いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

再び統一球の話です・・・プロ野球の試合から「快音」が消えました。野球がつまらなくなりました。

2011年09月30日 02時24分04秒 | 日記

 プロ野球の統一球の話を、また書きます。

 東京ドームで、巨人ーヤクルト最終戦を見てきました。
 幸い、そこそこの打撃戦だったのですが、試合を目の前で見てい
て、最後まで違和感がありました。
 この違和感はなんだろうと考えていて、そうかと、気がついたこ
とがあります。

 打球音、打球の音です。
 投手が投げ込んできた速球を、打者が打ち返すとき、快音が響か
ないのです。

 去年までは、打者が速球をはじき返すと、
 「カーン」
 という乾いた鮮やかな音がして、それが快かったのです。
 木のバットなのに「金属音」という表現がぴたりと当てはまるよ
うな、鋭くて高い音がしていました。
 
「カーン」とか「コーン」という感じのいい音が、響き渡って
いました。
 まさに、「快音」という感じでした。

 ところが、今年から採用された統一球では、カーンという乾いた
快音がしません。
 実際にドームで見ていると、打者の打った球は、
 「ガキッ」「ガキ」という鈍い音にしかなりません。

 右打者のレフト前ヒットでも、「ガキッ」という感じの鈍い音で
す。「カーン」という音にならないのです。
 見に行った試合では、ホームランも出ましたが、ホームランでさ
え、「ガツン」という音です。
 これまで、ホームランは、文字通り「カーン」という金属音を残
してスタンドに飛び込んでいました。
 新聞の記事でも、たとえば
 「小笠原の打球は快音を残してレフトスタンドまで飛んでいっ
た」という書き方をしていました。
 統一球になって、それがなくなってしまったのです。

 翌日から、テレビでナイターを見るときにも、注意して見るよう
にしました。
 すると、やはり、打者がボールを打つとき、
 「ガツッ」とか、「ガツ」という音にしかなりません。
 ヒットが出ても、カーンという音ではなく、ガツンという鈍い音
なのです。

 これは、野球をつまらなくしてしまいました。
 打者が速球をはじき返すときの快音は、野球を構成する重要な要
素だったのです。
あの、カーンという快音は、野球になくてはならない要素だった
のです。
 それが、統一球で消えてしまいました。

 飛ぶ、飛ばない、というだけではありません。
 音までつまらなくなりました。

 本当に、プロ野球がつまらなくなってしまいました。

 ひとことでいえば、爽快感がなくなりました。
 爽快ではなくなってしまったのです。

 統一球を導入したのは、意味がありませんでした。
 統一球は失敗です。
 来シーズンからは、元のボールに戻すべきだと思わざるを
えません。
 




スマートフォンの失敗の研究(2)・・・東芝のジェニオの実物です。素晴らしいですよ。

2011年09月29日 00時44分34秒 | 日記

 日本は1997年、iPhoneやアンドロイドよりはるかに
先駆けて、スマートフォンを出していたーーという話を書いて
います。
 そのひとつが、東芝の「ジェニオ」です。
 97年に買った「ジェニオ」の実物が、手元に保管してありま
した。
 今回は、その写真を紹介します。

 まず、ジェニオの全貌です。
 手前にあるのは、サイズを比較するために置いたシャープペン
シルです。


 どうですか?
 デザイン的にはちょっとごつごつしていますが、見るからに
スマートフォンでしょう。

 このジェニオは、透明なカバーがあって、カバーが開きます。
 開けたところをご覧になってください。

 なかなかしゃれているでしょう?

 付属のタッチペンで画面を触って操作します。
 その画面の左側に、操作するコマンド群が並べてあります。
 コマンド群のアップを見てください。

 ご覧になれますでしょうか。
 左上に「インターネット」とあります。
 すでにインターネットに接続できたんですね。
 真ん中あたりには、
  「ノート」「分類」
 とあります。
 これは、ジェニオに文書を記録しておくコマンドです。

 そのすぐ下には、
  「スケジュール」「アドレス」
 があります。
 その日の予定を書き込んだり、メールアドレスを記録したりする
ことができたのです。
 
 さらにその下には、
  「メモ」
  「アプリケーション」
 があります。
 メモには、文字通り、メモを書き込むことができました。
 アプリケーションは、非常に大事で、ジェニオ用のソフトを
このコマンドで操作するのです。
  
 一番下には、「メニュー」もあります。

 どうですか?
 いまのスマートフォンと、ほとんど変わらないでしょう。
 スマートフォンとして、十分な機能を備えているのです。

 いまのiPhoneと並べて写真を撮ってみました。

 
 もう一枚、別の角度から撮りました。


 どうでしょう?
 サイズなど、そんなに変わらないでしょう?
 画面の大きさも、ジェニオは負けていません。

 デザイン的には、さすがに、iPhoneは洗練されていて、
ジェニオは、ちょっとごつごつしています。
 しかし、ジェニオが出たのは、14年も前ですよ。
 しかも、これが、ビックカメラなどの量販店で市販されて
いたのです。
売れませんでしたが。
  
 電話は、PHSを搭載していました。

 私は、当時、すぐにこのジェニオを買いました。
 駅などで、ジェニオを耳にあてて、通話をしていると、
そばを通った人が「これはいったい、なんだろう?」という
表情でちらちら見ていたものです。

 こうやって、改めて、並べてみると、
 1997年に発売された東芝のジェニオは、
 2009年に発売されたアップルのiPhoneと比べて
遜色がありません。

 すばらしいでしょう?
 こんなものを、日本の企業は、14年も前に作っていたの
です。
 世界を1周も2周もリードしていたのです。
 うまくやれば、これが世界標準になってもおかしくなかった
のにと思うと、非常に残念です。
 なぜ、これが失敗したのか。
 その「失敗の研究」が非常に大事になります。
 日本のIT企業が巻き返すには、この「失敗の研究」が
絶対に必要です。

 きょうは、1997年に市販された東芝のスマートフォン
   「ジェニオ」
 を紹介しました。
 それにしても、素晴らしい機械でしたね。
 いま見ても、ほれぼれします。
 本当に残念でした。

  





スマートフォンにおける失敗の研究・・・技術的に優れた製品を作ることを重視しすぎるのです。

2011年09月22日 17時35分12秒 | 日記

 スマートフォンにおける失敗の研究です。
 日本は1990年代から、東芝のジェニオ、松下のピ
ノキオ、さらには、老舗・シャープのザウルスと、先駆
的なスマートフォン、あるいは、通信のできるモバイル
パソコンを出しながら、ヒットせず、そのままになって
消えていきました。
 それはなぜでしょう。
 
 なにより大きいのは、ソフトの問題です。せっかく素
晴らしい製品を出しながら、その製品で使えるソフトが
少なかったのです。
 この場合、ソフトというのは、ゲームや、日々の生活
で使える楽しいもの、あるはビジネスで使えるちょっと
便利なものを指します。いわゆるアプリケーションのこ
とです。
 ゲームでいえば、サッカーゲームとか、大貧民のよう
なトランプ、将棋、チェス、生活で使えるものであれば、
機能的なカレンダーや時計、ビジネスでいえばメモ帳と
か英語の辞書とか、そういったものです。

 残念ながら、ジェニオにも、ピノキオにも、ザウルス
にも、そうしたソフト、アプリケーションが、非常に少
なかったのです。
 この種の製品で歴史の長いシャープは、自社で、いろ
いろとソフトを出そうとしていました。麻雀とか上海と
か、定番のソフトは、必ずありました。
 しかし、残念ながら、なかなかソフトの数が増えてい
かない。
 ジェニオ、ピノキオは、さらに、ソフトが少なかった。
 製品のパンフレットを見ると、あんなこともできます、
こんなこともできますと書いてあるのですが、残念なが
ら、パンフレットに書いてあることのできるソフトがな
かなか出てこなかったのです。

