いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

膨張する中国、燃え尽きる地球・・・地球という星で、人類はいつまで暮らせることができるのでしょう。

2014年05月29日 13時09分18秒 | 日記


 中国の領土的な野望が、世界中で摩擦を引き起こしています。
 批判されるたびに中国は、「すべて中国の古来からの領土だ」と
コメントし、摩擦が起きるたびに「悪いのは相手の国だ」と述べ
ます。
 このあつかましさには辟易しますが、半分冗談、半分本気でいえ
ば、日本も、ほんのちょっとだけ、このあつかましさを見習うべ
きかもしれませんね。

 中国の領土的野望は、「遅れてきた帝国主義」というべきもので
す。
 ただたんに領土を広げたいというよりは、むしろ、その背景に、
石油や木材、工業原材料を確保したいという経済的な要因が指摘
されます。
 とくに、石油です。
 南シナ海におけるベトナムとの対立は、まさしく、中国が石油
掘削の準備を始めたことが原因です。

 実は、いまとなっては信じられないようなことですが、198
0年代、1990年代の初めまで、中国は石油を輸出していまし
た。
 日本も80年代には、それなりの量の石油を、中国から輸入し
ていました。
 当時の中国には、石油が余っていたのです。
 そのころは、中国が南シナ海の領有権を主張することもなかっ
たですし、尖閣諸島で日本と対立することもありませんでした。

 しかし、その後の経済発展に伴って中国は石油を必要とするよ
うになり、2000年代に入って、石油の輸出国から、一転、輸
入国に変わったのです。
 それと同時に、領土的野望を表に出すようになりました。

 ただし、今回、書こうとするのは、そのことではありません。
 膨張する中国の背景にある「人口増加」、もっといえば、「人口
爆発」です。

 第二次大戦が終わり、毛沢東が中国を統一しようとしたころ、
というのは、70年前のことになりますが、当時の中国の人口は
4億人でした。
 ところが、いまの中国の人口は約13億人を超えます。
 70年で、中国の人口は3倍以上に増えたのです。
 この人口増加が、領土的野望の背景にあります。
 いまも中国の人口が4億人にとどまっていれば、石油も中国国
内の生産だけで足りていたのではないでしょうか。

 石油だけではありません。
 中国はいまアフリカ各地で森林を伐採し、木材を中国に向けて輸送し
ています。13億人の人口を抱え、家やビルを建てなければなら
ないのです。アフリカでの森林伐採はすでに環境破壊として問題
になりつつありますが、13億人もの人口がなければ、わざわざ
アフリカにまで行って木材を確保する必要もなかったでしょう。

 中国の膨張は、軍事的な側面や、領土的な側面で論じられます。
 しかし、いまここでは、中国の膨張を、その人口爆発の側面か
ら見ておきたいと思います。

 ここから先は、以前、一度、このブログで取り上げた話です。
 その時の原稿に手をいれて、掲載します。

 人口爆発は、中国のというよりは、実は、人類全体の問題にな
っています。1970年代の初め、世界中が注目した報告書が出
ました。ローマクラブの
 「燃え尽きる地球」と
 「爆発する地球」です。

 「燃え尽きる地球」は、石油資源をこのまま使っていると、や
がては使い尽し、枯渇してしまうという警告です。まさに、地球
は燃え尽きるというわけです。
 「爆発する地球」は、世界の人口がこのまま増え続けると、地
球は「人口爆発」の状態になり、食糧をはじめ、あらゆる資源が
足りなくなって、人類の生存に影響するという警告でした。

 この「爆発する地球」が出たころ、1970年代初め、地球の
人口は、36億人ぐらいでした。
 2014年のいま、地球の人口は70億人に達し、71億人を
超えています。 
 40年で、2倍近くに増えたことになります。
 驚異的な増え方です。

 第二次大戦が終わり、日常の生活が戻ってきた1950年代、
60年代には、すでに、地球の人口はどのぐらいまで増えるのか
という疑問が出されていました。
 その先にあるのは、地球には、どのぐらいの人数まで住めるこ
とが出来るのかという疑問です。
1970年前後には、
 「地球が養える人口は50億人が限界」
 という言い方がされています。
 いま70億人ですから、そのとき言われた上限を、とっくに過
ぎています。

 さあ、70億人の人間が、地球に住めるのでしょうか。
 いま、私たちが直面する問題は、それです。
 しかも、今後、人口はさらに増えていくと予想されるのです。
 私たちは、人類として、この星で、生存し続けていけるのでし
ょうか。ただ生存するだけでは意味がありません。一定水準の生
活を維持し、健康で豊かに暮らせなければ、意味はありません。
 人口の増加は、いろんな場面で大きな影響を与えます。

