いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

自民党はなぜ圧勝したか・・・野党も朝日新聞もモリカケで首相を攻撃しましたが、「モリカケはもういいよ」というのが有権者の素朴な感情です。

2017年10月24日 01時46分12秒 | 日記

衆議院選挙は、22日の日曜日に投開票が行われ、自民党の圧勝
で終わりました。
 安倍首相をあれほど攻撃していた民進党、共産党、それに、朝日
新聞の誤算はどこにあったのでしょうか。

 ひとつは、モリカケ問題です。
 森友学園と加計学園で、安倍首相の意向によって、有利な決定が
なされたというものです。
とくに朝日新聞は、このモリカケ問題で、安倍内閣を倒したいと
いう意気込みに燃えていたようです。

 しかし、国民、有権者は、モリカケ問題に冷めていました。
 私の周囲の友人、知人を見ていると、テレビのニュース番組とい
うか、ニュース・バラエティ番組というか、ニュースともバラエテ
ィとも分からない番組で、モリカケ問題が始まると、「またモリカ
ケか」「いつまでモリカケやっているんだろう」という声が圧倒的
に多かったのです。
 「もう、いいよ」という声です。

 テレビでモリカケを取り上げれば取り上げるほど、「もう、いい
よ」という感じになる。
 朝日新聞がモリカケを書いても、読者は、モリカケの記事を素通
りしていく。モリカケを読まないのです。

 どうしてそうなるか。
 いくつか理由があります。
 
 ひとつは、森友学園の問題も、加計学園の問題も、テレビや新聞
で取り上げれば取り上げるほど、報じる内容が、微に入り細に入り
という感じになってきて、何を言っているのか、分からなくなって
くるのです。
 小説でよくあるように、登場人物の一覧と、事件の概要を、付録
としてつけないと、分からない。
 朝日新聞は、連日、こんな問題が分かった、こういう事実があっ
た、こんな証言があった、と書くのですが、なにしろ、話が細かい。
前回の記事を読んでおかなければ、今回の記事の意味が分からない。
だから、書けば書くほど、読者は、「もう、いいよ」という感じに
なります。

 民進党や共産党も、朝日と連携するかのように安倍首相を責め立
てるのですが、テレビで見ている視聴者にしてみると、ずっと聞い
ていないと、いま何が問題なのか分からない。なにしろ、細かい点
を問題にするのです。

 二つ目は、誤解を恐れずにいえば、そもそも、モリカケが、国会
で連日議論するような問題なのか、ということです。
 野党や朝日は、安倍首相が森友や加計に、便宜を図ったと批判す
るわけです。
 しかし、これも誤解を恐れずにいえば、便宜を図っても、犯罪で
はないということです。そこに現金のやりとりがあれば、これは、
汚職になります。ロッキード事件の田中角栄首相が、そうでした。
次の航空機を選定する際、田中首相がロッキードに有利になるよう
働きかけ、その見返りに、億という現金をもらった。これは汚職で
す。
 しかし、モリカケ問題では、朝日や民進党がどんなに調べても、
安倍首相との現金のやりとりというものは、出てこなかったわけで
す。それどころか、森友学園では、安倍昭恵夫人が逆にお祝いとし
て100万円をあげたという話まで、取りざたされました。現金を
もらったのではなく、あげたというのですから、本当だとしても、
これは犯罪にはなりません。
テレビのあるバラエティ番組がモリカケ問題を取り上げていたと
き、司会者が「だけどさ、便宜を図るというけれど、知り合いに便
宜を図ってやって、何が問題なの?」と話して、スタジオが凍り付
いたことがありました。たぶん、事前に打ち合わせた進行の手順と
はまったく違うことを、司会者が言ったのでしょう。司会者が「何
が問題なの?」と言ってしまえば、そこで番組は終わってしまいま
す。でも、あえていえば、この司会者の感覚は、間違っていないと
思います。

 話をまとめると、こうなります。もし、ロッキード事件のような
とんでもない汚職事件であれば、新聞の読者は新聞を克明に読むで
しょうし、テレビの視聴者も「もう、いいよ」とは言わないでしょ
う。
 いかんせん、モリカケ問題は、ロッキード事件と比べようもない
話なのです。そういう話に、新聞の読者も、テレビの視聴者も、つ
まり、私たち国民は、関心を示さないのです。
 そのモリカケで内閣を倒そうというのが、そもそも、無理筋です。
 選挙の争点にするのも、無理というものです。
民進党や共産党、朝日新聞がしゃかりきになったほどには、国民
は、関心を示さなかったということです。

 しかし、ひとつ、重要な問題があります。
 安倍首相の対応です。
 モリカケ問題で、安倍首相の対応は、実にまずかった。
 木で鼻をくくるとはこういうことかと、その見本になるほど、そ
っけない対応を続けました。
 安倍首相という人は、何にしても、素っ気ない人です。
 選挙で圧勝し、23日の月曜日、官邸で記者団に対応していまし
たが、「おごらず謙虚に政策を実行していきます」というようなこ
とを短く話したと思ったら、くるりと背中を向けて、去っていきま
した。もしかすると、安部さんという人は、これがかっこいいと考
えているのかしらん?と思ってしまいます。
 言うことを言って、もうそれだけで背中を向ける。
 この素っ気なさは、ちょっと、ないでしょう。

 選挙前の各紙の世論調査で、安倍首相の支持率は、落ちていまし
た。不支持のほうが、支持より多いぐらいでした。
 で、不支持の理由で、「安倍首相の人柄が好きではない」という
のが、少なくなかったのです。
 そう。
 モリカケ問題は、内閣を倒すような問題ではないし、いつまでも
関わっているような問題ではないけれど、でも、モリカケに対する
安倍首相の対応は誠実ではないし、なにより、木で鼻をくくったよ
うな対応は、ほめられたものではない。
 たぶん、多くの人が、そう思っているのです。
 
