いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

おかしな日本語(3)・・・「この選手は伸びしろがある」って、選手に失礼な言葉ですよ。

2012年01月31日 15時39分09秒 | 日記

 気になる日本語の3回目です。
 今回は、「伸びしろ」という言い方です。

 いつのころからか、とくに、スポーツの分野で「伸びし
ろ」という言い方をするようになりました。
 「あの選手は伸びしろがある」
 「彼の伸びしろは十分」
 というふうに言います。

 しかし、この言葉、なんという傲慢な言葉でしょうか。

 先週、テニスの錦織選手は、全豪でベスト8に入りま
した。素晴らしい活躍でした。
 今回の活躍を見ていると、いつかきっと、彼は4大大会
で優勝するのではないかと、そう思ってしまいます。
 錦織君は、いまや、世界的なプレーヤーになりました。

 ところがです。
 30日(月)の新聞の運動面を見ていると、ある解説者、
しかも、テニスプレーヤーではない解説者が、錦織選手に
ついて
 「錦織選手は、伸びしろがある」
 と書いていたのです。

 どうですか?
 おかしいでしょう?
 全豪でベスト8に入り、世界ランクでも20位に入った
選手をつかまえて、
 「彼は伸びしろがある」
 もないものです。
 
 この言い方が、上から目線の言い方で、傲慢な言い方だ
ということに気がついてほしいものです。

 どうおかしいか、ちょっと想像力を働かせれば、すぐに
分かります。
 この解説者だけではなく、どの解説者も、タイガー・ウ
ッズのプレーを見て、
 「タイガー・ウッズには、伸びしろがある」
 とは言わないでしょう。

 もし、相撲の白鵬に対し、面と向かって、
 「あなたは、伸びしろがある」
 と言ったら、横綱に張り倒されるかもしれませんよ。

別の言い方を考えてみましょう。
 錦織選手には、4大大会で優勝してほしい。
 また、優勝する可能性もある。
 それなら、
 「錦織選手には、もっともっと上に行ける力がある」
 あるいは、もっと簡単に
 「錦織選手は、さらに強くなれる」
 で、どうですか。
 これなら、いわれたほうも、気を悪くしないでしょう。
 
 タイガー・ウッズも、横綱・白鵬も同じです。
 「ウッズは、いまよりもっと強くなれるはずだ」
 「白鵬は、さらに強い横綱になれる」
 これなら、ウッズも白鵬も、気を悪くしないでしょう。

 それを、
 「彼には伸びしろがある」
 というのは、なんとまあ、えらそうな言い方でしょう。

 「しろ」というのは、本来、どういう場面に使ってきた
のでしょうか。
たとえば、紙を切って張り合わせるとき、ノリをつける
スペースを確保しておく必要があります。
このスペースを
 「のりしろ」
というのです。
本体そのものではなく、本体の横に張り出して確保して
ある余裕のスペースということですね。
本体ではなく、本体の横にある「余裕のスペース」とい
うことで、転じて、スポーツ選手に対して、
「この選手は伸びしろがある」
というようになったのでしょう。

本体だけで精いっぱい、もう、ぎりぎりに力を出してい
るという選手は、なるほど、そこからなかなか記録がよく
ならないかもしれません。
もう、これ以上ないといところまで鍛え、体を使い、そ
れで100メートル10秒を切れないのであれば、10秒
は切れないかもしれません。
しかし、すでに10秒フラットまで記録を出したけれど、
まだ、どこかに鍛える部分がある、どこかにフィジカルに
もメンタルにもまだ余裕があるーーという選手なら、10
秒を切ることも可能かもしれない。
それを、「伸びしろ」があるというようになったのでは
ないかと思います。

しかし、9秒台を出せるかどうかということよりも、一
生懸命に努力している人に、
 「この選手は伸びしろがある」 
 「彼には伸びしろがない」
 などというのは、そもそも、失礼でしょう。

 最近は、甲子園の高校野球でも、評論家が「なんとか
高校のなんとか選手は伸びしろがある」などというのを聞
きます。
 新年の高校サッカーでも、そういう表現を聞きました。

 しかし、それは、努力している選手に対して、ものす
ごく失礼です。
 こういう失礼な日本語が広がらないようにしたいも
のです。



予告編・・・民主党は熱い期待を背負って登場したのですが、いまや、官僚主導もいいところです。

2012年01月31日 11時05分53秒 | 日記

 民主党政権は、いったい、なんという体たらくでしょう。 
 2009年夏、あの暑い日に、多くの有権者の期待を担
って登場したのは、なんだったのでしょうか。

 国民は、あのとき、
 「自民党的なもの」
 「官僚的なもの」
 「霞が関が作ったもの」
 「自民党と霞が関」
 にさよならをするために、民主党を勝たせたのです。

 しかし、いま、野田政権がやっていることは、自民党時
代と何も変わりません。
 むしろ、自民党時代より、悪くなったといえます。

 最大の問題は、「政治主導」を掲げて登場しておきなが
ら、いまや、完全に「官僚主導」になってしまったことで
す。

 この問題は、日を改めて、稿を起こします。
 本日は、ちょっと気になる日本語の話を、先に書きます。

 これは、短い予告編でした。





ちょっとおかしい日本語(2)・・・「数日」って、何日のことだと思っていますか?「数」の意味は?

2012年01月29日 19時22分27秒 | 日記

 ちょっと気になる日本語の二回目です。
今回は、「数」です。
数といっても、1,2,3の数ではなく、数日、数年、
数人の「数」です。

 あるとき、こんなことがありました。
 50人ぐらいが出席したちょっとした講演会で、講師が、
 「数日というと、何日ぐらいのことだと思いますか?」
といい、続けて、「2日だと思う人?」と尋ねて、挙手を
求めました。何人かの手が上がります。
 そうやって、「3日と思う人?」から、4日、5日、6
日、7日、最後は、「8日と思う人」まで行きました。
 それを講師がまとめて、
 「2日とか3日と思うというところで手を上げた人は、
若い人が多いでしょう」
 「5日とか6日と思う人は、年配の人が多いんです」
 「若い人と年配の人では、時間の進み方が違うんですね」
 と言いました。

 へえ、そういう分析をする人もいるのかと、驚きました。
 でも、ちょっと変でしょう。

 というのは、数日を何日と見るかというのは、「数」と
いう日本語が、どのぐらいの数量を指すのかという、ただ
それだけの問題だからです。
 「数」が、人によって違うとすれば、それは日本語がお
かしいのです。
 そんなものが、年齢による違いなどであるはずがありま
せん。
 
 もうひとつ、例を挙げます。
 きょう、ネットでニュースを見ていたら、こんなまとめ
記事がありました。
 「いま、バブル崩壊から数十年たって」
 というのです。
 
 どうですか?
 違和感があるでしょう?
 というより、これははっきり間違っています。
 バブルが崩壊したのは、1990年代前半のことです。
 いまが2012年ですから、それから、まだ20年です。
 
 太平洋戦争が終わってから数十年ーーというのは、これは
ぴったりした言い方です。

 しかし、まだ20年しかたっていないのに、
 「いま、バブル崩壊から数十年たって」
 といわれると、バブル崩壊がえらい昔のことのように見
えてしまいます。

 ここでいえるのは、「1」とか「2」とかの単位を、「数
年」とか、「数日」とか言うとおかしいということです。
 2年を「数年」、2日を「数日」というと、おかしいで
しょう?

