イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その121☆東京小石川・祟りの「椋(むく)」の樹を求めて☆

2012-10-17 22:54:10 | ☆パワースポット探訪☆
                               


 東京の小石川に「祟りの椋(むく)の樹」があるっていうのは、まえから聴いてました。
 伐採を試みた者が次々と祟られ、死んでいったという魔の樹---それが、「善光寺坂」のとちゅうにあるという---。
 むろん、興味深々でした。
 見たいなあ、とずっと思ってた。
 でも、なかなかいく機会がなかった。
 ええ、仕事が変わって、都内に通勤しなくなったというのが、なんといってもデカイかも。
 通勤のついでにちょっとという口実がなくなると、都内は僕にとって、途端にやや遠の場所となっていったのです。
 いままでは本とかが欲しくなったら都内に出ざるをえなかったんですけど、いまでは特に地元をでなくてもインターネットという入手手段がありますから。
 というわけですっかり都内とはご無沙汰していたんですが、つい先日、神田の神保町に古本を探す用ができまして、そうなると都営三田線の神保町からふたつ向こうの「春日」駅は、ほんのすぐそこではないですか。
 そして、三田線の「春日」駅と例の小石川とは、僕の鈍りかけの都内土地勘データの検索によっても、たしか距離的にもそんなにはなかったはず…。 
 だとすると、これはいくっきゃありません---というわけで行ってまいりました、東京小石川、善光寺坂のとちゅうにある、噂の椋の樹へ!
 そのお目当ての「椋(むく)」は、案外すぐに見つかりました。
 「春日」駅から白山通りを北にちょっと---商店街を東に行き少々左にいき、それから小石川の「善光寺坂」の細い道をのぼっていく---すると、「沢蔵司稲荷」を越えてすぐのところ---6F建てのアパートのまんまえに、その「椋」はありました。

----こいつが、そうか…。

 と、なんとなく唾をゴクッ---たしかにデカイです。
 そして、なんともいえない威容がある。
 おお、と見上げて、次の瞬間、視界の右下方にほうに視線をつい逃がしたくなる感じ。
 そんなビミョーな圧力が、なんとなくあるの。
 道のまんなかに立っていて、道路のほうがこの「椋」を避けて通っているという一種独特なシチエーションが、この「椋」の価値を必要以上に喧伝しているのでせうか。
 うーむ、まずは、その現物の「大椋」を見てもらうことにしませう---。


                   

 ページ冒頭のフォトとあわせて見てもらえば分かるかと思うんですが、この「大椋」、最初は道路のまんなかに立っていたんですよ。
 ただ、それだと、道の特殊性を知らないドライバーの出会い頭の飛ばし事故が多かったりしたので、いまは便宜上片側の道を歩道にしちゃって、本来なら復路の道路も一本通行に変えちゃったわけなんですけど、それらの事象をとっぱずしてこう眺めてみても、やっぱり、この「椋」のある空間の特殊性は感知可能なんじゃないのかな?
 うん、それくらいこの「椋」の樹は、存在感ありますね。
 いい伝えによると、この椋の大樹、戦前には、なんと高さが23メートルもあったんですって。
 23メートルっていえば、そーとーの高さですよ。
 樹齢は、推定450年---それこそ見上げるような大威容を誇っていたといってもいい、伝説の「大椋」だったのですが、あいにくの戦災で焼かれちゃった…。
 そんなわけで樹の高さは半分以下になり、樹皮もところどころ剥がれ気味だったりして、老木の雰囲気を全体的にかもしだしているんですけど、僕のいった8月某日は、枝枝の葉はみんな青々と濃く生い茂っていてね---風が吹くとそれらの枝葉がさわさわと涼しげに鳴って---その怖いような巨大な生命力には、つい感嘆させられてしまったのでした。
 時の経過にも、戦争の火災にもめげず、いまだに大量の葉を毎年のように茂らせているんですから。
 「強い」樹ですよね。
 うん、とても、強い樹だ---。
 しかし、この強さは、剥きだしの「生命(いのち)」のかたちというのを、なんか、まざまざと目のまえで見せつけられるような気がして、マンツーマンで対峙していることが決まりわるいような心地が少々してくるのです。
 なんちゅーか、生きるって貪欲なんですよ---。
 それは分かる---ニンゲンにしても、樹にしても、個別の生命体の基調となっているのは、常にガチガチのエゴイズムです。
 ちげえねえ! 貪欲で、利己的で、ただ、あまりにも徹底した自己保存の欲求っていうのは、傍から見ていると、その浅ましさが少々禍々しく映ってくることさえあるんですね。
 僕が、この椋と対峙して感じたのは、そのようなことでした。
 平和な町のまんなかに立っているこの大椋は、あまりにも赤裸々で凶暴なその「生命力」ゆえに、まるで剥きだしの性器をじかに見せつけられているような感慨を、見ている僕等にもたらすのです。
 これは、日常的に、ちょっと決まりわるい---じゃあ、どうするのか?
 祭りあげるしかないっスよね?
 「魔」との接し方といったら、それ以外にないんですから。
 そのようにして、この椋と、この椋のまわりに暮らす人々との対応の間合いが、長い時代を経て決まってきたのではないか、とイーダちゃんは思います。
 この大椋の偉大な生命力には一応の敬意を払いつつも、人間の暮らしも一本通行の道路に見られるように、ちゃんと隣接させて、要するにどちらも共存させてゆく…。
 万が一、この大椋の「魔」が暴走した場合に備えて、ちゃんと防止装置の神社なんかも椋のふもとすぐの土地に置いて---。
 うーむ、感心させられるほど、これは、狡猾な手口じゃないですか。
 樹も凄いけど、ニンゲンの狡智ってのも、これはこれでなかなかなモンですな。

 蝉、蝉、蝉---うだるような夏日のなか、蝉がジージー鳴いてます。

 樹のオーラを感じるには、その幹のところに直接両手を当ててみればいい、という話をどこかで聴いていたので、とりあえずそのオーラ感知法ってのを実際に実行してみたならば---
 すると、たしかに通常の樹とちがう、流れるようなエネルギーの塊が、両掌伝いに体内深くに染みこんでくるような感覚がありました…。

 椋見物の帰りに、この椋からすぐのところにある、「沢蔵司稲荷」という神社を参拝して帰りました。
 この午後は、なんかの催事をやっていて、この稲荷さん、ひとがいっぱい集まってましたねえ---。


        


 ところが、この夜、家に帰ってから、イーダちゃんは突然の腹痛に襲われ、一日寝込んじゃいました。
 僕は下痢なんてめったにしないんだけど、なぜだかふいに猛烈な下痢になったのです。
 もー 超・油汗…、下腹がキュルキュル痛いったらないの。

----嗚呼、祟りの椋の樹に、馴れ馴れしく抱きついたりしたのがいけなかったのかなあ…!

