イワシの翻訳LOVE

はしくれトランスレータ「イワシ」が、翻訳への愛をつれづれなるままに記します。

コレ、たぶん、いつか買うとは思うけど...

2008年10月17日 21時40分15秒 | ちょっとオモロイ
翻訳者の仕事はもちろん「訳すこと」なのだけど、「読むこと」でもあると思う。スポーツ選手が体を作るために「食べることも仕事のうち」と言うのと一緒。つまり翻訳者にとっての読書は、相撲取りにとってのちゃんこ鍋なのだ。読むことが好きで好きで、それが高じて、「ねえねえ、外国にこんな面白い本があったよ、日本語にしたら、こんな感じだよ」という風に、その面白さを誰かに伝えたくてたまらない、そんな気持ちで翻訳をするのが、僕の理想だ。秘かに、一日のうち、起きている時間の半分を仕事、半分は読書で過ごすパターンを確立したいという夢あるいは目標もある(これ、結構真面目に計画しています)。もちろん、その他人間らしい生活をするための諸々も当然あるわけですが......。しかし、もしその夢を叶えたとしても、長時間ずっと読書の姿勢をとっているのは辛い。なので、ずっと前から、あの大○望さんも愛用されているとかいないとかいう「アレ」がとっても気になっているのであった。

だけど、もしアレを買って、寝そべって読書するのが格段に楽になったとしても、起きてる時間の半分をこの姿勢で過ごすというのはそれはそれでなんとも微妙なものがあるんだよな~。たしかに楽だとは思うんだけど。


「書を捨てよ、街に出よう」――っていうのは、寺山さんみたいに病臥の床で万巻の書を読みつくした人だからこそ言えるセリフなのであって、まだまだ全然読み足りないといつも不満を感じている今の僕の辞書には、「書を捨てる」なんて言葉はありえない。それでも、やっぱり外(電車のなかとか、喫茶店とか)で読む本というのは格別に面白いし、街を歩き回ってワイルドネスを体で感じることも僕の基本だと思っているので、一日中家にいることに飽いてきたと思ったら、書を持ってさっそうと街に出たい。と、はやくもそんな虫がモゾモゾし始めているのでした。


ゴルゴ38 Part XI

2008年10月17日 18時23分53秒 | 連載企画
ついに翻訳作業が一通り終了する。翻訳者によってすべての章が訳され、チェッカーのチェックも終わり、データマンも調査をやり尽くした。映画で言えば、クランクアップ。撮影はすべて終了。近所のイタリアンレストランで、華やかに打ち上げが行われる。プロデューサーから、メイン翻訳者に花束が渡された。思わず、一筋の涙が翻訳者Aの頬をこぼれ落ちる。感動的なシーンだ。誰しもが、目頭にこみあげてくる熱いものを感じている。あの人もこの人も、長かった半年間の共同作業を振り返り、美酒に酔っている。よかった、本当によかった――プロデューサーも、不可能と思われたこのプロジェクトの成功を、心から喜んでいた。宴は、いつまでも続いた(「プロジェクトX」風に)。

翌朝、著者はボストンへと帰っていった(二度と日本には来ないことを固く決意して)。マーク・○ーターセン氏も、リービ○雄氏も、再び大学で教鞭を取りはじめた(このプロジェクトのために、半年間、休職していたのだった)。翻訳者も、チェッカーも、データマンも、それぞれの仕事場に戻っていった。楽しかった祝祭の日々はあっという間に過ぎ去り、またいつもの日常が始まる。

だが、まだプロジェクトは終わりではない。むしろ、ここからがこのプロジェクトの真骨頂なのかもしれない。映画でいうところの編集作業の始まりだ。ベータ版を最終的なリリース版にするためのテスト工程、つまり訳文を練り上げ、熟成させるための作業が残っている。言うなれば、これまでは半年かけて「夜中に夢中で書いたラブレター」を作ったのだ(例え方が古い)。それを冷静な朝の眼で読み直す作業が、これからさらに半年かけて行われるのだった(続く)。

   ,.…‐- ..,
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   /ー-ニ.._` r-' |……    「風呂敷広げすぎて、オチをどうするか難しくなってきたよ(笑)......」