 いつまでもモリカケで安倍首相を攻撃した民進党や共産党、朝日
新聞やTBSは、どこかで勘違いしている。
 だから、モリカケがあっても、有権者は野党に投票せず、自民党
に投票した。
 しかし、有権者も決して安倍首相に好感を持っているわけではな
い。安倍首相に投票したのではなく、ほかにないから、自民党に投
票したんだ。
 と、今回の選挙は、そういう図式だったのだろうと思います。







実は、解散した理由は「いまなら勝てる」でした・・・野党はそれを攻めきれませんでした。本当は安倍政権4年半を国民がどう判定するかです。

2017年10月22日 18時16分36秒 | 日記

 きょうは2017年10月22日の日曜日、衆議院選の投票日で
す。
 いま、午後の5時過ぎです。
 あと3時間ほどで開票が始まります。

 今回の選挙でいちばんおかしかったのは、解散の理由です。
 解散の理由があいまいだったので、選挙がどこか、実態のないま
ま、ふわふわと始まってしまいました。

 安倍首相は、解散の理由を「消費税の税収を、一部、教育などに
あて、消費税の使い道を変更するためです」と、強調していました。
 誤解を恐れずにいえば、この言い方が、実にウソっぽかったので
す。
安倍首相の解散理由を聞いたとき、私たちは、「いや、それ
は違うだろう」と感じました。「そんな解散理由じゃないだろう」
と思いました。

 では、安倍首相が衆院を解散した理由はなんだったのでしょうか。
 理由は明快です。
 それは、「いまなら選挙をして、勝てる」と思ったからです。
 それ以外にありません。
 しかし、いくらなんでも、解散の理由として、「いまなら勝てま
すから」とは、言えない。
 そこで、苦しい理由をひねり出したのです。
 
 安倍首相は、先の国会で、いわゆるモリカケ問題で、厳しい追及
を受けました。
 その結果、あれだけ高かった支持率が、急降下しました。
 しかし、その後、北朝鮮のミサイル発射など、国際情勢の変化が
あり、支持率が回復してきました。
 それなら、ここしかない。
 支持率が上がったいま、ここで解散すれば勝てる。ここで勝てば、
安倍政権の基盤をもう一度固められる。
 いましかない。
 そういうことだったのでしょう。

 安倍首相は、解散の理由を、記者会見で、そう説明すればよかっ
たのです。
 「解散に踏み切った理由は何ですか」と質問されたとき、
 「はい。いまなら勝てるからです」
 と答えれば、いちばん、すっきりしたのです。

 まあ、しかし、そうは言えない。
 だから、安倍首相の官邸スタッフが、理由を考え、「消費税の使
い道の変更」をひねり出したのでしょう。

 しかし、これは、センスが悪かった。
 消費税の引き上げは、まだ先です。
 国民は、消費税の引き上げなど、忘れています。というより、安
倍首相の説明で、あそうか、消費税って、引き上げられるんだと、
思ったようなことでしょう。

 とはいえ、「いまなら勝てるからです」とは、さすがに言えない。
 では、どう言えばよかったのでしょう。
 「いまなら勝てる」というのは、もちろん、支持率が回復してき
たということですが、それ以上に、なによりも、この4年半の安倍
政権の実績に自信があるからです。
 政権運営の実績が、毀誉褒貶があっても、国民からそれなりに支
持されているから、勝てるのです。実績が支持されていなければ、
負けます。2012年暮れの総選挙で、民主党が大敗し、自民党に
政権を譲ったのは、民主党政権の実績がひどいものだったからです。
 
 安倍首相は、解散に踏み切ったとき、
 「解散の理由は、この4年半の実績への評価を問いたいからです」
と言えばよかったのです。

 「この4年半の実績の評価を問いたい」ということは、事実上、
「いまなら勝てる」というのと、同じです。
 
 実績に自信があるから、解散しても、勝てると思っているわけで
す。
 だから、「いまなら勝てる」は、「この4年半の実績の評価を問
いたい」と言い替えられたのです。
 そうしておけば、解散理由がすっきりして、選挙も、分かりやす
くなりました。

 この4年半の実績を問う、というのであれば、野党も、
 ・ アベノミクスは成功していない とか、
 ・ 経済格差が広がった とか、
 ・ 森友学園も、加計学園も、不透明なままだ とか、
 ・ 安保法制は大事な法案なのに強行採決した とか、
 ・ 北朝鮮への対応はこれでいいのか とか、
 いくらでも問題点として、有権者に訴えることが出来たのです。

 消費税が本当の解散理由でないことは、安倍首相自身が、いちば
んよく分かっている。
 だから、選挙戦が進むにつれて、安倍首相は、消費税のことを、
あまり言わなくなったでしょう。

安倍首相も、ご本人もこれは苦しい理由だと思っていたかもしれ
ません。ところが、野党が、そこを攻めきれない。攻めきれないど
ころ、安倍首相の解散理由にまんまと乗ってしまった。
 ではどうすればよかったかというと、野党は、この選挙を、正面
から「安倍政権4年半の実績を問う」と逆に持ち出せばよかったの
です。
 安倍首相の解散理由は無視して、野党として、この4年半の政権
の実績を、ひどいと思うのなら、どうひどいかを、正面から取り上
げて批判すればよかった。
 それを、朝日新聞も一緒になって「大義なき解散だ」「大義がな
い」とやったわけですが、「この解散には大義がない」とやっても、
有権者の胸には響きません。
 だいたい、「大義」というのは、日本語としては、あまりつかわ
ない言葉です。「大義名分」とはいいますが、切り離して「大義」
とは、日本語では、あまりいわないと思います。
 大義というのは、イスラム世界の報道でつかわれ始めた言葉では
ないかと思います。

 大義なき解散だといっても、もう解散されてしまったわけですか
ら、それは、ただの引かれ者の小唄になってしまいます。

 そうではなく、安倍政権4年半の実績に、野党は、切り込むべき
たったのです。
 具体的に切り込めば、分かりやすかった。
 それをせず、抽象的に「大義なき解散」といっても、有権者には
届きません。

