いまジャーナリストとして

 いま私たちの目の前に、次々と現れるニュースをどうとらえ、どう判断するか・・・ジャーナリストの日誌。

AIIBの意味とは何か?・・・「アメリカによる世界秩序」に対する中国の挑戦です。

2015年03月30日 13時37分52秒 | 日記

 アジアインフラ投資銀行(AIIB)をめぐり、アメリカと中
国が対立していることを、前回のブログで取り上げました。
その後、オーストラリアやロシア、韓国、なんとブラジルまで
参加を表明しました。
主要国で参加しないのは、アメリカ、日本、カナダぐらいです。

これをどう見ればいいのでしょう。

 基本的には、
「アメリカによる世界秩序」
いわゆる「パックス・アメリカーナ」
の動揺ということでしょう。
あえて、終焉とは書きません。

現在の世界は、というより、第二次大戦後の世界は、アメリカ
と旧ソ連の東西陣営に分かれてやってきました。
「米ソ」ですね。懐かしい言葉です。
しかし、世界的な組織は、本部をアメリカに置いたものが、圧
倒的に多いのです。
軍事的には米ソが拮抗していましたが、経済力は、アメリカが
ソ連を凌駕していました。
世界の先進国も、アメリカの同盟国が多数をしめていたのです。
ですから、いろんな分野の国際機関、国際組織の本部をアメリ
カに置くのは、自然な流れでした。

その代表格は、国連でしょう。
国連本部は、ニューヨークにあります。
かつてのソ連や東欧諸国の代表は、きっと、なんで俺たちがニ
ューヨークまで行かなくっちゃいけないんだと不満に思ったの
ではないでしょうか。
国連で演説するためには、北朝鮮もニューヨークに出向きます。
中国なんか、いまでもそう思っているかもしれません。なんで
国連は、ニューヨークにあるんだ。中国は国連の常任理事国な
んだから、国連が北京にあってもいいじゃないか。
だから、国際的な金融機関、今回は、アジアインフラ投資銀行
(AIIB)のことですが、ひとつぐらい、本部が北京にあっ
てもいいじゃないかと、中国が思っても不思議はありません。
むしろ、GDPで日本を抜き、アメリカに次いで世界第二位の
経済大国になったのですから、そのぐらいのプライドを持って
もおかしくないでしょう。

 国連だけではありません。
 国際的な金融機関の本部は、だいたい、ワシントンにありま
す。IMF(国際通貨基金)の本部も、世界銀行の本部も、ワ
シントンにあります。
IMF・世銀の会議は、参加国の持ち回りで開かれますが、し
かし、秋の総会は、ワシントンで開くと決まっています。

IMF・世銀は、いまでも活発に活動しています。
日本が戦後の混乱から立ち直り、たとえば、東京に首都高速道
路を建設したときには、世銀から融資を受けました。
1997年にアジア金融危機で韓国が財政破たんに瀕した際に
は、IMFが全面的に支援に入りました。
いまでも、世界の途上国にとっては、IMF・世銀はなくては
ならない存在です。
IMFには、世界のほとんどの国が入っていますから、なにか
あると、いまのロシアも、中国も、みな、ワシントンに出向く
のです。

国連も、IMF・世銀も、アメリカが最大のスポンサーです。
ニューヨークの国連本部のビルは、アメリカのロックフェラー
財閥が土地の取得費用などを寄付しています。
IMF・世銀は、ワシントンの官庁街に立っていて、ほとんど、
米政府の建物のような感じになっています。

先進国サミット(G7、G8)や財務省・中央銀行総裁会議(G
7)は、本部や事務局はありませんが、アメリカが運営の主導
権を握っています。

もちろん、アメリカ以外に本部を置く国際組織もありますが、
その場合、中立国であるスイスのジュネーブというケースが多
くなります。

アジアの開発のための国際機関であるアジア開発銀行(ADB)
は、本部をマニラに置きました。さすがに、ワシントンに置く
わけにはいかなかったのでしょうが、しかし、アメリカと日本
がともに最大の出資国で、いずれも15%を超す出資をしてい
ます。

もうひとつ、重要な組織にOECD(経済開発協力機構)があ
り、これは、珍しく、パリに本部を置いています。しかし、こ
れは、第二次大戦後の欧州の復興を支援するため、アメリカが
マーシャル・プランを策定し、OECDがその事務局的な役割
を担ったため、本部を欧州に置いたという経緯があります。

