いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

千鳥ヶ淵は桜が満開です・・・今回は皇居・千鳥ヶ淵の桜だよりをお届けします。

2013年03月29日 12時14分37秒 | 日記

 今年は、いきなり春が来ました。
 東京も、先週、桜が満開となり、今秋はもう
散ってしまうのではないかと心配していました。
 しかし、先週末から少し気温が下がったため、
満開の桜が、そのまま持ちこたえています。

 28日の木曜日、神田・神保町に用事があった
ので、その後、皇居の千鳥ヶ淵まで歩いてみました。

 すると、桜がみごとに満開となっていました。
 ほとんど、まだ、散っていません。
 千鳥ヶ淵の桜は、散り始めると、皇居のお濠を
花びらで埋め尽くしてしまいます。
 それもまた、みごとなものです。

 しかし、この日は、水面を見ても、花びらが
ありません。
 まさに満開です。

 本ブログは、福島への訪問記を書いているところ
ですが、千鳥ヶ淵の桜があまりに鮮やかなので、
今回は、その写真をお届けします。


 千鳥ヶ淵は、お濠と桜のコントラストが際立って
います。

 お濠には、貸しボートがあって、お濠には
たくさんのボートが浮かびます。

 ここは、都心も都心、東京の真ん中ですが、
この写真を見ると、とても、東京の真ん中とは
思えません。
 向こうにビルが見えるのが、わずかに東京らしい
といえるかもしれません。
 
 桜は、お濠に向かって枝を伸ばし、ほとんど
水面ぎりぎりまで、花を咲かせます。

 千鳥ヶ淵は、水面すれすれに満開の桜が咲く
という独特の景色を作ります。
 この写真は、その特徴がよく出ています。


 これは日本だなあと思います。
 
 木曜日は、平日で、ゆっくり桜を見ることが
できました。
 でも、この週末、3月の30日の土曜日、
31日の日曜日は、千鳥ヶ淵は、きっと、
すごい人出になるのでしょう。
 しかし、ここは、それだけの価値があります。

 では。

福島のいま(2)・・・初めて、楢葉町の役場の周辺まで入れました。

2013年03月28日 00時43分41秒 | 日記

 私と、Aさん、Yさんは、原発からわずか10キロ
の所まで行きました。そこに検問所があるため、さすがに
そこから先には、許可証がないと行けません。


 この検問所があるのは、楢葉町(ならはまち)のもっとも
原発よりの地点です。
 検問所から先は、もう、富岡町になります。
 富岡町は、福島第二原発のある町です。
 そして、富岡町からさらに向こうは、大熊町です。
 大熊町には、福島第一原発があります。


 楢葉町の端まで行けたのは、楢葉町が、立入禁止の
規制解除に向けて、解除の準備地域に指定されたからです。
 
 原発事故から2年たち、放射線量も落ち着いてきたので、
帰宅に向けて準備し始めたということなのですが、しかし、
事故を起こした原発からわずか10キロという距離では、
なかなか、帰宅を実現するのは、難しいかもしれません。

 その先の富岡町、大熊町は、まだまだ規制解除の準備
さえ、簡単には始まりません。
 
 実際に現地に行ってみて感じるのは、このあたりが、
非常に美しい景色だということです。
 なにもなければ、穏やかで美しい田園地帯です。
 住民のみなさんの帰郷の思いは、いかばかりでしょう。

 この検問から少しいわき市のほうに戻ると、楢葉町の
役場があります。
 去年は、ここも立入禁止区域になっていましたので、
今回、初めて楢葉町役場に行くことができました。

 そして、これが楢葉町役場です。


 役場のすぐ横に、楢葉町コミュニティセンターがあ
ります。


 立派な建物です。
 原発が立地する自治体は、原発の見返りがあるので、
どこも立派な公共施設が目につきます。
 何度もご覧いただいているJヴィレッジの看板の
写真を、また掲載しますので、ちょっとご覧になって
ください。

 読めるでしょうか。
 よく見ると、「楢葉町中高一貫教育施設」という文字が
読めます。
 ここはJヴィレッジなのですが、Jヴィレッジは
楢葉町にあって、その一部は、中高一貫教育施設とい
う位置づけになっているわけです。

 原発は、建設にあたって地元自治体の了解を取り付
ける一方で、地元自治体に見返りを提供します。
 楢葉町でも、実際に、こうした立派な施設を見ていると、
原発の立地を了解した見返りがいかに大きかったか、
実感としてわかります。
 良い悪いということではなく、そういう事実がある
ということです。

 さて、楢葉町役場の正面に、ガラスがはまった掲示板
がありました。

 近寄ってみると、書類がたくさん掲示されています。
 役場が住民に向けて連絡する書類のようです。
 ガラスがしっかりと閉じられているので、中の書類が
良い状態で残っています。
 ガラス越しに、書類が読めます。
 読んで、驚きました。

 平成23年2月28日 という日付けがはっきり
読めます。
 町議会を招集するという書類です。
 大震災が平成23年(2011年)3月11日です
から、その10日ほど前の書類です。