安倍首相は、「いまなら勝てる」と思って解散しました。
 いくらなんでもそうは言えないから、それなら、その代わりに、
「安倍政権4年半の実績を有権者のみなさんに判断してもらいたい」
と言えばよかった。
 野党も、それを、「この解散には大義がない」と1回や2回は言
ってもいいと思いますが、いつまでもそれを言ってもしようがない。
朝日新聞も同様です。そうではなく、「安倍政権の4年半は、安倍
首相がいうような実績はない」と具体的に批判していけばよかった
のです。
 結果的に、安倍首相の解散戦術に、野党も、まんまと乗せられて
しまったということでしょう。

 この解散に、たいした理由はありませんでした。
 だから、この選挙は、どこかうそっぽい感じが終始漂いました。
安倍首相も苦しい理由をひねり出したわけですが、野党も、それ
を的確には攻めることが出来ませんでした。
 
 でも、この選挙、結果的に、安倍政権の4年半の実績を、私たち
国民が判定する選挙になっているのです。
 開票まで、もう2時間を切りました。
 さあ、どんな判定が下るでしょうか。



選挙で気になること・・・希望の党の「排除の論理」は当たり前のことです。維新の会は「維新」を掲げる以上、大きな夢を語ってほしい。

2017年10月20日 16時45分57秒 | 日記

 衆院選も、投票日が近づいてきました。
 きょうは、気になることをオムニバス風に書いておきたいと思います。

 まず、第一は、希望の党のいわゆる「排除の論理」です。
 小池代表は、解散直後の早い時期、民進党の前原代表と会談しました。
民進党に戻った前原代表が、「民進党みんなで希望の党に移る」と説明
したのを見て、小池代表は、「民進党の全員を受け入れるというようなこと
はさらさらない」と明言し、はっきり釘を刺しました。そして、希望の党に移
るにあたっては、「安保法制に賛成」「憲法改正に賛成」という2点で同意
してもらわなければならないーーと述べました。
 これが「排除の論理」と呼ばれるわけです。
 きのう、おとといあたり、希望の党に移った旧民進党の議員から、「いま
必要なのは、排除の論理のような狭い心ではなく、いろんなことを広く受
け入れる寛容な心だ」という言い方が出てきました。もちろん、小池代表
に対する批判です。

 しかし、この批判はおかしい。
 政党を作るとき、基本的な政策で一致する政治家が集まるのは、当然
です。希望の党という新しい政党を作ったのに、ふたを開けてみたら、安
保法制に賛成の議員もいるし、反対の議員もいる、ということになったら、
たちまち内紛です。民進党は、そういう内紛で求心力を失ったのです。
 ですから、希望の党の小池代表が、政策の一致する人だけ来てほしい
と明言するのは、当たり前のことです。
 それを、「排除の論理」というのは、おかしい。
 そして、一致すべき政策として、安保法制と憲法改正を挙げるのは、非
常にわかりやすく、政党のありかたとして大変明快です。
 「いろいろなことを受け入れる寛容な心が必要だ」というのは、国民に対
して政治を行うときの話であって、政党のありかたの話ではありません。政
党を作りましょいうというときに、基本政策についてまるで異なる意見を持
つ人を受け入れて、どうするというのでしょう。

 これは、共産党を考えるとわかりやすい。
 共産党は、カール・マルクスを創始者とする共産主義を信奉する政治
家の党です。共産主義を信じる人の党です。
 共産主義を信じない人が共産党に入りたいといって共産党を訪ねてき
たとすれば、門前払いです。門前払いされた人が「大事なのは、いろいろ
なことを受け入れる寛容な心だ」と文句をつけたとすれば、また、笑われ
るでしょう。
 これを、だれも「排除の論理」とは言わないでしょう。
 なぜなら、共産党は共産主義者の党なのですから。 

 同じように、小池代表の希望の党が、「安保法制」「憲法改正」に賛成す
る人だけで、と主張するのは、もう、当たり前すぎるほど当たり前のことで、
文句をつけるようなことではありません。
 希望の党を作った小池代表は安保法制と憲法改正を支持していて、小
池代表は同じ政治信条を持った人で希望の党を作りたいのです。
 そういう状況なのに、「いろいろなことを受け入れる寛容な心が必要だ」
というのは、そもそもが、おかしい。
 それを、「排除の論理」というのも、言うほうがおかしい。

 希望の党は失速が伝えられます。
 失速の報を受け、小池代表は、「厳しい言い方をしすぎたかもしれない」
と話したと伝えられます。
 いや、それは、違います。
 政党を作るのですから、同じ志、同じ考え方の政治家が集まるのは当
然なのです。
 何もはじることなく、希望の党は、同じ考えの人だけでやるんだと、堂々、
主張すれば、それですむことではないでしょうか。

 第二は、維新の党の「教育無償化」です。
 維新の会の松井代表は、今回の選挙で、維新の党の政策として、「教
育無償化」を、真っ先に掲げています。
 誤解を恐れずに書きますが、これは、少々首をひねらざるをえません。
 
 なぜか?
 仮にも「維新」を看板にする政党です。
 維新というからには、もっと大きな話を語ってほしい。
 教育の無償化は、大事な政策ではありますが、それを第一の政策だと
いわれると、「維新」というには、あまりに話が小さいと思うのです。

 教育の無償化を掲げると、だれも反対しません。
 ほとんど全員が支持するでしょう。
 
 しかし、「維新」を掲げる政党であれば、教育の無償化ではなく、日本の
教育のありかたを語ってほしい。
 日本の教育はどうあるべきかと語ってほしい。
 そして、教育だけではなく、経済、政治、社会、文化、スポーツ、あらゆ
る分野での、日本のありかたを語ってほしい。
 「維新」を掲げるなら、そのぐらいの志があるべきでしょう。

 「教育の無償化」を第一の政策にするのは、あまりに生活感がありすぎ
る。「維新」であれば教育のありかたを語ってほしい。「教育の無償化」は
あまりに具体的すぎて、維新の会も、大阪府知事が率いる地域政党にな
ってしまったという感じをぬぐえません。

 維新の会は、小さくなってしまいました。
 議員の数が少なくなっただけではありません。
 その語る政策、語る志が、小さくなってしまいました。
 これでは、大阪の地域政党として、埋没していくのではないでしょうか。

