いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

尖閣と情報発信・・・政府は日本の立場や考え方を海外に広報する必要があります。このままでは・・・。

2012年09月27日 00時53分38秒 | 日記

 尖閣をめぐっては、大変たくさんのコメントをいただき
ました。
 ありがとうございます。
 
 コメントの中で、オーストラリアの方からの指摘が、大変
気になりました。
 オーストラリアの報道では、日本が尖閣を一方的に占拠
したいという見方になっているーーというのです。

 これは、実は私も、当初から、ずっと心配していたこと
なのです。
 日本政府からの情報発信が、あまりに貧弱なのです。

 日本政府には、尖閣をめぐる日本の立場、主張、あるい
は、尖閣の歴史、今回の経緯などを、海外に説明しよう、
広報しようという姿勢が、ほとんど感じられないのです。
 日本のことを分かってもらおうという姿勢、日本のこと
を広く知ってもらおうという考え、簡単にいえば、「広報
マインド」がないのです。

 中国は、国連にアピールするなど、いろいろと手を打っ
ています。
 それを見て、日本政府は、官房長官が、広報体制を作る
という趣旨の発言をしていました。

 いかにも遅いのです。

 中国がアピールし始めてから、日本も広報体制をーー
というのでは、遅すぎます。
 遅いというより、やる気がない、といったほうがいいで
しょう。

 広報マインドがないのは、尖閣に限ったことではありま
せん。
 もともと、日本政府には、日本の立場を海外に知っても
らおうという姿勢がありません。
これは、政府の怠慢、外務省の怠慢、霞が関の怠慢です。
 日本の官僚組織には、「広報しよう」というDNAが組
み込まれていないのです。

 1990年の夏から秋にかけて、イラクのフセイン大統
領(当時)は、クウェートに攻め込みました。
 いわゆる湾岸戦争の始まりです。

 このとき、アメリカを中心とする多国籍軍が反撃して、
翌1991年春にクウェートを解放し、フセイン大統領を
退陣させました。
アメリカは、ブッシュ大統領(お父さんのほう)のとき
です。

 このとき、日本は、自衛隊こそ派遣しませんでしたが、
アメリカに対し、多額の資金援助をしました。
 総額130億ドル(1兆3000億円)もの資金援助を
したのです。
 もちろん、この資金援助は、我々の税金から拠出されま
した。

 ところが、政府・外務省は、これだけの資金援助をして
いることを、海外に向かって、ほとんど広報しなかったの
です。

 イラクがクウェートに侵攻してすぐ、アメリカを中心
とした多国籍軍が組織され、日本政府は、アメリカに対し、
10億ドル(1000億円)の資金援助をしました。
 
 しかし、これでは少ないという批判が出て、しばらくし
てから、30億ドル(3000億円)を追加して援助しま
した。
 その段階で、合計40億ドルの拠出です。

 ところが、これだけの援助をしていることを、日本政府
は、海外で、本当に何もPRしなかった。

 日本が当初の10億ドルに加えて、30億ドルを追加し
たころ、ニューヨークで国連総会が開かれており、アメリカ
の国務省の報道官が、湾岸情勢をめぐって記者会見をしま
した。

 たまたま、そのときの会見の様子を見たのですが、日本
人として、がっかりするような内容でした。 
 というのも、アメリカ人の記者が、国務省の報道官に、
こう質問したのです。

 「日本は何をしているのか。資金援助をするというが、
たった10億ドルしか資金を出していないじゃないか。ア
メリカ政府はどう考えているのだ」
 この記者は、日本がすでに30億ドルの追加援助をして
いることを知らなかったのです。

 この記者の勉強不足というよりは、当時、日本が30億
ドルの追加援助をしたことを、アメリカ人は、だれも知ら
なかったと思います。
 というのも、当初の10億ドルに加えて、すでに30億
ドルの追加援助をしたことを、日本政府がアメリカで積極
的に会見したり発表したりしたことはなかったからです。

 さすがに、アメリカの国務省は、30億ドルの追加援助
を知っています。
 そこで、国務省の報道官は、質問をしたアメリカ人記者
に、
 「いや、とんでもない。
  日本は初め10億ドルを出し、その後、追加で30億
ドルを出してくれました。
  だから、日本は、いま合計40億ドルを援助してくれ
ているのです」 
 と解説していました。

 変でしょう?
 日本が30億ドルを追加拠出したことを、日本政府では
なく、アメリカの国務省が一生懸命、説明してくれたので
す。
 変というより、日本人として、恥ずかしい限りです。


 日本は10億ドルと30億ドルで、合計40億ドルの資
金援助をしました。

 しかし、当時、日本経済は最強の時代です。
 当然、アメリカからは、日本の資金援助は少ないという
批判が高まります。

 そこで、年が明けて、1991年の初め、日本は思い切
って90億ドル(9000億円)の追加援助を決めました。

 初めは10億ドル、続いて30億ドル、そして、今度は
90億ドルで、合計130億ドル(1兆3000億円)で
す。

 すごい金額です。
 湾岸戦争の戦費に役立ててほしいというわけで、これを、
日本政府はアメリカ政府に渡したのです。

 このお金をまかなうために、たしか日本は、車の税金を
2年間ほど引き上げたはずです。
 要は、130億ドル、1兆3000億円というお金は、
私たち国民が税金で支払ったのです。

 さて、湾岸戦争は、首尾良く、多国籍軍の勝利で終わり、
クウェートは自由になりました。

 戦争が終わったあと、クウェートは、ニューヨーク・タ
イムズやワシントン・ポストに、大きな広告をだしました。
 広告には、
 Thank you,friends
 という大見出しがありました。
 「友人のみなさん、どうもありがとう」
 というわけです。
 そして、その下に、クウェートを支援した世界各国の名
前が書いてありました。
 アメリカ、イギリス、カナダ、フランス・・・と、たく
さんの国の名前が列強されています。
 ところが。
 その中に、JAPAN がなかったのです。

 これは、問題になりました。
 それはそうでしょう。
 130億ドル(1兆3000億円)も資金援助したのに、
クウェートが感謝した「友人」に、入っていなかったので
すから。

 130億ドルも援助したことを、日本政府は、ほとんど
まったく広報しなかった。
 だから、世界は、日本がそんな巨額のお金を出したこと
を知らないのです。

 こんなこと、日本国内だけで発表したってしようがない
でしょう。
 これは、海外で発表しないと、意味のないことです。

 ところが、日本政府、外務省は、こういうとき、本当に
海外で、何も広報しません。

 尖閣も、まったく同じ構図です。
 まず、尖閣は、ずっと日本の領土だったということを、
海外で説明しないといけません。昭和の初期には、ここに
海産物工場があり、日本人が働いていました。そのことを
政府・外務省が、海外で、きちんと説明しないといけませ
ん。もちろん、中国ででも、説明する必要があるでしょう。

