イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その235☆ 三輪山より飛鳥、そして、なぜか西成へ… ☆

2016-09-18 13:26:22 | ☆パワースポット探訪☆

             <天樫丘天文台---蘇我氏の邸宅があった場所---よりの眺望: 背後に見える山は畝傍山>

 えーと…2016年の9月5日、「三輪山」の登拝をすませたイーダちゃんは、すぐその足で飛鳥に向かっておりました。
 僕以外にもその手のひと多いと思うんだけど、飛鳥ってね、僕の魂の故郷なんですよ、ウム。
 アスカって言葉の響きだけで、なんだかもうわけもなくたまらなくなっちゃうの。
 飛鳥---なんてふしぎな響きだろう…!
 これは、中学時代からの根っからの性癖なのよ---いわば骨がらみ。
 なにより飛鳥は、僕がニッポン文学の最高峰だと考えている、あの「万葉集」を生んだ土地でもあるしね。
 このたびの衝動旅では、実のところメインデッシュはあくまで「三輪山」のみであって、ほかの土地を訪ねることなどまるきり考えちゃいなかったんですが、「三輪山」の凄さを身体で味わってしまうともういけない、
心と倹約回路のタガは一気に外れ、歴史オーラ・オタクのハートに炎が着火され、列車地図を見直してみたなら、なんと飛鳥って三輪から案外近いじゃないですか。
 これは、もう、行くっきゃない---!
 てなよなわけで、近鉄電車を乗り継いで、いってきました、飛鳥村…。

 何年ぶりですかねえ、飛鳥にきたのは…。
 飛鳥駅---いつもクルマできてたんで、実のところ電車での訪問ははじめてです。
 台風12号の影響で雲行きはあまりよろしくありませんが、なに、飛鳥は飛鳥です。
 平日の飛鳥駅は、閑散としてました---観光客の姿もほとんど見られない---小雨のパラつくなか、駅前の粉モノのお店に入り、
 ひさびさの本場・関西お好み焼きに舌づつみを打ち、観光協会にて民宿の予約を入れたあと、
 馴染みのレンタルサイクル「万葉」さんでいつも通り自転車を借り受け、さっそく飛鳥散策の旅にでかけてまいりました。
 飛鳥は、もうトンボの季節になってましてね----
 いつか、栃木の北温泉を訪れた際にも、あまりのトンボの数に仰天した記憶があったけど、それ以来の驚きです。
 特に、「伝飛鳥板蓋宮跡(飛鳥京跡といま改名中だそうです)」の付近のトンボさんらは凄かった。
 僕のガラゲーカメラじゃ解析度低いんで、あまりその雲霞状況が写しきれてはないんですが、まあ試しに1枚----ぱちり。




 坂の多い飛鳥散策に自転車を利用すると、必用なのは一に体力、二に体力---毎度のことですが、駅前から高松塚の長い坂をこえていくのは応えました---特に、僕の場合、午前に三輪さんを登拝したばかりでしたしねえ。
 天気は、台風12号影響の曇り模様---湿度も高く、なんとも蒸し暑い。
 その難所の高松塚をゆきすぎ、飛鳥川をわたり、僕個人的にいちばんフェバリアットである「伝飛鳥板蓋宮跡(飛鳥宮跡と現在改名中)」を目指します。
 ここ、なーんもない、がらんちょんとした、広大な、普通の田んぼのなかにある廃墟なんです。
 簡単な説明書きが1枚あるきりでね、売店やお店もなんもない。
 遺跡の向こうの田んぼでは、おっちゃんがフツーに農作業してられるしね。
 でもね、このなんにもない「飛鳥宮跡」の廃墟が、僕は、大好き…。
 初めてここを訪れたのは、いまを去ること30年以上まえの、高校の修学旅行のときだったんだけど、その初訪問の時点で、僕はこの跡地に魂を吸いとられるのを強く感じたんです。
 当時はここ、あくまで「板蓋宮跡」であって、「飛鳥宮跡」とは考えられていませんでした。
 けど、この地に立った刹那、紅顔の純少年であったイーダちゃんは、

----ああ、まちがいない…、ここ、絶対、飛鳥宮の跡地だよ……!

 と、全身の細胞と原形質でもって体感したのです。
 その本能的な体感が、現実の調査の裏づけでもって、ようやく立証されつつあるなんて、なんともドラマチックで喜ばしいかぎりです。
 実際、あの額田王なんかも、この地で長いこと宮遣いされていたらしいのよ。
 論より証拠---まずはフォトでもって、かの地の息吹きと涼風とを体感していただきませうか----






 
 
 如何かな?---過ぎ去った「時」の御姿とそのほのかな残り香を嗅ぎとっていただけたでせうか…?
 僕はここにくると、いつも茫洋とした静かな想いに包まれて、あっという間に小1時間はたっちゃうの。
 ちょっとほかに類のない、ふしぎな場所ですよ、ここは。
 霊感のあるひとにいわせると、ここにはなにやら特別な「竜の道」っていうのが通ってもいるらしい。
 霊感ゼロの僕にはそれを感知することはできませんでしたが、かつてここで過ごし、暮らした無名の人々のさまざまな思いの残り香を、かろうじて嗅ぐことだけはできたようにも感じます。
 あ。2枚目フォトの右端にちょっと写ってるのが「飛鳥宮」の解説板ね。
 ここ、解説らしきものはここにしかないの---看板もなし---店舗も売店もゴミ箱もない。
 人間業のはかなさをここほど感じられる場所は、そうはない。
 いろんな英傑がここにはいたことでせう、俊才も、美女も、陰謀家も、業突張りもいたでせう。
 でも、そのような栄華は悠久の時の彼方---いまはもうだあれもいない。
 太古の都の廃墟が、なんの衒いもなく、飾りもなく、ただ風のなかに茫洋と佇んでいるばかり…。
 このぶっきらぼうな見せかたもなんかたまらん---ええ、「古(いにしえ)」に心を飛ばすには、ここ、飛鳥でも最上級のカタパルトであると僕は思います----。


                           ×          ×          ×

 飛鳥では、この「飛鳥宮跡」のすぐ裏手にある民宿「吉井」さんに宿をとりました。
 清潔でほっこりした、いいお宿---食事もとっても美味しくて。
 正直、飛鳥の里に泊まるのはこれがはじめて---温泉至上主義のそれまでの僕は、温泉のない地に宿ることは絶対になかったのです。
 しかし、多くの古墳に囲まれた飛鳥の地で泊まるのは、なんかよかった---。
 夜の8時頃、なんの脈絡もなく、ふいに絶縁してた大阪の友人にTELすることを思いつきます。 
 彼は大学時代からの古い友人で、僕がかつて 徒然その30☆古書「うんたらた」主人の内緒話☆ という記事にあげたこともあるYという男なんですが、5年ほどまえになぜか仲違いして、以来連絡もずーっと途絶えてたんですよ。
 思いついてから、10秒くらい迷いました---うーん、どうしようかなって。
 だって、拒否られたらヤじゃないすか?
 でも、「三輪山」は復縁の山ともいわれてるし、えいや、とにかくかけてみさんせ、と一気にTELをば。
 したら、お互いに思うところはいろいろとあったものの---明日会おうって話になった。

 で、超・個人的な話で恐縮ですけど、交友復活することができました…。
 三輪さんの(地元のべつの関西友人は「三輪山」のことを三輪さんと呼ぶのです)おかげだよね---ありがとう。
 そんなこんなで、この旅は、とても有意義な旅だったのです、僕的には。
 ただ、最後にこのYが新大阪まで送ってくれることになって、僕等、途中の天王寺で飯でも喰おうといっぺん出たんですよ。
 僕は、天王寺のアーケード街で飲んだ学生時代の記憶があるから、アーケード街で一杯やりたいといったわけ。
 でも、ふたりでそっち方面に向かってみたんだけど、天王寺の駅前はべつの新興都市みたいにイオンや大資本やらの攻勢ですっかり綺麗になっちゃてて、ないんですよ、かつての埃っぽい感じの昭和昭和したあのアーケード街。

---あれ、おかしいね?

---いや、こっちにいったら新世界のほうへ出るはずや…。

 なんてふたりして昭和のアーケード街、駅からだいぶ離れた地点でやっと見つけて、そこをウロウロと奥までいったらさ---いつのまにやら大阪・西成地区のド真ん中に迷いこんじゃった…。
 日本最大のスラムとかドヤ街といわれてる西成のあいりん地区を、貴方はご存知?
 いやー、凄かったっス…!
 なにが凄いってそこ近辺のアーケード街、みーんなシャッター街なんですよ。
 で、そのやや暗のシャッター街を、クルマ椅子のじいちゃんが、なぜかいっぱい自走してる。
 そのうちの8割がくわえ煙草で上半身裸プラス裸足---んで、半分以上がモンモン入りなんですよ---ワシ、若いころブイブイいわせたんや、みたいな。
 あっちでは上半身裸の半パンの痩せこけたまっ黒のじいちゃんが、ところかまわずガン飛ばしてるわ----
 道のこっち側は自転車が百台くらいごしゃごしゃって集団駐輪してるわ----
 ほぼ一街区にわたって洗濯物がぐわーっと道なりに干してあるわ----
 公衆便所を覗いたら「注射器を捨てないでください!」の貼り紙はあるわ----
 職安を通りがかったら、無数のくたびれたじいちゃんがそこかしこに座りこんでて、なぜかそこに救急車もとまってて、美空ひばりが大音響でかかってるわ(ちなみに流れてたのは東京キッド」でした)----
 もうね、異郷の地よ---雰囲気的には東南アジアの感じかしら?
 東京の上野公園あたりにも一時期ホームレスがいっぱいいた記憶はあるんだけど、あれよりダンチに凄い。
 写真撮りたかったけど、撮ってるとこ見つかったら殺されそうなんで、ちょっとムリでした。
 どうにもならない生のままの、巨大すぎる、匂いたつような貧困のデッサンがそこにはありました…。




 ただね、この光景、悲惨といえば悲惨なんだろうけど、僕的にはなんともエネルギッシュに感じられらたのも事実。
 これほどじゃないにしても、ひとむかしまえの東京の上野あたりじゃ、似たような光景はよく見られたんですよ。
 けれど、いま、東京でホームレスの姿を見ること以前よりぜんぜん少なくなりました。

---なんで?

