イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その120☆飛鳥逍遙☆

2012-10-10 23:11:46 | ☆パワースポット探訪☆
                    


 飛鳥、好きです---。
 というか、日本人でここが嫌いなひとって、果たしているのかな?
 僕は、飛鳥っていうのは、日本人全体の心象の底にある原風景みたいな土地なんじゃないか、と思ってるんですけど。
 そう、飛鳥って、たぶん、僕等・日本人全体の心の故郷なんですよ。
 よりどころ、というか、最終的な着地地点とでもいうべき場所。
 だから、心の計測器の針が、<好き・嫌い>のどっちにぶれても、感情のしこりが<帰りたい・帰りたくない>のどっちによろけても、そういった表層的事象はあんまりカンケーないんです。
 だって、否定しようが肯定しようが、結局のところ、故郷は故郷なんですから---。
 その事実ばかりは動かしようがない、その心の“カントリー”飛鳥が好きで好きで、イーダちゃんは近畿系の温泉場にいく際には、必ずこの地に立ち寄っていたんですね。
 近場の駐車場にクルマを停めて、駅前のレンタサイクル「万葉」さんでママチャリを借りて、3、4時間、母なる地・飛鳥を放浪するのが、ほとんど近畿温泉行につきものの日課のようになっちゃってて。
 そう、総計、3、4回にわたって、訪れたんじゃないのかなあ。
 このレポートは、そのようなイーダちゃんの小さな逍遥の記録なんです---。

 一等最初に、飛鳥ってねえ、やっぱりふしぎな土地なんですよ。
 なにがふしぎなのか?
 まず、名前ですね---なぜ、飛ぶ鳥と書いてアスカと読むのか?
 別の字で「明日香」と書いてアスカと読ませるパターンもあって、こっちのほうも耳にふしぎに響きます。
 なんとなくエキゾチックな異国の香り、でも、和風のシンプルさもたしかに少々含んでいる---みたいな、超ビミョーなアルカイックなニュアンスがほのかに感じられるっていうか。
 そうして、誰がこのような呼び名をこの地につけたのか、そのへんの事情が、いまもって誰にも分かっていないってところが、なんとも奥深くって面白い。
 ええ、歴史学者も、考古学者も、チンプンカンプン---ほんと、誰ひとり分かってないんですわ、これが。
 学問なんて、そのへんの事情を考慮すると、あんま大したことないって思えてきますねえ。
 飛鳥関連のいろんな発言で、僕がいままででいちばん面白いと思ったのは、実は、あの「ノストラダムスの大予言」の五島勉さんによるものでした。
 純粋な学問畑とはまったくべつの、いくらかウサン臭い、ジャーナリズムの世界にいたひとですが。
 彼、あの神経質そうな容貌のわりに、どんな香具師もやれないような超・大胆なウルトラ仮説を、自信たっぷりにポンポン述べて、そのまま知らん顔して去っていく、という荒業を平気でカマスような大胆マンなんですよ。
 その彼が、たしか70年代の後期に、祥伝社の NON Book ってとこから「幻の超古代帝国アスカ」という一冊を出しているんです。
 これが、僕的には、ヒジョーに面白かった。
 内容的には、これ、ちょっとユートピアが入っている部分もあるんですけど---超古代、かつて、世界はひとつの国であり、楽園であった。その楽園の名を“アスカ”といった…。
 このアスカこそ、ムー、レムリア、アトランティスなんかの超古代文明の祖となった、文明の原型だった、と五島さんは主張されるんですよ。
 幻の超古代帝国アスカ---大変栄え、高度な文明を持ち、繁栄の極みを迎えたが、最終的には、戦争や天災で滅んでしまう。
 かつてこの国の住人であった人々は、文明の潰えた未開の世界で、また一からやり直さなくてはいけなくなった。
 それは、高度な文明に庇護されたかつての世界とはあまりにちがう、過酷で、リスキー極まるサバイバル生活だった。
 彼等は、楽園追放の運命を嘆き、自分たちが新たに居住することになった未開の土地土地にそれぞれ名前をつけていった。
 その際、自分たちのかつての故郷であるアスカを偲んで、ときどき、見知らぬ未開の土地に、パズルのようにアスカの面影を埋めこんでいくことを忘れなかった。
 たとえば、南米のナスカ---NASKA---これは、ここは、かつてのアスカみたいな楽園とは程遠い、厳しく、過酷な地である、という意味あい。(最初の N が ASKA の否定として働いてるわけ)
 へえ、と思ったけど、たしかにアスカという固有名詞が基盤になっている土地は、世界各地にケッコーあるんですね。
 日本の飛鳥でしょ?
 あと、インド東部のオリッサ地方にもアスカって村があるんです。
 ほかには、やっぱりインドのアショカ、スペイン・バスクのアスコ、チリのアスコタン、イギリスのアスコット、それに、アイスランドのアスキャ…。

----この名前の鍵こそが、かつて超古代文明アスカが世界的に栄えていた、という何よりの証拠ではないか!