 日本は、1975年にG7サミット(主要国首脳会議)の開催
された第一回から、そのメンバーとして参加し、先進国として行
動しています。
 しかし、日本は戦後も長い間、ハワイやブラジルに移民を出し
ていました。最後の移民が出たのは、1971年に「ぶらじる丸」
です。ぶらじる丸は神戸港から出ており、この最後の出港をもっ
て、神戸移民センターは閉鎖され、日本からの公式な移民は終わ
りました。
 1975年の第一回サミットの、つい4年まえです。

 移民を出すというのは、日本として、申し訳ないけれど日本は
これ以上、日本人が住める余裕がありません。本当に申し訳ない
けれど、移民として、外国に出ていっていただけませんかーーと
いう意味です。
そういう国を「先進国」とは呼びにくいでしょう。
もし、一回目のランブイエ・サミットが開かれたとき、日本がま
だ移民を出すような国であれば、もしかすると、サミットのメン
バーに選ばれなかったかもしれません。 

いまの日本は豊かな先進国ではありますが、しかし、日本は、
1971年つまりたかだか40年前までは、まだ移民を出す国
だったのです。日本が豊かな先進国だと世界から見られるよう
になって、まだ40年しかたっていないということです。

 日本という国が、国内で1億2000万人の国民を養えるよう
になったのは、たかだか40年前からなのです。

 1億を超す国民を養うのは大変な努力が必要です。
 私たち日本人は、戦後、苦労に苦労を重ねて、ようやく、1億
2000万人の自国民を養えるようになったのです。
 そして、その過程で、石油をはじめとする地球上の資源を非常
に多く使っています。

 さて、中国の人口は13億人です。
 日本の人口の10倍です。
 10億人を超す自国民を養おうというのです。
 資源の消費は、半端なものではありません。

 中国だけではありません。
インドの人口も11億人で、10億人を超えています。

 地球上の人口が急増しているのに、地球上で未開の地はもうあ
りません。
 
いま、私たちの住むこの地球上には、だれも行ったこと
のない未開の地というものが、もう存在しないのです。この20
0年ほどの間、とくに、この100年ほどの間に、私たちは、地
球上の未開の地に、行きつくしたのです。

その一方で、地球上の人口は、爆発的に増えてきました。
広大な未開の地が残されていれば、私たち人類は、その未開の地
に勇気をもって分け入り、石油や、食料や、家を作る木材を手に
いれることができます。しかし、もう、未開の地はないのです。

そうなってしまえば、残された土地や資源の奪い合いになりま
す。まだ開発の余地のあるアフリカに出ていくというのが、ひ
とつでしょう。海で、海底資源を開発するというのも、有力で
しょう。
 実は、それは、いま中国がやろうとしていることです。
 そう考えれば、領土や資源に対する中国の動きは、これから、
どんどん強くなっていくと覚悟せざるをえません。

 未開の地がなくなった。
 しかし、人口は急増する。

 未開の地があれば、資源の総合計が増えて、「プラス・サム」に
なって、解決は簡単です。増えたものを、みんなで分け合えばい
いのです。仲良く分け合うことが出来ます。
 
未開の地がなくなったいま、資源の総合計は増えませんから「ゼ
ロ・サム」です。合計が増えませんから、いまある分量を、だれ
かが多く取れば、だれかの取り分が少なくなってしまいます。奪
い合いです。ほうっておくと、力の論理が支配する状況になりま
す。
 いまの中国は、この状態にあります。だから、世界の国と衝突
するのです。

 さて、そうやって、私たち人類は、
 未開地がなくなった地球上で、人口が急増する
 という状況に置かれています。
 私たちは、
 燃え尽きる地球
 爆発する地球
 という状況に、直面しているのです。

 人類がこんな状態に置かれたのは、人類が地球上に登場して以
来、初めてのことです。
 未開の地があった時代は、「探検と冒険」の時代でした。
 チョモランマが初登頂されるまでは、登山者は、チョモランマ
が憧れの山だったのです。しかし、いまやもう、だれもが憧れる
未踏の山というものはなくなってしまいました。
 この地球上には、もう、「探検と冒険」の舞台がありません。
 探検も冒険もなくなって、つまらないでしょう?
 どこに行っても携帯が通じますしね。
 そこへ、人口が爆発的に増えてきている。
 
 ひとことでいうと、地球が息苦しくなってきたのです。
 私たちは、いま、そういう地球に住んでいる。
 それを、人類として理解しなければなりません。
 ゼロ・サムなのですから、どこかひとつの国が拡大の方向に走
れば、当然、別の国がマイナスの影響を受けるのです。
 それが、中国の現状です。
 今の中国に、それを理解せよというのは、とても難しいことで
しょう。
 しかし、中国がそれを理解しない限り、というより、世界各国
がそれを理解しない限り、地球という星は、どこかで行き詰って
しまいます。
 いつまでも時間が残っているわけではないと思います。