こうやってチェックしていくと、いまの国際組織、国際機関が、
いかにアメリカのリーダーシップで作られたかということが、
大変よくわかります。
アメリカが、世界の秩序を作ってきたのです。
第二次大戦で、日本も欧州も荒廃し、アメリカの力が突出して
しまったので、リーダーシップを取る国は、アメリカ以外には
ありませんでした。

それが、アメリカによる世界秩序、パックス・アメリカーナだ
ったのです。

これをおもしろくないと思う国があっても、不思議はありませ
ん。
かつて、一番手は、ソ連でした。
しかし、ソ連は崩壊し、すっかり変わってしまいました。
代わって登場したのが、中国です。
中国の台頭は、この10年、目覚ましいものがありました。
しかし、経済規模すなわち、GDPにおいて、1位はアメリカ、
2位が日本、そして3位が中国という状態が長く続いていまし
た。
中国は、どうしても、日本に勝てなかったのです。

ところが、2011年に、中国は経済規模で日本を抜き、GD
Pがアメリカに次いで世界第二位となりました。
そこに登場した習近平主席は、主席になった直後、アメリカで、
オバマ大統領と2人きりで2日間、過ごしました。

このころから、中国は、はっきりと変わります。
人民軍の幹部が「太平洋は、アメリカと中国で二分するのに、
十分な広さがある」と発言したのも、このころです。

G7とかG8ではなく、これからはG2だという言い方が中国
から出てきたのも、このころからです。
G2とは、アメリカと中国の2か国です。

いま起きていることは何かというと、
中国は、アメリカによる世界秩序に挑戦している
ということです。

アジアインフラ投資銀行(AIIB)は、その文脈で語るべき
ものです。
AIIBは、中国が50%を出資し、本部は北京とする。
これはもう、ワシントンに本部を置くIMF・世銀に対し、中
国に本部を置く国際金融機関を作りますよという、中国の宣言
です。
もう、アメリカによる世界秩序に、中国は賛成しません。これ
からは、中国による世界秩序を作りますと、中国は、そう、世
界に向かって宣言したのです。
それが、AIIBだと思います。

アメリカは、中国から挑戦を受けているわけです。
日本は、アメリカにとって重要な同盟国です。
私の考えを先に書いておくと、アメリカか中国かと問われたら、
日本はアメリカを選ぶべきだと思います。
しかし、それならそれで、日本とアメリカは、がっちりと論議
をし、考えをすりあわせていく必要があります。そこが、どう
しても、心もとない。
日本は、アメリカによる世界秩序の恩恵を最も受けてきた国の
ひとつです。
その世界秩序が動揺しています。

 AIIBは経営の透明性が疑問だとか、ガバナンスがどうの
とか、そんな問題ではありません。
 そんな問題は、枝葉末節の話です。

 AIIBの本質は、アメリカによる世界秩序に対し、中国が
激しいゆさぶりをかけているということです。
 アメリカによる世界秩序にゆさぶりをかける方策、ツールと
して、中国は、AIIBを利用しているのです。

 地理的にアジアから遠い欧州諸国、イギリス、ドイツ、フランス、
イタリアは、まんまと、中国の思惑にのってしまったということ
になるのです。

 欧州諸国がAIIBに参加することを表明したのは、とりもな
おさず、欧州諸国が、アメリカによる世界秩序の維持ということ
に、あまり関心を持たなくなったということでしょう。
 そしてまた、アメリカ自身、それを食い止めるだけの力を
もう見せることができなくなったということでもあります。

 AIIBの成功に味をしめ、中国は、これから、
 「中国による世界秩序」 
 を作ろうとするのではないでしょうか。
 「パックス・チャイナ」
 です。

 中国は、共産党による一党独裁の国家です。
 そんな国が、世界秩序を作ろうとするというのは、少々、
不気味な話ではないでしょうか。

 これまでのところ、中国の狙いは、まんまと当たっています。

 AIIBは、そういう文脈でとらえなければなりません。
 
 アメリカによる世界秩序が動揺するなかで、日本はどう行動する
のか。
 AIIBは、そういう根源的な問題を、日本につきつけているの
です。


アジアインフラ投資銀行(AIIB)・・・オバマのアメリカは衰退が顕著です。このままでは。

2015年03月18日 11時43分01秒 | 日記

 アジアでの開発・投資をめぐり、アメリカと中国が鋭く対立し
始めました。情勢は中国優勢としかいいようのないもので、アメ
リカの地位の低下、オバマ大統領の失政が、ここでも明らかにな
ってきました。