 というような後悔の念が、幾度もアタマをよぎります。 
 下痢ピーの真相は、むろん分かりません。
 が、しかし、安易な気持ちでこの「祟り椋」に接近したりするのは、やめたほうがいいんじゃないか、とイーダちゃんは老婆心ながら思いますね。
 だって、まるまる1週間あとを引くほど、マジ強力な下痢だったんだもの、アレは…。
 
 あ。もうひとつ追加情報ね---「力」のある樹に直接抱きつくっていうのは、「気」の観点からいうと結構危険なことみたいなんです。
 敏感なひとは樹のエネルギーをもらいすぎて、体調を崩しちゃうのだとか---。
 僕の下痢ピーが祟り始発のものなのか、「気」の乱丁喰いによるものなのか、あくまで偶然の賜物だったのか---そのうちのどれが原因だったのかは今だ定かじゃないんですが、いずれにしてもこの特別な「大椋」とコンタクトする際には、ある種の「敬虔さ」と「謙虚さ」を懐手にしつつ行くのがいいのではないか、とイーダちゃんはやっぱり思ってしまうわけなのでありました…。(^o^;>






徒然その120☆飛鳥逍遙☆

2012-10-10 23:11:46 | ☆パワースポット探訪☆
                    


 飛鳥、好きです---。
 というか、日本人でここが嫌いなひとって、果たしているのかな?
 僕は、飛鳥っていうのは、日本人全体の心象の底にある原風景みたいな土地なんじゃないか、と思ってるんですけど。
 そう、飛鳥って、たぶん、僕等・日本人全体の心の故郷なんですよ。
 よりどころ、というか、最終的な着地地点とでもいうべき場所。
 だから、心の計測器の針が、<好き・嫌い>のどっちにぶれても、感情のしこりが<帰りたい・帰りたくない>のどっちによろけても、そういった表層的事象はあんまりカンケーないんです。
 だって、否定しようが肯定しようが、結局のところ、故郷は故郷なんですから---。
 その事実ばかりは動かしようがない、その心の“カントリー”飛鳥が好きで好きで、イーダちゃんは近畿系の温泉場にいく際には、必ずこの地に立ち寄っていたんですね。
 近場の駐車場にクルマを停めて、駅前のレンタサイクル「万葉」さんでママチャリを借りて、3、4時間、母なる地・飛鳥を放浪するのが、ほとんど近畿温泉行につきものの日課のようになっちゃってて。
 そう、総計、3、4回にわたって、訪れたんじゃないのかなあ。
 このレポートは、そのようなイーダちゃんの小さな逍遥の記録なんです---。

 一等最初に、飛鳥ってねえ、やっぱりふしぎな土地なんですよ。
 なにがふしぎなのか?
 まず、名前ですね---なぜ、飛ぶ鳥と書いてアスカと読むのか?
 別の字で「明日香」と書いてアスカと読ませるパターンもあって、こっちのほうも耳にふしぎに響きます。
 なんとなくエキゾチックな異国の香り、でも、和風のシンプルさもたしかに少々含んでいる---みたいな、超ビミョーなアルカイックなニュアンスがほのかに感じられるっていうか。
 そうして、誰がこのような呼び名をこの地につけたのか、そのへんの事情が、いまもって誰にも分かっていないってところが、なんとも奥深くって面白い。
 ええ、歴史学者も、考古学者も、チンプンカンプン---ほんと、誰ひとり分かってないんですわ、これが。
 学問なんて、そのへんの事情を考慮すると、あんま大したことないって思えてきますねえ。
 飛鳥関連のいろんな発言で、僕がいままででいちばん面白いと思ったのは、実は、あの「ノストラダムスの大予言」の五島勉さんによるものでした。
 純粋な学問畑とはまったくべつの、いくらかウサン臭い、ジャーナリズムの世界にいたひとですが。
 彼、あの神経質そうな容貌のわりに、どんな香具師もやれないような超・大胆なウルトラ仮説を、自信たっぷりにポンポン述べて、そのまま知らん顔して去っていく、という荒業を平気でカマスような大胆マンなんですよ。
 その彼が、たしか70年代の後期に、祥伝社の NON Book ってとこから「幻の超古代帝国アスカ」という一冊を出しているんです。
 これが、僕的には、ヒジョーに面白かった。
 内容的には、これ、ちょっとユートピアが入っている部分もあるんですけど---超古代、かつて、世界はひとつの国であり、楽園であった。その楽園の名を“アスカ”といった…。
 このアスカこそ、ムー、レムリア、アトランティスなんかの超古代文明の祖となった、文明の原型だった、と五島さんは主張されるんですよ。
 幻の超古代帝国アスカ---大変栄え、高度な文明を持ち、繁栄の極みを迎えたが、最終的には、戦争や天災で滅んでしまう。
 かつてこの国の住人であった人々は、文明の潰えた未開の世界で、また一からやり直さなくてはいけなくなった。
 それは、高度な文明に庇護されたかつての世界とはあまりにちがう、過酷で、リスキー極まるサバイバル生活だった。
 彼等は、楽園追放の運命を嘆き、自分たちが新たに居住することになった未開の土地土地にそれぞれ名前をつけていった。
 その際、自分たちのかつての故郷であるアスカを偲んで、ときどき、見知らぬ未開の土地に、パズルのようにアスカの面影を埋めこんでいくことを忘れなかった。
 たとえば、南米のナスカ---NASKA---これは、ここは、かつてのアスカみたいな楽園とは程遠い、厳しく、過酷な地である、という意味あい。(最初の N が ASKA の否定として働いてるわけ)
 へえ、と思ったけど、たしかにアスカという固有名詞が基盤になっている土地は、世界各地にケッコーあるんですね。
 日本の飛鳥でしょ?
 あと、インド東部のオリッサ地方にもアスカって村があるんです。
 ほかには、やっぱりインドのアショカ、スペイン・バスクのアスコ、チリのアスコタン、イギリスのアスコット、それに、アイスランドのアスキャ…。

----この名前の鍵こそが、かつて超古代文明アスカが世界的に栄えていた、という何よりの証拠ではないか!

