イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その70☆ What is 伊勢神宮?(中)☆

2011-06-28 19:30:23 | 日猶同祖論入門、なんちって☆彡
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 ナマスカール、前回は伊勢神宮と秦氏の関わりについて、超・ザッパに駆け足語りしてみたイーダちゃんです。
 前回の続編たる今回のページ、本来ならもっと早めにあげたかったのですが、先月やった愛車の自損事故の処理と、ようやく3か月目に入った新仕事の疲労から体調を崩し、ややダウン状態に陥っていたため、上梓、遅れました---許されたし。(^.^;>
 さて---今回このページで僕が語りたく思っているのは、神道の象徴としての伊勢神宮と古代ユダヤとの血縁的な近似値について、なんですわ。
 まあ、こーゆーのはいくら抽象的に述べてても埒があかないんで、なるたけ具体的にいきませうね。
 題して、

1.古代ユダヤと日本の神社はこーんなに似てる!?

 論より証拠---下記2点の写真をご覧あれ。
 左下が、前ページでも解説した古代ユダヤの神サマを祀った「幕屋」、右下が、伊勢神宮の内宮を横手から見たところ---正面から内宮内部をフォトすることはあいにく禁じられているので、やむなく左脇・古殿地よりの撮影UPとなりましたが。

         

 あの---で、どうでせう?
 主観を押しつける気はないのですが、この両者、ちょっち似てません?
 部分部分というより、両者を成り立たせている、全体的な思想というか骨法が---僕的には、とても似ているように感られます。 
 右上の伊勢神宮の「内宮(ないくう)」の内部は、前述したように撮影を禁じられてはいるのですが、正面の皇大神宮南御門の白い垂れ幕ごしに、その内部を窺うことは可能です。当日に風が強かったりすると、垂れ幕が吹きあげられ、思いのほか内宮内部の情景が観察できたりもする。そうして、観察できた内宮の内部は、日本のほかの多くの神社と同様、敷地の内部に粒のそろった白い石が、整然と、美しく敷きつめられていました。(ちなみに、こちらの宮居に敷くお白石は、「お白石持ち」という行事で、領民によって奉献されたものだそうです) 
 写真によってその雰囲気を直接お伝えできないのが残念ですが、非常に清潔で神々しい「気」が満ちているのが全身で感じられるんです。
 厳かで、凛としてる、この空間のなかに居を占めていられるのは、一種非日常の歓びです。
 皮膚感覚的に、もう無条件に気持ちいいの---心が自然に凪いで、胸中も自然と涼やかになってきて…。
 こちらを訪れるたびに僕は、ああ、もっとこの空間のなかにいたい、といつも長居しちゃうんですよね。
 でも、それも無理ないかも---霊感のある知人にいわせると、伊勢神宮はパワースポットとしてはほとんど別格の場所だっていうんですよ。この清涼とした気配は特別、きれいすぎて真っ白に見えすぎて、なにがおはすかはよく分からないけど、有難い場所であることはまちがいないよ、なんて風にいってましたっけね。
 あと、左手の古代ユダヤの「幕屋」ね---このなかには、なんと参拝するひとが神をまえに身を清めるための洗盤があったというんです。
 さらには、これ、伝説の古代ユダヤのソロモン神殿のなかにもあったっていうんですよ。参拝するひとは、必ずこの洗盤にためてある水で、両手と口内を清めたんですって。
 なぬ、これってどっかで聴いたような話じゃないですか?
 日本の神社にはどこにいってもこの類いの「手水舎(てみずや)」があるから、そう聴いても、僕等はあまりびっくりもしませんが、神殿のなかにこんな施設があるのは、実は、日本と古代ユダヤだけなのです。
 そして、この移動神殿たる「幕屋」のなかに、ユダヤ民族の伝統である、あの三種の神器が祀られていた、と「旧約聖書」は記しておるのです。
 三種の神器?---ええ、古代ユダヤは、民族の宝として、自分たちの三種の神器をずっと保持しつづけていたのです
 その内容物としては、ヤハウェから預かったというモーセの「十戒石板」がまずひとつ---
 モーセの兄アロンが保持していたという「アロンの杖」が、もうひとつ---
 あと、エジプト脱出の際、飢えた砂漠のユダヤの民の頭上に神が降らせたという奇跡の食物マナ、それを収めたという「マナの壺」が、みっつめであって…。
 これら、三種の神器は、ヤハウェの指示によってつくられた「契約の箱」に収められていたのです。ハリウッド映画の「インディー・ジョーンズ」モノで一時騒がれたりもした、いわゆる「失われたアーク」というのは、コレのことなんです。
 参考までに「聖書」から、ヤハウェが「契約のアーク」作成の指示をだしてきたときの直々の内容を、ここに抜き書きしておきませう。

2.契約のアークと神輿の類似について

----アカシア材で箱を作りなさい。寸法は縦二・五アンマ、横一・五アンマ、高さ一・五アンマ。純金で内側も外側も覆い、周囲に金の飾り縁を作る。四つの金環を鋳造し、それを箱の四隅の脚に、すなわち箱の両側に二つずつ付ける。箱を担ぐために、アカシア材で棒を作り、それを金で覆い、箱の両側に付けた環に通す。この箱に、わたしが与える掟の板を納めなさい。
 次に、贖いの座を純金で作りなさい。寸法は、楯二・五アンマ、横一・五アンマとする。打ち出し作りで一対のケルビムを作り、贖いの座の両端、すなわち、一つを一方の端に、もう一つをほかの端に付けなさい。一対のケルビムを贖いの座の一部としてその両端に作る。一対のケルビム顔を贖いの座に向けて向い合い、翼を広げてそれを覆う。この贖いの座を箱の上に置いて蓋とし、その箱にわたしが与える掟の板を収める。わたしは掟の箱の上の一対のケルビムの間、すなわち贖いの座の上からあなたに臨み、わたしがイスラエルの人々に命じることをことごとくあなたに語る。(「出エジプト記」第25章10~22節より)

 細けえ! なんて細密で几帳面な指示でせう、ヤハウェ氏はたぶんA型ですね---。
 まるで親方が自分のとこの職人に、工事の具体的工程を指示してるみたいな内容じゃないですか。
 これだけ細かいマニュアルがあれば、現代の僕等でも「契約のアーク」のレプリカを作るくらいのことはやれそうです。
 そして、実際に、この聖書の記述通りに「アーク」の作成を試みた方は、やはりおられました---下の写真はその成果です。

                               

 如何です? へえ、とお思いになりません? 
 下に箱担ぎのための棒が二本あって、箱の頂きには羽根を広げた対のケルビムがあって……。
 勘のいい方なら、たぶん、このあたりでこう閃くんじゃないのかな?