 と---五島勉さんは、ここぞとばかり力説されるわけなんです---。
 もっとも、この仮説の礎になっている要の鍵が、この名前物件のみってのが問題といえば問題なんですが、このSF的な説のもとになった発想の独創性だけはまったくもって否定できない、ワクワクするほど面白いもんだなあ、といまでもときどき思います。

 話が飛びました---あい失礼。
 なぜ、五島勉がでてきたのか、自分ながらよく分からんのですが、とにかく、飛鳥という土地の呼び名の響きには、ふしぎな郷愁が感じられるっていうようなことを総括的にいいたかったのですよ。
 うん、飛鳥---アスカって素敵な響きだもの。
 発音してる口腔内でも、なんだかふしぎな気持ちよさが募っていく気がします。
 その日本人のアイデンティティーたる飛鳥にいって、イーダちゃんははたして何を感じたのか?
 興味のある方は以下の記事にも目を通していただけたらいいなあ、と思います---。
 
 で、飛鳥探索の第一歩の資料として、適当な地図をネットで探してみたんですが、あんまりいいのが見当たらなかったんで、10分ほどかけて手書きの簡略地図を作成してみました。
 出来は、もう威張れたもんじゃないのですが、まあポイントだけ列挙してみると---ざっとこんな感じです。


                   



                                  ◆石舞台で歴史の話◆
 
 僕、石舞台が好きでしてね、飛鳥に訪れたときは、必ず足を運ぶようにしてるんです。
 クルマで行くとすぐ近くの駐車場まで楽々と乗りつけられるんですけど、飛鳥駅からママチャリ借りてそれで行くとなると、ここって結構長距離な上り坂を越えてこなくちゃいけないんですね。
 特に、高松塚古墳のあるあたりの上り坂が超・キツッ! 
 年齢とともに弱ってきている足腰に「!」と喝を入れて、ヒーコラとペダルを踏みしめて、ああ、よーやく坂が切れた、おお、小鳥がこんな鳴いてるじゃん、ぜんぜん気づかなかったな、みたいな余裕がやっとでてきて、飛鳥川をわたって、田園風景をしばし堪能、右折してそのまましばらくまっすぐいくと、やがて目的の石舞台古墳が見えてまいります。
 ええ、石舞台ってわりと飛鳥村のはしっこのほうにあるんですよ。
 この石舞台古墳は、かつての飛鳥同様に、がらーんと広い、田園地帯のまんなかに位置してます。
 チャリから降りて、あるいはクルマから降りて、この石舞台に向かって歩みはじめると、いっつも「ああ、ここ、いいなあ」と思います。
 それまで密封されていたアタマのなかに、ふいに気持ちいい南風が吹きこんできたような、そんな感触---。
 茫洋、そして、なんともいえない清涼感…。
 なんていうか、とっても風通しのいい場所なんですよ、こちらの石舞台古墳って。
 高校の修学旅行で訪れたときからずっとそう思っていたので、数年前、「ほんとにあった怖い話(現在はHonkowaと改名)『魔百合のショックレポート・闇に笑う女帝』(当時は朝日ソノラマコミックスでした。現在は単行本の会社は知らん)のなかで、Honkowa専属の霊能者・寺尾玲子さんが石舞台のまえに立っておんなじことを述べているシーンを見つけたときには、ああ、やっぱりなあ、はなからここはそういう場所なんだ、と嬉しくなりました。
 平成12年の8月某日、編集者何人かとこの石舞台を訪れた寺尾玲子さんは、

----ここ、龍の道が通ってる…。

 といったそうです。
 龍の道ってなんだろ? と、ここで疑問に思ったアナタ---ネットで調べても、残念ながらこの「龍の道」はでておりませぬ。
 この「龍の道」というのは、あくまで寺尾玲子さんとほん怖スタッフ専属の命名であって、風水とかそういう道筋系のやつとはちがう道筋であるようなのです。
 ひとまず玲子さんの話のつづきを聴きませう。

