世の中には「どうあがいてもこいつには適わねえ」と思わせる方が、それこそ星屑のようにあまたおられるものでして、特に僕の場合、そう思わせられるひとの数は非常に多く---たとえばモーツァルトにホロヴィッツにチャーリー・パーカー、ドストエフスキーにランボーにニコライ・ゴーゴリ等、ここ日本では、川端さんに坂口安吾に寺山修司、柿本人麿に花形敬に宮崎駿、このようなアーティスト畑にかぎらない俗世の荒野においても、職場の同僚の誰それや友人の○○に知人の××…---それこそまわりじゅうがどうにも「敵わない奴ら」ばっかりで、そう考えると自分の至らなさと不甲斐なさとに発作的に膝を折りたくなってもくるのですが、あんまり誠実にネガティヴしててもなんだか疲れちゃうので、ほどよい場所にそれらの「すっごい人たち」の架空の集落をつくり、そこからちょっと距離をおいた地点にあえて自分は立って、日常に倦んでほどよい刺激がほしいときにだけ、その「すっごい人たち村」を訪ねていく、といったセコイ作戦を日夜こそこそと実行しているイーダちゃんなのですが、少しまえに亡くなった漫画家の杉浦日向子さんなんかも、僕の分類するその「すっごい人たち村」の古ーい住人のおひとりです。
彼女はねえ、ほんっと、凄い。
彼女の世界にふれていると、僕なんかもうため息しかでてこないもン。
「天才」といういかにも19世紀的な形容詞はあまり使うべきじゃない、とは思うんですが、彼女は、まぎれもなくその「天才」を裡に宿した稀人(まれびと)でした。
彼女のどこが凄いかというと、まず、その漫画内にたちこめている「空気」が凄い。
プロットや技巧に凝ったタイプの漫画家さんなんかとちがって、彼女の漫画は、なんというか非常に素直。
超・ゆるゆる。てんで力んでないの。
漫画のなかの登場人物も、皆、ほどよく肩の力がぬけて、ラクーに呼吸してるのがよく伝わってきます。
これ、簡単に見えて、実は、結構難事なんです。
表面だけの薄っぺらなリラックスなら、えてして誰でも演じられそうなものですが、その程度の演技のリラックスなんて所詮薄メッキですから。
その気になってみれば、剥ぐのは簡単。
僕は以前知りあいの詩人の作品を見て、「あ。ねえ、この行、うそでっしょ? ていうか、あんま分かってないで書いたでしょ?」
といったら、彼、こくんと僕の指摘にうなずいたものでした。
プロの漫画家でもそのような自身内の確信がないまま、「営業的に」あるいは「商売として」やむなく書いている、いわゆる仮面場面は、いっぱい見つけられます。
まあ、プロの場合は物量をこなさなくちゃいけないから、それもある程度やむなしの必然悪なんでせうが、こと杉浦日向子さんにかぎっていうと、そのような作者と作品との乖離が見事なまでにありません。
というか、彼女がこしらえると、作者の素顔と想像世界とが見事にタッグを組んで、それこそ2倍3倍のパワーでうねりだしちゃう。
武道家に喩えるなら、「豪傑」を超えてすでに「自在」の域までいっちゃってるひとですよ、このお方は。
超・繊細なのに、その感受性のきめ細かさに足をとられない。
一見きゃしゃに見えるくせに、戦国武将にようにずっかり「腹」が座ってる。
そうして、その骨太の眼で見た世界に、次々と、遊ぶように、軽々と命を吹きこんでいく…。
なんちゅーか、「達人」としかいいようのないお方なんですね。
僕は、個人的に、このひとは、あの合気道の達人・塩田剛三爺の域まで達してるひとだ、と思ってる。
誇張じゃなくって、これ、結構マジな意見のつもり。
その「達人ぶり」が顕著に表れているのが、僕が冒頭にUPした1コマなんじゃないかな。
これね、日向子さんの「百日紅」って作品のなかの「恋」という短編のラスト1コマなんですけど、どうだろう?