 さらに、なぜ国有化したのか、その理由、目的を、しっ
かりと説明しないといけません。
 たぶん、中国は、日本政府が尖閣を国有化した狙いや背
景を、分かっていません。それは、日本政府が、ちゃんと
説明しないからです。

 そうしたことを、なによりも、アメリカや欧州、そして、
オーストラリア屋ニュージーランド、さらにはまた、ベト
ナムやフィリピンなど東南アジア諸国で、各国の政府に対
してだけではなく、各国の報道機関と、各国の人々に、ち
ゃんと説明しなくてはなりません。

 それには、各国で、外務省や現地の大使館が、積極的に
記者会見を開く必要があります。
 しかし、不幸にして、海外諸国で、日本の外務省や大使
館が、尖閣について日本の立場を説明する記者会見を開い
たという話は、聞いたことがありません。

尖閣のことを、日本政府は、海外に向かって、ほとんど
何も広報していないのです。
 
 これでは、もう、初手から負けでしょう。
 
 もとより、官僚に、そうした広報マインドを期待するの
は、無理です。
 であれば、政治家が、しっかりとした広報マインドを持
ち、官僚を指揮して、海外に情報発信しなくてはなりませ
ん。

 このままでは、尖閣をめぐり、日本は、「情報戦争」で
負けてしまいます。
 政治家でも官僚でもいい。
 とにかく、日本政府の奮起が必要です。


世界史の謎2ーーアジアの停滞、中国の停滞。

2012年09月24日 19時24分09秒 | 日記

前回の補足です。

人類史の先駆けとなる四千年の歴史を持つ
中国は、では、四千年間、なにをしていたの
でしょう。
紀元前、圧倒的な先進国だったのに、その後、
まるで停滞してしまったようにみえます。
四千年に及ぶ大停滞です。

これを、経済史では、アジアの停滞と呼ぶ
ことがあります。
あるいは、もっとはっきり、アジアの総体的
停滞と呼びます。

古代中国では、たったひとりの皇帝、たった
ひとりの支配者が、全国民をまるまる奴隷として
支配するーーという構図がありました。

これを、アジア的生産様式と呼ぶこともあり
ます。

ともかく、四千年の歴史を持つ中国が、なぜ
ずっと停滞してきたのかーーというのは、経済史、
世界史の大きなテーマなのです。




世界史の謎・・・中国など人類史の先駆けとなった世界の4大文明は、みな途中で挫折します。

2012年09月24日 01時42分00秒 | 日記

 世界史、というより、経済史で、明快な答えの出ていな
い問題があります。
 それは、世界で初めに文明が成立した地域が、どうして、
そのまま、先進国であり続けることが出来なかったのかー
ーということです。

 世界の歴史で、最も早くに文明の成立した地域は、4つ
あります。
 いわゆる世界史の4大文明です。
それは、

 エジプト
 メソポタミア
 インド
 そして
 中国

 です。

 中学や高校の歴史の授業で習います。
 いずれも、紀元前に成立した文明です。

 紀元前というのは、西暦の始まる前です。
 そのはるかな昔に、エジプト、メソポタミア、インド、
中国は、それはもう、圧倒的な文明を誇っていました。

 世界史、経済史の未解決の問題というのは、その4大文
明が、どうして、そのまま先進国でいることが出来なかっ
たのかーーということです。

 紀元前といえば、日本はまだ、縄文時代から弥生時代に
移行したころです。欧州など、未開の地でした。アメリカ
合衆国は、もちろん、存在さえしていません。

 そんなころに、エジプト、メソポタミア、インド、中国
の4つの地域・国では、絢爛たる文明が花開いていたので
す。
当時の欧州や日本など、比較の対象にさえなりません。
 
 中国のことを、よく「中国4000年の歴史」といいま
す。
 この4000年の歴史というのは、誇張でもなんでもあ
りません。
 
 紀元前にそれだけの高度な文明を持っていて、圧倒的な
先進国だったのだから、常識的に考えれば、普通に行けば、
そのまま先進国であり続けて、21世紀の現在も、圧倒的
な先進国であるほうが、当たり前のように見えます。

 文明だけではありません。
 それだけ高度な文明を持っていたのだから、経済的にも
豊かだったわけです。
 豊かな文化も持ちます。

 そうやって、せっかく人類最古の文明を築き、繁栄を
誇りながら、どこかで、おかしくなります。

 4大文明の国が、なぜ、21世紀のいま、先進国ではな
いのか。
不思議でしょう?
 
 紀元前の中国は、周辺諸国から見ると、仰ぎ見るような
巨大な存在だったのです。それがどうして、そのまま先進
国でいることが出来なかったのか。 

 それは、実は、経済史で、なお、解答の出ない大きな問
題となっています。

 尖閣で、中国の帝国主義的な領土的野望や、中国の人た
ちの荒れる反日デモを見ていると、とても、これは、成熟
した国とは言えません。
 なるほど経済規模は日本を抜いたかもしれませんが、そ
れだからといって、いまの中国を先進国とは呼べないで
しょう。

 いまの中国を見ていると、人類史上に先駆けて成立し、
発展した4大文明が、なぜ途中で挫折してしまったのかと
いう世界史の大きな謎が、未解決のまま、また改めて、眼
前に提出されたような思いがします。



柳条湖と満州事変・・・中国は歴史的事実を、反日のために利用します。これではいつまでたっても。

2012年09月19日 03時33分34秒 | 日記

 戦前の日本と中国の関係を考えるとき、歴史的に重要な
のは、
 1931年の柳条湖ーー満州事変 
 1937年の盧溝橋ーー日華事変・日中戦争
ーーの二つでしょう。

 満州事変は、1931年9月、柳条湖で当時の満州鉄道
の線路が爆破され、日本軍は、これを中国のしわざだとし
て、軍事行動に入ったものです。
 この爆破事件は日本軍の自作自演だったことが、戦後、
明らかになりました。

 盧溝橋事件は、1937年7月、北京郊外の盧溝橋で、
日本軍が中国軍に攻撃を加えたものです。これを機に、日
本政府は大規模な派兵を決め、日本と中国は本格的な戦争
状態に突入します。
かつては、満州事変という言い方になぞらえて、盧溝橋
事件を「日華事変」と呼んでいました。
 しかし、とても、事変などというものではなく、これで
本格的な戦争が始まったとして、いまでは、盧溝橋事件を
「日中戦争」の開始とすることが普通になっています。 

 このブログを読んでいただいている方でも、中学や高校
で、日中戦争ではなく、日華事変と習ったという方も多い
でしょう。私もそうでした。

 ただし、満州事変で、もう戦争は始まっているという見
方もあります。その見方を取る学者は、1931年から
1945年まで、日本と中国は15年間に及ぶ戦争状態
だったというので、「15年戦争」と呼んだりします。