 もっと驚く書類もありました。

 なんと、平成23年3月10日の書類です。
 楢葉町の国民健康保険の条例を一部改正しますという
お知らせです。
 これは、大震災の1日前の書類です。

 あの日から、この書類は、ずっと、ここに掲示され
たままだったのです。
 楢葉町は、大震災と、それに伴う原発事故のため、
2011年3月11日で、時間が止まってしまったと
いうことです。
 
 3月10日というと本当に大震災の1日前です。
 大震災が来る直前まで、穏やかな日常生活があった
わけです。
 そう思うと、なにか、切ないものがあります。

 楢葉町役場から、ふと後ろを振り返ると、こんな
建物が目に飛び込んできます。

 まるで、お城の天守閣みたいです。
 この日はいい天気だったので、青空を背景に浮かび
あがったような感じです。

 しかし、近寄ってみると、とんでもないことになって
います。
 ご覧ください。

 壊れています。
 大震災の直撃で、破壊されたのでしょう。
 修理しようにも、原発事故で楢葉町が立入禁止となった
ため、そのままほうっておくしかなかったのです。
 屋根が壊れて垂れ下がっており、かなり危険です。
  
 きっと地元では有名な建物だったのでしょう。
 しかし、これは、ちょっと手をつけるのが難しそう
です。

ここでも、時間は、あの日以来、止まったままに
なっていました。


 (次回は小名浜港の様子をお届けします)。


福島のいま(1)・・・福島原発の立入禁止の検問所まで行ってみましょう。

2013年03月24日 23時53分53秒 | 日記

 しばらくの間、取材メモから、震災の記録を振り返って
きましたが、今回から、新しい取材の記録をお届けします。

 この週末を利用して、福島を取材してきました。
 今回は、友人のAさんとYさんも同行してくれました。

 東京から常磐道に乗り、いわき勿来で降り、小名浜港
に入ります。
 小名浜のあと、津波で集落がそっくりさらわれた豊間
地区に向かい、2年たって、どうなっているかを取材
します。
 そのあと、いわきの中心地に行き、いわきの今を見ます。

 そして、福島原発に向かいます。
 検問ラインが変更されたという記事がありましたので、
では、いったい、どこまで原発に近づけるのでしょうか。

 今回の取材は、そういうルートです。

 小名浜港と豊間地区は次回掲載することにして、まず、
原発にどこまで近づけるかーーです。

 このルートは、地震直後の2011年4月末と、
1周年の2012年4月の2回、取材で通りました。
 そのときは、福島原発は20キロ規制があり、原発から
20キロ圏内は立入禁止となっていました。
 
 そのときの写真がこれです。

 2011年4月に撮影したものです。
 これは、国道6号です。
 国道6号は、東京からいわきを経て、福島原発を通って、
仙台に抜ける道です。
 この交差点が、福島原発からちょうど20キロに当たる
というわけで、ここで、検問がありました。
 検問といっても、ご覧のように緩い検問です。まあ、
ここを突破して、事故を起こした原発に突入しよう
という車はまずないでしょうから、この程度の検問で
いいのでしょう。
 そして、この交差点のすぐ横が、サッカーの日本代表が
合宿をするJヴィレッジです。

 もちろん、原発事故後は、サッカーはやってません。
 事故後は、事故対策チームの拠点として使われています。
 なにしろ、合宿用の宿泊施設はあるし、広いグラウンド
もあるし、対策チームの拠点としては、実に都合のよい
施設だったのです。
 このJヴィレッジを、20キロの圏外としたのは、
かなり、政策的なにおいがします。Jヴィレッジを
事故対策の拠点として使いたかったのだと思います。

 さて、今回、そこまで車で行ってみると、この検問所
が撤廃されています。
 事故から時間が経ち、立入禁止の区域そのものが縮小
されたという報道が、昨年来、いくつかありました。
 それに伴うものでしょう。
 ここが原発から20キロの地点です。
 今回は、まったく検問がなくなっているので、国道
6号線を、さらに原発に向かって進みます。
 
 どこまで行けるのだろうと、車を走らせると、かなり
先まで進めます。
 車の距離計を読んでいると、10キロ近く進みます。
 そこに、ようやく、検問所がありました。

 これは、間違いなく、福島原発から10キロの検問所
です。
 原発事故から2年たち、住んでいる人が入れるよう、
立入禁止の区域が縮小されてきたのです。
 ここから先は、許可証がないと入れませんが、見ていると、
作業車が、何台も出入りしています。
 なかには、住民の方の車とおぼしき普通の車もまじって
いるようです。

 少し離れてみましょう。

 手前から奥に向かう道路が国道6号線です。
 この交差点が、原発からちょうど10キロに当たると
いうわけです。


 2011年、2012年当時の20キロの検問所より
ものものしい検問所となっています。
 原発に近いだけに、検問を厳しくしているのでしょう。


 交差点の左側には、警察の機動隊車が2台、停まって
備えています。

 近寄ってみると、大阪ナンバーです。
 「大阪府警」と書いてあります。
 写真を撮っていると、なかから機動隊員が一人、
 「こんにちは」
 と、降りてきました。
 私も、「こんにちは」とあいさつを返すと、
 「なにかご用ですか?」と聞かれました。
 「はい、ちょっと取材に」と答えると、
 「ああ、そうですか」という返事です。
 交代で、ここに警備に来ているそうです。
 非常に丁寧な応対ですが、まあ、わざわざこんな
所まで来る人もないので、警戒されたようです。