---貧困ビジネスに喰われちゃったから…。

 いま現在の日本には、ホームレスをあえて誘い、生活保護を申請させてから彼等を集団で狭い住居に住まわせ、その生活保護のあがりをかすめるという手口のニュービジネスが存在し、蔓延しているのです。
 こうしたビジネスをビジネスとして認めてしまうという社会は、僕は、「悪」だと思う。
 弱者を喰いモノにし、税金のあがりをかすめ、それを商売として認可してしまう社会っていったいなんなの? って感じます。
 また、これは、あくまで推測でしかないけど、2010年に外国からの臓器移植が禁止になってから、このような貧困狙いのビジネスが興隆してきたって話もある。 
 もの凄い闇ですよ、これは…。
 マスコミも扱わない、貧困ビジネスの世界の裏で、いったいなにが行われているのか?
 そういった意味で西成地区にまちがって迷いこんだこの道中は、僕的には非常に刺激になりました。
 ええ、年金が破綻したいま、西成地区の窮状は、僕等にとっても他人事じゃない。
 あれは、ひょっとしたら僕等の社会の「あした」かもしれない---沖縄での現況が僕等の「あした」でもあるように…。

 思わず硬すぎる話になりました---でも、僕、こんな風な旅になったのは、やっぱり、これ、「三輪さん」の導きだったように感じてるんです。
 聖から俗---さらには俗の下にある地獄界---それらが三つ巴になって、僕等の世界は今日も輪転していきます。
 ほんとに「あしたのジョー」じゃないけどさ、ついこういいたくもなってくるよね?

---ねえ、世界、知ってたらちょっと教えてもらえないかな?---僕等はどうなるの?---幸せになれる? それともいままでの弱者切り捨てや自分だけ勝ち組の業なんかで地獄堕ち決定かな? 黙ってないで教えて---僕等のあしたってどっちよ……?


★この大阪発の親友Yの口から、古い学生時代の女友達のKちゃんが去年死去していることを知らされびっくりしました。
 高校のころのM・I君、バンド仲間だった家高、太極拳の師範代だったマブダチのS・O…夭折した大事な友人らの顔が次々と胸中をよぎります。
 ねえ、俺ら、いつのまにかそんな世代になっちゃったんだなあ…。
 Kちゃんとはそれほど仲良しじゃなかったけど、いっしょに旅行にもいったりした若いころの大事な仲間ですから。
 死因、くも膜下だったそうです。
 月並みですけど、Kちゃんの冥福を願ってやみません…。





 
 

 



 
 

 

徒然その234☆ 三輪山にいってきました ☆

2016-09-10 19:33:25 | ☆パワースポット探訪☆



 Hello、皆さん、お元気?
 3ケ月のご無沙汰でした---。
 このところ私生活でいろいろありまして---その詳細はのちほどブログにあげるつもり---ちょっとねえ、ブログどころじゃなかったんですよ、ここ最近の僕事情は。
 連日の常軌を逸したオリンピック狂騒報道があんまりウザすぎたって影響も、ちょっとはありそう。
 ま、僕、オリンピックは結局いちども見なかったけど。
 だって、はっきしいって、いまはオリンピックどころじゃないんじゃないですかね、皆の衆!
 お祭りに浮かれるのは勝手だけど、お祭りと戦争のセットは、いつでも国の陰謀の隠れ蓑として使われるという事実を忘れちゃなりません。
 で、7.10参院選不正選挙であいかわらず自民が圧勝したっしょ?
 応援してるRKブログは biglobe のなんかのわからん圧力でID抹消されちゃうしさあ…。
 (しっかし、こんな分かりやすい報道の自由封鎖、見たことないぜ(# ゚Д゚)!)
 で、まあ、それやこれやで現世のあまりといえばあまりの穢れっぷりがもうたまんなくなったんです。
 たまりたまったこの俗世の垢を洗い落としたくて、どうにも辛抱できなかった。
 というわけでこの9月、イーダちゃんは、夜勤明けの足でほとんど衝動的に、憧れの三輪山に向かっていたのでありました。
 ええ、日本一のパワースポットとかねてから噂されている、あの「三輪山」---
 邪馬台国の卑弥呼が祈りのたび登っていたといわれる、あの「三輪山」---
 万葉集の第一巻で額田王が、

----味酒(うまさけ) 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠れるまで 道の隈い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見さけむ山を 情(こころ)なく 雲の 隠さふべしや

 と唄ってもいる、あの禁足の地「三輪山」へ---。




 遠く、万葉の時代から、「三輪山」は、すでに神の山でした。
 木や草々のすべてに神の宿る山といわれ、長いこと信仰の対象になってたの。
 場所的には奈良の大阪寄りに位置しており、日本最古の神社といわれている大神(おおみわ)神社の、御神体であるのがこの「三輪山」---
 そう、この大神神社には、御神体の社殿がないんスよ。
 自然の、ありのままの山が、古(いにしえ)からずっと信仰の対象として崇められてるわけ。
 実際、明治の治世になるまで、「三輪山」は、神職以外は足を踏み入れることのできない、神聖な、特別な山だったんです。 
 ですから、「三輪山」に上ることは、大神神社への参拝と同義であり、この山に登ることは「登拝」と呼ばれてます。
 神聖な山であるからして、登拝前には宮司からの厳しい説明とお祓いとを受けなくちゃいけません。
 あと、入山前に宮司から襷をわたされ、登拝中は絶対それをはずせない。
 むろん、登拝中の撮影も、山での飲食も喫煙も、山のものすべての持ち帰りも---草木のきれはしから石や砂利の一粒にいたるまで---固く禁じられてます。
 高さ的には標高467mとそれほど高い山じゃないんですが、ここの登拝路は案外急で険しいの。
 怪我人も結構でるみたいだし、場合によってはヘリを呼ぶことなんかもあるらしい。
 トイレもない、水飲み場もベンチもない、道をはずれたらマムシなんかも結構いるみたいだし。
 霊能者の江原啓之さんが「日本で5本の指に入るパワースポット」と紹介したことで一挙に有名になったみたいだけど、とてもとてもそうしたミーハー的視点から語れるような山じゃありませんや。
 「三輪山」は、ホンモノです---僕は、まえからそう予感してた。
 ただね、生きてると雑事とか義理とか仕事とかいろいろあるじゃないですか? 
 そういった意味で今回の登拝を後押ししてくれたニッポンの諸々の穢れ事情には、ある意味感謝してるといってもいいのかもしれない w
 呼ばれたひとしか行けない、といわれた「三輪山」まではるばる僕を誘ってくれたんだから…。
 
 ただし、夜勤明けの昼過ぎに横浜をでて、午後の2時までに神社での登拝受付をすませるのは物理的にむりがあったんで、僕は、新大阪→大阪→鶴橋→桜井 のラインで三輪近郊の桜井までいって、とりあえずそこに宿をとることにしたんです。


 

 前哨基地としてセレクトした奈良県・桜井は、田舎でしたねえ。
 まえに何度か飛鳥探索の際、この近辺をクルマで奔った記憶はあるんだけど、そうした記憶以上に近鉄・桜井駅近郊はさびれてました。
 歴史を感じさせる古い町並とまばらなひと通り。
 廃ボーリング場が中心部にある、駅前の桜井1番街なんてすべての店舗がシャッター街で、ほとんど廃墟みたいだったんだもん。
 ひとことでいうと大変僕好みの町---町全体に漂うノスタルジックなムードがもうたまらん。 
 ま、でも、ここで元料亭である「皆花楼」さんって云う渋いお宿を見つけて、そこにお泊りできることになりまして、夜勤明けだったから夕刻になるともうバタンキューと眠っちゃいました。
 で、翌日早朝に起きて、近鉄で目的の三輪駅へ…。
 三輪は、予想していたように田舎でありました。
 ずっとむかしに住んでいた愛知県の豊川市の町並---豊川には豊川稲荷があるんです---と自分のなかでちょっとかぶる部分があった。
 小さな地元の参拝客相手の商店のひとたちが、いそいそと開店の準備をしてるのを眺めながら、その商店街の通りを抜けて---「大神神社」の表示通りに進むと、まずは山の入口にある大鳥居に目を吸いとられます。
 噂のその大鳥居をしばし見物してから、肝心要の「大神神社」に向かいます。
 いい歳して、なんかドキドキしてきたぞ。
 参道途中でたまたますれちがった30くらいのアメリカ人と挨拶して少し世間話したりして、気分も上場---懸念は、九州まですぐ迫ってきている台風12号のもたらす雨模様だけです…。




 さあ、いよいよ「大神神社」の鳥居をくぐり、境内の狭井(さい)神社にむかいます。
 こちらの社務所にて登拝料の300円を支払い、登拝の手続きを行い、宮司さんより説明を受けるのです。
 時刻は午前9:07---頂いた鈴つきの襷を掛け、登拝用の杖なんかもお借りして、軽くストレッチなんかも少々---深呼吸を幾度かしたら、いざ、
撮影・飲食・排泄禁止の、神秘で厳かな「三輪山」登拝の開始です---!