 かつて、あれほど華々しく登場し、「維新」という夢を掲げた政党は、どこ
はいってしまったのでしょうか。
もう一度、かつての輝きを取り戻すことはできないのでしょうか。



人類はどこまで速く走れるか・・・初めて10秒0を出したのは1960年、西ドイツのハリーです。それから47年。がんばれ桐生君。

2017年10月19日 00時44分33秒 | 日記

 選挙の記事ばかり続きました。
 新聞、テレビの予想では、自民党・公明党の圧勝となりそうです。
小池百合子氏が希望の党を華々しくスタートさせた直後は、自民党
は大苦戦か?という感じでした。しかし、小池氏自身が立候補しな
かったため、選挙後、希望の党は首班指名にだれを推すのかという
ことが問題になりました。さらにまた、旧民進党が希望の党と立件
民主党に分裂しました。そのあたりから、希望の党は、一気に失速
してしまいました。このままだと、政権交代どころか、野党第一党
の座も立憲民主党に譲ってしまいそうです。これでは、希望の党は
いったい何だったのか?ということになってしまいます。
 
 今回は、選挙の話はそこまでとして、陸上100メートルの話
を書きたいと思います。
 桐生君が日本人で初めて100メートル10秒の壁を破り、9秒
98を出しました。9月9日のことです。それから1か月少しですが、
その後、衆院が解散され、政界の大再編が起きるという事態になっ
たので、桐生君の快挙も、ずいぶん前のことのような気がしますが、
まだ先月のことです。
 
 さて、まず、陸上100メートルの記録の変遷を、掲げておきま
す。これは、私たち人類が、「速く走る」ということに挑み、残し
てきた輝ける記録です。

 1930年に10秒3が出ており、ここでは、そこから記録を載
せます。

10秒3
パーシー・ウィリアムズ  カナダ      1930年8月9日

10秒2
ジェシー・オーエンス   アメリカ     1936年6月20日

10秒3から10秒2まで、6年かかっています。
10秒2が出たあと、1939年にドイツがポーランドに侵攻して、
第二次世界大戦が始まりました。1941年には日本がアメリカと
開戦し、太平洋でも戦争が始まります。文字通りの世界大戦になっ
てしまいました。
 戦争は1945年に終わりましたが、戦中、戦後の混乱期には、
100メートル走も、さすがに、記録が伸びていません。
 1956年になって、ようやく、10秒1が出ました。これは、
10秒2が出てから、20年もかかっています。

10秒1
ウィリー・ウィリアムズ   アメリカ    1956年8月3日

 10秒1が出ると、10秒0を見たいものです。
 だれが最初に10秒0を記録するか。
 戦後の混乱も落ち着いてきて、10秒0をいつだれが出すか、世
界的に大きな関心を集めたはずです。
 
 人類で初めて10秒0を出したのは、西ドイツのハリーでした。
 1960年6月21日のことです。
 10秒1からは、4年で出ています。
 西ドイツのハリーは、これで人類史上に名を残しました。
 

10秒0
アルミン・ハリー       西ドイツ   1960年6月21日
ハリー・ジェローム      カナダ    1960年7月15日
オラシオ・エステベス    ベネズエラ   1964年8月15日
ボブ・ヘイズ         アメリカ  1964年10月15日
ジム・ハインズ        アメリカ  1967年5月27日
エンリケ・フィゲロラ     キューバ   1967年6月17日
ポール・ナッシュ       南アフリカ  1968年4月2日
オリバー・フォード      アメリカ  1968年5月31日
チャールズ・エドワード・グリーン アメリカ 1968年6月20日
ロジェ・バンビュク      フランス   1968年6月20日

 特筆すべきは、1964年10月15日のボブ・ヘイズの10秒0です。
 1964年10月15日は、何の日でしょうか。
 そう。
 これは、東京五輪です。
 東京五輪の陸上競技は国立競技場で実施され、そこで、ボブ・ヘイズは、
10秒0の世界タイ記録を出して、金メダルを取りました。
 ヘイズは、日本でも人気があり、大きな声援を受けました。

 ここで注目してほしいのは、ハリーが10秒0を出すと、いろんな選手が
10秒0を出すようになったということです。数えると、10人の選手が
10秒0を出しています。
 陸上や水泳の記録は、だれか一人が壁を破ると、他の選手たちが、セキ
を切ったように、同じように、壁を破ってくるのです。
 これは、またのちに触れます。

 さあ、ここまでくると、9秒9は、時間の問題のようになってき
ました。
 そして、1968年6月20日、全米選手権で、とうとう、9秒
9が出ました。全米選手権の100メートル準決勝で、ハインズ、
スミス、グリーンの3人の選手が、そろって、9秒9を出し、この
日、人類は、10秒の壁を破ったのです。


9秒9
ジム・ハインズ       アメリカ   1968年6月20日
ロニー・R・スミス     アメリカ   1968年6月20日
チャールズ・E・グリーン  アメリカ   1968年6月20日
エディ・ハート       アメリカ    1972年7月1日
レイ・ロビンソン      アメリカ    1972年7月1日
スティーブ・ウィリアムズ  アメリカ    1974年6月21日
シルビオ・レオナルド    キューバ    1975年6月5日
ハーヴェイ・グランス    アメリカ    1976年4月3日
ドン・クォーリー      ジャマイカ  1976年5月22日

 1968年にハインズら3選手が9秒9を出した後、次の選手が
9秒9を出したのは1972年で、4年かかっています。しかし、
その後は、9秒9が続々と出ています。

 世界陸連は、1977年から、手動式によるストップウオッチを
やめ、100メートルの記録を電気計時に統一しました。それに伴
って、タイムも、手動式が小数点ひとケタだったものが、電気計時
では小数点2けたで計測するようになしました。
 電気計時による9秒台の第一号は、1983年のカルヴィン・ス
ミスで、9秒93という記録です。
 この記録は、長い間残り、次にこれを破ったのは、かのカール・
ルイスです。
 カール・ルイスは、1988年に9秒92を記録しました。
 これを抜いたのが91年のリロイ・バレルで、9秒90を出しま
した。
 この後、ルイスとバレルは、競うようにして記録を更新していき
ます。最初に9秒8台を出したのは1991年のカール・ルイスで、
9秒86です。これをバレルが94年に9秒85を出して更新しま
す。