 20年を「数十年」というのは、間違っています。
 同じように、「数日を2日という人は若い人だ」という
のも、間違っています。
 それは、単純に、日本語がおかしいという話なのです。

 「数」で辞書を引いてみると、
 三省堂の新明解国語辞典には、「複数、原則は3以上を
指す」としてあります。
 岩波の広辞苑には、「ア 数の多いこと。例えば、数珠」
とあります。なるほど、数珠 じゅず ね。あれは、玉が
多いから、数珠というのか。勉強になります。
 ところが、続いて「イ 漠然と数の少ないこと。例えば
数日」とあります。一見、反対の解釈です。しかし、この
場合、「漠然と数の少ないこと」というのは、30日間も、
50日間もかかりませんよ、そんなにかかりませんよーー
という意味です。いいかえれば、1日では無理だけれど、
30日もかからないーーというわけです。1日と30日の
間、そんなに多い日数ではないけれどーーということです
ね。
しかし、広辞苑は、では「数」が3か4か5か6か、何
も書いてません。

 どうも、日本語は、「数」という言葉が何単位をいうの
か、明確には定めていないようですね。

 そこで、独自に整理をしてみましょう。
 数日とは何日か。
 1日ということはありえない。
 1日であれば、「1日」と書けばすむことです。
 2日でもない。
 なぜなら、日本語には、「一両日中」という言葉があり
ます。一両日中というのは、1日か2日で、ということで
す。
 逆に、10日というと、二桁にのってしまうので、感覚
的には、おかしい。
 8日とか9日も、10日に近い感じがして、ちょっとお
かしい。

 そうすると、数日というのは、3日ぐらいから7日ぐら
いまでではないか。
 しかし、3日を数日というのは、私は、個人的には、違
和感がある。

 結論的にいうと、「数日」というのは、「5、6日」のこ
とでしょう。
 数年は、5,6年
 数人は、5,6人
 数か国は、5、6か国
数万円は、5、6万円

 それが、正解ではないかと思います。

 少なくとも、1日や2日を、数日というのは、おかしい。
 3日を数日というのも、ちょっと違和感がある。
 
 振り返ってみれば、かつて、小学校では、「数日は、5,
6日のことです」と教えていたように思います。

 これまで長い間、「数日」というのは、5、6日ぐらい
という使い方をされることが多かったと思います。
 暗黙の前提だったといってもいいのではないでしょうか。
 最近、それが崩れてきたのかもしれませんね。
 


東大の秋入学のおかしさ・・・日本が低迷してきたいまになって、「国際基準」にというのはどうでしょう。

2012年01月26日 17時53分40秒 | 日記


 東大はじめ日本の大学が、ここへきて、秋入学を唐突
に打ち出したのは、どうしてでしょうか。
 太平洋戦争が終わってすでに67年がたちます。
 日本の教育制度は、戦後、アメリカの指導によって現
行の制度になったわけですが、67年の間に、いくらで
も、秋入学に変える機会があっただろうと思います。
 「アメリカに合わせる」というのであれば、むしろ、
戦後すぐ、アメリカの影響力が強力な昭和30年代のほ
うが、はるかに実行しやすかったでしょう。
 入学の時期がずれていて、たとえば、アメリカに留学
すると、日本の大学に戻ったとき、復帰する学年がおか
しくなるという状態は、戦後長い間、ずーっと存在して
いたわけです。
 「国際基準に合わない」という状態は、いま始まった
ことではなく、昔から、あったのです。
 そんなことは、みんな承知で、みんな当たり前のこと
として受け止めていました。
 それで、何の支障もなかったのです。

 それなのに、なぜ、いまになって、秋入学を打ち出す
のでしょうか。
 ひとつの答えは、
「日本の大学が、自信を失っているから」
です。

ついこのあいだ、1980年代から90年代前半にか
けて、日本は、経済力を軸にして、アメリカを追走し、
アメリカをしのぐ勢いでした。
 科学立国、電子立国という言い方も生まれ、日本の科
学界、日本の大学は、自信に満ちあふれていました。当
時の大学の課題は、日本への留学生をどう増やすかとい
うことでした。
 日本から海外に留学するのではなく、海外から日本に
留学にきてくださいというわけです。
 それならば、日本の入学の時期に、海外から来る人が
合せてネーーということになります。

 このころ、「秋入学」などと、日本の大学の関係者が
発言するのを聞いたことがありません。
 それは、「日本が世界の中心になっている」という思
いがあったからです。
 日本が世界の中心? 
 そんな馬鹿なと、いまなら思うでしょう。
 しかし、当時、「パックス・ジャポニカ」という言葉
があったのです。「日本による平和」という意味です。
 世界第二位の経済力、アメリカに迫る経済力を背景に、
「日本の経済力による世界平和」という意味です。

 もともと、第一次大戦の前、イギリスが「太陽の沈む
ことのない帝国」として君臨し、それを、「パックス・
ブリタニア」と言いました。イギリスによる世界平和で
す。
 しかし、第一次大戦、第二次大戦を経て、イギリスが
衰え、代わりに、アメリカが台頭しました。アメリカは
「世界の警察」として超大国の地位を得て、それを「パ
ックス・アメリカーナ」と呼びます。アメリカによる平
和です。
 そして、日本経済が圧倒的な力を持ち、アメリカをし
のぐように思えたころ、それを「パックス・ジャポニカ」
といったのです。バブルのころ、1988年、89年の
ころです。

 バブルとはよくいったもので、私たちは、「泡」でふ
くれあがったものを、日本の実力と勘違いしたのですね。
 当時、「日本の大学を国際基準に合わせて秋入学にし
よう」と提案したら、馬鹿にされたのではないでしょう
か。「何を言うんですか。世界の大学が日本の基準に合
わせればいいじゃないですか」と猛烈に反論されたので
はないでしょうか。
 
 日本の経済力(GDP=国内総生産)が、中国に抜か
れて世界二位に転落したのは、去年のいまごろ、ちょう
ど1年前のことです。
東大の秋入学の議論が出たのは、そういうタイミング
です。
日本経済が低迷したから、日本を国際基準に合わせま
しょう。そんなイメージです。
なんだか、なさけないでしょう。

日本が強かった80年代、90年代前半にすでに「秋
入学」を打ち出しており、今回、改めて「秋入学」を提
案するというのなら、まだしも分かります。
そうではなく、日本の力が落ちてきたから、日本の大
学の力が落ちてきたから、日本を国際基準に合わせたい
ーーというのは、志が低くはありませんか?