 と---五島勉さんは、ここぞとばかり力説されるわけなんです---。
 もっとも、この仮説の礎になっている要の鍵が、この名前物件のみってのが問題といえば問題なんですが、このSF的な説のもとになった発想の独創性だけはまったくもって否定できない、ワクワクするほど面白いもんだなあ、といまでもときどき思います。

 話が飛びました---あい失礼。
 なぜ、五島勉がでてきたのか、自分ながらよく分からんのですが、とにかく、飛鳥という土地の呼び名の響きには、ふしぎな郷愁が感じられるっていうようなことを総括的にいいたかったのですよ。
 うん、飛鳥---アスカって素敵な響きだもの。
 発音してる口腔内でも、なんだかふしぎな気持ちよさが募っていく気がします。
 その日本人のアイデンティティーたる飛鳥にいって、イーダちゃんははたして何を感じたのか?
 興味のある方は以下の記事にも目を通していただけたらいいなあ、と思います---。
 
 で、飛鳥探索の第一歩の資料として、適当な地図をネットで探してみたんですが、あんまりいいのが見当たらなかったんで、10分ほどかけて手書きの簡略地図を作成してみました。
 出来は、もう威張れたもんじゃないのですが、まあポイントだけ列挙してみると---ざっとこんな感じです。


                   



                                  ◆石舞台で歴史の話◆
 
 僕、石舞台が好きでしてね、飛鳥に訪れたときは、必ず足を運ぶようにしてるんです。
 クルマで行くとすぐ近くの駐車場まで楽々と乗りつけられるんですけど、飛鳥駅からママチャリ借りてそれで行くとなると、ここって結構長距離な上り坂を越えてこなくちゃいけないんですね。
 特に、高松塚古墳のあるあたりの上り坂が超・キツッ! 
 年齢とともに弱ってきている足腰に「!」と喝を入れて、ヒーコラとペダルを踏みしめて、ああ、よーやく坂が切れた、おお、小鳥がこんな鳴いてるじゃん、ぜんぜん気づかなかったな、みたいな余裕がやっとでてきて、飛鳥川をわたって、田園風景をしばし堪能、右折してそのまましばらくまっすぐいくと、やがて目的の石舞台古墳が見えてまいります。
 ええ、石舞台ってわりと飛鳥村のはしっこのほうにあるんですよ。
 この石舞台古墳は、かつての飛鳥同様に、がらーんと広い、田園地帯のまんなかに位置してます。
 チャリから降りて、あるいはクルマから降りて、この石舞台に向かって歩みはじめると、いっつも「ああ、ここ、いいなあ」と思います。
 それまで密封されていたアタマのなかに、ふいに気持ちいい南風が吹きこんできたような、そんな感触---。
 茫洋、そして、なんともいえない清涼感…。
 なんていうか、とっても風通しのいい場所なんですよ、こちらの石舞台古墳って。
 高校の修学旅行で訪れたときからずっとそう思っていたので、数年前、「ほんとにあった怖い話(現在はHonkowaと改名)『魔百合のショックレポート・闇に笑う女帝』(当時は朝日ソノラマコミックスでした。現在は単行本の会社は知らん)のなかで、Honkowa専属の霊能者・寺尾玲子さんが石舞台のまえに立っておんなじことを述べているシーンを見つけたときには、ああ、やっぱりなあ、はなからここはそういう場所なんだ、と嬉しくなりました。
 平成12年の8月某日、編集者何人かとこの石舞台を訪れた寺尾玲子さんは、

----ここ、龍の道が通ってる…。

 といったそうです。
 龍の道ってなんだろ? と、ここで疑問に思ったアナタ---ネットで調べても、残念ながらこの「龍の道」はでておりませぬ。
 この「龍の道」というのは、あくまで寺尾玲子さんとほん怖スタッフ専属の命名であって、風水とかそういう道筋系のやつとはちがう道筋であるようなのです。
 ひとまず玲子さんの話のつづきを聴きませう。

----推古天皇陵で感じたんだけどね、あそこにも龍の通り道があった。釿明天皇陵、敏達天皇陵、用明天皇陵…、メインの天皇の陵墓が龍道にかかってる。龍道つまりは「自然の力」なわけなんだけど、蘇我と蘇我に関わる天皇の血が未来永劫続くようこの力を利用した…。でも、妨害が入った。蘇我の反対勢力によって、この墓は破られてる。石舞台古墳の効果は破綻したけど、自然の力そのものは今も残ってるの……。(魔百合のショックレポート「闇に笑う女帝<朝日ソノラマコミックス>」より)