 中国は、アジアの開発を進めるため、アジアインフラ投資銀行
(AIIB)の設立を目指しています。同じ趣旨の国際機関として、
すでにアジア開発銀行(ADB)があり、これは、アメリカと日
本が中心になって運営されています。
 AIIBは、中国が、日米に対抗して設立する国際機関で、広く
各国に出資を呼び掛けていました。
アメリカは逆に、同盟諸国に、AIIBに参加しないよう働きか
けていました。

 ところが、先日、イギリスがAIBへの参加を決め、今週に入
って、ドイツ、フランス、イタリアがAIIBに参加することを決
めました。ドイツ政府は、参加にあたり、「アジアの開発は、今後、
世界的に重要な課題になるから」とコメントしました。

 サミット参加のG7のうち、イギリス、ドイツ、フランス、イ
タリアの4か国が、中国の作る国際組織の枠組みに入ることにな
ります。残るは、アメリカ、日本、カナダの3か国だけです。
 アメリカ、日本は、苦しい立場に立たされました。

 欧州から見ると、アジアは遠いのです。
 中国は、南シナ海で、領土拡張を続けています。フィリピンに
近い南沙諸島は、コンクリートで固め、飛行場を建設している様
子が写真に撮られて公開されました。
 中国政府は、明の時代に南シナ海は中国の領海だったから、も
ともと中国のものだと無茶な説明をしています。
欧州諸国には、その無茶さ加減が、ピンとこないのです。

 東南アジア諸国でも、各地で、中国政府が資金を出し、インフ
ラ工事を進めています。このままでは、東南アジア各国は、中国
の同盟国となるでしょう。

 もともと中国は、大陸国家でした。旧ソ連とは、同じ社会主義
国同士なのに関係が悪く、軍事的な関心は、旧ソ連に対する防衛
に集まっていました。もともと大陸国家だった中国が、そのため、
一段と、大陸に関心を集中せざるをえなかったのです。
 ところが、旧ソ連が崩壊してロシアになり、中国とロシアの関
係は、改善されました。
 そのため、中国は、政治的、軍事的な関心やパワーを、大陸に
集中する必要がなくなり、関心を海に向け始めたのです。
 それが、尖閣諸島であり、もっと大きく、南シナ海です。

 元来、南シナ海は、アメリカが大きな影響力を持っていました。
 フィリピンの旧スービック基地も、大きな拠点でした。しかし、
フィリピンの反米感情で、スービック基地は閉鎖されます。
 南沙諸島は、フィリピンの目と鼻の先なので、スービック基地
があれば、中国も、南沙諸島の領有をここまで主張できなかった
でしょう。

 ちょうど、時同じくして、アメリカの力が衰退し始めました。
アメリカは、もともと財政赤字を抱える国でしたが、2008年
のリーマンショックを機に、経済的な衰退が目立つようになりま
した。
 当然、空母艦隊を世界中に派遣しておく余裕も、どんどんなく
なります。
 泣きっ面に蜂というわけで、国内では、黒人と白人の人種的な
対立が、急にひどくなってきました。きっかけは、白人の警官が
黒人の青年を射殺したことです。
 こんな人種対立を抱えてしまい、政治運営、経済運営がうまく
いくはずがありません。
 
 オバマ大統領は、大きな期待を担って登場しました。
 YES、WE CAN
 CHANGE
 は、世界的な流行語にまでなりました。

 オバマ大統領は、アメリカ初の黒人の大統領です。
ところが、ほかならぬ黒人の大統領のもとで、人種対立が激し
くなってしまった。
しかも、困ったことに、そのオバマ大統領が、激化した人種対
立に、なんら有効な対応策を打ち出せないでいるのです。

中国は、したたかです。
アメリカの衰退、オバマ大統領の力のなさなど、うまく見すか
し、まさに、そのタイミングで、アジアの新しい金融機関AI
Bを提唱したのです。
アメリカに力があれば、同盟各国に働きかけて、AIBへの参
加を阻止したでしょうが、いまのアメリカには、それだけの力
は、もうありません。

オバマ大統領は、このままでは、期待外れの大統領で終わって
しまいます。
アジアで中国の存在感を決定的にしたのは、2013年10月
にインドネシアで開かれたAPECでした。
このとき、オバマ大統領は、直前になってAPEC参加を取り
やめました。その理由がつまらないもので、ワシントンで議会
が対立し、アメリカの新年度の予算案が成立しなかったという
ものです。このため、オバマ大統領はワシントンにとどまり、
内政に対応することになりました。