将棋の電脳戦とコンピュータ・・・将棋は、本来、盤上に場所を借りた人間同士の格闘技です。

2014年05月15日 18時32分49秒 | 日記

 将棋や囲碁をどうとらえるか。
大きく、二つの見方に分かれます。
すなわち、将棋を純然たる理論ゲーム、数理ゲームと見るのか、
あるいは、そうではなくもっと別のもの、具体的には、もっと
人間的なもの、人間的な要素の入ったものと見るのかです。

将棋や囲碁では、常識をはずれたような思わぬ手が決め手にな
ることがよくあります。
詰将棋では、それが非常によく現れます。
すぐ取られる所に飛車を打ち、相手の駒に飛車を取らせる。す
ると、相手の駒が、相手玉の逃げ道を自ら塞いでしまい、相手
玉が逃げられなくなる。
そういうのが、典型的です。
人間の常識の盲点をつくわけです。
そうした思わぬ手が、名手、妙手と呼ばれます。
訓練を積めば、常識の盲点を克服し、名手、妙手を打つことが
できるようになります。

ところが、コンピュータは、前回記したように、すべての手を
克明に読みます。人間から見れば、読む価値のない手、読む意
味のない手も、ひとつひとつ、全部、読みます。
 あらゆる手を、すべて読むのです。
 前回言及した「読む能力」です。
 そうするとどうなるかというと、人間にとって盲点となるよ
うな手も、コンピュータにとっては、ごく当たり前の手、数多
くある手のなかの普通の一手となってしまいます。
 言いかえると、コンピュータには、「盲点」になるような手
は、そもそも、存在しないということになるわけです。

だから、人間にとっては盲点となるような手筋を含んだ詰将棋
は、コンピュータにとっては、得意分野となります。

パソコンに将棋ソフトが出始めたとき、私も、盲点の手筋が入
った詰将棋を将棋ソフトに入力して、解かせてみました。
どのぐらいかかるのかなと思って見ていたら、なかなか、答え
を出しません。1分たち、5分たち、10分たちました。
あれっ?解けないのかな?と思って、よく見てみると、なんと、
すでに答えが表示されていました。
いつ、表示されたんだろう。
そこで、もう一度、同じ詰将棋を入力してみました。
スタート!
あらら、1秒もたたないうちに、答えが表示されてしまいまし
た。
あんまり短い時間で答えが出てしまったため、初めは、見逃し
ていたのです。

人間は、詰将棋で盲点の手があると、そこで、動けなくなって
しまいます。盲点の手が、そもそも、思い浮かばないのです。
それを乗り越えて、正しい手を指すには、発想の転換が必要に
なります。それが、いわゆる「手筋」とか「妙手」と呼ぶもの
です。

ところが、コンピュータは、すべての手を読むので、人間にと
っては盲点と思える手も、ほかの手と同じように、普通に読ん
でしまいます。
だから、詰将棋の盲点、難しい手も、別に、難しい手と認識す
ることなく、ふつうに読んでしまうのです。
だから、詰将棋を、あっけなく解いてしまう。

純然たる理論ゲーム、数理ゲームとして将棋をとらえると、結
局のところ、「読む力」の勝負になります。
「読む力」で勝負すると、人間は、コンピュータになかなか勝
てなくなるかもしれません。

では、将棋を「数理ゲーム」ではなく、もっと人間的なものと
してとらえると、どうなるか。
大山名人は、
「将棋は、盤上に場所を借りた格闘技である」
と述べました。
この言葉は、将棋は、ただのゲームではない。将棋盤の上で、
人間同士が戦うのが将棋なのだーーという意味です。
柔道が畳の上で闘い、ボクシングやレスリングがリングの上で
闘うように、将棋は将棋盤の上で人間同士が闘うものなのだと
いう意味です。

 大山名人は、この言葉を、自ら実践しました。
 強い若手と対局するときは、徹底的にその若手をたたく。完
膚なきまでに勝ち、「ああ、大山名人にはかなわない」と思わせ
る。
 そうすると、やがて、大山名人と対局するときには、委縮し
てしまって、いい手が指せなくなる。いわゆる「手が伸びない」
という状態になります。びびってしまうのです。
実際、大山名人の前に、そうやってしまった棋士はたくさんい
ます。
全盛期にぶつかったのが、二上九段です。二上九段は、名人に
なってもおかしくない素晴らしい棋士でしたが、大山名人と対
戦すると、手が伸びなくなり、どうしても、勝てない。

