イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その55☆イエス・キリストとは誰だったのか?☆

2011-02-27 07:40:00 | 日猶同祖論入門、なんちって☆彡
                               

----この頃、これを人間と呼ぶことが許されるならば、魔術的力を持つ人間が出現せり。この人物を一部ギリシャ人は神の子と呼べり。しかしこの人の弟子らは、真の予言者と呼べり。この人物は死者をよみがえらせ、すべての疾病を癒すと言われたり。この人の性格と形は人間なり。普通の外見、大人、皮膚あさぐろく、背低く3キュービット(約153センチ)ほど、せむしで、顔長く、鼻長く、両の眉くっつきたり。それ故、同人を見ると恐がる人もいたり。髪の毛まばらで、これをナイリタス人にならい真ん中から分けていたり。あごひげほとんどなし…。
                                                                    (コリン・ウィルソン「世界残酷物語(上)青土社刊)

 これ、イエス・キリストの風貌について記された、珍しい資料の一節なんです。
 著者は、ユダヤ人の歴史家であるヨセフス(AD37~100)、聖書の登場人物として有名な、あのローマのユダヤ代官ポンティウス・ピラトのサインが入っている「尋ね人布告」という文書からの抜き書きであります。 
 資料の内容が事実かどうかは定かでないですし、ま、はっきりいって、それは、いまでは永遠に誰にも分からない類いのことでせう。
 ただ、この文書にふれて、少なからずびっくりするひともでてくるのではないか、と思います。
 というのも、この文書に書かれているイエスの風貌が、あまりに僕らの知っているイエス像と隔たっているからです。
 だって、身長153センチっていうのが、まず、どうよ?---歴史の教科書で習った絵のなかのイエスと、ぜんぜんちがっているじゃありませんか。
 僕らが学校で習ったイエスというひとは、いつだって美しくて、聡明そうな、背の高い、鼻筋の通った白人の青年男性でした。
 ところがこの書は、そうしたステレオタイプのイエスのイメージに、いちいち唾を吐きかけていくんです。
 
----普通の外見、大人、皮膚あさぐろく、背低く3キュービットほど、せむしで、顔長く、鼻長く、両の眉くっつきたり…。

 えっ、なに? ちょっと待ってよって感じですよね。
 皮膚あさぐろく、両の眉が濃くつながっていて---あたりまでならまあなんとか読み流せないこともないけど、「せむし」ってコトバに遭遇したときには、誰であろうと多少は引くだろう、と思います。
 でも、一般的な反応として、そのような「引き」は正しいんじゃないかな。なにしろ、これは、いちども聴いたことのないセンセーショナルな歴史的ゴシップなわけですから。
 一般に知られているイエス像へのここまで爽快な裏切りぶりは、これはちょっと凄いものがありますよね。

 でも、ここでちょっとだけ再考---ほんとにこのネタ、ガセなのかしら?

 ひょっとして、一般にいわれている、ステレオタイプのイエス像のほうがガセでフェイクである、という可能性もずいぶんあるんじゃないでせうか。
 歴史なんて所詮、勝者の自己肯定のためのプロパガンダにすぎない、といったような考え方もございます。
 真実のイエス像を探求したい僕なんかからすれば、そちらの猜疑方面からも、真実の歴史を検証してみないわけにはいきません。
 ええ、ヨセフス(ペソ)のこの歴史書がいみじくもいっているように、古代社会がつくりあげて現代にまで脈々と語り継いできた、我々のクラッシックなイエス観は、もしかすると非常に政治的なもくろみの糸で長いことかかって編まれた、巨大なフェイクとしての幻想なんじゃないか、とイーダちゃんはむかしっから思っていたんです…。
 ただ、時代的にそういうことはあんまりいいづらかったんですね、当時はまだいまより欧米が偉かったから。
 西欧が没落して「神々のたそがれ」みたいになってきたころ、ようやくインターネットなんかが草の根単位で普及してきて、いままでタヴーだったことがいえるようになってきたんです。
 イエス・キリストの人種的側面なんてのも、そのひとつです。
 あらかじめいっておきますけど、イーダちゃんはまったく人種の差なんてものには興味がありません。
 白も黒も黄色もカンケーないと思ってる---いちいちこんな話題にくちばしを突っこむのも面倒だと思ってるくらいのニンゲンです。
 しかし、まあ、事実は事実としてきちんと認識しなきゃいかんでせう。
 というわけで歴史的事実の列挙といきますか。
 
 ええ、そうなんですよ---ナザレのイエスは、白人じゃありませんでした。---。

 むろん、なんの根拠もなしに、こんなイチャモンをつけようっていうんじゃありません。
 それどころか根拠はありすぎるほど! たとえば、ページ頭にUPした顔写真をご覧あれ。
 カンのいい方はたぶんここまでの記述でもう察してられると思いますが、そう、これね、イエスの顔の復元なんです。
 しかも、この像の製作責任は、英国のBBCとくる---実際の復元作業を担当したのは、マンチェスター大学の法医学教室だそうなんですが。
 エルサレムで大量に発見された紀元1世紀のユダヤ人人骨のなかから、当時の典型的なユダヤ人男性の頭蓋骨を選んで復元したものなんだそうです。
 ですから、まあ、たしかにイエス・キリスト当人の頭蓋骨ってわけではありません。ただし、歴史的・人種的に見て、それに限りなく近似値にいるところの頭蓋骨である、ということまでならいえるんじゃないかな。
 で、ものは相談なんですが、これ見て、あなたはどう思われました?
 うーむ、あんまり、美男、ではないですよね。
 あと、色も浅黒いし、モロ中東のひとっぽい風貌です。
 でも、これはいまとなっては特に驚くべき情報でもないんですよ。まともな歴史を研究してるひとなら、恐らくみんな知ってる程度のことでせう。ナザレのイエスはユダヤ人でした。そうして、パレスチナあたりのひとにじかに聴けば誰でも分かることですが、ユダヤ人っていうのはもともと白人種じゃないんですよ。そう、ユダヤ人はイエローなんです…。

 もう少し詳しく解説するなら、聖書時代のイスラエルに住んでいた、イエローの、セム系のユダヤ人、または彼等の子孫全般のことを現代ユダヤ社会では、「オリジナル・ユダヤ」、あるいは「スファラディ・ユダヤ」なんて風に呼んでます。
 彼等の1部は、いまだにイスラエルに住んでます---イエス直系のオリジナル・ユダヤとして。
 もともと、1948年にイスラエルが建国されるまで、現地のパレスチナ人たちと肩をならべて生活してた、バリバリの中東人だったのですから、風貌がアラブしてるのは当たりまえなんです。
 これに対して白系のユダヤ人---僕等がユダヤと聴いてすぐに連想する連中は、たとえばアインシュタインだとかホロヴィッツだとかキッシンジャーとかの、ああしたタイプじゃないですか? ノーベル賞のほとんどを独占しちゃうような超・優秀なあの連中!---しかし、過去の血統を追っかけていきますと、彼等は、古代イスラエルに住んでいたユダヤ人とはぜんぜんちがう、血統的にまるきり異なる人間なんだ、ということがだんだん分かってきます。
 彼等、ユダヤ社会では「アシュケナージ・ユダヤ」と呼ばれてます。
 古代イスラエル人じゃない、彼等のルーツは、紀元7世紀に中央アジアのカスピ海北岸にあった、ハザール汗国っていう国家なんですね
 ハザール汗国は、ビザンチン帝国とウマイヤ朝とに国境を接してました。
 ビザンチン帝国の宗教はギリシア正教、ウマイヤ朝の宗教はイスラム教でした。
 強力な両国に挟まれて国家として疲弊したハザール汗国は、両国からの干渉に堪えるため、あるとき、国をあげてユダヤ教に改宗しちゃうんです。(それまでは特定の宗教というのは、もってなかったようです)ギリシア正教でもイスラムでも大きくいえば聖書を聖典とする宗教だし、事実、旧約聖書は、両者ともに共通する聖典ですからね。そうすれば両国からの緊張をいなすことができる、という計算があったのかもしれません。
 で、そういった知略をめぐらして、しばらくは繁栄していれたんですが、11世紀にあのモンゴル帝国の攻撃を受けて、国、滅んじゃうんですよ。
 このときに発生した大量の難民が東欧に流れ、この「ハザール人ユダヤ教徒」の系譜が、だんだん「アシュケナージ・ユダヤ」と呼ばれていくようになっていくんですね。
 要するに血統的なユダヤ人じゃない、宗教的なユダヤ人一派が、このときに誕生したのです---。

                   

 僕が最初にこの事実を知ったのは、アーサー・ケストラーの本からでした。
 ええ、あの超有名な名著「ユダヤ人とは誰か?(三交社)」です。
 著者であるアーサー・ケストラーは、「スペインの遺書」や「ホロン革命」などの著作で知られている作家---自身もハンガリー生まれの、アシュケナージ・ユダヤ人でした。この本は、自身のルーツを探求するために、1977年に書かれたものです。

----…今日のヨーロッパのユダヤ人達は本当に聖書が言っているセム系のユダヤ人なのか。それとも大多数は改宗したカザール人の子孫なのか。このコンパクトで興味をそそる本は……この問題に潜んでいる悲劇的かつ皮肉な結論を暗示している。……それゆえに人々の心を魅了してやまないであろう。(ウォール・ストリート・ジャーナル)
 
 これをはじめて読んだときは、びっくりして思わずでんぐりがえっちゃいました。
 目からうろことはこのことかって感じ。
 しかし、いわれてみればもっとも至極な理屈なんですよ---中東のあのあたりの地域は、圧倒的にイエロー優位の植生地帯なんですから。
 僕がびっくりしたのはもっとべつのこと---そんな重要な歴史的事実を、いままで文化があえて隠蔽してきたってことについてです。
 ええ、ひそかに、デリケートに、しかし、それはもう徹底的に、総力をあげて見事に隠蔽しまくってきたんです。
 その圧倒的な政治的手腕に対して、でんぐりがえったわけ---。
 いま、僕は「文化が」なんてあえて婉曲な表現を使いましたが、このリミッターも邪魔っぽいんで、とっぱらいちゃいませう。
 ええ、絶妙に隠しぬいてきたんですよ---「文化が」じゃなくって---いわゆる「西洋文明」そのものが…。

 この種のユダヤ問題は、実は、いまでも世界史のタヴー中のタヴーなんですよ。
 だって、あなた、週刊誌でも月刊誌でも新聞でもTVでも、こんな特集とか見たことないでせう?
 学校でも決して教えないし、どんな教科書にもでてきやしません。
 さすがに英米などの最近の民族別の遺伝子研究なんて草の根レベルの動きを阻めるほどではありませんが、そのような最新研究の成果が決して庶民的レベルでのメジャーな情報とならないように、非常に注意深くコントロールされていることは、いまだに感じます。
 実際、この画期的な本を出版した直後、アーサー・ケストラー自身も不審な自殺を遂げちゃいましたしね---一説には殺されたともいわれてます---どっちにしても、あんまり素人が手を突っこんでいい分野じゃなさそうです。
 しかし、まあそのはずですよ。いまみたいなネット環境が整備されるまでは、こうした事実は完全なタヴーに近くて、主張すればほとんどキ○ガイ扱い、それにこうしたテーマを扱った書籍自体も超・少数でしたから。
 日本では「ユダヤ人とは誰か?」の訳者の宇野正美さんだとかが、この情報紹介分野でのパイオニアだったんじゃないかな。
 僕の贔屓のサイエンス・エンターテイナーの飛鳥昭雄先生なんかも、この点では僕とまったく同意見でして、宇野さんのこの実績を本のなかで高く評価されてました。(飛鳥昭雄・三神たける 失われた原始キリスト教徒「秦氏」の謎 学研 mu books )
 あの経済人類学の栗本慎一郎氏にしても、このハザール汗国の存在は長いこと知らなくて、「いやー むこうの辞書にでていないんだもの。知らなかったよ、ちきしょう、ダマされたあ…」なんてぼやいていたのをむかし読んだ記憶もありますね。
 あの聡明な彼ですら騙されちゃうんですから、僕等一般人が騙されるのもむべなきことかもしれません…。

 要するにイーダちゃんがいいたいのは、こういうことです---。
 キリスト教のスーパースター、イエス・キリストは、よりメジャーな世界宗教のシンボルとして知名度を集めるために、ある勢力によって祀りあげられた存在だったんじゃないか?
 イエス自身は、あくまでユダヤ教のラビのつもりで、新しい宗教を立ちあげる野心はなかったようなんですよ。
 さまざまな文献から推察できる、その教えの内容にしても、輪廻転生についてときおり気さくに語ったりしてて、どちらかというと素朴で、いま現在知られているカトリックの教えよりもっと東方的で、ええ、いくらかグノーシス寄りの思想をもっていたように察せられるんです。
 でも、それが中途からまるきり変わっちゃった。
 そうさせたのが誰かといった話にやはりなりますよね?
 まずは12弟子のひとりのパウロなんかがまっさきに槍玉にあげられるんでせうねえ。彼、実はスーパーインテリなんでありまして、当時の文化的中心であったギリシャの哲学者たちと論争して、そこでいちばんになっちゃうようなひとだったんですね。哲学者の梅原猛先生なんかもそのへんの事情については深く考慮されていて、こんなことをいってられます。

----私は、福音書そのものが、このパウロという偉大な宗教的天才---あるいは、宗教的演出家といってよいかもしれない---によって作られたみごとな神話あるいはドラマであるとみてさしつかえないかと思う…。(梅原猛「仏教の思想」角川文庫)

 ふーむ、第一プロデューサーは、やはりパウロでありますか…。
 しかし、いくら天才的創作家にしても単独じゃ世界制覇はやれない、それをこなすには、巨大な資本のバックが必要です。
 それをやったのがヴァチカンだったんじゃないか、と僕は思うんですよ---。
 
----マジ? なら、ヴァチカンは、なにをやったのさ?