中学や高校で、日本史、世界史を勉強するとき、満州事
変の柳条湖と、日華事変・日中戦争の盧溝橋が、ごちゃご
ちゃになって、覚えるのに苦労をしました。

 さて、柳条湖の爆破事件から81年にあたる今年の9月
18日、中国で、記念式典が開かれ、そのまま、尖閣諸島
の問題とくっつけて、大規模な反日デモに移行しました。

「柳条湖を忘れるな」というわけですが、そこに、「日
本は釣魚島を返せ」というスローガンがくっつきます。中国
人が尖閣を釣魚島と呼びます。そのうえに、さらに、
「日本帝国主義を打倒せよ」というスローガンも登場します。

 日本人があの戦争にどんな理由をつけたとしても、
柳条湖も盧溝橋も、日本軍が他人の国(もちろん中国です)
に入っていって、他人の国で戦争をしたことは、これはもう、
まぎれもない事実です。
 それだけは、歴史的事実として、きちんとおさえておく
必要があります。

 しかし、いまの中国は、歴史的な事実を、反日のために
使っています。
 81年前の柳条湖を、反日のために利用しているのです。

 それを見ると、正直、がっかりします。

 今回の9月18日の中国の動きを、新聞やテレビの報道で
見ていると、柳条湖のあった現地では大規模な式典を開いて
います。
 集まった人々は、柳条湖の日なのに、尖閣がらみのスロー
ガンを口にしています。
 そして、柳条湖の事件のあった時間に、街を行く車が、
一斉にクラクションを鳴らしていました。

 街を行く車のドライバーが、その時間に、一斉にクラク
ションを鳴らすというのは、どのドライバーも、9月18
日が柳条湖の日だということを知っていて、さらにまた、
事件のあった時間までちゃんと知っているということにな
ります。

 正確な日にちや正確な時間を、ふつうのドライバーが知
っているはずがありません。
 ドライバーがなぜ知っているかというと、政府が、柳条
湖の日を、教育しているからでしょう。教育だけではなく、
その日が近づくと、いろいろと国民に知らせるからでしょう。

 さきほども書いたように、もちろん、日本軍がよそさま
の国(中国)に勝手に行って、よそさまの国で戦争を始め
たのが悪い。

 そのことをおさえたうえで書きますが、81年前のこと
を利用して「反日」をあおるのは、もう、いい加減にして
もらいたい。
 
 1931年に日本が引き起こした柳条湖のことを持ち出
すのであれば、中国はなぜ、1840年にイギリスが中国
にしかけた戦争「アヘン戦争」のことを言わないのか。

 アヘン戦争はひどい戦争で、イギリスのアヘン商人が当
時の中国(清)にアヘンを売りまくっていたのを、中国が
取り締まったのがきっかけです。だいたい、アヘンを売っ
ていたほうが戦争を仕掛けるなんて、ありえないでしょう。
 イギリスは、この戦争に勝って、上海を手にいれるのです。

そして、アヘン戦争で、中国が弱いということを知った
欧米列強が、中国に続々と入ってくるようになったのです。

 ところが、いまの中国は、日本の柳条湖は非難しても、
イギリスのアヘン戦争に対してはまったく何もいわない。

 何を基準にして文句を言っているのか、まったく根拠が
ないのです。

 アヘン戦争は古いから言わない?
 いや、柳条湖だって、もう81年前です。

 何度も繰り返しますが、柳条湖で日本軍が中国軍に攻
撃を開始したという歴史的事実は、現代の日本人もしっか
りと学ぶ必要があります。

 しかし、81年前の柳条湖の事件で、現代の2012年
に生きる日本人を批判するのは、それは筋違いでしょうと
いうのです。

 そんなことになるのは、中国政府が、そういうふうに国
民を教育するからです。
 アヘン戦争を放っておいて、柳条湖だけを集中的に教え
て反日に利用するというのは、これを、「ためにする」
というのです。

 こんなことをやっていると、中国の人は、これから先、
何年たっても、柳条湖を反日に結びつけるでしょう。
 90年たっても、100年たっても、同じようなこと
が繰り返されます。


 しかし、81年前のことで、いまの日本人が批判される
と、批判された側はどうしようもありません。
 
 中国は、いつまで、こんな不毛なことを続けるのでしょ
うか。

 北京で何年も中国を取材してきた友人の記者に、聞いて
みました。
 彼は、こう答えました。

 「中国が、国民の反日感情をあおるのは、もちろん政策
的なもので、よく言われるように、国民の不満を政府に向
かわせないためだ。政府というより、共産党といったほう
がいいね。政府批判は多少しても大丈夫なんだが、共産党
批判をすると、彼らは許さない。
 とにかく、共産党批判は、絶対に許されないんだ。
 天安門事件で、共産党の一党独裁に対する批判が始まっ
た。政府批判ならまだよかったんだけど、共産党批判とな
ると、絶対にだめなんだよ。
 そこで、共産党批判をそらすために、使ったのが日本批
判ーーということなんだね」
  
 なるほど、大事なのは、政府ではなく、共産党だという
わけか。
 「そう。そういうことだよ」

 しかし、それはそれとしても、共産党への批判をそらす
ために日本をダシにするというのは、ちょっとやりすぎじ
ゃないのかね。
 「いや、それが一番効果があるからさ。
  私が共産党の幹部だったら、私でも、そうするよ。だ
って、それが一番、効果があるんだからね」

 がっかりする話です。
 これは、根が深いですね。
 この通りなら、日本と中国が分かりあえる日は、ちょっ
と、来ないかもしれません。



反米デモと反日デモーー唯物論的に考える必要があります。

2012年09月15日 22時35分04秒 | 日記

アメリカで作られた映画が、イスラムを
侮辱しているというので、イスラム諸国で、
大規模な反米デモが起きています。
テレビで紹介されたこの映画を見ると、
それはもう、稚拙としかいいようのない
映画です。製作者も、カリフォルニアに
住むひとりの素人のようです。
これを、アメリカが作った映画といわ
れると、アメリカの人たちも困ってしま
うでしょう。
なんで、こんなつまらない映画で、反米
デモが起きるの?ーーというのが、素朴な
感想でしょう。

その通りだと、思います。

ただ、ここは、唯物論的に考える必要が
あると思います。
こんなつまらない映画で大規模な反米デモ
が起きるということは、実は、それだけの
素地があったと考えるべきだということ
です。
イスラム諸国には、なにかちょっとした
きっかけで、大規模な反米デモが起きるだけの、
素地があるんだろうーーということです。