----推古天皇陵で感じたんだけどね、あそこにも龍の通り道があった。釿明天皇陵、敏達天皇陵、用明天皇陵…、メインの天皇の陵墓が龍道にかかってる。龍道つまりは「自然の力」なわけなんだけど、蘇我と蘇我に関わる天皇の血が未来永劫続くようこの力を利用した…。でも、妨害が入った。蘇我の反対勢力によって、この墓は破られてる。石舞台古墳の効果は破綻したけど、自然の力そのものは今も残ってるの……。(魔百合のショックレポート「闇に笑う女帝<朝日ソノラマコミックス>」より)

 玲子さんのいった「龍の道」をたどっていくと---飛鳥の手書き地図の東西にわたって引かれた蛍光ピンクの道筋を御覧下さい、きれが、玲子さんのいう「龍道」です---この道は、やがて、奈良をこえ、大阪の河内長野までたどり着きます。
 河内長野の太子町。ここは、別名「古墳の町」といわれるくらい町のあちこちに古墳の多い場所なんです。
 そこの釿明天皇陵、敏達天皇陵、用明天皇陵まで、こちら飛鳥の石舞台と天武・持統天皇陵から伸びている「龍道」が届いている、と玲子さんはいうわけなんです。
 これ読んだときは「うひょーっ!」と飛びあがりました。
 だって、河内長野の太子町ってまんざら知らない土地でもなかったんですから。
 というか、僕、この地で働いていたことも、ちょっとのあいだ住んでいたこともあるんですよ。
 だから、この玲子さんのセリフを読んだときは嬉しかったですねえ---いままで僕は、憧れの地「飛鳥」と自分とがまるきり無関係であることを、いささか僻んでいた面があるんです、実をいうと。なのに、まるで無縁の地だと思っていた「飛鳥」と自分とのあいだに、知らないあいだにこんなほのかな「縁(えにし)」が結ばれていたなんて超・ラッキー---してみると、僕は知らないあいだに「龍道」の上に住んでいたってことになるじゃないですか。
 いいや、ひょっとしたら自分でも知らないうちにこの「龍道」の恩恵を受けていた、なんて事象も人生上にひとつやふたつはあったかもしれない、なんてこともついつい考えちゃいました。
 でも、その恩恵ってなんだろう? とか都合のいいことを考えていたら、石舞台の脇のところにいた、見知らぬ眼鏡のおじさんがふいに声をかけてこられて、

----あのぅ…、ちょっとお話いいですか…?

 最初は宗教のひとかと思ったこの教師風おじさん、実は、ボランティアの解説のひとでした。
 歴史が好きで、石舞台を見学にきたひとに、飛鳥の過去生を語るのが最近の生き甲斐なんだとか。
 このおじさん、大昔の飛鳥はほとんど沼に覆われていて、地上にあったのは、この石舞台と飛鳥寺とかの狭い地域だけだったんですよ、なんて意表をついたことをいってこられました。
 へえ、と僕はうなずいて、その話は聴いたことありますね、でも、だとすると、当時は田畑もいまよりぜんぜん少なかったことになるわけだから、必然、庶民や貴族もいまに比べて相当つつましい暮らしをしてたんでせうね?
 すると、おじさんの目がきらりと輝いて、

----そうなんです、原初の日本人はね、天皇も庶民もふくめて、みんな貧しくてつつましい暮らしをしてたんですよ。そのへんが中国などとちがうところですよね。自然の、季節ごとの最低限の恵みをいただいいて、それで満足して、日々をすごしていたんです。後の時代の富の偏在は、まだ、このころは起こっていなかったんですよ。みんな、清貧で、欲をかかず、つつましやかに暮らしていたんです。私は、そういう原初の日本人に対して、なんだか、憧れみたいな感情を抱いてしまいますねえ…。

----僕も、ですよ。僕も、飛鳥当初の日本人に対して、おんなじ憧れめいた思いがありますよ。だから、ほとんど毎年、この地に足を運んでくるんです。ううん、僕だけじゃない、ほかのひとたちもみんなそうなんじゃないのかな…?

----ほう、あなたもそう思いますか…! あなたも?

 おじさんの瞳がいっそう大きく見開かれます。
 かくして、終わりのない歴史談義がはじまったという次第。
 おじさん、すっかり夢中になっちゃって、あとからきたカップルがおじさんになにやら質問しようとしても(彼は腕のところに「歴史解説ボランティア」という腕章をつけていたのであります)、ああ、もうちょっと待ってて、と、てんでつれないの。
 どうやら僕はおじさんのハングリーな歴史スピリットに火をつけてしまったようでした。
 でも、この石舞台古墳上でする終わりのない歴史談義は、僕的にとてもよかったの。
 空はあくまで青く、午すぎの風は悠々、龍道は、見えない絆で石舞台と河内長野市とをしっかりと結びつけており、おじさんと僕とは終わりのない歴史話を延々と語りつづけ…。
 石舞台でのこの時間帯は、ちょっと忘れられないですね。
 うん、僕の、飛鳥ベストショットのうちのひとつじゃないか、と思っています。