 それに対し、いま、スマートフォンで主流となってい
るアイフォンやアンドロイド携帯を見ると、ソフトがあ
ふれかえっています。世界中のユーザーが、自分でソフ
トを開発し、アイフォンやアンドロイド携帯でダウンロ
ードできるようにするのです。実際、アイフォンやアン
ドロイド携帯を見ていると、毎日毎日、ソフトがどんど
ん増えていきます。
 ゲームを例にとると、チェスやトランプなどポピュラ
ーなゲームでは、いろんな人がいろんなソフトを開発し
て、提供しています。ユーザーは、その中から、気に入
ったチェスを購入するわけです。しかも、そのチェスが、
90円とか100円、せいぜい300円で、買えるので
す。もちろん、無料のチェスもたくさん出ていますが、
有料のチェスのほうが、デザインがきれいだったりしま
す。

 シャープのザウルスは健闘していましたが、麻雀なら
麻雀で、せいぜい一つか二つの種類の麻雀しかなかった
のではないでしょうか。しかも、まだいまほどネット環
境が整っていないので、ソフトは、メモリーの形で発売
されていました。1000円とか2000円したのでは
ないでしょうか。

 ソフトの数がどれほどあるかという、この問題は、本
当に大きな意味を持っています。
 日本のスマートフォン、正確には、スマートフォンの
先駆的製品と呼ぶべきでしょうが、それは、いずれも、
ソフトの数が、決定的に少なかったのです。

 いま、「ネット環境」と書きましたが、実はその当時、
「ネット環境」というほどのものはまだありませんでし
た。インターネットはすでに利用されていましたが、高
速回線、ブロードバンドは、普及前夜で、まだ、電話回
線でインターネットを利用する人も多かったのです。
 いまのブロードバンドなら、ゲームや写真も、あっと
いう間にダウンロードできますが、当時の環境では、ダ
ウンロードにいまの何倍も時間がかかっていました。そ
ういう状況にあっては、ユーザーも、ゲームを開発して
ネット上に提供しようという感じにはならなかったの
です。
 ですから、メーカーは、ソフトを、メモリーの形で販
売していたのです。

 そう。日本のスマートフォンの先駆者たちは、時代が
早すぎたのです。
 早すぎた悲劇です。

 しかし、「早すぎた悲劇」といっていられる場合では
ありません。
 早すぎたということは、とりもなおさず、日本の技術
が進んでいたということを意味します。技術が進んでい
なければ、早すぎた製品というようなものは出てきませ
ん。
 ただし、実は、このことは、日本の技術、日本のメー
カーにおける非常に重大な問題を示しています。

 それは、技術、もっといえばハードウエアを、重視し
すぎるということです。素晴らしい製品、技術的には非
常に優れた製品を作るのですが、しかし、技術的に優れ
た製品を作ることを重視しすぎる。というより、技術的
に優れた製品を作ることに偏りすぎる。技術的に優れた
製品を作れば、それでよしとする、そういう傾向、風土
があるのです。

 この夏公開された映画「トランスフォーマー3」に、
象徴的なシーンがありました。この映画は、スピルバー
グ監督が製作にかかわっており、もともと、日本のおも
ちゃを見て作った映画です。日本のことをよく知って作
った映画です。この映画の中で、コピー機でコピーを取
るシーンがあります。非常に優れたコピー機なのですが、
操作方法が複雑で、なかなかコピーが取れない。
 そこで、こういう会話があります。
 「おい、まだコピー、取れないのかい?」
 「うん。操作方法が複雑なんだよ」
 「日本製だろ?」
 「そうなんだ」
 「日本の機械は優れているけれど操作が複雑なんだよ
なあ」
 
 これです。
 日本の機械は、優れているけれど、難しいのです。
技術的にいいものを作ろうとしすぎるのです。

             (続きます)





台風15号が直撃しています・・・これは地球温暖化の影響なのでしょうか。気候がおかしくなっています。

2011年09月21日 15時08分23秒 | 日記

 「失敗の研究」を書こうと思っていましたが、台風15
号が日本を直撃しています。きょうは、台風の話を書かな
いわけにはいきません。


 子供のころから台風には興味があり、いまでも、台風が
来たときの天気図など、よく見ます。
 しかし、今回の台風は、本当におかしい。

 沖縄付近で何日も停滞したこともそうですが、なにより
も、停滞している間に、勢力が強くなってしまったという
のが、本当におかしい。
停滞している間に、台風の気圧が975ヘクトパスカル
から、940ヘクトパスカルに下がってしまったのです。
975ヘクトパスカルの台風と940ヘクトパスカル
の台風では、まるで違います。

普通、まだ南方海上にあるころに940ヘクトパスカル
ぐらいまで勢力が強くなり、日本に近づくにつれて勢力が
弱くなって、日本に上陸する前には970から980ヘク
トパスカルという感じなのが普通です。
今回のは、まったく逆です。

台風の勢力が強くなるというのは、いま台風のある海の
温度が高いということです。
今回の場合、沖縄周辺で勢力が強くなるという異例の状
況になったわけで、それはとりもなおさず、沖縄周辺の海
の海水温が、常になく高いということを意味するのでしょう。

 そうなると、直観的に思うのは、それは地球温暖化の影
響なのかどうか、ということです。

 海水温の上昇だけではありません。
 最近の夏の異常な暑さも、そうなのでしょうか。
逆に、冬は、雪が降り始めるのが遅くなり、降雪量も少
なくなりました。

 ひっくるめて、気候そのものが、おかしくなっているイ
メージです。

 温暖化を止めようというので、気候変動枠組条約という
条約、というより、国際会議が設置され、日本で第三回の
会議 COP3 が日本で開かれたのが、1997年の
11月です。

 この会議は、京都で開かれ、そこで温暖化の原因とされ
る二酸化炭素(CO2)の排出量を削減しようということ
を合意しました。
 そのため、この時の会議を、とくに「京都会議」と呼び
ます。

 それから14年になります。
 14年程度でどうなるものではありませんが、その間に、
気候の変動、気候の異常は、大きくなったように感じます。

 ところが、実は、その一方で、地球の温暖化は進んでい
ないということを主張する研究者がいることも事実なの
です。その研究者たちの研究を見たことがありますが、な
るほど、温暖化は進んでいないというデータが並びます。

結局のところ、どのデータを採用するかによって、研究
の結論は違ってくるということなのですが、しかし、今回
の不思議な台風や、今年の異常な夏を見ていると、実感と
しては、温暖化が進んでいると思います。
北海道は梅雨がないとされてきましたが、最近は、北海
道でも6月には長い雨が降るようです。北海道でも梅雨
が始まっているようです。

気温の高い地域が、明らかに、緯度の高いほうに移動し
てきているようです。

奈良、和歌山では、先週の大雨で出来てしまったせき止
めダム、土砂ダムが、決壊しそうな状況です。
いま、そうした被害に遭われているみなさんにとっては、
温暖化かどうかなどということは、関係のない話です。
いまはただ、被害が、できるかぎり小さくなるよう、お
祈りします。





東京ゲームショウにおける失敗の研究・・・日本はなぜスマートフォンでおくれを取ったのでしょう。

2011年09月20日 12時16分54秒 | 日記

 日本はスマートフォンで、世界のメーカーにおくれを
取ってしまいました。
東京ゲームショウが開かれても、スマートフォンは、
アイフォンとアンドロイド対応機が中心です。

 しかし、実はもう10年以上も前に、日本の電機メー
カーは、スマートフォンを作り、製品として出していま
した。アイフォンが出る前から、日本はスマートフォン
を作っていて、世界を、一歩どころか、一周以上、引き
離していたのです。
 ご存じなかったでしょう?
 きょうは、そのことを書きます。

 1997年のことです。
 東芝が、GENIO「ジェニオ」というスマートフォ
ンを出しました。私はその時にジェニオを買い、いまで
も、手元にあります。
 同じころに、松下電器(いまはパナソニック)は、「ピ
ノキオ」というスマートフォンを出しています。
 そして、シャープは、電子辞書から発展した「ザウス」
という通信のできるモバイルパソコンをだしていまし
た。
 いずれも、当時は、世界の水準を抜く製品でした。

 どんな製品だったか、東芝の「ジェニオ」を例にして
見ていきましょう。

 ジェニオは、携帯電話としては、PHSを搭載してい
ました。PHSと聞くと、懐かしいという方もいらっし
ゃるかもしれません。番号が、090ではなく、070
で始まる電話です。
 ジェニオのサイズは、いまのスマートフォンより一回
り大きいサイズで、ちょっと大きかったのですが、カッ
ターシャツのポケットにはちょうど入りました。
 大きいサイズなので、大きな液晶画面がついていて、
見やすかったです。

 この画面に、記憶させている電話番号のリストが一覧
となって表示されるのです。専用のタッチペンを使えば、
画面上のリストをどんどん動かすことができます。そし
て、表示された電話番号をタッチペンでタッチすれば、
そのまま電話が発信されるのです。
 さらには、メモ帳もついていて、メモを入力すること
もできました。
入力は、画面上にキーボードが表示され、キーボード
入力ができました。

 どうですか?
 いまのスマートフォンと、基本的には同じでしょう?

