イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その137☆<悪魔のキューピー>大西政寛の伝説☆

2013-03-30 23:01:36 | ☆格闘家カフェテラス☆
                                 
                     ----首を斬らされるもんは、斬られるもんより根性がいるけんのう…。(大西政寛)


 出たーっ、大西政寛です---あの「悪魔のキューピー」です!

 ☆格闘家カフェテラス☆のコーナーをやってく上で、彼を登場させるべきかそうしないでおくべきか、実は僕、ずーっと迷ってました。
 このコーナーの最初のページで、僕は、あのプロレス全盛時のチャンピオン「ルー・テーズ」を紹介させていただきました。
 まあ、彼の場合だと文句つけるひとはあんまいないっしょ。
 で、次は、戦後の伝説の喧嘩士「花形敬」さんにご登場願いまして---
 えー、彼、ヤクザで格闘家じゃないじゃんよー!?
 なんて批判も若干ありましたが、僕は、ここを、彼のような天才を「格闘家」という範疇からはじきだしちゃうような、そーんな固くて狭っちいコーナーにはしたくなかったんですよ。
 たしかに花形さんは一般的にいわれている格闘家というのとはちがう。
 しかし、そんな表面上の区分の差違がなんです? 梶原一騎にせよ、「刃牙」の作者の板垣恵介にせよ、いまだに(梶原氏は既に故人ですが)あの花形伝説を夢中になって追っかけているではないですか。
 後世のひとにこれほどの魅力が覚えさせるほどの男が、軟弱な、要領がいいだけの男であったはずがありません。
 とびきりの格闘士であったから、その刃物のように鋭い独自の光芒が、僕等をこれほどまでに魅きつけるのです。
 まあ花形さんの場合、ほんとに「喧嘩の天才」という形容がふさわしかった、肉体的にも精神的にも超スペシャルな男であったわけなんですが、あっちの業界はさすがに人材豊富です、花形さんとはべつのずーっと西の方角で、それとほとんど同時代---より正確にいえば、このひとはあの花形敬より七つ年上ですか---男を売って商売していらした凄まじい男はんがいらっしゃったんですよ。
 それが1923年(大正12年)、広島の小坪に生を受けた、大西政寛そのひとだったのです---。
 
 彼がこれほど有名になったのは、もちろん、あの東映映画「仁義なき闘い」において、主人公の菅原文太が兄貴分と慕う若杉寛(これは、梅宮辰夫が演じた)のお蔭でせう。
 あれのせいで「悪魔のキューピー」は、あそこまで有名になったわけ。
 それは、まあ分かりますよね? でも、このページ冒頭で初めて彼の実写真に触れた方は、

----うわ、映画のイカツいいかにもヤクザの梅宮辰夫より、本物のほうがなんか怖えゾ…。

 と思うかもしれない。
 そう思ったとしたら、貴方の勘はなかなか鋭い。
 そうとは感じれなかった方も、よーく目をこらしてみれば、きっとそれは感知できます。
 この写真の男の瞳は、たしかに、なんともいいようのない闇に満ちている。
 では、その闇の種類とはなにか? 
 なぜ、彼の瞳は、そのような闇を、孕むようになったのか?
 彼のことをよくご存知の方にはいまさら無用でせうが、大西政寛ビギナーの方もなかにはいらっしゃるでしょうから、そーいった方々のために、まずは大西さんのプロフィール紹介といきませうか。
 ただ、当時の事件やら喧嘩やらをいろいろと記述しても、当時の世相と相手との関係や背景とかをいちいち説明しないと、大西初体験の方はなんのこっちゃさっぱり分からんだろうと思いますので、まず、僕なりにかいつまんでまとめた以下の<大西理解のための箇条書き文書>にざっと目を通していただけたら、と思います。


                      ◆「悪魔のキューピー」理解のための箇条書きクロッキー◆

1.1923年(大正12年)広島の小坪にて出生。裕福な商店の生まれだったが、大西2才のとき、父がモルヒネ中毒で他界。母は父宅を追われ、以降祖母のもとに引き取られて育つ。その渦中、近隣の子らに父の中毒ぶりをからかわれ、いじめ、喧嘩を多く経験する。

2.で、ここが非常に特殊だと僕は思うんですが、大西は、小学校に上がっても字を覚えようとしなかったんです。
 これは、ちょっと凄い。子供って皆がやってると、つい付和雷同しちゃうところがあるじゃないですか。
 でも、大西は、流されなかった。
 餓鬼のくせに、授業を聴きもせず、教室では絵ばかり画いていたらしい。
 毎年の絵画コンクールでも優勝して、結構才能はあったようです。
 しかし、大西が凄いのは、とうとう字を覚えないまま、高等小学校まで進んじゃったってとこ---これは、奇妙だと思いますね。
 このひと、妥協っていうのが、まったくないのよ。
 覚えないと決めたら、もう覚えない。
 このなんともいいようのない、エネルギッシュな生来の鬱屈…。
 煮えたぎり、出口を求めていた噴火寸前の「それ」が、あるとき、ふいに爆発します。
 きっかけは高等小学校の教師の、心ないからかいのひとことでした。

----おまえは親父といっしょの脳病院で絵の先生にでもなるんか? じゃけん、先生は字も書かにゃならん…。

 その瞬間、大西はキレます。
 後年の大西は、怒ると眉間が縦に立つ、といわれていました。
 このときもそうなった---眉間のあいだに縦皺が走り、小学生の大西は、すかさず担任の教師に文鎮で殴りかかり、あっという間に3針も縫う怪我を負わせます…。
 ちなみに、この時代の教師暴行をいまの時代と同じに考えてはなりません。
 なにせ、教師に手をあげるなんて、超・考えられない戦前ニッポンのことですから。
 大西は当然、即日退学処分となって、カシメ職人の若衆の道に進むことになります…。
 (カシメというのは、チームを組んで軍艦に焼きたてのネジを打ちこむという、いまでいう鳶をさらにトッポクしたような職業の総称です。カシメは、相当の稼ぎになって、金遣いも皆派手で、気の荒さでも有名だったといいます。たとえば、「奴はカシメだから喧嘩は売るな」みたいな言説が常に囁かれていたらしい)
 その後もちょくちょく事件を起こしまして---ただ、そのなかでは、やはり……

3.あの「海軍軍人事件」に触れねばなりますまい…。
 大西16才の夏、大西が広の食堂でビールを飲んでいると、いかにもたくましい、大柄で高圧的な海軍軍人に咎められます。

----おめえのような餓鬼は、まだビールなぞ飲むには早ぇ…!

 みたいなことを、たぶんいわれたのでせう。
 まともにいったら敵わないと見た少年の大西は、一端は引きさがります。
 しかし、すぐ隣りの商店の台所に押し入って、そこから刺身包丁を握りこむと、あっというまに例の食堂へと引きかえし---
 件の軍人の腹をいきなり刺し、あまつさえ、その軍人の片耳をスパッと切り落としてしまうのです。

 この事件で大西の名は高まり、まだ若年の彼が呉の通りを着流しで闊歩しても、文句をつける人間はまったくいなくなったといいます…。

4.有名になった大西は、地元の土岡組とも接点ができはじめるのですが、ここで兵役となり、中国戦線に送られます。
 この時期の大西の詳細は、僕も非常に気になるのですが、謎に包まれていて、まったくのこと分かっておりません。
 大西は帰国後も、ほとんど戦争の話はしなかったそうです。
 しかし、ときどき、気が向いたときだけ、母のすずよにこう、

----お母ちゃんのう、戦争いうたらまったく哀れなもんじゃ。行軍の最中にひと足でも遅れると、もう敵に捕まるか、はぐれて野垂れ死にするだけじゃけん。軍隊じゃのう、小便1丁糞8丁いうて、用足ししとるとそれだけ遅れるんじゃ。ほいじゃけん、ピーピーでも道端にしゃがみこんだらしまいじゃけん、ズボンの尻あけっぱなしで、垂れ流しで歩くんじゃ。そうなると弱いもんからばたばた死んでいく。それを合掌ひとつして、近くの叢に放りこむんじゃ。普段はのう、戦友じゃ兄弟じゃいうても、そうなったら石コロじゃけん、石コロがゴロゴロ、ゴロゴロと行軍しとるようなもんじゃ…。
         (本堂淳一郎「広島ヤクザ伝<悪魔のキューピー>大西政寛と<殺人鬼>山上光治の生涯:幻冬舎アウトロー文庫より)

 ほかにも大西に中国での経験を問うたひとはいたようです。
 あんたは中国で中国人捕虜の首をいっぱい斬ったとかいわれてるが、あの噂は本当か、と問われたとき、大西はにやっと笑ってこう漏らしたそうです。