 ひとことでいえば統一ですね。原始キリスト教が発達したのは、ヨーロッパやローマなんかじゃなくて、まず、シリアとトルコとエジプトだったんです。
 もともとは大変東洋的な思想を宿した宗教だったんですよ。そうした諸々の東洋的神秘主義の枝葉を切り落とすことからまずはじめたんだと思います---余分な末端は切りおとして、誰にも見えやすい幹だけ残しておくの。
 異端はすべからく処刑---一般受けしない多用性はざくざく切りとって、わかりやすい、キャッチーで耳触りのいい神話ばかりをずんずん伝播させていくわけ。
 ハンサムな白いイエスさまモデルの宗教画を、お抱えの画家に次々と量産させて、それを無知な大衆に恩着せがましく披露して…。まあ、これは言葉はわるいけど、いまでいうブロマイド売りみたいな、完璧なイメージ戦略なんですよ。
 超・狡猾。どっかで聴いたテクなんだよなあ、と何気に思案してたら、なんだかこれ、アイドル作りの手法とそっくりなんだってことにいま気づかされました。
 驚いた---イエス・キリストってアイドルだったんですね!
 すると、ヴァチカンというのは、さしずめジャニ○ズのプロダクションじゃないですか。
 広範な世界に「売りまくる」ために、いろんな大事なものを切っていったんですよ---マグダラのマリア、グノーシス、死海文書、占い、聖書本編からはじかれた多くのべつの福音書、魔術、さまざまな森の妖術、魔女、オカルト……で、最終的には、これらすべての教えが収斂するところの、始祖イエス・キリストの実像までも…。

 冬の夜長などに、僕はときどきこんな寸劇をふっと空想してみることがあります。

----なぜ、私の肌の色をまちがって世に伝えるのか?

----恐れながら、主よ、理由を申します…。そのほうが布教に都合がいいのです。ヨーロッパの連中は、差別意識と縄張根性に凝り固まった輩が多く、そのような連中のまえで主の肌のことなぞ申したら、宣教師がまっさきにリンチにあって、殺されてしまいます…。信仰より肌の色のほうに重きをおくひとが、世には大変多いのです、布教においてもいろいろと不都合ですし…。ですから、主よ、この小さな欺瞞を、あなたへの信仰が広がるための、やむないひとつの方便として、我等の罪を許してほしいのです……。

----許す? 欺瞞を許せと乞うのか?

----その通りです…御心にかないますならば…。

----私はそうまでして信仰を騙しとれ、といった覚えはない。おまえは民の信仰をそんなに集めてどうするつもりなのだ?

----ああ、主よ、そうすれば私は、少なくとも教区で優秀な神父だ、という評判を世からいただくことができます…。さすれば、私はまえよりも富み、仕えてくれる従者もふえ、まえよりも暖かい、居心地のいい部屋でくつろぐことができます…。

----すると、おまえが欲しいのは、信仰なのか? それとも、居心地のいい部屋のほうなのか? どちらなのだ?

----ああ、恐れながら主よ…。暖かい部屋のほうでございます…。ああ、お許しを…。

----汝、信仰薄き者たちよ…(憐れむように目を閉じて)……。

 ある意味、ヴァチカンはたしかに世界制覇をなしとげたのだ、といってしまってもいいのかもしれません。
 なにせ、信徒10億人ですもん。ただ、その勝利の過程で失ったものもさぞ多かったろう、と邪推せずにはいられません。
 素朴な信徒の方々の信仰をゆさぶるつもりはまったくありませんが、僕は、ヴァチカンは制覇の道のとちゅうで肝心な「主」をどっかに取りおとしてきちゃったんじゃないか、と思ってるんですよ…。
                                                           (第一部、了。このテーマはいずれもっとつめていきたいですね)

                                   
 

徒然その54☆益田ミリのペーソス☆

2011-02-22 23:15:00 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                                 

 ペーソスって言葉、ご存じでせうか?
 ふるーい、セピア色の言葉です、これ。
 辞書をひもとくと、< pathos:哀愁。哀感。もの哀しい情緒 > とでています。
 なんか、こう訳すと、味もそっけもない感じなんだけど、意味はまあだいたい分かる。
 ちびっと、こう大正ロマンの香ってくる言葉じゃないですか。僕は、この言葉を耳にするたび、トーキーの、あのチャップリン---ちなみにチャップリンは牡羊座生まれ!---のうしろ姿がのシルエットが、まぶた裏のスクリーンにすーっとうかびます。ただ、僕以外にもそういうひとってずいぶん多いようで、いちど神保町の古本街で、めっちゃ古い映画本の批評欄を見ていたら、それこそ1行おきにペーソス、ペーソスという単語の大判振る舞いでありまして、あれには少々びっくりしました。
 むかしはどうもけっこう流行っていた言葉のようですねえ。
 いまじゃすっかり色褪せた死語もどき、古道具屋のガラス棚奥のアンチック時計みたいな、くすんだ色艶の単語になっちゃいましたけど。

 というわけで、ペーソスというと、僕はまずチャップリンを連想するんです---。
 その次には、まあチャップリン・イメージつづきのピエロとか、さもなくばむかしながらのチンドン屋とかね。
 ほかにもサーカスだとか手まわしオルガンだとか雑多なイメージはいくつも連想されるのですが、いずれにしても、まあペーソスという言葉に釣られてでてくるそれらのイメージが、ほぼ例外なく男性のものである、という事実は共通してる。
 ええ、なんというか、僕のなかでは< pathos >は、常に男性名詞なんですよ。
 なんでなんスかね? 理由を考えると首を横にふらざるを得ないんですが、なんか、ペーソスってどうしても男の世界って感じがするんです。
 女性のペーソスって、いわれてみればあんまり聴いたことがなくありません?
 女性がしょぼくれてると、僕の場合、シチエーションにもよりますが、まあ、あんまり笑えない。
 落ちこんだ女性の背中のくたびれた線は、見ていてもまったく夢想できません。実生活と気苦労の陰があまりに濃く貼りついてる狭い背中っていうのは、ひょっとして夢想には不向きなのかもしれません。
 夢想向きの背中っていうのは、やっぱ、ある程度広いほうがいい。
 ええ、女性の場合、なにをやっても懸命に見えちゃうんです。可愛い我が子を守るため、銃をもった冷酷なハンターにあえてむかっていく母ヒグマみたいな、生命の汗が飛びちってて、ほとんど生臭いくらいのあの一生懸命さ…。
 あれは、ダメ、とても笑えません。懸命すぎてて翔べないの。
 男の場合ですと、一生懸命やってるつもりでも、なんというか頭の隅でそんな自分を突きはなして見てる、ある意味冷静回路みたいな、いくらかトボケタ能天気配線が常に働いてる気がするんですよね。
 真面目顔でいながらも、頭の隅の一角では、常に自分のことを「阿呆だなあ」と半ば笑ってる視線というか…。

 ジョージ・ロイ・ヒル監督の古いアメリカ映画で「明日に向かって撃て!」ってご覧になりました?
 あの映画のなかほどに、P・ニューマンとR・レッドフォード扮する札つきの強盗2人組が、腕っこきの保安官に崖っぷちまで追いつめられるシーンがあるんです。
 もう崖のはるか下の渓流に飛びこむよりほかに逃げ道はない。
 P・ニューマンは、さあ、いこう、飛びこもうぜ、とレッドフォードにいう。
 けど、レッドフォードは同意しない、いや、自分はここに残ってあくまで応戦つもりだという。
 なにをバカな、とP・ニューマンはあきれて、万にひとつの勝ちめもないぞ、連中は手練れ揃いじゃないか---。
 すると、むきになったレッドフォードが叫ぶように、
 そんなこといったってしようがないじゃないか、俺は泳げないんだよ! とやけっぱち風味にいうんです。
 そしたら、ここでP・ニューマン、その返答にバカ受けするんですよ。バカ受けして爆笑する、ウハハハハーって。銃もった追っ手がすぐそこから自分たちのことを狙ってるっていうのに…。

 この精神---これが、僕はペーソスの最たるものだと思うんです。
 結局、自分の生死もひとつのお笑いネタなんですよ。
 たしかにこういったメンタリティーは、実際的な子育てや家事には不向きでせう。
 実に阿呆だ。でも、ちょっとだけ爽快だ---。
 と、僕的には、この問題に関してだけは、やや男尊女卑の立場でいたんです。ほかのことはいざ知らず、ことペーソスに関しては、男性上位のままでいいんじゃないかってね---。
 しかし、益田ミリさんって女性の漫画家さんを知るに及んで、そんなことがもう一切いえなくなっちゃった。
 えー、益田ミリさんというこの作家さん、女性としては実に稀だと思うんですが、完璧な<ペーソス魂>をもってらっしゃるんですよ。
 はじめてこの方の著作の「女湯の出来事(知恵の森文庫)」にふれたとき、非常にびっくりしたのをまだ覚えてますね。
 2006年の初頭くらいにはじめて知ったように思います---たしか、会社近くの本屋で偶然見つけたんじゃなかったっけ?
 題名がまあ好奇心を誘いますし、知恵の森文庫なんて発行の会社自体も、なにか新しい響きがしてました。それに、漫画とエッセイの混合したスタイルの作品集なんてのも、当時はまだもの珍しい感じがしてたんです。
 でも、買って、実際に読んでみた内容は、予想してたよりもずっとデリケートでこそばゆくて、それはもうたまらんかった…。
 僕、読みながら同時進行で、たちまちのうちにファンになっちゃってましたもん。
 益田ミリ先生の、ささやかでいて暖かな目線がとってもよかった。
 リアルな生活臭がしっかりしてるのに、貧乏くさい卑屈さはどこ探してもぜんぜんなくて。
 ええ、ねとねとしてないの。要所要所がきりっと乾いてる。でも、クールすぎるってわけでもない、過剰さの気配はなし、バランスは大いにいいんです。扱うテーマ自体もなんていうか、日常の身のまわりの、ささやかな小さなことがらばっかりなわけですし。でも、全体として見ると、のほほんと、もの哀しいような、ふしぎなスポットライトの光があたってる感覚があるんです。
 たとえば、こんなのはどうです---?

                                

 ああ、いいなあ…。
 「どうでもいいと思いますが、わたしの銭湯時代の自分ルールは……」と指を立てて話しはじめるときのミリさんの表情が、まずいいですよね?
 最後のコマで「以上。どうでもいいことでした」なんていってペコリと頭をさげるあたりの礼儀正しさもよい。
 ひととの距離感にずいぶん敏感な方なんだな、というのがこのわずか1ページから感じられるじゃないですか。
 ほかにこんなのもある---これもいいっス。

                                

 後者のこれは、特にイーダちゃんのフェバリアット・ミリさんのひとつですね。
 深夜の女湯に集う疲れた女たちに注がれる、ミリさんの無償の暖かいまなざしは、これはもう一般的な共感とかそんなレベルをはるかに飛びこえて、ほとんどフェルメールの絵画のなかに登場する女たちのような、あのほのかな聖性の気配すら感じられます。
 「赤毛のアン」の最終ページで、窓辺のアンのかもしだしていたあの空気に、この雰囲気はちょっと似てるかもしれない。
 居眠りしかけている番台の顔見知りのおばさんに、こんなさりげない「おやすみなさい」をささやいて深夜の街に出ていけたらどんなにいいだろう、と思います。
 そうしたら、胸のなかの暖かいものが、アパートに帰る帰路のあいだじゅう、ずーっと持続するかもしれません。
 それが持続したまま、下りのいつもの坂道をちょっと曲がって、そこから晴れた夜空と街の夜景がぱーっとひらけたりしたら、どれだけ胸がきゅっとなるでせうか…。

 ただ、益田ミリさんのポエジーってふしぎでね、なんとなくどっか乾いてるんです。
 濡れ濡れのべたべたじゃない、適度な距離感があって、礼儀も余裕もあるんですね。
 ええ、乾いてはいるけど、限りなく優しいこのまなざしの加減が、もしかしたら僕に、独自のペーソスを感じさせるのかもしれません。
 とにかく益田ミリさんというのは、実に才能にあふれた、素敵な女性なんですって!
 はじめて読んだときから、出版社宛にファンレターを書こうと思いつつ、怠け心始発の筆不精ゆえ、書かずじまいのまま、とうとういまのいままできてしまいましたが、今回の僕のこんなちっちゃなページが、送らなかったファンレターの代わりになってくれればいいんだけど、なんて伸びをしながらいま思ったりしています…。(^.^;>