ダルビッシュの勘違い・・・彼はメディアへの対応を間違えています。プロとして、メディアへの対応を。

2012年01月23日 03時20分06秒 | 日記

 ダルビッシュ有選手がテキサス・レンジャーズに入るこ
とが決まりました。
 よかったですね。
 大活躍するよう、期待しています。

 しかし、苦言を呈しておきたいことがあります。
 ダルビッシュ選手のメディア対応です。
 メディアへの対応が下手すぎます。
 これは、彼が所属していた日本ハムファイターズが、メ
ディア対応をしっかり教えて来なかったからでしょう。
 ーーというより、日本のプロスポーツの選手は、おしな
べて、メディア対応が下手すぎます。
プロスポーツ界として、メディアへの対応を、もっと組
織的に、教える必要があると思います。

 ダルビッシュの対応の、では、具体的に何が問題なので
しょう。
 彼は、きょう22日の日曜日に至るまで、日本でたった
の一度も会見をしていないのです。
 会見どころか、メディアの取材にさえ応じていません。
 その代わりにというわけでしょうか、彼は、メジャーを
目指すことや、テキサス・レンジャーズと契約することな
どを、自分のブログやツイッターで書いているのです。
 メディアは、そのブログやツイッターを見て、記事にす
るという妙な事態になっています。

 彼がアマチュアの選手なら、別にそれはそれでいいので
す。

 しかし、彼は、プロの選手です。
 プロのスポーツ選手は、どうやって収入を得るか。
 もちろん、選手に直接おカネを払うのは、所属チームで
す。
 しかし、所属チームは、入場料収入や、テレビ・ラジオ
とくにテレビの放送権料で収入を得るのです。
 テレビだけではありません。新聞や雑誌が、試合の動向
や選手の活躍を記事にするから、選手やチームの人気が上
がるのです。

 そう。
 プロ選手は、テレビや新聞といったメディアによって、
支えられているのです。
 いま仮に、ダルビッシュや日本ハムの試合を、テレビが
まったく放送せず、新聞も一行も記事を書かないとすれば、
どうなるでしょう。人々は、ダルビッシュの動きを知るこ
とが出来ず、ダルビッシュのファンは、限られた人だけに
なるでしょう。

 アマチュアは、それでもいいのです。
 アマチュア選手が「競技に集中するため」という理由で、
メディアの取材を拒否したとしても、それは非難するわけ
にはいきません。
 アマチュアは、競技で収入を得るわけではありませんか
ら。

 しかし、プロの選手の場合は、そうはいきません。
 プロの選手は、その活躍をメディアが報じることによっ
て、収入を得るのです。

 考えてもみてください。
 トヨタや東芝は、車やテレビを生産し、それを消費者が
買うことによって、企業活動をしています。
 では、プロ野球の選手は、どうなんでしょう。
 プロ野球の選手は、トヨタや東芝と違い、なにか製品を
作っているわけではありません。だから、ファン(消費者)
は、製品を買うわけではないのです。
 プロ野球の選手は、我々にはできないようなプレー、そ
う、プロらしいプレーをして、我々に見せます。そして、
我々は、そのプレーに対して、おカネを払うのです。その
プレーを見るために、我々は、球場に足を運び、テレビを
見て、新聞の運動面やスポーツ新聞を読むのです。

 もちろん、球場に足を運べるファンの数は限られていま
す。球場のない地域では、球場に行きようもありません。
球場のある地域でも、仕事が終わってから、そうそう何度
も球場に足を運べるわけではありません。だから、圧倒的
に多くのファンは、テレビで中継を見て、ラジオで中継を
聴き、新聞で記事を読むのです。

 そうなんです。
 圧倒的に多くのファンは、メディアで、選手の活躍やチ
ームの動向を知るのです。
 メディアは、選手とファンの間の架け橋です。

 選手によっては「俺はメディアは嫌いだ」という人がい
るかもしれません。しかし、好きであろうと、嫌いであろ
うと、メディアが、選手とファンの間の架け橋であること
は紛れもない事実なのです。
 そこをしっかりと認識しないといけません。

簡単にいえば、
 メディアがなければ、プロスポーツというものは、成立
しないのです。

 ダルビッシュは、自分のブログでいろいろ書いているか
ら、それでいいじゃないかーーという声があるかもしれま
せんが、そういうわけにはいきません。
 
 ブログは、アクセスできる人が限られています。
 多くのプロ野球のファンは、今回、ダルビッシュが大リ
ーグのどのチームに決まるのか、契約金はどのぐらいにな
るのか、おおいに関心を持っていたでしょう。
 しかし、多くのプロ野球ファンのうち、「じゃあ、ダル
ビッシュのブログを見てみようか」と思うファンは、いっ
たい、どのぐらいいるでしょう。極めて少数だと思います。
 ダルビッシュ本人のファンは、ブログを読むかもしれま
せんが、熱心なプロ野球ファンであってもダルビッシュの
ブログまで読もうかというファンは少ないでしょう。
 テレビや新聞というメディアは、プロ野球のファンだけ
れどブログなど読むこともないファンに、ダルビッシュの
ニュースを伝えます。
 もっと大事なことに、テレビや新聞というメディアは、
プロ野球に関心のない人にも、ダルビッシュのニュースを
伝えます。

 ニュースでダルビッシュの記事を読んだサラリーマンや
家庭の主婦が、こういう会話をする。
 「ダルビッシュは、レンジャーズに決まったってね」
 「大リーグでどのぐらい活躍するんだろう」
 「ダルビッシュの契約金って、すごいのね」
 ーーこうした会話で、プロ野球の人気、プロ野球の裾野
が広がるのです。
 プロスポーツにとって、これは、大きいんですよ。
 こうした裾野の広がりは、プロスポーツにとっては、か
けがえのない財産になるのです。

 ブログでは、こうはいきません。
 ダルビッシュが自分の考えを自分のブログで書いても、
普通のサラリーマンや家庭の主婦は、ダルビッシュのこと
を話題にはしないでしょう。

 ダルビッシュは、メディアへの対応を間違えています。
 なにか勘違いしています。

 こうした流れを作ってしまったのは、たとえば、サッカ
ーの中田英寿選手だったのではないかと思います。
 彼は、メディアを無視しました。
 メディアが嫌いだったんですね。
 しかし、プロの選手が、それではだめです。
 自分が、どうやって収入を得ているのか、それを認識し
なければ、スポーツ選手が「プロ」を名乗る資格はありません。         



東大の秋入学には反対です・・・入学などの習慣や制度は各国の風土に根差しています。

2012年01月18日 14時16分10秒 | 日記

 東大が、入学を秋にする方針を考えているーーという
ことを、今朝の日経新聞が伝えました。この話は、去年
から話題として出ていましたが、今回は、東大の検討会
が中間報告をまとめたというものです。中間報告という
形になれば、話題の域を超え、オフィシャルな検討課題
となります。
 