----おお、首を斬るもんは、斬られるもんより根性がいるけんのう…。

 大西は、中国戦線に都合4年いたそうです。
 兵役1年で1等兵になるのが、この時代の通例だったのですが、大西は、どういうわけか帰国するまで最下の2等兵のままでした。
 なにか、あったんでせねえ、恐らく…。
 あの気性ですもの、上官を殴ったとか、刺したとか---詳細は一切分かりませんが…。

5.そして、昭和20年の敗戦です。
 大西も戦後の日本、原爆の投下されたあとのあのヒロシマに帰還して、シャバでの暮らしを再開します。
 むろんのこと、世相は混乱して、荒んでいます。
 この荒涼とした「戦後」のなかで、中国の戦線で数えきれないほどの虚無をその瞳に蓄積してきた大西が、本格的に「爆発」しはじめるのです。
 戦後の大西のもっともインパクトのある喧嘩は、なんといってもあの盆踊り事件でせう。
 昭和21年8月の14日、阿賀や広で戦後初めての盆踊りがひらかれたのです。
 大西は、このころ、地元の土岡組に所属していたんですね。
 しかし、当時の世相です、地元の土岡組に反旗を掲げる、愚連隊のような組織は、いっぱいあったんです。
 そんな反対勢力のなかで、もっとも大きな規模を誇っていたのが、桑原秀夫の率いる、桑原組という組織でした。

----岡土がなんぼのもんじゃい、いつでも相手になるど。

 といったような、いわゆるブイブイですね。
 その宵も大西をはじめとする面々は、組の事務所で、この桑原組の奴等を締めにゃならん、と相談していたそうです。
 で、ひさしぶりの華やかな祭りの会場で、この大西たちが、桑原組の小原馨を見つけるわけです。
 大西たち5人は、小原を捕らえ、会場隅の暗がりへと連れていきます。
 ここでの大西が、なんとも凄まじい。
 
----最近ごちゃごちゃうるさいんじゃ。馨もいうとる口じゃろう。桑原なら殺るところじゃけん、おまえなら腕一本でええわい。馨、覚悟せい…。

 そして、隠しもったポン刃を振りあげるやいなや、

----馨、許せい!

 と小原馨の左腕を斬り落としてしまうのです。
 悲鳴をあげて崩れ落ちる小原---。すると、その声を聴きつけて、小原の兄弟分である磯本隆行がそこに駆けつけてきます。
 大西は、磯本も小原とおなじように手下に捕まえさせておいて、

----許せい…!

 小原と同様、磯本の左腕も、瞬時のうちに斬り落としてしまいます。
 あの童顔の眉間が縦に立った、「悪魔のキューピー」そのものの修羅顔になって…。

6.この事件の噂は、ひと晩で呉の町中を駆けまわりました。
 「悪魔のキューピー」という仇名は、そのときについたものです。
 もう、こうなると、大西は、別格のスターのようなもン。
 誰ひとり逆らわない、そりゃあそうです、なにせ歩く爆弾みたいな男なんですから、彼は。
 賭場にいってイカサマ札を大西が使う、それを見咎めて誰かが、

----うんにゃ、その胴落とせい…。

 といったとする。
 すると、大西の眉間がすかさず縦に立つわけです。

----あん? なんちゅうた? もう一度ゆうてみい…。

 いったもんはもう半殺しです。火鉢の串で殴るわ蹴るわのやり放題。誰もそれをとめられない。
 そうして、ほどなく大西は、呉の町を制覇するんですね。
 あらゆる権威の崩壊した呉の町で、いかなる権力にも従わず、自分の意思を貫く大西は、一種のアンチヒーローとして祭りあげられることになります。
 なんでも巷では「むかしの仁吉、昭和の大西まあちゃん」なんて囃歌が唄われたり、巡査までが「おなじ遊ぶなら、まあちゃんみたいになりなさい」といったというんですから、当時の大西がいかにビッグネームだったか、時代も環境もちがう僕等にも想像できようというものです。
 ここまでくると一種の熱病ですよね、ええ、大西は、まさに「戦後」という時代が生んだ熱病のような男だったんです…。

7.大西は、この盆踊り事件では、初犯ということもあって、わりとすぐに釈放となりました。
 しかし、その保釈中に、またもや事件を起こしちゃう。
 規則と拘束の巣である吉浦拘置所のなかで、縛られることが大嫌いな大西は、またしても鬱屈していきます。

----なあ、美能よ、わしは出たいんじゃがのう…。

 先に服役していた弟分の美能幸三(のちの「仁義なき闘い」の著者)にそう呼びかけても、むろんのとこ一介の囚人にすぎない美能にどうこうできるはずがありません。
 鬱屈の高じた大西は、やがて腹を決めます。
 その決め方というのが、なんとも大西流でまたもや凄まじい。
 
----おい、わし、今日出るけんの。

----保釈が、決まったのかいの?

----とにかくわしは先に出とるけん、シャバで待ってるからの…。

----……?

 いぶかる美能をあとに、大西は、拘置所で散髪係をしている男の部屋に向かうやいなや、

----おい、剃刀貸せい…。

 そして、どっかりとあぐらをかいて腹を出して、いきなり手にしたその剃刀でハラキリを敢行したというのです。
 半端じゃない深さ、腹の皮から腸が塊になって飛びだして、大西は、それを両手で抱えたまま病院まで歩いた、ということです。

----必死で抱えとったけん、重かった。しかし、腸っちゅうのは、思ったより重たいもんじゃのう…。

 なんという濃ゆいパトスの力か…。
 まったくもって常人じゃない、かの花形さんと通じる不気味な異種の力を、僕はこのエピソードに強く感じます。
 ここまで彼のエピソードを聴いたうえで、それでも俺は彼に喧嘩を売りたい、という喧嘩自慢がいたら、僕は、そのひとのことを偉い、と思う。
 僕は、とてもダメ…。
 だって、彼、一種の「天才」だもん、喧嘩を売るどころか、ファンになっちゃうよ。
 もちろん、重症の大西は即時釈放となり、大西は自分の言葉の通り、シャバにもどれることにあいなります---。

8.しかし、シャバにもどってからの大西の生きざまには、まさに死に急いでいるような趣きがありました。
 大西は、土岡組のライバルの山村組の若頭に引き抜かれ、弟分と可愛がっていた羽谷守之をはじめ、かつての仲間や舎弟たちと対立していくことになります。
 その自身の「裏切り」に鬱屈したのか、自身の焦燥の具合と比例するが如く、大西の生来の凶暴性は、さらに顕著に発揮されていきます。
 昭和24年の11月には、福山競馬で、八百長のいざこざから騎手を半殺しにして指名手配。
 翌年の1月4日には、妻と歩いているところを冷やかした、大西と名乗る男を銃撃して射殺。
 その月の18日に、呉の岩城邸に学生服を着て潜伏しているところを警察隊に踏みこまれ、大西は、警官ふたりを応戦して射殺したものの、背後から撃たれ即死するのです。
 享年27才---一代の阿修羅の生涯が、ここに完結しました…。


      



                           ×          ×          ×

 しかし、まあ、なんていうんでせうかねえ---。
 僕は、ここまで書いて、あの安藤昇さんの親分筋にあたる「愚連隊の元祖」万年東一氏のことをつい思いだしちゃいました。
 彼が、凄いことをいっているんですよ。

----命を投げだしてくる奴に、命を守ろうとしてる奴は、絶対に勝てねえ…。

 僕は、この言葉は真理だ、と思う。
 万年さんは映画「兵隊やくざ」のモデルになったひと---中国での戦争も,愚連隊同士の出入りも殺し合いも腐るほど経験している、いわばその道の超・オーソリティーです。
 その彼の言葉の通り、男同士のふたりが、いざ鎌倉というサイアク事態に陥った場合、僕は、半端な技術なんてまるごと吹き飛んじゃう、と思うんですよ。
 ルー・テーズが、ダニー・ホッジについて、「喧嘩なら自分よりホッジのほうが強い」といったのは、恐らくそういう意味でせう。
 喧嘩の王者・力道山が、あの花形敬を恐れた理由も、たぶん「それ」でせう。
 技術、体力---といったものが絶対の指針にならない、そういった不安定極まる「場」が、僕は、いわゆる喧嘩の空間というモノだと思うんだなあ、要するに。
 それ考えると、「最強」っていったい何なんだろうな? と、ふしぎになりますね。
 大西さんは、格闘技的にいうなら一介の「素人」です。
 打撃の基本のワンツーも、フェイントのバリエーションもたぶんほとんど知らないし、関節技なんてしたこともないと思う。
 でもねえ、僕は、そんな彼が喧嘩に弱いとは、どうしても思えないんですよ。
 格闘技でかなりの域までいってるひとは、僕がそんな風にいうと笑うかもしれない。
 けどねえ、イーダちゃんは、かの「悪魔のキューピー」大西政寛氏を、花形さんやホッジなんかとも張れる、最強のファイターのひとりであった、と考えているんです。
 そうして、いまもって、その考えはまったく変わっておりません…。m(_ _)m

   (注:この記事は、幻冬舎の本堂淳一郎氏の著作「悪魔のキューピー」から多くを拠っています。興味のある方は、そちらを参考にして下さいますように)

                                                    ---fin.
 