徒然その53☆THE GUN☆

2011-02-18 19:59:12 | エアガン小唄
                             

 平和を愛し、戦争を憎むことでは人後に落ちないつもりのイーダちゃんですが、幼少のみぎりより、なぜか拳銃だけは非常に好きでありました。
 団地の谷間の夕暮れの公園で銀玉鉄砲の撃ちあいをやったり、あるいは、友達の兄ちゃんがモデルガンを買ったと聴いたら、さっそく見物にいかせてもらったり、生まれてはじめて買ったブローバック・モデルガンを試し撃ちしたら、予想より勢いよく飛びだした薬莢でガラスを割っちゃったり---ガンに関するメモリアルはいくつもありますね---ま、いろいろやったもんです。
 ストイシズムをそのまま形象化したみたいな、あの黒光りした、鋼鉄の武器の冷たーい魅力! うーむ、あれを、どう表現したもんでせう?
 銃のグリップを握ったとき前腕に感じる、あのなんともいえないずっしりした、ふしぎな力感。
 小学校のときから、TVドラマの撃ちあいシーンでは、いつも敵味方相方の右手に注目してたもんです。
 当時のドラマは拳銃の考証なんてそうとういいかげんでしてね、「なんじゃ、あの玩具は!?」と一見して分かるようなチャチいものが多かったんですが、たまにそうじゃない、ちゃんと考証して選ばれた拳銃が使われてるのを見たときなんかはもうドキドキしちゃってね、翌日、学校で同好の友達とそのことを熱く語りあったりしたものです。
 むろん、あれは人殺しの道具でせう---ちげえねえ!---ええ、否定する気はさらさらありません。
 いままでつきあった女性で、この趣味に対して理解を示してくれたひとはあまりいませんでした。女性は、だいたい銃が嫌いなようですね。
 僕自身もほかの趣味とちがって、こいつだけはうまいこと打ちあけられませんでした。
 もしかして、打ちあけたくなかったのかも…。なんちゅーか、女性と共有したくない世界っていうのも、やっぱりそれはあるじゃないですか? まあ世界って呼べるほど大したもんじゃありませんが、僕とGUNとのあいだには、長いことそのような関係がありつづけていたのでありますよ…。

 えーと、拳銃には大きく分けて、ふたつのタイプがありまして---。
 ひとつは、西部劇なんかでよく出てくる、撃鉄のとこにレンコンみたいな回転弾倉がついた回転式、いわゆるリボルバーといったタイプです。アメリカの刑事ドラマなんかで刑事さんがもったりしてるのは、だいたいがこっちのタイプ。スミス&ウエッソンのスナップ・ノーズなんかが、ひょっとして皆の最大公約数的な回転式のイメージなのかな。
 ありていにいって故障が少ないんですよ、このリボルバー・タイプの拳銃って。
 拳銃の弾丸って、ごくたまに不発弾が生じることがあるんです。撃ちあいのさなかにそんな目にあって、そのときもっていたのが、たまたま古いタイプの自動式拳銃だったとしたら、お気の毒ですがあなたはまず確実にお陀仏です。
 でも、リボルバーだったらそんなことはない、トリガーを引けば、次の弾は瞬時に発射できます。
 それに、砂塵の舞う砂漠で銃撃戦をやっても、故障しにくい頑丈なメカニズムをもってるんですね。
 だから、いつのまにかアメリカの開拓時代の精神的象徴にまでになっちゃってね、その影響からかアメリカはいまでもリボルバーの需要が大変に多いんです。そういえば、まえにいっぺん訪れたカリフォルニア州オークランドのスーパーでも、ガラスケースのなかにこの手のリボルバー、いっぱい売ってましたっけね---。

 映画「ダーティーハリー」、あと、漫画の「ドーベルマン刑事」の影響なんかもあって、僕の中学時代は、リボルバー派閥がえらく幅を効かせていたんですね。僕も、リボルバーのモデルガンはずいぶん買いました。
 でも、最終的にどっちが好きかと問われれば、僕は、いつでも圧倒的に自動式に票を入れるひとでした。
 要するに、とってもオートマチックびいきのガン・マニアだったわけなんですよ、少年時のイーダちゃんは。
 リボルバーは野性味があって、素朴で、力強いんだけど、やっぱり、いささかほこりっぽくて、最終的にはカントリー風味なんですよ。バッファローの群れをを馬で追っかけていって、後ろからバーンみたいな。
 そこいくと、ブローニングやルガーなんかに代表されるヨーロッパのオートマチックは、なんというか、もうちょっとインテリ風味にひねくれた香りがしてるんです。軍服を着た将校だとか、世紀末の共産党崩れの青年だとかがもってると似合うような、ちょっとばかり退廃的な、ノスタルジックな歴史臭がほのかにたゆたっている、とでもいいますか…。
 そう、自動式の拳銃には、安全装置の瀟洒で淫微な細工のあたりに、なんとなく罪の香りが貼りついてる気がします。
 いささか倒錯っぽい感傷だっていうのは自分でも分かっちゃいるんですが、この自動式拳銃の独自の吸引力には、僕は、いまだに抗いがたいものがある。
 その代表ともいえるガンが、ページ冒頭にUPしたドイツの名銃---あのワルサーP-38なのでありまする。
 これは、瀟洒です---そうお思いになりません?
 瀟洒でいてシック、しかも、怜悧なまでに機能的とくる---僕あ、ワグナーよりワルサーのがはるかに好きだなあ。
 ゲルマン魂の根本を見せつけられてるみたいな、これ、魅惑の極上品ですよ。
 ダブル・アクションのショート・リコイル式というのは、当時の最先端のメカニズムだったんです。
 装弾数は8+1発。口径は9ミリ。杉板を9枚撃ちぬける、強力なルガー・パラベラム弾を使用。
 うーん、何度見てもセクシーなかたちなり---。(^o^;>
 ひとことでいって、これ、実に色気のある銃なんです。
 あの「ルパン三世」の愛用拳銃として有名になった銃でもありますね…。

                
                     
 で、2番目のこの写真は、ワルサーあたりとくらべると超マイナーな拳銃---。
 ぱっと見て、もう風情がないっしょ? スポーティーでつるんと乾いてて、ええ、お察しの通り、これ、アメリカの銃なんです。
 コルト社の自動式拳銃、コルト・ウッズマンですね。
 これ知ってるひとはマニアだと思うな。
 これ有名にしたのは、なんといっても漫画家の望月三起也じゃないですかねえ。いまの若い世代のひとはもう知らないかなあ。ちょっとむかしのアクション漫画に「ワイルド7」っていうのがありまして、その物語の主人公の「飛葉ちゃん」が愛用してたのがこの銃だったんですよ。
 ええ、たしか「飛葉ちゃん」は、この長い銃身を切りつめた改造仕立てにして使っておりました。
 ホルスターから抜き撃ちしやすい、接近戦むけの改造だったんでせうね。
 あと、このガン、ストッピング・パワーの劣る、22口径なんですよ---もっとも、そのぶん引き金も軽いし、反動もほとんどないらしいんですけど。
 ただ、命中率だけはとってもいいみたい。
 でも、考えてみれば当然の助動詞で、もともとこれはコルト社が、少年の射的競技向けに開発した銃だった、ということなんですよ。
 おっと、もひとつドン・ファゲッ!---大藪春彦の傑作「野獣死すべし」の主人公・伊達那彦の愛用銃もたしかこれでありました。
 なんで? といいたくなるけど、なにか、ああした大家たちの想像力を誘うものがある銃なんでせうんね、恐らく。
 たぶんの予測でいわせてもらえるなら、この銃のキーワードは「少年」なんだと思いますよ。
 なんというか、ふしぎな青っぽさを感じさせる、スマートな銃なんですよ。ホモとか少年愛とかあえていうつもりはないんですが、もしも腐女子趣味のある方がいらしたら、自分の物語の主人公にこのガンをもたせたら結構いいかもしれない。
 コルト・ウッズマン---しなやかで、手足の長い、俊足な小鹿みたいな逸品です---口径は22LR、装弾数は10+1ですね---。
 
 そうして、3番目の最後の銃はね、こいつ---

                            

 たぶん、知らないひとはまったく知らないんじゃないかな。ええ、超・地味めの銃なんですが。
 ベルギーの天才設計士ブローニングが設計したクラッシックな名銃、ブローニングM1910です。
 ただ、勘のいいひとなら、特に銃のことなんかなんにも知らなくとも、ぱっと見ただけで、これがヨーロッパ製の銃だってことが察せられると思うな。
 実際、僕の知りあいのある女の子なんて、服の産地をあてるみたいな気安さで、このガンの出生地をばっちり見事に当てちゃいました。ガンの知識なんてゼロに等しい子にもかかわらず---。
 でも、彼女いわく、この拳銃の産地をあてるなんて簡単なんですって。
 第一、この銃には、はなからそういったヨーロッパ精神の燐紛がこびりついてるじゃない? 誰がどう見ても南米産じゃない、アフリカ産でも中東産でもなさそうだ、ロシア製みたいなずさんな大柄さも見えないし、アメリカ製みたいに「つるん」としてもいない、じゃあ、ヨーロッパで決まりじゃないか---なんて。
 とにかく風格のあるいい銃だと思いますよ。
 ひとことでいうなら「渋い!」の極致。
 ちょっと餓鬼には扱えないんじゃないかな。こんな大人っぽい佇まいの銃っていうのは、寡聞にして僕はほかに知りません。
 拳銃自体は非常に抑えられた、シックで禁欲的なデザインをしてるんですが、その背後に、とてつもなく爛熟した文化が花開いていたっていうのが、なんとなく感じられるんですよね。
 なんか、ふしぎな銃なんだよなあ---FNブローニングM1910---口径380ACP。全長152ミリ。装弾数6+1発です。
 イーダちゃんは中学のときにモデルガンでこの銃を購入し、分解掃除のときにまちがって破壊してしまった、ほろ苦い前科をもってるんです。
 僕は、機械類の整備とか苦手で、愛すべき自分のモデルガン・コレクションも、分解掃除するたびに部品を失くしたり、バネを折ったりして、それこそかたっぱしから破壊してしまったのでありました。
 だから、結局、モデルガン・フリークだった時期は、比較的短かったように記憶してます。
 しかし、なんちゅーか、週末の夕べに、自室でモデルガンをかしかし分解清掃したりするのは、あれは、けっこう愉しかったですね。
 ほかの娯楽とはちょっと比較できない、一時代まえの職人気分の、いい宵をすごせたといまでは思っています。
 
 ねえ---こんな拳銃みたいな小さな分野においても、やっぱり21世紀に入って、いろんな傾向が変わってきましたよねえ。
 アメリカ軍がベレッタを正式拳銃に採用したって聴いたときは、僕は、マジびっくりしました。アメリカが自分の歴史的アイデンティティを捨てたように感じられ、機能と偏差値一辺倒の、ずいぶんつまんない無味乾燥の国になっちゃったんだな、と思ったのを覚えています。
 本来ならもっと銃の機能的な側面に光をあてるべきなんでせうが、つい茶器とか美術品を見るような目で銃を見てしまって、あい失礼---。
 ま、ロシアくんだりまでバズーカを撃ちにでかけるようなマニアの友人なんかとはちがって、僕は、ただの平凡な拳銃ファンにすぎないんだから、とりあえず今日のところはこれくらいの出来でいいのかも。
 もっとも、銃好きなのはホントです---いつか、カスタムのワルサーP38を手に入れて、懲りもせずまた分解清掃にチャレンジしたいなあ、なんてちろっと思ったりもしています…。(^^;

                                                                                      fin. 