訳文の整理整頓

2008年10月17日 00時06分00秒 | 翻訳について
片づけが昔から苦手だ。だが、これから家で仕事をしていくに当たり、いつまでも雑然とした状態いるわけにはいかない、仕事の基本は整理整頓だ、と思って少しずつ仕事場兼書斎の片づけを始めている(母もこの部屋にはいっさい手を出さなかった)。

仕事の合間に細々としたモノを整理しているのだけど、なかなかすっきりしない。モノが異常に多いということもあるけど、片づけた後のモノたちの様子を見ても、確かにきれいに並び替えられてはいるものの、釈然としない。いつまでたってもごちゃごちゃしている。そして、その釈然としないモノたちは、「どうせ俺たちまたすぐにごちゃごちゃになるんだろ?」という負け犬根性丸出しの視線で僕を見つめている。たしかにモノに罪はなく、散らかしてるのは僕なのでモノを責めるわけにはいかないのだが.....。ともかく、片づけたわりにはあんまりすっきりしないという虚しさに包まれて、「なんでいつもこうなんだ......」って思いましたね。

原因はわかっている。考えてみると、スペースを占拠しているのは、ほとんど使わないもの(未読の本を含め)ばかりなのだ。性格的にモノを捨てることができなくて、ついつい何でもとっておいてしまうのだが、やっぱり思い切って使わないものは捨てるか、押入れにしまい込むか、誰かに譲るか、そのほか何らかの手を打たなければならない。頻繁に使うモノ、必要なモノだけに囲まれてすっきりと暮らす。少なくとも仕事場はそうする。そうしなければよい仕事はできない。妙にそんな気分が高まっている(といいつつ、昨日買って今日速攻で読み終えた、『佐藤可士和の超整理術』に影響されてるだけだったりして....)。

たとえばペン類。今日、一箇所にすべて集めてみようと思って、さまざまな場所からペンたちをかき集め、整理し、分類して、机の上のペン立て数個にまとめてみた。ペンが好きなので、ボールペンを筆頭にやたらとたくさんある。マーカー、シャーペン&えんぴつ、万年筆など、全部あわせたら3百本近くもある。少々時間をかけて律儀に分類してみたのだが、よく考えたらいつも使うものが数本と、予備にいくつかあればそれで当分は事足りるのだ。その他大勢のめったに使わないペンたちのために、わざわざ机のスペースを常時与えておく必要はない(そして貴重な時間を整理に使う必要もない)。だから数本を残して後はバックヤードにリタイヤしてもらうことにしよう。あるいは、ここは思い切ってあまり活躍していないペンたちとはサヨナラするという手もある。でもやっぱりまだ使える物を捨てるなんてもったいない。とはいえ、ふだんはまったくといっていいほど使わないシャーペンや鉛筆を何百本も持っていても、いつまで経っても消耗されないではないか。シャーペンなんて、ボールペン派の僕はいつ使うんだ? しかも、シャーペンってなかなか消耗しないぞ(芯替えるから)、高校生でもない限り。う~ん......

と、そんなことを思いながら翻訳を再開したのだけど、よく考えたら、無駄な物を捨てれないこういう優柔不断な自分の性格は、訳文にも表れていることに気づいた。つまり、無駄な表現や言い回しが多い。ボールペン1本あれば事足りるところを、2本にしてしまう。最近やたらとそういうのが気になるのだ。見直しのときに少しでもまどろっこしいところを見つけると、もう刈り込まずにはおられない。すっきり五分刈りにしないと気持ちがわるい。これはいい兆候かもしれない。それだけ細かいところに眼がいくようになってきたのかもしれないからだ。ただし、あんまり淡白な表現も好きではないので、「ふくらませどころ」では、文章ならではの味わいを出してみたいとは思っているが。

無駄なもの、なくてもいいものを見つけたら小まめに片づける。その小さな気づきがないと、部屋全体が雑然としてしまう。翻訳も同じで、なんでもかんでも詰め込んだり、きちんと整理していないと、必要な表現とそうでないものが混在してしまう。だから、そうだ、翻訳は整理整頓なのだ、日常生活で小まめに片づけをすることは、よい訳文を作ることにつながるのではないか、などと思いながら、まるっきり片づいていない部屋のなかで今日も作業を進めていたのだった。