----なんだ、コレ、日本の…神輿に、ちょい似てるんじゃない…?

 然り。「契約のアーク」というモノは、かようなまでに日本の神輿によく似ているのです。

 ま、参考までに、日本の標準的な神輿の写真もここにUPしておきませう。

            


 ちなみに上写真は、京都・八坂神社の神輿です---ねっ、どっからどう見ても似てるでしょ---?
 まず、金無垢であること、箱の下部に二本の担ぎ棒が据え付けられていること、そうして、箱の頂きに鳥の羽根細工!---日本の場合は「鳳凰」、ユダヤの場合は「ケルビム」であるという差異はありますが---おのおのの頂きにそれぞれ鳥の羽根の細工を弄してるというこの事実…。
 ここでひとつ、さらなる状況証拠的なエピソードをつけ加えるなら、ユダヤの「契約のアーク」も皆で担いで、騒ぎまくるためのものだったのですよ---日本の祭りとおんなじように。
 疑いをお持ちの方のために、おなじ旧約聖書から、その証拠部分を抜き書きしておきませう。

----イスラエルの人々はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛とラッパを吹き、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を奏でて、主の契約の箱を運びあげた。(「歴代記・上」第15章28節)

 なんと、これは完璧、ジャパニーズ神輿のまんまじゃありませんか!
 いや、実際には古代ユダヤのアークのほうが歴史的にはるかに古いから、ジャパニーズ神輿のほうが契約のアークに酷似している、というべきでせうか。
 いずれにしても、これは、並の類似じゃありませんや。
 世界広しといえども、大勢で騒ぎながら神サマの箱を担いでねり歩くのは、古代ユダヤと日本だけなのです!
 かつて、来日して京都の祇園祭りをはじめて間近で見た、かのエドモンド・ロスチャイルド(ヨーロッパの支配者ロスチャイルドは、スファラディ・ユダヤです。これについては、マイ・ブログ、徒然その55☆イエス・キリストとは誰だったのか?☆を参照あれ)は、群衆のあいだから神輿が現れるのを眼ににしたとたん、傍目からも分かるほど仰天し、絶句したそうです。
 でも、知識のあるユダヤ系だったら、当然そうなるだろうと思いますよ…。
 てゆうか、そうならなきゃ、むしろおかしい---だって、両者の類似は、はっきりいって、とても「似ている」なんてレベルじゃ表しきれませんもん。
 「ワッショイ、ワッショイ」という意味不明の、あの祭りのかけ声にしたって、これ、古代朝鮮語とヘブライ語とのチャンポンだとすれば、意味は容易に解けるのです。
 「ワッソイ、ワッソイ」は、古代朝鮮語で「きました、きました」の意味---。
 あと、「ソイヤー、ソイヤー」なんてかけ声もありますよね? あれ、「ソイヤー」になったのはわりと最近で、本来は「ワッソイヤー、ワッソイヤー」と発音してたそうなんです。そして、最期の「ヤー」を「ヤー(Yah)」と取るなら、これ、どうもヘブライ語で、絶対神ヤハウェを短縮形にした呼びかけの名のようなんですよ。
 すなわち、端的にいって、「神サマがやってきました、神サマがやってきました」という、意味なんですよ、アレは…。
 なぜ、古代朝鮮語が絡むかといえば、アッシリアに滅ぼされ、契約の箱と三種の神器と共に歴史から消失した、謎の十支族---イスラエル十支族とはすなわち秦氏のこと---が、シルクロードを通って、広大なアジアを東に東にと旅してきたからです。旅のとちゅうで朝鮮を経由したか、あるいはかの地に滞在したことがあったのだと解すれば、すべての筋は整然と通ってきます。
 
 さらに「幕屋」と「神宮」との強力類似の状況証拠をもうひとつ---。
 古代ユダヤのヤハウェの神って、雷神的キャラを多く持っている、大変おっかない神サマだったようでして…。
 自分を信じ、崇めてくれる古代ユダヤの民のうえに降臨するときも、契約のアークのある「幕屋」の上空には、常に「主」の雷雲がたちこめていたそうです。

----雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた。(「出エジプト記」第60章)

 そして、主の箱である「契約のアーク」を扱うにも厳密な規定があったようですね。
 
----神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない。彼らこそ、主の箱を担ぎ、永遠に主に仕えるために主によって選ばれた者である。(歴代記・上」第15章)

 イスラエルのユダヤ12支族のうちレビ人だけが、この「契約のアーク」を担ぐことが許されていた、というわけですか。
 この掟を破った者は悲惨です---ひとつしかない生命をたちまち召しとられしまいます。

----主はベト・シュメシュの人々を打たれた。主の箱の中をのぞいたからである。主は五万のうち七十人の民を打たれた。(「サムエル記・上」第5章)

 本質的に雷神なんですね---ヤハウェの神サマは。
 しかし、日本の神社のことを、ここでちょっと思ってみてください。
 神社には大抵締め縄が掛かっていて、それに白いジグザクの紙垂(カミシデ)が垂らされていますよね?
 で、そのうえには鈴のついた縄がさがっていて、参拝のひとがそれを揺らすとガラガラガラーッと鳴るじゃあないですか? ありゃあ、いったいなんの暗号なんざんしょ?
 物ごころがついたときからあまりに見慣れた風景すぎて、あえて意識したこともなかったんですが、この謎、古代ユダヤと絡めて考えると、案外簡単に解けたりするんですよね。
 神社上部の締め縄、あれは、主の栄光を表す雷神ヤハウェの雷雲---。
 そこからさがった白い紙垂は、ヤハウェの怒りである雷---。
 そして、参拝の際に鳴らされる鈴の音は、雷鳴、要するに、雷神ヤハウェの怒りの再現への試みだと解いたらどうでせう?
 ねっ、そうすると結構整然と暗号の解読ができるではないですか?---ええ、日本の神社は、やはり古代ヤダヤの「幕屋」をモデルに作られていたのですよ。
 神社の締め縄、紙垂、参拝の鈴の音---。
 そう、これらの象徴は、はるけくむかし、「幕屋」に降臨した主の栄光を、流れ着いたこの異国ニッポンにおいて、もういちど再現しようという、古代ユダヤの末裔たる渡来人・秦氏の、自らのアイデンティティと信仰とを賭けた、巨大な民族的試みだったのです……。