 
 

 





 

徒然その136☆オリジナルギター曲「マズルカ=ノスタルジア」☆

2013-03-22 16:28:30 | ☆イーダちゃん音楽工房☆
            

 ヘロー、先日、徒然その134☆オリジナル・ギター曲「ゴシック様式の部屋」☆で音楽をUPしたらすっかり面白くなってしまい、またもや新作のUPなど企んでいる、いささかけしからぬイーダちゃんです。
 ブログで自作のこの<スケッチブック>をやると、アクセス数がガタッと落ちるのは重々承知なんですが、やっぱねえ、自作曲ってどうしてもお披露目したくなるじゃないですか。

 というわけで新作です---「マズルカ=ノスタルジア」!

 といっても、これ、作ったのはそーとーむかしでして、実をいうと、これ、僕が大学のころの旧作なんですわ。
 超・古ぅ! 僕はたしか18才ぐらいだったんじゃなかろうか。
 関西のプロ・ギタリストの家高っていうのが---彼についての詳細を知りたい方は、僕の旧記事・徒然その17.5☆スケッチブックより--ポエム「家高」☆を御覧になってください---この曲もまたえらい気に入ってくれまして、それで僕的にも忘れがたく、アレンジとかもずいぶん変わったけれど、いまも記憶に残っている懐かしの自作曲なんです。
 この曲の構築にあたって僕が主に心がけたのは、なるたけトニック・コードを使わないこと。
 実際には Am がこの曲の主軸のキーであり、また、トニックなんですけど、それが出てくるのは、この曲ではサビのほんの一瞬だけ。
 あとは、追想とノスタルジックな軋みのうちに、全てが埋没していってしまう…。
 そんなね、古い油絵の表面の絵具のひび割れみたいな、歳月の重みの加味された、玄妙なタッチが出したかったのよね。
 もっとも、あいかわらず僕のギターの腕のほうはヘボピーなんですが、よかったらまあ聴いてやってください。
 ただし、この曲の著作権はイーダちゃんに帰属し、いかなる形での商業演奏をも禁ずることを、ここに前もって明言しておきます。
 では、そんなイーダちゃんの作曲・演奏による「マズルカ=ノルタルジア」を、どうぞ---!(^o-y☆彡

         http://soundcloud.com/iidasama/130322-1

(注:なお、これ、google で検索しないと見つけにくいかも。海外サイトの soundcloud 20130322マズルカ・ノスタルジアという書式です)

 追記:最近 youtube にも、同曲アップしてみました。

        youtube イーダちゃん  original guitar number「マズルカ=ノスタルジア」by イーダちゃん

 というサイトです。ご興味おありの方がいらしたらぜひどーぞ!


                         


徒然その135☆巡回時、主の去った空き部屋にふと立ち寄ってみる☆

2013-03-20 11:10:15 | 身辺雑記
              

 いま、僕は、某所で介護の仕事をやってます---。
 この仕事をやってると、だいたいひと月に1名ほど、利用者の方の誰かが亡くなっていきます。
 それは、まあ、いわばこの職業の宿命---利用者さんだって、もう平均85才くらいの高齢者の方ばかりですし、いくら手をつくしたって人間の寿命というものは、これをプラグラミングされるのは人外魔境のお方、たかが人間風情がどうあがいたって今さらどうなるものでもありません。
 僕はね、いままでの前人生の期間、医者なんかほとんどかかったこともないような男だったんですけど、この仕事をはじめるようになって、現代の医療ってものについて、つくづく考えるようになっちゃいました。
 例えばねえ、胃瘻-いろう-治療ってのがあるんですよ…。
 これは、身体の機能が弱って、自力で食事をとることができなくなった利用者さんが、家族の同意を得て、手術でお腹に穴をあけ胃に直接管を通し、その管からナースの手によって、1日3回、ラコールという栄養飲料を流しこみ、その栄養補給とケアスタッフの排泄介助なんかの手助けによって、長期にわたって生き長らえる道を選択するっていう行き方なんですね、ざっというならば。
 胃瘻---単に生命の安全な維持って見地からいうなら、これは、実に有効なあり方でせう。
 だって、いったん胃瘻治療に入った利用者さんたち、それまでの食べれない苦悶がうそのように楽になって、見るまに顔色もツヤツヤしてくるんですから。
 それ見てれば誰も文句はいえない、いえるわきゃない。
 ただ、それによって失うぶんも非常に大きいんですね、この胃瘻ってやつは。
 まず、この医療を受けると、必然的に利用者さんは、寝たきりになっちゃう。
 それまでおしゃべりしてた利用者さんの口数は、日毎に減っていき、やがて、オムツ換えのときなんかの話しかけにもまったく反応が返ってこなくなります。
 そりゃあそうだ、まる1日、朝から晩まで寝てるだけなんですから。
 頭も使わない、手足も使わない、使わない器官は、非常に正直に、もとあった機能を見る見る喪失していきます。
 手足がだんだん拘縮していき---うん、焼死体みたいに、まるで見えない鞠でも抱きしめているかのように、手足が内側に縮こまっていくんです。
 それから口---言葉を失って、物を食べる必要もなくなった口は、涎や汗や痰の混合分泌物に占拠され、たえず掃除をしてないと喉をつまらせかねない危険な通路になります。
 窓の外にいくら極上天気の青空が見えていたとしても、日がな一日ベッドに寝てて、1日3度の栄養補給(これは、栄養分を直接胃に流しこむわけですから、当然のことながら食事の喜びなんてかけらもありゃしません!)、あと、1週に2度の機械浴(一種の小型クレーンを使った、身障者用の入浴のこと)のときに部屋の外にでれるだけで---それ以外はずーっとベッド住民、なーんもすることがない。
 気を遣ってベッド前のTVなんかつけても、認知のほうも進んでいるんで大概無反応、どこまで理解できているやら、傍目からはよく分からない。
 それに、こうした入居者さんたちは、だいたい自分で寝返りなんかも打てないくらい弱っているんです。
 だから、僕等スタッフが定時で寝返りとかさせてあげなくちゃいけない、そうしないと背中が床ずれを起こして、もの凄い褥瘡になっちゃったりするの。
 この褥瘡っていうのが、また凄まじいんです。
 僕、はじめて見たとき、失神するかと思った。だって、拳が入るほどでかいんだもの。
 だから、こういう褥瘡をもった利用者さんのオムツ換えをやるときは、体位交換なんかもなるたけ優しく、丁寧にやるようにしてるんですけど、それでもなんかの弾みに利用者さんが痛がって、(あるいは嫌がって? それとも恥ずかしがって?)ものごっつい悲鳴をあげるときなんかも結構あるわけ。
 最初はみんなこの悲鳴にビビるんですけど、馴れてくると、逆に悲鳴をあげてくれるほうがむしろ嬉しかったりするんです。

----ああ、○○さんは、まだ世界と繋がっているんだな、と思って。

 痛みであれ、苦しみであれ、世界との絆がまだ保たれているっていうのは、いい。
 なんか、安心するんですね、そういうのは。
 逆に、話しかけても無反応、TVの音にも無反応、オムツ換えや体位交換のときにもなんにも反応してくれないとき、僕は、そのひとの瞳の奥をついつい覗きこんじゃうことがある。
 いったい、○○さんの瞳には、いま何が映ってるんだろうって。
 でもね、なんにも映ってないときが、たまにあるんです。
 そこに、なーんにも映ってない、綺麗な瞳だけがきらきらと光っているのを見つけたとき、
 そういうときは、ちょっと怖い---。


             
注:上写真と記事の内容とは無関係です。これは、あくまでイメージ写真としてご覧になっておくれ。

 ほら、人間の脳って、旧皮質と新皮質に分かれてるわけじゃないですか。
 旧皮質は爬虫類の脳とかもいわれていて、人間の根源的な生存欲を司ってるっていいますよね。
 いわゆる、喰う、寝る、排便する、なんて機能の部署なわけ。
 対して、新皮質は、それよりもうちょっと複雑な役割を担当しています。 
 たとえば、理性とか思考とか計算とか恋愛だとかの。
 でも、胃瘻治療を受けていると、この新皮質が徐々に死んでいくように僕的には見えるんですよ。
 なるほど、名称はたしかに「延命治療」だ、ちげーねえ、しかしね、これは、やっぱり一種の拷問じゃないか、なんて風にときどき思ったりしちゃいますね。
 でも、もしそうだとしたら、こんな責め苦を受けなくちゃいけないほどの罪を、○○さんは過去のいつかに犯したんだろうか?
 仮にそうだとして、これほど長期の酷い罰を受けなくちゃいけないほどの、それほどの罪っていったいなんだろう?
 不倫? 嫉妬? 意地悪? あるいは、小さなささいな嘘の集積?

