いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

川崎の殺人事件・・・言われ続けていますが、「少年」の年齢はいくらなんでもおかしい。

2015年02月27日 17時12分02秒 | 日記

 川崎市で13歳の少年、上村遼太君が殺された事件で、きょう
2月27日、3人の少年が神奈川県警に逮捕されました。
 まことに、やりきれない事件です。
 まず、よくまあ、ここまでひどいことが出来るものだという思
いがあります。
 学校の先生をはじめ、周囲の大人たちは、なぜ気がつかなかっ
たのかと思います。大人が気がつかないはずがないだろうとと思
います。ちゃんと対応してやれば、ここまでのことにならなかっ
たのではないでしょうか。

 今回は、そういうことではなく、先に指摘しておきた
いことがあります。
 少年法のことです。
 少年法では、20歳に満たない人間を、少年とします。
 少年というより、「未成年」ですね。
 20歳から「成人」とします。
これは、成人の日に、20歳になった人を祝うわけですから、
その表裏の話です。
 
 しかし、18歳といえば、高校3年生、あるいは、大学1年生
です。
現代の感覚では、大学1年生といえば、もう立派な大人です。

こういう事件が起きるたびに「少年」の年齢を引き下げるべき
だという議論が出ます。
結論を先に書けば、当ブログも、そう思います。
「少年」は、せめて、18歳未満とするべきだと思います。

 周囲を見回してください。18歳、つまり、高校3年生、大学
1年生といえば、体つきは、もう立派な大人です。

現在、選挙権は20歳からということになっていますが、いま、
与野党(共産党などを除く)で、選挙権を18歳からに引き下
げる法案が用意されています。

議員を選ぶ投票権を18歳から与えるなら、「成人」も18歳か
らということにしないと、おかしいでしょう。
そうでないと、「未成年」が国会議員を選ぶことになります。

 昔、昔、江戸時代までは、10代の半ば、12歳から16歳ぐ
らいで、「元服」をしていました。
 元服は、少年が一人前の大人として認められるという儀式です。
 
 もちろん、江戸時代までと現代を単純に比較できるものではあ
りませんが、しかし、日本ではかつて、12歳から16歳ぐらい
で大人としていたことは事実です。
 なにも、20歳にこだわる理由はありません。
 18歳に引き下げて、とくに大きな問題にはならないでしょう。

 もうひとつ、この少年法の規定で、こんな事件のときにいつも
問題にされる話があります。
 被害者はわずか13歳でも名前や年齢、顔写真まで出るのに対
し、加害者は、17歳、18歳でも、顔写真はおろか、名前も年齢
も何も公表されないということです。

 今回のブログでも、冒頭、「被害者の13歳の少年、上村遼太君」
と書きましたが、逮捕された3人は、18歳が1人、17歳が2人と
書くしかありません。
 被害者のプライバシーは、ほとんど表に出てしまうのに、加害
者のプライバシーは何も分かりません。
 よく言われますが、「被害者の人権より、加害者の人権のほうが
守られる」のです。

 逮捕された3人の少年は、まだ起訴されたわけでもなく、まして
や、有罪になったわけでもありません。
 ここに書いたことは、あくまで、一般論です。
 しかし、こうした事件を機に、せめて、「少年」「未成年」の年
齢を引き下げることを、真剣に考えるべきだと思います。



日本の農業の再生のために・・・TPPを農業衰退の言い訳にしてはいけないでしょう。

2015年02月16日 16時15分08秒 | 日記

 前回の記事で書いたように、日本の農業が衰退したのは、TP
Pやアメリカのせいではなく、国内的な要因です。
 かつて、日本の農政を「NO政」と呼んだことがありました。
NO政という言い方は、当時の新聞にも、よく出ていました。
 農業に対するまっとうな政治がないというわけです。
 
 なにしろ、農業をしている人口(農業就業人口)が2013年
で226万人しかおらず、その平均年齢が66歳というのですか
ら、衰退とかなんとかいうより、消滅の危機といったほうがいい
かもしれません。
 
 日本の農業は、内部から崩壊しかねない状況です。
 JA全中も、農水省も、本当に危機感を持って、手を打たない
と、日本の農業は、このままずるずると行ってしまいます。
 