3.さらにアトランダムに日ユ同祖論証拠の列挙

 えーと、ページ冒頭にUPした灯篭のフォトをご覧あれ。
 これは、三重の伊勢神宮の「内宮(ないくう)」と「外宮(げくう)」とのあいだの道筋に建てられている、燈籠の写真です。
 で、問題なのは、右手の燈籠のアップの写真のほう---ここにカゴメ紋が刻まれてるでしょ?
 これ、ひょっとしてイスラエルの象徴である「ダビデの星」ではないですか---。
 現在もむかしも、これは、ユダヤの象徴であり、実際、現イスラエルの国旗には、このマークが誇らかに描かれています。

----なんだって、そんなモンが伊勢神宮の燈籠に刻まれてるのよ!?

 ねえ、考えれば考えるほど、これっておかしな話ですよ。
 残念ながら、現在はこの印、伊勢のすべての燈籠から消去されてしまったようですが、かつて、これらすべての燈籠に「ダビデの星」が刻みこまれていたことは、まぎれもない事実なんです。
 僕的にはコレ、伊勢神宮が、古代ユダヤの神殿「幕屋」の末裔である証拠として見ますが、あなた的にはどう取ります?
 単なる偶然? その可能性もないじゃないですが、うーん、これって偶然のひとことだけでかたずけちゃっていい問題なんですかねえ。
 日本の神社の象徴的存在である伊勢神宮では、この「ダビデの星(六芒星)」マークは撤去されちゃいましたが、ほかのあちこちの神社では、まだこのカゴメ紋が残されている場所は多多あるのです。
 たとえば、内宮と外宮双方の元伊勢である、丹後一宮の「籠(この)神社」---。
                
                            

 さらには右の石燈籠の屋根の部分をご注目ください。
 ここに16花弁の菊の紋が刻まれているのが見えるでせう? いうまでもなく、これは、我が国の皇室の紋章であって、それが伊勢神宮の700基の石燈籠に刻まれていることに関してはなんのふしぎもないのですが、これとまったく同形の、16花弁の菊の紋が、エルサレムのヘロデ門にも刻まれているといったら、あなた、それをどう思われます? 
 やはり、これも単なる偶然の一致にすぎないのでせうか---?

            

 いやいや、これほどの一致の連なりを「偶然」のひとことのみで片づけてしまうのは、いくらなんでも無理があるし、かえって傲慢な態度なんじゃないでせうかねえ? それよりも、古代ユダヤと日本とは、なんらかのかたちでの固い繋がりが過去においてあった、と解釈したほうがむしろ現実的であり、真摯かつ学問的な態度なのではないかなあ、とイーダちゃんは考えます。

 ええ、古代ユダヤと日本とのあいだに、尋常でない、強力な繋がりが過去においてあったことは、恐らくまちがいのない事実でありませう---。
 そう解釈するよりほかに、これら多数の圧倒的な状況証拠群を収めるべき手法はないように、僕なんかは思うのですが…。

4.付録:「ヤッホー」の解明

 山登りの折りに、はるかな山肌にむかって叫ぶ「ヤッホー」、なんとアレもユダヤ起源のようなんです。
 「イヤーホー」というのも、実は、神への祈りの言葉なんだそうですよ。
 ちなみに先ほど神輿のところで登場した、八坂神社の「ヤサカ」もヘブライ語の「ヤ(YA)ーサカ」なんだとか。

 まだまだ---奈良の「ナラ」は、ヘブライ語やアラム語、シリア語で「川」の意味。
 あと「柿本人麻呂」とかの「麻呂」---あれもアラム語で「閣下」「殿さま」のような敬称なんだとか。
 驚いた---探せば、まだまだいくらでもでてきそうじゃないですか。

 しかし、まあ今回もあんまり長くなりすぎたので、このへんでそろそろキーボードを収めたいと思います。こんなウルトラ長いのを読み通してくれたひとがいたなら、超・感謝! ありがとうねえ。(T0T;>

 次回はね---特に皇室とユダヤとの関わりについて、論を進めていきたいと考えております---(^^)☆
                 
 
 

徒然その69☆ What is 伊勢神宮?(上)☆

2011-06-13 21:05:11 | 日猶同祖論入門、なんちって☆彡
                       
                             <上写真・2004.3.11早朝.伊勢神宮「内宮」にて>


 ヘロー、温泉、音楽、神秘好きの、わたくし、不肖イーダちゃんと申します!
 先月の5月19日、あろうことか旅先の福島で自損事故をやってしまい、相棒である愛車が無残な廃車となり果ててしまったのですが、幸いなことに運転手たる僕自身はかすり傷ひとつ負うことがなく、これは、ひょっとして助手席のサンバイザーにくくりつけてあった、伊勢神宮のお守りのお蔭なのではないか、と思い---もっとも、全面的にそう信じてるわけではありませんので念のため---今回、伊勢神宮の特集を組んでみる気にあいなりました。
 実際、お守りの紐は、事故のショックでフロントまでちぎれ飛んでいたのですよ。
 もしや、護符として働いてくれたのではあるまいか、と考えるのは、これ、自然な人情の流れというものではないでせうか?
 ところで、古くなったお守り、役目を果たして壊れてしまったお守りっていうのは、神社に送り返すのが正しい対処法なんでっすってね。
 自分で捨てたりしちゃイカンそうなのです。
 ということでイーダちゃんは、いまさっき郵便局までいき、さんざん働いてくれたこのお守りさんを、深い感謝の意をこめて、伊勢の故郷の神宮さんに送り返してきたところです。
 今回はほんとにお世話さまでしたって---。m(_ _)m
 で、ひと息ついて、ひさびさPCなんてぱちぱちと打っていたら、そうだ、お伊勢さんに関する話を書いてみようかな、とふいに思いついたってわけ。 
 実は僕、伊勢神宮のマニアでありまして、何年かに一度かは、必ずこちらに訪れることにしてるんですよ。
 あ。いっときますけど、今回ここで僕が展開しようと思っているのは、ほとんどトンデモネタね---。
 月刊ムーの主筆である、敬愛する飛鳥昭雄先生の説を、僕なりに噛み砕いて敷衍させたもの、とでもいいますか---そういったわけであんまり独創性はないと思う---ただ、飛鳥先生の言説は、面白くて深くって凄いんだけど、唯一の欠点としてあんまり長すぎるんですよねー---飛鳥先生の伊勢神宮に関する考えを一応知ろうと思ったら、学研ムーブックスからでてる先生の著書を、最低10冊以上は読まなきゃいけない!
 まったくの門外漢に、このハードルはかなり高めなんじゃないか、と僕は以前から憂慮していたんです。
 ですので、まあ、完全な受け売り紹介ページとなりそうなんですが、先生の言説の方向性をざっと紹介することだけでもそれなりの意味はあるのかもしれないと思い、以下のページをはじめさせていただきたい所存です。
 伊勢神宮とは---いいや、正式にいうなら「神宮」ですね。数ある神社のうち、伊勢神宮は最高の格式ですから、正式には「神宮」だけでいいのです---いったい何なのか? 誰が、なんのために建てたのか? そして、伊勢神宮の最終的な使命とは---?
 それでは、神宮のお守りが機縁になって生まれたこのページ、あなた好みの幻想を自分内の脳髄に花びらのように豪奢にちりばめて、どうぞごゆるりとご賞味ください---。(^.-)y