 もう売っていないようですが、いまでも、東芝のHP
上で見ることが出来ます。アドレスを掲げておきますの
で、興味のある方は、アクセスしてご覧になってみてください。
 http://www.toshiba.co.jp/pda/

 松下電器の「ピノキオ」も、よく似た製品でした。
 ジェニオを買ったあと、ピノキオが出ているのに気が
つきました。両方とも、4万円から5万円ぐらいの値段
だったように記憶しています。
 97年のことですから、もう14年前です。
 当時は、アイフォンなど、まだ影も形もありません。
 グーグルなど、まだ会社さえ設立されていないのです。
 そう思うと、東芝や松下が、いかに先進的な製品を作
っていたか、よくわかります。

 先進的ということでいえば、シャープの
  ザウルス「ZARUS」
 は、さらに先進的でした。
 シャープは、もともと電子手帳を熱心に作っており、
1980年代から、「シャープの電子手帳」は有名でし
た。
 シャープの電子手帳は、早い時期から折りたたみのタ
イプを採用しており、手前がフルキーボード、開けたフ
タの内側が液晶画面となっていて、モバイルパソコンと
いう趣でした。すでに80年代から、設計的には、最先
端を行っていました。

 1990年代末に出た「ザウルス」は、それを発展させ
たもので、サイズは、いまのスマートフォンを一回り大
きくしたぐらいで、やはり、ちょうどカッターシャツのポ
ケットに入りました。

 機能としては、パソコンそのものでした。
 シャツの胸ポケットに入るパソコンという感じです。
もちろん通信ができて、インターネットに接続して使いま
した。
 ただし、電話機能はついていなかったので、通話はでき
ませんでした。その意味ではスマート「フォン」ではなく、
むしろ、通信のできる超小型パソコンでした。

 そうそう、なによりも、MP3で録音ができたので、
デジタルオーディオプレーヤーの先駆けでもありました。

 東芝のジェニオ、松下のピノキオ、シャープのザウス
は、いずれも、アップルのアイポッドが発売される何年
も前に出た製品です。
 すべて、その当時、世界水準をはるかに抜いていま
した。現在の水準から見ても、遜色のない製品たちでし
た。

 あのまま伸びていれば、いまごろ、こうした日本の製
品が、世界のスマートフォンの市場を制覇していたはず
なのにと思うと、まことに残念です。
 
 それが、どうして、こんなことになってしまったので
しょうか。

 まず、このブログを読んでいただいているみなさんに
お尋ねしますが、ここに挙げた東芝のジェニオって、ご
存じないでしょう? 松下のピノキオになると、聞いた
こともないわ、という方が多いでしょう。
 シャープのザウスは、そういえば、そういうのがあっ
たなあーーと思いだす方がいらっしゃるかもしれませ
んね。

 当時、それほど世界水準をはるかに抜き、世
界の最先端を行っていた製品、というより、日本の電機
メーカーが、いったい、どうしちゃったのでしょう。
 たかただ、この10年ちょっとのことです。
 ひとつには、それだけの製品が、ほとんど知られずに
終わったというところに大きな問題があります。 

 それが「失敗の研究」です。
 今回は、その前段階として、「失敗の実際」を書きま
した。
 次回は、「失敗の研究」です。
 




東京ゲームショウ・・・DSやPSPがスマートフォンに押されています。対策は?

2011年09月16日 15時19分41秒 | 日記

 東京ゲームショウが開かれています。


 今年の主役はスマートフォンです。
もともと、携帯ゲーム機といえば任天堂のDSと
ソニーのPSP(プレーステーション・ポータブル)
だったのですが、この専用ゲーム機が、携帯電話とく
にスマートフォンに押され、かつての勢いがなくなっ
ています。

 さて、どうすればいいでしょう。

 任天堂の携帯用ゲーム機は、1990年代にゲームボ
ーイという機種が出て、これがその基礎を作りました。
 ゲームボーイの後継機種が、いまのDSです。

 現在のスマートフォンの画面は、当時のゲームボーイ
の画面ぐらいの大きさがあり、しかも、鮮やかなカラー
表示で、とても見やすくなっています。
 いつも使うスマートフォンでゲームができるのであれ
ば、なにも、DSを買う必要はないーーということにな
ります。
 
 私もゲームが好きで、スマートフォンにいろいろとゲ
ームを入れてあります。たしかに、スマートフォンを使
うようになって、任天堂のDSやソニーのPSPを触る
機会が減りました。
 
 では、DSやPSPとスマートフォンを比較するとど
うなるのでしょう。

 DSやPSPの長所は、専用の携帯ゲーム機だという
ことが、当たり前ですが最大の長所です。
 専用のゲーム機なので、画面を操作するボタンが最初
から操作しやすく設計してあります。ボタンが大きくて、
しっかりしています。アクション系のゲームでは、これ
は威力を発揮します。
 ゲームソフトも質量ともに豊かです。スマートフォン
のゲームも多いのですが、ゲームの奥行の深さではDS
とPSPが勝ちます。

 スマートフォンのゲームの最大の長所は、安いことで
しょう。アンドロイド系のスマートフォンも、アイフォ
ン系のスマートフォンも、世界中のユーザーが日々、新
しいゲームをアップしています。値段はタダというゲー
ムも多く、有料のゲームも80円から200円という程
度の値段です。
 DSやPSPのゲームは、すぐに4000円、500
0円という値段になります。もちろん、DSやPSPは、
高いだけあって、ゲームが非常にしっかり作られていて、
長く楽しめるようになっています。
 そうはいっても、この値段の差は際立ちます。

 このままでは、DSもPSPも苦しくなるかもしれま
せん。
 任天堂のDSとソニーのPSPは、日本が世界に誇る
「クール」な商品です。
 DSとPSPに元気がないと、日本のモノづくりも困
るのです。

 かつて、日本の半導体は、メモリーの分野で、世界を
制覇していました。それが、いまや、見る影もありませ
ん。携帯用ゲーム機が、その二の舞になってはいけません。

 さて、では、どうすればいいのでしょうか。
 私は、もう何年も前から、答えを持っています。
 
 それは、DSとPSPに、携帯電話の機能をつけるの
です。
 DSを買えば、それがそのまま携帯電話として使える。
PSPを買えば、携帯電話として通話ができるし、メ
ールもできる。

 言ってみれば、モバイルDS、モバイルPSPです。
 そうなれば、モバイルDSとモバイルPSPは、買っ
た瞬間から、豊富なゲームを抱えた携帯電話ということ
になります。

 もう、何年も前から、このことを考えていました。
 もし、DSやPSPに携帯機能がつけば、私はすぐに
買います。

 任天堂とソニーの担当の方、どうですか?
 検討してみませんか?