うしろ向いている女は、北斎の娘の「お栄」っていってね、北斎からは彼女、アゴと呼ばれてるの。
漫画で見るかぎりかなーり綺麗なコなんだけど、杉浦設定では、彼女、不美人ってことになってまして。
で、その彼女がおなじ北斎門下の初五郎って男に惚れるんだけど、この初五郎ってのがイケメンなのよ、とても。
んでもってお定まりの心理劇がスタートって次第。
親父である北斎がこの悲恋を評して曰く、
----なあに、アゴの奴このごろ妙ちくりんなのサ…。気ちげえじみてらあ、岡惚れしてんのサ、初五郎に。ヘッ、身の程知らずが……色男に惚れるツラか、情けねえ…。
なあんて、あんまりな言い草。
もやもやが収まらないお栄は、江戸のずいぶん遠くの湯屋まで出かけてみたりもするんだけど、その帰りにばったり想い人の初五郎を見かけちゃう。
そしたら、お栄、とっさに逃げちゃうんですよ。
初五郎に見つけられるまえに、隠れるように、すーっと。
そうして、逃げたさきの川べりに、たまたま北斎門下の同僚の善次郎がいて、お栄はこの善次郎とちょっと喋るんですね。
で、自分のなかの片想いをふり払うように、冒頭画像のように自前の黒髪を「すさーっ」て跳ねあげるの。
----阿呆らしい…!
と一瞬のうちに、もやもやの自分ごとぽんと放り投げるように。
この客観視というか、自分への目線の距離感というか、僕は、読んでて思わず背筋にゾゾゾって電気が走ったもんです。
この何気な仕草が、超・カッコいいったら---。
なんていうんだろう?
高岡英夫流にいうなら、僕は、コレ、超・センターが通った画面じゃないかと思うんです。
こんなの、フツー画けないよ。
この自由さ---なんにも縛られてない、天然の「粋」のなんとも気持ちのいいこと。
僕はね、このコマを初めて見たとき、あの宮本武蔵の有名な絵を思いだしちゃった。
ほら、あの武蔵晩年(?)のコレですよ、コレ---
戦国時代の剣豪と現代の漫画家を比較するのもちょっとどうかなあ、と思いもしたんだけど、僕は、両者の世界観、「むー、似てる」とどうにも感じてしまった。
武蔵の絵が凄いのは、枝先にとまった鳥が武蔵であり、その鳥にとまられている枝自体にも、そうして、絵全体の構図、遠近感、それこそ絵世界の至るところに、同じ分量で、宮本武蔵というニンゲンの眼と神経とが、等量に、きめ細かに通っている、という一事に尽きます。
フツー自分を作品世界にそこまで没入させたら、作品自体が緊迫しちゃうものなんですが、この作品ではそうなっていない。
というか、この鳥さん、案外リラックスされてるでせう?
ちぃーと後ろに背筋を反ったら枝から落っこっちゃいそうなんだけど、そうはならないギリギリのバランスを保って、ある程度の緊張、そして、絶妙なリラックスとを身をもって体現してる。
ひとことでいって、もー達人---超・美しいの。
で、冒頭の杉浦さんのひとコマについても、僕は、おンなじことがいえると思うんだ。
長い髪を大きくふりあげ、「阿呆らしい」と背筋をすっくと伸ばすお栄のこの後ろ姿---
武蔵の無骨で結晶化した武芸者ならではのリラックスとはニュアンスこそちがいますが、とっさに香るいかにも若い女性らしい、健康な色気と、着物ごしにほのかに見える両足のすっくと伸びた---長い両足を伸ばすと同時に、彼女は、きっと縮こまった心もいっしょに伸ばしたんです、そこが、特にたまらん!---艶姿の、それこそ唸りたくなるほどの美しさ。
僕には、このおふた方、共通した美学をもっていられたように見えるんです。
それは、決して力まず、居着かず、いかなる場合にも硬直しないという、一種のリラックスの美学です。
ある一定の高いゴールを目指して自分を追いこんでいく大学受験みたいなやり方じゃなくて、むしろ現在の自分を否定せず、欠点もクセもそのまままるごと肯定して、むりせず、かといって内心の怠け心におもねるわけでもなく、基本はあくまで無欲、そして、呼吸をつめず、ラクーな自然体のまま、現在の自分が流れたい方向にむけて自分をすーっと押しだしてやるの…。
まず目的設定がありきの文科省式が定着した現代とはまるでちがった行き方---結果重視型じゃなくて現在の自分をいちばん大事にするような---もしかしたら、こういう行き方を「粋」って呼んじゃってもいいのかもしれません。
かーっ、「粋(いき)」かあ、カッコいいよなぁ…!