で、どうなったか。
APECは、出席した唯一の超大国となった中国の独壇場とな
り、習主席が、一気に存在感を高めたのです。
APECは、アジアのほとんどすべての国が集まる会議です。
その会議に、アメリカの大統領がおらず、中国の主席が活躍s
いたとなっては、アジア諸国の間で、これからはアメリカでは
なく中国だという空気が生まないほうが不思議です。

 オバマ大統領は、後に、無理してでもAPECに行くべきだっ
たと述懐したと伝えられます。
 しかし、時すでに遅し。
 習主席が、AIBを推進し始めたのは、このAPECが終わっ
てからです。APECで、習主席は、自信をつけたのでしょう。

 とにかく、オバマ大統領は、何をするにしても、遅いし、また、
タイミングが悪い。
 中国は、そして、習主席は、それを見すかして、また、タイミ
ングよく、そこに突っ込んできます。
 AIBは、そのシンボルのようなものです。

 このままでは、アジアで、中国の存在感は、いよいよ大きくな
るでしょう。
 アメリカは、衰退から抜け出せないでいる。
 日本は、相当に腰を入れて対応しないと、困った状況に追い込
まれます。一番いけないのは、「何もしない」ことでしょう。日本
の外交は、これまで、「何もしない」ことが基本でした。それは、
アメリカという大きな存在があったから、許されたのです。
 これからは、もう、「何もしない」ではやっていけなくなりそう
です。







2011年3月11日の金曜日・・・東日本大震災から4年たちました。あの日、私は(その2)

2015年03月13日 13時33分41秒 | 日記

 初めの揺れが収まって、取材先と一緒に部屋を出ましたが、エ
レベーターはもちろんストップしています。
 そこで、部屋に戻り、外を見まわしました。

 大勢の人が、ビルから外に出て、公園や広場に集まっているの
が見えます。
 倒壊した建物はなく、火や煙が出ている様子もありません。
 建設現場の背の高いクレーンも、大揺れはしたのでしょうが、
倒れたりすることなく、ともかくも、立っています。

 神戸市は、直下型地震の直撃を受け、地震の直後に、多くの建
物が倒壊しました。
 木造の建物は、直下の地震に突き上げられ、突き上げられた後
はそのまま落下したので、ぺしゃんこにつぶれました。

 マンションは、一階部分の壁を減らし、ロビーを広く取った新
しい建物が増えていました。しかし、壁を減らしてロビーを広く
したのがアダとなりました。一階部分が地震に耐えきれず、ぐしゃ
りとつぶれ、二階から上がだるま落としのように、落ちていました。


 神戸は、それが、地震の直後に、起きたのです。ですから、地
震のすぐ後に、街が破壊された感じになりました。
 

 そういう光景を実際に見ているので、東京の街を見回して、東
京はひとまず大きな被害を受けずに済んだなと感じました。
 神戸は、そもそも、地震の直後に街が崩れてしまい、そうやっ
て落ち着いて周囲を見渡すという状況さえ、なくなっていたのです。


ですから、東京は、ひとまずは、よかったと思いました。
 これが、東京直下型の地震なら、東京は、大変だったでしょう。

 しかし、テレビをつけると、各地から、とんでもない光景が次々
に飛び込んできました。
 初めは、千葉県市原市の石油化学コンビナートで、地震のため、
火災が発生したというニュースが入ってきました。石油タンクに
火が入ったら大変だと思いました。
 しかし、1時間、1時間30分と、時間がたつとともに、それ
どころではない、とんでもない映像がどんどん入ってきました。

 津波です。

 津波は、東北の街を広範に襲ったのですが、映像として、最初
に入ってきたのは、仙台空港の様子でした。
 拠点空港には、テレビ局が万一に備えてカメラを定点設置して
いるので、地震後の様子が映ったのです。
 
 目を疑いました。
 津波が空港に押し寄せているのです。
 えっ?と思って見ていると、押し寄せた津波が滑走路に達し、
滑走路にある旅客機を、次々に押し流し始めました。
 滑走路上には、旅客機が何機も駐まっています。
 それが、まるで、おもちゃの飛行機であるかのように、軽々と
押し流されるのです。
 隣りあった飛行機同士、水の力で衝突し、絡み合って流されて
いきます。
 滑走路の端から津波が来て、滑走路をまるまる飲み込んでしま
うのを、テレビの映像は、冷酷に映し出していました。
 想像を超えた光景に、これは、現実のものではなく、映画か何
かではないかと思うほどでした。