 入口の鳥居をくぐって、ウムという感じで気を引きしめて登りはじめると、いきなり鬱蒼たる山中です。
 あとにUPした地図からも分かるかと思いますが、くねくねとつづら折りの急坂がつづき、あまり周りを見まわす余裕はありません。
 一歩ごとに濃くなっていくオゾン臭を意識して、階段から足を滑らせないよう注意しつつ、黙々と距離を稼ぎます。
 まだ下界が近いので、下のほうから町の音、三輪小学校のチャイムなんかが流れてくるのが、なんかふしぎな感じ。
 そんな按配で5分ほど登ると、小さな沢と合流しました。
 有名な狭井川です---なんて綺麗な水だろう。
 目を細めて川沿いの道をしばらくいくと、やがて小さな橋につく。
 丸木を組んだだけの、素朴な、短い橋です。
 「①丸太橋」という表示あり。

----なるほど、こんな一里塚みたいな表示で登拝に区切りをつけるんだな、なんて思う。 

 昨夜の雨のせいもあって、いくらか滑りもするんで、注意して渡りました。
 耳を洗うような心地いい水音を聴きながら、ぬかるみっぽい道をまたまた歩く---道の両側の草々にシダ類がずいぶん多いんだなあ、と思ったことをいまでも覚えてます。
 で、ほどなくして2番目の道標「②中の沢」へ到着。
 蝉に鳥に沢のせせらぎ…。
 そして、下界からはほんのり町の生活音…。
 なんともいえない山の雰囲気に吸いこまれるように無心に登っていくと、心なしか全身の感覚が尖っていくような気もします。
 岨道(そばみち)の急坂という坂を息を切らして登っていくと、「③三光の滝」というとこに着きます。
 ここは、三輪山のなかで唯一建物のある場所なんですね。
 ただ、ドライブインにあるみたいな休憩所じゃまったくない---ここは、滝行をするひとのための行者小屋なんです。
 僕がついたとき、この小屋の奥にある滝壺で、真言を唱えながら熱心に行をされてる方がおられました。
 三島由紀夫の遺作「豊穣の海」のワンシーンをふっと連想したりもします---ええ、こちら、「豊穣の海」の第二巻「奔馬」の舞台になった場所なんですよ。
 もそっと見てもいたかったけど、でも、ま、修行の邪魔しちゃいけませんからね、早々に退散---空模様がだんだん怪しくなりはじめたんで、ペースアップを意識しながら登ります。

 このあたりから坂はさらに険しく急になってきました。
 浮き石も結構多いし、足場も滑るんで要注意。
 白い衣装を着て、裸足で降りてくる女性の方に道を譲って、軽く挨拶なんか。
 このあたりでいささか息が切れてきて、そろそろこのへんで休んでもいいかな、なんて思っていたら、そこ、道行のほぼ中間地点にあたる「④中津磐座(なかついわくら)」という聖場でありました。標高364.5m。

 この「中津磐座」から「烏山椒の森」あたりまでの道筋が、たぶん、いちばんの難所なんじゃないのかな?
 僕、このあたりで岩登りする際、片手で手近な木の枝に捕まったら、それ、もの凄い強い棘のある枝でして、強く掴んでいたらエライことでした。
 
----ヤバー! なんて独り言いって、手のひらを寄せて見ると、ああ、ぽつぽつと雨の到来です。

 木の茂った場所を探して、濡れてない岩に軽く腰かけて、20分ほど雨やどりしました。
 このまま雨やまなかったらどうしよう? なんて不安がちょっとよぎったりもします。
 しかし、幸いにしてしばらく降ったら雨やみましたので、再び登拝開始。
 膝に手をあて、ナンバを意識しながら、登ります。
 もうこの辺りまでくると、全身びしょ濡れで、どこまでが汗でどこまでが雨の濡れなのか分からない。
 スニーカーとズボンの膝から下は、泥だらけ。
 町の声ももう届かない。
 静寂と、木の葉にあたる雨音だけが木霊する世界です。
 ハアハアいう自分の息が、なんだかうるさくってね---疲れで雑念が飛んで、「三輪山」に呑まれていくような感覚が次第に募っていきます。
 直径2mは下らない大きな切り株が、あっちにゴロゴロ、こっちにもゴロゴロ。
 割れた大岩の隙間から伸びている大木。
 あと、大きなアブが旋回してどこまでもしつこくついてきたり…。
 疲労の極のなか、「⑥烏山椒の森」を行きすぎ、「⑦こもれび坂」という場所も通りすぎました。
 椎と樫の深い樹林のなかをさらに歩くと、心なしか坂の角度がゆるやかになってきます。
 僕よりもさきに出立した登拝の兄ちゃんが降りてきたんで、ああ、そろそろ頂きなんだ、と嬉しくなります。
 案の定そうでした---しばらく行くと「⑧高宮神社」の素朴な館があり、そこからさらに奥に100mばかりいくと---ああ、頂きの「⑨奥津磐座(おくついわくら)」への到着です…。
 標高467.1m。
 数字的には、決して高い場所じゃない。
 けれど、もの凄い隔離された高度を感じます。
 僕のまえに到着された方が2名ほどおられて、磐座---溶岩みたいに溶けた黒い岩々が連なっている、ふしぎな磐座のまえにしつらえられた祈祷所の順番を待っているのが窺われました。
 僕も待つことにします---するとねえ、なぜだかまた大ぶりのアブがぶんぶんやってきた。
 まえに鎌倉の「百八やぐら」を訪れたとき、スズメバチに追われたことがふと思いだされたりもします。
(イーダちゃんの過去ブログ、パワースポット編 徒然その58☆鎌倉・恐怖の百八やぐら☆を参照のこと)

----こういう聖場には、虫の番人がいるものなのかな…?

 なんて思いながらアブをよけてたら、僕の番がまわってきました。
 しずしずと磐座の正面に立ち、賽銭箱に小銭を投げ、無心に合掌します。
 僕は、合掌するときは、ほとんどなにも考えないんです。
 個人的な祈りなんてやりません---いつも、自分をからっぽにすることを心がけてただ手をあわせるだけ。
 そしたら、しばらくして、なんともいいようのない静かな気配が、雨まみれの身体にしずしずと染みてきた…。
 こういう気配はいままで味わったことがありません---下北半島の「恐山」、熊野神宮の「大斎原(おおゆのはら)」、伊勢神宮の「内宮(ないくう)」、それと北海道道北の「サロベツ原野」…。
 身がすくむほど厳しかったり、死を近くに感じすぎておののくことしかできなかったり---それこそ全国各地のいろんなパワースポットをまわってきたもんです。
 で、パワーのあるところって怖いとこだって半分方思ってた。
 「三輪山」だって、むろん怖いんですよ---もともとフツーじゃない場所なんだもん。
 けれど、こんな棘のない、まろやかで優しい、包みこむような波動を、このような神所で感知しようとはよもや思いませんでした。
 邪馬台国の卑弥呼がこの場所で祈祷をしたという伝承を、この時点で僕、すでに信じてました。
 静かでなおやかな、まったく未知の種類の深い恍惚が、そこにはあったのです---。
 父的というよりは母的---熊野の古道に遠い地縁つづきで繋がっているような---それは恐らく、ニッポンのここ以外の場所では絶対に味わえない類いのものでせう。
 もっと長いこと磐座のまえにいたかった…。
 もっとこの懐かしい波動のまえに佇んでいたかった…。
 でも、次の待ちびとが待ちかねてましたからね---イーダちゃんはなんとか自分に区切りをつけて、次の方に軽く黙礼して、あえてぶっきらぼうな仕草で「奥津磐座」のまえから粛々と離れ去ったのでありました…。




 「三輪山」往復の所要時間、1時間50分---。 
 20分雨やどりに費やしたから、実際の登拝時間は、1時間半といったところでせうか。
 登拝後、あまりにも腹がへったので、駅近くのお店で名物の三輪素麺をいただきました。
 でもさ---これが量、全然ないのよ!---綺麗に盛りつけてあって、麺自体も腰があってホント美味いんだけど、あまりにも量がさあ!
 朝からなんも食べてない僕には、その点だけが唯一の不満となりました。
 けれども、ゆっくり素麺を喰い終えても、時刻はまだまだ12時前---これはのんびりしちゃいられない、とイーダちゃんはおもむろに腰をあげて、泥まみれのズボンの裾をからげ、次の目的地である飛鳥へと歩きはじめたのでありました……。
                                                                                     (了)

 

  
 

 

 



 
 
 
 
 

徒然その188☆ぶきみなぶきみな池袋☆

2014-11-17 15:31:15 | ☆パワースポット探訪☆
                                


 Hello、最近親父が入院したり、その親父を有明の病院までクルマで迎えにいったら交通違反でポリに捕まったり、来年にむけた資格勉強のさなかに突如として突発性難聴になったり---どうもプライヴェートが失速きりもみ飛行中のイーダちゃんです。
 皆さんはどお?
 相変わらず、お元気?
 だったらいいなと思います。
 さて、今回は音楽じゃないフツーのページ---こーゆー企画はひさしぶりじゃないですか。
 あのー ここだけの話ですが、僕が自作の音楽のページをつくると、いつもアクセス数ガタッと落ちるんですよ w ---うーむ、ゆゆしき事態じゃわい。
 でも、まあ音楽は書くより好きなんで、これからもちまちまとつづけていくつもり---皆さまも思いだしたとき youtube iidatyann まで訪れていただければ、いつでも歓迎いたす所存です。

 でね---今日のテーマは、池袋シティ---!
 最近、鉄道事情が変わって、副都心線で横浜からのアクセスも簡単になった、ええ、あの豊島区の池袋。
 池袋といったらサンシャインと極真会館。
 こちら、ちょっち猥雑で、粗野で気の荒い地母神が仕切っている地所なのであります。
 だからもって、池袋を歩いていると、銀座や六本木なんかとまるで風情がちがってて、「洗練」とか「お洒落」な感覚なんて到底味わいようがないの。
 治安がどうこういうレベルじゃなくて、うん、池袋ってなんか根本的な空気自体がヤバイんだと思う。
 ジャーナリストのリチャード・コシミズさんも似たようなことをいってられたことがあるから、これは僕の独断じゃないっス。
 でも、僕、この地母神パワーに満ちたこの街の猥雑感がけっこう好きでして、ここで何年か働いてたこともあるし、若いころはナンパに明け暮れてた時代もあるんです。
 その意味できっと「縁」が深いんだろうな---その「縁」が結んだ池袋を追及していこう、といま思っておりますが、さて、どっからまな板に乗せていこうかなっと。
 うーむ、やはり、これは、あの「四面塔」からいきますか…。

 皆さんは、「四面塔」ってご存知?