粋っていうのは、本来、江戸の庶民が生んだ新生の「美学」でありました。
従って、戦国の世の武蔵は、そんな言葉のあること自体知らなかった、と思う。
それに、命がけの決闘を類を見ないほど体験して生き延びてきた武蔵の生きざまは、誰が見ても緊迫した殺気に満ちていて、「粋」なんて概念からはほど遠いよ、といわはる方も少からずいらっしゃるでせう。
たしかに、この絵にしても、武蔵の筆のタッチには、一筆一筆、数々の血煙をくぐって生きのびてきた、鋭い勘と思いきりのよさとが同時にこめられています。
それを、緊迫といえば、まあいえるのかもしれない。
しかし、それらの鋭い緊迫の筆先を最終的にコントロールしている、武蔵自身の内面は、僕は、案外凪いでいたように感じられるんですよ。
うん、決して修羅一辺倒のひとじゃない。
修羅像ってフツー緊迫してるじゃないですか。
でも、武蔵、瞬間的に筆先を紙面に滑らすときこそそれなりに緊迫してますが、それはほんの刹那、総合的に筆先を操っている器量において、力みはまったく見られず、むしろ、悠々と凪いでいる、全身からほどよく力を抜いて、決して息をつめず、肩の力も流れるように抜けきった美しい「自然体」の感じが、画面全体からゆっくりとこちらに香ってくるではないですか。
おふたかたのこの力みの抜けきった自然体のたたずまいは、僕を魅了します。
むーっ、た、たまらん…!
杉浦さんには、ほんと、名作が多いんですよ。
新潮からでてる怪談モノの「百物語」なんてそれこそ川端級の傑作揃いだし、さっき僕が取りあげた、ちくまからでてる「百日紅」なんて、さながら傑作の同窓会の如し。
僕が冒頭で誉めたのは「百日紅」のなかの「恋」って短編なんですが、おなじ「百日紅」内の「矢返し」って短編もこれまた凄いの。
惚れた男が実は実の兄であったというショーゲキの事実を知った町娘・お時は、北斎門下の善次郎に、自分の裸に蛇の彫り物をしてくれ、と頼みます。
しかし、善次郎は、お時のこの要望にあまり乗り気ではないのです。
傷心のお時は、要領を得ない善次郎を、郊外の待合宿に誘います。
で、善次郎が座を外したすきに、全裸になって善次郎を待っている。
驚く善次郎---彼は、お時を妹のように思っているんですね。
だから、普段は女ったらしの善次郎がこう、つい庇うような口ききになるんです。
----ナニ、おいらだってお時ちゃんに彫物なんざしてほしかねえや…。
----あたい、やっぱり掘るよ…。ここからコウ、ぐるっとね。ウロコは紫、目と舌は紅……(いいながら障子をあける。外は雨が降っている)
----お時ちゃん、悪い趣向だ。雨が…吹きこむよ……。
-----ちきしょう…。つめたくって気持ちいいや……。
そのラストのコマがこいつ----
なんも、いうことはありません…。
ていうか、このコマ見たら、いえる言葉なんてないですよ。
天才のフィナーレであり、天才ならではの見事な投げっぱなしだと思います。
善次郎とお時は、物語の雨のなかにぽつんと取り残されて、途方に暮れたまま物語は幕引きしちゃう。
たまらんなあ、これは。
濃ゆい「魔」の香りがつーんとしてる。
ありえんくらいにサディスティック---でも、きっと誰よりも優しい---。
杉浦日向子さんは、2005年の7月、47才で癌のため逝去されます。
最期に病院に入るとき、「ちょっと洋行にいってきます」と笑いながらいわれたそうです。
なんという達人ぶり---もー とことんカッコいいの!
男はかくありたいですねえ---杉浦さんは性別こそ女性でしたけど、性根はサムライだった、と僕は思います。
そのサムライぶりが、僕の意気地を限りなく吸いつけます。
嗚呼、ぜひ生前にいちどお逢いしたかった…。
お逢いして、その悠々とした「粋な」たたずまいの香りを近くでじかに嗅ぎたかった、と作品を読むたびに惜しんで悶え狂う、春先のちょっとアブない寄木細工のイーダちゃんなのでありました……。
----作品中の雨の音とともにfin.