いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

野田首相は「増税に政治生命を賭ける」と言います・・・この違和感は何なのでしょう。

2012年03月29日 01時53分21秒 | 日記

 この違和感は、何なのでしょう。
 民主党政権に対する違和感です。

 2009年の夏、歴史的な政権交代で民主党が登場した日、
多くの国民は、民主党に大きな期待を寄せました。
 
 それは、長い間の自民党政権ではできないような新
鮮なことをしてくれるのではないかという期待です。
 それはまた、民主党政権は、弱い人たち、虐げられた人たち、
苦しい立場の人たちのために登場したんだという期待でした。
 米軍の普天間基地の「県外移転」は、その最たるものだ
ったでしょう。

 いま、野田首相は、何と言っていますか。
 野田首相は、
 「消費税増税に政治生命を賭ける」
 と言うのです。


 しかし、2009年の夏、政権交代を実現させて、民主
党政権を誕生させた有権者、国民は、そのとき、
 「政治生命を賭けて消費税増税をやってくれ」
 と期待して、民主党に投票したのでしょうか。

 そんなことは、絶対に、ありません。
 
 日本の財政が厳しい状態なのは、だれでも知っている。
 財政再建のためには、増税が必要かもしれないという気
持ちは、たぶん、国民は持っている。

 しかし、そんなことのために、国民は民主党を国会に送
り出したのではありません。

 増税の前に、もっとやることがある。
 弱い立場の人のために、なにかやることがある。
 杓子定規な官僚、役人を排し、なにか、暖かい政治をし
てくれるのではないか。
 そんなことは、自民党には出来ないだろうけれど、民主
党ならやってくれる。
 そう思ったからこそ、国民は、あの夏の日、民主党に投
票したのです。

 民主党は、その期待に応えなければならない。
 民主党の国会議員、政治家は、その思いに応えなければ
なりません。

 それなのに、野田首相は、
 「消費税増税に政治生命をかける」
 と言う。

 違和感の正体は、これです。

 民主党は、政権交代を実現させた有権者の期待を、どこ
か根底から裏切ってしまいました。

 「消費税増税に政治生命を賭ける」のなら、別に、自民
党の首相でもいいのです。
 それなら、安部首相や麻生首相が、やってくれればよか
ったのです。
 
 野田首相は、
 「消費税増税に政治生命を賭ける」
 と言った瞬間に、
 「政権交代を実現した政治家としての政治生命」
 を、自ら、断ち切ってしまったのです。
 それはもう、皮肉というほか、ありません。
 
 もっといえば、民主党は、
 「政権交代を実現した政党としての政治生命」
 を終えてしまったのです。

 民主党は、一度下野し、顔を洗い、すべてを鍛え直して
出直すしかありません。
 しかし、実のところ、現在の日本と日本経済は、そんな
悠長なことを言っている余裕はありません。

 私たちは、いったい、何をしているのでしょう。



震災1周年の取材めも 3の後半・・・石巻から仙台空港に入りました。

2012年03月23日 00時56分12秒 | 日記

 石巻の港の被災状況を見たあと、石巻の市街地に
向かいました。
 市街地の海沿いの地域は、津波で、壊滅していま
した。

 この写真のように、1階部分、2階部分をを丸ごと
津波でもっていかれたという建物が、あちこちに残っ
ています。
 この建物を見ると、津波は、完全に2階の天井まで
達し、3階まで来ていたことが分かります。
 残った建物も、構造体がぐしゃりとゆがんでしまっ
ています。


 このビルは鉄筋コンクリートですが、津波によって
ものすごい力のかかったことが分かります。
 中にいたみなさんは、どうされたのでしょう。

 幹線道路に、これが転がっていました。

 赤い缶です。
 石巻の缶詰工場が、会社のシンボルとして工場に
設置していたものが、津波で流されてきたのです。
 1年たって、この缶を、震災の被害を記録するた
めに残すかどうか、議論になっているという報道が
ありました。