戦わずして勝つ。
そういう状態です。

将棋をそうやってとらえると、私たちは、プロ棋士の対局に、
人間同士の格闘技を見るわけです。

では、その大山名人がコンピュータと対戦したらどうでしょう。
コンピュータは、2、3局、どんなに大山名人に負けたとして
も、それで萎縮するということはありません。
コンピュータは、将棋を純然たる理論のゲームと見るわけです
から、大山名人に負けたら、プログラムを改修します。プログ
ラムを改修し、よりたくさん、手を読めるようにします。
大山名人が「将棋は格闘技だ」と思って対局しても、コンピュ
ータは何も考えず、ただひたすら、手を読む能力を向上させる
のです。コンピュータが大山名人を前にして、委縮するとか、
びびってしまうということは、絶対にありません。

 大山名人のように「将棋は盤上の格闘技」という考え方は、コ
ンピュータと対戦するときには、成立しないのです。
 まったくかみあわないのです。

 将棋の電脳戦で、プロ棋士がコンピュータと対局するときには、
「将棋は理論ゲーム、数理ゲーム」として、対局しています。コ
ンピュータはもともとそうですが、人間側もその考えに乗って対
局するわけです。
 電脳戦は、「盤上の格闘技」ではないのです。

私は、将棋や囲碁は盤上に場所を借りた格闘技――と考えたい
と思います。





電脳戦(2)・・・人間の強さと、コンピュータの強さは、どこが違うのでしょうか。

2014年05月09日 17時06分06秒 | 日記

 電脳戦の続きです。
 人間は、コンピュータに負けるのか?
 この問いは、「将棋の強さ」とは何かということに、大いに関係します。
 
 将棋や囲碁で、次の一手を読む(考える)とき、人間は、「読む
意味のない手」は、初めから、読みません。たとえば、飛車を手
持ちにしているとき、相手の王のすぐ横に飛車を打てば、王手は
王手ですが、相手の王に取られてしまい、まったく意味がありま
せん。
 人間は、将棋が強くなればなるほど、意味のない手は、初めか
ら、読まないのです。
 プロになれば、「読まない手」の意味が変わってきます。将棋は
盤面が複雑ですから、どの局面でも、打つ手の候補が100手ぐ
らいはあります。100手ではきかないかもしれませんが、とり
あえず、次の一手の候補が100手あるとします。プロは、この
100手のうち、たとえば、95手は、「読む意味のない手」とし
て、初めから捨ててしまいます。残りは5手です。候補が100
手あるとして、意味のある手として、5手だけ、選び取るわけで
す。そして、この5手について、打った後の展開を、50手先、
100手先まで、読み進むのです。
 
 候補が100手あるとして、95手は初めから捨てる。
 そして、5手に絞って、読む。
 これを言いかえれば、「読まない能力」です。
 意味のない手は、初めからパスして、そもそも、読まない。こ
れが「読まない能力」です。

 もちろん、この5手の中に、最善の手があるとは限りません。
 もしかすると、捨てた95手の中に、実は、最善手があったか
もしれない。
 
 プロの場合、95手を捨て、「読む意味がある」として選んだ5
手の中に最善手があってこそ、初めて、8段、9段になってタイ
トルを取ることができる。
 捨てた95手の中に最善手があるというような場合は、本当に
強い棋士にはなれないのです。

 人間の強さは、ひとことで言って、「読まない能力」です。
 
 では、コンピュータの強さは何か。
 それは、ひとことで言って、「読む能力」です。
 しかも、徹底的に読む能力です。
 先ほどの例でいえば、飛車を手持ちにしているとします。相手
の王の横に打てば、王手は王手ですが、それでは、ただ飛車を取
られてしまうだけです。
 人間の場合、初心者でも、そんな手は「意味がない」と判断し
て、読みません。
 しかし、コンピュータは、そんな手も読むのです。
 しかも、飛車を、相手の王の横に打つ手だけではなく、上に打
つ手も、下から打つ手も、全部、考える。
 さらにまた、飛車だけではなく、手持ちの駒をすべて、金でも、
銀でも、桂でも、打てる駒は、すべて打ってみる。
 とにかく、あらゆる手を、すべて読む。
 さっきの例でいえば、候補手が100手あれば、100手をす
べて読むのです。
 これは、「読む能力」です。
 コンピュータの強さは、読む能力なのです。

 人間の強さは、「読まない能力」です。
 コンピュータの強さは、「読む能力」です。

 言いかえれば、
 人間の強さは、「エレガントな強さ」です。ムダな手は読まない。
本筋だけを追い求める。エレガントなのです。
 これに対し、コンピュータの強さは、「力まかせの強さ」です。

とにかく、あらゆる手を読む。ひと目でムダと分かる手も、とに
かく、読む。力づくの強さなのです。

 人間とコンピュータが将棋を指せば、それは、
 「読まない能力」対「読む能力」の戦いになります。
 言いかえれば、
 「エレガントな強さ」対「力まかせの強さ」の戦いになるので
す。

 そうやって整理すると、人間とコンピュータの戦いは、そもそ
もが、異質の戦いなのです。
 そうであれば、直観的には、この対局は、どこまで意味がある
のかという気がします。