 あえて書きますが、こういうとき、JA全中や農水省にとって、
TPP(環太平洋経済連絡協定)のような外圧は、便利なのです。

 というのも、
「TPPは日本の農業を衰退させる」とか、
「TPPで日本の農家はやっていけなくなる」とか言えば、新
聞やテレビは取り上げてくれます。
そして、自分たちの存在をアピールすることが出来ます。
存在意義を、てっとり早く、アピールできるのです。

これに対し、226万人しかいない農業人口を増やすというの
は、大変な仕事です。2年や3年で出来る仕事ではないでしょ
う。長期的な展望に立った大仕事になります。しかも、成果は
なかなか目に見えてこない。

早い話が、「TPP反対」のほうが、すぐ出来て、簡単なのです。
なにしろ、集まって「TPP反対!」と言えばいいのですから。

そうやって、「外圧」を、言い訳に利用するのです。
それは、1990年代のGATTウルグアイラウンドの時にも
見られた構図です。
このときも、JA全中は「外国米は、一粒たりとも、日本には
入れない」と、猛烈な反対運動をし、農水省も、基本的にはそ
れを支援しました。
「ウルグアイラウンドで外国から安いコメが入ると、日本の農
業は衰退する」
というのが、その理由でした。
結局、1994年に、ウルグアイラウンドは合意されます。
それから、もう20年たちます。
当時の農業就業人口(1995年)は414万人です。201
3年の226万人より188万人多いのですが、しかし、41
4万人というのは、多い人数ではありません。農業人口の減少
は、すでに大きな問題になっていて、農村の高齢化、農村の後
継者不足が、盛んに指摘されていました。

大事なことは、それはウルグアイラウンドのせいではないとい
うことです。

20年前も、20年たっても、同じことを言っているのです。

農村=高齢化というのは、もうずいぶん前から言われていたの
です。ですから、JA全中も農水省も、若い人が農業に「就職」
するような抜本的な対策を立てなければならなかったのです。
でも、その対策は、いまも述べたように、本気で取り組まない
といけませんし、成果が出るのに時間がかかります。
やらなければならない作業ですが、しんどい作業です。

それに比べ、「ウルグアイラウンド反対」というのは、簡単で
す。人が集まって、「反対」といえばいいのですから。

ウルグアイラウンドは、合意に際し、政府が農業に対し、「ウル
グアイラウンド対策費」として、6兆100億円の予算をつけ
ました。
2015年の日本の防衛費が4兆9000億円で、過去最高と
話題になりました。過去最高で4兆9000億円です。それに
比べると、1995年のウルグアイラウンド対策費、6兆10
0億円がいかに大きいか、よくわかります。
ところが、それだけのお金を出して、日本の農業人口は、なお、
減り続けているのです。何をしてきたのでしょう。

TPPやウルグアイラウンドのような「外圧」は、利用しやす
いのです。
TPP反対、ウルグアイラウンド反対というのは、大変簡単な
ことです。そして、とりあえず反対といっていれば、存在をア
ピールできます。
しかし、日本の農業がここまで衰退したのは、TPPのせいで
はありません。TPPはまだ始まってもいないのですから。
日本の農業の衰退の言い訳、エクスキューズとして、TPPを
利用することがあってはならないでしょう。





農協改革。日本の農業を衰退させたのは・・・学生が農業に就職するにはどうすればいいのでしょう。

2015年02月12日 16時11分10秒 | 日記

 安倍政権が、農協改革に着手しました。私は必ずしも安倍首相
を支持するわけではありませんが、しかし、今回の農協改革に関
しては、よくやったと思います。
 簡単にいえば、全国農協中央会(JA全中)による農家に対す
る統制を緩めようということに尽きます。
 新聞、テレビを見ていると、賛否両論あるようです。
 
しかし、私は、日本の農業を改革するポイントは、若い人にど
うやって農業の世界に入ってもらうかという、その一点にかか
っていると思います。
今回の改革がその小さな一歩になればいいと思います。

