って改めて思う。

僕自身は、この「沈黙」の他、「針葉樹」とか「季節風」とか好きだった。当時は知らなかったけど、「沈黙」の作詞は松本隆で、サビの♪どんな気がする~、というフレーズはディランのあの曲から貰ってきたのか? みたいな事を書いてるのを近年読んだ。松本隆とディランって、切っても切れないのかね(笑)

ところで、さらに「沈黙」と言えば、こんなのもある。

https://www.youtube.com/watch?v=QkqAEjZfVv8

アラン・パーソンズ・プロジェクト(APP)の1979年のヒット曲である。邦題は「Damned If I Do」、後々ヒット・チャートの常連となるAPPであるが、思い起こせばこの曲が初めてのヒット曲だったような気がする。というか、APPってシングルカットするの?なんて驚いた記憶がある。40年近く前のことだが(爆)

ほとんどの人がそうだと思うけど、APPは単発的なプロジェクトだと、僕も思っていた。1976年の『怪奇と幻想の物語~エドガー・アラン・ポーの世界』というアルバム自体、ポーの作品をモチーフにしたコンセプト・アルバムだったし、このアルバムの為だけに、ミュージシャンが集められたのだ、と思っていたのである。なのでその1年後(だったかな?笑)、APPの新譜というのを渋谷陽一の『ヤングジョッキー』で紹介してたのには驚いた。あれ、単発じゃなかったの? って感じ。そしたら、いつの間にか、単発どころか、押しも押されもせぬヒット・メーカーになっていた。人の人生なんて分からないもんだ(意味不明)

数あるAPPのヒット曲の中でも、僕が好きなのは「沈黙」の他、「タイム」「ドント・アンサー・ミー」あたりかな(聞いてません)

さらに「沈黙」というと(もういいです)
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アナログ復活?

2017年03月05日 19時28分37秒 | 音楽ネタ


近頃、若い人たちの間に、アナログ愛好者が増えているらしい。デジタル全盛の現代に於いて、わざわざアナログ・レコードを聴くというのは、炊飯器があるのに敢えてお釜で飯を炊くのと一緒で、まぁ一種のノスタルジーというか何というか、単にアナログの良さに目覚めたというより、不便であってもアナログにこだわる事に価値を見出しているというか、ま、とにかく、ちょっとした自己満足でしかないのでは、とアナログ世代は思ったりする。アナログの方が音に暖かみがある、などと愛好家の若者は言うが、確かにそういう側面はあるけど、ではなぜ、LPはCDに取って変わられたのか、というのを考えてみると、それはCDの方が便利で楽だったからであり、音の暖かみ云々以上に大多数のユーザーにとって重要な事だったのだ。今にして思うと、1980年代中頃に起きたLP→CDの移行は、ほんとアッという間だった。商品としてのCDが発売されたのが1982年だそうだが、1985年頃には新譜が出る際、LPとCDの両方が発売されるようになり、そのうちCDの出荷枚数がLPを追い抜き、ついにソニーが”LPを生産しません宣言”をしたのが1988年と記憶している。他社も追随し、1989年春以降、日本では新譜LPが発売されなくなった。ほんの数年間で、何十年もその地位を守ってきたLPが、姿を消してしまったのだ。それだけ多くの大衆がCDを支持したのである。皆、CDの方が便利で使いやすいと思っていたのだ。

そりゃ、確かに、CDは画期的だった。コンパクトで持ち運びが楽だし、再生してても途中でひっくり返す手間は不要だし、傷とか埃とか気にしなくてもいいし、頭出しやらランダムやらの再生モードも便利だったし、再生してる途中の針飛びやスクラッチノイズで興ざめ、なんて事もない。LPから乗り換える人が多かったのも当然だ。

最近の、若い人たちのアナログ人気は、ここいらに対する揺り戻しなのでは、という気がする。

僕も、LPからCDに移行しつつある、というのは気づいてたし、周囲が徐々にCDプレーヤーを買い始めて、内心焦ったりもしてたけど(笑)、しばらくはLPにこだわっていた。洋楽の新譜はLPを買い続けていたのだ。前述の、”LP生産しません宣言”までは。