 2001年9月11日には、アメリカがテロに襲われ、ニュー
ヨークの貿易センタービル(WTC)に旅客機が突っ込みました。
最初の旅客機が突っ込んだ後、速報を見てNHKを見ると、今度
は、次の旅客機がもうWTCの残ったビルに突っ込んでいく映像
が流れました。
 そのときは、一機目が突っ込んだビデオ映像かと思ったのです
が、アナウンサーが、震える声で、これはいま目の前で起きてい
る映像ですと話しています。
 しかし、ちょっと現実のものとは思えない映像でした。

 2011年3月11日に、仙台空港を津波が襲う光景をテレビ
で見て、現実のものではないような感じを受け、この感覚はどこ
かで味わったことがあると、思いました。
 デジャブといってもいいのでしょう。
 

 そのころ、石巻や気仙沼、陸前高田、南三陸町など、東北の太
平洋岸の街は、やはり、津波に襲われていました。
 しかし、空港と違って、定点設置したテレビカメラがあるわけ
ではないので、その映像は、すぐには入ってきません。
 市町村の防犯カメラで撮影された映像や、避難した人が携帯で
撮った映像が、テレビ局に届き、テレビ電波に乗って日本中、そ
して、世界中の人が見るようになったのは、そのもう少し後にな
ります。
 
 さて、まさにその時、福島では、原発が津波に襲われていたの
です。
 しかし、地震が起きてしばらくの間は、福島原発の状況は、伝
えられませんでした。なにしろ、テレビカメラがあるわけでもな
いし、そもそも、東電の東京の本社でも福島原発の状況は把握で
きてません。
 我々が、地震のものすごい揺れと、その後に来た津波に、必死
に対応している間に、原発事故というとんでもない事態が起きて
いたのです。
 
 11日は、夕方になると、テレビでも、各地の津波の映像が放
送され始めました。
 実は11日は金曜日です。
 東京で仕事をしているサラリーマンは、週末を控え、無理して
でも、家に帰りたいところです。
 しかし、交通機関は、ほぼストップしています。
 とくに鉄道は、JRも、私鉄も、地下鉄も、完全に止まってし
まいました。
 幸い、東京は道路が無事だったので、車は動いています。
いま、幸いと書きましたが、動いていると言っても、すぐ、も
のすごい渋滞になりました。
 バス乗り場やタクシー乗り場は、長蛇の列となっています。
 
 もし、バスやタクシーに乗っても、この渋滞では、どうにも動
きが取れません。
 そこで、多くのサラリーマンが郊外の自宅を目指し、歩いて帰
り始めました。
 横浜方面に向かう国道1号線沿いの歩道、国道246号線沿い
の歩道、千葉・茨木に向かう千住大橋、浦和・大宮方面、あるい
は立川・八王子方面、どの道も、歩いて帰る人であふれかえって
います。
 翌日が土曜日ですから、みんな、無理してでも、家に帰りたい
のです。

 夜になると、私が閉じ込められていた高層ビルも、試験的にエ
レベーターを動かすようになりました。
 そこで、このエレベーターで外に出ました。
 あちこち歩いてみましたが、コンビニは、どこも、パンやおに
ぎりが売り切れています。
 立派だったのはホテルで、帝国ホテルなどは、ロビーを一般に
開放し、毛布も配っていました。家に帰れないサラリーマンやO
Lは、ロビーでそのまま、毛布にくるまって夜を明かしました。
 反対に、対応が悪かったのはJRで、駅のシャッターを早くに
下ろしてしまいました。せめて、駅の構内に入れれば、寒い中で
も、風ぐらい防いで夜を明かせたのにと思います。このへんは、
JRは、どうしても、旧国鉄の体質を引きずり、対応が役所的で
す。
JRは、あかんね。

 私は、試験的に動いているエレベーターをつかまえ、取材先と
一緒にいた会議室に戻りました。
 そこでテレビを見ながら、夜を明かしました。

 朝、10時ごろになると、電車が動き始めました。
 それに乗って、ようやく家に向かいました。
 ひと晩、夜明かしした人たちが、動き始めた電車に集まったた
め、朝、東京から郊外に向かう電車がラッシュになるという珍し
い状況でした。
 土曜日の午後、ようやく、家に着き、やれやれと、ほっと一息
ついたところに、今度は、福島原発の事故の様子が、明らかにな
ってきたのです。
 そこからは、また、別のストーリーになります。
 今回は、3月11日の様子を、書き留めました。
 当時のことは、また折に触れて、書き留めていきたいと思います。
 今回は、ひとまず、ここまでとします。