別に、この映画でなくてもよかった。
なにか、ひとつ、きっかけがあればよかった
のです。

その素地というのは、イスラム諸国にある
根強い反米感情です。
イスラム諸国に反米感情がなければ、
こんな映画は、笑い話になるだけです。デモ
なんか、起きないでしょう。

強い反米感情があるから、つまらない映画が、
引き金になるのです。

尖閣でも、同じことを指摘できます。
尖閣を機に、大規模な反日デモが起きる
のは、中国に、根強い反日感情があるから
です。
反日感情がなければ、ここまでの騒ぎには
ならないでしょう。

逆にいえば、これだけ強い反日感情があれば、
尖閣がなくても、いつか、なにか別の問題で、
やはり同じように、大規模な反日デモが起きた
だろうということです。

この問題の根っこには、中国の根強い反日感情
があるわけですから、そこを解決しないと、今後も、
永久に、同じような問題が起きます。尖閣がうまく
鎮静化しても、いずれまた、" 別の尖閣' "
が起きるでしょう。

中国の反日感情をなくす、あるいは、せめて、
薄めないと、また、同じことが起きます。
日本政府は、尖閣に対して的確に毅然と
対応するのは当然として、それとは別に、
中国の反日感情をなくすような働きかけ、反日感情を
なくすような政策をとらなければなりません。
それは、真剣に考えなければなりません。

根っこの原因を絶たないと、本当の解決には
なりません。それが、唯物論的に考えるという
ことです。










パラリンピック閉幕・・・「勇気と感動を与えたい」という言葉はありませんでした。選手たちは謙虚でした。

2012年09月12日 22時46分16秒 | 日記

 ロンドンのパラリンピックが終わりました。
 今回のパラリンピックは盛り上がりも大きく、テレビで
もしっかりと時間を取って放送しました。
 パラリンピックの選手を見ていると、それはもう、本格
的なスポーツ選手です。
 アスリートです。
 障がい者のスポーツという感じがしません。
 
メダルを取った選手のインタビューを見ていて、気がつ
いたことがあります。
 どの競技の選手たちも、インタビューに対して、なによ
りもまず、必ず、感謝の言葉を口にするのです。

 こんなぐあいです。
 「ここまで支えてくれたみなさんにお礼をいいたい」
 「支えてくれた家族やコーチ、職場の人たちに感謝した
い」 
 「家族やコーチ、みなさんのサポートがなければ、ここ
まで来ることはできませんでした」
 「支えてくれた人たちに本当にありがとうといいたい」

 選手のみなさんは、本当に謙虚で、感謝の心にあふれて
いるのがよく分かります。

 ですから、パラリンピックの選手が、
 「感動を与えたいと思ってやりました」
 「感動と勇気を与えられて良かったです」
 というのは、聞いたことがありません。

 大会の期間中、日曜日の朝のテレビ「サンデーモーニン
グ」で、張本勲さんが、パラリンピックに触れ、
 「パラリンピックを見て、私、本当に感動しました。障
がいがあっても、ここまでやれるんだというのを見ている
と、逆に、私たちのほうが、勇気づけられます。
  本当に、素晴らしいですよ。
  みなさんも、ぜひ、パラリンピック、見てください」
 と話していました。

 その通りだと思いました。

 障がいのある人たちが、障がいを乗り越えて、陸上や水
泳、テニス、柔道といった競技に取り組む。
 それは、本当に大変だと思います。
 
 選手は、障がいを乗り越えてスポーツに取り組むという、
そこに、すべての力を尽くします。
 力を尽くすというより、見ていると、本当に必死です。

 これだけ必死にやっていると、
 「感動を与えたい」とか、
 「勇気を与えたい」
 という言葉は、そもそも、口に出てこないのだろうと思
います。

 そういう必死さに、私たちは勇気づけられ、あるいは、
感動するのです。

 謙虚な人たちは、「感動を与えたい」「勇気を与えたい」
とは、決して言わないーー
 ということが、パラリンピックを見ていて、改めてよく
分かりました。

     

1年後の東日本大震災(その2)・・・福島原発20キロ圏から、Jヴィレッジに入りました。

2012年09月10日 21時11分02秒 | 日記

 前回の記事で、福島原発の20キロ圏の検問所まで
行ったことをお伝えしました。
 今回は、その続きです。

 20キロ圏の検問所のすぐ横には、こんな大きな看板
があります。


 もっと近寄ってみましょう。

 読めますでしょうか。
 Jーヴィレッジの案内です。
 
 大きな字で 
 J VILLAGE
 ジェイ ヴィレッジ
 と書いてあります。
  

 ホテルやレストランもあるようです。

 一番下に「サッカーグラウンド」とあります。

 その上の文字は読めますか?
 「楢葉町中高一貫教育施設」
 とあります。

 ここは、楢葉町です。
 東京電力が、福島原発を作る見返りに、楢葉町に
Jヴィレッジを寄贈したわけです。

 原発で、いっときにせよ、地元がいかに豊かに
なったか、これを見るだけでも、分かります。

 持ってきたガイガーカウンター(放射線量計)で、
放射線の量を測定してみました。


 0・7マイクロシーベルト

 という数字が出ました。

 東京で測ると       0・1マイクロシーベルト
 いわき市街地で      0・3マイクロシーベルト
 原発20キロの検問所で  0・7マイクロシーベルト

 という結果です。
 
 事故を起こした原発から20キロで0・7マイクロシーベルト
という数値は、予想より低いというのが、第一感です。
 少なくとも、これは大変だという数字ではありません。
 しかし、原発に近づけば近づくほど、放射線量の数値が上がる
ことだけは、この程度のガイガーカウンターでも分かります。

 ちなみに、このガイガーカウンターは、秋葉原にある計測器
の専門会社「東洋計測器」で買いました。
 ロシア製で、2万5000円也です。

 ガイガーカウンターは、去年、原発事故が起きた段階で、
秋葉原には、ロシア製のものと中国製のものしかありませんで
した。
 皮肉な話ですが、「危ない国」だけ、ガイガーカウンター
を作っていたということになります。

 もともと数が少ないこともあって、そのロシア製と中国製の
ものも、昨年の事故のあと、秋葉原でも、すぐ売り切れとなり
ました。

 昨年4月、秋葉原で探していると、一軒だけ、ガイガーカウ
ンターありますという店を見つけました。
 見せてもらいましたが、中国製のいかにも粗悪なガイガー
カウンターでした。
 「で、いくらになりますか?」
 「うーん、きのうまで5万円だったんだけどね、もう品切れ
になるから、きょうから6万円にしてるんです」
 という返事でした。
 これはさすがに買いませんでしたが、秋葉原で、値段が上
がっていく電機製品は、珍しい。

 それから1年たち、今年の4月末の段階では、しっかりした
製品が秋葉原に出ていました。
 値段も落ち着いています。
 日本製のカウンターも出ていて、それは、5-6万円ぐらい
から買えます。