9秒93 カルヴィン・スミス  アメリカ   1983年7月3日

9秒92 カール・ルイス    アメリカ   1988年9月24日

9秒90 リロイ・バレル    アメリカ   1991年6月14日

9秒86 カール・ルイス アメリカ 1991年8月25日

9秒85 リロイ・バレル アメリカ 1994年7月6日

9秒84 ドノバン・ベイリー カナダ 1996年7月27日

9秒79 モーリス・グリーン アメリカ 1999年6月16日

9秒77 アサファ・パウエル ジャマイカ 2005年6月14日

9秒74 アサファ・パウエル ジャマイカ 2007年9月9日

9秒72 ウサイン・ボルト   ジャマイカ  2008年5月31日

9秒69 ウサイン・ボルト   ジャマイカ  2008年8月16日

9秒58 ウサイン・ボルト   ジャマイカ 2009年8月16日

 ルイスとバレルの2人は、100メートルの記録をかなり塗り替
えました。
 この2人の後、モーリス・グリーンとアサファ・パウエルの2人
がライバルとして競い合い、9秒7台を出します。
  2007年にパウエルが9秒72という記録を出し、次は、い
つ9秒6台に突入するのかという関心が世界的に高まりました。そ
れとともに、100メートルの記録はどこまで伸びるのかというこ
とも話題になりました。
 これにあっさりと答えたのがウサイン・ボルトです。
 ボルトは、2008年に9秒69を出し、人類として初めて9秒
6台の数字を見ました。
 このころのボルトは絶頂期で、翌2009年8月には、9秒58
と、とうとう9秒5台というものすごい記録を打ち立てました。
 これが、いま(2017年)も、世界記録となっています。

 西ドイツのハリーが1960年に10秒0を出してから、200
9年は49年になります。
 49年で、人類は、10秒0から9秒58まで、記録を縮めたの
です。
                       (続く)


小池百合子氏は立ちませんでした・・・衆院選が公示されました。小池氏が立たない希望の党は、勢いを失い、ピークアウトしてしまいました。

2017年10月11日 00時46分11秒 | 日記


 第48回衆議院選が、10日、公示されました。投票日は、22
日です。
 結局、希望の党の小池百合子代表は、立候補しませんでした。
 正午現在で、自民党は324人が立候補しました。
 希望の党は218人が立候補しています。

 定数は465議席ですから、2で割って、233議席を獲得すれ
ば、過半数を制します。
 
 メディアは獲得議席の予想を出し始めていますが、いまのところ、
自民・公明の両党合わせて233議席を上回り、自公で政権を維持
するのではないかという見方が強いようです。

 さて、問題は、希望の党です。
 メディアでは、100人前後が当選するのではないかという予想
が出ています。
 100議席というと、かなりの勢力です。
 解散前の民進党の議席が80議席台でしたから、予想通りだとす
れば、希望の党は、旧民進党を上回る勢力になります。
 しかし、肝心の小池代表が立候補しませんでした。

 私の予想、というか、懸念をいうと、希望の党は、今回、首尾良
く100人が当選したとしても、すぐに内部で対立が顕在化し、半
年なり1年なりで、分裂し始めるのではないかと思います。

 衆議院は、総選挙の後、すぐに国会を開き、首班指名をします。
つまり、次の首相を選びます。
 自公は、当然、安倍首相に投票します。
 希望は? 
 公示前に日本記者クラブで開いた党首討論会でも、小池代表は、
選挙後の首班指名で、だれに投票するのか、首班指名でだれを立て
るのかと、かなり厳しく質問を受けていました。
 この質問に、小池代表は、答えられませんでした。
 これは、致命的です。

 本来なら、小池代表が、立候補するべきでした。
 小池代表は、「初めから立候補するつもりはありませんでした」
と語っています。
 本人の本当の心の中は、だれにも分かりませんから、それが本音
だったのかもしれません。
 なにしろ、まだ去年、都知事になったばかりです。
 目の前には、豊洲市場への移転という問題がある。
 2020年には、東京五輪がある。
 そんな中で、都知事を辞めることは出来ない、というのは、本音
かもしれません。
 たぶん、今回の衆院解散が、予想外の早さだったのでしょう。も
う少しあと、豊洲や東京五輪が軌道に乗ったあとに衆院解散があっ
たのなら、小池代表は、都知事を辞めて、衆院選に立候補したので
はないでしょうか。
 もしかすると、本人はそのつもりだったのかなと思います。

 しかし、いま都知事を辞めたら、都知事としては何もかもほっぽ
り出して国会に転じることになってしまう。
 都知事の後任さえ、決まっていない。
 衆院解散が、もう少し後だったらなあ、というのが、本音だった
のではないでしょうか。

 希望の党は、小池さんの党です。
 若狭議員は、当初から一緒に活動してきたのですが、公示前に、
希望の党としての首相候補について質問を受けて、「今回は、政権
を狙っているわけではない。次か、次の次ぐらいで政権を取りたい」
というような答え方をしていました。
 私は、そのやりとりをテレビで見ましたが、第一感は、なんとま
あ、政治家としてはセンスの悪い人だなあ、というものでした。今
回は政権を狙わない。次か、次の次だ、などと発言してしまうと、
政党としての求心力をいっぺんに失ってしまいます。なによりも、
前回のこのブログでも書きましたが、政権を取るなら一気に取らな
いといけない。なぜなら、希望の党は急造の政党ですから、分裂の
要素を内部に持っている。選挙の後には、分裂の動きが出るに決ま
っている。そういう分裂の動きを抑え込むには、政権奪取という旗
印を掲げておかなければなりません。なによりも、いまの勢いがあ
るうちに、何かをしなければなりません。
 それを、「今回ではなく、次の次」とか言ってしまうと、勢いは
そがれ、なにもかも、終わってしまいます。
 きょう、今週号の週刊文春を読んだのですが、この若狭議員の言
葉を聞いた小池代表が、「まあ、政局勘の悪い人だこと」と言って
嘆息したという記事がありました。
 この言葉を本当に小池代表が言ったのかどうか分かりませんが、
まさしく、さもありなん、という感じの言葉です。
 小池代表は、若狭議員を信頼していないのが分かります。
 若狭議員のほかに、一緒に活動していた仲間というと、みな、東
京都議です。
 あとは、細野議員にしても、前原議員にしても、民進党から来て
人ばかりです。もし万一、前原氏を首班指名の候補にしたら、なん
のことはない、希望の党として、首班指名に民進党の代表を出すと
いう事態になります。それでは、希望の党のはずが、なんだ、民進
党だったのか、ということになってしまします。
 結局、小池代表には、首相候補にするべき人材がいないのです。

