先月と今月、多忙の隙をぬって、六本木の新東京美術館で開催されている「ルネ・マグリッド展」にいってきました。
絵とはだいぶ離れてる時期ってのが僕にはあって、正直、疎遠の度合いは相当レベルで進んでいたの。
でも、最近知りあった絵好きのギャルの影響で、そっち系の世界にまた関心もつようになってきた。
で、そのギャルがいっちゃん好きな画家が、マグリッドなんですよ。
だから、まあ、マグリットを実際に「体感」しにいってみたわけ---まえのバルデュス展のとき、印刷された絵と実物絵とのあいだに、それこそ数光年の隔たりがあることに気づいて、まさに愕然とした経験がありましたから。
バーチャルじゃない、展覧会という現場で体験した生「マグリッド」は、ふしぎでした…。
たぶん、このへんなんじゃないのかなあ? なんて僕のさもしい高さ予測を見事なまでに飛びこした、圧倒的なふしぎ感が会場いっぱいにクールに充満してて、その空気にすっかりあてられた僕は、ひさしぶりに日常のごたごたオーラと完璧に切れた、無心の散歩を愉しむことができたんです。
展示場の角をまがって新しい絵がバンと視野に入るたび、僕、ぷっと吹いちゃった。
爆笑というんじゃないけど、自然に笑っちゃうの。
あまりにも生真面目で、突飛で、偏屈で、ひねくれてて、こっちの意表をついて、とにかくユニークなんだもん。
でも、これは僕だけじゃなく、同行したギャルも、それから、ほかのお客さんらも、結構な確率で笑ってました。
これ、案外、重要な特徴じゃないか、と僕は思います。
うん、マグリッドの絵って、笑いを呼ぶんですよ。
ピカソは?---僕は、笑えない。
ダリは?---絵にまとわりついてる情念が濃すぎて、やっぱり笑いはでてこない。
マグリッドって、なんていうか、ちょっと乾いてるんですよ---徹底的に自分を突きはなしてるというか、ものすごーく客観視してるというか。
極端にいうと、自分自身の感情の動きすら、絵のための実験材料として、ほとんど科学者のような冷徹なまなざしで計量してる風に見える瞬間すらある。
第3の眼というか、なにか超越的な視座を、肉体の外になんとしてでも設けようとしている動向とでもいうんでせうか。
このほとんど本能的なまでのマグリッドの体臭隠しの性向が、マグリッドならではの超・個性的な宇宙を構築している主犯なんじゃないか、と今回僕は感じました。
あとね、マグリッド作品全般に対する先入観として、なんか、このひとのアートってポスターチックだよなあっていうのが、僕的にあったんです。
だってさあ---
上の有名な2作品にしても、どっちとも非常に、なんちゅーかポップアート的佇まいじゃないですか。
キャッチーなコピーを脇に添えれば、そのままどっかの会社の宣伝ポスターとして充分使えそう。
絵に精魂こめて自らの祈りの世界を編みあげる、みたいな古典的作画姿勢はかけらもなくて、絵の主題自体が、絵そのものよぐーんと目立って見えちゃうというか---そういった姿勢をあえて匂わせているスタンス、というか…。
あと、このひとの絵って「音」がしませんよね?