 JR池袋駅の東口---これ、西武とサンシャインがあるほうですよー! 間違いやすいけど、間違えないで---を出て、すぐ左手のほうに曲がると、風俗街の入口んとこの線路脇に「池袋駅前公園」ってのがあって、そこにこの「四面塔」ってのがドーンと立ってるの。
 うん、実際に見ると、こーんな感じ----


     


 まあ、ちっちゃめの神社だし、そんな大それたインパクトはないんですけどね、陽だまりにゆれてるこの神社、実はケッコー怖いんです。
 池袋って、その名の通り、むかしは池や沼がいっぱいある、湿原みたいな場所だったらしいの。
 高台の目白を囲むように、下落合から沼袋のほうまで、この湿原地帯はつづいていたそうな。
 もうジメジメの田舎だったみたい---狸や狐や盗賊に追剥ぎ---数々のおっかない物の怪たちが跋扈する、超・未開地帯。
 いまの池袋のひらけかたを見てると想像しにくいんだけど、江戸のころなんかじゃ、ホントにここ、怖い場所だったんだって。
 で、そのい開けていない閑散とした池袋村で---享保のころ、辻斬りが流行ったんです。
 ええ、アブナイ侍が、刀の試し切りに、見知らぬ百姓を闇にまぎれて叩き切っちゃうという、あの辻斬りです。
 江戸時代だって、これ、完璧な犯罪ですよ。
 でもね、捕まえるのは難しいよね---いまだって衝動殺人の犯人捕まえるのは、結構むずいもんねえ。
 当時じゃなおさら---実際、このキ○ガイ侍は捕まってないんですが、享保6年の夏のある晩なんか特に凄くて、なんと一晩で17名のひとが斬られて亡くなったんだって。
 これって、江戸時代じゃなくていま起きても大事件ですよ。
 1938年の津山の30人殺しじゃないですけど---あ。これ、あの横溝正史の「八つ墓村」のモデルになった事件っス---あれに迫る凄惨で異様な事件だと思う。


          


 当時のひともそう思った---で、なんの咎もなく殺された多くのひとの無念を弔うために、享保6年の9月、彼等・無縁さんの慰霊塔が作られた---それが、「池袋駅前公園」にある、この「四面塔」なのでありました。
 えっ、あれがそうだったの! と驚くひとよ、LooK---!


        


        


 この日はたまたま天気よかったんで、なんの変哲もないお堂みたいに見えるかもしれませんが、僕はこの「四面塔」って、ある意味、池袋って街の一面を象徴してる建造物だと思います。
 ええ、池袋シティーの、ちょっと形容しがたい、一種怪しい野蛮の芳香とでもいうのかな?
 そういう禍々したおかしな空気が、この池袋シティーには確実にあるよ。
 で、その禍々しい空気を振りまいているこの街の異界の穴のひとつが、僕は、この「四面塔」じゃないかって感じてるわけ。
 これは私事なんですけど、僕、大阪の河内長野っていう古墳だらけのド田舎に4年住んでたことがあってね、住んでるときは慣れちゃっててなんにも思わなかったんですが、15年後ぶりくらいにここに住んでる連れを訪ねに夜中にひとりクルマでここを再訪したとき、こも古墳の町のあまりに濃くて重たい、ほとんど物質的に迫ってくる煙のような「太古臭」に愕然としたことがありました。
 靄のむこうの四辻からふいに弥生人がまろびでてきそうな胸騒ぎ、さくさく---。

----うおっ、怖ぇ…。ここ、こんなに怖かったんだ。こんな怖ぇとこに、俺、よく4年も住んでたなあ…!

 池袋を訪ねるたびに僕が感じる感触も、それとよく似てる。
 生活の拠点が池袋から離れたいまだからこそ、なおさらそれを感じるのかもしれないけど、池袋を訪ねるたびに、僕は確実にそれを感じます。
 ただ、それを感じるのは圧倒的にサンシャイン側の東口方面ですね---東武やマルイや芸術劇場のある西口方面には、あまりそれ感じません。
 これについては Honkowa のエース霊能者である寺尾玲子さんも似たようなことをおっしゃってた記憶があるんで、まんざら僕の勘も捨てたもんじゃないってとこでせうか?

 けど、まあこんなことで得意になったりするのは置いといて---肝心なのは、この「四面塔」があったのは、実は、東口を左に折れた現在の「池袋駅前公園」なんかじゃなかったってことなんです。
 ええ、この「四面塔」、移設されてるんですわ。
 元からあった場所は、JR池袋駅東口---ここで読者は、僕が当記事の冒頭にUPした駅前写真をご覧あれ---の、ええ、西武とパルコが分かれている中間部あたりだったっていうんです。
 これ、デパート建設のための移設だったとか。
 でも、その後すぐの1959年の5月、駅ビルにあった丸物デパート(現在の西武パルコの前身)で不審な事故があいついだため、「四面塔」の移設が無縁仏たちの怒りを招いたんじゃないか、なんて噂されたりしています。
 このへんが移設に関する「祟り説」の語られはじめなんじゃないでせうか。
 その後も不審(?)な事故は、この場所でちょくちょく起こります。
 有名どころでは、1963年の8月22日におこった西武デパートの火災なんかがそうですね---このときの火災は死者7人、重傷者130名という規模の大きなものでした。
 消防によると、このときの火災原因はアルバイト少年のタバコの火がシンナーに引火したためだったそうですが、むろん、このときも「四面塔移設説」が巷ではささやかれていたようです。
 時代が新しくなったところでは、80年代の飛びおり自殺なんかもありました---すみません、これ、記憶によるもので、日時・場所の特定ができません---このときは、屋上から飛び降り自殺を試みた女性が、地上の男性を巻きこんで死んでます。
 まあ都会の大きな建物なら飛び降り自殺はままある事象なんですが、ここで問題なのは、その巻き込み事故がおこった地点が、ちょうど「四面塔」がもとあった場所だったということでせう。
 これ、「本当にあった怖い話(まだ雑誌の屋号が Honkowa に変わる前でした)」の何号かで書かれていたのを読んだ記憶があるから、たぶん、ガセじゃありません。
 これはね---さすがにちょっと怖い符牒です…。
 むろん、誰もが「四面塔」移設のことを思いだし、その噂がさかんにささやかれたことはいうまでもありません。

 で、1999年の9月8日には、サンシャインイン入口の東急ハンズ前で、Zによる無差別通り魔事件なんてのもおこってる。
 元新聞配達員だったZがおこしたこの事件については、まだご記憶されてる方も多いことでせう。
 このときの死者は2名、重傷者はたしか7名でした。
 この事件時、僕はたまたま現場近くにいたんで、あの異常なサイレン音の連なりがまだ耳にこびりついてる気がします---あれは、忘れようったって忘れられるようなモンじゃない---街ごと発狂しちゃったような、むやみに焦燥感を煽りたてるなんともイヤ~な音でした。
 ま、この事件がおこったのはあくまでサンシャイン入口前であって、あの「四面塔」のある駅前からは距離的にそうとう離れているんですけど、なにしろZがやったのは無差別の辻斬りだからね、まさに。
 だから、事件直後、僕はどうしたってこの因縁に思いを馳せちゃった。 
 何件かのマスコミが、たしかおなじ思いを記事にしてるのを読んだような記憶もあります…。


       ×             ×              ×

 ざっと以上が、池袋駅前「四面塔」に関する情報と印象ね---。
 僕は、「四面塔」が、池袋という街に吹きつける異界の風の方位を差ししめす、一種の風見鶏みたいなもんなんじゃないか、とまあ睨んでるわけ。
 けど、池袋という街には、この「四面塔」よりさらに大きくて有名な、特別巨大で目立ちまくりの風見鶏がありますよね?
 ええ、それってむろん、いわずと知れたあの「サンシャインシティ」のことですとも。
 心霊スポット系の話題になると必ず登場する、全国区で有名なあのサンシャイン。
 池袋がまだ閑散とした池袋村だったころの暗い過去生を匂わすような風情で蕭々と佇んでいる、あのサンシャイン---じゃあ、話のまえにその写真を、まずは見ていただきませうか。


                  


 上のフォト、東池袋の郵便局側から撮った1枚です。
 左手向こうに建っているのが、いわずと知れたサンシャイン60。
 その右手の道路側に建ってるのは、プリンスホテル。
 そのこっち側にある3階建ての低めのビルは、サンシャイン・アルパ---ま、デパートみたいなもんっスかね?---そのこっち側のあるのはワールドインポートマート---ここの屋上には「水族館」と「プラネタリウム」があります---で、首都高の入口を隔てて、いちばんこっちにちらっと写ってるでっかめの建物が、サンシャインシティの文化会館---このなかには「サインシャイン劇場」と「オリエント博物館」なんてのも入ってます。
 これら全部が、いわゆる「サンシャインシティ」なんですわ。
 で、前の話のつづきなんですが、この「サンシャインシティ」、明るい歓楽地としての表の顔とはべつに、実は、全国区でダークスポットとして注目されている場所でもあるんです。

 それは、なぜ---?