 同行のAさんが
 「大学の授業で使いたいので、あなたの写真を
撮ってもいいですか」
 と尋ねると、
 「いや、私の写真は困ります。上の許可を取って
いただかないと・・・」。
 
 警戒されました。

 同行のYさんは
 「上の許可だなんて、写真ぐらい、自分の判断で
OKすればいいのになあ」
 とつぶやいていました。

 この機動隊車のすぐ後ろに、きれいな家があります。

 おしゃれな家で、立派な建築です。
 震災と、原発事故があるまでは、なにごともなく、
田園生活を送っていらっしゃったのでしょう。
 いまは、主もなく、空き屋となっています。
 ただ、荒れた様子もなく、きれいなたたずまいです。
 きっと、立入禁止の規制が縮小されたのを機に、
この家の方が、掃除に戻ってこられているのでしょう。
 ただし、さすがに、住んではいらっしゃらないようです。
 
 さて、この10キロ地点で、放射線量は、どのぐらい
あるのでしょう。
 昨年、秋葉原で、放射線量計を買いました。
 いわゆるガイガーカウンターです。
 この日、東京を出るとき、丸の内で線量を測ると、
  0.14マイクロシーベルト
 でした。
  いわき市内で測ると、
  0.16マイクロシーベルトでしたが、一瞬だけ、
  0.20シーベルトを指していました。
  ただ、この線量計にも、
 「0.4マイクロシーベルト以下は低レベル」
 と書いてあり、いわき市内でも、気にするような値では
ありませんでした。

 さて、この10キロの検問所ではどうでしょう。

 びっくりしました。
 1.10マイクロシーベルト
 という数字が出ています。
 レントゲンの放射線量よりはるかに少ない数字です
から、なにごともない数字ではありますが、しかし、
この数字自体、原発に近いということを、改めて
思い起こさせます。

 これ以上は、中に入れないので、いわきに戻ります。
 さて、では、前回まで検問所のあった20キロ地点
は、いま、どうなっているのでしょう。
 さきほど、通り抜けてきたところです。
 その写真をご覧ください。

 左側にパトカーが一台停まっていますが、これは
たまたまここにいただけで、しばらくすると、移動し
ていきました。
 手前から奥に向かうのが国道6号線です。
 この交差点が20キロ地点で、ここに検問所があった
のですが、もう、なにもなくなっています。
 この交差点を右に向かうと、Jヴィレッジがある
わけです。
 この写真を撮った私のすぐ後ろに、この看板があります。

 
 もう、規制もなにもありませんので、車で自由に
Jヴィレッジに入ることができます。
 しかし、さすがに、ここでサッカーの合宿をするという
わけにはいかないでしょう。
 前にも書きましたが、原発から20キロのJヴィレッジで
サッカーができるようになったときが、原発事故の処理が
終わったときといえるかもしれません。

 福島取材の記録は、次回にも続きます。

取材メモから(3)・・・石巻の海沿いと高台で大きな差が出ました。仙台空港に向かいます。

2013年03月22日 00時41分09秒 | 日記

 2011年7月初め、石巻に入りました。
 前回は、石巻港を見たあと、市街地に出る幹線道路を
移動しているところまでを、お伝えしました。

 今回は、そうやって到着した市街地の様子です。
 
 まず、写真をご覧ください。

 大半の家屋は、津波にさらわれて、持っていかれました。
 そういうなかに、一軒、二軒と、残った家があります。
 しかし、近づいてみると、みな、この写真のようになって
います。
 鉄筋、鉄骨の構造体だけ残り、一階、二階は、室内が
ごそっと、津波にさらわれています。
 しかも、残った構造体も、写真のように、津波の圧力で
ゆがんでしまっているのです。

 次の写真も見て下さい。

 一見、しっかり残っているように見えますが、近づいて
みると、家屋の中は、津波にすっかりさらわれてしまっ
ています。

 市街地から少し内陸に入ると、少し高台になっています。
 そこまで移動すると、高台のおかげで、津波が来なかっ
たようです。
 ・・・驚いたことに、スーパーが営業していました。
 地元のスーパー、ヨークベニマルです。
 店内の様子がこれです。

 この写真だけ見ると、どこにでもある当たり前の日常です。
 いま、取材メモを振り返って、この写真を見ても、キツネ
につままれたような感じがします。
 本当にこの写真、あの日、石巻で撮った写真だろうかと、
何度も点検しました。
 間違いありません。
 震災から3か月後、石巻のスーパー、ヨークベニマルの
店内です。
 なにが違うかというと、このスーパーは、石巻の内陸の
高台にあったのです。
 高台にあっても、川沿いの街は、津波に襲われました。
 しかし、このスーパーは、高台で、川からも離れていま
した。だから、津波の被害を受けなかったのです。
 ほんのちょっとしたことが、大きな差につながりました。