2011年3月11日の金曜日・・・東日本大震災から4年たちました。あの日、私は。

2015年03月11日 10時34分46秒 | 日記

 東日本大震災から、きょう2015年3月11日で、もう
4年たちました。
 早いものです。
 あの日、私は、東京・丸の内の高層ビルにおり、取材相手から
話を聞いていました。
 2011年3月11日の金曜日です。
 午後2時半を回ったところで、突然、横揺れがしました。
 その横揺れが半端ではありません。

 私は神戸生まれです。
 大学から東京にいます。
 1995年の阪神大震災のときには、東京でも震度1を観測
しています。
 阪神大震災は、初めの揺れが収まったあと、あちこちで火災が
発生したため、被害が、徐々に拡大していきました。
 神戸の実家で話を聞くと、阪神大震災では、まず、地面から
突き上げてくるような感じがあったと口をそろえます。
 あれは、神戸市の真下で起きた直下型地震だったので、
下から、ドンと突き上げるような地震になったわけです。

 そのことを生々しく記憶していたので、東日本大震災の日、
丸の内の高層ビルで、横揺れを感じたとき、
 これは、震源は東京ではない
 と直感的に思いました。
 どこか東京から離れたところで地震が起き、それが伝わって
きたからこそ、横揺れになるわけです。
 
 東京直下型ではない。
 それはその通りでした。
 しかし、その揺れが、半端なものではありませんでした。
 立っている床が、真横に揺れる。
 壁も天井も、床と一緒に、波を打つように揺れるのです。
 しかも、揺れる幅が、何十センチにも及ぶ。
 
 高層階にいましたので、揺れはさらにひどくなっています。
 そのうえ、揺れる時間が長かった。
 ずっと揺れが続くのです。

 もし、死ぬことがあるとすれば、
 それは、きょう、このときかな
 と、ひそかに思いました。

 高層階の窓が割れ、そこからはるか下の道路に投げ出され
るのではないかとも思いました。

 立っていることできないようなひどい揺れでした。
 机につかまって、揺れを耐えていると、ようやく、揺れが
収まりました。

 よかった、大丈夫だった。
 そう思いました。

 外を見ると、首都高を車が走っています。
 おかしなもので、地震が起きて、しばらくは、首都高も
通行止めにはなっていなかったのです。
 だから、あの瞬間、あの直後に、首都高を走り抜けた車
は、その後に起きたものすごい渋滞につかまらなくてすんだ
わけです。

 近くのビルからは、大勢の人が、外に飛び出してきました。
 近くの公園や広場に集まっています。

                 (続く)













































「先輩」「後輩」・・・中学生が日常的に先輩後輩と呼び合うのはおかしいと思います。

2015年03月10日 16時05分34秒 | 日記

  川崎市で中学1年生が殺された事件で、先に、少年法の年齢
の引き下げを書きましたが、今回は、もうひとつ、別のことを書
いておきたいと思います。
 それは、「先輩」「後輩」という呼び方です。

 今回の事件で、少年同士の間で、「先輩」「後輩」と呼び合って
いたことが、分かりました。

 いや、この事件を持ち出すまでもなく、普通の中学校、高校で、
中学生同士、高校生同士が「先輩」「後輩」と呼び合っているのを
見かけます。
 これは、おかしいでしょう。
 私の近所でも、小学校を卒業して、中学校になった女の子が、
中学生になった途端に、上級生を「先輩」と呼び始めました。
 小学校を卒業したばかりというのは、まだ子供です。上級生だ
って、中2、中3ですから、まだまだ子供です。
 
子供同士で、「先輩」「後輩」と呼び合うのは、奇妙な風景です。

 小学校を卒業した瞬間に、「先輩」「後輩」と呼び合うとうのは、
奇怪としかいいようがありません。

 たとえば、大学生が、同じ大学を卒業して社会人になった大学
OBを「先輩」と呼ぶのは、おかしくありません。
 
 では、社会人になって同じ会社に入ったサラリーマン同士は、
なんと呼び合うでしょう。
 ご自分の周囲をご覧になって、いかがですか。
 サラリーマン同士は、お互い、名前で呼び合うことが圧倒的に
多いと思います。
 相手が上司である場合は、「課長」とか、「部長」とか、肩書で
呼ぶかもしれません。
 サラリーマンが、日常、お互いを「先輩」「後輩」と呼びあうこ
とは、ないと思います。
 あるとすれば、仕事が終わり、食事にいって、あるいは、飲み
にいって、相手が同じ大学を卒業したと知ったときに、親しみを
込めて「先輩」と呼ぶというようなときでしょう。