1.「旅する神社」伊勢神宮

 伊勢神宮を一言で形容するなら「旅する神社」というあたりが適当でせうか。
 こんなにも移動しつづける神社なんて、まるで聴いたことがありません。
 伊勢神宮の最古の記述は「日本書紀」のなかに見つけられます。それによると、むかしもむかし、ほとんど神世の時代ですね---第10代崇神天皇の御世に、国内で疫病が大流行して、深刻な政情不安がおこり、そのときに天照大神(アマテラスオオモカミ)と倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)、このふたりの神を皇居内に祀ったのが、そもそものことのはじまりなんだそうです。
 けれども、政情不安は一向に収まらず、なにより天照大神の霊力が強すぎてさわりがあるというので、倭国---いまでいう奈良盆地のあたりですね---の「笠縫邑」に堅固な神社を建て、天照大神の御神体を祀ったそうです。これが、いわば伊勢神宮の原点なのだということなんです。
 しかし、荒ぶる天照大神の御霊はそれでもおさまらず、やむなく丹波国に新たなる「吉佐宮」を建立したものの、政情不安は募る一方、で、再び倭国にもどってきて「伊豆加志本宮」を建立、それから南下して今度は「奈久佐浜宮」、次に西方面・吉備国の「名方浜宮」建立、そうして倭国にまた回帰して「御室嶺上宮」を建立---このあいだ、わずか21年しかたっていないというのですから、恐るべき速度の巡礼です。
 しかも、お伊勢さまの巡礼は、この程度じゃまだ収まりません。
 次の第11代垂仁天皇のときには、大和の「宇太秋宮」から「佐佐波多宮」へ、さらには伊賀から淡海、美濃から尾張、伊勢国、鈴鹿国をぐるぐると遍歴、そうして、再び伊勢の国にもどってきます。
 その巡礼箇所---なんと27か処! 現在、これらの地は、すべて「元伊勢」という名で呼ばれています。
 その巡礼の足跡を、ちょっと図にしてたどりなおしてみませうか。

                        

 いやはや、これは、凄い旅ですよ---!
 交通機関の行きとどかない当時のことですから---道のない場所、獣道みたいな危険な道程も山ほどあったことでせう、文明の行きとどいたいまの旅とじゃ比較にならないほど危険で困難な道のりだったと思います。
 しかも、個人じゃない、神社の社を建てながら次々と移動するわけですからね---宮大工、人夫、その家族、神職者、官僚、料理人や女官の集団、いずれにしても並大抵の財力じゃやっていけなかったことと思います。財力だけじゃない、異常な覚悟とよっぽど深い決意とがなくっちゃ、こんな壮大な旅は打てませんよ。
 最終逢着地である伊勢に回帰してからもそのなかで何度か転々とし、ようやく現在の伊勢神宮の場所にきたとき、この壮大な旅は終わりをつげたかに見えました。

----常世の浪の重浪帰する国なり。傍国のうまし国なり。この国にをらむと思う…。(天照大神)

 けれども、これほどの遍歴を経て、ようやく五十鈴川のほとりに安住の地を得たというのに、いまから1300年まえ、第40代天武天皇の御世に、天皇御自身の勅命により、伊勢神宮にまたもや「式年遷宮」がはじまります。
 「式年遷宮」とは、20年ごとに神社の社殿を移す大行事のことです。
 伊勢神宮とは、内宮に天照大神、外宮に豊受大神を祀っている、日本最高の神社です。これらのほかにも別宮や摂社、所管所等を含めると、125もの社から成っている、いわば神社の都市みたいな場所でもあるんでよよ。
 その都市の建物すべてが、この20年に1度の式年遷宮で、すべてが新築され、神社内の別の敷地に移動するのです。
 第1回目の式年遷宮は、690年、第41代持統天皇の御世に行われました。
 いわば、律令政治のスタートと同時に、現代人の感覚からすると、なんとも無駄で神秘的な、この「式年遷宮」がはじまったというわけなんです。
 戦乱などで一時中断したこともありますが、基本的にこの20年に1度の遷宮はコンスタントに着実につづき、なんと、現代にまで至ります。
 ええ、いまもこの行事、現在進行形で脈々とつづいいておるのですよ!
 ということは---お伊勢さんって、いまもって旅をつづけておられるってことではないですか---律令政治以前の元伊勢巡礼のあのころと同様に。
 これって、ねえ、ちょいと凄くありません?
 僕は、個人的に、この伝統はもの凄いと思う。
 前回の式年遷宮は、1993年のことでした---したがって、今度の第62回目の式年遷宮は 2013年の予定---つまりは再来年、平成の25年ですか---そういえば前回、僕が訪れたとき、内宮の神楽殿で式年遷宮の寄付を受けつけているのを見ましたよ。

----しかし、冷静に考えてみますと、このお伊勢さんの旅への情熱は、いささか常軌を逸したモノがあると思いませんか?