 玲子さんのいった「龍の道」をたどっていくと---飛鳥の手書き地図の東西にわたって引かれた蛍光ピンクの道筋を御覧下さい、きれが、玲子さんのいう「龍道」です---この道は、やがて、奈良をこえ、大阪の河内長野までたどり着きます。
 河内長野の太子町。ここは、別名「古墳の町」といわれるくらい町のあちこちに古墳の多い場所なんです。
 そこの釿明天皇陵、敏達天皇陵、用明天皇陵まで、こちら飛鳥の石舞台と天武・持統天皇陵から伸びている「龍道」が届いている、と玲子さんはいうわけなんです。
 これ読んだときは「うひょーっ!」と飛びあがりました。
 だって、河内長野の太子町ってまんざら知らない土地でもなかったんですから。
 というか、僕、この地で働いていたことも、ちょっとのあいだ住んでいたこともあるんですよ。
 だから、この玲子さんのセリフを読んだときは嬉しかったですねえ---いままで僕は、憧れの地「飛鳥」と自分とがまるきり無関係であることを、いささか僻んでいた面があるんです、実をいうと。なのに、まるで無縁の地だと思っていた「飛鳥」と自分とのあいだに、知らないあいだにこんなほのかな「縁(えにし)」が結ばれていたなんて超・ラッキー---してみると、僕は知らないあいだに「龍道」の上に住んでいたってことになるじゃないですか。
 いいや、ひょっとしたら自分でも知らないうちにこの「龍道」の恩恵を受けていた、なんて事象も人生上にひとつやふたつはあったかもしれない、なんてこともついつい考えちゃいました。
 でも、その恩恵ってなんだろう? とか都合のいいことを考えていたら、石舞台の脇のところにいた、見知らぬ眼鏡のおじさんがふいに声をかけてこられて、

----あのぅ…、ちょっとお話いいですか…?

 最初は宗教のひとかと思ったこの教師風おじさん、実は、ボランティアの解説のひとでした。
 歴史が好きで、石舞台を見学にきたひとに、飛鳥の過去生を語るのが最近の生き甲斐なんだとか。
 このおじさん、大昔の飛鳥はほとんど沼に覆われていて、地上にあったのは、この石舞台と飛鳥寺とかの狭い地域だけだったんですよ、なんて意表をついたことをいってこられました。
 へえ、と僕はうなずいて、その話は聴いたことありますね、でも、だとすると、当時は田畑もいまよりぜんぜん少なかったことになるわけだから、必然、庶民や貴族もいまに比べて相当つつましい暮らしをしてたんでせうね?
 すると、おじさんの目がきらりと輝いて、

----そうなんです、原初の日本人はね、天皇も庶民もふくめて、みんな貧しくてつつましい暮らしをしてたんですよ。そのへんが中国などとちがうところですよね。自然の、季節ごとの最低限の恵みをいただいいて、それで満足して、日々をすごしていたんです。後の時代の富の偏在は、まだ、このころは起こっていなかったんですよ。みんな、清貧で、欲をかかず、つつましやかに暮らしていたんです。私は、そういう原初の日本人に対して、なんだか、憧れみたいな感情を抱いてしまいますねえ…。

----僕も、ですよ。僕も、飛鳥当初の日本人に対して、おんなじ憧れめいた思いがありますよ。だから、ほとんど毎年、この地に足を運んでくるんです。ううん、僕だけじゃない、ほかのひとたちもみんなそうなんじゃないのかな…?

----ほう、あなたもそう思いますか…! あなたも?

 おじさんの瞳がいっそう大きく見開かれます。
 かくして、終わりのない歴史談義がはじまったという次第。
 おじさん、すっかり夢中になっちゃって、あとからきたカップルがおじさんになにやら質問しようとしても(彼は腕のところに「歴史解説ボランティア」という腕章をつけていたのであります)、ああ、もうちょっと待ってて、と、てんでつれないの。
 どうやら僕はおじさんのハングリーな歴史スピリットに火をつけてしまったようでした。
 でも、この石舞台古墳上でする終わりのない歴史談義は、僕的にとてもよかったの。
 空はあくまで青く、午すぎの風は悠々、龍道は、見えない絆で石舞台と河内長野市とをしっかりと結びつけており、おじさんと僕とは終わりのない歴史話を延々と語りつづけ…。
 石舞台でのこの時間帯は、ちょっと忘れられないですね。
 うん、僕の、飛鳥ベストショットのうちのひとつじゃないか、と思っています。

                           
                    


                                  ◆飛鳥大仏と対峙して◆

 石舞台の次に訪れたのは、飛鳥寺でした。
 飛鳥寺は、飛鳥の田園地帯のほぼまんなかに位置してます。
 飛鳥川をわたった東側の岸、石舞台からチャリで10分ほど北上したとこにございます。
 日本で最初期の仏像「飛鳥大仏」が拝観できるとあったので、へえ、じゃあ、話のついでに見てみようかな、くらいの軽いノリでの訪問でした。
 奈良によくあるみたいな、でっかいお寺じゃありません。
 もそっと規模の小さい、ささやかで小規模な感じの、いかにも飛鳥的な、シンプルで清楚なお寺です。
 拝観料払って、靴脱いでお寺のなかに入って---。
 そしたら、平日の午後のせいか、なんと、拝観者はイーダちゃんひとりきりじゃないですか。
 これにはちょっとびっくりしましたね---千年前の飛鳥大仏とふたりっきりで対峙するなんてよもや思ってもなかったから。
 本堂の伽藍のところに、飛鳥大仏さまは、ストンと自然に座っておられました。

----へえ、あれがそうか…。座高、たかーっ!

 なんて最初はわりと余裕、飛鳥大仏のまえにそろそろとにじり寄っていって、3メートルほどまえのとこに偉そうにあぐらなんてかいちゃって---。
 そうして、千年前に作られたこの仏像の御顔を、じーっと見あげてみたら…。
 そしたら、なんともいえない、静かなド迫力が、この仏像さんのご尊顔からじわーっと伝わってきたんです。
 平安以降の仏像群に見られるような、一種の「写実」の美学は、こちらの仏像さんにはありません。
 こちらの仏像さんの背筋をすーっと通っているのは、もっと別種の美学であるように見受けられました。
 写実よりも信仰、そして、退廃的なまでに繊細な線よりも素朴で剛直な力感---そういったものが大事にされている万葉時代の仏像独自の芳香とでもいいませうか。
 超・芳しい---素朴な造形のひとつひとつが、現代人イーダちゃんの退廃した魂を打ちまくります。
 ここまで優れた仏像となると、鑑賞なんてとてもできない、というか、拝観者のほうが逆に鑑定されちゃう。
 千年以上にもわたって、何千、何万、いや、何十万もの人間の信仰心を吸いこんできたそのご尊顔は非常に静やかでありまして、僕の興味本位の視線なんて瞬時に吸いこんじゃって、でも、まったく何事もなかったかのように、千年前と同様、悠久の時間のなかを、ただ凪いで、軽く微笑しておられるの。
 その拈華微笑が、見ているうち、だんだんに怖く思えてきました。
 だって、こっち、なんにもできないんだもの---いうなれば、これは、無限と見つめあってるみたいなものじゃないですか。
 背筋のあたりに軽い寒気が走ります。  

----なんじゃろう、これ? ちょっと怖いぞ、これは…。

 もうすっかり貫禄負け、気分はもう退却モードです。
 ただ、ビビリつつも、この邂逅の記録を残したい気持ちに駆られ、おもむろに飛鳥大仏さんに写真撮影の許可を申請してみました。

----あのー…、ここでこうしてふたりで見つめあうっていうのもきっと何かの縁でしょうから、ひとつ、済みませんが写真を撮らしちゃもらえませんでしょうか…?