うん、基本的に無音だと思う---マグリッドの提示してくるヴィジョンって。
たとえば、ダリの絵なんかだと、いろんな音が溢れまくってるんですよね。
僕は、ダリの絵世界には、古典的芸術家の真摯な感情のさまざまなきしみが、いっぱい盛られてるように感じます。
だから、そっちの感情面のベクトル側から眺めてみるなら、ダリは、わりと分かりやすい画家なんですよ。
提示してくる幻想はシュールであっても、それに付随して響いてくる感情の流れは、なんというか素直です。
たとえば、あのサルバドール氏、ジョン・レノンが好きで、ジョンと会ったとき、とてもはしゃいで「僕はイモムシになっちゃった、イモムシになっちゃったよ~」といって絨毯を這いまわったそうです。
少々エキセントリックだけど、僕は、こーゆー無邪気なふるまいって結構好き。
その種の無邪気さって、よく見るとダリの絵世界のなかに、かなり投入されてるんですね。
だから、僕等は、ダリの絵を見て、逢ったことのないサルバドール・ダリという異国の男の、一種の「人間臭さ」に触れることもできるわけ。
でも、マグリッドは、そうじゃない。
彼の絵のなかの時間は、とまってます。
人間臭い情念の澱も、注意深く入念に漉しとられてる。
画布と画家とのあいだに距離がある。
しかも、その距離は、マグリッド自身が企んだもの。
マグリッドは、会ったことがないんでなんともいえないんだけど、たぶん、ただの無邪気人じゃない。
どちらかといえば、複雑繊細な自我をもった、他人との距離感に非常に気を使う、いわゆる典型的な近代人の面影をもったひとだったように思います。
会場で57年にマグリット自身が撮った家族間のホームビデオを公開してて、たまたま僕はそれを見たんですけど、それを見たかぎりじゃ、彼は、非常に夫婦間の愛情に厚い、ユーモアのある紳士といった印象でした。
音楽家でいえば、めったにひとをわるくいわないピアニストのルービンシュタインにまでひどく嫌われて、「厭な奴」とまでいわしめたクロード・ドビッシーより、もっとラベル寄りのタイプ---。
「スイスの精密時計」とまでいわれた、あの完璧無比の技をもつ凄腕の音楽職人、あの「ボレロ」のモーリス・ラベルは、ルービンシュタインやホロヴィッツにいわせると、非常に人付きあいのいい、細かい心配りのできるナイスガイだったそうです。
そんなナイスガイが、張りつめた神経の細糸で編みあげたような、あれほどの完成度の藝術をなぜつくれるのかは謎ですが、僕は、マグリッドの絵を眺めながら、どうしてかラベルの音楽のことを連想せずにはいれませんでした。
タイプ的には少々異なるキャラのおふたりですが、根本のところでは両者には共通項がある。
それは、ふたりとも「決して告白しない」芸術家である、という点です---。
というより、告白しないことを自らの掟にしていたふたりである、といったほうがより正確かな?
マグリッドもラベルも無類のメチエの冴えを誇った、いわゆる職人肌の芸術家でありました。
「告白しない」「職人肌」と、こうふたつの特徴をならべてみると、我が国の三島由紀夫なんて方もちょっと思いうかんできますね---僕は、彼の文學は大嫌いなんだけど。
ま、しかし、そのように自己を告白しようとしない、依怙地な子供がいいんと顔をゆがめた刹那の印象をそのまま形象化したような、彼の諸々の画布と美術館で実際に対面してみますと、なんというか、ゆらめくような凄いインパクトがあったんですね。
去年、僕は、上野のバルティス展にもいったんだけど、バルティスの場合、絵世界がまだ文学的なんですよ。
だから、自分がバルティスにやられてゆらめくときのゆらめきの総量が、なんとなく予測できるわけ。
でも、マグリットは予想できなかった---美術展いってあんなに笑ったのは、僕、初めてです。
笑うって、実は凄いことなんですよ。
ギャグで笑うとか漫才で笑うとかはべつとして、あまりにも自分内予測を超えたものに遭遇すると、ひとって自然に笑うんです。
そういえば全盛期のホロヴィッツの爆裂演奏を聴いたホールの聴衆が、演奏途中でげらげら笑いだした、なんて逸話が残ってますけど、そのときの聴衆のびっくり加減、僕もよく分かるなあ。
マグリッドの絵には、そのような「笑い」があった。
とっても淋しくて怖い世界なんだけどね---でも、どうしてか知らず知らず笑えてきちゃう。
まあ、あんま能書きばかりならべてもしようがないので、美術展のなかで感銘を受けたいくつかをここに紹介しておきませうか----
左上の絵は「記憶」、右上の絵は「人間の条件」---。
どっちともネットで画像拾えなかったんで、仕方なしに携帯で絵葉書写してあげたものです。
当然、画像も荒く、色も汚くて、現物の極上絵と比較できたもんじゃない。
でもまあ、面影くらいは伝わってくれるんじゃないかな?
どっちもわりに文学的読みの可能なタイプの絵なんですけど、特に右の「人間の情景」内の、透明なキャンパス越しに見える「木」のなんたる美しさ!
僕は、この絵自体は知ってたんだけど、印刷写真は現物の絵の美しさをまったくといっていいほど写しきれておらず、この絵のまえに立ったときはマジびっくりした。
ええ、この木の枝々と緑の葉のかもしだすみずみずしさに、目線を折りとられるようでした…。
なんだろう、この匂いたつような、胸を締めるつける郷愁の翳りは…?