 しかし、それにしてもと、思います。
 それにしても、同じ石巻で、なんでこんなに違ってし
まったのでしょう。
 残酷なほどの対比です。

 石巻をあとにして、仙台空港に向かいます。
 石巻から仙台空港はちょっと遠いのですが、高速が復旧し
ていたので、高速に乗ります。

 2時間ほどで、仙台空港に着きました。
 高速を降り、空港に向かう道路を走ります。
 すると、道路脇に、異様なものが見えてきました。

 分かるでしょうか。
 手前にあるのは、うずたかく積まれた車の山です。
 車が何台も何台も、重ねられて、壁のようになって
います。
 向こうに、仙台空港のターミナルビルが見えます。

 あの日、仙台空港が津波に襲われる場面が、
テレビで生中継されていました。
 空港にある飛行機や自動車が、ままごとのおもちゃの
ように、軽々と流されていました。
 
 復旧のため、空港に入った自衛隊と支援の米軍が、
滑走路一面に転がる自動車の残骸を、重機で集めたのです。
 そうしないと、滑走路が仕えないからです。
 この車の山は、そうやって積まれた車です。

 少し寄ってみると、はっきり車と分かります。


 この車は、税金もかかっていますし、元の所有者に
返さなければなりません。しかし、返すといっても、
こんな状態のまま返されたって、困ります。
 こういう状況をみると、本当に解決するには、
超法規的措置が必要だとしみじみ思います。

 取材めもは、また次回に続きます。

 
 




 





 












震災2周年・・・取材めもから(2)。今回は塩釜と石巻です。港の被害をご覧ください。

2013年03月20日 21時44分36秒 | 日記

 前回の記事から少し日数が空いてしまいました。
 震災2周年の2回目です。
 今回は、震災の年、2011年7月初め、宮城県の
被災地を回ったときの取材メモからお届けします。

 このときは、仙台でレンタカーを借り、塩釜、
石巻、そして最後に仙台空港まで足を伸ばしました。

 震災からまだ4か月ほどという時期で、あちこちに
震災のつめあとが、そのまま残っていました。

 まず、塩釜の様子から始めます。
 塩釜は、仙台から車で30分程度の距離で、いまで
は、仙台に通勤するサラリーマンが多く住んでいる
ようです。
 石巻に向かうときに、塩釜を通ります。
 塩釜の中心街に入ると、いきなり、こんな光景が
目に飛び込んできました。


 津波で破壊されたままです。

 車が街のあちこちに転がっています。

 道路の向こうにお寺が見えたので、行ってみました。
 すると、とんでもないことになっていました。

 お墓に、車が何台も、乗り上げているのです。

 津波によって車がどっと流され、お墓にひっかかっ
て、とまったのでしょう。
 それが、そのまま、残っているのです。

 こんな景色は、見たことがありません。


 2011年7月のことですから、いまから1年8か月
ほど前のことになります。
 これを元に戻すのは大変だと思います。

 呆然としましたが、先を急がなければなりません。
 車で、石巻に向かいます。
 着いたところが、石巻港です。
 前回、福島の小名浜港の様子を写真で載せましたが、
石巻港は、小名浜よりはるかに大きい港です。
 それだけに、被害の様子も、一段と大きいのです。
 いきなり、こんな景色を目にしました。

 大きな船が、陸上まで流されてきたのです。
 船のすぐ奥に、自動車が転がっています。
 この写真だけ見ると、どうしてこんなことになった
のか、分からないでしょう。

 石巻港の全景は、こんなことになっています。

 なにもかもなくなっています。
 津波にさらわれていったのです。


 少し向こうに、青い建物が、ひとつ見えます。
 近寄ってみましょう。

 清浄海水 と書いてあります。
 なにか海水を使った仕事でもしていたので
しょうか。
 ここでも、ビルのそばに、大きな船が転がって
います。

 港、というより、港のあった場所を歩くと、
こんな光景ばかりです。




 港には、荷揚げされた魚や海産物が、そのまま
放置されています。
 それを目当てに、おびただしい数の鳥が集まっています。

 ちょっと怖いぐらいの数です。


 例えが悪くて申し訳ないのですが、ヒッチコックの
「鳥」を思い出します。
 近寄ると、一斉に飛び立ちます。


 港から少し内陸に入った石巻市の市街地に向かいます。
 幹線道路沿いに、大きな赤いものが転がっています。

 近寄ってみると、これは、大きな缶です。
 港にある缶づめ工場の看板だったようです。
 この缶は、後日、震災のシンボルとして残しておくか
どうか、議論になりました。
 たしかに、シンボルとして残したいところでしょうが、
これは、雨風にさらされると、さびて壊れてしまいそう
な感じがしました。

 幹線道路のそばには、震災で壊れたり、津波で流され
たものが、集められています。小山のようです。

 ものすごいにおいがします。
 それもそのはずです。港に荷揚げされた海産物が、
どうしようもなく捨てられて、ここに集められて
いるのです。

 魚をいれた発砲スチロールが、どっと放置されています。

 これは、ひどいにおいがするはずです。

 この道を通って、石巻の市街地に入りました。
 次回に続きます。


 