 僕、神仏系の写真を撮るときには、必ずこのような申請を被写体に直接することにしています。
 ダメなときはなんとなく分かるものですが、このときは飛鳥大仏から許可がでたように感じられたので、これ幸いと携帯の写真を1枚パシャリとやらしていただきました。
 それが、このショットです---ねっ、僕のおののきがしっかりと写りこんでいる、ちょっぴり怖めの写真に仕上がっているでしょ---?(^.^;>


              

               


                                 ◆伝板蓋宮跡で廃墟気分を深呼吸◆

 個人的に、廃墟が凄く好きなんですよ。
 これは、ほとんど「廃墟フェチ」といったほうがいいのかもしれない。
 10年ほど前の廃墟ブームが巻きおこるずっと以前から好きでした。
 あそこはいいぞ、という噂を聴きつけたら足マメに訪れたりして、いつかこれをネタに本なんて書きたいなあ、とか漠然と思っていたんですけど、生来の不精癖に負け、それらの廃墟ネタをちゃんとした形にして残すことは結局やれずじまいになってしまいました。
 でもね、20代後半から30代前半にかけては、ほんと、親しくしてたO---彼は、ときどき泥棒! とかやっていた男なので、名前は伏せときます---と八王子界隈から奥多摩あたりをよくうろついていたものです。 
 こんな体質なので、飛鳥にいったら「伝飛鳥板蓋宮」を訪れないわけがない。
 ええ、飛鳥にきたら、ほかのところは差しおいても、僕は必ずここに寄りますね。
 場所的には、飛鳥寺からもういちど石舞台方面に南下する感じ。
 距離的には飛鳥寺からわりとすぐの地です---そんなに動きません。
 なーんもない、がらんちょんの荒れ地みたいな場所なんですけど、この「がらーんちょん感」がとってもいいの。
 実際には、ここ、蘇我入鹿が藤原鎌足に討たれた場所だとかもいわれれいますけど、残念ながらそれは決定的な説ではないようですな。
 でもまあしかし、ここが、かつての華やかな都の一角の廃墟であることはまちがいありません。
 「強者どもが夢のあと」の廃墟は、イーダちゃん、ほんっとに好きなんですわ。
 かつての栄華の跡地をわけもなくくるくるとうろつきまわり、無常の風に吹かれて悄然となる---これは、イーダちゃん内では、大変高レベルな快楽のひとつなのです。
 ま、論より証拠ともいいますし、実際に目で見てその酩酊気分を体感していただきませうか---。


                    
                    


 如何です? 口腔内に生じた、味気ないような、一種のシャリシャリ感を体感していただけたでせうか?(^.^;>
 僕が思うに、その無機的なやるせなげな感触が、恐らく「無常」の味わいなんです。
 僕はここがホントに好きでねえ---ここの空気を吸ってるだけでまったく飽きないの。
 いつきても2時間以上ここでぶらぶらしていくんですよ。
 ぶらぶらしているあいだじゅうずっと、胸底にチリチリと痛がゆい感じがあって。
 最初にここへ来たのは高校の修学旅行のときでしたけど、そのときでさえ背筋に電気が走ったもん。
 このときも、その電気の流れは健在でした。恐らく、次にくるときもきっと……


                                      ◆締めの「亀石」◆

 で、飛鳥行の最後に寄るのはいつもここ、あの勇名な「亀石」なんです---。
 ここ、場所的に、駅に帰る際の、ちょうど要みたいなところにあるんです。
 だから、いっつも最後の「締め」みたいな気分でここに寄るんですが、ほかの場所に感じるような気負いは、この「亀石」に臨む際は、まったくありません。
 だって、この「亀石」、住宅地のまんなかにポカンとあるだけなんですもん。
 裏手は学生アパートとちっちゃな畑だけ---なんて牧歌的な佇まいなんでせうか!
 入場料も拝観料もなーんもなし、ただ、簡略な説明版がちょっとあるばかり---この気負いのないシンプルさって実に飛鳥的だな、と思います。
 そういう意味でいうと、もしかしたらこの「亀石」、もっとも飛鳥的な場所かもしれません。
 石舞台のボランティアおじさんの言によると、だいたい「亀石」のあったあたりが、太古の飛鳥の沼と陸とのちょうど境界だったというんですけど。
 伝説によると、「亀石」は、以前は北を向き、次には東に向いたというんです。
 いま現在は南西面を向いていますが、これが西のほうを向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一面もとの泥の海に返る、と今でもいわれているそうです。
 これは、やっぱり、過去にいちどあった「極ジャンプ」の伝承なんじゃないでせうか?
 極ジャンプっていうのは、地球の自転軸が移動する現象をいいます。
 地球みたいな惑星は、結構この手の回転よろめきを起こすそうなんですよ。
 これが起こると地球はもー大変、サハラ砂漠が一瞬で北極に移動しちゃったり、アラスカがいきなし南半球にもっていかれたりしちゃう。
 シベリアで発見される大量の冷凍マンモスこそ、この「極ジャンプ」の歴史的証拠じゃないか---というのは、かの飛鳥昭雄さんの説なんですが、僕も氏の説には賛成ですね。
 この「亀石」伝承は、かつて地球を襲った大災害である「極ジャンプ」の、うん、日本版の証言だと思います。
 このネタにあわせて、モーゼの紅海割れの奇跡とか、シベリアの冷凍マンモスの詳細とか、キリスト処刑のときに太陽の動きがとまったローマの伝承とかにも話を飛ばしたく思ってもきましたが、あまりにも長くなってきたので今夜はそろそろこのへんで----お休みなさい---(^.-V☆彡