 大人でさえあまり使わない「先輩」「後輩」という言葉を、中学
生が、日常的に使う。
 これには、大いなる違和感を覚えます。

 なぜ、こんな習慣が出来たのか。
 それはきっと、「先輩」という言い方をすることによって、自分
も、もう「子供」ではなく、「大人」に近づいた。そう。「大人の
仲間入り」が出来たと感じられるからではないでしょうか。

 もう、小学生ではないんだ。
 中学生という新しい世界に入ったんだ。
 大人に近づいたんだ。
 「先輩」「後輩」という言い方は、そういう満足感を感じせてく
れるのではないかと思います。
 精一杯、背伸びできるのです。

 「先輩」「後輩」とお互い呼び合うことによって、そこには、仲
間意識が生まれます。
 しかし、その仲間意識は、陽性の明るい方向の仲間意識ではな
く、どこか、自分たちだけの閉ざされた仲間意識ではないかと思
います。
 「先輩」「後輩」と呼び合う者同士の世界、「先輩」でも「後輩」
でもない人間には入ることの出来ない世界、ひとつの閉ざされた
空間が、そうやって、生まれるように思います。
 その世界には、「先輩」でも「後輩」でもない両親は入れません。
場合によっては、先生も入れないかもしれません。

 「先輩」「後輩」という言葉を触媒にして、排他的な世界が出来
てしまいます。
 まだ社会的な判断の出来ない中学生同士が、そうやって、排他
的な仲間の世界を作ってしまう。
 場合によっては、大人の目が届かなくなるでしょう。
 
 「先輩」「後輩」には、そういう危うさを感じてしまうのです。
 中学校は、それを放っておいていいのでしょうか。

もちろん、仲間や、仲間意識は、大切なものです。
 しかし、「先輩」「後輩」というような言葉を使わなくても、仲
間や仲間意識は作れるのではないでしょうか。
中学生が「先輩」「後輩」という奇妙な言葉を使わなくても仲間
が出来るよう、学校の教育現場は奮起できないものかと思いま
す。




新幹線と地方の衰退・・・新幹線が開通して、地方が活性化するわけではありません。

2015年03月05日 11時14分05秒 | 日記

 北陸新幹線が開業します。
 今回は、あえて、新幹線のマイナス面を指摘しておきます。
 ひとことで言えば、新幹線が出来ると、地方は決してそれだけ
で発展するわけではなく、むしろ、ほうっておくと衰退しかねな
いということです。
 なぜかといえば、新幹線で地方と東京が結ばれると、人の流れ
は、地方から東京へと、一方通行になる傾向が強いからです。
 


 私は、仕事で、上越新幹線を使って新潟に行く機会があります。
 新潟といえば、かつて、在来線の上越線でよくスキー場に行き
ました。
そのイメージがあるので、 初め、新潟なら一泊してと、当たり
前のように思っていました。


 ところが、新潟にいる仕事相手と、事前に電話で打ち合わせを
すると、相手は、
「何時の新幹線でいらっしゃいますか?」と聞くのです。
「まあ、夕方6時ぐらいのつもりです」と答えると、
「えっ?前の日にいらっしゃるのですか?」と相手は驚いていま
す。驚くのは私のほうで、
「えっ?新潟なら一泊でしょう?」と言うと、相手は、
「いや、朝の新幹線なら、泊まらなくても平気ですよ」と答える
のです。
 時刻表を見てみると、東京発7時台の新潟行きが何本かあり、
それに乗れば、9時台には、新潟についてしまいます。
 新潟まで2時間ちょっとです。
 もっと早いのは、東京―新潟ノンストップの列車もあり、これ
なら東京―新潟が1時間半ほどです。1時間半なら、通勤できま
すね。いや、実際、東京近郊では、毎日の通勤時間が1時間半な
どというサラリーマンは、珍しくありません。

 「新潟は、もう、日帰りですよ」と苦笑する相手に、わが身の
不明を恥じるのみでしたが、実際、その後は、新潟も日帰りです。

 新潟だけではありません。当ブログは、大震災の取材で三陸に
行きましたが、陸前高田も、東北新幹線を使えば、日帰りです。
東京から一の関に行き、そこからレンタカーを借りれば、気仙沼
から陸前高田に入れます。

 新潟の場合、仕事が終わって、夕方になると、仕事相手は、「軽
く、食事でもいかがですか」となります。
 しかし、夜8時台の上越新幹線に乗れば、東京に10時台に帰
ってこれます。最終は9時台ですが、これだと、東京は11時を
回り、そこから家に帰るのが、時間的に少しきつい。
 ですから、8時台の上越新幹線「とき」に乗るのですが、そう
なると、食事も、まことに「軽く」となります。二次会なんて、
どんでもない。