官僚的なものに対抗するには・・・台風で、新宮市議会が電源開発を呼んだのですが。

2011年09月15日 18時55分51秒 | 日記

 先日の台風で、和歌山、奈良で大きな被害が出ました。
 とくに、熊野山地で大きな被害が出ました。
 熊野山地を背後に持つ和歌山県・新宮市で、ダムを早い時期に放
流していれば河川の流れが平均化されて、もう少し被害が少なくて
すんだのではないかーーという批判が出ました。そこで、新宮市議
会が、ダムを管理する電源開発を議会に呼び、話を聞きました。
 その様子が、14日のテレビのニュースで流されていました。

 電源開発の担当者の答弁が、ものみごとに、役人的、官僚的な答
弁なのです。あまりに見事な官僚的答弁なので、質問した議員側が
沈黙してしまうほどです。
 どういうやりとりだったかというとーー。

 新宮市議会の議員「あのダムを、もっと早い時間に放流していれ
ば、もう少し被害が小さくなったのではありませんか。なぜ、あの
ダムをもっと早くに放流できなかっのでしょうか」
 電源開発の担当者「いや、発電をしているダムを、早くに放流開
始うするということは、ありえません。発電に使うダムに、それは
ありえません」

 どうですか?
 問題のダムは、発電に使っている。
 発電に使うダムを、大雨が来るからといって、早くに放流すると
いうことは、ありない。

 ただ、それだけを言っているのです。
 しかも、テレビで見ていると、この担当者は、相当に強い調子で
「それはありえません」と、ほとんど決めつけるようにして、言っ
ています。
議論の余地なしーーというわけです。

実際、これで新宮市議会側は、出鼻をくじかれてしまったようで、
二の矢が出なかったようです。

 しかし、こんな言い方に負けていてはいけません。

 この言い方のどこがおかしいのでしょうか。
 最大のポイントは、「発電に使うダムで放流することはありえま
せん」という言い方が、ただ単に、電源開発の立場、電源開発の視
点に過ぎないということです。
 この場合、新宮市議会は、「台風による大雨という、常にない事
態で、河川の氾濫が予想される。だから、それに先だって、放流し
ておくということは考えられないのか」と聞いているわけです。台
風という特別な事態なんだからーーということです。
 
 それに対し、電源開発は、「特別な事態」「特別な条件」とは関
係なく、あくまで、「電源開発の立場」「自分の立場」を主張して
いるのです。「自分の論理」です。

 これが、官僚の対応の典型です。
 なにがあっても、自分の立場、自分の論理を主張するのです。

 しかも、それをあんまり堂々と主張するものだから、相手、この
場合は新宮市議会ですが、相手は、思わずたじろいでしまいます。

 官僚あるいは官僚的なものと向き合うには、こんなことに負けて
いてはいけません。
 では、どうすればいいのでしょうか。

 まずはっきり、「それはあなたの立場のことでしょう」「あなた
の論理でしょう」と指摘し、それが、ただ単に自分の言い分を言っ
ただけに過ぎないということを分からせることです。
 言い換えれば、それは自分の言い分に過ぎず、決して、正しいも
のでもなんでもない。「あなた、それは、別に正しいことじゃない
んですよ」ということを明快に指摘することです。
 それだけで、官僚あるいは官僚的な立場の人たちは、たじろぎま
す。

 そして、その上で、相手が相手の言い分を言ったのなら、こちら
はこちらの言い分を言うのです。この場合は、新宮市議会が、新宮
市と新宮市民の立場をはっきり言えばいいのです。

 具体的には、こんな具合になります。
 「電源用のダムを早期放流するのはありえないというのは、ただ
単に電源開発の立場を言っただけのことでしょう。その言い方は、
電源開発の言い方にすぎないもので、社会的に正しいかどうかは別
ですよ」
 「私たち新宮市議会は、そんなことを聞きたいわけではありませ
ん。新宮市と新宮市民は、市民の生活を守るという立場から、早期
放流をするべきだったのではないかと主張しているのです。市民、
住民の生活を守るために、早期放流が必要だったのではないかと言
っているのです」
「電源開発の言い分が、そのまま、社会的に正しいということで
はありません。私たちは、ダムの早期放流が、発電のためにどうと
かそんなことではなく、社会的にどうかということを聞いておるの
です。社会的に正しいかどうかということを聞いているのです」
「それが新宮市と新宮市議会、そして、新宮市民の立場です」

 このぐらいのことを、しっかり言わなければ、官僚組織には丸め
込まれてしまいます。

 逆にいうと、利己的であろうが自己中であろうが、どこまでも自
分の立場を主張する、恥も外聞もなく自分の立場を主張するという
のは、まさに、それが官僚組織ですが、相手を説き伏せるのに最高
の方法だということですね。

そういう官僚組織を相手にするには、こちらも、自分の立場、自
分の要求を、はっきりと認識しておく必要があるということです。








鉢呂経産相の辞任(3)・・・政治の品格、メディアの品格。

2011年09月14日 02時29分44秒 | 日記

 鉢呂経産相の辞任で、書き忘れたことがあります。

 チェルノブイリのことです。
 チェルノブイリは、本当に悲惨な原発事故でした。
 

 このチェルノブイリのことを、日本のメディアや政治家、官僚は、
なんと呼んだでしょうか。
 「死の町」と呼びました。

 いや、過去形ではありません。

 福島原発の事故によって、チェルノブイリは、改めて注目され
るようになりました。
 その際、新聞や雑誌、テレビは、チェルノブイリのことを
「死の町」と書いたり呼んだりしなかったでしょうか。
民主党や自民党の政治家、政府の官庁、官僚も、チェルノブイリ
のことを「死の町」と言わなかったでしょうか。
 間違いなく、何度か、そういう言い方を見たり、聞いたりした
ことがあります。

 しかし、チェルノブイリを「死の町」と呼んで、問題になったこ
とはないでしょう?
それなのに、福島原発の近くの町を「死の町」と呼んだら、なぜ
問題になるのでしょうか。

 他人の国ならどう呼んでも問題ではないけれど、自分の国のこと
なら問題にするーーというのも、変な話です。

 この問題で民主党の野田内閣を攻撃しようとしている自民党の
人々も、チェルノブイリのことを、いつかどこかで、「チェルノブ
イリは死の町で」とか、「死の町・チェルノブイリでは」とか、そ
ういう言い方をしたことはありませんか?
 
 自民党幹部が、鉢呂氏の発言を「人間性の問題だ」などと非難し
ていましたが、そんな話ではないと思います。
 まして、野田首相の任命責任を問うだなんて、話がおかしいと思
います。

 ちょっと前にはやった言い方を借りれば、「政治の品格」の問題
です。
 この発言をことさら騒ぎ立て、首相の任命責任にまで拡大しよう
とする政治の、どこに「品格」があるのでしょう。
 もう少し、品格のある政治ができないものでしょうか。
 貧すれば鈍すといいますが、自民党も野党になって落ちぶれたな
あーーという思いがします。

 「メディアの品格」もそうです。
 こんなことを連日大騒ぎして、メディアの品格は、どこに行って
しまったのでしょうか。
 それが本当に残念です。



鉢呂経産相の辞任(続き)・・・取材の方法と、政治家の言葉の軽さ(?)の問題。

2011年09月12日 15時51分28秒 | 日記

 鉢呂・経済産業相の辞任の話で、もう少し書いておき
ます。

 まず、取材の方法というか、記者のありようについて
です。
 鉢呂氏が、取材に来た記者数人に、自分の服を近づけ
て「放射能、つけちゃうぞ」といったのは、福島から帰
ってきた夜です。
 
 これは「夜回り」といって、取材先、この場合は閣僚、
経産相ですが、夜、相手が自宅に帰ってきたところへ取
材に行くのです。
 日本では、伝統的な取材方法です。ここから特ダネが
取れるのです。

 ただし、夜回りで取材したことは、オフレコです。
 夜回りで取材して得た情報は、もちろん、特ダネとし
て書きます。
 しかし、その情報をどこで入手したのか、情報源、ニ
ュースソースは、明らかにしないという暗黙の約束があ
ります。
 そうでなければ、取材相手は、自分の自宅での取材に
は応じないでしょう。取材相手は、自分の名前が新聞や
テレビには載らないということが分かっているからこ
そ、自宅というプライベートな場で、記者の取材に応じ
るのです。 
 
 そういう視点で見れば、鉢呂経産相が、夜、取材しに
来た記者に、「放射能を付けるぞ」と冗談で言って、服
を近づけたことを、記者はストレートに書くべきではな
いのではないかと思います。
 経産相だって、夜、プライベートな場でのことだから、
こういう冗談を言ったのでしょう。昼に経産省で開く記
者会見で、いくらなんでも、こんなことはしないでしょ
う。
 それを、記者が、こうも簡単に、明かしてしまってい
いのかと思うのです。