                           
                    


                                  ◆飛鳥大仏と対峙して◆

 石舞台の次に訪れたのは、飛鳥寺でした。
 飛鳥寺は、飛鳥の田園地帯のほぼまんなかに位置してます。
 飛鳥川をわたった東側の岸、石舞台からチャリで10分ほど北上したとこにございます。
 日本で最初期の仏像「飛鳥大仏」が拝観できるとあったので、へえ、じゃあ、話のついでに見てみようかな、くらいの軽いノリでの訪問でした。
 奈良によくあるみたいな、でっかいお寺じゃありません。
 もそっと規模の小さい、ささやかで小規模な感じの、いかにも飛鳥的な、シンプルで清楚なお寺です。
 拝観料払って、靴脱いでお寺のなかに入って---。
 そしたら、平日の午後のせいか、なんと、拝観者はイーダちゃんひとりきりじゃないですか。
 これにはちょっとびっくりしましたね---千年前の飛鳥大仏とふたりっきりで対峙するなんてよもや思ってもなかったから。
 本堂の伽藍のところに、飛鳥大仏さまは、ストンと自然に座っておられました。

----へえ、あれがそうか…。座高、たかーっ!

 なんて最初はわりと余裕、飛鳥大仏のまえにそろそろとにじり寄っていって、3メートルほどまえのとこに偉そうにあぐらなんてかいちゃって---。
 そうして、千年前に作られたこの仏像の御顔を、じーっと見あげてみたら…。
 そしたら、なんともいえない、静かなド迫力が、この仏像さんのご尊顔からじわーっと伝わってきたんです。
 平安以降の仏像群に見られるような、一種の「写実」の美学は、こちらの仏像さんにはありません。
 こちらの仏像さんの背筋をすーっと通っているのは、もっと別種の美学であるように見受けられました。
 写実よりも信仰、そして、退廃的なまでに繊細な線よりも素朴で剛直な力感---そういったものが大事にされている万葉時代の仏像独自の芳香とでもいいませうか。
 超・芳しい---素朴な造形のひとつひとつが、現代人イーダちゃんの退廃した魂を打ちまくります。
 ここまで優れた仏像となると、鑑賞なんてとてもできない、というか、拝観者のほうが逆に鑑定されちゃう。
 千年以上にもわたって、何千、何万、いや、何十万もの人間の信仰心を吸いこんできたそのご尊顔は非常に静やかでありまして、僕の興味本位の視線なんて瞬時に吸いこんじゃって、でも、まったく何事もなかったかのように、千年前と同様、悠久の時間のなかを、ただ凪いで、軽く微笑しておられるの。
 その拈華微笑が、見ているうち、だんだんに怖く思えてきました。
 だって、こっち、なんにもできないんだもの---いうなれば、これは、無限と見つめあってるみたいなものじゃないですか。
 背筋のあたりに軽い寒気が走ります。  

----なんじゃろう、これ? ちょっと怖いぞ、これは…。

 もうすっかり貫禄負け、気分はもう退却モードです。
 ただ、ビビリつつも、この邂逅の記録を残したい気持ちに駆られ、おもむろに飛鳥大仏さんに写真撮影の許可を申請してみました。

----あのー…、ここでこうしてふたりで見つめあうっていうのもきっと何かの縁でしょうから、ひとつ、済みませんが写真を撮らしちゃもらえませんでしょうか…?

 僕、神仏系の写真を撮るときには、必ずこのような申請を被写体に直接することにしています。
 ダメなときはなんとなく分かるものですが、このときは飛鳥大仏から許可がでたように感じられたので、これ幸いと携帯の写真を1枚パシャリとやらしていただきました。
 それが、このショットです---ねっ、僕のおののきがしっかりと写りこんでいる、ちょっぴり怖めの写真に仕上がっているでしょ---?(^.^;>


              

               


