いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

政局と政策・・・政治とは何か?

2011年01月08日 23時44分52秒 | 日記

 昔、床屋政談というものがあった。
 いまはもう、床屋さんという言い方自体をしなくなった。
 余談だが、床屋さんというのは関東の言い方であって、関西では床屋さんとは
いわない。なんというかというと、散髪屋さんという。
 しかし、散髪屋政談ではなんだか冴えないので、床屋政談という。

 年配の床屋さんが、これもちょっと年配のお客さんの頭を散髪しながら、
お互い、政治の話をする。
 
 「お客さん、最近の菅さんはどうですか」
 「うーん、ちょっとねえ」
 「そうでしょう」
 「小沢さんをどうするのか、はっきりしないとねえ」
 「うーん、小沢さんねえ」
 「官房長官の仙石さんだって、どうするんだろね」
 「なんか、悪人顔ですよねえ」

 床屋さんで、散髪してもらいながら、政治の話をする。
 これが床屋政談だ。

 ポイントは、床屋さんとお客さんという、別に政治のプロじゃなくても
政治の話ができるということだ。

 そう。
 政治の話は、だれにだってできるのだ。
 たとえば、次のような話だ。

 小沢一郎は新年会に120人も議員を集めたらしい。
 仙石官房長官は影の総理といわれているけれど、どうなんだろう。
 岡田幹事長は頑固だっていうじゃないか。
 菅さんの奥さんはなんだか、すごいね。
 衆議院は解散があるのかなあ。
 自民党はすっかり野党になっちゃったね。

 こういうテーマなら、だれにだって話ができる。
 政治はおもしろい。
 おもしろいから、だれとでも話のタネにすることができる。

 では、政治の話はなぜおもしろいのだろう。
 それは、政治の話には、必ず、人が出てくるからだ。
 菅直人、小沢一郎、仙石官房長官、岡田幹事長、
 鳩山前首相、自民党の谷垣総裁などなど、
 政治の話には、かならず、人が登場する。
 政治の話は、人間模様の話になる。
 だから、おもしろい。
 そしてまた、その登場人物が、けんかしたり、嫉妬したり、怒ったり、
愚痴をいったり、我々と同じことをする。だから、我々は、政治の
登場人物に感情移入する。
 政治の話は、人間模様だから、話題にしていて、おもしろい。
 
 しかし、それが政治だと思ってしまうと、危険なことになる。
 菅首相と小沢一郎氏が会って話をしたとか、
 仙石官房長官に参議院は問責決議を可決したとか、
 そういう話は、おもしろいけれど、しかし、日本という国の将来に
かかわるような話ではない。
 日本という国をどうするんだという、構想とか、展望とか、
そういう話では、いっさいない。
 ひとことでいえば、政策の話ではない。

 そう。
 いま、菅直人氏と小沢一郎氏が対立していて、民主党が揺れいている
という話は、政策の話では、まったくない。
 人事抗争の話であって、政策の話ではないのだ。

 我々が、床屋さんで話題にする政治、茶飲み話にする政治は、
実は、政界の人事抗争の話にすぎない。
 決して、政策の話ではない。

 政界の人事抗争の話は、「政局」という。
 政治部記者の使う「政局」とは意味が違うが、ここでは、
人事抗争のことを「政局」と呼んでおく。
 
 それに対し、日本経済をどうするんだとか、外交をどうするんだとか
そういう話は、「政策」である。

 そう。
 政治は、大きく分けて、「政局」と「政策」のふたつの側面からなる。
 そして、床屋さんや飲み屋で語る政治は、「政局」である。
 決して、「政策」ではない。

 日本にとって、本当に大事なのは、「政策」だ。
 小沢一郎氏が起訴されてどうなるかというのは、話としてはおもしろいし、
大事な話でもある。
 しかし、それが日本経済の将来を決めるわけではない。
 日本経済の将来を決めるのは、例えば、財政赤字であり、金融政策だ。

 悲しいことに、民主党の菅内閣で、我々が目にしているのは、
 「政局」ばかりだ。

 「政局」が政治だと思ってしまうと、
 一番大事な「政策」を無視することになる。 

 そして、「政局」が政治だと思ってしまうと、政治を馬鹿に
することになる。
 「政治家はいいかげんだなあ」
 「政治なんか、どうしようもないよ」
 という言い方が、まさにそうだ。

 しかし、そうしてしまうと、
 政治の本当に大事な要素である「政策」を、すっかりないがしろに
してしまう。

 菅内閣の政治は「政局」だけになってしまった。
 菅内閣の政治に「政策」はない。

 我々は、そのことをしっかり認識しておく必要がある。
 「政治なんて、どうしようもないよ」
 と言ってしまうと、
 国民が、みずから、「政策」への関心を放棄してしまうことになる
のだ。
 いま、こんな内閣だからこそ、むしろ、我々は、
 政治にとって本当に大切なのは政策だということを
 しっかり認識しておかなくてはならない。
 






