けど、たぶん、このネット上の写真じゃ、ほぼ絶対この「感じ」は伝えられないと思う。
いま自分でこれ見ても、右の絵の木はなんだかもやもやと輪郭がふたしかだし、左のね「記憶」にしたって、背景の荒さばかり目立って見えてきちゃうし。
でもね、マグリッドの現物はちがうのよ---右絵の木は観察者の眼を痛くするほど鮮やかだし、左絵の曇り空も、幾層にも繊細に塗りわけられた影の感じが、見てるひとの深層心理までゆらすのよ。
そう、理性にでなく、教養にでもなく、深層心理にむけて語りかけてくる絵なんだな…。
饒舌か寡黙かというなら、もちろん寡黙のほう。
というか、寡黙の極致といってもいいかも。
普通のひとは意識や理性にむけて使う言葉を整備してるから、マグリットの使う言葉には、うまく対処できないし、よく理解もできにくい。
なにせ、心の奥のそのまた奥にむかって発せられた言葉だから、聴きとめることすら難しいの。
そもそもの受信回路がないんだから、むりないって。
でも、彼の寡黙な「ふしぎな言語の響き」にふれると、やっぱり耳をとめて立ちどまるわけ。
彼の投げかけてくる音のないふしぎな言葉は、それくらい魅力的な響きをさせてました。
僕が、先月・今月とマグリット展にいって体験したのは、だいたいそんなようなことだったんじゃないか、と自分では思っています---。
で、展覧会から帰って2、3日してから、ふいにその感覚を思いだしたんですね。
----あれ、そういえばあの絵の感覚、どっかで感じたことあったぞぉ…。
記憶の引き出しをあちこちあけて検討してたら、やっと思いだせた。
それって、いつか豊島区でひらかれた、自閉症児の展覧会でした。
僕の仕事はいま福祉系だから、そっちの方面のことには自然興味がいって、そういった催しがあると、なるたけ出向くようにしてたんです。
そのとき展示されていた自閉症児たちの絵と、マグリットの絵はとてもとく似ていたんです。
絵のなかの時間がとまったような、あの感じ---。
凍結した風景のなかで、無表情な子供がじーっと上目遣いでこちらのほうをうかがっているような、奇妙に薄ら寒い、あの独自の対峙感は、たしかにマグリッドの絵世界のもつノリに酷似してました。
プライバシーとかもあるんで、あいにくのことそのときの展覧会の絵をそのままアップすることはできないんですけど、その代わりにネットで見つけたそれとよく似た香りのする自閉症の子の作品を、ひとつここにあげてみませうか---
マグリッドの時間を超越した、世界の終わりの情景をデッサンしたような、あの独自の世界の秘密は、僕は、そのあたりにあるんじゃないか、と睨んでる。
ひょっとしてマグリッドは、繊細で依怙地で頑なな、そんな自閉症気質の子供のまま、大人になったひとなんじゃないかしら?
僕は、彼の生涯についてはあんま詳しくないんだけど、その気質から察すると、生きていくうえでの葛藤っていうのはハンパなかった、と思う。
ホームビデオに見られるいかにも人の好さげな紳士顔のうしろに、これほど繊細深淵な世界を隠しもっていたマグリッド…。
ただ、素直に「偉いなあ」って思います。
マグリッドの絵が時代を超えて常に新しいのは、彼が、時代を超えた秘密のお城にひとりぼっちでずっと住みつづけていたためです。
マグリッドは、生涯そのお城に居住しつづけました。
そして、そのお城の窓から眺めた世界のありようが、そのまま彼の絵になった。
彼に奇妙な絵に、ほかのシュールレアリズムの画家のような作為やあざとさが見えないのは、たぶん、そのおかげ。
彼は、当時流行ったていた「苦悩の芸術家」みたいな仮面を、一度としてかぶりませんでした。
シェークスピア役者のような大仰な愁嘆場を演じようとしたこともない。
彼は、いつでも謙虚で、寡黙で、正直でした。
生涯自分のままでありつづけ、また、そのような自身の宿命に黙って殉じきったのです。
僕は、そんな風に読みたいなあ---。
× × ×
後半2つめにUPした絵は「ガラスの鍵」---僕のフェバリアットなマグリッド作品のひとつです。
これ、今回の展覧会にも出品されているので、ぜひ現物をご覧になって、そのビザールな味わいにめまいしてください。
僕的には、これ、とっても郷愁を感じる作品なんだけど…。
今回の展覧会には、総計して10時間くらいいましたかねえ。
幸い、六本木新国立美術館の「ルネ・マグリッド展」は、6月の中旬までやってます。
マグリッドの絵に忍んだ「ガラスの鍵」でもって自身の心の鍵をあけ、自分自身もこれまで知らなかった、自分内の秘密の石造りの庭園にでて、ひっそりと午後の野のかおりを深呼吸するのは、人生で味わえる快楽のなかでも最上ランクの歓びのひとつであるか、と存じます…。