昔、床屋政談というものがあった。
いまはもう、床屋さんという言い方自体をしなくなった。
余談だが、床屋さんというのは関東の言い方であって、関西では床屋さんとは
いわない。なんというかというと、散髪屋さんという。
しかし、散髪屋政談ではなんだか冴えないので、床屋政談という。
年配の床屋さんが、これもちょっと年配のお客さんの頭を散髪しながら、
お互い、政治の話をする。
「お客さん、最近の菅さんはどうですか」
「うーん、ちょっとねえ」
「そうでしょう」
「小沢さんをどうするのか、はっきりしないとねえ」
「うーん、小沢さんねえ」
「官房長官の仙石さんだって、どうするんだろね」
「なんか、悪人顔ですよねえ」
床屋さんで、散髪してもらいながら、政治の話をする。
これが床屋政談だ。
ポイントは、床屋さんとお客さんという、別に政治のプロじゃなくても
政治の話ができるということだ。
そう。
政治の話は、だれにだってできるのだ。
たとえば、次のような話だ。
小沢一郎は新年会に120人も議員を集めたらしい。
仙石官房長官は影の総理といわれているけれど、どうなんだろう。
岡田幹事長は頑固だっていうじゃないか。
菅さんの奥さんはなんだか、すごいね。
衆議院は解散があるのかなあ。
自民党はすっかり野党になっちゃったね。
こういうテーマなら、だれにだって話ができる。
政治はおもしろい。
おもしろいから、だれとでも話のタネにすることができる。
では、政治の話はなぜおもしろいのだろう。
それは、政治の話には、必ず、人が出てくるからだ。
菅直人、小沢一郎、仙石官房長官、岡田幹事長、
鳩山前首相、自民党の谷垣総裁などなど、
政治の話には、かならず、人が登場する。
政治の話は、人間模様の話になる。
だから、おもしろい。
そしてまた、その登場人物が、けんかしたり、嫉妬したり、怒ったり、
愚痴をいったり、我々と同じことをする。だから、我々は、政治の
登場人物に感情移入する。
政治の話は、人間模様だから、話題にしていて、おもしろい。
しかし、それが政治だと思ってしまうと、危険なことになる。
菅首相と小沢一郎氏が会って話をしたとか、
仙石官房長官に参議院は問責決議を可決したとか、
そういう話は、おもしろいけれど、しかし、日本という国の将来に
かかわるような話ではない。
日本という国をどうするんだという、構想とか、展望とか、
そういう話では、いっさいない。
ひとことでいえば、政策の話ではない。
そう。
いま、菅直人氏と小沢一郎氏が対立していて、民主党が揺れいている
という話は、政策の話では、まったくない。
人事抗争の話であって、政策の話ではないのだ。
我々が、床屋さんで話題にする政治、茶飲み話にする政治は、
実は、政界の人事抗争の話にすぎない。
決して、政策の話ではない。
政界の人事抗争の話は、「政局」という。
政治部記者の使う「政局」とは意味が違うが、ここでは、
人事抗争のことを「政局」と呼んでおく。
それに対し、日本経済をどうするんだとか、外交をどうするんだとか
そういう話は、「政策」である。
そう。
政治は、大きく分けて、「政局」と「政策」のふたつの側面からなる。
そして、床屋さんや飲み屋で語る政治は、「政局」である。
決して、「政策」ではない。
日本にとって、本当に大事なのは、「政策」だ。
小沢一郎氏が起訴されてどうなるかというのは、話としてはおもしろいし、
大事な話でもある。
しかし、それが日本経済の将来を決めるわけではない。
日本経済の将来を決めるのは、例えば、財政赤字であり、金融政策だ。
悲しいことに、民主党の菅内閣で、我々が目にしているのは、
「政局」ばかりだ。
「政局」が政治だと思ってしまうと、
一番大事な「政策」を無視することになる。
そして、「政局」が政治だと思ってしまうと、政治を馬鹿に
することになる。
「政治家はいいかげんだなあ」
「政治なんか、どうしようもないよ」
という言い方が、まさにそうだ。
しかし、そうしてしまうと、
政治の本当に大事な要素である「政策」を、すっかりないがしろに
してしまう。
菅内閣の政治は「政局」だけになってしまった。
菅内閣の政治に「政策」はない。
我々は、そのことをしっかり認識しておく必要がある。
「政治なんて、どうしようもないよ」
と言ってしまうと、
国民が、みずから、「政策」への関心を放棄してしまうことになる
のだ。
いま、こんな内閣だからこそ、むしろ、我々は、
政治にとって本当に大切なのは政策だということを
しっかり認識しておかなくてはならない。