----ねえ、○○さん、ちょっとだけ起きて、僕に教えてよ…。

 心でそんな風に呼びかけても、もちろん○○さんは無反応、いつものように歯をカチカチ鳴らして、喉の奥から力感の抜けたかすかな喘音を漏らしているばかり---。

 そんな生活が10年にわたってつづいていた○○さんも、先日とうとう亡くなりました…。


                  ×          ×          ×

「しかし、○○さん、長いことよく頑張ったわね」
「ほんと。ただご家族があとのほうはあまり見えなかったわね」
「そりゃあねえ、10年だもの」
「10年か。長いお勤めだねえ」

        
                  ×          ×          ×
      
 いま、その部屋は、空き部屋。
 空のベットと空のタンスとカーテンのない裸の窓と。
 でも、まだ、○○さんのにおいはかすかに残っています。
 ○○さんがいないのは重々分かっているんだけど、いまも僕はときどき、巡回のとちゅうでこの居室に寄ってみることがあります。
 いままで通りにきちんとノックして、

----○○さん、失礼しまーす、といつも通りに声なんかもあげて。

 でも、そこには誰もいない、主のいない剥きだしのマットレスのベッドがぽつんとあるばかり。
 ○○さんがベッドに寝て、いつも眺めていた空は、今日も晴天です。
 仕事はむちゃくちゃ忙しいから、いつまでもそんなところで油を売っているわけにはいかないんだけど、僕は、ほんのしばし○○さんの立場になって、彼女が眺めていたのとおなじ空をなんとなく見上げてみます。
 去年、○○さんの体位交換の際、窓の下に見えていた、サルスベリの花はまだ咲いてない。
 今年、あのサルスベリが花をつけるときには、どんなひとがここに入ってくるのかな? と思いつつ、唇のはしをきゅっと締めて、日常の業務に再び復帰していくイーダちゃんなのでありました…。
                                                                       ----fin.
 

徒然その134☆オリジナルギター曲「ゴシック様式の部屋」☆

2013-03-17 19:17:45 | ☆イーダちゃん音楽工房☆
                   

 ヘロー、今回はなんと、厚顔無恥にもイーダちゃんのオリジナル曲のお披露目です---!(^o^)/

 イーダちゃんが高校2年の16才のときにつくった、オリジナルのギター曲。
 うーむ、恥ずかしいなあ。僕、ギターは下手糞なんですけど、わりとメロディーメイカー体質なとこがあって、この手のメロディならいくらでも書けちゃうんですよ。
 これ、特に難しいテクもなんにも使ってない、特にひねりもない、初心者向けの素直なオリジナル・インストなんですけど、かつて僕の過去ブログ---

       徒然その19.7☆スケッチブックより--ポエム「家高」☆

 でも紹介した、関西の名ギタリストにしてプロミュージシャン、大学のとき一緒にグループを組んでいた、今は亡き家高毅氏が、なぜだかこの小品をえらく気に入ってくれてね、誉めてくれたことが嬉しい思い出として残っている曲なんです。
 そりゃあね、あれだけの名手に認められれば、嬉しいっスよ。
 ただ、曲の出来はまあまあとも思うんですが、演奏するイーダちゃんの腕はかなりヘッポコですんで、そのへんご容赦。
 いま、ギターなんて、施設の音楽会くらいでしか弾いてないもんねえ。
 この小さな演奏を、その今は亡き家高と、やはり共通の音楽仲間であった淡路の内山(よー、元気かあ!)、あと、善行在住の斎藤氏に捧げたい、と思います。
 なお、この曲の著作権はイーダちゃんに帰属するものであり、いかなる形での商業演奏をも禁じることをあらかじめここに明言しておきます。
 この小曲が、いかなる意味においても貴方をインスパイアできたなら、それは、イーダちゃんの大きな喜びです。
 まあ前置きはこのへんにして、そろそろ演奏にいきませうか。
 では、セピア色のノスタルジーに心を染めて---ハイ---!(^.-y☆彡

     http://soundcloud.com/iidasama/7mms8iwfxw5g

(注:なお、これ、google で検索しないと見つけにくいかも。海外サイトの soundcloud ゴシック様式の部屋:決定稿という書式です)

 追記:soundclaud 分かりにくいというご指摘をいただいたんで、最近、youtube のほうにも同曲、アップしてみました。

    youtube イーダちゃん   original guitar number「ゴシック様式の部屋」by イーダちゃん

 というサイトです。ご興味がおありの方がいらしたら、ぜひにもどうぞ!


                        
 

徒然その133☆温泉小唄☆

2013-03-14 23:13:53 | ☆湯けむりほわわん温泉紀行☆
                    

 2007年の6月はじめ、人生と仕事の境目で迷子になった僕は、休暇をとり、東北放浪の旅にでかけた。
 旅の初日に訪れた宿が、岩手・一関にある「須川高原温泉」だった。
 服を脱いで、露天にでると、霧の向こうに巨大な岩がそびえ立っていた。
 ここの露天の名物にもなっている、「大日岩」だ。
 「うおっ!」と思った。のけぞるほど圧倒された。
 でも、PH2.2の野外の湯につかっているうち、その鬱陶しいほどの存在感が、逆にだんだん心地よくなってきた。
 なぜか、くつろげるのだ。
 迷子になってささくれだった心も、なにやら凪いでくる。
 やがて、僕は、巨大な「大日岩」の存在感にくるまれて、その庇護に甘えはじめている自分に気づいた。
 人間関係のささくれ傷や感情のもつれめが、ゆるゆるとほぐれて、荒々しい岩肌に吸収されていくようだ。
 そんな安易な甘えぶりは主義じゃなかったが、僕は、その流れにいつしか自然と身をまかせていた。
 そうするのが微妙に心地よかったからだ。
 すぐ頭上で岩ツバメが飛んでいる。番いになった二羽がくるくる飛んでいる。
 顎のあたりを楽にして、やや上をむき、「大日岩」をもう一度よく眺めてみる。
 そして、ふと思った---神サマっていうのも、ひょっとしたらこんなものなのかもしれないな、と。


                    

 岩手・南花巻温泉郷にある、豊沢川沿いの湯治宿「藤三旅館」は圧巻だった。
 なにしろ値段が安い---1泊して2000円以下という、その時代離れした値段設定にまずは驚く。
 それから建物。湯治部の古い学校校舎みたいな木造の建物を、スリッパであちこちパタパタと散策するのは愉しかった。
 連泊の湯治客であるじいさんばあさんとの、雑多な、とめどないお喋り。
 ほれ、あのひとはなんかはな、もう7年もここに暮らしていて、ちっとも離れやしないのサ…。
 懐かしい、セピア色のアジアンな香気が、宿中に、主のように色濃くたちこめている場所なのだ。
 ここの名物は、立ち湯で有名な「白猿の湯」である。
 昼間にも何度か入ってはいたが、たまたま夜中に目覚めたんでひとりで行ってみた。
 昼間の喧騒が嘘のようにひっそりと静まりかえった「白猿の湯」は、いささか怖かった。
 その湯浴みの終わり近く、ふと誰かの気配を感じてふりかえったら---
 そこに、そのとき、明確な視線を感じた。
 たあれもいない、奥行のある、深くて暗い浴場の濃密な空間が、僕の背中をじっと見ていた。 
 

                    

 栃木・那須高原にある名物宿、「北温泉」の歴史はなかなか古い。
 もともと、ここは修験道の地であって、修験者のための湯場であったのだ。
 あと、江戸、明治、昭和の3時代にわたって建て増しされた、迷路のように錯綜した、特徴的な木造建築。
 その一番奥手に作られている「天狗の湯」は、そうした「むかし」を色濃く残している貴重な湯だ。
 まず、ここには廊下と風呂場を隔てている、壁というものがない。
 着替処らしいスペースもどこにもない。
 二階の廊下の突きあたりに、すだれらしいものがかろうじてあり、その向こうがいきなり風呂という大雑把な作りになっている。
 湯治部屋を出てちょいと見たら、すっ裸の男性と男性自身がモロに見えた、なんていうのがごく当たり前の日常風景なのだ。
 この石作りの源泉風呂の浴場の壁には、大きな天狗の面が、いくつか掛けられている。
 それから、多くのの願い事の記された絵馬が、その天狗の面を飾るように、無数に吊りさげられている。
 湯浴みしながら、長い時間をかけて、それらの願い事に目を通すのが、宿泊の際の僕のひそかな愉しみだ。
 見知らぬひとの書いた見知らぬ願い事は、ときとして僕をおののかせもするし、ときにはほっと安堵させたりもする。
 深刻な願い事を読んだあとの、うつむき加減の、押し黙った心での長い入浴---。
 願いの成就を記した絵馬を読んだあとの、喜びに満ちた、凛と背筋の反りかえった入浴---。
 どちらの入浴も忘れられない。
 忘れられないからこそ、僕は、またしても「天狗の湯」の湯けむりを夢見て、今夜も北温泉行きの架空のクルマのハンドルを握るのだ。