 こんなことを書いてしまうと、取材先は、夜、自宅で
の取材には応じなくなってしまいます。自宅でくつろい
でいるときの言動を、新聞やテレビで明らかにされては、
だれだって困ります。

 だから、これは、取材する記者の側に、ちょっと問題
があるのではないかと言わざるをえないのです。

 もうひとつは、政治家の言動の軽さです。
 こういう問題が起きると、必ず、政治家の言葉が軽く
なったということが言われます。
 その通りなのですが、しかし、政治家って、昔から言
葉が軽いですよ。

 政治家は、衆議院にしろ参議院にしろ、一人で5万票、
6万票を集めて当選し、国会の場に出てきます。
 一人で5万票集めるというのは、容易なことではない
ですよ。それなりの人物でなければ、5万票も集めるこ
とはできません。実際に、会ってみると、一人ひとり、
それなりの人間的な魅力を備えた人たちです。
 相手の心をつかまなくてはなりません。
 話が下手だと、相手は逃げていきます。
 サービス精神も旺盛です。
 そこは、官僚とはまるで違うのです。

 民主党の政治家、自民党の政治家、みんな、それぞれ
に魅力的なキャラクターを持っています。
 話をして、おもしろくなければ、次の選挙で落ちるで
しょう。
 だから、政治家は、おもしろい話をして、相手にアピ
ールし、相手の心をつかまなければなりません。

 そうすると、サービスしすぎて、つい、言葉が軽くな
ることがあるのです。
 言葉が軽くなるのは、政治家の宿命でもあるのです。

 だから、「政治家の言葉が軽くなった」と嘆くのは、
合っているようで、合っていないところもあるのです。
 自民党の石原幹事長など、もともとテレビ局の記者で
すから、テレビ向きに、おもしろいことを話そうという
姿勢があります。だから、言葉が軽くなるのです。

 小泉首相は、言葉の数が少なく、決して冗舌ではあり
ませんでしたが、その少ない言葉は、実は非常に軽い言
葉が多かったと思います。

 政治家の言葉の軽さを嘆くのは、当たっていないよう
に思います。
 
 ただし、自分の言葉が、どう受け止められるか。
 その判断が悪くなったことは、間違いありません。
 自分の地位、自分の影響力、自分の発言の持つ意味、
そうしたことを、与党になった民主党の政治家は、よく
考えなければなりません。




鉢呂経産相の辞任・・・失言がいいはずはありませんが、いま少し寛容になれないでしょうか。

2011年09月12日 11時48分24秒 | 日記

 野田内閣の閣僚の不用意な失言が相次いでいます。
この週末には、鉢呂・経済産業相が辞任に追い込まれ
ました。鉢呂氏は、福島に視察に行った感想を聞かれ「ま
さに死の街という感じでした」と答えました。さらに、
また、取材に来た各社の記者に対し「放射能をつけちゃ
うぞ」といって、自分の服をこすりつけるような恰好を
しました。
 この言動が問題となり、辞任したものです。

 ほかにも、いろいろ発言がありました。
 平野国対委員長は、国会の会期を4日間と短く設定し
たことについて、「内閣がまだ不完全で対応できないか
ら」と答えました。この人は失言の多い人です。
 小宮山厚労相も、「たばこは700円ぐらいまで上げ
ても税収は減らないから、そのぐらいまで持っていきた
い」と会見で口にしました。
  
 さあ、これを、どう考えればいいのでしょう。
 
 第一に、いずれも、民主党が野党であれば、そう問題
にはならなかったかもしれません。
 たとえば小宮山氏の発言ですが、もし小宮山氏が野党
の議員であれば、いくら「たばこは700円に値上げす
るべきです」といったところで、新聞もテレビも取り上
げないでしょうし、だれも相手にしないでしょう。それ
を厚労相として言えば、発言の重みはまるで違います。
 政権を取ったことがなかったので、政権の座、権力の
座にある人間が、どれほどの発言力を持っているか、民
主党の政治家は実感として分かっていないのだと思い
ます。

 自民党からも、失言がいろいろ出ています。
 問題発言を連発するのは、石原幹事長です。この人は、
9月11日のアメリカ同時テロ10周年に関連し、「こ
のテロは、歴史的必然といえるのではないか」と発言し
ています。
 新聞各紙の扱いは、せいぜい囲み記事の扱いでしたが、
もし、石原幹事長が、いま与党にいて、たとえば経済産
業相だったとすれば、この発言は、ものすごい批判を受
けます。「死の街」どころではないでしょう。
 もしかすると、アメリカからも批判が相次いで、日米
関係に影響か?みたいなことになっていたかもしれま
せん。
 この人は発言は、いつも、本当に軽い。政治家として
は失格かもしれませんね。

 しかし、第三に、ちょっと待て、といいたいところが
あります。
 こういう発言は、政治家として、許されるものではな
い。経産相が福島を「死の街」と表現してはいけないで
しょう。「放射能をつけちゃうぞ」というのも、立場を
考えると、まずいでしょう。
 しかし、あえて誤解を恐れずにいえば、こういう言い
方は、私たちも、ついしてしまう可能性があります。
 普段の生活の中で、言わないほうがいいけれど、つい
うっかり言ってしまうことというのがあります。そんな
経験は、だれしも、何度かあるでしょう。
 
たとえば、原発周辺の町を見に行ったとします。帰っ
てきて、「原発周辺の町って、どんな感じでしたか?」
と聞かれ、「うーん、人っ子ひとりいないんですよ」ぐ
らいは答えるでしょう。実際、立ち入り禁止で、だれも
いないのです。そこで、つい「うーん・・・まさに死の
町というか・・・」と続けてしまうというのは、ありそ
うなことです。
 
 つい不用意な言葉というのは、あるものです。
 もちろん、政治家、とくに政権にある政治家が不用意
な言葉を口にするのは、ほめられたものではありません。
 しかし、それでもなお、ついうっかり、ということは
あります。

 ひとつの基準として、差別的な発言は許されません。
 性別や人種、民族、あるいは、職業、出身、学歴、そ
ういったことを攻撃するような差別的な発言は、これは
絶対に許されるべきではありません。

 しかし、そうした差別的な言葉ではなければ、ちょっ
とした不用意な失言というのは、もう少し寛容に対応す
るべきではないのでしょうか。

 ちょっとした不用意な発言をとらえ、野党が与党を攻
撃する。首相の任命責任まで問う。
 その結果、国政が停滞する。
 ――これほど、無意味なことはありません。

 野党が鉢呂氏の発言を問い、国会で追及するというの
であれば、与党だって石原幹事長の「テロは歴史的な必
然」という発言を問えばいいのです。
 しかし、そんなことをすると、国会は、言葉尻をとら
えた報復合戦ということになっていまいます。

 不用意な失言は、もちろん、あってはいけないことです。
 しかし、あえて言いたいと思います。
 政党もメディアも、もう少し寛容になってもいいのでは
ないでしょうか。







プロ野球と「統一球」・・・今年、日本のプロ野球がつまらなくなりました。このままでは心配です。

2011年09月09日 11時07分49秒 | 日記

 プロ野球が、つまらなくなりました。
 ボールが飛ばないのです。
 原因は、今年から導入された「統一球」です。
 去年までのボールに比べて、大きく、重くなったということ
です。 
 この統一球が、プロ野球をおもしろくなくしてしまいました。
 なにしろ、ホームランが出ません。
 シングルヒットの積み重ねで点を取るという感じになってい
ますが、そのシングルヒットも出にくくなっています。
 先日、東京ドームに巨人戦を見に行きました。ネットの向こ
う、グラウンドとの境に何もなくて、ボールがいつ飛び込んで
くるか分からない「エキサイト・シート」です。
 エキサイトという名前の通り、本来なら、いつボールが来る
のかはらはらしながら野球を観戦するシートなのですが、ボー
ルが飛んできません。
 9回裏まで見て、ボールが来たのは、たった1回でした。
 バッターの打ったボールが、外野フェンスまで飛ばないので
す。
 ランナーもなかなか出ません。
 試合は2-1でした。
 正直、6回、7回あたりでは、つまらなくて、思わず、うと
うとしてしまう有様でした。
 