徒然その52☆「赤毛のアン」の地平線☆

2011-02-16 11:58:00 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                      

 いま、なぜだか「赤毛のアン」にハマってます---。
 といっても、僕のいっているのは、モンゴメリの原作小説のほうの「アン」ではなくて、1979年にフジテレビの世界名作劇場の枠組で放映された、アニメーション版の「アン」のほう。
 最近、この懐かしい連続シリーズが、 you tube で無料で視聴できることを発見したんですよ。
 で、その第1回目のをたまたま見てたら、たちまちのうちにハマっちゃったってわけ。
 おしゃべりで、利発で、空想家で、くるくるよくまわる眼をした赤毛の少女、アン・シャーリーの可愛いことったら---!(^o^;/
 世界に冠たるジャパニーズ・アニメって、このころから凄かったんですねえ。
 その骨太の描写力に脱帽です。登場人物のデッサンといい、会話や表情の呼吸といい、もうていねいで、繊細で---しかも、原作には忠実だというスタイルをしっかり守りつつ---これ以上はないってくらいの、リアルで、ジューシーなポエジー満載の、見事な仕立ての物語としてできあがってるんですよ。
 原作を知らないひとのために、大まかなストーリーをひとくさり披露をば----
 えーと、カナダのプリンス・エドワード島のアヴォンリーという田舎町に、初老の兄弟が農業をやって暮らしてるんですね。マリラ・カスバート(妹)とマシュー・カスバート(兄)という、ひとり者同士の同居兄弟なんですが、ある日、農作業の手伝いが欲しい兄のマシューのほうが、孤児院から10くらいの男の子をもらってくることを思いついたんです。
 で、人伝に頼んでおいたのだけど、いざ約束の日に馬車で迎えにいってみると、手違いでやってきたのは、予定してた男の子じゃなくって女の子だったんですよ。
 駅に迎えにいったマシュー・カスバート氏はびっくり---。
 家に連れてこられた予定外の女の子を迎えた、マリラ・カスバート(妹)もびっくり---。
 やっと、自分をもらってくれるひとが現れたとうきうきしていた、孤児のアンも予想外の自体にこれまたびっくり---といった、まあシチエーションなんですよね。
 で、やっと自分の家ができると思っていた小さなアンが、自分のささやかな希望が裏切られて、もといた孤児院にまた送りかえされてしまうと知って、嘆いて、号泣するんですが、そのときのセリフがとってもいいの。

----あたしがいらないのね…。あたしが男の子じゃないからいらないのね…!? (いいながら背中側に立つマシューのほうを少し見て)そんなことじゃないかと思ってみるべきだったんだわ。いままで、あたしを欲しがってくれるひとなんて、いなかったんだもの。なにもかもあんまり素晴らしすぎて、長続きするはずないって考えるべきだったんだわ…。ああ、あたし、どうしよう! 泣きだしちゃいたいわ---あーん!…(顔を伏せて激しく泣きはじめる)……
                                                                 (赤毛のアン 第二話「マリラ・カスバート驚く」より)
       
 胸をえぐられるような率直で深刻な嘆きようなんですが、このときのアンの絶望顔---はっとして、その一瞬後絶望して、くしゃくしゃっと顔が崩れて、わーっと号泣するまで---その自然な、生命力にあふれた「泣きっぷり」に、イーダちゃんは、もう最初から心を折りとられる感じでしたねえ。

                      

----あたしがいらないのね…。あたしが男の子じゃないからいらないのね…!?

 と、こんな風にはじまったら、だいたい次の連では、ラフマニノフみたいなお涙ちょうだい的世界に突入するものと、相場は決まってるじゃないですか。
 スレきった男の観客としては、このさきのでろでろ情緒氾濫を瞬時に予測して、「あちゃあ、愁嘆場がはじまっちゃうのかー 勘弁してよ…」と天を仰ぐべき場面です。
 ところが、このちっちゃなアンはちがうんです、そんな安っぽい流れは辿らないんです。

----…そんなことじゃないかと思ってみるべきだったんだわ。

 折れそうになる心を一瞬くっと支えて、そのような展開になるかもしれないと予測しきれなかった自分の判断力の甘さを、まず批判しはじめるんです。
 いわば瞬時の自己反省。そして、さらには、

----…いままで、あたしを欲しがってくれるひとなんて、いなかったんだもの。なにもかもあんまり素晴らしすぎて、長続きするはずないって考えるべきだったんだわ…。

 なんて不幸に慣れたひと特有のいいまわしで自らの不遇を嘆きつつ、とっさの帰納法推理まで展開しちゃってる。
 このひとも自分を欲しがってくれない。悲しい→しかし、今回この悲しみの生じた理由は、自分が過去の経験から、今度もこのような不測の事態におちいるかもしれないという推理と予測とを怠ったせいだ→いままで誰も自分を欲しがってくれなかった、ということは、今後も当然そのような事態がつづくということで、その心構えを解除すべきではなかったのだ---といったような俊敏な論理展開。
 もちろん11才の子供らしく、こんな理屈だけで自分を突き放したままもちこたえらえるはずもなく、やがては勢いよく泣きはじめ、最初の嘆きにまた舞いもどってしまうわけなんですが、なんというか、この子、とても自分を知ってる子ですよねえ。
 聡明さもなかなかだけど、感受性の繊細さは、それ以上にハンパない感じです。
 なんというか、非常に詩人チックな生地を感じさせられる子じゃないですか。
 繊細で、傷つきやすく、でも、それとは逆の---喜び、幸福---といったプラス側の諸要素にもひどく敏感な自分内センサーをもっていて---。
 あと、頭の回転も心の回転も、どっちともとっても速いの。くるくるまわる言葉と表情とは、ぼんやり見ていると振りおとされちゃいそうな爽快な速度感でもって、リズミカルなスキップをきゅんきゅん踏んで小走りしてく感じです。
 喩えていうなら、ええ、アン・シャーリーは、たぶん風ですね---。
 グリーン・ゲーブルスの美しいもみの林のすぐうえの空を、さらさらと愉快そうに、笑いながら駆けぬけていく5月初頭の南風---「赤毛のアン」の少女時代のイメージは、僕にはいつでもそんな風な印象なんですよ…。

                                

 そう、「赤毛のアン」は、物語としても完璧だ、とイーダちゃんは思います。
 シェフであるモンゴメリの予想よりもはるかにグレートな作品に仕上がっちゃったんですね。藝術の世界では、ときおりそのような有難い偶然が起こることがあるんです。ええ、世界文学の最高峰「カラマーゾフの兄弟」、それにジョイスの「ユリシーズ」なんかとも充分にタメを張れるんじゃないかな。
 影の部分の彫りの深さが「ゲンダイ文学」として足りないといわれれば、まあそうですねえ、とうなずくよりないんですが、そのような部分を割り引いても「アン」のなかには、前者ふたつの大文学を足しても敵わない、一種鮮烈な魅力があると思います。
 それは、キャラが生きてるっていう一点です。
 主人公のアンが、なんといっても可愛いすぎる! これはもう譲れないです。
 あと、「アン」の喜びの表現ね---アンの唇が動くたびにきらきらとこぼれおちる、あらゆる生命に対する共感の念のみずみずしさはどうでせう!
 僕はオタクではないつもりなんですが、このシリーズを見てるときにかぎっては、完璧なオタッキーと化してる自分を発見していつもドギマギしちゃう。アンの住むアヴォンリーは、ほとんど僕のエルドラドなんですよ。いったんここに入ったら、もう2、3日は部屋から外に出たくなくなりますね。
 だって、現実よりはるかに魅力的なんですから…。

 ギルバート・ブライスの頭に石板を叩きつける、怒り狂ったアン---。
 ジョーシー・パイの挑戦を受けて高い屋根の梁に登る、誇り高いアン---。
 初めての友達ダイアナと「腹心の友」たるべく、永遠の誓いを詠みあげる、ロマンチックなアン---。

 どのアンもこのアンも、あまりにも正直で、そのうえ懸命で、もう見てるだけで胸底が痛痒くてたまらなくなってきます。
 あと、「アン」の世界って、なんだか愛し方教室みたいな部分があるんですね---この物語全般の提示する、素朴で純真な家族や友達に対する愛情のありかたは、見ていてときどき気恥しくなることもありますが、僕はね、これ、正しいんじゃないかと思います。
 ええ、アンのほうが正しい、世界はまさにこうあるべきです。
 欺瞞やエゴイズムに満ちたこんな現状は、本来の姿じゃない、と思ってもみます。
 ただ、みずみずしくも懐かしい、このアン世界のなかの小路を歩いていると、ときどきイーダちゃんは、現実世界に順応しきった自分が薄汚い罪人のような気がしてくることがままあると、ここに告白しておきませう---。

 ここでいきなり川端康成がでてくると、「なんだあ!?」と思う方もあるでせうが、その川端さんの醒めきった意見をひとつご拝聴ください。ほい。

----瀧子の四つの小説は皆彼女の生活の日記みたいなものだったが、そこに現れる親きょうだいや、友達や、恋人に対する、彼女の無条件で、無制限の愛情は、全く私を感動させた。無論こういう女性の愛情は、古今東西の数知れぬ作品に、もっと美しく、深く、高く、書き古されてはいるが、それらの文学とは確かにちがっていた。また、こんな愛情が現実に存在していたならば、ちょっと正視に堪えないであろうと思われた。文学としても、小説にも文章にもなっておらず、常日頃なら正視に堪えないであろうが、たまたま疲労という私の無警戒の状態が相手の裸の暖かさを感じさせたのであったろう…。
                                                                        (川端康成「散りぬるを」より)

 いかがです? アンと川端さんとじゃまったくの対極世界なんですが、アンとダイアナの美しい「きらめきの湖」にいきなりテンの死骸を放りこむような、この興醒めの川端式文章が支点としてぜひ必要と思い、ちょっとばかし引用させていただきました。
 情からも共感からも遠去かった、この冷酷で投げやりな視線って、僕は、これ、男性の視線じゃないか、と思うんですよ。
 僕も男ですから、そのへんの感触は非常に分かる、男って性のなかには、なにかアンの敬虔でささやかな小宇宙を根本から裏切るような不信心が、あらかじめ混入されている気がします。もっとも、みんながみんな川端さんの視線ほどざらざらと冷酷なわけじゃありませんが、そもそもの世界へむけるまなざしの質が、まるきりちがってるんじゃないんでせうか?
 僕が少しまえのページで取りあげたルイス・キャロルのアリスにしてもそうです。
 あれのラストで、作者のキャロルは、お姉さんの視線を借りて世界とひとときの握手を交わしていましたが---そして、それは大変感動的な1場面でしたが---僕にはあれが恒久的な世界との和解だとは、とても思えない。
 あの感動のたそがれどきがすぎれば、恐らくキャロルはいまさっき胸に感じた暖かいぬくもりなんか煙のように忘れて、自らの冷たい板張りの数学部屋にとぼとぼとひとりで帰っていったことでせう。そして、生涯そこにとどまりつづけたことでせう。
 そもそもキャロルはそっちがわの代表的な住人なんですから。

 僕はねえ、この男女間の本来的な溝っていうのは、埋めようがないくらい険しくて深い、と考えているんです。
 だって、アンの少女時代の憧れは、アヴォンリーの新任牧師夫人の、若くて魅力的なミセス・アランですよ。
 それにひきかえ、同時代のアメリカ文学の主人公トム・ソーヤ少年の憧れのひとは誰でした?
 宿なしの浮浪児の、ハックルベリー・フィンじゃないですか!
 このギャップはどうよ? いやー どうこうしようにもどうにもなりませんって。
 イーダちゃんは思うんですよ---あらゆる少年の憧れは、結局はこの「放浪」という1点に帰着するんだって。
 ええ、もしかしたら「放浪」っていうのは、あらゆる男性の心の故郷なのかもしれません。
 去年の8月、退社といった個人的事情からイーダちゃんはまる1月北海道各地をさすらってきたのですが、いま思えばテント暮らしの風来坊としてのあの8月は、もう心の底からむちゃくちゃに楽しかったですからねえ!
 考えようによっては「不思議の国のアリス」の不思議の国も、キャロル教授の架空の数学世界も、ひょっとしたらこの生来的「放浪」の一種のヴァリエーションとして読めるものなのではないのでせうか?
 そう、ランボー少年が「地獄の季節」のなかで視たというあの「架空のオペラ」も、川端世界のなかにあるあのひんやりした薄情地獄も、あるいはモーツァルトの音楽のなかに常にあるあの快活な運動性も---ひょっとしたらすべてのルーツは、この少年時の「放浪」というおなじ根っこ始発のものなのかもしれません…。

 「赤毛のアン」のラスト部分で、最愛のマシューを失ったアンは、すさまじい速度で成長していきます。
 眼のわるいマリラを助け、故郷のアヴォンリーにとどまることを決意し、せっかく得たエイブリー奨学金も辞退してしまう。
 そうして、ある夜半、子供のころから住んでいた自分の部屋の窓辺から、16才半のアンはこんな言葉をささやいてみます。

----神は天にあり、この世はすべてよし…。

 これ、世界文学10傑にランキング入りOKの、素晴らしいラストなんじゃないでせうか。
 ただ、このラスト、いつ触れても感動はするのだけど、このフィナーレって、イーダちゃん的にいうと、なんというかいささか淋しいものも少々混入してるんですね。
 そりゃあ、アンの居場所は正しいですよ。そうするしかなかったんだし…。そして、いってることも、思ってることもたぶん正しい、とは思います。

 でもですねえ、ひとつだけ質問---なんでそうまでして自分の絵にそんな地平線を引こうとするの?