 私は、これには、反対です。

 東大が秋入学を考えている理由は、欧米各国では秋入
学になっており、日本だけ4月入学にしていると、留学
などいろいろと不都合な面があるということです。ひと
ことでいえば、秋入学にして、国際基準に合わせるとい
うことになります。

 東大が秋入学にすると、ほかの大学も追随し、もしか
すると、高校、中学、小学校まで、右へならえというこ
とになってくるかもしれません。

 私は、秋入学には、絶対反対です。
 なぜならば、日本の春入学、欧米の秋入学には、それ
ぞれ、地域や文化に裏付けられた背景があるからです。
 この話は、当ブログでも、昨年取り上げたことがあり
ますが、改めて、書いておきます。

 日本の年度が春に始まり、欧米の年度が秋に始まるの
は、それが、それぞれの地域にとってベストシーズンだ
からです。
 日本の春は、桜とともにあります。
 え?桜? と言わないでください。
 桜は、よくもあしくも、日本のシンボルです。いろん
な場面で桜が出てきます。
 冬が終わって、うららかな春、桜の咲く下で、入学式
がある。

 ところが、日本の桜のシーズンである4月は、欧米で
は肌寒く、まだまだ冬のイメージがあります。欧米では、
5月から6月になって、ようやく、春が来ます。ようや
くというよりは、むしろ、突然、春が来るという感じで
す。
 それは、欧米諸国の位置する緯度が高いからです。
 ロンドンは北緯51度で、北海道どころか、樺太のあ
たりです。ニューヨークも青森あたりです。
 これに対して日本は緯度が低い。
 欧州が亜寒帯なのに対し、日本は温帯にあります。
 
 世界の主要都市の緯度を掲げておきます。
ストックホルム 59度
モスクワ 55度
ベルリン   52度
ロンドン 51度
パリ 48度
シアトル   47度
オタワ     45度
札幌       43度
ボストン    42度
ローマ     41度
シカゴ    41度
ニューヨーク  40度
青森 40度
北京      39度
ワシントン   38度
仙台  38度
ソウル 37度
新潟      37度
東京 35度
鹿児島 31度
エルサレム   31度
カイロ  30度
ニューデリー  28度
那覇   26度
リヤド       24度
ホノルル      21度

 こんな具合になります。
 こうやって並べてみると、東京など、かなり南の方に
位置することがわかります。
 中東というと砂漠があって暑いイメージですが、鹿児
島は、エルサレムやカイロとほぼ同じ緯度です。
 日本は、欧米に比べ、南にある国なのです。

 高緯度地方の欧米は、冬が長く、春の訪れが遅い。
 だから、4月を年度の開始にしようなどとは、間違っ
ても思わないでしょう。
 長く寒い冬から解放されて、どっと生命があふれ出る
6月こそ、ベストシーズンです。だから、6月に結婚式
をして、ジューン(6月)ブライドと呼びます。
 ただし、6月だと、もうすぐに夏休みの季節が来るの
で、年度開始を6月にするわけにはいかない。
もううひとつのベストシーズンは、秋です。
私はニューヨークに住んでいたことがありますが、ニ
ューヨークの10月は、本当に美しい。空気が澄み、さ
わやかで、日本の秋とはひと味違う素敵な季節です。高
緯度地方の秋は、まぎれもなく、ベストシーズンのひと
つです。
そこで、夏休みの終わった9月か10月を年度の始ま
りとし、ジューンブライドの6月を年度の終わりにもっ
てこようという感じになります。
さわやかな10月に入学式をし、生命のあふれる6月
に卒業式をしましょう。それが、欧米の風土であり、文
化です。欧米の大学が秋に入学し、初夏(6月)に卒業
するのは、そういう背景があるのです。それはまさしく
風土的背景です。

 同じように日本は、桜の咲くうららかな春4月に入学
し、生命のきざしを感じる冷涼な早春3月に卒業するの
です。それが日本の学校の風土です。

 ひさかたのひかりのどけき春の日に
 しずこころなく 花の散るらん

 敷島の大和心を人問えば
 朝日に匂う山桜花

 欧米の6月に相当するのが、日本の4月です。
 ジューンブライドが縁起がいいらしいというので、日
本でも結婚式を6月にすることがありますが、日本の6
月は梅雨です。そんな雨の季節に結婚式をやってもしか
らありません。どうしてそんなことになってしまうのか
というと、高緯度地方の欧米の風習を、はるかに緯度の
低い日本に、何の疑問もなく持ってきてしまうからです。

 その国ではるか昔から続いている習慣や風習、制度と
いうものは、その国の風土や気候に根差しています。そ
れは具体的には、緯度の高低であったりするわけです。

 それを、「国際基準に合わせるため」として、秋に入
学するなどとは、日本と欧米の風土の違いを無視した議
論としかいいようがありません。
 「国際基準」というのは、要は、「欧米基準」という
ことでしょう。
 高緯度地方の欧米の基準は、あくまで「高緯度地方の
基準」にすぎません。決して、「国際基準」などではな
いのです。

 東大の秋入学には、反対です。




大学入試センターの重大なミス・・・センターの役員は責任を取るべきでしょう。

2012年01月16日 11時14分31秒 | 日記

 大学入試センターで過去最悪のミスがありました。
 このミスは、本当に受験生に気の毒です。

 ミスはいくつかあったようですが、いちばん大きいのは、
試験用紙の配り忘れです。地理・歴史(6科目)と公民(4
科目)は、すべての試験用紙を試験開始前に配布しなけれ
ばならないのに、各地の試験会場で、地理・歴史(6科目)
の試験用紙しか配らなかったというものです。
 これでどうなったかというと、公民で受験しようとして
いた受験生には、そもそも試験問題がないーーということ
になってしまったわけです。
試験会場で受験生たちがそれを指摘すると、係員が「初
めは地理・歴史です」と答えたそうです。あるいはまた、
公民の受験生たちが公民の試験用紙を配るよう求めると、
係員が「それはできません」と拒否したというのです。
 
 係員たちは、どうやら、初めが地理・歴史の試験で、
公民は次の試験だと思っていたようです。
 受験生から指摘を受けて、係員たちは、あちこちに
確認の電話を入れたのでしょう。試験中に気がついたと
ころは、遅れて配布したということですが、受験生は
動揺したことでしょう。会場によっては、試験が終わっ
てから気がついたところもあるようです。ひどい話です。
 自分が受験生だったらと思うと、ちょっとやりきれな
い気持ちになります。
 
 もうひとつのミスは、英語のヒアリングで、英語を聞く
ICプレーヤーが、受験生の数より少ない会場があったと
いうのです。
これなどは、あってはならない単純ミスでしょう。