 さて、0・7マイクロシーベルトという数字を見ながら、
検問所の警官に
 「Jヴィレッジに入れますか?」
 と尋ねてみました。
 すると、
 「ここからは入れませんが、向こう側に裏口があるので、
裏口からならいいですよ」
 という答えが返ってきました。

 案外、緩いものです。

 そこで、早速、車で裏口に移動し、入ってみました。


 ここは、もともと、グラウンドだったのでしょうか。
 いまは手入れする人もなく、原発に作業にいく人たち
の送迎車や、原発で使う重機の駐車場になっています。


 本来の駐車場も、車がたくさん駐まっています。
 それだけ、このJヴィレッジを拠点にして、原発事故
の対応に当たっている人が多いということです。
 昨年は、原発から戻ってきた車を、こうした駐車場で
水洗いして、除汚していました。

 Jヴィレッジの土手を見ると、ちょうど桜が
満開です。

 福島は少し北のほうにありますので、取材に行った
4月末が、ちょうど、満開の時期にあたりました。
 しかし、花見をする人もなく、ただ、桜だけが、
せつないほど咲き誇っていました。

 Jヴィレッジを出て、国道6号線に戻り、いわきに
帰ります。

 国道6号も、このあたりは、往来する車もなく、
がらがらです。

 ところが、Jヴィレッジを出てすぐのところに、
ときならぬ賑わいを見せている一角があります。

 民宿です。
 「民宿 お食事処 ひろの」
 と書いてあります。 

 その駐車場は、満車です。

 これは、原発事故に対応するために働いている人
たちが、宿舎にしているのでしょう。
 Jヴィレッジに泊まれないで、近くの民宿に来ている
わけでしょうから、たぶん、下請けの方なんでしょう。

 いま「賑わい」と書きましたが、決して、なにか
声が聞こえるわけではなく、これだけ車があるのに、
なにかシーンと静まりかえっています。
 息を潜めているという感じです。

 この「ひろの」というのは、広野町のことです。
 町名を民宿の名前にしたのでしょう。
 
 Jヴィレッジは楢葉町ですが、少し離れると広野町
になります。
 検問があるので、20キロ圏内には入れませんでし
たが、20キロ圏内には、富岡町、大熊町があります。

 いずれも小さな町なので、本来なら、もうとっくに、
合併してひとつの町なり市になってもおかしくなかっ
たんだろうと思います。
 しかし、ひとつの町になってしまうより、小さな町
のまま、それぞれの町が、原発の見返りの補助金を、
それぞれに受け取る道を選んだのでしょう。そのほうが、
どの町も財政的に豊かになります。

 もちろん、それを責めるつもりはありません。
 だれも、それを責めることはできないでしょう。

 しかし、原発が立地する地域は、どこも、そういう
構図になっているようです。
 原発のある場所の多くが、
 なんとか町とか、なんとか村
 となっているのが、まさに、それです。
 
 民宿ひろのから、いわき方面に少し戻ると、
満開の桜が目に入ってきました。

 行ってみると、なんのことはない、
 広野町役場です。
 満開の桜の向こうに、役場の建物が
見えます。
 休日だったこともあるのですが、人の気配が
ありません。

 この国道6号は、原発の前を通り抜けると、
宮城県まで行きます。
 途中、内陸側に入ると、避難で有名になった
飯館村に出ます。

 しかし、それは無理です。

 そこで、国道6号をいわきの手前で西に折れ、
川内村を目指しました。

 川内村に行く道は、細くて急な山道です。
 途中、対向車が来れば、すれ違えないという
ような細い部分も、何か所もありました。 
 なにかあったとき、この道を避難するのは、
ちょっと難しいと思います。

 ようやく川内村にたどりついたときには、
日が暮れ始めていました。
 川内村は、村の一部が20キロ圏に入って
しまい、その圏内の住民は避難を余儀なくさ
れました。
 私たちが着いたときも、人影がなく、
村全体が静まりかえっているようでした。

 建物が並んでいる場所がありました。


 農協の倉庫です。


 倉庫の横に、なにか表示計のようなものが
あり、明るく輝いています。
 なんだろうと思って、近寄ってみると、
これです。

 ガイガーカウンター(線量計)です。
 この場所の放射線の数値を計測して、
表示しているのです。
 
 数字が読めます。
 0・114マイクロシーベルト
 です。
 この数値なら、東京の数値と変わりません。
 正常な数値です。

 これなら、まったく問題ありません。
 しかし、いったん避難してしまったあとは、
なかなか、簡単には戻れないのでしょう。

 静まりかえった村の中で、
 線量計の表示だけが赤く輝いていました。




 
 

 
 








 



 



 




 







 
 


























 
 






 
 
















 
 







 























 








 
 

 














  





東日本大震災・・・いわき市から福島原発に車で接近しました。今年の4月末の取材です。遅ればせながら。

2012年09月10日 00時41分40秒 | 日記

 今年の4月末、震災で被害を受けた福島県に
取材に行きました。
 東京から常磐道に乗り、小名浜の港からいわき市
までの海岸線を北上し、被害の実態を見てきました。
 昨年、震災からまだ1か月あまりの4月末に、同じ
場所を取材したので、その「1年後」を取材に行った
ものです。

 今年は、取材直後に1回目の記事を、このブログ
にアップしました。いわき市に着く直前までのことを
書きました。
 ところが、その後、5月の連休に私が足を骨折し
たりしたため、2回目の掲載がのびのびになって
しまいました。
 
 今回、ようやく、その2回目を掲載します。
 2回目は、いわき市内から、福島原発の20キロ規制
の検問所までです。
 福島原発に、できるだけ近づこうというのが、取材の
ひとつの狙いです。
 さて。

 いわきの駅前に着いたのは、ちょうどお昼ごろです。

 昨年の4月にいわきに入ったときは、車も人影も少なく
ゴーストタウンのようでした。
 しかし、1年たって、今年の4月末は、ご覧のように
駅前を車が走り、街のにぎわいが戻っています。


 いわきの中心街です。
 ここも、車が何台も走っています。

 ただ、街の商店街を歩く人は、ちょっと少ないかな
という印象です。
 ここでお昼をたべました。

 取材に行く前に、秋葉原で放射線量計(ガイガーカウンター)
を買い、取材しながら、あちこちで測定してみました。
 東京では、0・12マイクロシーベルト ぐらいです。
 自治体や政府の発表では、東京で0・06マイクロ
シーベルトというような数字が出ていますが、どう測定
しても、0・1台になります。
 まあ、そのへんは、測定する場所でちょっとした違い
が出るのでしょう。