                        



                                                               
 

 



                    
 
 
 
 

 
 
 

徒然その119☆ブローニング・ハイパワー VS コルト・ガバメント

2012-10-04 23:23:59 | エアガン小唄
                       


 コルトのM1911“ガバメント”は、かつて憧れのGUNでした。(向かって右のほうの銃です)
 カタチがまず好きでした。それから、工場からブッタ切ってきたばかりのザク切りの金属片を、そのままトリガーに組みこんで、完成品の銃にしちゃいました(これ、小峰隆生さんの表現のパクリです!)---みたいな、あのストレート極まる無骨さがとてもいい、と感じてました。
 いまの僕の立ち位置は徹底的に反アメリカだから、必然的にこのGUNから気持ちは離れちゃいましたが、このGUNの優秀性を認められないほど意固地ではないつもりです。
 “ガバメント”は、やっぱ、凄い。
 それは、もう認めざるをえない。 
 半世紀以上、世界各地で紛争を起こしつづけてきた、あの合衆国軍隊の、制式のサイドアームであったという歴史的事実が、その優秀性を何よりも雄弁に物語っている、と思います。
 ただ、おなじタイプのオートマ拳銃では、ベルギーのブローニング・ハイパワーのほうに、より強く魅かれていました。(ええ、左手の銃のほうね)
 一時、世界一の生産台数を誇っていた、このヨーロッパ産まれのシックなGUNには、コルト・ガバメント属には見られない、爛熟した文化の香りが、そこはかとなく漂っていて、そのセクシーな移り香が、僕的には、なんともたまらなかったのです。

----うーん、セクシーだなぁ。細身の、いい銃だあ。いっぺん、握って、撃ちてえなあ…。

 と常に思っておりました。
 なんというか、このGUNは、そこはかとなく飾り窓っぽい香りがするんですよ---シルクと香水と前の晩のかすかな情事の香り…。
 そんな媚薬的オーラがスライド近辺にたゆたっているこのハイパワーは、擬人化するなら、ええ、完璧「女」なんですわ。
 それも、渋い、極上級のいい「オンナ」---この銃が魔性の銃だってあちこちで囁かれてきた理由が、よーく分かりますね。
 ガバメントは、はっきりいって、そこまで複雑な雰囲気をしょった銃ではないんです。
 むろん、故障の少ない、操作性の確実な、名銃です。そのへんの要素は、ゆるがない。
 しかし、ガバメントはね、僕的には、いつも即物的にすぎる銃なんですよ。
 あえて擬人化するなら、この銃は、あまり知的じゃないタイプの、けれども頑健で、愛国心に溢れた、体育会スポーツマン系って感じかな?
 それはそれでいいキャラなんでせうけど、僕的に、魅力はあんま感じない。
 新大陸生まれの銃は、みんな、このような合理主義なんですかね? 産まれてはじめて銃に触れる初年兵が撃っても、ベテランの古残兵がトリガーを引いても、おなじ標的に当たる銃---それこそが「文明」的な銃の証だと僕は思うんですけど、ガバメントこそまさにこの定義を充分に満たしている銃なのではないでせうか。

----「文明」とは、誰が扱ってもおなじ結果が明確に得られるもの。たとえば、水道。あるいは、ガス、電気。誰が撃っても弾丸の出る拳銃なんていうのもおなじ「文明」の範疇です。異邦人にも幼児にも、誰にでも容易に分かり、誰に対してもひらかれているもの。対して、「文化」というのは、もっと不確定で、澱んでおりますね。たとえば、葬儀の風習。これは、その地方ごとの「文化」です。あるいは、礼節。これも国ごと、民族ごと、あるいは地方の村ごとに、基準やルールがちがいます。誰に対してもひらかれているわけじゃない。むしろ他所者を拒む閉鎖性に満ちているともいえるでせう…。

 これ、記憶を頼りに再現した梅原猛先生の発言なんですけど、先生のおっしゃってられてる「文明」と「文化」の定義は、たしかこのようなものであった、と思います。
 で、その視座からいうと、イーダちゃんは、「文明」の香りのするGUNはそんなに好きじゃないんですね。
 「文化」の非合理な香りがして、そして、いくらかうつ向きがちの、ええ、微妙な「翳り」と「色気」のあるGUNが好きなんです---それが、最近分かってきた。
 僕がグロックを嫌いな理由もきっとそうなんですよ---あれは、誰にでも扱える明確で優秀、極めて扱いやすい「文明的」な銃であるから---だから、たぶん嫌いなんですね。
 そう、グロックは、世界文明共通の大食堂であるあの「マクドナルド」みたいに、いくらか明るすぎるきらいがあるんですよ。
 優秀です、ポピュラーです、誰にでも簡単に使えます---うん、そのキャッチコピーの意味も効能も充分、分かる。
 むろん、紛争地帯に明日行くのなら、僕も、優秀なグロックを使いたい人間なんですが、あえて好き嫌いの基準でいわせてもらうなら、ワルサー、ルガー、それに、このハイパワーなんかのほうが、それは、もうダントツに上なんです。

 暇話休題---どうでもいい心情吐露はこのくらいにしておいて、その肝心のハイパワーの紹介にそろそろいきませうか。


                                                                                    
         ◆ FN(ファブリック・ナショナル社製)ブローニング M1935 通称“ハイパワー”
            全長 197mm
           口径 9mmパラベレム
           重量 929グラム
           装弾数 13+1発    
 