 幹線道路に沿ったスペースには、地震と津波で
破壊された建物や漁業関係の物資が、うずたかく
積まれています。

 いわゆる「がれき」ですが、しかし、これは、
人々がここに暮らしていた証です。破壊された
家の壁やドア、家電製品、家具、アルバムや
かばん、そういったものが、ここに積まれてい
るのです。
 これを「がれき」と呼ぶのは、しのびないこと
です。
 これは、ここに生きた人々の歴史であって、
決して「がれき」ではありません。
 ただ、では、なんと呼べばいいかというと、
難しいのも事実ですが。
 

 これは、獲った魚を入れた発泡スチロールの
容器の山です。魚が入ったままの容器もあります。
もちろん、魚はとっくに腐っていて、それが
ものすごいにおいを出しています。

 石巻には、日本製紙の有力な最新工場があります。
 この工場が津波でやられ、新聞や雑誌の発行に影響
が出ていました。
 そこで、日本製紙の工場に向かいます。

 着きました。
 これが、その工場です。

 なるほど、これでは、操業できないでしょう。

 この工場は、高台にあるのですが、ここまで
津波が押し寄せたのです。

 石巻から、次は、仙台空港に向かうことにします。
 高速道路が復旧し始めていたので、石巻のインター
チェンジに向かいます。
 そこで、驚くべき光景を目にしました。
 石巻の市街地も、ある地点を過ぎると、津波の
被害を受けていないのです。
 高台にあるとか、地形的に波が来にくかったとか、
理由があるのでしょう。津波の被害を受けていない
幸運な地域があるのです。

 たとえば、この写真を見てください。

 これは、石巻の海から少し離れた所にあるスーパー
の「ヨークベニマル」です。
 駐車場には普通に車が駐まっていますし、建物も、
被害を受けたようには見えません。
 営業している様子なので、入ってみました。

 驚きました。
 これは、店内の様子です。この写真だけ見れば、
みなさんの家の最寄りのスーパーと何の変わりも
ないでしょう。

 ごく当たり前に営業しています。
 買い物をする人々も大勢います。
 
 このスーパーのある地域は、海岸から数キロ
内陸に入っています。しかも、高架の高速道路が
あったりして、それも津波を防ぐ役割をしたので
しょう。

 同じ石巻にあって、ちょっとしたことが大きく
明暗を分けたようです。
 その明暗は、あまりに鮮明すぎて、なにか残酷でさ
えあります。

 高速に乗り、仙台市内を通過して、仙台空港に
入ります。
 空港の直前でいきなり飛び込んできたのは、
この光景です。

 向こうのビルは空港のターミナルビルです。
 その手前に、車が、これも山のように積まれて
います。
 仙台空港は、海に近かったため、滑走路も
ターミナルビルも、津波に完全に洗われてしまい
ました。
 その際、空港の駐車場にあった自動車が流れだし、
波が引いた後、滑走路にどっと放置されてしまい
ました。
 復旧活動に入った自衛隊と米軍は、とにかく
滑走路を使えるようにしようと、滑走路に残され
た車を、重機で、空港わきの空きスペースに
まとめたのです。
 それが、この車の山です。


 ものすごい数の車です。
 これをいちいち所有者に確認し、一台一台
処理するのかと思うと、気の遠くなるような作業
です。

 これは大変だというのが、素朴な実感でした。

 仙台空港から高速に乗り、仙台駅に行きます。
 東北新幹線は、すでにダイヤが通常に戻ってきて
おり、仙台駅ではやぶさをつかまえて、東京に
戻りました。

        *****

 震災一周年にあたり、被災地を取材した写真を
並べ、取材メモを4回にわたって、お届けしました。
 改めて写真を見ると、現在の私たちの日々の
暮らしとはあまりに違いすぎる光景に、愕然とします。
 一日も早い復興を願わずにはいられません。
 