ただ、意地を張るのに疲れた訳ではないが(笑)、その”LP生産しません宣言”で少し安心してCDを買うようになった。そうなると、国内外問わずCD一色になるのに時間はかからなかった。90年代初頭から1枚もLPは買っていない。

何度も言ってるけど、CDは楽だ。音の違い云々は多少あるけど、それはLPで出ていた物がCD化される際に問題になる事であり、最初からCDで発売される物が多くなってくると、別に気にはならない。録音するのも楽だ。僕は、CDをカセットテープに録音した音、というのが好きだったのだが、録音ボタンを押してしまえば、針飛びとか気にしなくていいし、曲順を変えたり一曲減らしたりして再生、というのも簡単だし、パソコンが普及すると、CDから必要な曲を取り込んで保存したりメールで送ったり、という事も出来るようになった。いずれも、LP時代には面倒だった事ばかりだ。CDは、音楽の聴き方も作り方も変えてしまった。

とはいえ、ある時期までは、LPとCDを並行して聴いていた。面倒だの何だの言っても、僕はやはりLPが好きだったし(音もさることながら、サイズがたまらない。CDはちゃっちくてアカン。ジャケットの芸術性は、あのサイズでないと楽しめない)、LPで持ってるのはCDでは買わなかった。アニバーサリー・エディションとか、ボーナストラック等が入って、LPと若干違う内容になってるならともかく、LPと全く同じ内容なら買っていない。だから、相変わらずLPでないと聴けないアルバムもかなりある。

そのLPたちは、ずっと実家に置きっ放しになってて、長い間聴いていなかった。が、最近とある事情により、実家に置いてある物も少しづつ整理しなければならなくなり、まずは何枚かのLPを持ってきたのである。プレーヤーも昔使ってたのを持ってきた。かれこれ30年近く前に買ったものだが(余談だが、この頃既にシステム・コンポが主流で、アンプやプレーヤーを別々に揃える、というのは難しくなっていた)、まだまだ十分使える。久々にアナログが聴ける環境となったのだ。なんか嬉しい(笑)

という訳で、近頃よくLPを聴いている。

 

お馴染みの名盤たち。

 

80年代のアルバムが多いのは、80年代に一番LPを買っていたからだ。

LPは、ご承知のように、音質自体はCDにひけはとらないものの、音量は低いので、LPを聴く時は、ボリュームを大きくしなければならないのだが、さすがにCDとは違い、ある程度の音量でないと良い音で聴けない(もちろん、これは僕のオーディオ・システムの問題であって、LPの問題ではないと思う)。それと、聴く時は最低でも、片面全部はかけないといけない。ま、一度針を落としたら、最後まで聴くのが普通、と言われて育ってるもんで(笑) プレーヤーも古いとはいえ、ボタンを押せば、アームが自動的に動いて、レコード盤に載って再生を始め、終わったら自動的に上がって定位置に戻る、という動きをするタイプなのだが、いかんせん長い事使ってなかったら設定方法ほ忘れてしまったので、針を載せるのも戻すのも手動(笑)という訳で、かなりLP聴くのも面倒ではあるのだが、前述したけど、CDでは聴けないのばかりなので、懐かしさも手伝って、感動しながら聴いてる(笑)

僕は基本的に、CDとLPの音の差はあまりない、という考えだが、若かりし時にLPで聴いていたせいか、気のせいかCDで聴いてもLPで聴いた時の感動があまりない、みたいな経験もしてて、例えばクイーンは『カインド・オブ・マジック』までLPで聴いてて、後年CDでも揃えたのだが、特に『オペラ座の夜』あたりまでは、LPの方が良かったような気がしてたりする。そういうのって、やっぱりあるのかな?

という訳で、やっぱりアナログっていいもんだ(笑)
コメント (4)
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