 いわきの商店街で測定してみました。
 0・32マイクロシーベルト
 という数字が出ます。
 東京より少し高い数字です。
 人体に影響のあるような数値ではありませんが、やはり、
福島原発に近いんだなということをうかがわせます。


 道路の向こうに見えるのは、
 いわきの地元紙「いわき民報」社です。

 レストランは、普通ににぎわっています。
 大学の予備校も高校生が通っています。
 市民生活が戻ってきている感じがします。

 食事を終え、福島原発に向かいます。
 いわきから、国道6号線、いわゆる水戸街道を
海岸沿いに北上します。
 
 北上するにつれ、走っている車が少なくなり
ます。
 30分も走ると、見えてきました。
 検問所です。
 福島原発から20キロ圏内は立入禁止で、ここが
ちょうど20キロの地点になるのです。



 赤いバスは、福島原発で仕事をする作業員を送り迎え
するバスです。
 バスの向こうに、警察の車両が駐まっています。
 
 寄ってみましょう。


 警官も出ています。

 立入禁止の標識があります。

 ただ、ご覧のように、そんなに物々しい雰囲気では
ありません。
 成田空港なんかのほうが、桁違いに厳しい検問態勢
です。
 まあ、考えてみれば当たり前で、こんなところを、
強行突破して原発に近づこうという車は、まず、
ないでしょう。

 ただ、去年の4月に来たときは、パトカーが
1台駐まっているだけで、もっと緩い検問でした。
 少しだけ、厳しくなったようです。

 さて、この写真のすぐ右手に、サッカーの
 「Jヴィレッジ」
 があります。

 東電が、福島原発の地元対策として寄贈した
施設で、サッカー場が何面もあります。
 サッカーの日本代表の合宿地でもありました。
 「ありました」と過去形で書きましたが、いまは、
福島原発で作業する人々の拠点となっています。
 
 ここでサッカーをするようになるのは、まだまだ
何年も先のことでしょう。

 次回は、Jヴィレッジの様子を報告します。





IBM、NEC、そしてレノボ・・・私たちは覇権の交代を目撃しているのでしょうか?

2012年09月06日 15時10分16秒 | 日記

 かつて、IBMがラップトップの主力パソコンとして
出したのが、THINK PAD(シンクパッド)です。
 真っ黒いボディで、キーボードの真ん中にカーソルを
動かす赤いポッチがついていて、非常にインパクトがあ
りました。

 これがIBMのシンクパッドです。

 ところが、2005年に、IBMは、シンクパッドを
含むパソコン事業を、中国の企業であるレノボに売却し
てしまいました。 パソコンが世界的に安売り競争にな
り、利益が上がらなくなったのです。
 これは当時、「あのIBMが、パソコン部門を中国に
売るのか」と、衝撃を持って受け止められました。
 いま、ビックカメラなど電機の量販店のパソコン売り
場に行くと、「レノボ」ブランドのラップトップが並ん
でいます。いまでは、ラップトップといわず、ノートパ
ソコンというようになりました。
 このレノボのノートパソコンは、当時のIBMのデザ
インを踏襲していますので、見ていると、かつての「シ
ンクバッド」を思い出します。

こちらがレノボです。IBMのシンクパッドそのまま
です。 


 きょう6日の朝日新聞に、興味深い記事が出ていました。
 シンクバッドは、1992年に、IBMの日本の研究
所で生まれたそうです。この研究所は、神奈川県大和市
にあり、名前も「IBM大和研究所」と呼ばれていました。
 当時、薄型のラップトップを開発するのは、日本の技
術が必要で、それで、日本の大和研究所が開発を担当す
ることになったということです。
 IBMの主力商品も、日本で作るしかなかったという
わけです。そのぐらい、当時の日本はすごかった。
 
 今年は、IBM大和研究所がシンクパッドを世に出し
てから、20周年になります。

 1992年ごろというのは、日本企業が世界を席巻し
ていたころで、アメリカは、日本経済の前に屈するので
はないかという懸念を持っていました。
 そういうなかで、IBMのコンピュータやパソコンは、
アメリカ人にとって、大きな誇りとなっていました。
 このころのアメリカの映画を見ると、主人公がパソコ
ンを買う場面で、「IBMのパソコンを真似した日本の
パソコンではなく、IBMのパソコンを買いたいんだ」
というセリフが出てきたりします。
 ところが、肝心要のシンクパッドが、日本で開発され
ていたと知ったら、この映画の主人公は、どう思ったで
しょう。

 ここには、企業の国籍という大きなテーマがあります。
 なるほど、シンクパッドは、神奈川県大和市の研究所
で開発されました。
 しかし、その研究所は、IBMというアメリカの企業
の研究所です。

 さて、このシンクパッドは、日本製なのでしょうか、
アメリカ製なのでしょうか。
 朝日の記事は、「国産シンクパッド」という表現をし
ていますが、しかし、神奈川県大和市で開発されたから
といって、単純に「国産」といっていいものかと疑問に
思います。

 レノボは、パソコンでは、NECとも提携しています。
 たとえば、NECの米沢工場の運営会社は、レノボの
子会社になりました。
 これも、かなり大きなニュースでした。
 NECの米沢工場というのは、NECにとって、パソ
コン生産の大拠点だったのです。
 それを、中国の企業に譲渡したわけです。

 朝日の記事によると、いまやレノボの工場となった山
形工場で、シンクパッドの試験生産が始まるそうです。
これを、朝日は、「国産シンクパッド」の復活と書いて
います。

 しかし、これを、そう簡単に「国産」といってしまって
いいのでしょうか。
たしかに、工場は、山形にあります。
しかし、会社は中国の会社(レノボ)です。
作った国は日本ですから、「中国製」ではないにして
も、企業が中国ですから、「中国企業製」といえるでし
ょう。

かつて、アメリカ企業のIBMは、シンクバッドを、
日本の神奈川県大和市の工場で開発しました。
いま、中国企業のレノボは、IBMから買い受けたシ
ンクパッドを、NECから買い受けた山形県米沢市の工
場で開発します。

どうしてこんなことになったかというと、日本企業の
力が落ちてきたからです。
1990年代半ばまで、日本経済、日本企業が強かっ
たころは、日本にある工場は、日本の企業が所有して運
営していました。
しかし、日本企業は、不振に陥った結果、日本の工場
を売却せざるをえなくなってきたのです。
そして、買い手が、中国企業だったということです。

IBMが大和研究所でシンクパッドを開発していた
ころ、日本企業は力があり、アメリカで、次々にアメリ
カの企業を買収してました。

いま、その日本企業が中国企業に変わり、アメリカが
日本に変わったわけです。
日本企業に代わって中国企業が力をつけ、日本の企業
や工場を買収するようになりました。

アメリカ、日本、中国と、時代とともに、役割を交代
してきたわけです。
もしかすると、私たちは、電機における覇権の交代を
目撃しているのでしょうか。
三洋電機やシャープの問題は、その文脈で語るべきこと
なのかもしれません。

歴史はめぐるといえば、それまでです。
しかし、これが電機の覇権の交代だとすれば、日本企
業が覇権を握っていた時代は、少々、短すぎました。

日本企業が、再び、覇権を取り戻すときは、来るでし
ょうか。
それは、日本経済そのものの課題です。
「日は、いつかまた、昇る」のでしょうか?