 震災一周年の取材めものシリーズは、ひとまず、
これで終わりとします。


震災1周年の取材めも(3)前半・・・宮城編。塩釜から石巻に入りました。どこを見ても、破壊の跡です。

2012年03月18日 01時16分07秒 | 日記
 
 震災めもの3回目です。
 いわきから戻り、今度は、宮城県に入り、塩釜、石巻を
取材しました。
 震災から3か月後、昨年の2011年6月末のことです。

 仙台までは東北新幹線で行きます。
 仙台駅の周辺は、ご覧のように、目に見えるような被害は
ありません。

 阪神大震災でもそうでしたが、ちょっと場所がずれると、
被害を受けていないということがあります。
 ですから、それだけで判断すると、とんでもない間違いを
してしまいます。
 仙台もそうです。
 仙台の駅周辺は、なにごともなかったかのように活動を
していました。
 
 しかし、車で一時間ほど走って、塩釜に入ると、様子は一変
します。

 これが、塩釜の市街地です。

 塩釜は市街地が海岸沿いにあり、津波の直撃を受けました。
 家屋が津波にさらわれ、そこに、自動車が飛び込むという
悲惨な状態になっています。家に自動車が飛び込み、どうし
ようもなく、そのまま放置してあるという状況を、被災地では、
あちこちで見ました。

 塩釜の市街地の墓地では、津波で流されてきた自動車が
墓石にひっかかっていました。



 
 びっくりして、墓地の中に入ると、奥には、もっとたくさん
の自動車が、墓石と墓石の間に、からまるようにして、ごろごろ
と転がっていました。




 この写真を撮影したのは、2011年の6月から7月になる
ころのことです。
 いまは、いったい、どうなっているのでしょう。
 今度、同じ墓地を訪ねてみたいと思います。

 塩釜を離れ、復旧してきた道路を伝って、石巻市に入ります。
 石巻といえば、漁業です。
 なによりもまず、石巻港に行きました。
 すると、荒廃した風景が目に飛び込んできます。

 まず、港にある漁業協同組合です。

 ご覧のように、破壊されています。

 港の地上施設は、津波で、ほとんどがさらわれていった
ようです。
 写真を見てもらうと分かりますが、もうほとんど、建物
が立っていません。


 津波が洗い流していった港に、この青い建物が、ぽつんと
残っていました。


 この青い建物の横には、流されてきた船がごろりと横た
わっています。


 同じように、陸上に流されてきた船が、港のあちこちに
残っています。


 すさまじい破壊の跡です。






 呆然としながら港を歩いていると、強烈なにおいに気がつき
ます。
 腐った魚のにおいです。
 考えてみれば当たりますのことで、石巻港には、水揚げした
魚がたくさんありました。
 それが、2011年3月11日から、そのまま放置されている
のです。
 それが一斉に腐り始め、ものすごいにおいを出しているわけ
です。
 放置された魚は、鳥にとっては、絶好のえさになります。

 ご覧のように、ところどころ、海鳥で埋め尽くされています。


 私が近づくと、一斉に、ばーっと飛び立ちます。

 不気味なほどの数、不気味な光景です。
 こんなときに申し訳ないのですが、ヒッチコックの映画「鳥」
のような光景です。

 港は、どこを向いても、破壊の跡です。




     *****


 取材めも(3)は仙台、塩釜、石巻ですが、長いので、ふたつに
分割します。きょうは、取材めも(3)の前半とします。
 次回は、取材メモ(3)の後半です。
 




 





 



 


 

 

 



大震災取材めも2・・・きょう2012年の3月11日は一周年でした。原発の取材メモをお届けします。

2012年03月12日 00時34分23秒 | 日記

 きょう2012年の3月11日は、あの大地震からちょうど
1年にあたりました。
 地震が起きたのは、午後2時46分でした。

 私も、きょうは、午後2時46分に黙祷しました。
 被災した方に、もとの暮らしが戻るようにと、願わずには
いられません。

 あの大震災は、地震と津波、そして原発事故と、3つの段階
に分かれてやってきました。
 津波がなければ、こんなにひどい災害にはならなかったのに
と思います。
 さらにまた、原発事故さえなければ、これほどまでに苦しむ
ことはなかったのにと思います。