 僕は、ええ、完全に、常軌を逸していると思います。
 だって、国庫への出費は超・莫大ですよ。
 なのに、伊勢神宮は、いまに至るまで1000年以上もこの行事を担い、ひたすら運びつづけてきたのです。
 何故、そうまでして---?
 こういう発想が、ここで湧いてこなくちゃ、むしろおかしいのではないでせうか?
 そう、ここに至ってようやく「式年遷宮」への疑問符がほの見えてくるワケなのですよ---だって、ふしぎですもん---言葉のまんまの素直な意味で。
 世の中の学問研究が、こうした経路を辿らないことのほうが、むしろふしぎのことなのでは?
 ええ、伊勢神宮の「式年遷宮」には、それなりの強力な「動機」が絶対なくちゃいけない---。
 しかし、どうやってそれを調べたものか……?
 飛鳥先生の非凡なところは、ここで、伊勢神宮の建設者について思いを寄せたところでせう。
 ええ、初代の倭国の「笠縫邑」を、先生はお調べになったのです---。
 
 「日本書紀」に記述された「笠縫邑(かさぬいむら)」がどこだったかは、学問的にも諸説があり、限定は難しいのですが、ただ、現在の近鉄電車の「笠縫駅」近郊に「秦楽寺(じんらくじ)」という寺があり、その敷地内に「笠縫神社」という小さな祠が、摂社のようなかたちでいまも残っているというのです。
 そして、「秦楽寺」を建てたのは、どうやらあの秦氏(はたし)だったようだ、という状況証拠があがってきます。
 ええ、日本古代史を研究するひとが必ず突きあたる、あの謎の渡来豪族・秦氏です。
 「笠縫邑」だけでは限定は難しいものの、元伊勢の多くの神社が秦氏関連で建てられたらしいことが、最近ようやくわかってきたのです。
 ふむ、では、その「秦氏」とやらは、いったい何者なのか---?


上図:「内宮(ないくう)」隣りの式年遷宮予定地---。「覆屋」と呼ばれる小屋が建っているのは、「内宮」のほぼ中心部に祀ってあるという「心御柱(しんのみはしら)」の位置を示すため。 次回の「式年遷宮」のときには、この「心御柱」の位置にあわせて「内宮」及びすべての社殿が建てられる。右手写真、木の根元にいるのは鹿。
2004年撮影---。



2.「秦氏」とは誰だったのか?

 この問いがいかに難問なのかは、日本古代史をちょっとでも齧ったことのある人間なら、誰でも推察可能なことかと思います。
 秦氏---それは、それほど謎の一族なのです。
 秦氏は、非常に優れたテクノロジーと莫大な富をもった、渡来人の一大勢力でした。
 毎年のように氾濫して、莫大な被害を与えつづけていた京都・山瀬の鴨川---いままで誰がどうやってもどうにもならなかったこの難関工事を受けもち---もちまえの最先端の技術を駆使した大規模な治水工事を行って、ついには鴨川の流れを変えてしまい、危険な川でなくしてしまったのが、彼等・秦氏でありました。
 「794坊さん平安京」の平安京建都のために、資本・設計・施工の全分野で動いたのも、ほかならぬ彼等・秦氏です。
 実際、長いこと天皇の居住されていた、あの京都御所は、元はといえば、秦河勝の個人邸宅だったのですよ。
 古代の戸籍を見れば、渡来後の秦氏が繁栄を遂げ、それぞれ性を変え、全国に散っていった様子を追うことができます。
 秦、畑、波多、端、羽田、八田……これらは皆、秦氏源流の名前です。さらに秦野、畠山、畑中、八幡なども秦氏系列の名---さらには、林、長田、小松、高橋、神保、さらには九州・薩摩の島津氏なども秦氏源流の姓名だそうです。忍術で有名な伊賀の服部氏も、さらにさらに能の世阿弥、陰陽師で有名な芦屋道満なども秦氏の直系の子孫だといいます。
 要するに、古代における超エリート集団といったところでせうか---。
 しかし、古代史の超実力者・藤原氏などと比較すると、秦氏は、その存在がずいぶん蔭になっているきらいがあると思いませんか? というのも、これほどの破格な勢力があったにもかかわらず、秦氏は、有名な政治家を一族のなかからそれほど輩出してはいないからです。藝術、著述、建築方面などではあれほどの人材を輩出してるくせに。
 それは、ちょっと不自然なくらいの、歴史の蔭への籠り方、といってしまってもいいかもしれません。
 これほどの富と知力があったなら、あの藤原不比等なんかともタメを張れたのではないかな、と僕なんかは思っちゃう。
 しかし、秦氏は、それをやってない---というか、<あえて>そうするのを避けたのではないか、と見るのが、サイエンス・エンターテイナーであるところの飛鳥先生の視点です。
 この視点は、僕は、とても面白いと思う。
 なるほど、秦氏は、あえて有名になることを避けていたのかもしれない、というのは、非常に筋の通った仮説ではないですか。
 そう読むと---秦氏のこれまでの歴史的な身の処し方の理由も、すべて呑みこめてくる---。

----うーん、でも、なんのためにそんな超謙虚な身の処し方をしなければならなかったんですかね?

 すると、飛鳥先生が、びっくりするような返答をするわけ。

----それは、秦氏が、何をさしおいても守りたいものをもっていたからですよ。いわば、秦氏の民族的アイデンティティ。それを守りたいがゆえに、すべての行動を取っていたんです。そう取れば辻褄があうでせう? 要するに、自らの繁栄より重要な目的が、彼等にはあったんですよ。

----自分たちの繁栄より重要な目的…? 解せないな、なんですか、それは…?

 ここで、飛鳥先生、悪戯っぽく、にかっと笑ってみせて、

----それはね、信仰なんです…。

----信仰…?

----そう、信仰以外ないでせうね…。

                       
                          上図:宇治橋より眺めた五十鈴川の清流。2004.3.11早朝撮影。


3.秦氏はユダヤ人景教徒だった!?

