いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

菅首相のキャパシティ・・・厚労相と首相の違い。

2011年01月06日 23時39分49秒 | 日記

 菅首相は、もう何年も前、厚生労働相をしていたころは、輝いていた。
 まだ自民党が政権にいたころの話である。
 
 薬害エイズ問題をめぐる訴訟で、原告側に有利な資料を、厚生省の官僚は
「見つかりません」「なくなってしまいました」と話し、知らん顔をしていた。
 
 ところが、菅直人が厚労相になり、その資料を探させたところ、2、3日も
しないうちに、官僚が「倉庫にありました」といって持ってきた。

 これは、薬害エイズの被害者が救われる大きなきっかけになった。
 
 当時、新聞やテレビで大きく取り上げられ、
自民党の有力閣僚は、
 「いやー、地元に帰るとね、後援会の人たちから、
  菅さんはかっこいい、先生も菅さんのようにやってくださいよ
  と言われてねえ。
  でも、確かに、菅さん、かっこよかったね」
 と苦笑していた。

 当時の菅直人は、そのぐらい、かっこよかったのである。

 有権者は、当時の菅厚労相を記憶している。
 菅直人が首相になったとき、だから、有権者は期待した。

 それが、どうして、この体たらくになってしまったのだろうか。
 あの菅厚労相は、いったいどこへ行ったんだろうと、首をひねってしまう。

 年末の週刊誌の対談で、立花隆氏が、
 「菅直人という人に、首相を務めるだけの基礎的能力も力量もない
ことがはっきりしましたね」
 と話している。
 いまの状況を見ていると、もう、その通りだろう。

 菅直人という人は、厚労省の閣僚という、ひとつのある限定された分野
をやる場合は、能力が出たのかもしれない。
 言い換えると、限定的、局所的な「戦術」なら、それなりに力量を発揮
できたのかもしれない。

 しかし、首相、総理大臣となると、すべての分野を把握し、そのうえで、
大きな道筋を描き、提示する能力が必要になる。
 言い換えると、首相は、「戦術」ではなく、「戦略」を求められる
のだ。

 菅直人という人物は、「戦術」なら対応できても、「戦略」となると
からっきしだめなのではないか。

 立花隆氏が「首相を務める基礎的能力」というのは、そのことだ。

 戦略に対応するだけのキャパシティがないのだ。

 鳩山内閣がスタートしたとき、菅直人は、「国家戦略室」という組織を
作り、そのトップに座った。
 ところが、せっかくの国家戦略室は、何もできないまま、どこかへ消えて
しまった。
 なぜか。
 「戦略」室だったからだ。
 菅直人がやるのであれば、
 「戦術」室にとどめておけばよかった。

 この人は、「戦略」には、対応できない。
 戦略に対応できず、戦略に耐えるキャパシティのない人を一国の総理大臣に
してはいけなかったのかもしれない。

 この人は、
 「閣僚」にはなれても、
 「総理」にはなれない人なのだ。

 


 

























 









 

 

感動は「与える」ものなのか?

2011年01月06日 01時20分16秒 | 日記

 お正月のスポーツ中継を見ていて、またかと思った。
 選手がインタビューで抱負を聞かれ、
 「感動を与えられるようなプレーをしたい」
「観客に感動を与えたい」
 などとと答えるのだ。

 「感動を与える」
 とは、なんと、不遜な言葉ではないか。

 この言葉、いろんな意味でおかしい。

 ひとつは、いわゆる上から目線であることだ。
 見ている人に感動を与えるプレーをする
 などという言い方は、日本語としてまずおかしい。
 どうせ言うなら、
 「感動していただけるようなプレー」
 というべきだろう。
 感動は、与えるものではない。

 しかし、本当のところは、日本語の問題ではない。
 たとえ、
 「感動していただけるプレー」
 と言い換えたところで、問題が解決するわけではない。

 というのも、ひとを感動させたいと思ってするプレーなど、
だれも感動してくれないからだ。

 私たちが、スポーツを見て感動するのは、選手がひたむきに
プレーするからこそだ。
 感動させようと思ってプレーする選手など、観客からすれば
しらけるばかりだろう。

 感動は、結果としてついてくるものだ。
 
 去年の夏の甲子園でも、選手宣誓の選手が
 「我々は、感動を与えるようなプレーをし」
 と宣誓していた。
 甲子園は大好きだが、この宣誓には、がっかりした。
 高校生が、観客に感動を「与えよう」と思ってプレーする
というのかね?
 
 ゴルフで、観客のマナーを訴えるCMがある。
 プレゴルファーが何人も出てきて、
 「プレー中はお静かに」
 「プレー中は写真を撮らないでください」
 と呼びかけたあと、
 「私たちも感動を与えるようなプレーをしますから」
 と言う。
 これでいっぺんにしらける。
 
 感動は、結果として生まれるもので、
 初めから感動を「与える」ことを目的としたプレーなど、
あろうはずがない。

 「感動を与えたい」
 という言葉、もういいかげんに、やめませんか。