尖閣とシャープの記事に、多くのコメントをいただいて
います。
ありがとうございます。
感謝します。
ただ、いまは、プロ野球と統一球の話を書いている最中
でした。そこで、コメントとはちょっと関係ありませんが、
引き続き、統一球の話を書きます。
ご了解ください。
東京ドームに野球を見に行きます。
7回を終え、好きなチームが0-2で負けているとしま
しょう。
昨年2011年から導入された統一球だと、試合は、ほ
とんど、0-2のまま終わります。
統一球は飛ばないので、ヒットが出にくいのです。
きょう、日本シリーズが始まり、巨人が日本ハムを8-
1で下しました。
一見、巨人が大量点を取ったように見えます。
しかし、巨人のヒットは、右打者が振り遅れてライト前
にぽとりと落ちたものとか、1、2塁間をゴロできわどく
抜いていったものばかりでした。
目のさめるような鮮やかなヒットは、ほとんどありませ
んでした。
野球を見に行って、好きなチームが0-2で負けている。
そして、そのまま負けてしまう。
これでは、サラリーマンが会社で経験する「日常」と変
わりがありません。
私たちは、なぜ、野球を見にいくか。
9回、3点差で負けている。
しかし、そこからバッターが快音を響かせ、走者をため
て、満塁の絶好機を迎える。。
たのむぞ。
球場に駆けつけたファンの思いを背負った次のバッター
が、期待に答えてホームランを打ち、3点差をみごとに逆
転する。あるいは、逆転サヨナラ勝ちをおさめる。
私たちは、その瞬間を見たいのです。
3点差で負けているゲームを、満塁ホームランで一気に
逆転する。
それは、日常生活では、なかなか経験することのない特
別な一瞬です。
満塁ホームランの瞬間に、「日常」は断ち切られ、日常
ではないもの、「非日常」が、私たちの目の前に、鮮やか
に立ち現れるのです。
そうです。
私たちが野球、あるいは、プロスポーツを見にいって、
味わいたいのは、日常ならざるもの、すなわち、「非日常」
なのです。
淡々とした「日常」が、すぱっと断ち切られ、普段は経
験することのない「非日常」が、目の前に出現する。
そんな瞬間は、なかなか、あるものではない。
しかし、プロ野球は、その瞬間を、日常が断ち切られて
「非日常」が出現する瞬間を見せてくれる。
下世話な言い方をすると、それは、「憂さを晴らす」と
いうことになります。
0-2で負けている試合が、逆転する気配もなく、その
まま淡々と0-2で負けてしまうのであれば、プロ野球は、
ただの「日常」の続きでしかないのです。
東京ドームで「日常」しか見ることが出来ないのであれ
ば、それは、私たちが、日々、会社で経験していることと
変わりがありません。
私たちは、東京ドームに、あるいは甲子園や、広島市民
球場、名古屋ドームに、会社では起こりえない「非日常」
を見に行くのです。
淡々と流れる「日常」が、もののみごとに断ち切られる
瞬間を見に行くのです。
統一球は、その「非日常」の魅力を、プロ野球から奪っ
てしまいました。
そうして、プロ野球は、本当につまらなくなりました。
プロ野球から魅力を奪った統一球には、「加藤良三」と
いうサインが入っています。
統一球を導入したコミッショナーのサインです。
私たちは、コミッショナーのつまらないサインを見に、
球場に足を運ぶわけではないのです。