                                 ◆伝板蓋宮跡で廃墟気分を深呼吸◆

 個人的に、廃墟が凄く好きなんですよ。
 これは、ほとんど「廃墟フェチ」といったほうがいいのかもしれない。
 10年ほど前の廃墟ブームが巻きおこるずっと以前から好きでした。
 あそこはいいぞ、という噂を聴きつけたら足マメに訪れたりして、いつかこれをネタに本なんて書きたいなあ、とか漠然と思っていたんですけど、生来の不精癖に負け、それらの廃墟ネタをちゃんとした形にして残すことは結局やれずじまいになってしまいました。
 でもね、20代後半から30代前半にかけては、ほんと、親しくしてたO---彼は、ときどき泥棒! とかやっていた男なので、名前は伏せときます---と八王子界隈から奥多摩あたりをよくうろついていたものです。 
 こんな体質なので、飛鳥にいったら「伝飛鳥板蓋宮」を訪れないわけがない。
 ええ、飛鳥にきたら、ほかのところは差しおいても、僕は必ずここに寄りますね。
 場所的には、飛鳥寺からもういちど石舞台方面に南下する感じ。
 距離的には飛鳥寺からわりとすぐの地です---そんなに動きません。
 なーんもない、がらんちょんの荒れ地みたいな場所なんですけど、この「がらーんちょん感」がとってもいいの。
 実際には、ここ、蘇我入鹿が藤原鎌足に討たれた場所だとかもいわれれいますけど、残念ながらそれは決定的な説ではないようですな。
 でもまあしかし、ここが、かつての華やかな都の一角の廃墟であることはまちがいありません。
 「強者どもが夢のあと」の廃墟は、イーダちゃん、ほんっとに好きなんですわ。
 かつての栄華の跡地をわけもなくくるくるとうろつきまわり、無常の風に吹かれて悄然となる---これは、イーダちゃん内では、大変高レベルな快楽のひとつなのです。
 ま、論より証拠ともいいますし、実際に目で見てその酩酊気分を体感していただきませうか---。


                    
                    


 如何です? 口腔内に生じた、味気ないような、一種のシャリシャリ感を体感していただけたでせうか?(^.^;>
 僕が思うに、その無機的なやるせなげな感触が、恐らく「無常」の味わいなんです。
 僕はここがホントに好きでねえ---ここの空気を吸ってるだけでまったく飽きないの。
 いつきても2時間以上ここでぶらぶらしていくんですよ。
 ぶらぶらしているあいだじゅうずっと、胸底にチリチリと痛がゆい感じがあって。
 最初にここへ来たのは高校の修学旅行のときでしたけど、そのときでさえ背筋に電気が走ったもん。
 このときも、その電気の流れは健在でした。恐らく、次にくるときもきっと……


                                      ◆締めの「亀石」◆

 で、飛鳥行の最後に寄るのはいつもここ、あの勇名な「亀石」なんです---。
 ここ、場所的に、駅に帰る際の、ちょうど要みたいなところにあるんです。
 だから、いっつも最後の「締め」みたいな気分でここに寄るんですが、ほかの場所に感じるような気負いは、この「亀石」に臨む際は、まったくありません。
 だって、この「亀石」、住宅地のまんなかにポカンとあるだけなんですもん。
 裏手は学生アパートとちっちゃな畑だけ---なんて牧歌的な佇まいなんでせうか!
 入場料も拝観料もなーんもなし、ただ、簡略な説明版がちょっとあるばかり---この気負いのないシンプルさって実に飛鳥的だな、と思います。
 そういう意味でいうと、もしかしたらこの「亀石」、もっとも飛鳥的な場所かもしれません。
 石舞台のボランティアおじさんの言によると、だいたい「亀石」のあったあたりが、太古の飛鳥の沼と陸とのちょうど境界だったというんですけど。
 伝説によると、「亀石」は、以前は北を向き、次には東に向いたというんです。
 いま現在は南西面を向いていますが、これが西のほうを向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一面もとの泥の海に返る、と今でもいわれているそうです。
 これは、やっぱり、過去にいちどあった「極ジャンプ」の伝承なんじゃないでせうか?
 極ジャンプっていうのは、地球の自転軸が移動する現象をいいます。
 地球みたいな惑星は、結構この手の回転よろめきを起こすそうなんですよ。
 これが起こると地球はもー大変、サハラ砂漠が一瞬で北極に移動しちゃったり、アラスカがいきなし南半球にもっていかれたりしちゃう。
 シベリアで発見される大量の冷凍マンモスこそ、この「極ジャンプ」の歴史的証拠じゃないか---というのは、かの飛鳥昭雄さんの説なんですが、僕も氏の説には賛成ですね。
 この「亀石」伝承は、かつて地球を襲った大災害である「極ジャンプ」の、うん、日本版の証言だと思います。
 このネタにあわせて、モーゼの紅海割れの奇跡とか、シベリアの冷凍マンモスの詳細とか、キリスト処刑のときに太陽の動きがとまったローマの伝承とかにも話を飛ばしたく思ってもきましたが、あまりにも長くなってきたので今夜はそろそろこのへんで----お休みなさい---(^.-V☆彡


                        



                                                               
 

 



                    
 
 
 
 

 
 
 


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