                    

 九州・大分県の別府は、僕の聖地だ。
 とりわけ紺屋地獄に位置している、世界一の泥湯「別府温泉保養ランド」は、僕にとってのエルドラドである。
 神道的ニュアンスであえていうなら、それこそ伊勢神宮のような湯、とでもいうべきだろうか。
 ここの施設は、もう何から何までスペシャルなのだ。
 施設自体はボロい、建物の趣味もわるいし、はっきりいって飯もまずい。
 しかし、温泉は---! 
 超・極上としかいいようがない、と思う。
 コロイド湯の着替処の棚で服を脱いで、地下の薄暗い泥湯地帯を通過していくとふいに風景がひらけて、
 ほーら、上空までカコーンと突き抜けた青空と、広大な泥湯天国とのお出迎えだ!
 ここの湯には、湯船なんていうチャチい文明の枠組はまったくない。
 生まれたままのお湯が、何百年もかけて地下から自然に溢れでてきて、それがたまたま泥湯の池になった。
 そんな自然湧出の温泉の貴重な池だまりを、そのまま温泉として、贅沢にも一般開放してくれているのである。
 つまり、ここは、ある意味、温泉の理想形というのを体現してしまった存在なのだ。
 僕は、ここの泥湯につかれば、浮き世のことなどまったく忘れてしまう。
 というか、そんな下賎なことなんてどうでもよくなってくるのだ、ここの高貴な、硫黄の香りのする、暖かい泥湯にじっと浸かっていると。
 ここの泥湯の底は天然の泥床だから、歩いていると自重で足が埋まる。
 あるときは左足だけ深く埋まりすぎ、ついついのけぞって豊満な乳房を思いきり公開してしまう女性客がいたり(ここは混浴なのである)、
 また、あるときは尻をつけた湯船からいきなり熱湯が湧きだしてきて、小さな悲鳴とともにお湯から急激な発作的ジャンプを試みる男性がいたりする。
 そして、そんなすべての滑稽な光景が、限りなく美しく見えたりもする稀有な仙境が、ここなのだ。
 天気のいいときには、泥湯の表面の鏡に、移動する雲の動きがそのまま綺麗に映りこみ、時間を忘れ、
 そのふしぎな別世界の動向に長時間気持ちを刈りとられたままだったりもする。
 どこかの空でヒヨヒヨと鳥が鳴いている。
 それでようやくこちら世界のことを思いだして、泥湯の鏡から目をあげると、右方のさきには明礬大橋、それから左手に、扇山と由布岳とが眺められる。
 僕は、2007年の3月とその翌年の3月19日とにここを訪れた。
 とりわけ3月の20日の早朝には泊り客の特権で、この貴重な世界的な泥湯を、たったひとりで独占できるという僥倖に恵まれた。
 上にあげた写真はそのときのものである---。
                                                                ----fin.
 
 
 

                    
 
 

                  
 
      

徒然その132☆311の真相を求めて☆

2013-03-11 02:45:05 | ☆むーチャンネル☆
                         

 2011年3月11日、午後2:46に起こったあの<311>から、早くも2年が経過しようとしています---。
 あのとき、貴方は、どこにいて何をしてました?
 僕? 僕はねえ、あのとき、実は就活の真最中でした。前年の8月にリストラを喰いまして、その足でまるまる1月北海道を放浪したあと郷里の横浜に帰って、のんびり気ままな失業生活をエンジョイしていたその黄金のプー生活のだいぶ末期、重い腰をあげて、そろそろあちこちの面接を受けはじめていた時期だったんじゃないか、と記憶してます。
 前日に受けた面接の結果待ち状態で、前日同様携帯もって近くの公演まで走りにいって、懸垂して帰ってきたちょうどそのとき、ゴゴゴゴゴーッっていきなし強い縦揺れがきたの。
 えっ! と思った。
 部屋のCDラックがダンと倒れ、蛍光灯の紐につけていたアクセサリーが揺れて跳ねあがり、40wの蛍光灯がひとつがちゃんと割れました。
 ドアがあくかどうか様子を見に玄関にいって、ちょっと外見て、また部屋に戻ったら、そのとき、また先ほどと同様の、ただしじゃっかん小さな縦揺れがありました。

----マジかよ、これ? おい…!

 差し迫った用事のない身軽な失業者ならではの身軽さで、町にでて、様子を見てみることにしました。
 エレベーターは止まってたんで、階段をくだって外へ。
 アパートの駐輪場で、ごっついバイクが派手に転がってます。
 自転車が、どこもかしこもみんな連なって倒れてる。
 駅前の飲み屋にいってみると、店長が道路に仁王立ちして、店の二階の壁を眺めてるところでした。

----まいったよ、兄ちゃん、あれ見てよ。店の壁にヒビ入っちゃったよ…。

 ひとの良さそうな店長の、泣き笑いみたいな困り顔。

----あと、水道からさ、色のついた茶色い水がでてくんだよ。これじゃ、今夜、店、あけられそうにないなぁ…。

 その先の行きつけのケーキ屋にいったら、脇の電柱が傾いてる。
 びっくりして、それ見てたら、なかから料理帽被ったままのパティシエがでてきて、

----ねえ、アレ、凄いでしょ? ギギギって見るまに傾いで、倒れるかと思ったよ。

 ケーキ屋の斜向かいは電気屋で、そこのショーウインドウのまえに通行人が6、7名たむろって、店内の大型テレビに見入ってました。料理帽のパティシエ氏と僕もその人垣に何気に加わって---

 そこで初めて見たのが、あの311大津波の報道だったんです。
 あの超有名な上空からの映像。
 ゆっくりと襲う大津波の壁と、それに呑まれる町々と。
 僕、声もでなかった…。
 ほかの人たちもみんな黙ってる、背中側のパティシエも動かない。
 唖然というより、信じがたいという思いのほうが強かった。
 想像のレベルを越えて、あまりにも現実の災害の規模がでっかすぎたから---。
 それに生き物のように田畑を飲んで滑り寄ってくる、あの津波の壁の不気味なさまときたら…。

 でもね、僕は、5、6秒、あのニュースを見てて、なぜだか「?」と固まっちゃったんです。 
 本能がね、理性の蔭からこう警告してきたの。

----これ、なんか、ヘンだ。おかしいよ。

 何が? どうおかしいの?

----偶然撮れた天災のデッサンにしては、ピントも構図も決まりすぎてる。

 たしかに。ドキュメンタリーにつきものの緊張感はないね。破れめもないし。

----だいたい、こんな映像、誰が撮ったのさ? まるで、あらかじめこの津波がくるのを知っていて、それを待ち受けて、待ってましたとばかりにこれ撮って、まえからの方針にあわせて大慌てで編集した跡が見えてきやしないかい?

 たしかにね。これを撮ったメディアがどこだか公表されてないっていうのも、いわれてみれば妙な話だ。

----僕はね、これを撮ったのは軍事衛星だと思う。とても私営のレベルじゃないよ。

 軍事衛星となると、国家か。

----そう、国家だ。しかも、これだけの規模と能力のある軍事衛星をコントロールできる国となると、選択肢は自然に限られてくる。

 なるほど、消去法だね。すると、これの下手人は…?