 本当に、つまらない。
 野球がおもしろくなくなりました。

 去年までは、2、3点負けていても、ランナーが出ればホー
ムランで一発逆転という場面がよくありました。
 統一球になった今年は、まず、そういうことがありません。
 2、3点負けていたら、もう、逆転は難しいのではないでし
ょうか。
 試合そのものが1対0とか、2対1とか、ロースコアになっ
ています。きょう8日の巨人ー中日戦など、0-0で引き分け
でした。
 プロ野球を見に行って、0-0の引き分けというのは、本当
におもしろくないですよ。

 いや、0-0とか、1-0、2-1という試合こそ醍醐味が
あるーーという人もいるでしょう。
 もちろん、そういう考え方もあります。
 しかし、これは、プロ野球です。
 私たちは、日常の仕事や生活を離れ、どきどきわくわくする
ものを求めて、球場に行くのです。
 毎日の仕事や生活にはない華やかなものを求めて野球を見る
のです。
 1-0とか0-0であれば、毎日の仕事の厳しさと、ぜんぜ
ん変わらないではありませんか。
 そんな辛気くさい、地味なものを見るために球場に足を運び、
あるいは、テレビをつけるのではないのです。
 
 アメリカで4大スポーツというのは、野球、アメリカンフッ
トボール、バスケットボール、アイスホッケーです。
 日本でバスケットボールの試合を見ていると、55点対65
点とか、60点対70点というぐらいの点数の試合が普通です。
 ところが、アメリカのプロのバスケットボールを見ていると、
105点対102点とか、120点対108点とか、だいたい、
平気で両チームとも100点を超えています。
 なぜこうなるのか、不思議でした。
 ある日、大学でバスケットをやっていたというアメリカ人の
友人に理由を聞いてみました。
 すると、彼の返事は
 「ああ、それはね、50点ぐらいまでは、両チームとも、あ
んまり激しいディフェンスをしないで、相手のシュートを入れ
されるからなんだよ。シュートの技を見せて、観客を喜ばせる
んだ」
 ということでした。

 なるほど。そういうことか。
 よく分かりました。
 それは、決して八百長なんかではなく、試合に影響のない5
0点ぐらいまでは、お互い、華麗なシュートを入れ合って、「シ
ョー」を見せるのです。初めの50点ぐらいまではショーの要
素を取り入れ、そこから先は、ショーの要素を排除してシリア
スに試合をし、勝負に徹する。
 なるほど、それは間違いなく「プロ」の試合ですね。 

 プロ野球もまったく同じです。
 8回裏、9回裏で、5-2で負けていても、ランナーが二人
出れば、ホームラン一発で同点にすることができる。そういう
インフラを用意しておけば、観客は、はらはらどきどきします。
それは、八百長なんかではありません。ホームラン一発で同点
あるいは逆転することができるというのは、両チームとも同じ
条件なのですから。

 あるいは、序盤の1回、2回でも、打者の打ったボールが快
音を発して、外野に飛んでいく。あるいは、内野にするどいゴ
ロが行く。そういう光景に、観客はカタルシスを感じるのです。
 それが、外野にボールが飛ばない。飛んでも鋭いライナーに
はならない。それでは、観客はおもしろいはずがありません。

 統一球は、そうした「プロ」としての華やかな要素を、きれ
いにつんでしまいました。

 なぜ、こんなものを導入したのでしょう。
 統一球は、「国際球」と呼ばれます。
 去年までの日本のボールは、アメリカのボールに比べて少し
小さかったのです。

 日米のボールの大きさが少し違うということは、昔から指摘
されていました。野球のボールは、大きさにもちゃんと基準が
あるのですが、基準には少し幅があります。日米とも基準に合
致しているのですが、大リーグのボールはその幅の中で大きい
ほうで、日本のボールは小さいほうで、それぞれ作られている
というのです。
 しかし、実際に、ボールの大きさの違いが日本でも身近なも
のになってきたのは、90年代半ば、野茂英雄投手が日本人大
リーガーとして海を渡ってからでしょう。野茂選手の活躍で、
NHKが野茂投手の登板する試合の中継をするようになり、大
リーグの試合が日本でも身近になったのです。
 バッターでは、イチローと松井秀樹です。
 イチローはもともと長距離ヒッターではないのでボールの大
きさの違いはあまり注目されませんでした。
しかし、松井選手の場合は日本を代表するホームランバッタ
ーとしてヤンキースに入団したのに、アメリカではホームラン
がせいぜい30本ぐらいにとどまり、素晴らしいバッターだが、
タイプとしては中距離打者というイメージになりました。
 そうした経緯があり、私たちも、日本のボールがアメリカの
ボールより少し小さいということを、よく知るようになりまし
た。
 そこで、日本のボールをアメリカのボールに合わせたほうが
いいのではないかという議論が出始めます。

次のきっかけは、ワールド・ベースボール・クラシック(W
BC)や、五輪で、野球が国際化してきたことです。
国際大会は国際球という名前のアメリカ基準のボールを使う
ので、日本人のバッターは、ボールが飛ばずに、初めは苦労さ
せられます。
とくに、WBCです。
WBCは、国際球のため、ホームランどころか長打が出ず、
ロースコアで1点を争う接戦が続きました。
幸い、WBCは日本が二連覇したのですが、2回のWBCを
終えて、この際、日本のボールも国際球に合わせたほうがいい
のではないかという議論が強まります。

そうして、今年、とうとう、これまでよりも少し大きな国際
球が導入され、「統一球」と呼ばれるようになったわけです。

しかし、これは、間違っています。
WBCで長打が出ず、日本人選手が対応に苦心していたのは
事実ですが、しかし、なによりも、その国際球であっても、日
本はWBCで二連覇したのです。
国際大会のWBCに出て行って、ちょっと大きな国際球を使
ったから日本が勝てなかったというのであれば、日本でも国際
球をという考えになっても、ある程度はしようがないかもしれ
ません。しかし、日本が二連覇しているのですから、日本人選
手は、国際球にもちゃんと対応できているのです。
それなのに、なにもわざわざ、日本のボールを国際球に変え
る必要はないでしょう。

大リーグのこともそうです。
日本人選手が、大リーグに移籍し、ボールの違いに戸惑うの
は事実でしょう。
しかし、彼らは、アメリカの地で、よく対応し、ちゃんと成
績を残しています。
別に、大リーグとボールが違っても、選手はちゃんと対応し
ているのです。
もし万一、日本人選手が大リーグに行くときのことを考えて、
日本でも国際球という名のアメリカ基準のボールを使っておこ
うーーというのであれば、それは本末転倒でしょう。

結論をいえば、これまで、日本のボールが少し小さくても、
日本の野球は国際大会で何の遜色もない非常に素晴らしい成
績を残してきたのです。
大リーグでも、日本人選手は活躍しているのです。

なにもわざわざ日本の野球で国際球を使う必要はまったくな
かったのです。

9月8日、名古屋球場で行われた巨人―中日戦は、冒頭でも
書いたように、0-0の引き分けでした。素晴らしい投手戦だ
ったといえば、その通りなのですが、ヒットの数は、巨人が5
本、中日が2本です。
ランナーが出ません。

もちろん、緊迫した投手戦は、独特の魅力があります。
それがペナントレースの優勝のかかった試合や、日本シリー
ズであれば、私たちは息を殺して見るでしょう。
しかし、8日の巨人ー中日戦は、そうではありません。
今年は、こういう試合が多すぎるのです。
これは、茶の間のテレビで見ていて、おもしろくないですよ。

毎日の仕事から帰ってきて、0-0や2-1、1-0という
スコアのしんどい試合を見たいとは、なかなか、思わないので
はないでしょうか。

 「統一球」の採用は、意味がありませんでした。
統一球を採用した理由がよくわかりません。
 このボールは、日本のプロ野球の魅力をそいでしまったので
はないでしょうか。
プロ野球は、「ショーアップ」という要素が絶対不可欠です。

 コミッショナーは、どうして、「国際基準」を日本に持ち込む
必要があったのでしょうか。
 日本の独自路線では、なぜいけなかったのでしょう。


今月、また東京ドームに巨人戦を見にいきますが、また眠く
なるような試合になってしまうのではないでしょうか。
本当に、プロ野球が心配です。






時代閉塞の現状(3)・・・爆発する地球。燃え尽きる地球。私たち人類が直面するものは?

