東京の小石川に「祟りの椋(むく)の樹」があるっていうのは、まえから聴いてました。
伐採を試みた者が次々と祟られ、死んでいったという魔の樹---それが、「善光寺坂」のとちゅうにあるという---。
むろん、興味深々でした。
見たいなあ、とずっと思ってた。
でも、なかなかいく機会がなかった。
ええ、仕事が変わって、都内に通勤しなくなったというのが、なんといってもデカイかも。
通勤のついでにちょっとという口実がなくなると、都内は僕にとって、途端にやや遠の場所となっていったのです。
いままでは本とかが欲しくなったら都内に出ざるをえなかったんですけど、いまでは特に地元をでなくてもインターネットという入手手段がありますから。
というわけですっかり都内とはご無沙汰していたんですが、つい先日、神田の神保町に古本を探す用ができまして、そうなると都営三田線の神保町からふたつ向こうの「春日」駅は、ほんのすぐそこではないですか。
そして、三田線の「春日」駅と例の小石川とは、僕の鈍りかけの都内土地勘データの検索によっても、たしか距離的にもそんなにはなかったはず…。
だとすると、これはいくっきゃありません---というわけで行ってまいりました、東京小石川、善光寺坂のとちゅうにある、噂の椋の樹へ!
そのお目当ての「椋(むく)」は、案外すぐに見つかりました。
「春日」駅から白山通りを北にちょっと---商店街を東に行き少々左にいき、それから小石川の「善光寺坂」の細い道をのぼっていく---すると、「沢蔵司稲荷」を越えてすぐのところ---6F建てのアパートのまんまえに、その「椋」はありました。
----こいつが、そうか…。
と、なんとなく唾をゴクッ---たしかにデカイです。
そして、なんともいえない威容がある。
おお、と見上げて、次の瞬間、視界の右下方にほうに視線をつい逃がしたくなる感じ。
そんなビミョーな圧力が、なんとなくあるの。
道のまんなかに立っていて、道路のほうがこの「椋」を避けて通っているという一種独特なシチエーションが、この「椋」の価値を必要以上に喧伝しているのでせうか。
うーむ、まずは、その現物の「大椋」を見てもらうことにしませう---。
ページ冒頭のフォトとあわせて見てもらえば分かるかと思うんですが、この「大椋」、最初は道路のまんなかに立っていたんですよ。
ただ、それだと、道の特殊性を知らないドライバーの出会い頭の飛ばし事故が多かったりしたので、いまは便宜上片側の道を歩道にしちゃって、本来なら復路の道路も一本通行に変えちゃったわけなんですけど、それらの事象をとっぱずしてこう眺めてみても、やっぱり、この「椋」のある空間の特殊性は感知可能なんじゃないのかな?
うん、それくらいこの「椋」の樹は、存在感ありますね。
いい伝えによると、この椋の大樹、戦前には、なんと高さが23メートルもあったんですって。
23メートルっていえば、そーとーの高さですよ。
樹齢は、推定450年---それこそ見上げるような大威容を誇っていたといってもいい、伝説の「大椋」だったのですが、あいにくの戦災で焼かれちゃった…。
そんなわけで樹の高さは半分以下になり、樹皮もところどころ剥がれ気味だったりして、老木の雰囲気を全体的にかもしだしているんですけど、僕のいった8月某日は、枝枝の葉はみんな青々と濃く生い茂っていてね---風が吹くとそれらの枝葉がさわさわと涼しげに鳴って---その怖いような巨大な生命力には、つい感嘆させられてしまったのでした。
時の経過にも、戦争の火災にもめげず、いまだに大量の葉を毎年のように茂らせているんですから。
「強い」樹ですよね。
うん、とても、強い樹だ---。
しかし、この強さは、剥きだしの「生命(いのち)」のかたちというのを、なんか、まざまざと目のまえで見せつけられるような気がして、マンツーマンで対峙していることが決まりわるいような心地が少々してくるのです。
なんちゅーか、生きるって貪欲なんですよ---。
それは分かる---ニンゲンにしても、樹にしても、個別の生命体の基調となっているのは、常にガチガチのエゴイズムです。
ちげえねえ! 貪欲で、利己的で、ただ、あまりにも徹底した自己保存の欲求っていうのは、傍から見ていると、その浅ましさが少々禍々しく映ってくることさえあるんですね。
僕が、この椋と対峙して感じたのは、そのようなことでした。
平和な町のまんなかに立っているこの大椋は、あまりにも赤裸々で凶暴なその「生命力」ゆえに、まるで剥きだしの性器をじかに見せつけられているような感慨を、見ている僕等にもたらすのです。
これは、日常的に、ちょっと決まりわるい---じゃあ、どうするのか?