これから就職を目指す大学生の就活のシーズンに入ります。
東京の大手町や丸の内も、濃紺のスーツに白いシャツという就
活ルックの学生が、目に着くようになります。

さて、では、そういう学生の一人が、
「農業に就職したいなあ」
と思ったら、いったい、どうすればいいのでしょう。

そうなんです。
農業に就職したいと思っても、どうしたらいいのか、さっぱり
分からない。
というより、道がない。
JA全中が、農業に就職しませんかという募集活動をしたという
話は聞きません。
全中の改革に着手した政府の側にしても、農水省がなにかそうい
う募集活動をしたという話は、聞きません。
全中も農協も、農水省も、新卒の学生に対し、
「農業にいらっしゃい」というような募集活動をしたことは、まず、
ないでしょう。

これに対し、
企業は、電機メーカーや自動車メーカー、銀行、証券、生命保
険など、いろんな業種の企業が、一斉に採用計画を発表し、い
い学生を採用しようとします。
大企業だけではありません。中堅企業や中小企業も、いい人材
を確保しようと、合同で就職説明会をやったり、採用情報をあ
れこれ流したりする。

ところが、農業って、そういう活動を全くしません。
 
就職は農業にと考える学生もいるはずです。
ところが、いわゆる「リクルート」のなかで、農業は、埒外に
置かれているのです。

いわゆる就活は、「農業を除く」なのです。

どうしてこんなことになっているのでしょう。
日本の農業は、基本的には、農業をやっている家で、息子(場
合によっては娘)が跡を継ぐということでしか、農業は出来な
いのです。

そんなことはない。テレビで、脱サラして農業に入った人の話
を、やるじゃないか。
そういう声が出るかもしれません。
いや、それは、脱サラして農業を始めた人が、「ニュース」にな
るからです。なぜニュースになるかというと、珍しいからです。
脱サラして農業を始めた人がテレビに取り上げられいる間は、
農業は、だめでしょう。

大学を卒業する学生が、「私、農業をやりたいんですけど」とい
うとき、それに答えられる道が広く開放されてこそ、初めて、
日本の農業は、再生のコースに乗るのではないでしょうか。

いま、日本で農業をやっている人は、何人いると思いますか。
農水省の統計によると、2013年の時点で、日本の農業人口
は226万人です。
これは、タイプミスではありません。
たったの226万人です。
日本の総人口は1億2000万人ですから、わずかに、その1・
8%にしかすぎません。

しかも、これだけ少なくて、まだ減り続けているのです。
その4年前、2009年の農業人口は289万人でした。
たった4年間で、73万人も減っています。

JA全中は、TPP(環太平洋経済協力協定)に反対していま
す。TPPが締結されると、海外から農産物がさらに入ってき
て、日本の農業は衰退するというのです。

しかし、日本の農業人口がここまで減ったのは、TPPのせい
ではありませんよ。
TPPともアメリカともまったく何の関係もなく、日本の農業
人口は減り、日本の農業は衰退しているのです。
この日本の農業の衰退に、では、JA全中は、いや、農水省は、
そして、農業は、いったい、何をしていたのでしょう。
同じ農水省の統計によると、2013年の時点で、日本の農業
人口239万人のうち、65歳以上は147万人を占めます。
なんと61%です。
平均年齢も上がります。
日本の農業の平均年齢は、66・2歳です。

こんな状態で、農業を再生させるのは、無理です。

ひと目で分かりますが、いまの日本の農業に必要なのは、若い
人が農業に携わることです。
大学生にも、農業をやりたいという人が多いはずです。どの大
学にも農学部があるでしょう。もちろん、農学部じゃなくても、
農業をやりたいという人は少なくないはずです。
ところが、そういう学生が就活で農業を希望しても、いったい、
どこに行けばいいのか、さっぱりわからない。
日本の農業は、若い人が農業に就職する道を閉ざしているとし
か思えません。

日本の農業をおかしくしたのは、TPPやアメリカなど海外の
動きや海外の要因ではありません。
日本の農業をおかしくしたのは、日本国内の動きであり、日本
国内の要因です。全中の責任は大きいでしょう。それ以上に、
それをほうっておいた農水省の責任は大きい。
農協改革を、その改革の第一歩にしないといけないでしょう。