----うん、お察しの通り、アメリカだ…。


                       ×             ×              ×

 と一瞬で結論はでたんだけれど、その結論をちょっと信じきれなかった。
 地震兵器の噂は中学のころから知っていたし、それが米ソ(ソ連はもうなくなっちゃったけど)で実在していることも承知してました。
 しかし、その矛先を、日本の東北の民に対してなぜ向けなければいけないのか?
 物理的に可能であるという縦線は見えるんだけど、なぜという動機、そのあたりの横線が見えきらなかった。
 で、もやもやした思いでネット情報を漁っていたら、耳慣れない「人工地震」という単語を声高に主張される御仁がおられたんです。
 それが、リチャード・コシミズ氏でした。

  richardkoshimizu's blog

 氏の主張は明確でした。 
 アメリカという国家の中枢に巣食う世界権力は、軍事力に裏付けされた$で世界を構築することによって、これまで喰ってきた。今後も$中心の世界を吸いあげて喰いつないでいくつもりでいたが、リーマン・ショックをはじめとする米中心のバブル経済が弾け、宿主たるアメリカという国家の健康状態がいよいよいけなくなってきた。アメリカの破産は即自分たちの破滅に繋がる。これを防止するためには、アメリカを凌ぐほどの経済的繁栄を誇るライバル日本の体力を削げばいい。そのためには、第二次大戦末期に開発したあの極秘の地震兵器で生意気なジャップを叩いてやればいい。そうすれば息もたえだえの日本の痛手を見て、世界の投資家は円でなく$のほうがまだマシと思い、アメリカに戻ってきてくれるだろう。そう、$をこのまま死なせてはならないのだ…。

 要するにアメリカによる$防衛だというんですよ。
 これは、目からウロコでしたねえ。
 だって、そう解釈すれば、最近のすべての現象が整然と理解できる。

問1. 311震災の直後に起こった世界最大級レベル7の福嶋原発事故で、なぜ、ひとりの被爆死者もでていないのか?
A: この事故そのものが、アメリカとイスラエルのマグナBSP社との合作の、ヤラセの偽装テロだったからです。
   もともと、あれも、人工地震起爆の際ののトリガーとして使われた水爆の放射能の出処のアリバイとして企画された騒動。
   目的は、やはり日本の評判の下落でありました。
   (この件に関して詳しくお知りになりたい方は、リチャード・コシミズ氏のブログ、または、僕の過去ブログの☆むーチャンネル☆内の記事を御覧ください)
   そして、動機は、またしてもアメリカ本国のための$防衛。

問2. 2012年12月16日の参院選で、なぜ、人気も人望もない、あんな自民・公明なんかが圧勝できたのか?
A: これも簡単。アメリカ本国仕込みの不正選挙専門のCIA部隊が来日して、選挙の一切を取りしきって、あえてアメリカのポチ的傀儡政権を築きたかったから---そんだけのことです。
   いうまでもないことですが、アメリカさんの大統領選がイカサマ選挙であることはいまや常識です。
   いわば、アメさんは、不正選挙の本場。
   むろん、ジャパニーズ官庁も、マスコミ軍団も、すべてはグルであります。
   それで、あんな悪夢のようにむちゃくちゃで見え見えの不正選挙が、あえて行われたというわけ。
   傀儡王のアベ総理に日本丸の舵をとらせ、日本経財を失墜させるのが最終の目的なんであって。
   じゃあ、なんのためにそんな手のこんだことをするのかといえば、やっぱり、これ、またしても$防衛のためなんですよ!

 なーるほど、いわれてみれば思いがけないほどシンプルな絵図じゃありませんか。
 僕の敬愛する哲学者の梅原猛センセイは、いかに非常識に見えようとも、あらゆる説明が合理的につけられる<仮説>こそ、もっとも真実に近似値な分析である、とおっしゃられています。
 僕は、この分析こそ、現時点でもっとも真実に近似値の<仮説>である、と思ってる。
 むろん、異論は多くあるでせう。
 でも、ここのところの我が国って、あまりにもおかしかないか? と感じているのは、たぶん、僕だけじゃないはずです。
 僕が、そのあたりの違和感をもっとも強く感じたのは、311直後の菅直人の発言のときでした。
 いくら待っても「黙祷!」というコトバがでてこない。
 僕は、ずーっとそのコトバを待ってたんですよ。
 けど、いいださない、そして、いわないままにその演説は尻切れトンボに終わっちゃった!
 なに、コイツ? マジ日本人のつもりかよ。(嫌悪と舌打ちと)
 その瞬間、僕は、彼の傀儡ぶりを理窟じゃなく肌でまざまざと実感したのでした---。

 というわけで、ひとまずここで合掌させていただきませうか---311で亡くなった無数のひとたちのために---合掌!

 民主党の暗黒政治は、いま現在、自民・公明の不正与党に引き継がれています。
 なにが暗黒かって、マスコミに存在するタブー言語の数があまりに多すぎる!
 これじゃあ、北朝鮮だよ、まさに。自由らしさなんて影もなくって。
 まずね、日本中の原発を警備してる会社があるんだけど、これ、なぜかイスラエルの会社なんですよ。
 名前をマグナBSPというんだけど、これが、どんなマスコミにも一度たりともでてこない。
 さらには、人工地震、不正選挙、これもまったく出てこない。
 本来なら、こんな阿呆なこといってる非常識なひとたちがいるんですよー、みたいなニュアンスで週刊誌がとりあげてもいいと思うのに、そんな扱いすらほとんどないの。
 おかしいよねー、超・箝口令が敷かれてますよ、それこそ戦前の大政翼賛会を上回るほど大規模な!
 ああ、あとね、1216選挙のメカニックを一手に引き受けた謎の私企業選管ムサシってのもまったく出てこない。
 おかしいよね、おかしいよねー!
 と、陽気におちゃらけたまま、今夜は投げっぱなしにこのページを閉じたく思います。
 この記事をはじめて目にした方が、僕同様に現在ニッポンの闇事情に疑問を感じ、おのずから生じたそのささやかな疑問を自分なりの感覚でそれぞれ大事に育ててくれたらなあ、と願ってやみません---お休みなさい(^.-y☆彡
 

徒然その131☆<死にざま>3様!☆

2013-03-07 02:13:22 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                              


 開口一番に<死にざま>なんていうといかにも不謹慎なんだけど、僕は、<死にざま>っていうのは、そのひとのいちばんそのひとらしい人生の切り口---表現をかえるなら、もっとも鮮やかな「生」の姿の鏡なのでないか、な-んて風に常々思っているニンゲンなんです。
 ひょっとすると一種のマニアなのかもしれない。
 アタマのなかでは有名人・無名人を問わず、いろんなひとのさまざな死にかたのパターンが、朝から晩までルーレットみたいに常にくるくるとまわっていて、なにかのきっかけでその膨大なストックの一角が「PON!」と意識の表層に出てくるの。
 たとえば---いま、こめかみあたりに人差し指をあてて、「PON!」ときたのは、うーんと、なぜだかモンローですね。
 1962年の8月、シングルルームで死亡しているところを発見された、あの銀幕の大スター、マリリン・モンロー、ほとんどアメリカという国家のセックスシンボルだったといってもいくらいの存在だった唯一無二の大女優モンロー---彼女独自のあの淋しげな、おずおずしたとまなざしを何気に連想させるような、愛に飢え、愛に媚びつつ果てた、不安で孤独な、たったひとりの全裸の<死にざま>---。


    

 まずは、全盛期の彼女とデスマスクの彼女の上記フォトを見くらべて、願わくば、ちょっとばかし瞠目してください。
 僕は、この写真を見くらべるたびに、胸のあたりがしんと淋しくなってくる。
 生きてるってなんだろう?
 死んじゃうってどういうことだろう?
 生きているモンローのキュートな笑顔も、死んだモンローの冷たい無表情も、どちらも凄い説得力をもって、写真を見るひとに「何か」を訴えかけてきます。
 けど、モンローの場合は、調べていくと、これ、なんか暗殺っぽいんですよね。
 時は激動の1962年---反体制派の雄ケネデイ大統領暗殺を画策して、20世紀のアメリカに翌年クーデターを撒き起こそうとしていた軍産複合体とユダヤの金融勢力とが、ケネディ大統領暗殺の動機に絡んでいる証人を次々と粛清しはじめていた、まさに「そのとき」のことでした。
 ケネディの愛人だったモンローも、きっとその毒牙にかかっちゃったんですねえ。
 あと、これはフェイク情報かもしれないけど、モンローは、ケネディ大統領にプライヴェートでロズウェルで発見された宇宙人を見せられていて---ケネディは近々そのロズウェル情報を公開する手筈だったという情報もあります---「それ」の口封じのために殺された、なんて風に一部ではいわれています。
 一説によると、全裸にされて肛門から毒入りの座薬を挿入されたとか…。
 かわいそうなモンロー!
 大統領の愛人という本来なら超セレブなステータスが、時代とツキとの匙加減で、一気に逆側のマイナス・ポイントに傾いじゃったんですねえ。
 ねえ、あるんだ、こんなこと…。
 モンローは、愛に飢えた、淋しがりの、平凡な女でした。
 孤児じゃなかったんですけど、様々な事情から孤児院に入れられて、あまり親切でない里親のもとをたらい回しにされて育ちました。ある里親のところでは、性的虐待、ネグロイドみたいな扱いを受けて、相当辛い思いもしたようです。
 ただ、彼女、目鼻立ちの整った、非常に美しい美貌に恵まれていて、そのせいで若いころはモデルやったり、脱いだり、男関係でもいろいろあったみたい。
 でもね、モンロー、かわいそうなんですよ。