 




















 
 
 












 














菅首相のニコニコ動画・・・我々はこんな首相を選んだわけではない。

2011年01月08日 21時42分20秒 | 日記
 菅首相が、ニコニコ動画で自分の思いを語った。
 なぜ、会見ではなく、ニコニコ動画にしたのか、その理由を、動画の中で
語っている。
 
 「(会見だと)私の伝えたいことがうまく伝わらないんですよ。
 ここが大事なのにと思うことを書いてくれないし、
 自分としてはたいしたことがないと思うことが大きく扱われるんです」。

 では、自分の思いを語れるというニコニコ動画で、何を語ったか。
 官房副長官の補佐をする官房副長官補佐に、国会議員を起用したいのだが、
それが、国会法の制約があって、できないんだということを、菅首相は、
ニコニコ動画で一生懸命語っている。

 「国会議員を起用できないからといって、では、民間人を起用しようと
しても、なる人がいないのではないでしょうか」。

 だから、そこをいま、改革しようとしているんだということを、菅首相は
身振り手振りをまじえて、熱を込めて語っている。

 官房副長官補にどういう人物を起用するか、そこをどう改革するか、
菅首相は、それが政権の一大事であるかのように、熱を込めて語っている。

 見ていて、がっかりした。
 
 この人は、自分はどういう政策を打ち出したいのかを言わない。
 それより先に、組織をどうするかということを、口にする。

 普天間をどうするか。
 日本経済をどうするか。
 我々が、首相に語ってほしいのは、そういうことだ。
 
 普天間や日本経済の今後に比べると、
 官房副長官補の制度をどうするかなどというのは、枝葉末節なことだ。

 一国の首相には、普天間や日本経済のことを語ってもらいたい。

 官房副長官補の制度を嘆くのは、ただのぼやきである。
 日本の首相というのは、ニコニコ動画で、ただぼやくのか。

 なるほど、記者会見でこんなことをぼやいたら、
 それは、記者団も、あほらしくなって、記事にはしないだろう。

 広島の秋葉市長も、退任の考えを、ユーチューブで明らかにした。
 記者会見を断っているそうだ。

 首相まで会見をせずにニコニコ動画だというので、
 新聞、テレビと、インターネットの違い、
 つまり、メディアの違い、メディアのあり方について、
 本来、書かなければならない。

 しかし、菅首相のニコニコ動画を見ていると、
 その内容のあまりの空疎さに、メディアのありようを書くのがばかばかしく
なってしまった。

 これだと、メディアのありよううんぬんという議論をする意味もない
ような内容である。

 政権交代を期待し、政権交代を喜んだ。
 しかし、我々は、こんな総理大臣を選んだわけではないのだ。









 





 







 





市民運動家・菅直人の限界。

2011年01月08日 02時28分23秒 | 日記
 菅首相は、かつて、熱心な市民運動家だった。
 市川房江氏を担ぎ、市民運動家として、衆議院に立候補し、議員になった。
 
 長い間、市民運動をする者にとって、目標は自民党政権の打破だった。
 あるいは、自民党的なものすべての打破だった。

 自民党を倒すことが、最大にして、唯一の目的だった。

 自民党政権の打ち出す政策に反対することが、最大の政策だった。
 自らの具体的な政策を打ち出す必要などなく、ただ、自民党政権の政策を
批判し、反対していればよかった。

 打破すべきものがあるというのは、いま思えば、幸せなことだった。

 そして2009年夏の総選挙で、とうとう、自民党政政権を倒し、政権交代を
実現した。

 そうやって政権交代し、自民党が退場してしまうと、菅直人は、批判し、反対
すべき対象を失ってしまった。

 自民党を倒すというのが、市民運動家・菅直人の最大の目的であり、目標
であったから、自民党が倒れた瞬間に、菅直人の目的と目標は霧のように
消えてしまったのである。

 そう。菅直人は、もう、目的を果たしてしまったのだ。

 首相になってからの菅直人を見ていると、
 いったい何をすればいいのか、本人自身が、まったく分かっていないように
みえる。それが、現在の政治的混乱を招く大きな原因となっている。

 しかし、菅直人は、首相になった瞬間に、彼が政治を志した動機や目的を
失ってしまった。
 簡単にいえば、首相になった瞬間に、菅直人は、自らの政治的使命を終えて
しまったのである。

 誤解を恐れずにいえば、それが、市民運動家・菅直人の限界だった。

 そして、ついに菅直人は、その限界を超えることができないのではないか。
 そういう人を首相にしてしまったのは、私たちの不幸である。