 きょうは、その原発事故の取材メモです。

 2011年4月24日、小名浜の海岸からいわき市の中心部
に入り、重苦しい空気のいわき市を見ました。
 幸い、営業しているレストランがあったので、そこでお昼を
食べ、福島原発に向かいます。

 いわきから福島原発まで、本来なら、高速の常磐道で行ける
のですが、常磐道は、地震のため、この時点では、途中で通行止め
になっています。
 そこで、国道6号線の水戸街道を北上し、福島を目指します。

 福島原発に行く唯一の道が水戸街道です。
 ところが、原発に近づく一般車両はほほとんどありません。 
 ご覧のように、道路は、がらがらにすいています。

私たち以外に、車を見ません。

 30分も走ると、検問所が見えてきました。
 通行止めで、移動交番車とパトカーがいます。


 ここが、福島原発から20キロの地点です。
 原発事故で、政府は、事故を起こした福島原発から20キロ
以内を、立入禁止としました。
 そこが、ここなのです。


 検問所といっても、閑散としています。
 事故を起こした原発に近づく車があるわけもないので、ここを
突破しようとする車もありません。
 だから、検問所といっても、閑散としているのです。

 私たちが着いたとき、ちょうどバスが中に入ろうと
していました。原発で作業する人たちを乗せたバスです。
 バスの横には「東芝」の文字がありました。
 もちろん、東芝は、原発のメーカーもです。
 メーカーとして、作業員を出しているのでしょう。


 よく見ると、パトカーには、「大阪府警」と書いてあります。
 大阪から応援に来たのでしょう。
 しばらくすると、交代のパトカーがやってきました。
 今度は、「兵庫県警」とあります。やはり、兵庫県から応援
に来ていたのです。

 ここが原発からちょうど20キローーということは、この
中に入ると20キロの内、こっち側は20キロの外というこ
とです。
 20キロの検問所の一歩でも外側にいる限りは安全という
規則、というか、了解なのでしょう。パトカーの警察官は、
みな、普通の服装をしています。スピード違反の検問となにも
変わりません。実際、事前の知識がないと、何の検問か
分からないでしょう。

 ところが、ここから一歩中に入ると、あの白い防護服を着
なければならないわけです。
 杓子定規というか、おかしな話ではあります。
 
 検問所のすぐ横を見ると、こんな看板がありました。

 Jヴィレッジです。
 サッカーの日本代表が合宿をするので有名になった施設で、
中には、サッカー場が何面もあります。東電が原発の
見返りとして、地元に寄付したのです。


 検問の警官に、
 「Jヴィレッジに入ってもいいですか?」
 と尋ねると、
 「立入禁止の区域ではありませんので、どうぞ」
 という返事です。

 Jヴィレッジは、原発の事故に対応する前線基地になって
おり、週刊誌などでは、ものものしい雰囲気であるかのように
描かれています。
 ですから、当然、立入禁止かなと思っていたのですが、
 「どうぞ」
 といわれて、拍子抜けしました。

 どうやら、「20キロ」という数字がすべてのようです。
 「20キロ」以内はだめです。
 Jヴィレッジは20キロを、たった200メートルほど
ですが、超えているので、問題なしということなのです。
 このへんは、文字通り、役所的です。

 親切な警官の名誉のために書いておきますと、これは警官
に問題があるわけでもなんでもなく、ただ形式さえ整ってい
ればOK--という役所の規制、役所の風土そのものという
ことになります。


 車でJヴィレッジの中に入ると、駐車場に、車がたくさん
駐まっています。東電や原発メーカーの車なのでしょう。



 駐車場では、原発の作業から戻ってきたバスを、水で洗い、
除汚していました。


 Jヴィレッジを車でくるっと一周しましたが、さすがに
広い施設です。サッカー場が何面もあります。野球では
これほどの施設はありません。
 しかし、サッカーの日本代表が、Jヴィレッジを使う
日は、また来るのでしょうか。
 立入禁止の区域外とはいっても、原発から20キロと
200メートルです。
 選手がいやがるのではないでしょうか。
 残念ですが、たぶん、日本代表が使う日は、しばらくは
来ないと思います。