----あたしの愛した男たちは、みんなあたしを捨てる…。

 なーんて唇の端が引きつれそうな、チクリと痛い名言を残してる。
 で、その美貌と、天性の愛くるしさで一気にハリウッドのトップスターまで昇りつめて、ベースボールの大スター、ジョー・ディマジオとの結婚、大統領とのロマンスなど米国最頂の栄華を極めるんですけど、なぜか最期には、たったひとり、ベッドのなかで裸で亡くなってしまうんですね…。
 この光と影との落差の凄さ---モンローの場合は、特にそれが顕著であるように思います。
 そういうわけで、マリリン・モンローの死は、僕にとって非常に印象的な、忘れがたいものとなっているんです。
 これが、イーダちゃんが今日セレクトする<死にざま>のひとつめ---ふたつめを続いて述べませう---僕にとってカツーンとくる<死にざま>のふたつめ、それは……

 米国、モダンジャズ華やかりしころの稀代の黒人トランペッター---リー・モーガンですね。
 ページ冒頭にUPしたフォトをまず御覧になってください。いい男でしょ?
 実際、彼はとてもいいオトコでした。あの天才トランペッター、クリフォード・ブラウンの再来と呼ばれ、50年代の後半に颯爽とデヴュー。才能はもう折り紙つきでした。
 僕は、初めて彼を聴いたのは、アート・ブレイキー率いるジャズメッセンジャーズとの共演盤だったと思うんだけど、あの、夜空の彼方までまっすぐに伸びていくような、彼のしなやかに疾走する叙情性にはひたすら魅了されたもんなあ。
 ええ、リー・モーガンは、たしかに天才でした。
 僕は、<色気>があれほど明確な形をとった音楽って、いまだに聴いたことがない。
 そう、世界最高度のレベルにまで洗練された、<色気>の純粋な精髄が、そこにありました。
 そんな自信たっぷりの音楽を舞台で世界に向けて発信できるほどの男です。当然、私生活も華やかで、酒好きでやんちゃで遊び人、恋人も超・いっぱいいたようです。人生の頂点に駆けあがっていくとちゅうだった青春まっ盛りのリー・モーガンは、そんな自分をずいぶん誇らしく思ってました。矯正する気なんかさらさらなかったでせう。
 ところが1972年の2月19日---そんな自信家のモーガンを悲劇が襲います。
 ジャズクラブ「スラッグス」で演奏中の彼に、突然現れた愛人のヘレン・モアが、いきなり拳銃を発射したのです!
 彼女は、ほとんど錯乱状態でした。浮気を攻める激しい文句を叫びながら、手にしたガンを連発したと聴いています。
 至近距離からの拳銃弾はモーガンの身体を射抜き、彼はそのままフロアに崩れ落ち、翌朝の2時45分に死亡が確認されました。享年33才。
 こういうと、ただのチンピラ・ミュージシャンの死って感じなんだけど、僕は、彼の死もモンローの死と同様、なぜだか忘れられないんです。
 モンローの死ほどの淋しさは感じないんだけど、彼の<死にざま>には、彼女のそれと匹敵するほどの、あたかも勢いのいい彗星の王子が夜空からぎゅーんと墜落していくような、目をしばたくほど眩しい光芒が見える気がします…。


                          

 で、3番目の<死にざま>としてイーダちゃんがセレクトするのは、ぐーんと時代が遡って、なぜだか古代ギリシアのアルキメデスなんですよ。
 僕みたいな後世の第三者が自分の<死にざま>が好きなんていっているのを、仮に彼が聴けたら怒るかもしれない。

----ひとの死にざまに優劣や好みをつけるなんて貴様は何様のつもりだ? え? 神にでもなったつもりか?

 でもね、これっばかしは偽れない、僕は、アルキメデスの<死にざま>は、むかしっから超・大好きなんスよ。
 アルキメデスは、いわずと知れた、歴史に残る大数学者。
 なかでもシラクサのヒエロン王に王冠の金と銀の比重を調べるようにいわれたとき、浴場で浴槽に入ったときに自分の身体と同比重のお湯が溢れるのを見て、金と銀の比重の見分けかた、いわゆる「アルキメデスの原理」を思いつき、嬉しさのあまり「ヘウレーカ、ヘウレーカ!」とはしゃぎまわって、裸のままで踊るように家まで帰ってしまった、というエピソードは現代でも有名です。
 こうして書きだしてるだけでも、この逸話には心をゆさぶられるものを感じます。
 いいなあ(トため息して)、この種の無垢は、僕は、大好きだなあ。
 しかし、彼は、この原理の発見以外にも、流体静力学、起重機、アルキメデス・ポンプの発明、さらには第2次ポエニ戰爭のときには、梃子の原理を応用した巨大投石器なども発明していて、敵勢力をさんざん困らせたりもしています。
 これは、ただ者じゃない、そーとーに有能なひとだったようですねえ。
 しかし、B.C212年、シラクサはローマ軍に包囲されます。
 アルキメデスはその夕、砂地に円を書いて、自身の数学について考えごとをしていると、そこに若いローマ兵がやってきました。彼は、アルキメデスがローマでも有名な大数学者だなんて知らない。ただの汚い老人と思い、アルキメデスが砂地に書いていた円を槍先でくしゃくしゃにしちゃう。
 そしたら、そこでアルキメデス、

----ワシの図を攪乱するな!

 と烈火のごとく怒ったっていうんです。
 で、その若いローマ兵は、そんなアルキメデスをあっさり刺し殺しちゃう…。

 アルキメデスは、享年75才ぐらいだったということです。
 彼にしても、人並に生存欲とかはあったはずです。大学者とはいえ、色も欲もある、あたりまえの人間だったんですから。
 けれども、研究に夢中になっているときには、そのような俗世の損得勘定は、彼、翔んじゃってたんですね---遠いむかし、公衆浴場で「アルキメデスの原理」を発見した、あの歓喜のときのように。
 その無骨な無垢と童心に、イーダちゃんは、いまもじんじん痺れます。
 うーん、これは、前のめりの、いい<死にざま>だなあって。
 いつか訪れるだろう自分のエピローグ時にも、できれば僕もアルキメデスのように骨っぱくありたいなあ、と何気に思ったりもします…。


                                

 うーむ、ちょっとしんみりしてきちゃいましたねえ。
 ラストに仏蘭西のあの問題作家セリーヌの小説の一節をちょこっと引用して、それを締めの結びめに、この記事を閉じたいと思うんですけど、どうでせう?

----運河の飲み屋は夜明け前に店を開くならわしだった、船頭たちのためだ。夜の終りに水門がゆっくりと開き始める。それから見渡す限りの風景が息づき働き始める。岸がゆっくりと流れから離れ、水を挟んで両側でだんだん高くなってゆく。仕事が闇ん中から浮び上がってくる。あらゆるものが見え始める。はっきり、固く。ここには捲揚機の囲いが、そうして遠くの道には向うの方から人間たちがもどって来る。まずは日の出をくぐって顔いっぱいに陽光を浴びる。みんなそのまま通り過ぎてく。青白い素朴な顔が見えるだけだ、あとはまだ夜ん中だ。彼らもいつかはやっぱり死ななきゃならないんだ。どんなふうに死ぬんだろう…?
                                                          (ルイ・フェルディナン・セリーヌ「夜の果ての旅」より)

 夜もようよう更けました。今夜はこれで終いといたします。お休みなさい---。

                                                                      ---fin.
                         

徒然その130☆魅惑のケララ発・南印度のジンジャーカリー!☆

2013-03-06 01:12:24 | ☆印度料理レシピ
                    

 ヘロー、エブリバディ、1216の衆院選以来すっかり政治狂になっちゃって、ツイッターはじめたら2か月でフォロワーが700越えしたんでつい面白くなり(でも、Twitter名はヒミツ!)、すっかりそっち系にハマってしまい、故郷であるこちらの肝心ブログをおろそかにしていた、あいもかわらぬ不肖イーダちゃんです。
 今回は、興味のないひとにはまったく期待外れになっちゃうかもしれませんが、2年ぶりの印度カリー特集です。
 えー、イーダちゃんは、知るひとぞ知る、印度カリーの超・マニアなんですよ。
 それも、専門はマニアのなかのマニアしか知らないという、南印度のかっら~いカリー。
 今日はそんな僕のレパートリーのなかでも超・マニアックな、南印度のケララ地方に特有の、しょうがのカリーを紹介したいと思います。
 人呼んでジンジャー・カリー!
 と、自信たっぷりに紹介してはみるけれど、興味もってくれるひとなんているのかな? と、正直非常に不安です。
 でもまあ、乗りかかった舟ということで、この非常に個性的かつ簡単な、南印度のケララ風ジンジャー・カリーのレシピを、ここに公開しちゃおうと思うイーダちゃんなのであります。
 

                               ◆南印度ケララ地方のジンジャー・カリー◆

 まず、最初に用意する材料の紹介からいきますか。
 

                          

 左から、
1.コーヒーミル(スパイスを砕くため、専用のコーヒーミルを、イーダちゃんは印度の石臼替りに使用しているのです)

2.タマリンド・ペースト(注:タマリンドは、南印度料理のキモです。この魅惑の酸っぱさときたら! ただ、タマリンドの毎度毎度の入手が困難なので、僕は通常このようなタマリンド・ペーストを主に使用しているのです)

3.粒マスタード(瓶のほう。南印度ではブラウン・マスタードが主流なんですが、好みにより通常のマスタードをここでは使用しています)

4.フェネグリーク。別名メティ・シード(これもマイ・フェブリアット。しょうがカリーには入れないことが多いとは思うのだけど、風味が好きなのと、腰痛予防になるという漢方的効果を鑑みて、ここでは使用!)