 ええ、ここで僕がいいたいのは、アンの世界の底に常にある「地平線」についてなんですよ。
 腹心の友であるダイアナに対する---または育ての親であるマリラ、マシューに対する---あるいは親しい隣人としてのミセス・アランやジョゼフィン叔母さんに対する---アンの無条件の、みずみずしい愛情のほとばしりを、僕は、「赤毛のアン」世界の一種の竜骨、いちばん底にある地平線とまあ称したいわけなんです。
 あの、これには異論むちゃくちゃあると思うんですが、大抵の女流作家には、この地平線があるとイーダちゃんは思うんです。
 そう、女流さんって、愛情でも信仰でも故郷でも家庭でも---最終的には常に定住するんです---自分の絵のなかに地平線を一本ひいて、そのうえにがっちりと裸の足裏で着地するんですよ。
 そういえば幼稚園児ってみんなそうなんですってね! 物心つきたての園児にみんな絵を画かせると、あらゆる女児は自分の絵のなかに、自分と家族と一本の地平線とを画きこむそうなんです---それこそ95パーセント以上の確率で。
 ところが男児は、地平線なんかまず入れないっていうんです。
 いわれてみれば幼少期の僕もそうでした、絵のなかに地平線なんかまず入れてませんでしたね。
 してみると、これはもう本能的な性差というよりないですね。
 だから、僕的には、地平線ってなんか複雑なんですよ---いわば体質的ジレンマ---見るとつい淋しくなったり、ほろ苦くなったりして、背を向けて、つい逃げたくなってしまう…。
 憧れて、惹かれているくせに、接近したら妙に息苦しくなって、逃げて、離れて---そうすると今度は淋しくなってきて、またもや遠くのほうからそろそろと憧れて、接近して、もういちど話しかけて…。で、その後も、この接近したり離れたりの無限ループが、人生の虚構の遊戯空間のなかで、くるくるとくりかえされるというわけですな。はあ。
 書いているうちに、なにやら作品から離陸した男女論につい話が流れてしまいましたが、この「赤毛のアン」自体は冒頭でも述べたように素晴らしい作品ですので、ご自宅でのPCでのご視聴をぜひにもお薦めする次第です。
 イーダちゃんはね、ええ、この「赤毛のアン」を見ないのは、人生の損だとまでマジ思っているのですよ。
 狂ったように長くなりました---ここまで読んでくれた方がもしおられましたら、心からお礼がいいたいです---有難うございましたっ---。m(_ _)m


  P.S. 時代設定にあわせて計算してみたら、わあ、アンはあのフルトヴェングラーより年上でした。
      ぎゃー、びっくり! そんなむかしのお話だったとは……(xox;>

徒然その51☆このごろ見かけた可愛いもの3点☆

2011-02-08 09:16:46 | 身辺雑記
                                

 可愛いもの---といきなりいわれても困るなあ。
 そりゃあ僕にしても、ひとなみになにかを可愛いと思う気持ちはあるんだけど、僕の生活というものは、そうした種類のものを中心にしてまわってはいないんですね。なにかを可愛がる感情は、自分内部の世界地図に照らしあわせるなら、国際連盟に加入してる国々のなかでの周辺国の周辺国、そのまた遠くの周辺国って感じ。いわば果てしない傍系といったところでありまして、対外的な国際情勢にはほとんどまあ関与してないわけなんですよ。
 だから、なにかを可愛いと思うことがたまにあったにしても、心の芯まで触れることは少なくて、あくる日にはすぐ忘れちゃう。
 というのが通例なんですが、珍しく「かっわいい!」と感じることが今日たまたまあったんで、ま、軽いタッチでそれを残せたら面白いかもなあ、といまさっきキーボードを叩きはじめたところです。

    Ω イーダちゃん的「可愛いもの」No.1
 えーと、今日はボランティアで老人施設にいってきたんですね。
 そこの介護施設の入居者に、ひとりのおばあちゃんがいらっしゃるんですよ。
 85才の小柄なおばあちゃんで、もう身体もきかなくて車椅子、病気のせいで言葉もでにくくなっいてるんです。
 ただ、自分じゃしゃべれないけど、彼女、他人が喋ってる意味はちゃんと分かるんです。
 このおばあさん、若い男の子が好きなんですよ。
 施設の職員さんのなかに17の若いスリムな男の子がいて、彼が同じ階にくると、もうニコニコして、常に目で追ってるっていうんです。
 で、それを知っていたヘルパーの方が、

----ねえ、○○さん、あの男の子の△△クン、好き?

 すると、このおばあちゃん、ニコニコしてうなずいたそうなんです。
 面白くなったヘルパーさんがちょいと悪ノリして、

----じゃあ、○○さん、△△クンと結婚したい?

 すると、おばあちゃん、ますますニコニコする。

----あちゃあ。でも、ダメかあ…○○さん、お父さん、いるもんねえ。浮気はいけないもんねえ…!

 と、ヘルパーさんがからかうように笑ってみせたら、おばあちゃん、

----お父さん…天国に、いっちゃったあ…!

 と大きく、ニコニコと、それこそ満面の笑みで答えられたそうです。

 このおばあちゃん、僕がよく食事介助の担当になる方なんですよね。この方、1日のうちにもう1度くらいしかしゃべらなくなっちゃってるんですが、このときははっきりとそう答えたそうで、この話を聴いたとき、イーダちゃんはおばあちゃんのまるきり邪心のない笑顔を思いだして、なんだか知らないけど、胸のあたりが「きゅっ」となりました。
 あとから聴いたらヘルパーさんもそうなったそうなんですよ…。

 もしかしたら、これは実際のおばあちゃんを知らないと伝えにくい種類のものかもね。文章じゃ、なんのこっちゃ分かんないひとのほうが多くなっちゃうのかもしれないけど、これが、イーダちゃん的「可愛いもの」ランキングもっかNo.1!---可愛いもの度数は90点ってとこですか。

    Ω イーダちゃん的「可愛いもの」No.2
 これは現実ネタじゃなくて小説ネタね---恐縮なんですが。
 ルイザ・メイ・オールコット女史が書いた有名な「若草物語」ってあるじゃないですか。
 あれのなかで「家庭の娯楽」って章がありまして、そのなかで4姉妹が同人誌をつくる遊びをやるんです。
 仕切るのはモチ作家志望の切れる女、次女のジョーです。
 しかし、ここでピアノ好きのおとなし少女・3女のベスが寄せた、短い原稿が紹介されてるんですが、これがとってもいいの。
 イーダちゃんはベスのこの作品が好きで好きで、誰かがそのうちいうだろうと待っていたのですが、何十年たっても誰もいわないので、いまここでそれを紹介することにします---じゃーん!

            「かぼちゃの一代記」          タップマン
 むかしむかしある農夫が小さな種を庭にまきました。間もなくそれは芽をだして、つるを伸ばし、たくさんのかぼちゃをみのらせました。
 十月のある日熟したので農夫は一つもぎ取ってマーケットへ持っていきました。やお屋さんがそれを買ってお店に置きました。ちょうどその朝青い服に茶色の帽子をかぶった、しし鼻の丸い顔をした小さい女の子が行って、そのかぼちゃをおかあさまにさしあげるために買いました。女の子はそれをお家までひっぱって行って、切って大きなおなべに入れてゆでました。そしてその中の少しをすり潰してお塩とバターを入れて、晩ご飯のおさいにしました。残りは牛乳三合に、鶏卵二個に、お砂糖をおさじに四杯と、香料を加え、深いはちに入れて表面がきつね色にこんがりと焦げるまで焼きました。そして翌日、それをマーチという家の人たちがみんなで食べました。
                                                                   (オールコット「若草物語」新潮文庫より)

 キュ、キュ、キュート!(興奮して)と僕的には超・ツボなんですけど、皆さん的にはいかがかな?
 全面的に共感されるとちょっと悔しいかもだし、誰も共感してくれないと今度は淋しいかもという、イーダちゃんの内面事情はけっこうわがままに複雑です。
 ですが、料理方法まで克明に書かれた、このたどたど小説はマジ可愛いっス。いきなり「おかあさま」なんて言葉使いが乱入してくるあたりが特によろし。これ、可愛いもの度数、85点をあげませう---。

    Ω イーダちゃん的「可愛いもの」No.3
 先日、知り合いの女のコのうちで鍋をごちそうになったんですが、彼女、鳥が好きでして、部屋がもう鳥のアクセサリーでいっぱいだったんです。
 そのときお呼ばれした際には、まだひっこししてから間がたってなくて、実際の鳥は飼っていなかったんですが、彼女と鳥の話をしてたら、冒頭にUPした、僕自身の鳥写真をふと思いだしたんですね。
 で、帰ってからメモリーカードからだしてみた。
 これは、去年の8月、イーダちゃんが北海道を放浪した際に、小樽で撮った1枚なんです。
 小樽は敬愛する映画監督、大林宣彦さんの名作「はるか、ノスタルジィ」の舞台になった場所でもあったんで、この8月下旬には、特に念入りに放浪させてもらった記憶がありますね。
 有名な運河でこれ撮ったときには、あまりどうとも思ってなかったんですが、いま、こうして見てみると、街燈のうえでのツンとしたおすまし加減が、なんとなく可愛くありません?
 えっ。鳥にあまり可愛げがない? 
 威張った態度が鼻につく? 猫とかのがずっと可愛いって?
 うーん、そうかなあ…?

 まあ、いまのところ、これがイーダちゃんの「可愛いもの」No.3であるといっておきませう。
 点数は、ざっと55点ぐらい?---なんだか微妙な数字ではあるけれど。

 今回のページは以上です---さあ、もうじき僕もおでかけなんで…おっ。じゃあ、そろそろいってきまーす…。(^.^)/
 
 

 



 




 
 

徒然その50☆ルイス・キャロルのいる風景(下)☆

2011-02-06 21:33:17 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                                

 では、そのコーカス・レースとは、いったいどのようなものなのでせうか?
 てっとりばやいとこで原作から引用いきませう---それほど長くもないんで。はい。

----「コーカス・レースってなあに?」とアリスはききました。べつだん、それほど知りたかったわけではないのですが、ドードー鳥が、だれかが質問するはずだというように間を置いたのに、だれも何も聞こうとしないようだからです。
  「いや、やってみるのが何よりの説明になるんだ」とドードー鳥はいいました。
  ドードー鳥はまず、レースのためのコース線をまるく書きました。(正確な円でなくてもいいのだとドードー鳥はいいました)そして、一同は、そのコースのあちこちに位置を定めました。「一、二、三、ゴー!」というような出発の合図もなく、みんな、好きなときに走りだして、好きなときにやめればいいのです。だから、レースがいつ終ったかを知るのは、必ずしもやさしくありません。とにかくみんなが三〇分も走って、すっかり乾いた頃に、ドードー鳥がとつぜん「競争おわり!」と大声でどなりました。一同は輪になって集まると、息をはあはあ切らせながらききました。「でも、誰が勝ったんだ?」
                                                             (ルイス・キャロル「不思議の国のアリス」講談社文庫より)

 と、まあこのような塩梅---すなわち、コーカス・レースとは、以下のようなレースであったのです。

1.スタート・ラインがない。誰が、いつ、走りだしてもかまわない。
2.ゴール・ラインもない。誰が、いつやめてもかまわない。

 むーっ、なんという自由なレースなんでせう! というより通常の視点からいくと、これはもはやどう見てもレースじゃありませんよね。
 はじめのうち、僕は、それをルールに厳しい英国社会で育ったキャロル少年の、押しつけられたルールというものに対する本能的な反発の表現じゃないか、みたいなラインで捉えようとしてたんですが、どうやら、そうではないようです。
 反発、というような気構えの気配は、文中にはありません。
 それよりも濃く漂っているのは、「ルール」という存在そのものに対する、先験的な疑惑であり不信です。
 キャロルさん、ここで、非常に無邪気に、ふだんはしかめっつらをしている「ルール」というモノを、縦に置きなおしたり横に倒したりして、もう玩具扱いしてらっしゃいます。
 あえて学術的な言葉を弄するなら、これは、いわゆる思考実験という範疇に属するものと思います。
 それを、こんなささやかな空想童話のなかで、見事に物語中にはめこんじゃった手腕には敬服しますが、それよりも僕が感じ入るのは、キャロル氏がふだんから使っている目線のなかにある、なにか非常に相対的な、場合によっては虚無的にすら見えるくらいの、一種独特な、暗いまなざしの翳りなんですね。
 ええ、前ページの末尾のヴァン・ダインからの引用のなかにあった、あの数学者の病についての検証です。
 あのなかで語られていた数学者の病についての症例に、僕は、キャロルが創造したこのコーカス・レースは、見事にかっちり当てはまると思います。

 コーカス・レースには、勝者も敗者もない。
 コーカス・レースには、スタートもゴールもない。
 さらには、もしかすると参加者がいてもいなくてもいいのかもしれない…。