 Jヴィレッジを一周して、国道6号線に戻ります。
 
 このJヴィレッジの周辺には、民家があります。
 民家の人たちは、避難しているようです。
 家は、からっぽです。
 かわいそうに、飼っていた犬が残されています。
 犬を連れて行く余裕がなかったのでしょう。
 私たちが行くと、うれしそうに寄ってきました。




 国道6号で、いわきに帰ります。
 Jヴィレッジを出てすぐ、国道6号沿いに民宿があって、
車がたくさん駐まって、時ならぬにぎわいです。
 
 これは、原発の作業に来る人たちの車です。
 Jヴィレッジに泊まりきれない人たちは、こうやって
近くの民宿に泊まっているのでしょう。
 がらんとした国道6号線で、ここだけが、人の気配が
しました。こういう場所もあるということです。

 次回は、石巻からの取材めもをお届けします。



大震災一周年・・・取材メモ①(2011年4月)小名浜からいわきへ。津波がさらったものは・・・。

2012年03月09日 01時54分51秒 | 日記

 あの大震災から、1年になります。
 2011年3月11日でした。
 
 私は、2011年4月24日、現地・福島県へ取材に入りました。
 それを取材報告として、当時、このブログで掲載しました。

 しかし、一周年にあたり、鎮魂の願いを込めて、ここでもう一度、
取材めもを振り返ろうと思います。

 東京から常磐道に乗り、茨城から福島に入ります。
 海岸の被害を見るため、常磐道をおりて、小名浜に向かいました。

 小名浜港で目に飛びこんできたのは、信じられないような光景でした。

 漁船が津波で打ち上げられて、陸の上で、横たわっています。

 港は、こんな風景です。


 これは魚市場でしょう。震災前は、水揚げした魚を、ここで集荷
していたはずです。

 しかし、津波が、洗いざらい流してしまい、市場の建物の骨組み
だけが残りました。

 遠目には無傷に見える建物が、ところどころ、残っています。

 しかし、近づいてみると、建物の中身はすべて津波にさらわれ、
外壁の一部と骨組みだけが残っているのです。
 
 骨組みだけが残ってしまった建物は、今回の津波の被害の特徴で、
このあと、至る所で、同じような建物を目にします。
 
 これもそうです。


 小名浜の港を離れ、海岸沿いにいわき市に向かいます。
 海岸沿いの被害は、港どころではありませんでした。

 ここは住宅地だったのですが、ご覧のように、家屋がまるごと、
津波でごそっとさらわれてしまっています。



 車が通れるように道路だけ空けたのでしょう。かえって、
道路の両側の被害がきわだちます。
 いま、がれき と書こうとしましたが、ここには、暮らしてい
た人たちの人生や暮らしが、すべて詰まっているはずです。

 簡単に「がれき」といってしまうのは、しのびない思いが
します。

 
 こうやって、1階は、壁が流されてしまい、骨組みだけ残った
という家が、あちこちにありました。2階はいったいどうなって
いるのでしょう。
 ここにも、暮らしがあったのですが・・・。

 これも、同じように、1階が津波でもっていかれた家です。
 
 しかし、高台に行ってみると、津波が届かなかった土地が
あります。わずかの差で、津波の被害を受けずにすんだ高台の
土地があるのです。

 たぶん、地元では、桜の名所なのでしょう。
 いつもなら、お花見の人々でにぎわうのでしょうが、この日は
人影もなく、満開の桜が、せつないように咲いていました。

 昼過ぎに、いわき市の中心街に入りました。

 しかし、ご覧のように、ここも人影がなく、
いわきの街全体が、重苦しい空気に、じっと耐えているよ
うな、そんな感じでした。


 幸い、レストランは営業していたので、ここで昼食をとり、
午後から、福島原発に向かいました。
 次回は、福島原発の取材めもです。

 