 地理・歴史と公民の試験問題の配布ミスは、なぜ起きた
かというと、今回の入試から、試験方法が変わったからで
す。地理・歴史と公民の試験問題の選択方法が変わったの
ですが、それを決めたのが昨年2011年の8月でした。
変更から実施までの期間が短かったため、試験会場の係員
が習熟しなかったというのです。
 英語のICプレーヤーの不足にいたっては、なにをかい
わんやでしょう。

 さすがに、大学入試センターが会見して、説明するとと
もにおわびしました。
 その会見をした惣脇宏・理事というのが、会見中、なん
とものらりくらりとした態度で、「おわび」はしたものの、
「責任」を感じているようには見えませんでした。「(受験
生)ご本人の希望に支障がないようにやっている」と述べ
ていますが、これは、ほとんど国会での官僚の答弁です。
 
この人は間違いなく官僚だろうと思い、経歴を見てみる
と、案の定、文科省のキャリア官僚でした。大学を出て
文科省に入り、2010年に大学入試センターに出向して
います。
会見の様子が今朝の朝刊に出ているので、写真を見てい
ただくとすぐわかりますが、この理事からは、責任を感じ
ていますという雰囲気が伝わってきません。
霞が関というのは、いつもこうなのですが、「自分が悪
かった」とは、絶対に言わないところです。

実際、会見では、記者から「不祥事と認識しているか」
と聞かれても、「ご迷惑をおかけした」と繰り返すだけで
した。「不祥事」と認めてしまえば、自分の責任になるか
らです。

これがいかに重大なミスか、たとえば、飛行機のフライ
トに比べてみるとすぐわかります。

全日空や日本航空の搭乗口で、大勢の乗客のチケットを
係員が間違えて「このチケットではお乗りになれません」
とやってしまったら、もめにもめるでしょう。もちろん、
航空会社は、乗客に補償するということにもなるでしょう。

もっと簡単にいえば、整備不十分なまま飛行機を飛ばし
て、飛行機が墜落したら、いったい、どうなりますか。
今回の入試センターのミスは、飛行機を整備不十分なま
ま飛ばしたのと同じことです。

試験問題や英語のICプレーヤーの配り忘れは、たとえば、
ジェット燃料の入れ忘れみたいなものです。飛行機が、
ジェット燃料を積み忘れて飛んでしまったら、どうなりま
すか。

なにかミスがあって飛行機が墜落したら、航空会社の社
長や役員は、責任を取って辞任します。
このミスはそのぐらい大きな問題であることを、大学入
試センターは、認識しなければならないと思います。

 そうそう。
 それから、大事なことを。
 受験生は、希望者には、全員、再試験なり、新しい試験
なりを実施して、救済しなければなりません。
 ーーそういうと、必ず、「すぐには新しい試験問題を作
れない」という声がセンターから返ってきそうです。センター
の役所的な対応は、そういうものでしょう。
 しかし、責任はセンターにあるのですから、たとえどんな
に日数がなくても、新しい試験問題を作って、希望者には
再試験しなければなりません。

 センターの理事長さん、理事さんは、もし、飛行機に乗ろ
うとして、「このチケットでは乗れません」と間違われた
ら、ものすごい抗議をするでしょう? いまは、センターが
そうやって抗議を受けているのです。

 とにかく、いまは、全力を挙げて、受験生を救済すること
です。
 こんなこと、文部大臣が
 「全員救済せよ」
 と、ひと声、官僚に指示すればすむことなのです。
 平野・新大臣、そうすれば、評価が上がりますよ。

おかしな日本語・・・「ETCがご利用可能です」には違和感があります。正しくは?

2012年01月12日 10時56分28秒 | 日記

私たちのまわりで耳にする日本語、目にする日本語で、
これはちょっとおかしいなあという表現を、折に触れて取
り上げたいと思います。
 きょうが第一回です。
 まず、高速道路のETCの話です。

 高速道路のETCは、当初は抵抗もありましたが、いま
ではもう、すっかり定着しました。
 料金所をそのまま通過できるので、車をとめて係員と現
金をやりとりする必要がなくなりました。
 その結果、渋滞が緩和されたのは間違いないと思いま
す。
 
 それはいいのですが、問題は、ETCの案内の音声です。
料金所が近づくと、こういう案内が流れてきます。
 「ETCがご利用可能です」

 これがおかしい。
 
 「ご利用可能です」という表現がおかしいのです。

 ちゃんと言うなら、
 「ETCがご利用になれます」 
 です。

 「ETCが利用可能です」
 というのであれば、問題はありません。
 素直に「利用可能です」といえばいいのに、丁寧に言
おうとして、「利用可能」の前にわざわざ「ご」をつけて
「ご利用可能です」とするから、おかしくなります。
 
 「ご利用」は、これだけで、ひとつの独立した言い方で
す。
 たとえば、
 「ご利用ありがとうございました」
 「ご利用ください」
 という具合です。

「可能」も同じように独立した言い方です。
 「それは可能です」
 という言い方になります。
しかし、「ご可能」とは言わないでしょう。
 「それはご可能です」
 と言ってしまえば、変な日本語になります。
 「可能」という単語は、尊敬語・丁寧語にはなじまない
のです。
 どうしても丁寧語にしたいのなら、
 「ご可能ですか?」 
 ではなく、
 「おできになりますか?」
 でしょう。

 「利用可能」というのは、「利用」と「可能」がくっつ
いた言い方です。決して「利用可能」というひとまとめの
熟語ではなく、「利用」と「可能」の二つの単語から成り
立っています。
 確固たる「四文字熟語ではありません。

 もし、「利用可能」を四文字熟語だというのであれば、
いくらでも四文字熟語が出来てしまいます。なにか、二文
字の単語に「可能」を付ければいいのです。
 たとえば、
 歩行可能
 運転可能
 入院可能
 食事可能
 喫煙可能
 ――という具合です。
 別に漢字の二文字でなくてもかまいません。
 たとえば、
 ゴルフ可能
 サッカー可能
 スキー可能
 カラオケ可能
 ――という具合ですね。
 
 いまここで挙げた「**可能」という表現は、丁寧語に
なじみません。
 やってみましょう。
 「ご歩行可能」
「ご運転可能」
「ごゴルフ可能」
「おカラオケ可能」 
――おかしいでしょう。

 「ご利用可能」は、それと同じです。
 
 いろいろ理由づけをしましたが、大事なのは、そういう
理由づけではありません。
 そうではなく、
 「ご利用可能です」
 という表現に違和感があるという、その直感です。