 さて、新潟の仕事を日帰りでこなるようになって、どうなった
か、まとめてみましょう。
 まず、前日の夜に入って、宿泊するということがなくなったの
で、新潟のホテルに泊まらなくなりました。
 なにしろ、仕事当日の朝、東京を出ればいいのですから。
ホテルは、人が泊まらなければ、商売になりません。
 新幹線が来るというので、ホテルを整備したものの、なんのこと
はない、かえって、人が泊まらなくなったという状況が生まれて
しまいます。


 当日も、仕事が終わったあと、「では夕食でも」となったとして
も、8時台の「とき」に乗って東京に戻るので、どうがんばって
も、食事は8時には切り上げなければなりません。二次会は行け
ません。飲食街にいても、早くに切り上げないと、新幹線に間に
合わなくなります。
 新潟の歌といえば「新潟ブルース」が有名ですが、せっかく新
潟に行っても、日帰りとなると、そういう情緒を楽しむどころで
はありません。新潟には、古町という有名な飲食店街があります
が、最近は、ここも、お客さんが減って、早い時間に閉める店が
増えました。店をたたむケースも多く、ほうっておくと、シャッ
ター通りになりかねません。すでに、なりつつあります。
 
 新幹線が出来ると、地方は、そうやって、まず、ホテルに人が
来なくなります。次に、飲食店街に来る人が減ります。
 次は何かというと、デパートです。

 地方都市には、どこも、老舗のデパートがあります。
 新潟には、大和というデパートがありました。
 しかし、4年ほど前に閉店しました。
 それもそうです。なにしろ、新潟から東京へ、2時間、早けれ
ば1時間半で行けるのですから、銀座や日本橋がうんと近くなり
ました。たとえば、結婚式の引き出物にしても、じゃあ、日本橋
の三越か高島屋にしましょうか。あるいは、銀座の松屋にしよう
か、ということになってしまいます。
 
 いや、新幹線が出来て、東京から新潟に来る人も増えるでしょ
うという声が出ると思います。
 もちろんそうです。しかし、仕事で行く場合は、今ここで書い
たように日帰りになります。
 観光はというと、もちろん、さすがに一泊、二泊で、というこ
とが多いでしょう。
 しかし、観光って、1年にそう何回も行くものではありません。
それに、観光は、今年新潟にいったら、来年は秋田に、あるいは、
富山に、という具合に、あちこちめぐるのが普通でしょうから、
同じ観光客が、足しげく新潟に通うということはないのです。
 一方、新潟から東京には、足しげく通うということが起きます。
新潟に住む知り合いは、昨年夏、ディズニーランドに行ったかと
思えば、その1か月後に、横浜アリーナまでコンサートを聴きに
行きました。
 
 ですから、どうしたって、人の流れは、新潟から東京に向かう
ことになるのです。

 東北新幹線は、青森まで伸びました。
 青森開業の日、青森駅で盛大なお祝いをする風景が、テレビで
繰り返し、流されました。
 東京から青森へ。観光に行く人は増えるでしょう。しかし、先
ほども指摘したように、1年に2回、3回と、同じ青森に行く観
光客は、そんなにはいないでしょう。しかし、青森から東京へ、
仕事で来る人は、それこそ、1年に何回も来るでしょう。
 
 そうです。
 新幹線というのは、地方から東京へ、一方的な人の流れを作る
のです。
 上越新幹線が出来たあと、新潟県の人口は増えていません。む
しろ、減り続けています。
 東北新幹線の沿線も、同じことだと思います。
 新幹線は、地方から東京に向かう一方的な人の流れを作ります
ので、地方は、かえって、衰退しかねないのです。

 新幹線が来れば地方は活性化する。あるいは、地方の活性化に
は新幹線が切り札だ。長い間、そう考えられてきました。
 とにかく新幹線を誘致せよ。
 新幹線を持ってこい。
 地方の政治家は、新幹線誘致にやっきでした。

 しかし、実際に新幹線が出来てみると、人の流れは、地方から
東京に向かってしまいます。これをほうっておくと、かえって地
方は衰退しかねません。

 新幹線は、地方にとっては、プラスばかりではありません。
 マイナスもある。
 プラス・マイナスを考えないといけない。
 ほうっておくと、マイナスのほうが大きいかもしれませんよ。

 なにしろ、新幹線でつながる相手は東京です。
 東京の吸引力は、半端ではありません。

 新幹線が出来て、地方は、むしろ、気を引き締めないといけな
いと思います。