  




 



女子ジャンプの高梨沙羅さん・・・「2位だと残念」というのは、本当に素晴らしい。

2012年03月06日 14時28分26秒 | 日記





 女子スキージャンプの高梨沙羅さんの活躍は素晴らし
いですね。

 女子ジャンプのワールドカップが、この週末、日本で3
回開かれ、高梨さんは、初優勝しました。
 優勝が1回、2位が2回です。
 順番でいえば、初めが2位、次が優勝、最後の3回目が
2位です。

 まだ15歳の中学3年生です。
 素晴らしいですね。

 新聞各紙を読み比べましたが、今回は、読売の運動面の
記事が光っていました。
 その記事は、
 「2位に入って、『負けた』と残念がられる選手が登場
したのは、いつ以来だろうか」
 というのです。
 
 いいでしょう。

 なんだか、元気が出てくる記事ですね。

 たしかに、2位に入ると、ふつうは、「おめでとう」「よ
くやった」です。
 ところが高梨さんの場合、2位だと、もちろ「よくがん
ばった」ですし、評価が変わるわけでもなく、立派な成績
なのですが、それでもやっぱり、2位だと「残念」と言わ
れるのです。

 考えてみれば、こんな素晴らしいことはありません。
 優勝すると思われている。
 世界で一番強いんじゃないかと思われている。
 だからこそ、2位だと残念、なのです。

 これほど高い評価というのは、ほかにあまり聞きません。

 芳しいことが少ない日本にあって、これは本当に、元気
の出るニュースです。

 そして、「2位に入って、残念がられる選手は、いつ以
来だろうか」と書いた記事は、また、立派でした。
 視点と着眼点が素晴らしいと思います。
 記事は、こうでなくっちゃあ。


この大空を・・・日本の電機企業が元気だったころ、CMソングも元気でした。ここから巻き返しを。

2012年03月05日 01時10分37秒 | 日記

 思い出話のようになりますが、前回の続きを書いておき
ます。日本の電機各社のCMソングの話です。

 日本の電機各社は、戦後一貫して、日本経済を牽引して
きました。
 活力にあふれ、元気だったのです。
 CMソングにも、おのずと、その元気さが反映されます。

 今回は、製品をPRするCMソングではなく、会社その
ものをPRするCMソングです。会社のイメージソングと
いってもいいかもしれません。

 松下や東芝ではなく、今回はNECから始めましょう。
 NECはコンピューターの会社ですが、もともとは、通
信機器の会社でした。当時、通信といえば大きなパラボラ
アンテナがシンボルのようなもので、NECのテレビCM
も、大きなパラボラアンテナが登場します。
 大きなパラボラアンテナを背景に、工場の作業服を着た
社員が立ち並び、そこに、歌がかぶさります。
 
 「大空を この大空を
  飛び回る電波 NEC」
  
どうですか。
 この歌詞そのものが、もう、元気でしょう。
 いきなり、「大空を」ときて、さらに、「この大空を」と、
「この」がついて、いかにも力が入ります。
 そしてまた、「飛び回る」というのがいいですね。
 言葉とは素晴らしいもので、「飛び回る」という表現だ
けで、もう、元気はつらつという感じが出ます。

 いまや、NECは、ちまちました携帯電話が主力みたい
なことになり、大きなパラボラアンテナをバックに力感あ
ふれるCMソングが流れていたころとは、様変わりしてし
まいました。会社に力感がなくなってしまいました。

 次は、家電の王者だった松下電器です。いまはパナソニ
ックという名前になりました。
 松下は、もともと、「ナショナル」という名前を使って
いました。
その「ナショナル」といえば、この歌で決まりです。