 であれば、小池代表は、今回、どんな大きな批判にさらされても、
衆院選に立つしかありませんでした。
 そうすれば、首相になれないにせよ、衆院議員である小池代表を
核にして、希望の党は、結束を図れたでしょう。
 
 希望の党は、今回、千載一遇の好機を逸したのではないでしょう
か。
 きょうの公示をピークに、希望の党は、衰退に向かうように思え
てなりません。

 ただし、小池百合子氏という人は、これまでに、何度も大きなサ
プライズを演出しています。
去年の都知事立候補は、その典型でした。
 今回、安倍首相が解散を発表した記者会見の日にあわせて、「新
党をめぐる若狭、細野氏の動きは、リセットします。リセットして、
私が新党の代表になります」と、自ら記者会見をしたのは、都知事
選の立候補を上回るサプライズでした。

 だから、もしかすると、小池百合子氏は、今回も、また何かサプ
ライズを用意しているのかもしれません。
 何か、あっと驚くようなサプライズがないと、希望の党は、これ
でピークアウトして、衰退に向かうと思います。
 




本当に政権を取りたいなら一気に取るしかありません・・・これまで新党が何度も挫折してきました。小池百合子氏が立つなら今です。

2017年10月04日 19時39分39秒 | 日記

 希望の党が本当に政権を取りたいのなら、今回の選挙で、一気に取り
にいく必要があります。
 希望の党の若狭氏は、小池代表が立候補するのかどうかを聞かれた
際、政権を取りに行くのは次でいい、今回は、勢力がためで、というよう
なことを答えていました。
 それではだめです。
 これまでに、何度も、新党がブームになりました。新党は総選挙でそれ
なりの議席を取りながら、選挙後、半年、1年たつと、党が分裂し始め、
結局は、空中分解してしまいました。
 希望の党も、総選挙で躍進したとしても、その次の選挙までもつかどう
か、本当にわかりません。
 やるなら、今回です。
 本当に政権を取るつもりなら、小池代表は、どんなに批判を浴びても、
今回の衆議院選挙で、立候補するべきでしょう。
 立つなら、いましかありません。
 立て。小池百合子。

 これまでの新党を振り返ってみましょう。
 ほかならぬ小池百合子氏は、細川護熙氏と一緒に、日本新党を立ち
上げました。1990年代のことです。
 キャスターをしていた小池氏が、細川護熙氏と一緒にテレビの政権放
送に出ました。二人がマイクの前で仲良く並び、キャスターの小池氏が、
細川氏にインタビューするというスタイルの政権放送で、実に鮮やかなも
のでした。
 日本新党は、圧倒的な人気を集め、初めての総選挙で一気に50議席
を取りました。
 日本新党の成功は、政界に新しい党を作ろうというブームを生み、実
にたくさんのミニ政党が生まれました。
 細川氏は、このミニ政党をとりまとめる形で、というより、ミニ政党が連合
体となって、細川内閣が誕生しました。
 政権を取ったといえば取ったのですが、しかし、日本新党が議員を増
やして政権を取ったのではなく、ミニ政党、ミニ新党の寄せ集めで、内閣
を作ったというのが実態でした。
 細川首相は、細川内閣が誕生してしばらくして、何をどう考えたのか、
深夜に突然、記者会見をし、唐突に、消費税率を引き上げると発表した
のです。
 この会見は、本当に唐突でした。そもそも、会見をした時刻が、午前1
時前というどんでもない時刻でした。突発的な事件があったわけでもなし、
昼間に会見すれば済む話でした。
 この会見は、激しい批判、というより、日本中が首を傾げたといったほう
がいいようなもので、これで、細川氏は、信用や信頼をいっぺんになくし
てしまいました。やがて、細川氏は、自ら首相を辞任します。
 
 日本新党の前には、河野洋平氏、西岡武夫氏らが立ち上げた新自由
クラブがありました。新自由クラブは、1976年、自民党にいた中堅議員
が清新な政治倫理を掲げて結党し、最初の選挙で、17人が当選しました。 
 新自由クラブは、さわやかなイメージで支持を集め、都市型の政党とし
て活動しました。
 しかし、やがて、路線の違いなどで党に亀裂が入り、10年後には、河野
洋平氏らが自民党に復帰しました。河野氏は、のちに、自民党総裁を務
めています。

 新しいところでは、橋下徹氏の大阪維新の会があります。
 2010年、当時は大阪府知事だった橋下徹氏が立ち上げた大阪の地
域政党で、橋下氏の強烈なリーダーシップと弁舌により、2011年、2012
年と、勢力を拡大しました。しかし、あるときから石原慎太郎氏を共同代
表に招き、これで、地盤である大阪の有権者が維新離れを起こしました。
大阪の有権者は、石原慎太郎氏のようなキャラクターを受け入れることは、
まず、できないのです。大阪の風土と、石原慎太郎氏は、水と油です。
 そんなことぐらい、分かっているはずの橋下徹氏が、なぜ、ということで
すが、橋下氏は、大阪の地域政党である大阪維新を、全国区にしたかっ
たのだと思います。全国区にする手段として、東京の石原氏を引き込ん
だのでしょう。それが失敗でした。
 なによりも失敗だったのは、橋下氏が、大阪府知事、大阪市長にとどま
ったことです。このときも、橋下氏の国政進出が取りざたされましたが、橋
下氏は、衆院選への立候補を見送りました。
 もし、橋下氏が衆議院議員になっていれば、東京の石原氏を大阪に呼
び込んだりせず、橋下氏が自ら東京に乗り込めば話はすんだのです。
 橋下氏は、このとき、衆議院選挙に立候補せず、千載一遇の好機を、
みすみす、見逃してしまったと思います。