 「ご利用可能です」はおかしい日本語です。
 正しくは、
 「ご利用になれます」です。
 
お手すきにでも、ちょっと口に出して、言ってみてくだ
さい。

 (1)ETCがご利用可能です。
 (2)ETCがご利用になれます。

  どうですか?
  ETCがご利用可能ですーーというのは、どこか耳障
りでしょう。
ETCがご利用になれますーーというのは、日本語ら
しい優しい言い方です。  

 高速道路会社には、再考をお願いしたいですね。  

追伸
 きょうは、もう一本、原稿をアップしてあります。
 あわせてお読みいただければと思います。





iPhone最新型を使用して・・・音質が低下しました。音楽ファンには、ちょっとつらい。

2012年01月11日 23時53分29秒 | 日記

先週、スマートフォンを、
 au のアンドロイド携帯(カシオGsONE)から、
 同じauのアップル・iPhone4Sに換えました。
 その使用感を書いておきます。

 結論的にいうと、iPhone4Sは、音が悪くなりま
した。
 音楽を聴くときの音質が低下したのです。

 私は、初代のiPodからのユーザーです。
 2002年ごろに初代機を買いました。
 iPodは、当初、音楽専用のツールでした。
 
 ちょうど、ソニーのウオークマンが出てきたときのよう
に、iPodは音楽専用の機械だったのです。デジタル・オ
ーディオ・プレーヤーでした。
 それに携帯電話の機能を付与して、iPhoneになったわ
けです。それが2008年ごろのことです。日本で発売
され始めたのは、2009年ごろでした。
 私が買ったいまのiPhone4Sは、その後継機種です。

iPhoneと区別するために、iPodを、わざわざiPodタ
ッチと呼ぶようになりました。
 使ったことがない方には、ちょっと混乱するような
経緯ですが、事の始まりは、音楽専用機としてのiPodです。

 ところが、このiPodは、初代機から、音が悪かった。
 音楽専用機のくせに、音質が良くなかった。
 具体的にどうかというと、高音が伸びない。
 ステレオでいえば、スピーカーにベールがかかっている
ような感じで、高音がくぐもった音になるのです。

 私は、もともと、オーディオファンでした。
 オーディオファンからすれば、初代機のiPodの音は、
聴くに堪えないものでした。
 いまは、オーディオファンという人種が減ってしまい、
音に対する評価が甘くなっています。ですから、初めて
iPodを買いましたーーというユーザーには、iPodで聴く
音楽は、「いい音だなあ」という感じかもしれません。

 しかし、「いい音」を知るオーディオ・ファンか
らすれば、初代、二代のiPodの音質は、本当に劣悪なも
のでした。
 音質の悪さは、ほかのメーカーの1万円程度のそう高く
ないデジタル・オーディオ・プレーヤーと聴き比べても、
すぐに分かりました。
 とにかく、高音が決定的に出ないのです。

 そのころ、量販店のiPod売り場で、詳しそうな雰囲気
をした店員さんに、売る側からしてどう思うか質問してみ
ました。
 すると、その店員さんは、あっさりと、
 「ええ、音はいまいちだと思います」
 と答えてくれました。
 「やっぱりそうでしょう。でも、なんで、こんなに音が
悪いんでしょうね?」と聞くと、
 「うーん、iPodに録音するときの圧縮ソフトが悪いん
だと聞いていますが・・・」と答えてくれました。

 iPodに限らず、デジタル機器は、音楽を録音(セーブ)
するとき、デジタル・データを圧縮して録音します。その
ほうが、より大量に録音できるからです。
 再生するときには、圧縮した音を元に戻すのです。
 その圧縮ソフトがあまり良くないから、再生したときに
音が悪くなるーーというのが、説明でした。

 まあ、原因はともかく、売り場のスタッフが、iPodの
音質が悪いことを認識しているということが、私にとって
は、大事なことでした。
 ああ、やっぱり、音が悪いんだ。
 そう確認できたということです。
 2005年ごろのことです。

 アップルも、気がついていたのでしょう。
 その次に出た3代目のiPod、というのは、かなり薄型
の機械になり、洗練された形になった機種ですが、このあ
たりから、音質が改善されました。
 聴けるレベルになってきた。

 ちなみに、2005年ごろ、一番音質の良いデジタル・
オーディオ・プレーヤーは、ケンウッドの製品でした。
 ケンウッドは、さすがに、音響専用メーカーです。
 大変心地よい音を出してくれました。

 iPodを使っている友人に、このケンウッドの製品で音
を聴かせると、びっくりしたような顔をして、
 「え? こんなに音がいいの?
  じゃあ、これまで聴いていた音はなんだったんだろう」
 と答えました。

 それが、3代目のiPodから、音が良くなった。

 2年ほど前に、今度は、大きいiPadが出ました。
 これも買ってみました。
 結果は?
 音質が大変いい。
 これなら、オーディオ・ファンでも満足です。

 iPodもiPadも、音がいい。
 すっかり良くなった。

 それで、安心して、先週、iPhone4Sに換えたのです。

 ところが、まことにがっかりしました。
 音が悪くなっているのです。
 さすがに、初代、二代目のiPodほどではありません。
 しかし、高音が伸びない。
 やはり、ベールがかかったような音になっています。

 がっかりです。

 念のため、いま手元にあるiPadで音楽を聴いてみまし
た。こちらは、いい。
 iPadは、大変にいい音がします。
ということは、アップルは、ちゃんと、高音質のプレー
ヤーを作れる。

 それなのに、iPhone4Sは、音が悪い。
 せっかく、いい音を出す技術があるのに、いい音がしな
い。
 どうしてしまったのでしょうか。

救いは、初代、二代目のiPodほどのひどさではないー
ーということです。
 
 アップルは、いったい、どうしてしまったのでしょう。
 まさか、ユーザーは音質なんて分からないだろうーーと
考えたわけではないでしょう?
 でも、これは、はっきりユーザー軽視です。

 たまたま、NHKで平清盛が始まりました。 
 奢れる者 久しからず です。
 アップルも、こんなことをしていてはいけません。


大学生の出身高校・・・関東の大学は実際は「関西選抜」です。

2012年01月10日 17時55分49秒 | 日記

 ラグビーや駅伝などメジャーなスポーツに出てくる関
東の大学の選手が、出身高校で見ると「関西選抜」になっ
ているということを、さきほどの原稿で書きました。
 では、実際のところはどうなっているのでしょう。
 ラグビーの大学選手権で優勝して3連覇した帝京大学
の場合を見てみましょう。
 
 ラグビーの選手はフィフティーンで、15人です。・
 帝京の先発メンバーを、出身高校で分けてみましょう。
(1) いわゆる関西・・・大阪、京都、神戸、奈良、
滋賀、和歌山、福井

 京都成章   1人
 啓光学園   1人
 上宮太子   1人
 御所工業   1人
 伏見工業   1人
 御所実業   1人
  ・6人が関西の高校出身です。