 「明るいナショナル
  明るいナショナル
  ラジオ、テレビ
  なんでもナショナル」

 実際のCMソングでは、
 「あっかるい ナッショナール
  あっかるい ナッショナール」
 と歌っていて、ここでも、いかにも力がみなぎるという
感じでした。

 本当に、あのころ、というのは、昭和でいえば、30年
代、40年代、50年代、60年代、そして平成の最初の
ころーーということになりますが、あのころは、本当に元
気でしたね。
 
 松下は、のちに、高級な製品に「パナソニック」という
名前を使います。
 そのとき、こんな歌が出ます。 
 「世界のトランジスタ
  ナショナル・パナソニック」
 これも、最後の「パナソニック」を、「パナーソニーッ
ク」という感じで歌うのです。
 この歌詞は、ナショナルのパナソニックです、という感
じになりますね。

 松下に負けじと、電機各社は、同じようにCMソングを
作ります。
 有名なのは、東芝でしょう。
次の歌は、テレビでもラジオでもよく流れていたので、
どなたでもご存じだと思います。

 「ひかる ひかる 東芝
  走る  走る  東芝
  歌う  歌う  東芝
  みんな みんな 東芝
  東芝のマーク」

 どうですか?
 あ、知ってる、知ってるーーという感じでしょう。
 
 最近、この歌も、すっかり耳にしなくなりました。
 残念です。
 明るい歌です。
 本当に元気な歌です。
 日本は、元気だったんです。

 三菱電機にもよく知られた歌があります。
 「三菱電機の歌声は
  あなたと ともに
  きょうもまた
  三菱電機の歌声は
  明るい家庭に 響くよ
  三菱電機」

 歌詞そのものが明るいですね。
この歌も、最近は、さっぱり聴きません。

日立はどうでしょう。
 日立といえば、どちらかというと新しい歌になりますが、
次の歌が有名です。
 「この木 なんの木
  きになる きになる
  名前も知らない木ですが
  見たこともない木になるでしょう」
 
 かつて、日立が一社で提供しているテレビ番組がいくつ
かあり、その番組の最後に、必ずこの歌が流れていました。
 いまでは、一社でテレビ番組をまるまる提供すると言う
こと自体が少なくなってしまいました。
 この歌も、ほとんど聴くことがなくなりました。

歌は世につれ
 世は歌につれ
 とは、よく言ったものです。
 こうやって、電機各社のCMソング、イメージソングを
並べてみると、かつて、日本の電機企業がいかに元気だっ
たか、大変よく分かります。
 かつて、といっても、そんな昔ではありません。
 たかだか15年、20年前のことです。

 思い出話のように、元気だった時代を振り返っても、そ
れだけでは意味がありません。
 もう一度、日本経済に元気を取り戻すよう、知恵を出し
合っていかなければなりません。
 
 野田首相も、ただ、増税増税と言っているだけではだめ
です。
 一国のリーダーたるもの、その国に元気が出るようなこ
とをしてほしいですね。増税増税というだけでは、元気は
出ません。

 ここに挙げた歌が、過去の遺産になってしまわないよう、
ここから巻き返していかなければと思います。


三洋のサンカラー・・・電機メーカーにはかつて元気なCMソングがありました。

2012年03月02日 12時37分56秒 | 日記

三洋電機が消滅し、エルピーダが事実上倒産し、日本経
済には、なにか喪失感が漂います。
 こうしたニュースに接していると、日本経済の衰退が具
体的な形で目に見えてくるようです。
 政府も国会も、これを危機感を持って受け止めなければ
なりません。
 そうして、本気で対応しないと、日本経済は弱っていく
一方です。

 日本企業、とくに電機メーカーが元気だったころ、テレ
ビには、電機メーカーのCMが毎日たくさん流れていまし
た。特徴は、必ず、歌、そう、コマーシャルソングが一緒
にくっついていたことです。
 きょうは、日本の企業、日本経済が元気だったころのテ
レビCM、とくに、コマーシャルソングを取り上げてみた
いと思います。

