学習障害と英語指導を考える

特別支援の視点から。
どの子もハッピーになるような指導を。

当事者ブログから~「成人ディスレクシアtoraの独り言」

2016年05月22日 | 学習障害について

読み書き困難、ディスレクシアのつらさは、「なかなかわかってもらえない」ことにあります。
それが学校現場ですと、
「怠けてる」「努力すればできる」という教員や親の言葉になり、子どもが大きく傷ついていきます。

こちらのブログの作者は、当事者としての小学校からの体験を綴っておられます。

成人ディスレクシアtoraの独り言

 

ディスレクシア当事者が声をあげることは、日本では近年までほとんどありません。
まずは「できない」自分を責め、先生や学校のせいだとは思わないのです。

指導側は常に上から目線で
「なぜできないのだ」という姿勢なのですが、
子どもの側からすれば
「自分にわかるように、なぜ教えないのだ」という当たり前の視点が欠落しているように感じます。

それに対しても、「どう指導したら良いのかわからない」という指導側の言葉で逃げてしまいがちなのですが、
教員は、「教える」のが仕事なのではなくて、
どの子も、「わかるようにする」「できるようにする」のが仕事なのです。
その子が「できない」という事実は、わたしの・あなたの・これまでの先生の指導の結果として受け止めなくてはいけないのです。

やり方がわからないのならば、
せめて、その子の立場になって、寄り添いつらさを共有すること、少しでも指導を向上させる努力は必要なのではないかと思います。

「うまく教えてあげられなくてごめんね」
という謙虚な気持があれば、
「普通じゃない。」「怠けてるんだ。努力をせずに、ろくな大人にならない」といった言葉はとても出てきません。

Toraさんのブログは、とても胸が揺さぶられます。
わたしは初めて読んだとき、
「教員は、無知ではだめなんだ、わからないことから逃げたらだめだ」と自分の過去を振り返り、自分が知らなかったこと、その当時に指導していた子どもたちに申し訳なく、とても悲しくなりました。

いま少しでもLDについて研究を続けていられるのは、指導しているチャレンジ教室の子どもたちや、こうした当事者の声のおかげです。
ヒントはすべて目の前の子どもの中にありました。
保護者にも、ぜひ読んでいただきたいです。

目の前の答えが「正しい・間違っている」、
または、「できた・できない」、というようなことに囚われてはいけない。
もっと大切な、「教育の目的」がどこにあるのかを忘れてしまうんだ、と気付かされます。

教育は、それを受ける一人一人が、自立と幸せの道を築けるような力とならなくてはいけなし、
先生は子どもたち一人一人にとって安心し、信頼できる存在であってほしいなと思っています。


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