(2) 関西以外の西日本
 広島工業   1人
 鹿児島実業  1人
   ・2人が、関西以外の西日本です。

(3) 関東
 国学院久我山 1人
 東京朝鮮   1人
 柏日体    1人
 桐蔭学園   1人
   ・東京中心の関東は4人だけです。

(4) 北海道
 美幌     1人

(5) 海外
 ニュージーランドなど  2人

 以上で15人となります。
 15人のうち、京阪神を中心とした関西が6人を占め、
最も高い比率になります。
 帝京の地元の関東は4人だけです。
 
 具体的に検証してみると、優勝した帝京大学のラグビー
部が「関西選抜」を中心としたチームになっていることが
よくわかります。

 天理大学も見てみましょう。
 15人の先発メンバーを出身高校で分けます。
(1) 天理高校
 6人。
 これは、付属高校からの進学者です。

(2) 天理高校以外の西日本の高校
 6人。
 内訳は、広島、三重、島根などです。

(3) 関東
 1人。
 川口とありますので、埼玉の川口でしょう。

(4) 海外
 トンガ 2人。
 
 以上のようになります。
 天理大学の場合、15人のうち6人が付属の天理高校の
出身で、さらにまた6人が西日本の高校です。
 天理大学のラグビー部が、地元を中心にして、西日本の
高校の出身者で結成されていることがよくわかります。

 帝京大学は、もう少し東京の出身者がいるのではないか
と考えていましたが、関西出身者がこんなに多いとはちょ
っと予想以上でした。

 誤解されると困るので書いておきますが、これが悪いと
いっているのではありません。大学生になれば、大人です
から、自分の判断と責任で、好きな大学に進学すればいい
のです。
 なにが問題かというと、関西の大学、とくに、京都、大
阪、神戸の大学に、高校生を引き付ける魅力がなくなって
いるのではないかーーということです。

 大学は、もっと、自分の魅力を。



大学ラグビー・・・関西の大学が久しぶりに活躍しました。東京への一極集中はよくありません。

2012年01月10日 11時33分34秒 | 日記

 ラグビーの全日本大学選手権で天理大が準優勝しまし
た。優勝したのは帝京大です。帝京大は大学選手権3連覇
でしたが、天理大はノーサイド直前まで同点で、まことに
惜しい準優勝でした。
 関西の大学は、長い間、低迷しており、決勝戦にたどり
ついたこと自体が、久しぶりのことです。
関西の復権のために、天理大の準優勝を喜びたいと思い
ます。

 
 3連覇したのは、帝京大が2校目です。
 初めて3連覇したのは同志社で、1979年から81年に
かけてのことでした。
 このときの同志社は、平尾や大八木を擁し、本当に強か
った。しかし、この同志社3連覇のあと、関西の大学は一
気に弱くなるのです
 みな1回戦で東京の大学に負けるのです。
 同志社もすっかり弱くなった。

 ラグビーだけではありません。
 ほとんどすべてのスポーツで、関西の大学は弱くなりま
した。例外は、フィギュアスケートと、アメリカン・フッ
トボールぐらいでしょうか。

 原因ははっきりしています。
 関西の高校生も、スポーツで活躍すると、どんどん東京
の大学に入ってしまうからです。もちろん、東京の大学か
らスカウトを受けるのです。
 箱根駅伝は関東の大学だけの大会ですが、それでも、選
手の半分は関西の高校を出ているのではないでしょうか。
 西脇工業、報徳学園といえば、高校の長距離の名門校で、
全国高校駅伝大会は、この2校がいつも優勝争いに絡みま
す。2校とも兵庫県です。
 ところが、この2校の卒業生は、多くが、東京の大学に
入ります。
 箱根駅伝に出たいというのがひとつの大きな動機にな
ります。
 だから、箱根駅伝に出場する有力大学のメンバーの出身
高校を見ると、「関西選抜」の趣になります。大学は東京
にあるのに、選手は「関西選抜」になるわけです。

 ラグビーも、高校の大会では、関西の高校が上位を占め
ます。大阪、京都、それに、関西ではなく九州ですが最近
は福岡が強い。
 ところが、その選手が、どんどん東京の大学に進学する。
 今年の大学選手権で3連覇した帝京大のキャプテンは、
奈良の御所工の出身です。その彼が、故郷・奈良の天理大
と戦って、勝ったわけです。天理大にしてみれば、彼がう
ちにいたら・・・と思ったかもしれません。
 ラグビーの有力大学はどこもそうですが、とくに、ひと
ころの明治大学はその傾向が強く、明治のラグビー部の出
身高校を見ていると「関西オールスター」のイメージにな
っていました。

 いま、あらゆるものが、東京に集まろうとしています。
東京一極集中です。
 政治は、これはもう、しようがない。
 経済も、大阪の地盤沈下がひどく、東京集中が加速して
います。
 しかし、スポーツも、文化も、科学も、なにもかもが東
京に集中してしまって、いいわけがないのです。
 それは、東京のためにもよくない。
 なによりも、日本のために、よくないのです。

 そういう状況にあって、天理大学の準優勝は、久しぶり
に明るい話題でした。



成人式・・・ここまでして、成人式の式典を開く必要はないでしょう。やめたらどうですか。

2012年01月09日 21時04分12秒 | 日記

 今年も、成人式の式典が、各地で開かれました。

 昼過ぎに、たまたま、新横浜の駅にいたのですが、新成
人たちでラッシュ状態でした。
 聞いたら、横浜市は、新横浜にある横浜アリーナで、全
市の成人式を開くのだそうです。都筑区や青葉区など近く
の区の新成人は午前、港北区や金沢区など遠い区の新成人
は午後、横浜アリーナで、式典を開くということです。

 しかし、第一感として思うのは、そこまでして成人式を
やる必要はないだろうーーということです。なぜ、そこま
でして、成人式をやるのでしょう。
 
 成人式は、いつのころからか、荒れるのが定番になりま
した。横浜の成人式は幸い荒れなかったようですが、しか
し、新横浜の駅周辺を、新調の羽織袴を着た男の子たちが
我が物顔で徒党を組んでうろつく様子は、新成人というよ
りは、暴走族のスペクターの集会という感じでした。駅ビ
ルでも、片手に持った缶ビールを飲みながら、エスカレー
ターで移動する姿がありました。20歳だからいいだろう
ーーということなのでしょうが、サラリーマンの街・新橋
でも、サラリーマンがビールを片手に駅のエスカレーター
に乗るということはありません。

 女の子たちはというと、みんな、振り袖の晴れ着を着て、
首には着物用のマフラーを巻いています。そうやって、晴
れ着姿の女の子たちが、あちこちで仲間同士で集まるため、
駅のコンコースは晴れ着のファッションショーです。華や
かでいいのですが、みんな、同じスタイルで、みんな同じ
顔に見えます。このスタイルで、新横浜の駅から横浜アリ
ーナに移動するのです。
 こういう様子を見ていると、日本は、豊かだなあと思わ
ずにはいられません。不況は、いったい、どこにあるので
しょうか。

 しかし、成人式は、それぞれの家庭なり、友人同士なり
でやればいいことで、行政が、こんなにまでして、成人式
の式典を開く必要はどこにあるのでしょう。
 新横浜では、万一に備えて、機動隊が待機していました
し、ついでに、右翼の宣伝カーまで出動していました。
いったい、これは、何なのでしょう。
 