 残念ながら企業として消滅してしまった三洋電機には、
CMソングがたくさんありました。

 とくにカラーテレビです。

 有名なのは、
 「うちのテレビにゃ 色がない。
  隣りのテレビにゃ 色がある。
  あらま きれい とよく見たら
  サンヨーカラーテレビ」
 というCMソングです。
 この歌をバックに、喜劇の榎本健一さんがコミカルな演
技をしていました。

 当時のカラーテレビには、メーカーがそれぞれ知恵を絞
った名前をつけていました。
 サンヨーは 「サンカラ―」です。
これを浜口庫之助さんが歌にして自分で歌っていまし
た。
「サンヨーだけのサンカラ―、 
 薔薇、薔薇、薔薇」
 というものです。

三洋のカラーテレビには、クイントリックス QUIN
TRICS という名前もありました。
クイントリックスのテレビをはさみ、日本人のおじいさ
んと、アメリカ人の年輩のビジネスマンが立っている。
日本人のおじいさんが、そのテレビの名前を説明して、
一語一語、「く い ん と り っ く す !」とい
う。こういうふうに発音してみなさいーーというわけです。
それを受けて、アメリカ人の年輩のビジネスマンが、ネ
イティブの英語で「Oh,quintrics!」と発音
するわけです。

 おじいさんは、「変な発音をするなあ」という顔で
アメリカ人を見て、もう一度、自分で発音してみせます。
 「これはねえ、く い ん と り つ く す !」
 それに対して、アメリカ人は、やはり、ネイティブな英語で
 「quintrics !]
 と発音します。

 すると、日本人のおじいさんは、アメリカ人の顔をし
げしげと見つめます。アメリカ人のくせに、なんでちゃんと
「くいんとりっくす」と発音できないんだーーというわけ
ですね。
 そしておじいさんは、あきれた顔で言います。
 「あんた、本当にアメリカ人?」

 これはおもしろかった。
 このおじいさんの役者さんは、坊屋三郎さんだった
ようにも思います。字が違うかな?

 ビクターは、「純白カラー」です。
その歌は
「カラーはビクター
 純白カラー」
 というもので、これを男性コーラスがメリハリの利い
た合唱で歌いあげていました。実際の歌声は「カラーはビ
クター じゅんぱっくカラー」という感じで力が入ってい
ました。

日立は、キドカラー でしたね。

ソニーは、もちろん、トリニトロンです。
タコの赤ちゃんが卵からかえるところをカラー映像で
見せて、「ぼく、タコのあかちゃん、うふふふふ」という
ナレーションをかぶせたCMは広く知られました。

こうやって振り返ると、カラーテレビが、日本の電機メ
ーカーにとっていかに大きな意味を持つ製品だったか、よ
くわかります。そして、それが日本経済の活力の源泉でも
あったわけです。

カラーテレビだけではありません。
洗濯機や冷蔵庫、いわゆる白物(しろもの)も、同じよ
うに主力製品でした。
見てみましょう。
シャープの洗濯機には「愛情」という名前がついていま
した。そういえば、何年か前まで、シャープの洗濯機に
は「愛情号」というステッカーがはってあったと思います。

 シャープの洗濯機「愛情」には、やはり、CMソングが
ありました。
 結婚式かなにかを背景に、花嫁さんの立場から歌ったも
のだったと思うのですが、それは、
「おみやげは なーに。
 シャープ せんたっき 愛情よ」
 という歌詞でした。
 これを、軽快なメロディーで歌うわけです。

 日立の洗濯機は「青空」という名前でした。
 これは、洗濯物が空にはためく映像をバックに、
 「ひったちの あーおーぞーらー」
 という歌が流れていました。

こうしてみると、このころのCMソングは、いずれも、
のびやかなですね。合唱団、あるいは、ソロで、
朗らかに歌い上げるのです。
 日本経済が元気だった様子が、そういうところにも出て
くるのだと思います。

 とりあえず、今回は、ここまでとします。
 これはまた、続きをやります。
 では。