 明治41年に、東京文理科大学の学長・佐伯好郎博士が、「太秦(うずまさ)を論ず」という論文を学会誌に発表しました。
 この論文の中身がぶっトンでる---なんと、博士は、謎の渡来人・秦氏の正体を、ユダヤ人景教徒だと断じているんです!
 景教っていうのは、ええ、世界史で習いましたよね?---ヨーロッパでキリスト教信仰が普及する以前、主に東洋で広まった原始キリスト教のことです---。
 フツーの感覚では「えっ!?」ですよね。僕等の感覚では、キリスト教の日本伝来は「1549広まるキリスト教」とあるように、ずーっと後世の近世ごろの舶来イメージなんですから。
 でも、それは、あくまでカトリック教会がもちこんできたヨーロッパのキリスト教であって、この佐伯博士のいってる原始キリスト教とはまったくの別モノなんです。
 カトリックは、あの325年の宗教会議「ニケーア公会議」で生き残った、あの「アタナシタウス派キリスト教」の系列であり、分派なんです---これは、三位一体の教義をもち、主に後世のヨーロッパなんかで広まったキリスト教の宗派のことです。僕等の知ってるキリスト教っていうのは、実は、こっちサイドのキリスト教オンリーなんですね。
 ところが、佐伯博士がここでいっているキリスト教はちがう---それは451年の「カルケドン公会議」で異端として教会から追放された、ネストリウス派キリスト教のことなんですね。
 教会から追放されたネストリウス派は、シリア教会と合流し、やがて東方へ---シリアやイラン、印度へと布教の方向を見出していきます。やがて、その教えは中国まで達し、皇帝はそれを「光り輝く教え」という意味で「景教」と呼び、中国国内への布教を正式に認めたそうです。
 それが、638年のこと---ほう、ちょうど日本の「大化の改新」あたりの出来事じゃありませんか。
 ただ、これはあくまで中国政府が正式に布教を認めたエポックとしての年であって、それ以前から「景教」は、色々な国のさまざまな層に---貴族から民衆まで---我々が思っているよりもはるかに広く、そして深く、浸透していたにちがいない、というのが最近のアカデミックな視点なんですね。
 先日発見された法隆寺の「聖徳太子の地球儀」じゃないですけど、聖徳太子の家庭教師のひとりが景教徒のペルシャ人だったのではないかという説は、あの「隠された十字架」の梅原猛先生も提言してられたように思います。
 僕がこういうと、

----馬鹿な。日本人は単一民族じゃないか。ユダヤ人なんかと関係あるわけないじゃないか。

 といった対応が必ず出てくるものと思います。
 けれども、その単純な「単一民族信仰」こそ迷信じゃないのかなあ?---と、いまの僕なら自信をもっていいきれちゃう。
 僕の少年時代にはまだ根深かったあの「日本人単一民族信仰」---あれが、戦時における国家体制が強いた、政治的な、イデオロギー的な思想の残滓だったということが、遺伝子研究の進んだこのごろ、明確にわかってきました。
 証拠だって腐るほどありますよ---先住民族のアイヌでせう、琉球でせう、それに最近の遺伝子研究。
 ええ、「単一民族思想」は、学問じゃなくてイデオロギーだったのですよ。
 でも、少しでもまじめに世界史をかじったことのあるひとなら、このような結果は自明でしたろうねえ。「単一民族国家」なんて思考実験みたいな純粋培養の国が、そもそもこの世に実在できるはずがありませんもの!
 日本列島は、ほかの圧倒的多数の国々と同様、さまざまな人種がやってきて住んでいた、多民族国家でありました。
 秦氏も多数訪れた、渡来人の派閥のひとつでした。
 ただ、秦氏においては、渡来人の移民集団のなかでも、破格に大人数で、巨大な富と技術をもった集団であったということが、いまにも残る多くの資料から推察することができます。
 佐伯博士の学説を独自に敷衍させた飛鳥先生は、この秦氏がユダヤ人景教徒である、と断言します。
 いや、さらにそのさきまで進んで---彼等・秦氏は、紀元132年、信仰を守るために古代ローマ帝国と争って破れた、古代ユダヤのエルサレム教団の末裔ではないか、とまでいうのです---!
 正直いって、最初にこの説を聴いたときには、僕も多少引きました。
 あまりにも世に出まわっている定説とちがいすぎてましたから。
 しかしながら、飛鳥先生の論述を追うごとに、その理性的な語り口にだんだん説得されていく自分を感じないでもいれませんでした。
 なにより強力な状況証拠がありすぎるんですよ---この飛鳥流の日ユ同祖論のアングルからいわせれば!

 その1として、秦氏が建設した「平安京」について---。
 試しに「平安京」をヘブライ語に訳すと、平安は「シャローム」、京は都だから「エル」、つづけると「エル・シャローム」となって、なんと、これ、古代ユダヤの首都の「エルサレム」そのものの読みじゃないですか---。
 
 その2として、京都の秦氏の根城であった地「太秦(うずまさ)」について---。
 「太秦」と書いて、なぜ「うずまさ」と読むのか?
 これは、長いこと---いや、いまに至るまで謎のままの事象です。実際、「太秦」をなぜ「うずまさ」と読むようになったのか、これまでどんな歴史学者も解明したことがありません。
 「太秦」に近い「大秦」というコトバなら、これは、まだ手がかりはあります。
 これは中国語で、ズバリ古代ローマ帝国のことを意味します。
 もし、秦氏の源流が古代ユダヤのエルサレム教団なら、以前属していた国家の中国風の呼び名を、自らのアイデンティティを示すための外向きの屋号として使用していた理由は概ね理解できますよね?
 でも、その読みの「うずまさ」ってなんなのさ?
 当テーマに関する飛鳥先生の名解釈を聴きませう。

----第6章のヘレニストの分裂のところで紹介したように、イエス・キリストや12使徒、マリア、そしてイエスの兄弟など、エルサレム教団が日常的に使っていた言語は「アラム語」である。…(中略)…イエスが十字架上で、『旧約聖書』の一節「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」を読んだのも、御父なる神に対して叫んだ「アッパ(父よ)」も、みなアラム語である。
 では、このエルサレム教団が使っていたアラム語で「イエス・キリスト」のことをなんというだろうか。ここがポイントだ。
 アラム語でイエス・キリストは「イシュ・メシャ(Ishu Messiah)」と発音する。ところが、だ。アラム語は、メソポタミアからオリエント一帯で広く使われていた言葉であるため、地方による訛りが非常に強い。東のほうへ行くと「イズ・マシ(Izu Maeikha)」とか、「イザ・マサ」などと発音される。
 賢明な方は、もうお気づきだろう。これが、「ウズマサ」である!
                                                 (飛鳥昭雄『失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎』学研ムーブックスより)

 うーむ、ちょっと呻っちゃいますねえ…。こいつは面白い---。
 先生の細かい論述のポイントだけを挙げてズバズバ進んでいくから、必然的に語り口が香具師じみてきちゃってるんですが、飛鳥先生がおっしゃられているように、賢明な方は、僕のこんなザッパな論述のなかにも、一抹なりの真実を見つけて、「!」とのけぞってほしいと思います。