 新成人も、そこまでして、行政が開く成人式に出たいで
しょうか。
 荒れる成人式で、新成人たちは、「こんなおもしろくな
い式に」とか「式がおもしろくねえ」とかわめきます。し
かし、行政が開く式に、おもしろいものがあるはずもあり
ません。行政はつまらないものと決まっているのです。
 それで成人かねえ。しっかりしてくれよ。 

 東京ディズニーランドでは、今年も、地元・浦安市の新
成人が、ミッキーマウスたちと成人式を開きました。

 しかし、ミッキーとお祝いするというのは、大人になる
式というよりは、むしろ、幼稚園の入園式じゃないかと思
います。
 去年でしたか、東京ディズニーランドで開かれた式典に
出た新成人が、テレビのインタビューに「東京ディズニー
ランドで成人式をするのは、浦安の誇りです」と答えてい
ました。
 これは、誇りどころか、世界の失笑をかいます。
 
 今年は、東北大震災のあとの初めての成人の日でした。
 東北各地では、新成人が、被災に負けず、成人式に出て、
「復興に向けてがんばりたい」というような抱負を述べて
いました。
 こういう成人式なら、大変、意味があります。
 見ている私たちも、応援しようという気持ちになります。
 がんばれ。

 しかし、東京ディズニーランドでミッキーに祝ってもら
っている新成人には、言う言葉もありません。

 断っておきますが、私は、ディズニーランドは、とても
好きです。
 しかし、それは、成人式をする場所ではないだろうと思
います。


断・捨・離は、間違っています・・・人生は、ムダにこそ、意味があります。聡明なムダが必要です。

2012年01月04日 13時26分29秒 | 日記

 身辺の整理や、ものの整理をどうするかというのが、え
らくはやっています。
 「断・捨・離」がそうです。
 また、20代の近藤麻理恵さん、略称・こんまりさんが、
人気になっています。

 共通するのは、「捨てる」ということです。ものを整理
するのは、捨てることだーーということです。
 「断・捨・離」という言葉そのものがそうです。
 近藤さんも、テレビで見ていると、とにかく捨てましょ
うという感じです。

 しかし、ちょっと待ってほしいのです。
 人生は、「ムダ」が大切です。
 ムダこそ、人生だと思うのです。
 ムダがあるからこそ、人生はおもしろいのです。

 誤解されると困るので、先に書いておきますが、この場
合、「ムダ」というのは、「聡明なムダ」を指します。
 部屋の床や廊下に脱ぎっぱなしで転がしてあるズボン
とかセーターを、聡明なムダとはいいません。それはタダ
のムダです。そんなものは、ちゃんと片づけたほうがいい
に決まっています。
 そうではなく、記念に撮った写真や、ノート、本、ある
いは、お土産の品、そういったものは、聡明なムダです。
なぜなら、そのひとつひとつに、その人の生活や人生が刻
まれているからです。
 
 最近、「老い支度」というようなことを盛んに言います。
 死んだあとに、思い出の品がたくさんあっても、残った
家族が迷惑だろうから、生きているうちに、そういうもの
を整理して捨ててしまうというのです。それを、老い支度
というわけです。
 冗談じゃありません。
 70年、80年、あるいは90年と生きた人がいる。そ
の人の思いでの品が残る。
 仮に80歳で死んだ人がいるとしましょう。そういう場
合、80年の人生を生きた人に敬意を払い、思い出の品が
どんなにたくさん残されても、家族が整理してやればいい
のです。
 80歳という人生を生きた人に、もっと敬意を払うべき
でしょう。 
 いまこの時代に、80歳になる人は、戦後の混乱期に1
0代を迎え、その後、戦後日本の復興を社会人として支え
てきたのです。その人たちの働きがあるから、いまの日本
がある。
 そういう人が死んで、たくさんの遺品が残ったとしても、
その人の80年の人生に敬意を払えば、家族、遺族、関係
者は、「おつかれさまでした」といって、静かに遺品を整
理してあげるのが当たり前です。
 それをせずに、老い支度だなんて、どうかしてますよ。

 いまの80歳だけではありません。
 どの時代にあっても、この地球で、長かろうたが短かろ
うが、ひとつの人生を過ごした人には、敬意を払うのが当
然なのです。
 
 こんまりさんの「捨てる」もそうです。
 この人の片づけ術をテレビで見ていると、とにかく、捨
てることに尽きます。
 しかし、この人自身は、まだ20代後半です。というこ
とは、40代、50代、60代の人とは、背負っているも
のが違うのです。この人は、まだ、背負っているものが軽
いのです。

 こんまりさんのテレビを見ていると、「思い出の品も、
何度も見ることはありませんから、捨てましょう」「見て
ときめく感じがしないものは捨てましょう」ということに
なります。
 しかし、こんまりさんと違い、40代、50代、60代
さらには、70代の人は、思い出だってたくさんあるでし
ょうし、ときめいたものもたくさんあるでしょう。
 それを、背負っているものの少ない20代の女性に「捨
てましょう」といわれて、「はい、そうですね」と分かっ
てしまう必要はないのです。

 人生は、ムダにこそ、感動がある。
 
 きのう、おとといと、お正月の箱根駅伝がありました。
ムダといえば、これほどのムダはないでしょう。東京から
箱根まで、車だと2時間もあれば行けてしまう。それをみ
んなで走っていく。箱根まで走って行って、じゃあ、なん
なんだというと、なにもない。ただ、それだけです。これ
ほどのムダはない。
 「断・捨・離」ということでいえば、箱根駅伝なんか、
まっさきに、「断・捨・離」ですよ。
 駅伝の間は、国道1号線を半分通行止めにして、ずっと
白バイがついていく。ドライバーにしてみれば、こんな邪
魔なものはない。こんまり流の「捨てる」でいえば、箱根
駅伝なんか、まっさきに捨てるものでしょう。

 それでも私たちは、箱根駅伝を見る。
そして、その箱根駅伝を、テレビは、2日とも完全中継
する。
 
 人生は、ムダにこそ、意味があるのです。
 「断・捨・離」とか、「老い支度」という言葉に、だま
されてはいけません。
 こんまりさんの「捨てる」にも、だまされてはいけませ
ん。
 人生は、ムダにこそ、意味があるのです。



2012年 元旦・・・新年おめでとうございます。

2012年01月01日 22時23分26秒 | 日記

 新しい年が明けました。
 2012年です。

 東京の元旦は、穏やかに始まりました。
 夜になって震度4の地震があり、揺れている時間が長く
て、ちょっとひやりとしましたが、大事には至らなかった
ようです。

 2012年がよい年になりますように。
 当ブログからも、新年のごあいさつを申し上げます。

 新年おめでとうございます。
 今年もどうぞよろしくお願いします。