一韶の俳句ブログ

俳句を詠うのは自然・私・家族・夢や希望・社会など。読む時はどんな解釈が浮かぶか読み手の経験や生活によって様々

2217  田鼠も鶉わたしは何に   鯨兒

2021年07月07日 | 投稿

  「角川俳句大歳時記」。この索引欄には、さまざまな季語が並んでいる。そしてそうしたものの中に、こんなもの使えるのかと思うような季語もある。たとえば、「田鼠化して鶉と為る」。これは「でんそかしてうずらとなる」と読み、「モグラがこの時期には姿をひそめ、ウズラに姿を変えて活動する時節」をあらわす春の季語である。なんと季語だけで十二字。こんな長い季語で句として成立するのかと、例句の欄を見てみる。すると

「田鼠化して鶉と為る舌にピアス」(中田千津子)」という超絶的なる句がちゃんとある。ただこのように丸ごと使うことはまれで、

田に老いて鶉顔なる鼠かな(佐々木北涯)」のようにデフォルメされ使用される場合が多い。そしていつの日にか、この季語で一句ひねってみようと思うようになった。ちょうど映画連句で、春の喪のテーマがまわってきたので使うことにした。

田鼠も鶉わたしは何に」という七七の句である。沢田研二の映画『魔界転生』(1981年)を下地とした、転生の句である。

 転生は、宗教じみていて仰々しい。しかしながら、火葬場の煙突から大気中にのぼった私の粒子が、海に落ち魚に喰われれば魚に。そしてその魚を人が食べれば、また人間に転生するだけの話で、至極当たり前の話である。まあ死後の自分がどうなるかなど、どうでもいい話なのだが、「わたしは何に」なので、転生先を少し考えてみた。今の人間も悪くはないのだが、人間は何かと小忙しいので、これから成長する樹木の近くの土を候補に挙げてみた。樹木の養分となり、日の光を浴び、鳥のさえずりを聞き成長する。こんな転生先もなかなかいいのではないか。(鯨兒記)

ハンゲショウ(半夏生)、別名カタシログサ(片白草)

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