 というのは、こちらの土地、サンシャインが建てられる以前は、あの「巣鴨プリズン」のあった、一種いわくつきの土地だったんでありますよ。
 「巣鴨プリズン」? なに、それ、と、ぽかんとした顔をした貴方、覚えといて。
 「巣鴨プリズン」というのは、第二次大戦で負けた日本軍の戦犯を拘留していた建物。 
 つまりは、刑務所---しかも、この刑務所では、戦後、多くの日本人が処刑されてます。
 「私は貝になりたい」って映画があったけど、国のためによかれと思っていろいろやってきたのに、最後はあんな風になっちゃったひとが、無念の念を噛みしめて、露と散っていった悲しい場所なんです、ここは。
 ですから、まあ、因縁話は山ほどあるの。
 有名どころでは「新耳袋」の著者である木原浩勝さんが、ここを舞台にした実話怪談を書いているのを読んだ記憶があります。
 いま探したんですけど、ちょっと題名が分からない、たしかサンシャインの人工地盤上に大テントを張って、夏、どこかの劇団がそのなかで公演をやったら、客席の後ろのほうにゲートルを巻いた軍服姿の兵隊が立っていた、みたいな内容だったと思います。
 その手の話なら、僕もけっこう聴いてる。
 霊感のあるひとがここにくると、やっぱ、特別に感じられるものがあるそうです。
 ただ、ここ「巣鴨プリズン」で実際に処刑のための締首台がおかれていたをに地点だけは、さすがに建物は建ててない---現在そこは「東池袋公園」っていう市民のための公園になってて、それのあった一角には平和祈念碑が立てられてます---。


                

                


 にしても、こちらの祈念碑、いついっても誰かの手で花が添えられていますね。
 こういう目立たない地味な仕事を休まずつづけているひとっているんだ、偉いなあ…。m(_ _)m
 ただ、Honkowa の筆頭霊能者である寺尾玲子さんにいわせると、実際に絞首台がおかれていたのは、下のフォトの碑よりもそっと左の芝生のあたりだったそうです。
 もっとも霊感のない僕にすれば、右も左もなにもそもそもの霊感自体がないんだから、こういうのって黙ってうなずくよりほかないんですが…。

 そして、その伝説の「巣鴨プリズン」のまえには、この土地には果たしてなにがあったのか---?

 これ、以外と知ってるひと少ないんだけど、なんと、「巣鴨プリズン」以前のここは場だったらしい。
 初めて聴いたときは僕もかなりびっくりして引きました---あれまー、なんちゅー筋金入り、因業バリバリの土地キャラじゃないかって。
 でもねえ、これ、どうやら事実のようです。
 なんでせうかね、洗っても洗っても荒涼とした「殺」の気配がにじんでくる土地柄とでもいうのかな?
 あんまりこんなことばかりいってると、ここで商売してたり住んでたりするひとに怒られちゃいそうだからそろそろやめますが、霊感のない僕にしてもここにくると、なにかかすかに苦重い、淀んだ「気」のようなモノを感じるというのは本当。
 長くとどまってると不感症になっちゃうんだけど、このエリアに入るときにあえて意識してると、お、それ、たしかに感知できますよ。

 というわけで今回は池袋シティのダークサイドのお話なのでありました---。
 機会があってサンシャインを訪れるひとがいたら、友人といっしょにサンシャイン脇の「東池袋公園」と駅前東口の「四面塔」にまでプチ散歩してみるのも面白いんじゃないかなあ、うまくするとここだけに濃く燃え残っている、池袋村時代からのぶきみな「妖気」で疲れた心身をチャージできるかもしれない、などと思ったりもする難聴治療中の不謹慎イーダちゃんなんでありました…。
                                                           ---fin.

 

 

徒然その159☆ 比叡山「延暦寺」を訪ねて☆

2013-12-02 21:12:31 | ☆パワースポット探訪☆
                       


 9月の某日、金沢の旧友を訪ねた帰りの道のりに、比叡山の「延暦寺」に寄ってきました。
 自分的には、間近に控えた高裁での<不正選挙裁判>本番にむけてのゲンかつぎ的意味あいも兼ねた訪問のつもりだったんですが、実際にいって、延暦寺境内の空気にふれていたら、そんなセコイ臆病でビビリンな気持ちはきれいに飛んじゃってたな。
 比叡山は、とっても素敵な場所でした。
 とりわけ、比叡山の山頂から見下ろせる近江の町の空気感が、たまんない。
 比叡山自体の標高がもうちょっと高ければ、この種の絶頂感って下界を見下す傲慢感と重なっちゃう、と思うんですよ。
 でも、比叡山にかぎってはそうじゃない。
 その種の傲慢感に高さが届きそうになる一歩手前で、実に謙虚でバランシーな均衡をぎりぎり保ってる。
 人間の心の弱さをじゅうぶんに知り、その弱さが思いあがりに結びつく危機性もあらかじめ自戒した上で、あえてこの土地を寺院の建設地としてセレクトしたというこの中世の深い「知恵」は、僕は、現代の「科学的認識」なんてものより数段レベルが上なんじゃないか、と思います。
 だって、境内のどこを歩いてても、超・気持ちいいんだもん。
 気持ちいいというか、うん、身体全体で感じる空気感が、ここ、いちいち「清い」んですよ。
 何気にあくびして身体をぐいと伸ばしただけで、それまでごりごりだった背筋がすうっと涼しくなったり---。
 あるいは、残暑の暑さにめげかけて、路肩に腰を降ろし、手にしたハンケチを汗を拭いながら、ふっと杉木立の頂きのほうに視線を飛ばしたら、あれ、俺、ずっとむかしにここでおなじようなことをやらなかったけ? みたいなふしぎなデジャヴ感に見舞われたり---。
 下界暮らし仕様に閉じていた自分内のあらゆる感覚が、一歩ごとに「めくれていく」感触っていったほうが近いかな?
 ほら、霊感のあるひととしじゅう一緒にいると、そのひとにあわせて自分の感覚が「めくれていく」ってよくいうじゃないですか。
 あれと同様の、ふしぎと心地よくて、でも、ちょっとばかり怖くもある、一種独特の解放感を、僕は、比叡にいるあいだじゅうずーっと感じておりました。
  
 まえにも一度、クルマで訪ねたことはあったんですけど、今回は僕、金沢帰りだったから電車でいったんですよ。
 琵琶湖近郊のおごと温泉駅---ここの温泉入ったんですけど、残念ながら塩素湯だったんで、あいにく紹介はできません!(xox)---からバスに乗り、それから、特別な登山電車に乗りかえて、延暦寺までごとごといくわけです。


            



 で、そのケーブルカー(?)のとちゅうでびっくりしたのが、このケーブルカーの途中駅に、紀貫之のお墓なんてのがあるんです。
 紀貫之といえば、徒然の本家のお方じゃないですか。
 熊野古道を巡礼したときもいちばんびっくりしたのが、関西という地ならではの、こういった濃ゆい歴史性---。
 歴史上の有名人がゴロゴロと、そこいらの道筋に登場するんですから。
 遠い東(あずま)の地出身の僕なんかは、それだけの事実でなんだか気圧されてしまう。
 うーむ、さっすが千年以上都のあった土地柄だわい、と唸らされるとでもいいますか。
 ケーブルカーの本数が少なかったので、今回は紀貫之のお墓訪問は遠慮させてもらったのですが、今度きたときは訪ねてみたいなあ、と思いました。

 あ。あと、いちばんびっくりしたのは、このケーブルカーの路線のとちゅうに、膨大な数の無縁佛を供養した洞窟があるってことを知ったときでした。
 これ、僕は、ケーブルカー内のアナウンスではじめて知ったんです。
 比叡山「延暦寺」は、もともと天台宗の総本家として有名なとこですが、それ以外にもうひとつ、あの信長の焼き打ちにあって、3000人以上の犠牲者を出したお寺としても有名です。
 そして、近代に入って、この「延暦寺」を観光地として、下界の庶民たちにもきやすくできるようにと作られたこのケーブルカーの工事の際、こちらの山の土から、誰のものとも分からない、それこそ無数の古ーい無縁さんがごろごろと掘りだされた---と、こちらのケーブルカーのスピーカーは何気におっしゃるわけ。
 それ聴いて、僕は、かなりびっくりしました。

----うわーっ、いまだに…? マジかよー、信長ーッ…!

 でも、ケーブルカーの速度はかなり早く、行きのときはその洞窟の写真撮りそこねちゃったんで、帰りにもういちどトライして撮ったのがこの写真です---はい。


                      

 ただ、こちらの地にケーブルカーの最寄り駅はまったくなく、従って一般公開されているわけではないようです。
 実際、かなりの急斜面にこの洞窟はありますので、登山の用意とかしてこないと、こちらへは辿りつけないように思います---ここに至る路なんかも、そういえばなさげな感じでありました。
 で、この洞窟を通りすぎながら携帯のカメラのシャッターを押した瞬間---
 どういうわけか背中にざわーって鳥肌が立ったの。

 殺気、のようなモノが、ケーブルカーで逃げる僕の背をさくっと刺してきたのです。

 無念の情の塊、みたいなものといったほうがいいのかな?
 とにかくその尋常じゃない濃い情念のうねうねした蠕動のなかに、自分ごと取りこまれたようなヤバイ感触があったんですよ。

----エッ? と思った。

 でも、あえて振りかえって見るのは、なんか怖いわけ。
 いいようのない見えないプレッシャーがぐいぐい募ってくる感じなんです。
 で、躊躇してるうち、ケーブルカーは下界の駅に着いっちゃったって顛末なんですけど…。

 なんだったんだろうね、アレは?