2011年09月07日 16時29分23秒 | 日記

 前回からちょっと間があいてしまいましたが、時代閉塞の現状
の3回目です。
 今回は、地球規模での時代閉塞の話です。



 1970年代の初め、世界中が注目した報告書が出ました。
 ローマクラブの
 「燃え尽きる地球」と
 「爆発する地球」です。

 「燃え尽きる地球」は、石油資源をこのまま使っていると、や
がては使い尽し、枯渇してしまうという警告です。まさに、地球は
燃え尽きるというわけです。

 「爆発する地球」は、世界の人口がこのまま増え続けると、地
球は「人口爆発」の状態になり、食糧をはじめ、あらゆる資源が足
りなくなって、人類の生存に影響するという警告でした。

 この「爆発する地球」が出たころ、1970年代初め、地球の
人口は、36億人ぐらいでした。
 2011年のいま、それがまもなく70億人に達しようとして
います。 
 だいたい40年で、2倍近くに増えたことになります。
 驚異的な増え方です。

 第二次大戦が終わり、日常の生活が戻ってきた1950年代、
60年代から、果たして地球は何人の人口を養えるのか?という疑
問が出されていました。30億人とか、50億人とかいろいろな数
字が挙げらてきましたが、1970年代の初めごろは、
 「地球が養える人口は50億人が限界」
 という言い方が多かったように思います。
 
 当時いわれた上限を、いまや、とっくに過ぎています。

 さあ、70億人の人間が、地球に住めるのでしょうか。
 いま、私たちが直面する問題は、それです。
 しかも、今後、人口はさらに増えていくと予想されるのです。
 私たちは、人類として、この星で、生存し続けていけるのでし
ょうか。ただ生存するだけでは意味がありません。一定水準の文明
を維持し、健康で豊かに暮らせなければ、意味はありません。
 人口の増加は、いろんな場面で大きな影響を与えます。

 日本は、1975年にG7サミット(主要国首脳会議)の開催
された第一回から、そのメンバーとして参加し、先進国として行動
しています。
 しかし、日本は戦後も長い間、ハワイやブラジルに移民を出し
ていました。最後の移民が出たのは、1971年に「ぶらじる丸」
です。ぶらじる丸は神戸港から出ており、この最後の出港をもって、
神戸移民センターは閉鎖され、日本からの公式な移民は終わりまし
た。
 1975年の第一回サミットの、つい4年まえです。

 移民を出すというのは、日本として、申し訳ないけれど日本は
これ以上、日本人が住める余裕がありません。本当に申し訳ないけ
れど、移民として、外国に出ていっていただけませんかーーという
意味です。
そういう国を「先進国」とは呼びにくいでしょう。
もし、一回目のランブイエ・サミットが開かれたとき、日本がま
だ移民を出すような国であれば、変な具合だったかもしれません。 

日本は豊かな先進国ではありますが、しかし、日本は、1971
年つまりたかだか40年前までは、まだ移民を出す国だったのです。
日本が豊かな先進国だと世界から見られるようになって、まだ4
0年しかたっていないということです。

 言い換えると、日本という国が、移民を出さずに、国内で1億
2000万人の国民を養えるようになったのは、たかだか40年前
からなのです。

 1億を超す国民を養うのは大変な努力が必要です。
 私たち日本人は、戦後、苦労に苦労を重ねて、ようやく、1億
2000万人の自国民を養えるようになったのです。
 そして、その過程で、石油をはじめとする地球上の資源を非常
に多く使っています。

 いま、日本と同じことを、中国とインドがやろうとしています。
 中国の人口は13億5000万人、インドは11億人です。
 いずれも、日本の人口の10倍です。
 この国が、10億人を超す自国民を、養おうというのです。
 資源の消費は、半端なものではありません。

 中国は、1980年代までは、石油の輸出国でした。日本も中
国から石油を買っていました。
 ところが、いまや、中国は、石油の大輸入国です。
 経済成長に伴い、石油が必要になってきたのです。
 13億人の人たちが、生活水準を上げてきたのですから、石油
はいくらあっても足りなくなります。
 尖閣列島を中国の領土だと主張し始めたのも、それが関係しま
す。あの近辺の天然ガス資源がひとつの狙いです。1980年代、
石油を輸出していたころの中国は、尖閣が中国の領土だなどと主張
していませんでした。

中国は、13億人分の食料や住宅も確保しなければなりません。
そのためにどうしているかというと、アフリカに出て行って、ア
フリカのジャングルを開発し、木材を持ち帰っています。このまま
では、アフリカの荒廃が心配されます。

 インドも同じです。

 地球上の人口が急増しているのに、地球上で未開の地はもうあり
ません。
 1620年、イギリスからの移民がメイフラワー号に乗って新大
陸・アメリカの地に着きました。
 彼らは、開拓民として、幌馬車隊を作り、西へ西へと、進んで行
きました。 
 それが、「西部劇」となります。
 もちろん、先住民としてインディアンが住んでいたのですが、人
口に大きな差があり、イギリスから移民してきた人間にとっては、
西部は「未開の地」だったわけです。
 この未開の西部が、「フロンティア」です。
 未開の西部、未開の地を目指す精神が「フロンティア・スピリッ
ト」です。
 そして、未開の西部、未開の地を目指す人々を、「パイオニア」と
呼びました。
 このフロンティア・スピリットと、パイオニアという言葉は、ア
メリカ人の好きな言葉です。ケネディ大統領は、就任演説で「ニュ
ー・フロンティア・スピリット」を訴えました。

 空に目を転じましょう。
 シャーロック・ホームズの生みの親であるコナン・ドイルは、ホ
ームズ以外にもたくさん小説を書き、その中に、科学ミステリーと
いうような小説があります。その中に、空の怪物という小説があり
ます。
 この小説は、大空のはるか高いところには、人類が見たことのな
い怪物が住んでいる。これから空の高みを目指すには、この怪物に
どう対処するかが大問題になるーーという内容です。
 この小説は、1900年前後に書かれています。
たかだか、100年前です。
 100年前には、空を飛ぶことがまだふつうではなく、空の高い
ところには、怪物がいると思われていたんですね。ちょうと、深海
には、不気味な海洋生物がいるように。
 そのぐらい、大空も、未開拓だったということなのです。

 南極や北極も、アムンゼンやスコットの活躍によって、極点に達
することができました。

 そして、いま、私たちの住むこの地球上には、だれも行ったこと
のない未開の地というものが、もう存在しないのです。
この200年ほどの間、とくに、この100年ほどの間に、私た
ちは、地球上の未開の地に、行きつくしたのです。
「フロンティア」(未開の地)は、消えてなくなりました。

その一方で、地球上の人口は、爆発的に増えてきました。
広大な未開の地が残されていれば、私たち人類は、その未開の地
に勇気をもって分け入り、石油や、食料や、家を作る木材を手にい
れることができます。しかし、もう、未開の地はないのです。
そうなってしまえば、残された土地や資源の奪い合いになります。
まだ開発の余地のあるアフリカに出ていくというのが、ひとつでし
ょう。海で、海底資源を開発するというのも、有力でしょう。
 実は、それは、いま中国がやろうとしていることです。
 そう考えれば、領土や資源に対する中国の動きは、これから、ど
んどん強くなっていくとわかります。

 未開の地がなくなった。
 しかし、人口は急増する。

 未開の地があれば、資源の総合計が増えて、「プラス・サム」にな
って、解決は簡単です。増えたものを、みんなで分け合えばいいの
です。仲良く分け合うことが出来ます。
 
未開の地がなくなったいま、資源の総合計は増えませんから「ゼ
ロ・サム」です。合計が増えませんから、いまある分量を、だれか
が多く取れば、だれかの取り分が少なくなってしまいます。奪い合
いです。ほうっておくと、力の論理が支配する状況になります。
 いまの中国は、この状態にあります。だから、世界の国と衝突す
るのです。