 同じように、小池百合子氏も、もし今回、衆議院への立候補を見送ると、
橋下氏の二の舞を演じてしまうのではないかと思えてなりません。
 大阪維新の会は、国会議員の数が増え、国政での活動を始めたので
すが、なにしろ、その場に、党の代表である橋下氏がいません。
 維新の国会議員は、国会での維新議員団を作り、活動します。なにしろ、
代表抜きですから、おかしな話です。それに、もともと、橋下徹という強烈
な個性、強烈なリーダーシップで生まれた党ですから、そのリーダーなし
では、うまくいくはずもありません。
 やがて、維新は内紛から分裂しました。
 希望の党は、維新と橋下氏の栄光と挫折をよく研究するべきでしょう。
このままでは、希望の党も、今回、どんなに議席を取っても、次回の選
挙まで維持できるかどうか、疑問符がつきます。なにしろ、国会議員が
集まって国政に携わろうというとき、小池代表が都知事で、国会にいな
いというのでは、どうにも、話になりません。いずれ、都知事の小池氏と、
議員団の間に、ギャップが生まれるのは、目に見えてます。それは、内
紛につながります。

希望の党が、本当に政権を取りたいのなら、この選挙しかありません。
「次でもいい」と言っているようでは、話になりません。
そして、小池百合子氏も、立つしかないでしょう。
立つならいまだ。







枝野氏の立憲民主党によって政治の流れがまた変わりました・・・55年体制からここまでの政治の動きをまとめておきます。

2017年10月03日 00時42分21秒 | 日記

 戦後の日本は、保守勢力として、日本民主党と自由党の2党がり
ました。一方の革新勢力は、右派社会党と左派社会党の2党があり
ました。
 1955年に、右派社会党と左派社会党が合併して日本社会党が
誕生しました。
 それを見て、日本民主党と自由党も、同じ55年に合併し、自由
民主党となりました。
 これで、日本の政治は、保守の自由民主党(自民党)と、革新の
日本社会党(社会党)の保革の2党が対立する構図となりました。
 これを、55年体制と呼びます。
 この55年体制、すなわち、自民党と社会党が保革対立するとい
う体制は、90年代まで、長く続きました。
 一見、2大政党のシステムのように見えますが、衆議院で自民党
がいつも230-260議席を持っていたのに対し、社会党は、せ
いぜい140議席、ひどいときには90議席ということがありまし
た。
 選挙のたびに、いつも、自民党が社会党の2倍の議席を獲得して
いました。
 そのため、社会党が政権を取ることはなく、政権交代が可能とい
う本来の2大政党ではなかったのです。
 海外諸国とくに中国や韓国は「日本は自民党の独裁だった」と言
う言い方をすることがありますが、しかし、それは、違います。中
国と違って、日本ではちゃんと選挙が行われ、選挙の結果として、
自民党が政権与党であり続けたのです。
 
 ただ、自社対立という状況で、国政の構図は極めて分かりやすく、
総選挙も、自民党がどれだけ議席を減らし、社会党がどれだけ議席
を増やすかということだけが焦点で、これまた分かりやすかったの
です。

 選挙は、経済情勢がモノをいいます。
 経済が良ければ、時の政権党が勝ちます。
 日本は、戦後一貫して、右肩上がりの経済でした。だから、政権
党である自民党が、いつも、選挙で勝ってきたのです。
 社会党が何を言っても、経済がよく、景気がよければ、国民は政
権党である自民党を支持してきたのです。
大変分かりやすい構図でした。

 この構図が崩れたのは、バブル崩壊によってもたらされた「失わ
れた20年」です。
 失われた20年は、おおざっぱにいって、1990年から201
0年の20年間を指します。
 なぜ1990年から始まったかというと、90年という年に、日
本のバブルが崩壊したからです。
 バブルが崩壊し、日本は、20年という長い間、デフレ不況に苦
しみました。
 これだけ長い間、不況が続くと、さすがに国民も、自民党に見切
りをつけます。
 そして、2009年8月、暑い夏の総選挙で、自民党は大敗し、
民主党が初めて政権を取りました。
 歴史的な政権交代でした。
 このとき、鳩山由紀夫首相が誕生するわけです。

 いま、民主党が政権を取ったと書きましたが、社会党は、どこへ
行ってしまったのでしょう。
 実は、1990年代半ば、バブルが崩壊して不況が始まったころ、
自民党と社会党、それにさきがけが、連立政権を組んだことがあり
ます。いわゆる「自社さ」連立政権です。このとき、社会党の村山
富市委員長が、首相になりました。
しかし、村山委員長は、首相になったものの、国のトップとして
の行政能力は、はっきりいって、芳しくありませんでした。村山首
相のときに阪神淡路大震災が起き、神戸市が壊滅するのですが、こ
のとき、村山首相が呆然とした表情でテレビニュースを見ている様
子が放送され、国民はがっかりしてしまいます。
 この「自社さ」連立政権が終わったとき、社会党はすっかり信用
をなくし、骨抜きのような状態になってしまいました。
 まさしく、いまの民進党のような感じだったといえます。
 そのころ、鳩山由紀夫氏らの鳩山新党ができ、骨抜きとなった社
会党の議員が大挙して移籍を図りました。しかし、鳩山由紀夫氏は、
社会党の全員が移籍されても困るとして選別を図り、これが「排除
の論理」と言われました。
 これは、いまの希望の党と民進党の関係にそっくりです。
 社会党は、長い歴史を自ら捨てて、鳩山新党に移籍しようとした
ため、事実上、消滅します。これが1996年のことです。

 ただ、一部の議員は、移籍をよしとせず、社会党に留まります。
それが、いまの社民党ということになっています。
 このときの社会党は、ちょうど、今回の枝野議員の新党・立憲民
主党のようなものです。