 これは、童話のメルヘンの衣で上手にくるまれてはいますが、よくよく見るなら非常に虚無的な発想ですよ。
 物語から「絶対」の秤が取りのけられて、「相対性」のほうに傾くと、物語は限りなくナンセンスの谷にずり落ちていくのです。
 やっぱり、人間が人間として生きていくためには、絶対的な何者かに対する帰依の心が必要ですよ。
 偏見でも執着でもなんでもいいの、憎悪でも金儲けでも---何者かに対する強力無比なこだわりってやつは、絶対要る!
 これがなかったら、大事なものがなにもない人生は、ただのまったいらな、茫漠たる無価値の砂漠でしかないんですから。
 あらゆるものの価値が等価であるという相対論的な世界は、僕には、非常に非人間的な、虚無的なざらざら地点として感じられます。
 しかし、僕は、キャロル氏が生涯を通じて間借りしていたのは、このような部屋にちがいなかった、と思いますよ。
 というより数学者って人種全般が、そもそもそういうキャラなのかもしれませんね。学のないイーダちゃんとしては数学という学問の深遠は推し量ることしかできないんですが、そのような危険な存在の根源領域に接近するには、日常の場合とは逆に、むしろ存在係数の低い人間でないといけないのかもしれません。
 非常に特殊な世界ですよね---そこで遊戯するということは、ある意味、飛行機乗りみたいに危険と隣りあわせになるっていうことなのかもしれない。
 けれど、どんな優秀な曲乗りパイロットにしても、地上というものがあるから飛べるんですよね。
 地面がなければ、そもそも平衡感覚自体の意味がない、どんな曲芸飛行もただの無意味なきりもみ状態でしかなくなっちゃう---それを見て感嘆してくれる人も、心配してくれるひともいない孤独な曲乗り飛行に、いったいなんの意味があるでせう?
 だからこそ、キャロルは、この茫漠たる手狭な思索部屋に居住している息苦しさと虚脱感をひとときでも忘れるために、アリス・リデルという一少女が必要だったのです。
 生きるために---あるいは、呼吸するために。
 主人公のアリスが生き生きと笑うから、不思議の国のもののけたちもヘンチクリンな言葉遊びに嬉々として熱中できたのです。
 主人公のアリスむきになって怒るから、不思議の国のトランプの兵隊たちも最後にあんな風にそろって天空を飛翔できたのです。
 結局、アリスがすべての蝶番だったのですよ。
 彼女がいなけりゃ、キャロル世界はなんにも廻らぬ、というわけです。

 さて、そのような処々の事情をつらつらと考えますと、「不思議の国のアリス」という作品世界の全体が、我々の暮らす実在世界に対しての反証の意志をこめて創造された、一種の逆ユートピアとしての世界なのだ、というようなことがいえるかと思います。
 ユートピアはいつでも孤立者の夢想から生じます。
 そして、孤立者は、たいていの場合不幸であり、自分を生みだした世界を恨んでいる---もしくは、実存的な対立関係にある。
 あからさまな反逆の棘こそ作品内には描かれていないものの、アリスという作品内に、そのようなほのかな敵意の兆候は、いくらでも見つけだすことができます。
 時間と喧嘩したおかげで時間にそっぽをむかれ、時間を6時にとめられたままお茶会をつづけるしかない、気狂い帽子屋---。
 空中で笑いながら徐々に透明化していき、実体が完全に消失したあとでも笑いだけが残る、チェシャー猫---。
 あるゆる問題に対して、「その者の首をはねよ!」と叫ぶよりほかの解決法を知らない、権威の権化・ハートの女王---。
 彼らの存在がかもしだしている「棘」の気配は、そのままキャロルが世界に対して抱いていた「棘」の心理の表象だ、と読んでもあながちまちがいではないと僕は思います。
 しかし、そのような世界に対する強硬な「否-ノン-」の姿勢が、最期の最後にくるりと反転するのです。
 「不思議の国のアリス」のラストは、いわゆる夢オチパターンで仕上げられてます。
 アリスのいた不思議の国は、実は、草原で昼寝していたアリスが見ていた夢だった、という例の種明かしです。
 ここで思いもかけぬエンディングがふいに訪れるのですよ---それは、世界と現実とを厭い、架空の数学の国を長らく漂泊していた、稀代のすねものであるルイス・キャロルが、突然、世界と和解するのです。恐らく自分でも直前になるまでこんな事態になるとは予測していなかったんじゃないかな。
 アリスを見守るお姉さんの目線を借りてささやかれるその「告白」は、非常に優しく、真情のこもった感動的なものです。
 それは、本当にふしぎな、どこか恩寵めいた凪ぎの訪れなのです。
 ここでキャロルは、数学者キャロルとしてのひねこびた眼鏡を捨てて、ごくありきたりの、素朴な一生活者としての目線の高さで、柔和に現実を見守っています。
 そこのところのラスト文だけ書きぬいておきませうか。

----最後に、お姉さんは、このおなじ小さな妹が、やがていつの日にか、一人前の女になったところを想像してみました。アリスは、だんだん成熟していくでしょうが、それでも少女時代の素朴で優しい心を失わず、ほかの小さな子どもたちをまわりに集めては、いろいろな不思議なお話をして---おそらくは、はるか昔の不思議の国の夢の話もしてやって、子どもたちの目を輝かせるだろう。そして、子どもたちの素朴な悲しみをよくわかってやり、子どもたちの素朴な喜びに共に喜びを見いだし、自分自身の少女時代と、幸福だった夏の日々を思いだすだろう---お姉さんは、そんなことを空想したのでした。

 こんな素晴らしいエンディングをもちだされちゃあ、こりゃあ、もうなにもいうことはないですね…。
 ちなみに僕は、ここの部分を個人的に「キャロルの里帰り」と呼んでます。ここのところを読んでいると、どこからか肉じゃがの香りがしてくる少年時の夕暮れのことが、いつもなぜだか連想されるんですね。
 どうしてこんなエンディングになったのか、作者のキャロルに聴いてみたい気もしますけど、恐らく当のキャロルにしても、自分がこんなエンディイグを書いた理由は、うまく説明できないんじゃないでせうか。
 でも、それは、それでいいんじゃないかな---。
 小学年の低学年にここの部分をはじめて読んだときから、僕は、このラストが大好きでした。
 いまだってむろんおなじ---もし、この物語に魔法があるとすれば、恐らくその魔法の鍵は、このラストの部分にこそ隠されているにちがいないと思います…。

                                                                           (第二部、ようやく了)
 
 

徒然その49☆ルイス・キャロルのいる風景(上)☆

2011-02-06 21:18:57 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                              

 「不思議の国のアリス」は、いま世界でもっとも読まれている童話のうちのひとつです。
 疑問の余地のない傑作というのは文学史のうえでも案外少ないものなのですが、この作品はその稀な例外にあたります。
 ジョン・レノンも、バート・ヤンシュも、先代エリザベス女王も、あと、僕の小学校時代の憧れの女の子も、みーんな、この童話が大好きでした。
 作家の北杜夫氏もかつてエッセイのなかで、この童話の非凡な独創性について言及されていたことがありました。自分はこの作者が天才だとは思わないが、作品自体は、これは天才の業である、誰にも真似のできない、これほど独創的な話は、今後誰にも書けないだろう---みたいな内容だったと記憶してます。
 僕自身もまったくその意見に賛成ですね。
 こんな、唖然とするほどおかしな話はないですよ。
 自分の流した涙の海で溺れたり、兎の竪穴を延々と落下していくとちゅうの穴の棚からオレンジ・マーマレードの瓶をとりだしたり、急激に巨大化したおりに、遠去っていく自分の足にむけて手紙を書こうとしたり、気狂い帽子屋とヤマネと3月兎とで終りのないキテレツお茶会をいきなりおっぱじめたり……。
 奇想天外でもって、ちょっぴり不気味わるいけど、胸底がきゅっとなるような無垢なキュートさもしっかり宿してる---こんなアリスの白日夢のようなまほろば世界に惹かれない子供なんて、果たしてこの世にいるんでせうか?
 僕にいわせれば、アリス・ワールド、イコール、童心そのもの。
 ですから、この話を解さないひととは友達になりたくないなあ、なんてつい思っちゃいますね。

 知っての通り、この話の作者であるルイス・キャロルは、本名をチャールズ・ラドウッジ・ドジソンといって、1832年、英国のチェシャー州ダーズベリ産まれの---ここで早くもチェシャー猫を連想してにこっとされたあなた、あなたは凄い、アリスの有段者認定です!---有名な大学教授さんなのでありました。
 ええ、彼、本職は、数学者であり論理学者であったわけでして。
 本職以外でもなかなかに多趣味なひとでして、当時まだ幼年期だった写真術に凝り、知りあいの少女のポートレイトなどいっぱい撮影してます。彼女たちのヌード写真なんてのもけっこう残ってる---いまだったらスキャンダルですよね、こういうの---どうも、ちょっとばかりロリコン趣味のある方だったようですね。
 実際、「不思議の国のアリス」の母胎は、キャロルが彼のいちばんのお気に入りの少女---アリス・リデル---のために語った、即興のお伽話がもとだったんですから。
 お気に入りの少女をなんとか喜ばせたくて、彼女を物語のヒロインにしたウケ狙いの話を紡いでいったら、それを聴いたアリスがもうむちゃくちゃに喜んじゃって、その話をぜひ本にしてくれ、とせがんだ。それが、結果的に「地下の国のアリス」という自家製の本となり、のちの「不思議の国のアリス」のクロッキーともなったわけなんです。
 こういうの聴くと、いい話だなあ、と僕なんかは自然に頬がゆるんじゃいますね。
 いい話、かくあるべし。
 誰か特定の個人を喜ばすための、素朴な奉仕の気持ちが、あらゆる傑作のたまごなんですよ。
 ひとりのひとを喜ばせたい気持ちが、結果的にほかの、多数のひとの気持ちに徐々に伝播していく---これが、傑作のあるべき正しい姿でせう。
 最初から「マス」を相手にして発信される名作は、それは名作なんかじゃなくて、名作という体裁だけ借りた企業プロジェクトじゃないの、と皮肉突きを咽喉元に一発入れたくなりますね。

 というようなわけで「不思議の国のアリス」という作品は、世評の通り、誰が読んでもおっそろしく面白い作品として仕上がって、日夜不特定多数の読者から愛されてるわけなんですが、よくよく読みこんでいってみると、この作品内の大部分を占めている「不思議の国」というのが、すこぶる異様な相貌をしてるんですよ。
 なにが? どのへんが異様なの?
 うーん、うまくいえないんですけど、この不条理世界、たくらんで編まれた形跡がまったくないんです。
 ライマン・フランク・ボームの「オズの魔法使い」あたりだと、なにか作者の「読者をびっくりさせてやろう!」みたいな、健康な空想上の茶目っ気を感じられる部分がずいぶん多いんですよ---いうなれば、意図的な悪戯魂みたいな。
 要するに、ボームの生みだしたオズの国というのは、あくまで作者ボームの空想の管理下にあるわけなんですよ。
 したがって、作者ボームの管理人としてのたくらみ手腕も、しっかり窺える。「オズの魔法使い」なんかでは、読んでてそのあたりの機微が明瞭に分かります。ああ、さすが、ミスター・ボームは自分の幻想世界をしっかり管理してるなあって。
 しかるに、アリスの場合はぜんぜんちがう、アリス世界の場合においては、完全に主客の逆転が実現しちゃってる。
 というか、物語の背景であるべきキテレツ世界のリアルティーが、あんまりありすぎる。
 つまり、物語内の空想世界が、作者であるキャロルの筆力を完全に凌駕しちゃってる感じなんです。さながら氾濫寸前の濁流とでもいった様相ですか。
 で、作者であるキャロルは、それに食われまいと必死に奮戦してはいるけど、そんなけなげな堤防工事がいつまでもつのか、はなはだ心もとない感じです。
 ええ、僕は、アリスのいる不思議の国は、度を超したナンセンス・エネルギーをたえず噴出してる、と感じます。
 本来なら、こんな不毛な土壌に、物語の花は咲かないはずです。
 このささやかな童話が、物語として成立していられるのは、一重に、物語のモデルであり、主人公でもあったアリス・リデルという一少女のおかげでせう。
 彼女のおかげで、この物語は物語として成立していられるのです。
 僕は、この物語の作者であるキャロルは、心に非常に深い闇を抱えた人間であったと見ますね。あなただってその気になれば、アリスの物語のあちこちの隙間から、なにか「無明」の闇のけむりがもくもくとあがっているのが見分けられると思う。この不思議の国全体がキャロル内面のデッサンだとするなら、このひと、恐らくこの世でなんにも信じてないですよ…。
 かろうじて少女であるアリスと、彼女の健康な肉体だけを信じてるような顔はしてますが、それは、通常にいうところの「信じる」という単語とはだいぶレベルの異なる感じです。
 信じるというより、内面いっぱいに広がった、キャロル内部の暗いカオス的情熱が、エントロピーの増大で崩壊しきってしまうまえに、アリスという少女の肉体にすがりつき、ぶら下がって、落ちまいと必死にもがいている、といったほうがむしろ実情に近いでせうか。
 
 ちょろっとまとめてみませうか---。
 えーと、作者であるキャロルはね、僕にいわせれば、明らかに影の国の住人であり、徹底して非存在のひとなんですよ。
 アリスはその真逆---れっきとして存在してる、触ることのできる、あくまで健康な一少女です。
 で、そのルイス・キャロル教授が、ある日の午後、影の国から光の国のアリスにむかって手紙を書いたわけ。
 年齢、ずいぶん離れてますけど、まあ、これは求愛の手紙として解釈すべきなんでせうね。
 無意味の国の影法師が、分不相応な光の国の少女に恋しちゃったんですよ---切ないなあ…。
 恋をしたら、まず相手の気を惹きたくなりますよね? 自分のなしうるあらゆる手練手管を使って、綺麗な花束をいっぱい相手に捧げなくっちゃ、です! この花束が、アリス内に登場するあらゆるナンセンスであり、また、不条理であったというのが僕の持論です。
 影が実在に接近しようとしたら、影なりの手練手管を使うしかない---それが、ナンセンスであり、あるゆる不条理であったというわけです。皮肉といえばまあ皮肉なんでせうけど、キャロル的には、もうそれしかなかったんですよ。
 アリス世界のなかに満ち満ちている、あらゆるナンセンス・ギャグのヴァラエティーは、あれは、キャロルなりの精一杯の「遊戯」であり「社交」であり、さらにいうなら彼流の「エンゲージ・リング」でもあったんですよ。
 ええ、「不思議の国のアリス」という作品は、根本にそのような構造を隠しもっている童話なんじゃないか、なんてイーダちゃんは思います。