 さて、そうやって、私たち人類は、
 未開地がなくなった地球上で、人口が急増する
 という状況に置かれています。
 燃え尽きる地球
 爆発する地球
 ――ということになります。

 これが、人類が直面する「時代閉塞の現状」です。
 
 人類がこんな状態に置かれたのは、実は、人類が地球上に登場し
て以来、初めてのことです。
 
 未開の地があった時代は、「探検と冒険」の時代でした。
 チョモランマが初登頂されるまでは、登山者は、チョモランマが
憧れの山だったのです。しかし、いまやもう、だれもが憧れる未踏
の山というものはなくなってしまいました。
 この地球上には、もう、「探検と冒険」の舞台がありません。
 探検も冒険もなくなって、つまらないでしょう?
 どこに行っても携帯が通じますしね。
 そこへ、人口が爆発的に増えてきている。
 
 ひとことでいうと、地球が息苦しくなってきたのです。
 それが人類と地球にとっての「時代閉塞の現状」です。
 
 このでかい「時代閉塞の現状」への回答があるわけではないので
すが、しかし、私なりの考えはあります。
 今回は、長くなりましたので、それは、別の機会に書こうと思い
ます。今月中に書きますので、またお読みいただければと思います。
 今回は、長い文章を読んでいただき、ありがとうございました。
 

時代閉塞の現状(2)・・・世界のすべての国の財政が破たんすれば?

2011年09月01日 14時52分45秒 | 日記

 時代閉塞の現状の続きです。
 前回は、日本における時代閉塞の現状を取り上げましたが、今回は、世界
各国における時代閉塞の現状について書きます。
 
 国の財政が豊かで、黒字であれば、政策の立案・実行は、当たり前のこと
ですが、いまよりかなりやりやすくなります。
 国あるいは自治体で、財政支出の大きなものは、なんといっても社会保障
です。年金や健保、介護、生活保護、それに医療費など、おカネのかかるも
のばかりです。
 財政が黒字であれば、その黒字を、惜しむことなく社会保障につぎ込めば
いいのです。

 
 しかし、実際は、財政の収入が増えないで、社会保障の支出の拡大が続い
ています。そうなると、財政が赤字になるのが当然です。

 そして、これは日本だけのことではなく、欧州やアメリカでも、同じこと
が起こるわけです。
 途上国はどうかというと、そもそもが、社会保障に十分な資金を回そうと
いうところまで、財政が確立しません。
 北アフリカ諸国では、次々に独裁政権が倒され、高揚した状況が続いてい
ますが、国家財政をどう確保していくか、これからが大変です。

 もちろん、社会保障だけではありません。政府の財政支出が拡大する分野
は広範な分野にわたります。
 たとえば、農業の維持や保護があります。 防衛費もそうです。防衛費な
ど、なければないにこしたことはないのですが、現状では、そうも行きません。
 公共事業もそうです。たとえ新規事業をしなくても、既存の道路や橋は、
そのままでは壊れていくので、維持・管理が必要です。
 
 そうやって、一生懸命、国家運営をしていると、どんどん、赤字になって
きました。

日本だけが赤字なら、日本のやりかたが悪いということですむのですが、
各国とも、同じような状況です。

 アメリカは大赤字で、先日も、国債の発行限度をめぐってオバマ大統領と
議会が対立しました。


 欧州もそうです。イギリスもドイツもフランスも大赤字、ギリシ
ャは赤字で破たん寸前です。
 アジア・アフリカの途上国はもともと赤字です。
 ブラジル、アルゼンチンの南アメリカ諸国も厳しい財政状態です。

 いま財政が黒字なのは、サウジアラビアやUAEなど一部の産油国だけで
はないでしょうか。それは、たまたま国土から石油が出たという幸運による
もので、ほとんど例外的な存在でしょう。

 世界中のすべての国の国家財政の収支を総合計すると、かなりの額の赤字
になります。
 これをいったい、どう考えればいいのでしょう。

 一国や二国ならともかく、地球上にあるすべての国が軒並み赤字で、総合
計も赤字になる。
 これはもう、現在のシステム、国や政治、行政、そして、経済のシステム
が、どこか根本的なところでおかしいということだと思います。

 各国とも、このまま赤字が拡大するとします。
 赤字がどんどん拡大すると、ギリシャ、アイスランドだけではなく、地球
上のすべての国が破たんするというシナリオも出てきます。

 もし、地球上のすべての国で財政が破たんするとすれば、いったい、どう
いうことになるのでしょうか。ひとつは、無政府状態ですね。アナーキーな
状態です。
 
 実は、ハリウッドの映画には、こういうアナーキーな設定がよくあります。
 映画「ロボコップ」は、B級の名作といってもいいような名作です。この
映画は、近未来のデトロイトかシカゴが舞台になっていますが、その都市を
支配するのは、市ではなく、オムニ社というハイテク企業です。市は、存在
することは存在するのですが、財政が破たんして、有名無実な存在になって
います。だから、行政も警察も、事実上、このオムニ社が、コントロールし
ているのです。
 アメリカの映画は、こういう設定が多いのです。
 それは、ハリウッドの映画製作者たちが、無意識のうちに、国や自治体の
破たん・崩壊ということをイメージしているからのように見えます。

 国や自治体が破たんしても、それを受け継いだ企業が切り盛りして、ちゃ
んと運営できるのであれば、それもよさそうに見えますが、そうはいきませ
ん。
 企業の論理だけで運営すると、コストのかかることは切り捨てることにな
ります。それは、結局のところ、社会的な弱者の放置ということです。言い
換えれば、社会保障の切り捨てです。
 では、社会保障を切り捨てず、社会的弱者も救済して、ということになる
と、結局、現在の国や自治体のシステムということになります。
 そして、そのシステムが、赤字を出してうまくいかなくなったわけです。
 社会保障をきちんとやれば財政赤字になり、社会保障を切り捨てれば財政
は少しはラクになるけれど国や自治体の存在意義が失われるーーという矛盾
した関係になります。これは、経済学でいうところのトレードオフ(両立で
きないもの)という関係にもなります。

 たぶん、こうした矛盾は、ずっと以前からあったのです。
 戦前の各国は、そうした矛盾を、領土拡張によって埋めてきました。
 世界中に植民地を作り、植民地の労働、もっといえば搾取によって、本国
が豊かに暮らすという構造です。
 欧米各国は、そうやって、植民地を広げました。
 それが帝国主義の時代です。
 その領土的な野心がぶつかり、二度の世界大戦になったわけです。

 戦後、そうした帝国主義的な領土的野心を、各国は、捨てました。
 中国はいま、例外的に、帝国主義的な領土拡張を考えているようですが、
それは、別の回に譲ります。
 
 戦後、各国は、国内の矛盾を植民地の搾取によってカバーするということ
が出来なくなり、国内の矛盾は国内で解決しなくてはいけなくなりました。
 そして、戦後65年が過ぎてみると、どこの国も財政赤字を抱え、どうに
も、解決が難しいような状態になってきました。

 私たちが、長い間かかって築き上げてきた政治・経済のシステムが、どう
もうまくいかないということが、いま、私たちの眼前に立ち現われてしまっ
たのです。
 それが、世界規模での「時代閉塞の現状」です。

 さて、これをどうすれば解決できるのか、答えはまだありません。
 ただ、いまの政治・経済のシステムが、どこかでうまく機能しなくなって
きたことは、分かる。そして、それは、領土的な野心で解決するものではな
いということも分かる。
 問題の所在が分かれば、半分解決したようなものです。
 
現在の政治・経済システムがうまく機能しなくなった。
そして、それが、世界的な「時代閉塞の現状」である。
もしそうだとすれば、政治・経済システムそのものを再検討するという国
際的な努力が必要になります。
気の遠くなるような作業ですが、今日の私たちには、その作業が必要にな
っているのではないでしょうか。