 その3として、秦氏がユダヤ人景教徒だったとするなら、神社の建設の意味あいが、徐々ににわかってくるんですよ---。
 ユダヤ人原始キリスト教徒というのは、実は、ユダヤ教のことなんですね。イエス自身にしても、彼的にはユダヤ教の預言者のつもりであって、新しい宗教をはじめてるつもりはまったくなかったらしいのです。
 ユダヤ教といえば、ヤハウェから授かった十戒石板、あと、それを収めるための主自身が設計して創らせたあの棺---ハリウッド映画「レイダース」なんかでも取りあげられた「失われたアーク」あたりが有名ですね。
 紀元前13世紀、エジプトの奴隷生活から脱出した古代ユダヤ人は、絶対神ヤハウェから直接、神殿を作るよう命じられます。
 当時、ユダヤ人は大預言者モーセに率いられて砂漠を旅しているとちゅうでしたから、作れる神殿といえば、それは、移動式の神殿でしかなかった。周りを厚い布で覆っていたことから、その神殿はいつしか「幕屋」と呼ばれるようになりました。
 この「幕屋」を描いたイラストをひとつ参考までにUPしておきませう---このシンプルで虚飾のないスタイル!---ねえ、この美学は、日本の神社にいささかなりとも通じるところがあるとハッとなりませんか!?

                               

 僕あ、正直ハッとなったな…。
 理性じゃなくって、ストレートに感覚にきた。
 だって、これ、まごうかたなきジャパニーズ神社のスタイルだもの---偶像崇拝を禁じてる部分まで完璧一緒だし…。

 僕が飛鳥先生の説を本気になって追っかけはじめたのは、この「幕屋」のイラストを見たときからでした。
 間違いなく、日本の神社の前身は、この古代ユダヤの神殿「幕屋」だと思った---。
 そう思っていったん受けとめてみるなら、僕がこのページの冒頭部分に書いておいた、伊勢神宮の「式年遷宮」についての謎にもいくらかは近づけるのではないでせうか?
 ユダヤの神殿「幕屋」は---ええ、はるけくむかし、砂漠を旅する民のための---移動式の神殿だったのですよ。
 ひとつところにいちばん長くいたのが20年だったと「旧約聖書」には記述されておりまする。
 だとすると、伊勢神宮の「式年遷宮」の20年周期とも、これは一致してくる…。

----なんと、伊勢神宮は、絶対神ヤハウェのための神殿として建てられたものなのかもしれません…。

 かっ飛びすぎてる? うーむ、僕もちっとはそう思う。
 しかし、完璧な、100パーセントの間違いだとは、どーしても思えない。
 いくらかの真実が、必ずやこの言説のどこかに混じっているものと考えています。
 しかし、あまりにも大急ぎでザッパに飛ばしすぎたので、今日の飛鳥説紹介は、このあたりまでにしておきませう---お休みなさい---。(^.-)y☆(次号につづく)

                       
参考文献◆飛鳥昭雄「失われた原始キリスト教徒『秦氏』の謎」「失われたイスラエル10支族『神武天皇』の謎」「失われたイエス・キリスト『天照大神』の謎」「失われたカッバーラ『陰陽道』の謎」(学研ムーブックス)◆宇野正美「古代ユダヤの刻印」(日本文芸社)◆神宮司庁「伊勢神宮」(伊勢神宮崇敬会)◆アーサー・ケストラー「ユダヤ人とは誰か?-第13支族カザール王国の謎-」(三交社)◆久保有政「日本の中のユダヤ文化」(学研ムーブックス)◆ケン・ジョセフ「隠された十字架の国・日本」(徳間書店)ほか◆






 
 

 
 

徒然その68☆大塩温泉露天風呂にて--至福の混浴と愛車クラッシュ(下)☆

2011-06-02 20:03:47 | ☆湯けむりほわわん温泉紀行☆
                              

 2011年5月19日、金山町での14:15のイーダちゃんの自損事故の原因は、いわゆる脇見運転ってやつだったと思います。
 ほんの一瞬心が空白になって、

----あっ。歩道近ぇ。ヤベ!

 と思ったときには、もうコンクリートの路側帯に車体は突っこんで、乗りあげてました。
 ブレーキ踏む暇も、ハンドル切る余裕もまったくなかった。
 
 ヤベ! ガガガッ---停止。(このあいだ、せいぜい2秒程度)

 というのが、もっともリアルな表現かと思います。
 ブレーキを踏まないでも停止できたのは、クルマ自体がコンクリートの路側帯に乗りあげて、両輪が地面に触れていなかったのがどうも原因のようです。要するに「偶然」---ええ、ひたすらに運の力なのでした。
 そのへんは、あとからきたおまわりさんとJAFの隊員さんとかが口を揃えていってられました。

----いや~ あなた、運、いいよー。フツーだったら、石に乗りあげた時点でクルマ横転してるって……。

 最初に突っこんだ路側帯のコンクリート部分は、固定されたアスファルトから見事に吹っとんでました。
 100キロはあるだろうに、恐るべき衝撃! ここにひとがいなくてよかった、と何気に膝が笑います。
 オイルがどくどくクルマの下からこぼれてる…。
 ミッション・オイルも漏れてるよう、あと、見直してみると、どうもエアバッグもひらいてました。ひらいた瞬間とかショックとかまるで覚えてはないんだけど。
 近くにガス・スタンドがたまたまあって、そこの店員さんも助けにきてくれてました。
 
----いやー だめだねー、これは…。マフラーも左の前輪も外れちゃってる。業界ではね、エアバッグひらいたら廃車って鉄則があるんだよ。でも、まあ、ひとさまの家に突っこんだり、誰かを傷つけたりしたんじゃないから、これはよしとしなくちゃ……。

 たしかに、あと30cmあまりで、ひとさまの家にアタマから突っこむとこだったのです。
 なんの因果か、その寸前で停まったってわけで---誰も傷つけず、自分もかすり傷ひとつなく事故から抜けだせたっていうのは、これは、僥倖なのかもしれないなあ、と思ってもみます。
 ただ、瞬間の衝撃のせいか、アタマがあまりまわらない感じなのです。

                         