 自民・社会の2大政党が対立するという保革対立の図式は、こう
して、社会党が消滅することによって、なくなってしまいました。
 自民党は、したたかに生き残るわけです。

 鳩山新党は、その後、小沢一郎氏の率いる新進党、新生党との合
併、統合を繰り返し、民主党となります。
 その民主党が、2009年に自民党に勝ち、政権を取ったわけで
す。

 しかし、民主党政権は、鳩山首相、菅首相、野田首相と3代の首
相を出したものの、東日本大震災に見舞われ、その一方で、なお続
く日本の不況に何の経済政策も打ち出すことが出来ませんでした。
 とくに、このころ進んだ円高に、民主党政権は完全に手をこまね
いてしまい、2011年ごろには、1ドル=75円前後というとん
でもない円高を招いてしまいました。
 この円高で、日本企業は、とても輸出が出来ないとして、工場を
どんどん海外に移転してしまいました。
 生産拠点を失った日本経済は弱くなるばかりで、不況はどんどん
ひどくなります。

 民主党政権が国民から見放されたのは、やはり、経済でした。
 円高がひどくなり、企業が悲鳴を上げているのに、民主党政府は
何もしない。これだけ日本経済が悪くなると、国民は、時の政権党
に見切りをつけます。
 そして、2012年12月、暮れの総選挙で、民主党は大敗し、
自民党が政権に返り咲きます。
 このとき、自民党は安倍晋三総裁だったので、安倍首相が誕生し
たというわけです。

 2009年8月  自民党が大敗し、民主党政権が誕生。
 2012年12月 民主党が大敗し、自民党政権が誕生。

 これだけ見ると、2大政党制が成功したように見えます。
 しかし、民主党が政権についたのは、一回きりです。
 実際には、下野した民主党があまりにもひどいので、自民党だけ
が強い「一強体制」になってしまいました。
 民主党は名前を民進党に変えました。
 民進党は、安部自民の一強体制を批判してきましたが、その体制
を作り出したのは、ほかならぬ民進党のだらしなさです。
安倍首相の独走を批判するのなら、その前に、民進党のだらしな
さを猛烈に反省しなくてはいけないでしょう。

 そして、結局、安倍自民への対抗勢力は、民進党ではなく、思わ
ぬ場所から出てきました。
 もちろん、小池新党です。希望の党です。

 どうしようもなくなった民進党が、全員、希望の党に移る子とを
考えたのは、いま述べたように1996年に、社会党が鳩山新党に
移ろうとしたのと、まったく同じです。
 そして、同じように、「全員はだめです」と拒否されたのも、同
じです。それを「排除の論理」といって泣き言をいうのも、まった
く同じです。

 当時と大きく違う点があります。
 希望の党は、自民党と、基本政策が一致しているということです。
 希望の党は、安保法制を支持し、憲法改正を支持します。
 自ら「寛容な保守」を掲げます。
 そう。
 2017年10月という時点において、日本の二大政党、すなわ
ち、自民党と希望の党は、いずれも保守なのです。
 1955年体制が始まるまで、日本は、日本民主党と自由党とい
う2つの保守政党がありました。しかし、そのとき、革新政党も、
左派社会党、右派社会党と、強力な党があったのです。
 今回のように、自民党、希望の党と、ふたつの強力な保守政党だ
けが存在するというのは、日本では初めての政治状況でした。
 そのままでは、投票する政党がないという有権者もいたでしょう。
 そこへ、枝野氏が、革新勢力の結集を図って立憲民主党を作った
のは、日本の政治状況にとって、救いのような動きでした。
 憲法改正には反対という人は、自民党にも投票できない、希望の
党にも投票できない。どこへ投票すればいいんだという切羽詰まっ
た状況になって、初めて、枝野氏の立憲民主党が登場したわけです。
 
 立憲民主党がなければ、今回の選挙は、
 自民党 対 希望の党 
 でした。保守2党の対立という初めての構図でした。
 
 立憲民主党が出来て、
 自民党 対 希望の党 という保守対立の構図に、
 立憲民主党という革新政党が加わったことになりました。
 そうすると、保守対立ではなく、
 保守 対 保守 対 革新
 という構図になり、また意味あいが違ってきます。
ひとつ言えるのは、有権者にとって、有力な選択肢が生まれたと
いうことです。
 
 駆け足になりましたが、日本の政治の流れをまとめておきました。
 







リベラル新党が結成されました・・・日本の護憲・リベラルの受け皿が、絶対に必要でした。よかったと思います。

2017年10月02日 17時09分06秒 | 日記

 民進党の議員のうち、希望の党への転籍を拒否された人たちが、新
しい党を結成しました。
 それが、いちばんいいと思います。

 希望の党は、安保法への賛成、憲法改正への賛成という点を、転籍
の条件として求めています。
 この条件は、民進党の護憲派の議員には、受け入れられないもので
す。民進党は、もともと、旧社会党の流れを引く議員も少なくないので、
この条件であれば、民進党は、2つに分裂するほか、ありません。
 
 護憲派の議員は、最近は、「リベラル」と呼ぶようになっています。
 まあ、リベラル、護憲、左派、という言い方は、だいたい、似たようなも
のですね。
 
 昔から、「岩波・朝日文化人」という呼び方があります。
 岩波書店と朝日新聞の論調に立つインテリというほどの意味です。
 それは、憲法9条を守るという一点で、一致します。
 日米安保反対、集団的自衛権反対、ひとことでいえば、平和主義
ということになります。
 
 日本には、この護憲派、リベラルの人々が、たくさんいます。
 自民党は、昔はともかく、安倍首相の自民党は、護憲派とはいえませ
ん。
 自民党に次ぐ第二の政党になる希望の党も、護憲派ではありません。

 すると、護憲派、リベラルの人々は、次の選挙で投票する先がなくな
ってしまいます。
 それなら、民進党のうち、護憲、リベラルの議員で、新党を作るのが
いちばんいいのです。

 だから、枝野氏が、立憲民主党を作るのは、大正解でしょう。
 これはよかったと思います。       (続く)