東日本大震災から2年・・・被災地に入った取材メモを振り返ります。第1回目は、福島県です。

2013年03月11日 01時45分59秒 | 日記

2013年3月11日の月曜日は、東日本大震災からちょうど
2周年にあたります。
 もう2年かという気がします。

 当ブログは、被災地を定期的に取材してきました。
 取材した時と場所を並べると、
 2011年4月  福島県 小名浜港、いわき市、原発20キロ
 2011年7月  宮城県 仙台市、石巻市
 2012年4月  福島県 小名浜港、いわき市、原発20キロ
 2012年12月 岩手県 陸前高田市
 ・・・となります。

 この間、復興が進んだかといえば、遅々として進んでいない
というのが取材の実感です。

 2周年にあたり、被災地は実際にどうだったのか、取材メモ
を振り返ります。

 まず、第1回目は、震災直後、2011年4月末の福島県です。
 福島県の浜通りを、小名浜港から、いわき市に入り、福島原発
の20キロ圏の検問所まで行きました。
 そのときの様子を、写真とともに振り返ります。
 
 このとき、東京から首都高を経て常磐道に入り、福島県の
小名浜で降り、小名浜港に行きました。
 震災から1か月半後のことで、まだ震災直後といっていい
ような時期です。
 港に入り、目に飛び込んできたのは、船がごろごろと
打ち上げられている光景でした。
 写真をご覧ください。

 陸上に船が打ち上げられ、壊れています。
 右手には、水没した船が見えています。

 少し、右側に回ってみました。

 船が横倒しになって、転がっているのがよく分かります。

 次の写真は、船が一隻、まるまる、港の岸壁の上に
乗り上げてしまっています。

 津波があったことを知っていても、いったい、どうして
こんなことになったのかと驚くばかりでした。

 
 港には、観光協会の建物がありました。
 どなたかいらっしゃるかと思って行ってみると、
とても、そんな状態ではありません。

 外壁はかろうじて残っているのですが、建物の中は、
津波でごそっと持っていかれてしまいました。
 津波の被災地では、こういう状態の建物を、至る所で
目にします。

 港から少し離れて、小名浜の住宅街に入ってみました。
 すると、こんな状況です。

 住宅街でも、2階に達するぐらいの津波に襲われ、
家の中が破壊されました。
 写真は、その後片付けをしている様子です。

 小名浜から海岸沿いに北上し、いわき市を目指します。
 すると、途中に、津波で破壊された街がありました。
 とよま地区というようです。

 写真をご覧ください。

 私たちは、写真の真ん中の道を車で通ってきたのですが、
あまりの状況に、車を降りました。
 道路の両側には、住宅街があったのですが、写真で
分かるように、すべて、破壊されています。
 とよま地区は、海沿いの街でした。
 この写真でいえば、右手が、すぐ海岸線です。
 そのため、あの日、津波によって、なすすべもなく、
街が破壊されてしまったのです。


 後片付けをしている住民の方が、ひとり、ふたりと
いらっしゃいました。後片付けをしようにも、なにをする
こともできず、呆然として、座り込んでいらっしゃいました。


 車が何台も、壊れたまま転がっています。
 津波でここまで運ばれてきたのでしょう。


 破壊されたあとを見ていると、人々の生活が
あったことが、はっきりと分かります。
 せつなくなってきます。


 一軒、二軒と、かろうじて立っている家があります。
 歩いて近寄ってみましょう。
 すると、こんな感じです。

 さきほどの観光案内所と同じで、外壁は残っている
ように見えても、家の中は、破壊しつくされています。
 津波で、ごそっと、すべてを持っていかれたのでしょう。

 これを復興するのは、大変です。
 なによりも、この住宅街は、海辺にありました。
 すぐ目の前が海です。
 では、再建するにしても、また、同じ所に家を建てると
再び津波が来たら、同じことになる。
 しかし、移転するとなると、街ぐるみの集団移転を
するしかないでしょう。
 そうなると、個人の力ではどうしようもありません。
 こういうときこそ、政治と行政が出てこなければなり
ません。
 こういうときの政治でしょう。

 とよま地区をあとにして、いわき市に入りました。
いわき市は、福島を代表する中核都市ですが、福島原発
から30キロとか40キロ程度の距離しかありません。
 原発は20キロ圏内が立入禁止の規制区域になって
います。
 もし、いわきが立入禁止になっていたら、収拾が
つかなくなっていたかもしれません。住民の避難という
ことになれば、人口が違いすぎます。
 この日のいわきは、震災からまだ1か月半という
時期で、街中には、人通りがありません。


 原発に近く、住民の方は、家の中でじっとして
いらっしゃるのでしょうか。


 幸い、何軒かのレストランが営業していて、そこで
昼食を取ることが出来ました。

 いわきからさらに北上します。
 福島原発に、どこまで近づけるでしょう。
 原発から20キロ以内は立入禁止となっているので、
20キロ地点で、検問所があるはずです。
 すると、やはり、ありました。
 検問所です。


 近寄ってみると、警察の車両が何台か並んでいるだけです。
 警官も、別に防護服を着るわけでもなく、普通の格好
をしています。
 何も知らなければ、スピード違反の検問をしている
ぐらいに思えてしまいます。
 拍子抜けしましたが、考えてみれば、原発に向かって
検問を突破して突っ込んで行く人がいるわけもなく、
この程度の検問でいいのかもしれません。