 ケーブルカーから降りたら、Tシャツの両脇が汗でぐっしょり濡れてました。
 こんなことって、あんまりないんですよ---僕は、はっきりいって「霊界は実在する!」説をゴリ押しするタイプのニンゲンじゃないんですが、このときばかりは「霊界からの語りかけ」を肯定する気になりました。
 だって、マジ、コワかったんだもん---降りてからも首筋がずもーって不自然に重かったしね…。


      



 ただ、山頂の延暦寺の境内の空気は、そんな血みどろの歴史がすぐ下の山麓でくりひろげられたなんかぜんぜん知らないかのように、見事に「凪いで」いましたねえ。
 東院の外れのほうを歩いていても、根本中堂のあたりをウロついてても、一種ふしぎなその充実感はいつも僕の近辺にありました。
 静謐。そして、厳かな神秘感---。
 足をとめて深呼吸するたび、僕は、自分の体内に明るいエネルギーがチャージされていく感触を感じてました。
 こういう形容って、たぶん「非科学的」なんでせうねえ。
 でも、このリアルな感じだけは、どうにも否定できません。
 比叡山にいるあいだ、僕は、ニンゲンとして、あるいは一生物として、かなり幸せだったんじゃないか、と思います。
 
 延暦寺のメインには、あの有名な根本中堂があります。
 ここには、あの最澄法師が灯して以来1200年間、一度も消されたことのない「不滅の法灯」というのが灯りつづけています。
 最澄自身が掘ったという貴重な仏像もここにある。
 こちら、撮影は禁じられているんですが、あまりにもこの根本中堂にたゆたっている「空気感」が素晴らしかったので、入口部分だけ携帯のシャッターをこっそり押させていただきました。
 記事冒頭部のフォトとこれがそうですね----


                  

 いかが?---ちょっといいっしょ、これ?
 このフォトを撮ったとき、イーダちゃんは、ここの廊下にごろりとなって、発作的に昼寝を打ちたい誘惑を強烈に感じたことを、いまここに告白しておきます。
 うん、いま見ても、これ、涎モンの写真だよ。
 ここにごろりとなって、床に頬を滑らせながら連続寝返りをしたら、どんなに気持ちいいだろう?

 敬虔な比叡山信者さんにこんなこといったら怒られるかもね。
 でも、この日このとき、僕が比叡山をそう感知したというのは、まぎれもない事実。
 いとおかし---とにもかくにも比叡山「延暦寺」というのは、僕にとってそのような立ち位置を意識させる、なんともふしぎなパワーウポットなのでありました…。(^.^;>

 


                 
 


 

 

 

 

徒然その121☆東京小石川・祟りの「椋(むく)」の樹を求めて☆

2012-10-17 22:54:10 | ☆パワースポット探訪☆
                               


 東京の小石川に「祟りの椋(むく)の樹」があるっていうのは、まえから聴いてました。
 伐採を試みた者が次々と祟られ、死んでいったという魔の樹---それが、「善光寺坂」のとちゅうにあるという---。
 むろん、興味深々でした。
 見たいなあ、とずっと思ってた。
 でも、なかなかいく機会がなかった。
 ええ、仕事が変わって、都内に通勤しなくなったというのが、なんといってもデカイかも。
 通勤のついでにちょっとという口実がなくなると、都内は僕にとって、途端にやや遠の場所となっていったのです。
 いままでは本とかが欲しくなったら都内に出ざるをえなかったんですけど、いまでは特に地元をでなくてもインターネットという入手手段がありますから。
 というわけですっかり都内とはご無沙汰していたんですが、つい先日、神田の神保町に古本を探す用ができまして、そうなると都営三田線の神保町からふたつ向こうの「春日」駅は、ほんのすぐそこではないですか。
 そして、三田線の「春日」駅と例の小石川とは、僕の鈍りかけの都内土地勘データの検索によっても、たしか距離的にもそんなにはなかったはず…。 
 だとすると、これはいくっきゃありません---というわけで行ってまいりました、東京小石川、善光寺坂のとちゅうにある、噂の椋の樹へ!
 そのお目当ての「椋(むく)」は、案外すぐに見つかりました。
 「春日」駅から白山通りを北にちょっと---商店街を東に行き少々左にいき、それから小石川の「善光寺坂」の細い道をのぼっていく---すると、「沢蔵司稲荷」を越えてすぐのところ---6F建てのアパートのまんまえに、その「椋」はありました。

----こいつが、そうか…。

 と、なんとなく唾をゴクッ---たしかにデカイです。
 そして、なんともいえない威容がある。
 おお、と見上げて、次の瞬間、視界の右下方にほうに視線をつい逃がしたくなる感じ。
 そんなビミョーな圧力が、なんとなくあるの。
 道のまんなかに立っていて、道路のほうがこの「椋」を避けて通っているという一種独特なシチエーションが、この「椋」の価値を必要以上に喧伝しているのでせうか。
 うーむ、まずは、その現物の「大椋」を見てもらうことにしませう---。


                   

 ページ冒頭のフォトとあわせて見てもらえば分かるかと思うんですが、この「大椋」、最初は道路のまんなかに立っていたんですよ。
 ただ、それだと、道の特殊性を知らないドライバーの出会い頭の飛ばし事故が多かったりしたので、いまは便宜上片側の道を歩道にしちゃって、本来なら復路の道路も一本通行に変えちゃったわけなんですけど、それらの事象をとっぱずしてこう眺めてみても、やっぱり、この「椋」のある空間の特殊性は感知可能なんじゃないのかな?
 うん、それくらいこの「椋」の樹は、存在感ありますね。
 いい伝えによると、この椋の大樹、戦前には、なんと高さが23メートルもあったんですって。
 23メートルっていえば、そーとーの高さですよ。
 樹齢は、推定450年---それこそ見上げるような大威容を誇っていたといってもいい、伝説の「大椋」だったのですが、あいにくの戦災で焼かれちゃった…。
 そんなわけで樹の高さは半分以下になり、樹皮もところどころ剥がれ気味だったりして、老木の雰囲気を全体的にかもしだしているんですけど、僕のいった8月某日は、枝枝の葉はみんな青々と濃く生い茂っていてね---風が吹くとそれらの枝葉がさわさわと涼しげに鳴って---その怖いような巨大な生命力には、つい感嘆させられてしまったのでした。
 時の経過にも、戦争の火災にもめげず、いまだに大量の葉を毎年のように茂らせているんですから。
 「強い」樹ですよね。
 うん、とても、強い樹だ---。
 しかし、この強さは、剥きだしの「生命(いのち)」のかたちというのを、なんか、まざまざと目のまえで見せつけられるような気がして、マンツーマンで対峙していることが決まりわるいような心地が少々してくるのです。
 なんちゅーか、生きるって貪欲なんですよ---。
 それは分かる---ニンゲンにしても、樹にしても、個別の生命体の基調となっているのは、常にガチガチのエゴイズムです。
 ちげえねえ! 貪欲で、利己的で、ただ、あまりにも徹底した自己保存の欲求っていうのは、傍から見ていると、その浅ましさが少々禍々しく映ってくることさえあるんですね。
 僕が、この椋と対峙して感じたのは、そのようなことでした。
 平和な町のまんなかに立っているこの大椋は、あまりにも赤裸々で凶暴なその「生命力」ゆえに、まるで剥きだしの性器をじかに見せつけられているような感慨を、見ている僕等にもたらすのです。
 これは、日常的に、ちょっと決まりわるい---じゃあ、どうするのか?
 祭りあげるしかないっスよね?
 「魔」との接し方といったら、それ以外にないんですから。
 そのようにして、この椋と、この椋のまわりに暮らす人々との対応の間合いが、長い時代を経て決まってきたのではないか、とイーダちゃんは思います。
 この大椋の偉大な生命力には一応の敬意を払いつつも、人間の暮らしも一本通行の道路に見られるように、ちゃんと隣接させて、要するにどちらも共存させてゆく…。
 万が一、この大椋の「魔」が暴走した場合に備えて、ちゃんと防止装置の神社なんかも椋のふもとすぐの土地に置いて---。
 うーむ、感心させられるほど、これは、狡猾な手口じゃないですか。
 樹も凄いけど、ニンゲンの狡智ってのも、これはこれでなかなかなモンですな。

 蝉、蝉、蝉---うだるような夏日のなか、蝉がジージー鳴いてます。

 樹のオーラを感じるには、その幹のところに直接両手を当ててみればいい、という話をどこかで聴いていたので、とりあえずそのオーラ感知法ってのを実際に実行してみたならば---
 すると、たしかに通常の樹とちがう、流れるようなエネルギーの塊が、両掌伝いに体内深くに染みこんでくるような感覚がありました…。

 椋見物の帰りに、この椋からすぐのところにある、「沢蔵司稲荷」という神社を参拝して帰りました。
 この午後は、なんかの催事をやっていて、この稲荷さん、ひとがいっぱい集まってましたねえ---。


        


 ところが、この夜、家に帰ってから、イーダちゃんは突然の腹痛に襲われ、一日寝込んじゃいました。
 僕は下痢なんてめったにしないんだけど、なぜだかふいに猛烈な下痢になったのです。
 もー 超・油汗…、下腹がキュルキュル痛いったらないの。

----嗚呼、祟りの椋の樹に、馴れ馴れしく抱きついたりしたのがいけなかったのかなあ…!