                             

 上にUPしたのが、ルイス・キャロル氏の生前のフォトです。
 ねっ、キャロルさん、ナイーヴすぎる、いくらか過敏症チックな人相されてるでせう?
 これが、あの歴史的なキテレツ物語を生みだした顔なんですよね。
 ちょっと見だけでも詩人肌の顔ですよねえ、これは?
 ただ、詩人顔というだけじゃ収まりきれないものもけっこうある、思索するひと独自の石みたいな頑固さ、そんな独自の兆候がこめかみのあたりに兆してますね。それに、頭蓋のでかいこと! この顔はやっぱり詩人じゃなくて、数学者の顔なんでせうね。
 うーむ、アリスを語ろうと思ったら、やはりそちら側からのアプローチも試みなければ片手落ちになる気がします。
 というわけで数学者としてのルイス・キャロルについていきませう。
 ただ、学生時代まったく数学がダメだったイーダちゃんにとって、数学についての発言権はほとんどありません。
 こんな文系かつ体育会系男に数学を語らせちゃイカンと思いもします。けれど、そんなむかしむかしの中学少年だったイーダちゃんの目に、ある日、たまたまとまった数学者についての見解があったんです。
 出典は---なんと、探偵小説!---それ、アメリカの古典探偵小説作家ヴァン・ダインの著作なのでありました。
 創元推理文庫からでてた「僧正殺人事件」っていうの---これ、犯人が数学者なのでありまして、インテリ探偵のファイロ・ヴァンスっていうのが、数学者の精神的生活というものにウンチクを傾けるくだりがあるんです。
 その部分をちょっとだけ書きぬいてみませうか。

----空間と物質---これが数学者の思索の領域だ。ウイレム・デ・ジッターの空間の形についての考えは球状、あるいは球面形である。アインシュタインの空間は円筒形で、その周線あるいは、『境界線の状態』といってもよいが、そこでは物質は零に近づく……さて。このような概念を片方において計算したとき、自然とか、われわれの住む世界とか、人間の存在とかいったものはどうなるというのか。エディントンは、自然の法則などというものは存在しない---ということは、自然は充分に合理性をもった法則では律し得ないという結論を出している。そしてバートランド・ラッセルは現代物理学が必然的にたどり着く結論を要約して、物質は単に出来事の集団であり、物質自体はなにも存在する必要は持たないと解釈すべきだと述べている……その理論を押しすすめていくと、どういうことになるかね。世界が非原因的で、無存在だとすれば、単なる人間の生命などは、何ものかね……人間社会の個人などというものはその中におくと、無限小なものにすぎない、このように巨大な、ふつうの標準ではとうてい計り切れないような概念と取り組んでいる人間が、やがて、地上のいっさいの相対的価値の観念をなくして、人間に対して、限りない軽蔑心を持つようになっても、べつにふしぎはあるまいじゃないか……そういった人間の態度は不可避的に皮肉になる。心中では、いっさいの人間的価値を笑いものにし、自分の周囲に見えるものすべてのけち臭さをあざ笑うことになる。たぶん、その態度のなかには嗜虐的な要素もふくまれていよう。冷笑癖というものは嗜虐性のひとつの形式だものね……。
                                                               (ヴァン・ダイン「僧正殺人事件」創元推理文庫より)

 イーダちゃんは初めてこのくだりの部分を読んだとき、あれ、この感覚どっかで感じた覚えがあるぞ、と思ったんですね。
 最初は分からなかった。
 でも、考えているうちに思いだしてきた…。そう、それって当時から愛読していた「不思議の国のアリス」のなかで感じた、体感温度の奇妙なひんやり感と酷似してたんですよ。
 特に、アリスの流した涙の海で濡れまくったアリスと動物たちが、自分たちの身体を乾かすために開催した、あのふしぎなコーカス・レース!
 僕が、「僧正」のこのくだりを読んで最終的に辿りついたのは---ええ---実は、アリスの物語のなかの、このコーカス・レースのイメージだったんですよ…。

                                                                        (次ページに続く)
 

徒然その48☆素晴らしき50'S Black Rock‘N’Roll !☆

2011-02-05 19:19:06 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                           

 最初に断っておきませうか?---今回のは非常に趣味的で、マニアックなページです。
 よっぽどの音楽マニアじゃないと、分からんようなB級ブラック・ミュージック特集をやろうと思うんですよ。
 ですから、なんだ、あんま興味ないなあ、と感じられた方は早々に退出されたほうがよろしいかと存じます。
 僕は、ことあるごとにいっているように、超・重度のホロヴィッツ・マニアでありまして、クラッシックでもほかにコルトーとかクナとかシューリヒトとかが大好きなんですが、実をいうと、それとおんなじくらいブラック系の音楽も大好きなんですね。
 J・B、ブルーズ、パーカー、レゲエ、ジャンプ……それこそ手あたり次第になんでも聴きます。
 なんというか、周期的にクラッシックとブラック・ミュージックのあいだを往復旅行してる感じなんですよ。
 で、これは、最近発見したんですが、どうもブラック・ミュージックに入れこんでいるときのイーダちゃんのほうが、クラッシックを聴きこんでいるときのイーダちゃんより、なぜか社会的な評判がいいんです。
 ええ、おかしな話なんですが、皆、その周期の僕のほうが、そうでないときの僕よりも人間的に「いいひと」だ、と、まあ口をそろえていうわけなんですよ。

----えー、なにいってんだよ、アホくさー…。(鼻を鳴らして)

 なんて最初のうちは鼻で笑っていたのですが、あんまり皆がいうし、それに、よくよく考えてみたら心当たりがないでもないんです。
 たしかに! 会社の上層部とモメてやったらぶつかっていたころのイーダちゃんは、クラッシック聴きの周期にあたっていたんですよ。
 クラッシックに凝っていると、どうも内省癖というのか、ひとと会うのが億劫になってくるんですよ。
 で、ニートのごとく、個別な自閉空間にやたらこもりたがるの---なんでだろう? 巣ごもりに誘うような郷愁ホルモンみたいなのが、おのずから発汗でもされてるんでせうかね?
 ですが社会で暮らしていると、そんな自閉空間ばっかり閉じこもってるわけにはいきません。当然、会社にいかなくちゃいけないし、会社のなかでは同僚や上役なんかと協調していかなきゃいけません。
 ところがですね---クラッシックを聴いてばかりいると、このあたりの協調回路が、どうも接触不良になるようなんですよ。

----俺は静かに内省していたいのに、この野郎はいちいち馴れ馴れしく話しかけてきやがって(怒)…。

 と、これはまあ反応飛びすぎなんですが、リアクションがマイナスサイドの湿り気を帯びるのは、どうやらクラッシック熱中期の必然的傾向のようですね。
 残念ながら、これは僕の体験なんでして---。
 で、その結果、イーダちゃんが編みだした教訓はね、「クラッシックは平和によくない」というものでした。
 あの、フレーズだけいうと笑っちゃうギャグみたいなんですけど、僕的にはこれ、案外まじめな発言のつもりです。
 西洋クラッシック音楽の、シューベルトのリートとか、心のリアクションがタッチから敏感に感じとれるピアノ音楽とかはべつですよ---しかし、西洋音楽の中核をなしている、オーケストラによる抽象化されたシンフォニーとかの場合はね、僕はこれ、あんま身体と精神衛生によくないと思う。
 オーケストラ音楽って近代西洋文明の象徴といってもいいくらいの、素晴らしいものだと理解してはいるんですが。
 100人以上の、あれだけの大組織で音楽をやるっていう発想は、まさに近代西洋ならではで、ほかの文明圏ではあれほどの規模の集団ミュージックっていうのは生まれようがなかった、と思うんですよ。あれをやるには、楽譜の発明、楽器においてのピッチの統一、それに、音階においての平均律の発明といった要素が不可欠です。
 ほかの文明圏では音楽ってもうちょっとゆるいものでしてね、ここまで大人数のスペクタクル音楽にこだわったというのは、やはり、近代西洋文明のなかにあらかじめそうした要素が内包されていた、ということなんでせう。
 歴史上はじめて国民皆兵を組織したナポレオンじゃないですけど、僕は、西洋のオーケストラ音楽にどうしても戦争のにおいを嗅いじゃうんですよ。
 こんなこといって、オーケストラ音楽が好きなひとが傷ついちゃったらスミマセン。<(_ _)>
 でも、これ、あながち妄言とは思わないんですけど。オーケストラの指揮者ってなににいちばん似てるかといえば、やっぱりあれは将軍とかそういった感じじゃないですか---指揮棒でもって部隊に指示して、塹壕を掘らせたり、迫撃砲を撃たせたり、場面によっては退却、突撃を叫びながら煽ったり…。
 もしかしたら、これはあくまでイーダちゃんの偏見の範疇内の意見であって、一般性、まるきりないのかもしれませんけど。
 ですが、ベートーベンにはじまりワーグナーで完成に至った西洋オーケストラの音楽は、実際の話、西洋文明の世界征服の歩みとともに、ここまで進化してきたわけでありまして…。
 あのね、基本的にオーケストラ音楽って、まず「整然とした行進」だと思うんですよ。 
 ジャワのガムランとか、ほかの文明圏にもオーケストラっぽい音楽形態はないじゃないんですが、やっぱり、西洋オーケストラ音楽ほど整然とした、組織としての音楽をやるって集団は、結局どこにもないんですよね。ガムランもむろん揃っているといえば揃ってるんですが、基本的にユニゾンですし、クラッシックの合奏感覚から行くと、心もちいくらかバラけてますよ。
 だから、この比類なき合奏集団がその気になって演奏したら、その威力は、言語道断に凄いものがあります。
 もう圧倒されて口もきけなくなっちゃう…。
 けどね、イーダちゃん的には、この「集団で誘う至福状態」は、ときとして息苦しくなるときがあるんです。
 もっとバラけててもいいから、等身大の、ゆるゆるの夢が見たいってときが、人間ってやっぱあるじゃないですか。
 レストランのフルコースより屋台の焼きそば--。
 高級なスコッチよりも隣りのひとと肩をすりあわせつつあおる焼酎がいい、みたいな---。
 そんなとき、イーダちゃん内の全細胞は、ブラック・ミュージックを求めるんです…。

 ブラック・ミュージックはいいですよー!
 なにがいいって音楽を聴いてて身体にくる場所がクラッシックとちがう、ブラック・ミュージックは「肚」にくるんです。
 ええ、東洋伝統武術でいうところの、下腹にあるいわゆる「丹田」ですね。
 ここの「丹田」、これこそがブラック・ミュージックのキモにあたります。
 ここの部位に、後ノリのあの気持ちいい、ゆるゆるのリズムがだんだんに響いてくるわけ。
 クラッシックよりずいぶん雑然とバラけてて、人肌の香りが濃く漂う、ある意味のんきで気分屋な音楽なんですけど、この人懐っこくてほこりっぽい歩みようって、なんだか基本的にハッピーなんですよ。
 武術とヨガに詳しい知人にいわせますと、ヨーロッパ系の白人の身体意識って、だいたいアタマから首の付け根あたりまでしかないそうなんです。まれに胸までを身体として「感じてる」ひともいるけど、だいたいにおいてはそこまで止まり。彼らにとっての身体というのは、まず「理性」の宿るアタマであり、下腹部とか脚とかはあくまでそれに付随する二次的なものでしかないんですって。
 このあくまで「理性」中心の階級意識って、なんだか凄いものがありますよね。
 牛肉を食べる部位によって社会的階級が決定されるって説は社会科学の本で見受けたことがありますが、身体の各位にまで階級意識が貼りついてるっていうのは、これはユニークですよ。
 しかも、アタマや思想でこしらえた「理性」主義じゃなくって、身体始発の感覚指導の歩みなんですから、この傾向は半ば本能的なものといってしまっていいのかもしれません。
 面白いですよ---本能的傾向でもって「理性」を優遇して「本能」を排斥するなんてね---。
 ブラック・ミュージックには、そんなややこしい構造はありません。
 ホワイト・オーケストラ・ミュージックほどの洗練と統一はないかもしれないけど、彼らは「本能」を排斥したりはしません。
 というより、ブラック・ミュージックでいちばん大事な要素は、乗るってことなんですよ。
 いわゆる「ノリ」ね---生きて動いてる現在のリズムを「感じる」こと---第一義はそこにあるんです。
 ええ、標準はあくまで「現在」なんです---未来でも過去でも理性でも理想でもない---かけがいのない「現在-いま-」を、身体をゆらしつつ感じ、愉しむこと---。
 これ、ひととしてとても正しい歩みようだと思うんですけど、どうでせう?