 検問所のすぐ右隣りは、実は、サッカーのJビレッジ
です。ここで、日本代表が合宿をしたりしていたのです。
 大きな看板があります。

 

 検問所の警官に、「Jビレッジに入ってもいいですか」と
尋ねると、あっさり、「どうぞ、けっこうです」との返事が
返ってきました。


 
 Jビレッジは、20キロ規制のすぐ外側にあります。
 一歩向こうは、20キロ圏内です。
 もしかすると、政策的に、Jビレッジを、20キロ圏の
外側ということにしたのかもしれません。
 というのも、Jビレッジは、原発の作業に向かう人たち
の拠点になっているからです。宿舎もあるし、広い駐車場
もあるし、広いグラウンドもある。事故を起こした原発
に対応するとき、Jビレッジは、非常に便利なのです。

 Jビレッジは、あと何年も、原発での作業の拠点になり
続けるでしょう。
 とても、サッカーなど、出来ません。
 
 Jビレッジで、サッカーに日本代表がまた合宿をする
日が来れば、そのときこそ、復興が進んだ記念の日になる
のかもしれません。
 しかし、その日はまだ先のことのように見えます。


タブレットと液晶保護シート・・・液晶のガラスには品質がいろいろあるようです。

2013年03月06日 17時52分39秒 | 日記

 前回に続いて、ちょっと軽い話を書きます。
 スマートフォンやタブレット端末を買うとき、液晶画面
を保護する透明のシートや、本体を保護する外枠を、お買
いになりますか?

 私はもともとアイパッドのユーザーですが、アンドロイ
ドのタブレット端末も使ってみたいと思っていました。
 最近は、タブレット端末も、ずいぶん安くなっています。
 しかし、そこへ出た台湾のASUS社が出した「ネクサ
ス7」は衝撃的でした。なにしろ、7インチのタブレット
で、カタログ価格で、なんと2万円を切るのです。
 これで、ノートパソコンとほとんど遜色のない機能がつ
いているのです。
 びっくりします。
 これではメーカーももうからないだろうなあと思いま
す。
 電機の量販店で見ると、タブレット端末は、7インチも
10インチも、ほかのメーカーの製品でも、軒並み3万円、
4万円、5万円といった値段がついています。
 よく見ると、メーカーは、ASUSとかACERとか、
台湾のメーカーばかりです。
 日本のメーカーは、東芝と富士通の製品がちょっとおい
てあるぐらいです。
 これだけ安くなってしまうと、日本企業は、タブレット
端末を作っても、採算に合わないのでしょう。
 
 なにしろ、日本の電機量販店の陳列棚から、日本製のI
T機器が消えるというのは、ちょっと前なら、考えられな
いことでした。

 おっと、きょうは、その話ではありません。
 液晶画面の保護シートの話です。

 ネクサス7を買ってみました。
 内臓メモリーが16GBではなく32GBのを買った
ので、少し高くて、といっても2万円ちょっとでした。
 きれいな仕上がりで、液晶も鮮やかです。

 さてそこで、同じ売り場に、液晶の保護シートや、本体
を保護するプラスチック製のカバーが、これまた、たくさ
ん、置いてあります。
 タブレット端末は、メーカーによって形や大きさが微妙
に違うので、保護シートも、製品ごとに、ひとつひとつ違
うものが用意されています。
 
ネクサス7用のものも、たくさん、用意されていました。
 液晶画面の保護シートだけでも、実に多様なものがあり
ます。
 指紋がつかないというのは必須です。光の反射を抑える
というのも一般的です。こういうシートは、張るときに空
気の泡が入るものですが、その泡が出来にくいとうたって
いるシートもあります。
 本体の保護カバーも、たくさんあります。
 まず、透明なプラスチックのカバーがあります。
それに、ブックカバーのように本体をすっぽり覆い、液
晶画面のカバーがふたのように開閉するタイプのもの
もあります。

これは、どれを選ぶか、迷うでしょう。
しかし、値段を見て、ちょっと考えました。
 けっこう高いのです。
 液晶の保護シートは、1500円とか1900円とい
う値段がついています。
 空気の泡が絶対に入りませんという保護シートは、3
000円ぐらいします。
 本体を保護するカバーは、プラスチック製のもので1
200円とか1500円します。ブックカバーのように
本体を全部覆ってしまうタイプのものは、3000円と
か4000円という値段がついています。
液晶カバーと本体の保護カバーが、セットになったもの
もあって、それは、4000円ぐらいのものがあります。

この値段を見て、何を考えたか。
ネクサス7を2万円で買ったとします。
しかし、液晶のシートと本体保護カバーを、たとえば4
000円で買ったとしましょう。
冷静に考えると、本体が2万円なのに、周辺の製品が4
000円もするわけです。
 本体が安いからいいようなものの、本体の機能とは直
接関係のない周辺商品に、本体の2割のおカネを払うと
いうのも、変な具合といえば変な具合です。

 しかも、タブレット型端末を買うときは、少しでも安
い製品を探します。それなのに、液晶の保護シートや本
体カバーは、安いものより、どちらかというと、高いも
のを買おうとします。

どうにもおかしな話です。
では、そもそも、液晶カバーって、必要なのでしょうか?