シャープの経営危機(続報)・・・私たちは日本経済の衰退に慣れっこになってしまったのでしょうか?

2012年09月05日 02時14分07秒 | 日記

 シャープの経営危機の記事には、たくさんの方にアク
セスしていただきました。
 コメントも、多数、いただきました。
ありがとうございます。

 シャープの経営危機は、これだけ大きな電機メーカーの
話なのに、新聞、テレビとも、なぜか扱いが非常に小さい
のです。
 なんでこんなに小さい扱いなんだろうと思うほど、小さ
な扱いです。
 
 それだけに、今回の記事に多くのアクセスをいただき、
関心を持たれている方が大勢いらっしゃるのを知って、そ
れがうれしいことです。

           ***

 いただいたコメントの中に、
 「シャープを救済したら、経営危機の企業は全部救済せ
よということになってしまいませんか」
 「救済する企業に、どこで線引きするのでしょう」
 というご意見がありました。

 どこで線引きするのか、というのは、その通りです。

 かつて、といっても、たかだか10年ほど前のことです
が、当時の百貨店のそごうが経営危機に陥り、政府が資金
を出して救済することになりました。
 もちろん、当時は自民党政権です。

 これには、多くの批判がありました。
 糸瀬さんという経済学者は、批判の急先鋒で、そのとき、
 「百貨店を税金で救済する国」
 という痛烈な本を書きました。
 糸瀬さんは、すでに病を得ており、それからしばらくし
て、残念ながら亡くなられました。

 批判があまりに強かったうえ、日がたつにつれて、そご
うの経営がいかにひどいかがさらに明らかになり、政府は、
一転、救済を中止しました。
 結局、そごうは、破綻します。

 ここで指摘したいのは、当時、そごうの経営問題は、毎
日のように新聞、テレビで大ニュースとして扱われたとい
うことです。
 新聞は、連日、一面トップの扱いでした。

 それに比べると、シャープの扱いは、本当に小さい。

 もちろん、シャープとそごうと、企業としてどちらが重
要かなどと言うつもりは、まったくありません。

 そうではなく、そごうに、あれだけの社会的関心が集ま
ったのだから、シャープにも、もっと大きな社会的関心が
集まってしかるべきだろうと思うのです。

 そごうの場合は、救済に動いたのは、国内の企業でした。
 一方、シャープの場合は、救済に動いているのは海外、
台湾の企業です。

 シャープの経営問題は、ニュースの価値判断として、も
っと大きなものがあるべきなのです。

 実は、三洋電機もそうでした。
 三洋電機は、パナソニックが吸収合併し、救済しました。
 しかし、その後、パナソニックは、三洋の白物家電(洗
濯機や冷蔵庫)を、中国の電機メーカーに売却してしまい
ました。
いま、この中国の電機メーカーが、日本市場で洗濯機を
販売していますが、それは、実は三洋の洗濯機です。

 この三洋をめぐる一連の動きは、非常に大きなニュース
です。日本を代表する電機メーカーが中国に売られていっ
たわけですから、ニュース価値としては、非常に大きなも
のがあります。

 ところが、なぜか、三洋の一連も問題は、テレビでも新
聞でも、それほど大きな扱いにはなりませんでした。

 そごうが経営破綻したときは、その前に、スーパーのマ
イカルが経営破綻しています。
 このときは、マイカルも大きな扱いとなっています。

 シャープや三洋電機のニュースの扱いは、そごうやマイ
カルと比較しても、本当に小さい。
 今回のシャープの経営危機で、私は、実は、そこに非常
に違和感を覚えるのです。

 もっといえば、危機感です。
 シャープの経営危機が、なぜ、こんなに扱いが小さいのか。
 シャープの経営危機に、なぜ、これほど社会的な関心が薄
いのか。
 
 なぜ、こんなに無関心なんだろう。
 そう思います。


 もしかすると、私たちは、バブル崩壊後の日本経済の長
い長い低迷に慣れっこになってしまい、企業の経営危機に
も不感症になってしまったのではないでしょうか。

 いや、企業の経営危機にとどまらず、私たちは、日本経
済そのものの衰退を、どこか当たり前のこととして受け止
め始めたのではないでしょうか。

 もし、そうだとすれば、日本経済の衰退は、さらに続き
ます。
 私たち自身が、日本経済の衰退に慣れっこになってしま
えば、日本経済の復活は遠いものになるでしょう。

 シャープの経営危機への経済的、社会的な対応は、シャ
ープというひとつの企業の問題ではなく、現在の日本経済
そのものの問題になっているように思います。
 このままでいいはずがないのです。





シャープの経営危機・・・いまこそ政府は民間企業を支援するべきです。

2012年09月03日 18時17分52秒 | 日記

 かつて、日本は、政府、というより、通産省(現経済
産業省)が産業育成に深くかかわり、「日本株式会社」
と呼ばれていました。
 戦後すぐから、1980年代半ばまでのことです。
 通産省が、当たり前のように、民間企業と組んで、新
しい技術や、新しい製品を企画・開発していました。
 それを「産業政策」と呼びました。

 たとえば、コンピュータがそうです。

 コンピュータといっても、パソコンではありません。
いわゆるメインフレームと呼ぶ大型の汎用コンピュー
タのことです。もっぱら、企業で使います。
 1970年代後半にパソコンが出るまで、コンピュー
タといえば、企業で使う大型コンピュータのことでした。
 当時は、IBMが圧倒的に強く、日本の電機メーカー
は、IBMに対抗するコンピュータをどう作るかが、大
きな課題となっていました。
そこで通産省は、日本の電機企業に対し、IBMのコ
ンピュータと同じ動きをするコンピュータを作って対
抗するよう、要請しました。
もちろん、IBMは、コンピュータの特許は公開しま
せん。日本企業は、IBMのコンピュータを独自に研
究・分析し、同じ性能を持ったコンピュータを作ろうと
いうわけです。
通産省は、これに資金まで出して、援助します。
いってみれば、国と企業が、二人三脚で、一体となっ
て、IBMに対抗できるコンピュータを作ろうとしたわ
けです。
そして、これは、成功し、日本の電機メーカーは、コ
ンピュータの世界で大きな地歩を築くのです。
そんなに昔の話ではありません。
これは1980年代の話です。