朝日の「素粒子」の質が落ちました・・・荒っぽくなり、これではツイッターの捨て台詞です。

2015年02月10日 21時40分02秒 | 日記

少し体調を崩し、引きこもっておりました。
 その間、新聞は読んでいました。読んでいて、朝日の夕刊のコラム
「素粒子」が、荒っぽくなったなあということを、つくづく感じました。

「素粒子」というのは、朝日の夕刊の題字下にある小さなコラムです。朝日
といえば、朝刊の天声人語が有名ですが、夕刊の素粒子も同じような伝統の
コラムです。
 素粒子は、1つのテーマを4行で書きます。それを3つ並べます。
 これを毎日続けるのは、大変です。
 テーマを毎日3つ選び、しかも、1つのテーマをわずか4行で書くのです。
筆者にかかるプレッシャーは相当なものだと思います。

私は、中学生のころ、「素粒子」があることに気が付きました。
非常に短い文章で、 日々のニュースに鋭く切り込むので、感心して読んで
いました。
 短いけれど、その文章が素晴らしかった。
 毎日、このコラムを楽しみにしていました。

 ところが、最近、そのコラムの調子がおかしい。
 おかしいというより、無茶苦茶だと思います。

例をあげましょう。
2月9日の月曜日の夕刊です。もちろん2015年です。
「自衛隊は出したい。写真家は出したくない。それが自己責任であっても。
国に任せて余計なことはするなの思想」
新潟のカメラマンが、シリアに入ろうとして、外務省に止められ、それで
もなお行こうとして、パスポートの返還を求められた一件を取り上げたも
のです。
この一件は、案の定、朝日が一番大きく取り上げ、「表現の自由、報道の自
由」を制限するのかという視点で記事を書いていました。あるいはまた、
朝日は、「憲法には移動の自由が定めてある」という書き方もしていまし
た。

記者であれば、だれしも、この一件は、考えさせられます。
表現の自由、移動の自由というものは、制限されないのがいいに決まって
います。

しかし、いまシリアに入ると、「イスラム国」につかまって、また、身代金
や捕虜との交換など、交渉の材料にされる可能性が高いことは、もう、間
違いありません。

記者であれば、同じ立場に置かれたら、だれだって、悩んでしまうでしょ
う。
簡単に答えの出る話ではないと思います。

それを、「素粒子」は、
「自衛隊は出したい。写真家は出したくない」
と、一方的に決めつけて書いてしまう。
しかも、あろうことか、自衛隊を絡めている。

 後藤健二さんが犠牲になった後、国会での質疑で、野党から、自衛隊を出すこ
とはあるのかという質問が出ました。これに対し、安倍首相は、イスラム
国を攻撃するために自衛隊を出すことはありませんと明言しています。ま
た、邦人警護という意味でも、否定的な言い方をしています。イスラム国
との関係で、さすがの安倍首相も、自衛隊の派遣には、どんな形にせよ、
今回は一貫して否定的な言い方を維持していました。
 それなのに、「素粒子」は「自衛隊は出したい」と書いてしまう。
 これはいくらなんでも、やりすぎだろうと思います。
 安倍首相は、集団的防衛権の絡みで、邦人を保護するためには自衛隊を海外
に出したいとは言っています。
 しかし、それは、今回のイスラム国の話ではありません。
 それなのに、「素粒子」は、イスラム国の話題とひっかけて、「自衛隊は出し
たい」と書いてしまう。
 これは、「ためにする論議」です。

 そうやって、
 「自衛隊は出したい。写真家は出したくない」
 と、無理やり重ねて書いてしまう。

 これは、反対のための反対としか、言いようがありません。

 しかも、それに続けて、
 「それが自己責任であっても。国に任せて余計なことはするなの思想」
 とは、これも、書きすぎでしょう。
 シリアには行かないでと3回にわたって警告し、それでも行こうとしたフリ
ーの写真家に、最後の最後、パスポートを返還させる。たしかに、ではどうす
るべきか、正解の出にくい話です。でも、ここに「国に任せて余計なことはす
るな」という「思想」を感じますか?