タブレット端末は液晶を手でタッチして操作します。
端末のメーカーは、当然、それを前提にして端末を作り
ます。
ですから、液晶は、保護シートをせず、そのまま指でタ
ッチするというのが、本来の使い方ではないのか?
そう思いました。
そこで、ネクサス7を、液晶保護シートを張らずに、買
ったままの状態で、使ってみました。
 
当たり前ですが、画面は、快適に動きます。
画面に指でダイレクトに触るわけですが、これが、本来
の感触でしょう。

ただし、2、3日使ってみると、液晶に、指のあとがベ
タベタとつきます。
やわらかい紙で拭いてみても、このベタベタが、なかな
か取れない。
なるほど、これなら、液晶保護シートを張ったほうがい
いかもしれません。

ネクサス7は、SDカードなど、外部メモリーが使えま
せん。
そこで、もうひとつ、タブレット型端末を買ってみるこ
とにしました。
今度は日本製にします。
といっても、日本製は種類が少なくなっているので、あ
まり選択の幅はありません。ちょっと残念です。
東芝のタブレット型端末にしました。7インチの画面で
す。値段は、本来5万円台ですが、量販店の特売で、3
万5000円でした。
同じ7インチのタブレットで、ネクサス7より1万50
00円高くなっています。
特売でも1万5000円高いのですから、なるほど、こ
れなら、日本製は負けますね。

さて、東芝の7インチを、やはり、液晶保護シートを張
らずに、そのまま使ってみました。
もちろん、ネクサス7と同じように、快適に動きます。
東芝の7インチは有機ELの画面なので、画像は、ネク
サスより鮮明です。
2、3日使ってみます。
すると、液晶画面が、あまり汚れないのです。
指の汚れや、指紋が、液晶画面にあまり残らない。
きれいなものです。

メーカーに取材するまでもなく、これは、液晶画面のガ
ラスの品質の問題だと思います。
東芝の7インチの画面の表面のガラスのほうが、ネクサ
ス7の表面のガラスより、高級なんだろうと思います。
値段が違うから、当たり前といえば当たり前ですが、安
い製品は、そういうところで、コストカットをせざるを
得ないということです。
逆に、高級端末は、表面のガラスのような所にも、高品
質のガラスを使っているということです。

考えてみれば、腕時計がそうです。
腕時計を使うとき、文字盤を覆うガラスに、保護シート
を張る人はいません。そもそも、時計の文字盤のガラス
の保護シートなどというものは、売ってません。
しかし、腕時計の文字盤のガラスは、本当に汚れません。
指の汚れや指紋がつくというのは、あまり見たことがあ
りません。ちょっとした汚れは、はねのけています。
あれは、硬化ガラスというか、特別な品質のガラスなの
でしょう。

東芝の7インチの液晶画面のガラスは、それと同じよう
に、いや、腕時計のガラスほどではありませんが、汚れ
をはねのけます。

とき同じくして、アイフォンを、アイフォン4からアイ
フォン5に換えました。
4のときは、画面に、市販の画面保護シートを張ってい
ました。画面の保護というより、電話をするときに、画
面に汚れないようにという狙いでつけていました。
しかし、もしかすると、アップルだって、そんなシート
をしないで使うことを想定してアイフォンを作ってい
るのではないか。そう思って、アイフォン5は、保護シ
ートなど張らないで使うことにしました。
結果はどうかというと、たいしたもので、アイフォン5
の液晶画面は、ほとんど汚れません。腕時計のガラスぐ
らいの品質といっていいかもしれません。

ネクサス7は、たいした製品ですが、結局、値段を下げ
るには、液晶画面のガラスとか、直接の性能とは関係な
いところで、安いものを使うしかないのでしょう。
安いものは、やはり、どこかにしわ寄せがきているとい
うことです。
ネクサス7を使うなら、画面保護シートは必要かもしれ
ませんね。






変な日本語・・・「真逆」とは、いったい、なんというセンスの悪い言葉でしょう。

2013年03月04日 01時07分31秒 | 日記

 週末なので、軽い話題をひとつ。
 変な日本語の話です。

 最近、「真逆」(まぎゃく)という言葉が、よく使われるようにな
りました。
 
 先日は、テレビのアナウンサーが、「これは、真逆な印象です
ね」と話すのを耳にしました。
 また、東洋経済オンラインは、都内の有名進学校の校長にインタ
ビューした記事を載せ、その見出しに「ゆとりとは真逆」という見
出しをつけていました。
私は、時々、都内の大学で講義をします。学生諸君にちょっとし
たレポートを書いてもらうと、真逆という言葉が、普通に出てくる
のです。「私は真逆に考えた」という感じです。

 どこがおかしいかというと、まずなによりも、真逆「まぎゃく」
という語感が悪いのです。
 まぎゃくと、口に出してみるとすぐ分かりますが、いかにも、語
感が汚い。

 これは、最近できた造語でしょう。
 ちょっと調べてみると、2004年に流行語大賞の候補になった
ようです。

 新鮮な編集で知られる三省堂の新明解国語辞典をひいても、この
言葉は載っていません。

 真逆とはなにかというと、正反対ということでしょう。
 それなら、「正反対」でいいでしょう。

 真という字は、真正面とか、真芯とか、あるいは真人間とか、プ
ラスイメージの字です。
 ところが、真逆は、まったくの逆、という意味ですから、180
度の反対側ということになります。「真」の持つ突き進むというイ
メージを、さかさまに、ネガティブに使っているのです。
 それも、真逆という言葉が違和感を与える原因のひとつでしょう。