 ああ、いいなあ! この微妙に瀟洒な形態ともっちりした質感が、なんとももうたまらん。(注:フォトは、タナカワークスのガスガンです)
 ガバメントと一見似ちゃあいるけど、銃全体に付随してるムードは、かなりちがっているでせう?
 よく見くらべてもらえば分かると思うんですが、コルトのM1911は、全長217mmで、このハイパワーより2センチほど大柄なんですね。
 それは、むろん、強力な45APC弾を撃つための必然のガタイです。
 ちなみに45口径っていうのは、インチからミリ表示に置きなおせば、11.4mm。
 この20mmあまりのガバの大柄さというのは、それだけの重さのブリットを発射するのに必要な「発射台」としての堅牢さなのだ、と、ここでは解釈しておきませう。
 対して、こちらブローニング・ハイパワーの弾丸は、9mm×19mmのパラベレム弾ですからね。
 9mmパラベルム弾は、現在のGUNの主流であって、決して弱装弾ではないのですが、45APCは、なんといっても45口径=11.4mmですから、9mmよりははるかにでっかくて重いんです。
 ガバメントの堅牢さに対して、ハイパワーが華奢に見える要因のひとつは、たぶん、その口径始発の構造的ものもあるんじゃないか、と思われます。
 ただ、どう考えてもそれだけじゃないっぽい、ヨーロッパの風土がGUNに与えた影響といった要素も、やっぱりいくらかは考える必要があるんじゃないでせうか。
 なぜなら、この偉大なFNブローニングM1935とコルトM1911というふたつのGUN、実は、父親が一緒の異母兄弟の銃なんですから。
 ええ、この二丁の銃はどちらとも、あのあまりにも勇名な天才銃器設計家ジョン・モーゼス・ブローニングの設計なんです。
 このジョン・ブローニングこそ、銃設計界のエジソンとでもいうべき男なんですよ---彼は、米国ユタ州の出身、1855年1月21日、水瓶座生まれのアメリカ人でした。
 銃技師の父ジョナサンの長男として生まれたジョンは、学こそなかったものの、その生来のセンスと勘と経験とで、非凡な名銃を次々と設計して見る間に名を成していきます。
 実際、いま現在使用されているオートマチック拳銃は、ほとんどすべてこのジョン・ブローニングが発明した銃機構をそのまま受け継いでいるといってもいいのです。
 安全装置だとかセイフティーの機構とかの枝葉の部分での技術は進歩したかも分かりませんが、銃の根本のメカニズムの発想自体は、このときブローニングの頭のなかで閃いた雛形から一歩たりとも外になんか出ていません。
 そう、どこの銃器メーカーもいまだにみんな、このときのブローニングの発想した雛形のなかで、ああでもないこうでもないと相撲をとっているんですよ。
 現在、アメリカ軍の制式拳銃になっている、イタリアのベレッタM92Fしかり、「世界最高のコンバットオート」と称されたこともある、あのチェコのCz75もしかり…。


                         


 まさに天才ブローニング! そして、彼がその生涯にて設計した代表的な2大傑作拳銃が、この記事のテーマでもある、コルトのM1911の“ガバメント”であり、また、ブローンングM1935の“ハイパワー”であったのです。
 ただ、制作された時期からいうと、ガバメントのほうが、ずっと早生まれですね。
 ガバメントがアメリカ軍の制式銃になったのは、銃の名称通り1911年のことでした。
 対して、ブローニングM1935が世に出たのは、1935年のこと。
 設計者であるジョン・ブローニングは1926年に亡くなってしまったので、FN社の後任の技術者たちが、ブローニングの意思を継いでこの銃を完成させたのです。
 それまで7、8発が限界といわれていた装弾数を、マガジンを複列式にすることによって一気に13発まで増やし(通称である“ハイパワー”の由来は、当時からすると驚異的だったこの装弾数からきています)---もっとも、このマガジンの発明は、ブローニングによるものではないようですが---やがて耐久性と機能性に優れたこの銃は、世界50ヶ国以上の軍の制式拳銃となっていきます…。

 つまり、ガバメントとハイパワーの2丁の銃は、母親を異にする(ガバメントの故国は米国、ハイパワーの故国はベルギーだから)異母兄弟同士という間柄になるんでせうけど、結果的に血縁関係のあるこの2丁の銃が、20世紀を代表するコンバットオートと称されるようになっていったというのは、どういう歴史の必然でせうか?
 優れた軍用拳銃は、ほかにいくらもありました。
 たとえば、ドイツのワルサーP38、ルガーP08、モーゼル・ミリタリーにS&Wのオート、スイスのSIG……
 なかには90年代初頭まで西ドイツの制式拳銃でいたワルサーP38のような例外もありますが、この世代に生まれた大戦の香りのする銃たちのなかで、当時から80年代まで軍の制式拳銃でありつづけたのは、ブローニング・ハイパワーとコルト・ガバメントの2丁きりしかありません。
 下手したら3年もたたないうちに最前線のトレンドが変わってしまう、どこかの国の芸能界さながらの流行り廃りの多いこんな阿修羅な武器世界のなかで、何十年にもわたって制式拳銃の地位を占めつづけたというのは、ええ、これは、はっきりいって異常なことですよ。
 正式な戦闘に参加しない、基本的にサイドアームとしての拳銃だったから、といってしまうこともできますが、それにしても数十年というこの歳月は並じゃないよ。
 もちろん名銃だったから、という理由で一応の説明はつくんですけど。
 でも、僕は、それだけの要素で、ここまでこの2丁の銃が生きのびてこれた全ての説明がつくとは思ってません。
 もうひとつべつな、プラスアルファの理由が、きっと何かあったんだと思う。
 もしかしたら、それは「運」だとか「政治権力」だとかの不可知要素をも含んでいたのかもしれない。
 しかし、そうした不可知要素を加味して考慮したとしても、この2丁の銃が並の銃ではなかったという歴史的事実は、いまや誰もが認めざるをえないでせう。
 といったようなわけで、この2丁の銃は、どんな最新好みのガンマニアたちも避けて通ることのできない、一種スペシャルな地位にいまも君臨しつづけている、という次第なんですよ---。

 これほどの超・実力派のGUNですもの、我が国のトイガンメーカーも当然ガスガン化しています。
 今回、ここで僕が取りあげたいと思っているのは、タナカワークスさんの「ブローニング・ハイパワー」と東京マルイさんの「コルトM1911 MK4 SERIES’70」の2丁----