祭りあげるしかないっスよね?
「魔」との接し方といったら、それ以外にないんですから。
そのようにして、この椋と、この椋のまわりに暮らす人々との対応の間合いが、長い時代を経て決まってきたのではないか、とイーダちゃんは思います。
この大椋の偉大な生命力には一応の敬意を払いつつも、人間の暮らしも一本通行の道路に見られるように、ちゃんと隣接させて、要するにどちらも共存させてゆく…。
万が一、この大椋の「魔」が暴走した場合に備えて、ちゃんと防止装置の神社なんかも椋のふもとすぐの土地に置いて---。
うーむ、感心させられるほど、これは、狡猾な手口じゃないですか。
樹も凄いけど、ニンゲンの狡智ってのも、これはこれでなかなかなモンですな。
蝉、蝉、蝉---うだるような夏日のなか、蝉がジージー鳴いてます。
樹のオーラを感じるには、その幹のところに直接両手を当ててみればいい、という話をどこかで聴いていたので、とりあえずそのオーラ感知法ってのを実際に実行してみたならば---
すると、たしかに通常の樹とちがう、流れるようなエネルギーの塊が、両掌伝いに体内深くに染みこんでくるような感覚がありました…。
椋見物の帰りに、この椋からすぐのところにある、「沢蔵司稲荷」という神社を参拝して帰りました。
この午後は、なんかの催事をやっていて、この稲荷さん、ひとがいっぱい集まってましたねえ---。
ところが、この夜、家に帰ってから、イーダちゃんは突然の腹痛に襲われ、一日寝込んじゃいました。
僕は下痢なんてめったにしないんだけど、なぜだかふいに猛烈な下痢になったのです。
もー 超・油汗…、下腹がキュルキュル痛いったらないの。
----嗚呼、祟りの椋の樹に、馴れ馴れしく抱きついたりしたのがいけなかったのかなあ…!
というような後悔の念が、幾度もアタマをよぎります。
下痢ピーの真相は、むろん分かりません。
が、しかし、安易な気持ちでこの「祟り椋」に接近したりするのは、やめたほうがいいんじゃないか、とイーダちゃんは老婆心ながら思いますね。
だって、まるまる1週間あとを引くほど、マジ強力な下痢だったんだもの、アレは…。
あ。もうひとつ追加情報ね---「力」のある樹に直接抱きつくっていうのは、「気」の観点からいうと結構危険なことみたいなんです。
敏感なひとは樹のエネルギーをもらいすぎて、体調を崩しちゃうのだとか---。
僕の下痢ピーが祟り始発のものなのか、「気」の乱丁喰いによるものなのか、あくまで偶然の賜物だったのか---そのうちのどれが原因だったのかは今だ定かじゃないんですが、いずれにしてもこの特別な「大椋」とコンタクトする際には、ある種の「敬虔さ」と「謙虚さ」を懐手にしつつ行くのがいいのではないか、とイーダちゃんはやっぱり思ってしまうわけなのでありました…。(^o^;>
イーダちゃんの文章を読んでいると、情景が次から次へと浮かんでくるのです。丁寧なフォトが載っていますが、饒舌な文体ですから思索に耽ったりもします。
今回も興味深く読みました。
私も、よく木の肌を撫でたり、さすったりします。今のところ、特別な体験はありませんが。
遠くまで行かなくても、あまり人が来ない場所や、草木の間を歩っていると、本来の自分に還ったような気がします。
勝手に、「秘密の場所」なんて思っている所が、近くに幾つかあったりします。時々そこにひっそりと赴きます。
お稲荷さんの写真、なんかゾクっときました。
今夜は文章が浮かびそうな雨降りの夜ですね。
ずっと、ずっと、楽しみにしています。
訪問と親切なカキコ、ありがとう。「秘密の場所」、いいですねえ! キャンディさん的な「秘密の場所」ってどんなだろう? と、とっても興味がわきます。
niftyのクチコミなんかもしばらく途切れてた感じなので、実は、ちょっと心配してました。
湯守田中屋の仙境の湯の湯浴み体験、よかったです。
男性客と遭遇してとっさにキャンディさんの背に隠れたお友達と、ちょっと固くなりつつも、健気に凛と挨拶するキャンディさん---キュートな絵だなあ、なんて。
温泉の美味しい季節がまた巡ってきましたね。
近場じゃない、遠隔地の温泉につかって瞑想にふけりたい、というのがここ最近の僕の目標です。(^^;