 素粒子は、乱暴になりました。
 素粒子ではなく、粒子が荒れてしまっています。
 この素粒子を読んでいて、デジャブ、既視感を感じるのです。
 あ、そうかと、思い当たることがあります。
 ツイッターです。
 ツイッターは、短い文章で思うことを発信するため、非常に攻撃的な文章に
なり、言いっぱなし、あるいは、捨て台詞のような内容になってしまう傾向が
強いのです。
 一時の橋下徹・大阪市長のツイッターがそうでした。
 相手に喧嘩を売っているような文章になる。
 素粒子は、まさしく、それです。
 いまの素粒子は、ただのツイッターです。
 ただただ、荒っぽい言葉で政府を攻撃すればいいというものではないでしょ
う。
 中学生のころ、感心した素粒子とは、もう、比較すべきもありません。
 朝日新聞の質の低下は、こういうところにも、出ているように思います。



記者にとって現場とは何か・・・後藤健二さんのご冥福をお祈りします。

2015年02月06日 11時27分28秒 | 日記

 後藤健二さんは、残念ながら、生還することなく、亡くなって
しまいました。
 キリスト教徒と思われるお母さんが「健二は長い旅に立ちまし
た」と話されていました。
 ご冥福をお祈りします。

 後藤さんが亡くなったあと、外務省が、後藤さんに”イスラム
国“に入らないよう、3回にわたって、連絡していたことが明ら
かにされました。
 外務省は、“イスラム国”のあるシリアには渡航しないよう、情
報を出しています。しかし、それを無視して、朝日の記者がシリ
アに入って原稿を書いたというので、問題になっています。

 危険な所の取材をどうするかというのは、記者にとって、いつ
も大きな問題となります。

 ひとつ言えるのは、記者にとっては、「現場」こそ第一といこと
です。

 後藤さんの残された取材のビデオを見ると、現場ならではの様
子が、なまなましく伝わってきます。
 後藤さんが撮ったビデオは、私たちに、中東の戦地の人たちの
暮らしを伝えてくれます。
 そうか、あの人たちは、こうやって暮らしているのか。
 そういうことが分かります。

 朝日の記者が書いた原稿は、2月の朝日の夕刊に載りましたの
で、読んでみました。
 やはり、現場ならではの臨場感が、原稿にはあります。
 
 記者にとっては、やはり、現場が第一だなあと思わされます。
 
 

記者が戦地で死ぬというのは、今回が初めてではありません。
 1960年代、70年代というのは、ベトナム戦争がひどかっ
たころです。
 このころ、ベトナムと周辺国で、日本人記者が何人も亡くなっ
ています。
 いま記憶しているだけでも、日経新聞の鮫島記者、UPI通信
の沢田教一カメラマンが、亡くなっています。
 当時は、新聞、テレビとも、それほど大きくは扱っていないの
で、いまも、あまり言及されることはありません。しかし、記者
なら、名前ぐらい知っているのではないでしょうか。

 どんな場所であっても、だれかが現場に行かないと、事実は伝
わりません。

 問題は、そこで何かあった場合、日本、この場合、日本政府、
日本人、日本という国、そのすべてを含みますが、日本はどう対
応するべきかということです。
 後藤健二さんは、そこは、よく考え、よく分かっていたようで
す。だからこそ、”イスラム国“に入る前に、自ら撮ったビデオで
「すべての責任は私にあります」と断言しています。
 朝日の記者に、そこまでの覚悟があったのかとうか、それは、
朝日の紙面では何も言及されていなかったので、なんとも言えま
せん。

 現場という場合、なにも、戦地だけではありません。
 東日本大震災の被災地もそうですし、福島第一原発もそうです。

 いや、もっと、日常的な場所だって、現場です。新橋の駅前や
銀座の人波、その土地その土地の街並みには、日本経済のありよ
うがそのまま現れます。
 学校のクラスには、現在の学校教育のありようが、そのままに
じみ出ます。

 今回の事件は、記者に対し、
 「現場」
 にどう迫るのか
 その問いや覚悟を、改めて、突きつけたように思います。
 
 後藤健二さんのご冥福をお祈りします。