 というわけで大変理屈っぽい持論をついだらだらとやっちゃいましたが、Don&Deweyです。
 ドン・シュガーケイン・ハリスとデューイ・テリーの爆弾ブラック・ディオ---。
 リトル・リチャードやレイ・チャールズに比べると、彼ら、ぜんぜん無名ですけど、いわゆる50'Sのロックンロール・ディオとしては、僕は、世界最高峰なんじゃないかと思ってます。
 リトル・リチャードのシャウトはたしかに凄いものがありますけど、僕的にいうなら、ドン&デューイの爆裂ダブル・シャウトはそれ以上のパワーを内包してますね。シャウト自体の質がね、明るくて、下品で、とにかくハチャメチャ。
 なんというか、あまりにも天真爛漫にはっちゃけすぎてるんで、元気のよすぎる狼の子が2匹、もの凄いスピードで追いかけっこしてるのをあれよあれよと見てるみたいな感覚なんですよ。
 運動性と色気とアナーキーすぎる疾走感と---なにもかもが過剰でうるさくて、もう、聴いててクラクラしちゃう。
 初めて彼らのヴァージョンで「ジャスティン」を聴いたとき、完璧吹っとびましたもん、僕は…。
 日本のブルーズ・ギタリストの山岸さんが、彼らと会ったときのことをちょっと書いてられますんで、2、3行引用させていただきませう。

 シュギー「知ってると思うけど、ドン&デューイのデューイ・テリー!」
 オレ「ゲロ、ゲロ! オレ、レコード持っとるヨ。“ジャスティン”や“ココジョー”の入っとるやつ!」
 オッサン「そう、そう、それワシが演ったんや!!」
 オレ「ところで、ドン“シュガーケイン”ハリスはどうしてんの?」
 オッサン「あ~、あいつ今ム所に入っとるわ! 又、出てきたら一緒に演ろうと思っとるけど、それまでは、他のドンで間に合わせとる、ウン」
                                                            (山岸潤史「ドン&デューイ CD解説」より抜粋)

 いいなあ、この大ざっぱな感触…。(ため息して)
 ただ、彼ら、ハチャメチャだけじゃなくてむろん音楽性だって相当なものでして、ジョー・リギンスのカヴァー「ピンク・シャンペン」なんかでは、まだ50'Sなのにエレクトリック・ヴァイオリンなんて使ってたりね、超・翔んでて侮れないんスよ。あとでたしかフリージャズのオーネット・コールマンなんかとも共演していたんじゃなかったのかな?
 いずれにしてもこの不況続きのたそがれニッポンで、たくましく生きぬいていこうと思ったら、まず座右に聴くべきなのは、こういうアチチの音楽なのではないでせうか。
 猥雑なまでの原色の生命感。野蛮さとキュートさの絶妙なブレンド具合が、それはもうたまらんの。
 僕なんか最近の筋トレのBGMには、ほとんどコレですもんね。
 ドン&デューイ---ブラック・ミュージック好きには超・必聴の1枚、聴きのがすのは、おーい、絶対ソンだと思いますよーッ---!(^o^)/  


       (P.S.50'SのB級ブラック・ロッカー、ジョン・レノンがカヴァーしたラリー・ウイリアムズもゆるゆるでいいヨ!)
                                                       

徒然その47☆ランナーズ・ハイの青空とおばあちゃんの飛行機☆

2011-02-02 19:17:25 | 身辺雑記
                          

 週末のあいた時間を利用して、水泳とジョギングをはじめてみました。
 水泳とジョグっていうのは、実は以前から考えていたんですね---なにせ体力、落ちまくってますから。
 40代前半だったら懸垂の50回くらい、ま、屁でもないような筋肉バカ系の体力自慢だったのですが、40代半ばを過ぎはじめると、いや、わずか懸垂20回で息が切れる。だけじゃなくて、場合によっては、なぜかふいに無関係な腹筋がつっちゃったりもする---懸垂なのに!(xox;>
 これに危機感をもって市営のプールにいってみて、愕然としちゃいました。
 ほんの25メール、クロールしただけなのに、死ぬほど息がきれるのよ。
 これ、あんまショックだったので、暇を見つけてはプールに通い、なんとか300メートルくらい泳げるまでには回復しましたが、いかんせん体力全般の地盤沈下には目を覆うほどのものがありました。
 イーダちゃんはね、人間というものは、心は強いけど身体は弱い、つまり、身体からさきに裏切って折れていく生き物だと思ってるんですよ。
 どんな高尚な思想に心に燃やしていたってね、飢えと拷問にさらされたら---もーダメ!
 いざ鎌倉という事態になって、自分が高尚な正義側に残れるだけの度胸と腹があるとは思ってはいませんが、日本男児のたしなみとして、そうありたいとは常に願っておりまする。だもんで、まあそっちがわの理想の自分に少しでも近づくために、いい年こいた中年親父の年齢域にもかかわらず、あっちゃこっちゃ、さまざまな精進を欠かさないわけなんスよ。
 一本刃の下駄で歩く古武道稽古に燃えたり、地道に筋トレしたり、あるいはヨガに取りくんでみたりもね---。
 で、水泳ははじめてまもないうちに、これはとても効果的だってことがわかったんですね。
 だったら、これだけつづけていればいいもんなのに、欲張ってジョギングまで併用してみたら、わあ、走るってやっぱ、いいんですよお…。
 僕が幼児のころ、あの伝説の大投手・金田が「走れ、走れ!」としきりにいっていた理由が、よーく分かりましたね。
 走りって、すべての運動の王道かも分かりません。これやってると、自分の至らない部分、歩きかたのクセ、弱っている箇所なんかが、瞬時に分かります---あと、肉のあまってる箇所なんていうのもね。
 むろん、徹底的に持久系が衰えているんで、十代のころみたいに10何キロなんてとっても走れません、いまのところ4、5キロのジョグがやっとの感じですわ。
 ただ、走ってみて思いだしたのが、あのランナーズ・ハイってやつなんですよ。
 僕は、いつも近場の公園の無料の400メートルトラックをジョグしてるんですが、いい天気の日に、空見ながらトコトコ走っていると、だいたい6、7周目くらいでコレがやってくるんです。

----Wao! Here Comes The Runner's High…!

 最初は、なにかと思った。
 僕はそのとき、やや上目使い目線で、いい天気の午すぎの青空を見ながら走ってたんスよ。
 そしたら、その空が、なんかいきなりクリアになった。
 ささーっと、それまで自分と空とを隔てていた、目に見えない、なんらかの幕が取りのぞかれた感じ。
 疲れのピークが、あらゆるモノから日常の虚飾めいた意味性をすべて剥ぎとっちゃったというか。
 息はとっても苦しいんですよ---ハアハアしてる---髪の毛はとおに汗まみれだし、おまけに右の骨盤付近の筋肉か筋かが、さっきからずっと引きつれるみたいに痛みつづけてるし。
 でも、あれえ!? って感じで、空はあいかわらずキレイに見えつづけるわけ。
 錯覚かと思って角度変えてみても、効果は変わらず、やっぱ、キレイ…。
 なんじゃろ、これ? とふしぎに思ってね、ふしぎに思いながら、なんか無重力みたいな感じでずーっと走ってました…。

 気になってあとから調べてみたら、どうやらランナーズ・ハイじゃないかって話になって、へえ、あれが、とまさに膝打つ感じでありました。
 これは、皆さん、走りにハマるの分かるなあ、と思うくらいいい。
 ひとことでいって超・気持ちいいの---もしかしたら、あれ、Hよりよいかもしれません---。(^^;>

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 ふたつめのハイ話---これまたプライベートで恐縮なんですが、このジョグなんかと同時期に僕、ボランティアっていうのをはじめてみたんですよ。
 いままでそんな時間なかったけど、いまは週末があいてるわけですし。
 駅前のボランティア登録っていうのにまず行って、近場の老人介護施設を紹介してもらってね---イーダちゃんは10年くらいまえにヘルパー2級とってたんですよ。そのことを係のひとにいったら、ああ、それなら食事介護の資格者を募集してるとこありますよっていわれて、1月からほぼ週一ペースでそこの施設に通ってます。
 昼まえの午前中にトコトコその施設に出かけていってね、老人ホームに入居してられる車椅子の、自分でご飯の食べられないおばあちゃんたちの食事をまあ介助するんですね。
 より具体的にいうなら、手の効かないおばあちゃんにスプーンで食事さしたげる、おばあちゃん自身のかつての手の代わりを務めさせてもらう、といったような塩梅なのです。
 これ、やってみれば分かると思いんだけど、喋れない、初対面のおばあちゃんの食事のペースを推し量るのって、けっこう難しいんですよね。
 むこうさんはむこうさんで、他人サマに食べるのを手伝ってもらうって事実に、負い目を感じてることが多いし。
 そうなると、本当ならあんまり食べたくなかったり、もっとゆっくりペースで食べたいと思ったりしてるくせに、介護者がスプーンで食事すくって自分の口元までもってこられたら、つい申し訳なくて、むりして全部口に入れちゃって、結果的にそれがなかなか飲みこめない事態に陥っちゃったりね…。
 相手の当のおばあちゃんが喋れるといちばんいいんですけど、食事介助を必要とするような入居者の方は、だいたい口をきけない率が高いのでありまして、そのへんを機微を察しながら、まあ介助っていうんですか? そういうお手伝いをやるわけなんです。
 そのお午、僕は、窓際の景色のいいテーブルにいた、4人組のおばあちゃんの担当になりました。
 介助を要するおばあちゃん自体は実際にはおひとりで、あとはみんな喋れるし、自分でゆっくりながら食事もできるの。
 で、食事ってとにかく会話が命ですから、皆さんに挨拶して、全員のおばあちゃんとにこにこお喋りしながら、食事介護をはじめたのでありますよ。
 
----あのー ○○さん、こんなペースの食事でいいんですかね? こんなですか、いつも…?

----いいんですよ、ぱくぱくご機嫌に食べてるじゃない? ○○さん、若い男のひとが好きだから……ほら、喜んでますよ。ね、○○さん、そうよねえ……?

 (無心ににこにこと笑う○○さん)

 ……なんて感じですかね。
 窓際の東側にいるおひとりは、東京出身で東京育ちのおばあちゃん。
 その正面にいる窓際のおかたは、去年末にこの施設に入ったばかりだ、としきりにぼやいておられます。
 僕の左のおばあちゃんは、4人のなかでいちばん身体がしっかりされてます。いいかたはややキツいけど、何気に僕のフォローをしてくれたり、僕的にはちょっと有難い存在なのでありました。
 僕は、介護の○○さんの口元に、ひとくち分づつスプーンで食事を運び、おばあちゃんが口をあけたら、上方やや斜めの角度からスプーンを口腔内へそっと差しこみつづけます。
 おばあちゃんの噛みかたの具合を見ながら、わあ、うまく飲みこめてるゾ、と安心したり、うん、皺だらけだなあ、○○さんの若かったころってどんなだったんだろう、なんて勝手なことを思ってみたり…。
 ま、他愛のないことを喋りつつ、みんなでお午どきの空を眺めつつ、ゆっくりゆっくり食事してたら、窓際のおばあちゃんがふいに、

----あっ。飛行機…。

 みんなには見えなかったんです。僕も見えなかった。だもんで、

----えっ、どこ? どこです…?

----見えないわよ、飛行機なんて、ぜんぜん……なんかの錯覚じゃないの……?

----ううん、飛行機だってば…ほら、あそこ、ほらあ……。

 と、強硬に主張しつづける窓際おばあちゃん。
 でも、みんなには見えなくてね、みんなしてこれはきっと窓際おばあちゃんの錯覚だろうと事態を収めかけていたとき、彼女の言葉を裏書きするように、唐突に青空の一点に、銀色の飛行機が現れたんです。

----あっ。ほんとだ、飛行機だ…。

----ああ、ほんと…飛行機……。

----ほんとだ、きれいねえ…。

----きっといまから…関西の、西のほうに行くのねえ…いいなあ……。

 で、みんなしてその飛行機が見えなくなるまで、ずーっと空を見ていたんですよ---。

 ぶっちゃけていえば、ま、そんだけの話---。
 けれども、イーダちゃんは、このとき老人介護施設の高層階から入居者のおばあちゃんたちといっしょに見た、このときの飛行機と、空の抜けるような青さとが、なぜだかいまだに忘れられません。
 僕の介助担当の○○さんもつぶらな瞳を大きくあけてね、ゆったりペースで咀嚼しながら、皆のように長いこと午どきの空をじーっと眺めてられました…。
 空ってふしぎなんです、見ててふわっと気持ちが軽くなるときと、心ごと吸われて空虚に淋しくなるときと両方あって。
 みんな、なにを思ってそれぞれの飛行機を見てたんでせう? 
 目に染みるような空の青を、どんな思いで眺めてられたんでせう?
 考えたって分かりようのないことですが、そのようなことをなんか考えちゃいましたねえ…。
 
 今回僕が話したく思っていた話は、これで全部です---お休みなさい---。(^^;>