 というような後悔の念が、幾度もアタマをよぎります。 
 下痢ピーの真相は、むろん分かりません。
 が、しかし、安易な気持ちでこの「祟り椋」に接近したりするのは、やめたほうがいいんじゃないか、とイーダちゃんは老婆心ながら思いますね。
 だって、まるまる1週間あとを引くほど、マジ強力な下痢だったんだもの、アレは…。
 
 あ。もうひとつ追加情報ね---「力」のある樹に直接抱きつくっていうのは、「気」の観点からいうと結構危険なことみたいなんです。
 敏感なひとは樹のエネルギーをもらいすぎて、体調を崩しちゃうのだとか---。
 僕の下痢ピーが祟り始発のものなのか、「気」の乱丁喰いによるものなのか、あくまで偶然の賜物だったのか---そのうちのどれが原因だったのかは今だ定かじゃないんですが、いずれにしてもこの特別な「大椋」とコンタクトする際には、ある種の「敬虔さ」と「謙虚さ」を懐手にしつつ行くのがいいのではないか、とイーダちゃんはやっぱり思ってしまうわけなのでありました…。(^o^;>






徒然その120☆飛鳥逍遙☆

2012-10-10 23:11:46 | ☆パワースポット探訪☆
                    


 飛鳥、好きです---。
 というか、日本人でここが嫌いなひとって、果たしているのかな?
 僕は、飛鳥っていうのは、日本人全体の心象の底にある原風景みたいな土地なんじゃないか、と思ってるんですけど。
 そう、飛鳥って、たぶん、僕等・日本人全体の心の故郷なんですよ。
 よりどころ、というか、最終的な着地地点とでもいうべき場所。
 だから、心の計測器の針が、<好き・嫌い>のどっちにぶれても、感情のしこりが<帰りたい・帰りたくない>のどっちによろけても、そういった表層的事象はあんまりカンケーないんです。
 だって、否定しようが肯定しようが、結局のところ、故郷は故郷なんですから---。
 その事実ばかりは動かしようがない、その心の“カントリー”飛鳥が好きで好きで、イーダちゃんは近畿系の温泉場にいく際には、必ずこの地に立ち寄っていたんですね。
 近場の駐車場にクルマを停めて、駅前のレンタサイクル「万葉」さんでママチャリを借りて、3、4時間、母なる地・飛鳥を放浪するのが、ほとんど近畿温泉行につきものの日課のようになっちゃってて。
 そう、総計、3、4回にわたって、訪れたんじゃないのかなあ。
 このレポートは、そのようなイーダちゃんの小さな逍遥の記録なんです---。

 一等最初に、飛鳥ってねえ、やっぱりふしぎな土地なんですよ。
 なにがふしぎなのか?
 まず、名前ですね---なぜ、飛ぶ鳥と書いてアスカと読むのか?
 別の字で「明日香」と書いてアスカと読ませるパターンもあって、こっちのほうも耳にふしぎに響きます。
 なんとなくエキゾチックな異国の香り、でも、和風のシンプルさもたしかに少々含んでいる---みたいな、超ビミョーなアルカイックなニュアンスがほのかに感じられるっていうか。
 そうして、誰がこのような呼び名をこの地につけたのか、そのへんの事情が、いまもって誰にも分かっていないってところが、なんとも奥深くって面白い。
 ええ、歴史学者も、考古学者も、チンプンカンプン---ほんと、誰ひとり分かってないんですわ、これが。
 学問なんて、そのへんの事情を考慮すると、あんま大したことないって思えてきますねえ。
 飛鳥関連のいろんな発言で、僕がいままででいちばん面白いと思ったのは、実は、あの「ノストラダムスの大予言」の五島勉さんによるものでした。
 純粋な学問畑とはまったくべつの、いくらかウサン臭い、ジャーナリズムの世界にいたひとですが。
 彼、あの神経質そうな容貌のわりに、どんな香具師もやれないような超・大胆なウルトラ仮説を、自信たっぷりにポンポン述べて、そのまま知らん顔して去っていく、という荒業を平気でカマスような大胆マンなんですよ。
 その彼が、たしか70年代の後期に、祥伝社の NON Book ってとこから「幻の超古代帝国アスカ」という一冊を出しているんです。
 これが、僕的には、ヒジョーに面白かった。
 内容的には、これ、ちょっとユートピアが入っている部分もあるんですけど---超古代、かつて、世界はひとつの国であり、楽園であった。その楽園の名を“アスカ”といった…。
 このアスカこそ、ムー、レムリア、アトランティスなんかの超古代文明の祖となった、文明の原型だった、と五島さんは主張されるんですよ。
 幻の超古代帝国アスカ---大変栄え、高度な文明を持ち、繁栄の極みを迎えたが、最終的には、戦争や天災で滅んでしまう。
 かつてこの国の住人であった人々は、文明の潰えた未開の世界で、また一からやり直さなくてはいけなくなった。
 それは、高度な文明に庇護されたかつての世界とはあまりにちがう、過酷で、リスキー極まるサバイバル生活だった。
 彼等は、楽園追放の運命を嘆き、自分たちが新たに居住することになった未開の土地土地にそれぞれ名前をつけていった。
 その際、自分たちのかつての故郷であるアスカを偲んで、ときどき、見知らぬ未開の土地に、パズルのようにアスカの面影を埋めこんでいくことを忘れなかった。
 たとえば、南米のナスカ---NASKA---これは、ここは、かつてのアスカみたいな楽園とは程遠い、厳しく、過酷な地である、という意味あい。(最初の N が ASKA の否定として働いてるわけ)
 へえ、と思ったけど、たしかにアスカという固有名詞が基盤になっている土地は、世界各地にケッコーあるんですね。
 日本の飛鳥でしょ?
 あと、インド東部のオリッサ地方にもアスカって村があるんです。
 ほかには、やっぱりインドのアショカ、スペイン・バスクのアスコ、チリのアスコタン、イギリスのアスコット、それに、アイスランドのアスキャ…。

----この名前の鍵こそが、かつて超古代文明アスカが世界的に栄えていた、という何よりの証拠ではないか!

 と---五島勉さんは、ここぞとばかり力説されるわけなんです---。
 もっとも、この仮説の礎になっている要の鍵が、この名前物件のみってのが問題といえば問題なんですが、このSF的な説のもとになった発想の独創性だけはまったくもって否定できない、ワクワクするほど面白いもんだなあ、といまでもときどき思います。

 話が飛びました---あい失礼。
 なぜ、五島勉がでてきたのか、自分ながらよく分からんのですが、とにかく、飛鳥という土地の呼び名の響きには、ふしぎな郷愁が感じられるっていうようなことを総括的にいいたかったのですよ。
 うん、飛鳥---アスカって素敵な響きだもの。
 発音してる口腔内でも、なんだかふしぎな気持ちよさが募っていく気がします。
 その日本人のアイデンティティーたる飛鳥にいって、イーダちゃんははたして何を感じたのか?
 興味のある方は以下の記事にも目を通していただけたらいいなあ、と思います---。
 
 で、飛鳥探索の第一歩の資料として、適当な地図をネットで探してみたんですが、あんまりいいのが見当たらなかったんで、10分ほどかけて手書きの簡略地図を作成してみました。
 出来は、もう威張れたもんじゃないのですが、まあポイントだけ列挙してみると---ざっとこんな感じです。


                   



                                  ◆石舞台で歴史の話◆
 
 僕、石舞台が好きでしてね、飛鳥に訪れたときは、必ず足を運ぶようにしてるんです。
 クルマで行くとすぐ近くの駐車場まで楽々と乗りつけられるんですけど、飛鳥駅からママチャリ借りてそれで行くとなると、ここって結構長距離な上り坂を越えてこなくちゃいけないんですね。
 特に、高松塚古墳のあるあたりの上り坂が超・キツッ! 
 年齢とともに弱ってきている足腰に「!」と喝を入れて、ヒーコラとペダルを踏みしめて、ああ、よーやく坂が切れた、おお、小鳥がこんな鳴いてるじゃん、ぜんぜん気づかなかったな、みたいな余裕がやっとでてきて、飛鳥川をわたって、田園風景をしばし堪能、右折してそのまましばらくまっすぐいくと、やがて目的の石舞台古墳が見えてまいります。
 ええ、石舞台ってわりと飛鳥村のはしっこのほうにあるんですよ。
 この石舞台古墳は、かつての飛鳥同様に、がらーんと広い、田園地帯のまんなかに位置してます。
 チャリから降りて、あるいはクルマから降りて、この石舞台に向かって歩みはじめると、いっつも「ああ、ここ、いいなあ」と思います。
 それまで密封されていたアタマのなかに、ふいに気持ちいい南風が吹きこんできたような、そんな感触---。
 茫洋、そして、なんともいえない清涼感…。
 なんていうか、とっても風通しのいい場所なんですよ、こちらの石舞台古墳って。
 高校の修学旅行で訪れたときからずっとそう思っていたので、数年前、「ほんとにあった怖い話(現在はHonkowaと改名)『魔百合のショックレポート・闇に笑う女帝』(当時は朝日ソノラマコミックスでした。現在は単行本の会社は知らん)のなかで、Honkowa専属の霊能者・寺尾玲子さんが石舞台のまえに立っておんなじことを述べているシーンを見つけたときには、ああ、やっぱりなあ、はなからここはそういう場所なんだ、と嬉しくなりました。
 平成12年の8月某日、編集者何人かとこの石舞台を訪れた寺尾玲子さんは、

----ここ、龍の道が通ってる…。

 といったそうです。
 龍の道ってなんだろ? と、ここで疑問に思ったアナタ---ネットで調べても、残念ながらこの「龍の道」はでておりませぬ。
 この「龍の道」というのは、あくまで寺尾玲子さんとほん怖スタッフ専属の命名であって、風水とかそういう道筋系のやつとはちがう道筋であるようなのです。
 ひとまず玲子さんの話のつづきを聴きませう。

----推古天皇陵で感じたんだけどね、あそこにも龍の通り道があった。釿明天皇陵、敏達天皇陵、用明天皇陵…、メインの天皇の陵墓が龍道にかかってる。龍道つまりは「自然の力」なわけなんだけど、蘇我と蘇我に関わる天皇の血が未来永劫続くようこの力を利用した…。でも、妨害が入った。蘇我の反対勢力によって、この墓は破られてる。石舞台古墳の効果は破綻したけど、自然の力そのものは今も残ってるの……。(魔百合のショックレポート「闇に笑う女帝<朝日ソノラマコミックス>」より)