5.クミン・シード(いわずと知れた印度料理最重要のスパイス。このカリーでは特に入れなくてもいいのだけど、好みによりやはり使用せり)

6.青い容器は、ココナッツ・オイル(これ、南印度料理の命。南印度料理をつくるひとは、油はココナッツ・オイルかマスタード・オイル、このことだけは厳守してください)

7.青唐辛子の酢漬け(これも南印度料理のキモのひとつ。入手は難しいと思いますが、南印度料理を志すひとはなんとか入手されたし)

8.そのちょっと前の白い円筒容器はヒング(これ、野菜料理のキモ! 絶対不可欠なスパイスです。これを入れると入れないとじゃ、料理がまったくの別物になっちゃう)

9.んで戻って、黄色い紙箱なんですけど、この中身はカソリメティ。先に紹介したフェネグリークの葉っぱです。これ、中東の料理によく使われるんですよ。印度料理にも使用されます。えもいわれぬ、この独自の芳香は、やっぱり不可欠)


                ☆            ☆             ☆

 とまあ、ざーっと紹介して、んじゃ、実際の調理法といきませうか---。

1.はじめに、青い容器内に固まっている、ココナッツ・オイルを解凍します。ココナッツ・オイルって冬場には低温のために自然に固形化しちゃうんですよ。(さっすが南国の油!)僕は、ココナッツ・オイルが固形化するたび、ああ、また冬がきたのか、と実感します。

2.中火にした鍋でココナッツ・オイルを解凍して、油が独自の甘い芳香を奏でだしたら、そこに、月桂樹の葉と、風味のためのムング豆、さらに青唐辛子、それに赤唐辛子を一本づつ投入する。

3.で、これ、重要! さっきいった「ヒング」をここに投入します。このヒングは非常に臭い。でも、超・重要。これ入れないと、野菜カレーというジャンルが成立しないほど、これは重要なスパイスです。知名度こそないけど、あの「美味しんぼ」でも、これ、紹介されたことのあるスパイスなんです。


            

 そのヒングを投入したら、焦げやすいムング豆が焦げつかぬよう注意して、だいたい1分ほど炒めつづけます。 
 
4.そしたら、キモ中のキモであるスパイス部隊の本隊投入!
 材料一覧のフォトで小鉢に入っていたクミン小匙1、フェネグリーク小匙2分の1、マスタード・シード小匙1を、ざーっと投入しちゃいます。投入してしばらくすると、マスタード・シードがパチパチとはじけはじめます。
 最初はあまりのエギゾチックさに「うお!」とのけぞっちゃうかもしれない。でも、この際生じる、えもいわれぬ「南国」の魅惑の香りに、貴方はきっと心ごと吸われるハズ。
 ただ、それに気をとられてクミンシードとムング豆を焦がさぬよう注意。両者は大変に美味いんだけど、どちらも焦げやすいスパイスなんです。

5.マスタードのはじける全盛のパチパチ音がやや静かになってきたかな? と思ったら、次、玉ネギいきます。
 これは、玉ネギのみじん切り(だいたい玉ネギ3分の1くらい?)でもブツ切りでもどちらでもよろし。ていうか、本場南印度では、このカリーの場合、玉ネギは入れないパターンのが多いみたい---ここで玉ネギを投入するのは、ですからあくまで「イーダちゃん流」なのだとまずはお心得ください。
 でも、ここで玉サン入れると、完成後の味わいに剥きだしじゃない、やや奥ゆかしげな一種の「まろみ」がでるんですよね。ですので、日本人気質の濃ゆいイーダちゃんとしては、ここで玉ネギといくわけ。
 で、焦がさぬようにヘラでかき混ぜながら、今度は、親指大のしょうがを皮ごとスライスしたのを投入デス。
 焦げぬよう、焦げつかせぬよう、ぐるぐるぐるぐるかき混ぜて、今度を隙を見て、ニンニクのすりおろしを投入します。


            

 うーん、らしくなってきた、なってきたー…。(^o^)/

6.ここで、お水を3カップIN。

7.で、そのお水が沸騰したら、そこに塩・小匙4分の3、ターメリック粉・テキトー、さらにレッドペッパーを小匙4分の3ほど、入れてやりませう。(南印度では、だいたい小匙大盛り1杯はいっちゃいます。ただ、そうなると通常仕立ての日本のお友達は誰もこれ食べられなくなると思うんで、ここでは投入量加減しておきました。それでも、ま、充分辛いんだけど)

8.そうして、沸騰したら火力をやや弱めにして、ここに南印度印のなによりの証である「タマリンド・ペースト」を投入してやります。
 ただ、このタマリンド・ペーストは、ビタミンの塊なんで酸味が結構強烈なんで、あくまで適量に。
 だいたい、スプーン3分の2入れたくらいでも、独自の酸味が、料理に南国の風味を与えてくれます。

9.ま、ここまでで料理は、ほぼ完了と思っていいでせう。あとは、仕上げ。
 黄色い紙箱のなかのカソリメティを両手のひらで揉みほぐし、鍋のなかにばーっとふり撒いて---
 それから、カリースパイス専用のコーヒーミルでコリアンダーシードを大匙1杯、それにブラックペッパーの粒を5、6粒挽いてから鍋内に投入---すると、キッチンは南印度ならではの濃ゆい、個性的でエキゾチックな、えもいわれぬ芳香にぷーんと包まれて……

10.じゃーん! ここに南印度ケララ流の「ジンジャーカレー」が誕生という次第---。
 このカリー、厳密にいうと、カリーというよりはチャトニ、南印度の主食の米にかけるソースみたいな扱いの料理であって、本来これ1品で主菜となるようなウェイトの料理ではないのですが、僕は、時間がないときなんかはこれだけ10分くらいでささーっと作っちゃって、ご飯にさーっとかけて、お茶漬け感覚でよく食べちゃってますね。
 印度料理店でも、こーゆーのは主にまかないとかで食べていて、お客んにはあんま出さないと思うんだけど、本当の印度料理の旨さは、僕は、一般印度料理店でよくだすマハラジャ向けの北印度料理よりも、むしろこっちがわの、庶民がいつも食べているような南印度郷土料理のなかにあるのでは、と考えています。
 だってさ、このチャトニ、マジうまいんだもん!
 メインはほとんどしょうがだけ---この写真のときには、ゆで卵を一個入れて変則の卵入りにしちゃってマス---の水分たっぷり、いわゆるシャバシャバのカリーのくせに、カリーを1口ごとに口に運ぶたびに、もう否応なしに食欲が増してくる感じが実感されるっていうか---辛っ、でも、旨っ、嗚呼、スプーンがもう止まらない---印度、スパイスの魔力、おそるべし---!
 なお、薬効面からの情報をほめのかせば、これ、便秘に抜群の効果を発するタマリンドがたんまり使ってあるんで、便秘解消・宿便排出にも相当の効果をもってます。てことは当然お肌にもよいってこと。
 さあ、これを読んだら、貴方も南印度料理が食べたくなってくることまちがいなし。
 と思うんだけど、実際のところ、どうかなあ?
 もし、これ読んで、おーし、ならさっそく今度の日曜でも御徒町にいって、ひとつ、印度料理用の材料でも仕入れてこようかな、なんて気になられた方がおられたら、ああ、イーダちゃんはなにより幸福です……。(^.^;>

 末尾に、これ、作るのに必要なスパイスが全部入手できるお店を紹介しておきませう。

◆「大津屋」 東京都大東区上野4-6-13 03(3834)4077
◆「野澤屋」 東京都大東区上野4-7-8 アメ横センタービル地下1F 03(3833)5212 

 ちなみに、僕は、下の「野澤屋」さんを利用するケースが多いかな。両店とも、JRの「御徒町」から徒歩でいけまーす---。