ただし、やりすぎもありました。
一部の日本の電機メーカーは、IBMの技術を探ろうと
したあまり、アメリカで産業スパイに問われ、何人か
の日本人社員が逮捕されるという事件も起きています。
ほめられた話ではありませんが、当時、日本の企業は、
IBMにキャッチアップするために、それぐらいの執念
を持っていたのです。

余談ですが、IBMのコンピュータにならったコンピ
ュータを、揶揄をこめて、IBMクローンなどと呼んだ
りしました。
これに対し、IBMクローンは嫌だとして、通産省に
反旗を翻し、独自技術でコンピュータを開発しようとし
た日本の電機メーカーもありました。
それが、NECです。

民間企業をそこまで「指導」する通産省も通産省です
が、それに反旗を翻すNECも、また、えらかった。
現在のNECを見ると、昔日の思いがあります。

さて、そのころの日本経済は、いま振り返ると、本当
に元気でした。
これから成長しようという活力にあふれていました。

ということは、政府・通産省は、元気な時代の日本で、
元気な企業を指導、支援しようとしていたことになりま
す。
よく考えると、ちょっと変でしょう。
簡単に言うと、大きなお世話でした。

政府が民間企業を支援する「産業政策」が良いことか、
悪いことか、これは、議論があります。

しかし、政府が民間企業を支援するべきなのは、本当
は、日本経済が低迷し、民間企業の力が落ちたときでしょう。
そう。
いま、日本経済は、長い低迷にあえいでいます。
そして、民間企業も、凋落の気配を見せています。

政府が民間企業を支援するときがあるとすれば、そう
いうときではないでしょうか。
いまこそ、大きなお世話が必要なときではないでしょ
うか。

たとえば、シャープです。

シャープは、経営危機に瀕しています。
台湾の企業が支援に入ろうとしています。
シャープは、非常に優秀な技術を持っています。
液晶がそうです。
太陽発電の技術もそうです。
液晶も太陽発電も、先端技術です。
伝統的な商品である白物家電にしても、豊かなアイデ
アにあふれています。
いってみれば、シャープは、日本のものづくりの技術
が詰まった企業です。

 その豊かな技術が、あっけなく、海外に流出してしま
ったもいいのでしょうか。

 シャープがいま必要な資金は、1000億、2000
億円の資金です。
 大きな金額ですか?
いや、政府が東京電力の支援に注ぎ込もうとしている
資金は、1兆円、2兆円という金額です。

いまこのときこそ、政府は、シャープの支援に乗り出
すべきでしょう。
シャープは、多くの従業員を抱えています。
その周辺企業となれば、さらにまた、多くの従業員を
抱えています。
シャープは、黒字企業として、多額の税金も払ってき
ました。もし、経営が破たんすると、この税金も国庫に
入らなくなります。

支援は、国会が休会していても、十分に可能です。

シャープだけではありません。
いま、少なからぬ日本企業が、同じように、経営危機
に見舞われています。

政府はいったい、何をしているのでしょう。
いまこそ、民間企業の支援に乗り出すときだと思いま
す。
消費税増税に政治生命をかけると言った野田首相は、
どこか大事なところで、間違えてしまったのではない
でしょうか。






アップルとサムスンの特許裁判に日本企業が出てきません・・・ソニーやNECは本当に凋落しました。

2012年09月02日 00時36分09秒 | 日記

 スマートフォンの特許をめぐり、アップルと、韓国のサ
ムスンが、世界各国で、訴訟で争っています。

 アメリカでは、アップルのほぼ全面勝訴となりました。
 日本では、サムスンの勝訴となりました。

 争いは、まだまだ続くでしょう。

 しかし、悲しいのは、ここになぜ、日本の企業が登場し
てこないのか、ということです。

 ほんの少し前までなら、アップルと市場を争う企業は、
サムスンではなく、ソニーやNEC、富士通といった日本
の企業でした。

 今回は、そうした日本の企業は、ほとんどといっていい
ほど、名前が出てきません。
 
 日本の電機メーカーの凋落は、目を覆わんばかりです。
 なかでも、ソニーはひどいものです。
 ソニーは、「落日」といっていいでしょう。

 ソニーの落日の原因は、
 文春新書「さよなら ぼくらのソニー」
 に、あますところなく、描かれています。

 出井社長(当時)に指名されたストリンガー社長(現会
長)が、ソニーをだめにしました。
 簡単にいえば、ソニーは、ストリンガー社長の時代に、  「ものづくり」
 をやめたのです。

 アップルのスマートフォン「iPhone」は、その土
台となったのが、「iPod」です。
 iPodは、いわゆるデジタル・オーディオ・プレーヤ
ーで、音楽を、本体のメモリーに直接デジタル録音し、再
生するのです。
 CDも、パソコンを介してiPodに録音するため、i
Podは、CDがいりません。
 だから、iPodは、非常に小さなサイズとなり、シャ
ツのポケットに入れることが可能になりました。
 iPodは世界的な大ヒットとなります。
 このiPodに、電話機能、通信機能をつけたものが、
iPhoneです。

 iPodが出たのが、2002年から2003年にかけ
てです。
 それから10年かけて、アップルは、スマートフォンの
覇者となったわけです。

 10年というのは、ITの世界において、決して短い時
間ではありません。むしろ、十分に長い時間です。

 その長い10年に、ソニーは、いったい、何をしていた
のでしょうか。
 アップルを率いてきた故スティーブ・ジョブズ氏は、i
PodとiPhoneを開発しているとき、
 「ソニーは何をしているんだ」
 と、ソニーのことをずっと気にしていたといいます。

 アップルは、ソニーこそ強敵と考えていたのです。

 ところが、その間、ソニーは、iPodやiPhone
に対抗できるような商品を出せませんでした。
 というより、作りませんでした。

 ソニーはもう、「ものづくり」をやめてしまったように
見えます。

 ソニーだけではありません。
 ITの分野で、忘れてはならないのは、NECの凋落で
す。
 NECは、パソコンで時代をリードし、1980年代か
ら90年代にかけて、圧倒的な力を持っていました。
 ところが、NECも、ソニーと同じように、ものづくり
をやめてしまったように見えます。
NECは、えらく小さな企業になってしまい、売り上げ
は、全盛期の半分程度にまで減ってしまいました。

         ****

 スマートフォンで、日本の企業は、なぜ、失敗したのか。
 これから先、どうすればいいのか。
 日本の電機企業は、復活できるのか。
 
 これはもう、電機企業だけの話ではありません。
 日本経済そのものに関わる話です。
 
 民主党も自民党も、国会で、詰まらない政治的な駆け引
きをしている場合ではありません。
 
 民主党と自民党が、政治的な駆け引きをしている間に、
日本の電機企業の凋落は、いよいよ、ひどくなるのです。