                        


 僕が所有してるハイパワーは、タナカさんのHWのいわゆるビジランティー・モデルなんですけど、これがね、実にいい出来なんですわ。
 値段は、2万とちょい---まあ高めかな。
 ミリタリータイプとちがって、スライドの後部に可変式のスケール・サイト(モーゼルM712なんかにも付いている、超アナログの香りのする例のやつです)は、付いておりません。
 いかにもタナカさんのガスガンらしく、冷えたおりのマガジンのガス漏れだとか、あまり集弾しない着弾だとか、ブローバック時(正確にはショート・リコイル時)に次のBB弾がうまく装填されないとか---問題になる要素は多々あるんでせうが、イーダちゃんは、大変このハイパワーを気に入っております。
 「グイと引いて、バキッと折れる」という実銃のトリガーフィーリングが見事に再現されているし、なんといっても、このタナカのハイパワーさん、肌ツヤがいいよ。
 肌ツヤのよさは内蔵の健康の証明ともいいますから、肌ツヤのいいハイパワーは、たぶん、内部の機構自体も良好なんじゃないかって気が自然としてきます。
 あと、スライド側面の文字の刻印ね、これが、銃全体の形態や触感とあいまって、実にシックで渋めの風情を醸成しているんですね。
 これは、このタナカ・ハイパワーの最大の長所のひとつだと思うんで、忘れないうちフォトをUPしておきませう。
 マルイさんのガバもこの点ではなかなか頑張っていまして---これ、どうやら打刻なんだそうです---今回は結構いい出来となっているので、比較のため、それもUPしておきませう。


     
 

 左上のがタナカ・ハイパワーのスライド側面、右上のが東京マルイさんのガバメントMK4のスライド側面です。
 どうです、ハイパワーのスライドの刻印、イカシてるでしょ?
 あと、艶消しのこのボディの質感は、これがまたなんともよおおます。
 文字は若干浅くて読みにくいのですが、ここには実銃の通り FABRIQUE NATIONALE D'ARMS DE GUERRE/HERSTAL BELGIQUE/BROWNING'S PATENTDEPOSE と刻印されています。
 僕は、この刻印の文字を目で追っていくうちに、どうしても自然に頬がゆるんできてしまう。
 このタナカさんの丁寧で緻密な手仕事は、マニア心をほどよくくすぐってくれます。
 うん、いい出来です---このブローニング1丁だけを肴に、僕は、酒、2、3時間は余裕でいけちゃうなあ。
 この刻印の最後にある、超ちっちゃなルガー・パラベレム弾のユニークなマークも、一種の微苦笑を誘ってくれて Goo ですね。
 さて、銃の風情といったこうした側面にあえて光をあてたのがタナカさんなら、マルイさんのスポットライトは、ガスガンとしての機能のほうに向けられているように感じます。 
 そう、マルイさんのガバメントもなかなかに美しい出来に仕上がってはいるんですが、でも、僕の目から見ると、やっぱり何かが足りてない。
 うーん、こんなことはあまりいいたくないんですが、マルイ・ガバメントからは、やっぱりちょっと「大量生産品」の香りがしてくるんですよ。
 ええ、マルイさんのもタナカさんのに劣らず、よくできた良心的なGUNだとは思うのですが。
 ガスガンとしての機能的な側面からいくと、マルイさんのGUNは明らかにタナカさんの上をいっていて、野外でのサバゲー向きなのは完璧マルイさんのほうなんですが、なんというか、マルイさんのGUNでは、僕は、あんま醉えないんですよ。
 ただ、今回入手したこのガバメントのシリーズ70では、いままでのマルイさんとはちがった姿勢がほの見える。
 それは、スライドトップはブラストフィニィッシュ仕立て、スライドのサイドはブルーフィニッシュ仕様と、実銃同様の非常に凝った仕上げをあえて選んだという姿勢からも窺える。
 でも、なんでだろう? タナカワークスのハイパワーほど、僕は、このガバメントじゃ醉えないの。
 ま、そのへんの理由は銃のサイドにではなく、僕のサイドに問題があるんじゃないかと予感してもいるんですが…(^.^;>

 おお、酔いながらキーボードを打っていたら、もはや何がいいたいのか自分でも分からなくなってきちゃったぞ。
 ラストに、下方アングルから見上げた両銃のフォトをUPして、この長ーい記事をそろそろ終わらせたく存じます。


                      


 いかが? 側面からのゴツさに反して、両銃とも意外なくらいスリムでせう?
 特に、13連発の複列断層を収納するハイパワーの(左上写真)マガジンがこーんながっちりと太いくせに、スライドの先がなんとスマートなこと!
 こんなにマガジンが太いとさぞ握りにくて狙いもつけにくいだろうと思うかも分かりませんが、このハイパワー、思いのほか握りやすいし、狙いだって意外なほどつけやすくなっているんです。
 ええ、ほんと、このGUNは狙いやすく、撃ちやすい。
 流石、世界50ヶ国もの軍の制式拳銃に選ばれた実績は、伊達じゃありません。
 ガバに関しても(右上写真)これは同様のことがいえそうですね---狙いをつけて撃つということに関して、このガバは、実に優れた道具です。ある意味、ひとつの路線の完成形といっちゃってもいいかもしれない。
 こんな毒にも薬にもならない非現実的な夢想---興味のないひとから見ると、ほとんど妄想かもね!---に明け暮れながら、イーダちゃんの宵は今日もすぎていくのです。
 阿呆だなあ、と我ながら思います。
 でも、何かを好きだというニンゲンの気持ちは、もしかしら元から非常にアホ的な様相をしてるんじゃないか、と常日頃から考えている僕なんかからすると、自身のこのエアガン熱なぞまだまだ大甘、もっともっと強烈に恋焦がれて、自分内の小狡い安全圏を溶解させ、対象と心中したいくらい超・好きにならなきゃGUNの本質になんて到底届けないぞぅ、と改めて省みたりもする、ハイパワーときめきイーダちゃんなのでありました…。(^o-)y☆彡