 かろうじて110番してみます---近所の方々に現場のアドなんか教わりつつ。
 あと、保険会社、JAFなんかにも電話して…。
 地元の警察署のネオン表示板の、本日の事故○件、死亡事故○件という表示がふと思いだされました。
 あの、ヤベ! ガガガッ---で、次の瞬間、ガーンと天国へいっちゃったひとというのも、実は、相当数いるんだろうなあ、と思ってもみたり。
 だって、マジ一瞬でしたもんね。あれで電柱にぶつかったりしてたら、死んだの、たぶん分からんですよ。
 寺尾玲子さんの登場するHONKOWAの漫画「まゆりのショック・レポート」のなかでは、事故の死者というものは、自分の死んだ事実が呑みこめず、何年も現場近辺で大抵は自縛霊やってるもんだというんですが、その説も、な~るほど、分かる、といった心境ですねえ。
 警察に調書を取られているあいだ、現場の細かい住所とかを教えてくれた近所の方々に、とりあえず缶コーヒーを買ってささやかなお礼をさしていただきました。
 特に、いちばん親切に、事故後あれこれと心配してくれたのが、なんと、すんでのところで僕が突っこみそうになったお家の方々だった、という事実にはちょいとまいった。だって、客観的にいって、僕はすんでのところで停止できたものの、ほとんど加害者スレスレの人間ですよ。要するに大変迷惑な男であるはずなのに、あの親切……あれは、ちょっと忘れられません。(あとで地元の菓子を贈らさせていただきました。<(_ _)>)

 しかし、帰路は、なっかなか大変でした---。
 福島の金山町って交通機関がクルマのほかはほとんどないんですよ---只見線は1日に3本っきり。
 JAFのお兄さんにクルマ屋さんまで送ってもらって、保険屋さんと電話してたら、あっというまに金山町は夕方の気配。
 僕は、前日、栃木の那須高原の北温泉に宿をとって荷物を残してあったんですが、電車の本数は相当数少なく、その日のうちに栃木の宿に帰還するのは、どうあがいてもむりのようでした。
 で、往生してたら、なんと、僕と僕の愛車をここのクリマ屋さんまで引っぱってきてくれたこのJAFの兄ちゃん、これから仕事明けたら10km離れた会津若松までプライベートで出るんだけど、よかったらお客さんも乗っけてってあげる、なんて泣けることをいってくれるんですよ。
 申し訳ないけど、その御好意に甘えることにいたしました。
 会津若松まで送ってもらいました。
 Wさん---あのときはホントに有難う---超・助かりましたっ! m(_ _)m
 ただ、今回の地震の関係で、会津若松のホテルの部屋は、避難民の方々で、すべてふさがってました。
 レンタカーの空きもゼロ。
 仕方がないので電話で検索しつづけて、その夜は、やっと見つけたラブホの1室に宿泊しました。
 フヘー、ですよ…。超・疲れた。
 80キロで石ガードに突っこんでもかすり傷ひとつ負わなかったというのに、ラブホの風呂からあがるときに滑って転んで左の薬指をなぜか突き指しちゃったり……。泥のように眠りましたよ、この夜は。(^.^;> 

 実は、イーダちゃんは、今回、マイ・ガイガーカウンターをもって福嶋各地の有名温泉を回り、放射能被害なんてぜんぜんないよ! どこの温泉も安全、福嶋原発の事故というのがそもそも国家ぐるみのフェィクなんだから、福嶋のひとは安心していいんですよー といいたいがための企画をひそかに暖めていたんですが、愛車の事故でそのプロジェクト自体は頓挫しちゃいましたね---残念ながら。
 そういうわけで北海道一周、ほかにも秋田・山形への旅、熊野・白浜への旅、さらには石見・鳥取・島根の旅にも付きあってくれた、イーダちゃんの長らくのバディ・キャパさんは、12万キロまで走行した時点で、その生涯を終えたのでありました。
 嗚呼、ホント、いろいろありがとな、おまえのことは忘れないよ、合掌---!(ToT)

 お。付録として、今回いったあちこちの温泉の、放射線量を測定したフォトをいろいろUPしておきませうね。

                      
  ◆上図:2011/5/19「福島県金山町大塩温泉」            ◆上図:2011/5/20「栃木県那須高原北温泉源泉地」
   0.13マイクロシーベルト                           0.15マイクロシーベルト
   0.13×24×365=1138.8マイクロシーベルト               0.15×24×365=1314マイクロシーベルト
   =1.14ミリシーベルト(年)                         =1.31ミリシーベルト(年)
   横浜となんも変わらんです。超・安全圏じゃん。どこがレベル7!?   美しい北温泉の源泉。ここも横浜と一緒レベル。        

             
      ◆上図:2011/5/20「会津若松駅前」AM07:20
       0.23マイクロシーベルト 0.23×24×365=2.02ミリシーベルト(年)
       大沼郡の只見川近郊よりはじゃっかん高し。が、どーこーいうレベルの放射線量じゃないことは自明。
       少なくとも「レベル7」の原発事故をやった県の放射線量じゃないことは明白。
       レベル7ならこのへんのひと、もうみんな死んでるって…。

 ----ま、それはさておき、今回の事故に関しましては、福島県民の方々に大変お世話になりました。
 事故ってクルマごと突っこみそうになったというのにあれこれ心配してくれたO家の人々、
 あるいは仕事明けなのに見ず知らずの僕なんかを自家用車で会津若松まで送ってくれたクルマ屋のWさん、
 さらには荷物を2日間置きっぱにしてたというのに、事情を話したら1泊分の料金に負けてくれた「北温泉」のおカミさん、
 本当に今回は有難うございました---この場を借りてせめてもの謝意を表したいと思うイーダちゃんなのでした。m(_ _)m



     後日譚☆5日後の5/25、レンタカー借りて、金山町のクルマ屋さんにビールもってクルマ内の荷物取りにいったら、
     大塩温泉の「たつみ荘」のご主人が顔出せっていってたよ、とのこと。
     「?」と思いつついってみると、クルマ屋さんから話聴いて、ご主人とおカミさん、心配してたっていうんです。
     あーん、有難いなあ!(ToT) けど、もうひとつ怖い話も聴いちゃった。それは、僕の事故った翌日の20日、
     やはり常連客のひとりが同じ道で事故って廃車になったというんです。
     こわー! 大塩温泉露天風呂とは、湯浴み客の運転技術をくたくたにするほど効くお湯なのか!?
     これは、検証する価値あるやもしれませんね---?(^^;V