 もうひとつ、名詞の造語なら、まだ分かります。科学の発展によ
って、新技術が登場し、それに伴って新しい名詞が出来るというの
は、よくあることです。その場合は、造語になるちゃんとした理由
があります。深い地下を「大深度」などと言いますが、これなどは、
地下の掘削技術が進歩して登場した造語かもしれません。

 しかし、真逆は、副詞、形容詞、あるいは名詞、そのどれでしょ
う。
 こんな得体の知れない言葉は、気持ちが悪いでしょう。

 「おはよう」という朝のあいさつを、テレビ局が、「オッハー」
と言い換えて広めようとしたことがあります。
 これも、語感が悪すぎます。
 言葉のセンスが悪すぎるとしかいいようがありません。
真逆にも、それと同じ、センスの悪さを感じます。

 真逆といい、オッハーといい、こんな得体の知れない言葉がはや
らないよう、祈りたいですね。




事前報道ルール・・・民主党は言論の自由を犯しています。民主党の存在意義はなくなってきました。

2013年03月01日 02時04分27秒 | 日記

 政府が日銀総裁の候補として、黒田東彦氏を国会に提案
しました。これに対し、民主党は「国会への提示の前に名
前が報道された」として、ごねています。
 「事前報道は拒否するルール」だそうです。

 いま「ごねています」と、あえて書きましたが、これは、
本当に「ごねている」ようなものです。
 民主党は、あれだけ国民の期待を担って政権交代した党
なのに、いまや、ほとんど末期的状況です。

 自民党は、民主党に対し、「どういう経緯で事前に名前
が出たのか、調査する」と答えています。

 新聞、テレビ、雑誌など、メディアは、民主党のこの態
度に、もっと怒らなければなりません。
 事前報道がいけないというのであれば、そもそも、報道
というものが存在しなくなります。
名前が事前に報道された人物は、日銀総裁として拒否す
るということは、すなわち、報道機関は、政府と国会が日
銀総裁を決めて発表するまで待ちなさいーーということに
なります。
報道機関に、「発表を聞いて書きなさい」と言っている
のと同じです。

 しかし、政府あるいは国会の発表を聞いて、それで原稿
を書くのであれば、ただの官報でしょう。
中国の人民日報はまさにそうです。

 そんな新聞を作って、いったい、どうするのでしょう。
 それは端的に言って「報道の自由」「言論の自由」を否
定するものです。

 しかも、事前報道が出た経緯を調べるのだという。
 それは、言論統制ですよ。

 メディアは、どうして、もっと怒らないのでしょう。

 このルールを、民主党が主張していることに、愕然とし
ます。
 というのも、民主党は、伝統的な言い方でいえば「民主
勢力」を結集した政党のはずでした。
 
 日本では、戦後、長い間、自民党が政権を握り続けてき
ました。
 自民党は、権力そのものとして、存在してきました。

 この「権力」を監視し、なにかあったら「それはおかし
い」と言い、弱い者の立場を代弁するというのが、野党の
役割だったのです。
 それを、「民主勢力」と言い習わしてきました。
 政治的には、その代表みたいにして存在したのが社会党です。

 そういう状況の中では、
 自民党=資本家あるいは企業経営者
 社会党=労働者あるいは労働組合
 という図式がありました。

 その社会党の国会議員が、自民党の反主流派とともに作
ったのが、いまの民主党です。
 ですから、労働組合の総元締めである連合は、いまも、
民主党の有力な支持団体です。

 その民主党が、
 「言論の自由」「報道の自由」
 を否定するようなルールを決めること自体が、信じられ
ないことです。

 実のところ、長い間の自民党政権では、そんな「事前報
道ルール」というものは、ありませんでした。
 自民党は、日銀総裁の候補者が事前に報道されても、何
も文句は言いませんでした。自民党は、成熟した政党だっ
たと言えるでしょう。

 ところが、弱者に味方するはずの民主党が、「事前報道
ルール」を、いまも主張しているのには、驚きあきれます。
 もともと、民主党がなぜそんなルールを主張し始めたか
というと、まだ野党時代のことですが、政権与党である自
民党に対し、なにか対抗する手段はないかと考えたあげく、
このルールを言い始めたのです。もし日銀総裁の候補が先
に報道されたら、「自民党が事前に、報道機関に漏らした
のだろう」などと、国会で追及しようというのです。
 国会で与党を追及する道具、つまりは、政争の道具を作
り出すために、「言論の自由」「報道の自由」を、犠牲にし
たのです。

 報道の自由、言論の自由というのは、民主主義の要です。
 「民主勢力」をバックに結成したはずの民主党が、みず
から、それをないがしろにしようとしているわけです。

 民主党の存在理由は、本当に、どんどんなくなってきま
した。
 このままだと、民主党は、近いうちに消滅してしまうか
もしれませ
んね。