 玲子さんのいった「龍の道」をたどっていくと---飛鳥の手書き地図の東西にわたって引かれた蛍光ピンクの道筋を御覧下さい、きれが、玲子さんのいう「龍道」です---この道は、やがて、奈良をこえ、大阪の河内長野までたどり着きます。
 河内長野の太子町。ここは、別名「古墳の町」といわれるくらい町のあちこちに古墳の多い場所なんです。
 そこの釿明天皇陵、敏達天皇陵、用明天皇陵まで、こちら飛鳥の石舞台と天武・持統天皇陵から伸びている「龍道」が届いている、と玲子さんはいうわけなんです。
 これ読んだときは「うひょーっ!」と飛びあがりました。
 だって、河内長野の太子町ってまんざら知らない土地でもなかったんですから。
 というか、僕、この地で働いていたことも、ちょっとのあいだ住んでいたこともあるんですよ。
 だから、この玲子さんのセリフを読んだときは嬉しかったですねえ---いままで僕は、憧れの地「飛鳥」と自分とがまるきり無関係であることを、いささか僻んでいた面があるんです、実をいうと。なのに、まるで無縁の地だと思っていた「飛鳥」と自分とのあいだに、知らないあいだにこんなほのかな「縁(えにし)」が結ばれていたなんて超・ラッキー---してみると、僕は知らないあいだに「龍道」の上に住んでいたってことになるじゃないですか。
 いいや、ひょっとしたら自分でも知らないうちにこの「龍道」の恩恵を受けていた、なんて事象も人生上にひとつやふたつはあったかもしれない、なんてこともついつい考えちゃいました。
 でも、その恩恵ってなんだろう? とか都合のいいことを考えていたら、石舞台の脇のところにいた、見知らぬ眼鏡のおじさんがふいに声をかけてこられて、

----あのぅ…、ちょっとお話いいですか…?

 最初は宗教のひとかと思ったこの教師風おじさん、実は、ボランティアの解説のひとでした。
 歴史が好きで、石舞台を見学にきたひとに、飛鳥の過去生を語るのが最近の生き甲斐なんだとか。
 このおじさん、大昔の飛鳥はほとんど沼に覆われていて、地上にあったのは、この石舞台と飛鳥寺とかの狭い地域だけだったんですよ、なんて意表をついたことをいってこられました。
 へえ、と僕はうなずいて、その話は聴いたことありますね、でも、だとすると、当時は田畑もいまよりぜんぜん少なかったことになるわけだから、必然、庶民や貴族もいまに比べて相当つつましい暮らしをしてたんでせうね?
 すると、おじさんの目がきらりと輝いて、

----そうなんです、原初の日本人はね、天皇も庶民もふくめて、みんな貧しくてつつましい暮らしをしてたんですよ。そのへんが中国などとちがうところですよね。自然の、季節ごとの最低限の恵みをいただいいて、それで満足して、日々をすごしていたんです。後の時代の富の偏在は、まだ、このころは起こっていなかったんですよ。みんな、清貧で、欲をかかず、つつましやかに暮らしていたんです。私は、そういう原初の日本人に対して、なんだか、憧れみたいな感情を抱いてしまいますねえ…。

----僕も、ですよ。僕も、飛鳥当初の日本人に対して、おんなじ憧れめいた思いがありますよ。だから、ほとんど毎年、この地に足を運んでくるんです。ううん、僕だけじゃない、ほかのひとたちもみんなそうなんじゃないのかな…?

----ほう、あなたもそう思いますか…! あなたも?

 おじさんの瞳がいっそう大きく見開かれます。
 かくして、終わりのない歴史談義がはじまったという次第。
 おじさん、すっかり夢中になっちゃって、あとからきたカップルがおじさんになにやら質問しようとしても(彼は腕のところに「歴史解説ボランティア」という腕章をつけていたのであります)、ああ、もうちょっと待ってて、と、てんでつれないの。
 どうやら僕はおじさんのハングリーな歴史スピリットに火をつけてしまったようでした。
 でも、この石舞台古墳上でする終わりのない歴史談義は、僕的にとてもよかったの。
 空はあくまで青く、午すぎの風は悠々、龍道は、見えない絆で石舞台と河内長野市とをしっかりと結びつけており、おじさんと僕とは終わりのない歴史話を延々と語りつづけ…。
 石舞台でのこの時間帯は、ちょっと忘れられないですね。
 うん、僕の、飛鳥ベストショットのうちのひとつじゃないか、と思っています。

                           
                    


                                  ◆飛鳥大仏と対峙して◆

 石舞台の次に訪れたのは、飛鳥寺でした。
 飛鳥寺は、飛鳥の田園地帯のほぼまんなかに位置してます。
 飛鳥川をわたった東側の岸、石舞台からチャリで10分ほど北上したとこにございます。
 日本で最初期の仏像「飛鳥大仏」が拝観できるとあったので、へえ、じゃあ、話のついでに見てみようかな、くらいの軽いノリでの訪問でした。
 奈良によくあるみたいな、でっかいお寺じゃありません。
 もそっと規模の小さい、ささやかで小規模な感じの、いかにも飛鳥的な、シンプルで清楚なお寺です。
 拝観料払って、靴脱いでお寺のなかに入って---。
 そしたら、平日の午後のせいか、なんと、拝観者はイーダちゃんひとりきりじゃないですか。
 これにはちょっとびっくりしましたね---千年前の飛鳥大仏とふたりっきりで対峙するなんてよもや思ってもなかったから。
 本堂の伽藍のところに、飛鳥大仏さまは、ストンと自然に座っておられました。

----へえ、あれがそうか…。座高、たかーっ!

 なんて最初はわりと余裕、飛鳥大仏のまえにそろそろとにじり寄っていって、3メートルほどまえのとこに偉そうにあぐらなんてかいちゃって---。
 そうして、千年前に作られたこの仏像の御顔を、じーっと見あげてみたら…。
 そしたら、なんともいえない、静かなド迫力が、この仏像さんのご尊顔からじわーっと伝わってきたんです。
 平安以降の仏像群に見られるような、一種の「写実」の美学は、こちらの仏像さんにはありません。
 こちらの仏像さんの背筋をすーっと通っているのは、もっと別種の美学であるように見受けられました。
 写実よりも信仰、そして、退廃的なまでに繊細な線よりも素朴で剛直な力感---そういったものが大事にされている万葉時代の仏像独自の芳香とでもいいませうか。
 超・芳しい---素朴な造形のひとつひとつが、現代人イーダちゃんの退廃した魂を打ちまくります。
 ここまで優れた仏像となると、鑑賞なんてとてもできない、というか、拝観者のほうが逆に鑑定されちゃう。
 千年以上にもわたって、何千、何万、いや、何十万もの人間の信仰心を吸いこんできたそのご尊顔は非常に静やかでありまして、僕の興味本位の視線なんて瞬時に吸いこんじゃって、でも、まったく何事もなかったかのように、千年前と同様、悠久の時間のなかを、ただ凪いで、軽く微笑しておられるの。
 その拈華微笑が、見ているうち、だんだんに怖く思えてきました。
 だって、こっち、なんにもできないんだもの---いうなれば、これは、無限と見つめあってるみたいなものじゃないですか。
 背筋のあたりに軽い寒気が走ります。  

----なんじゃろう、これ? ちょっと怖いぞ、これは…。

 もうすっかり貫禄負け、気分はもう退却モードです。
 ただ、ビビリつつも、この邂逅の記録を残したい気持ちに駆られ、おもむろに飛鳥大仏さんに写真撮影の許可を申請してみました。

----あのー…、ここでこうしてふたりで見つめあうっていうのもきっと何かの縁でしょうから、ひとつ、済みませんが写真を撮らしちゃもらえませんでしょうか…?

 僕、神仏系の写真を撮るときには、必ずこのような申請を被写体に直接することにしています。
 ダメなときはなんとなく分かるものですが、このときは飛鳥大仏から許可がでたように感じられたので、これ幸いと携帯の写真を1枚パシャリとやらしていただきました。
 それが、このショットです---ねっ、僕のおののきがしっかりと写りこんでいる、ちょっぴり怖めの写真に仕上がっているでしょ---?(^.^;>


              

               


                                 ◆伝板蓋宮跡で廃墟気分を深呼吸◆

 個人的に、廃墟が凄く好きなんですよ。
 これは、ほとんど「廃墟フェチ」といったほうがいいのかもしれない。
 10年ほど前の廃墟ブームが巻きおこるずっと以前から好きでした。
 あそこはいいぞ、という噂を聴きつけたら足マメに訪れたりして、いつかこれをネタに本なんて書きたいなあ、とか漠然と思っていたんですけど、生来の不精癖に負け、それらの廃墟ネタをちゃんとした形にして残すことは結局やれずじまいになってしまいました。
 でもね、20代後半から30代前半にかけては、ほんと、親しくしてたO---彼は、ときどき泥棒! とかやっていた男なので、名前は伏せときます---と八王子界隈から奥多摩あたりをよくうろついていたものです。 
 こんな体質なので、飛鳥にいったら「伝飛鳥板蓋宮」を訪れないわけがない。
 ええ、飛鳥にきたら、ほかのところは差しおいても、僕は必ずここに寄りますね。
 場所的には、飛鳥寺からもういちど石舞台方面に南下する感じ。
 距離的には飛鳥寺からわりとすぐの地です---そんなに動きません。
 なーんもない、がらんちょんの荒れ地みたいな場所なんですけど、この「がらーんちょん感」がとってもいいの。
 実際には、ここ、蘇我入鹿が藤原鎌足に討たれた場所だとかもいわれれいますけど、残念ながらそれは決定的な説ではないようですな。
 でもまあしかし、ここが、かつての華やかな都の一角の廃墟であることはまちがいありません。
 「強者どもが夢のあと」の廃墟は、イーダちゃん、ほんっとに好きなんですわ。
 かつての栄華の跡地をわけもなくくるくるとうろつきまわり、無常の風に吹かれて悄然となる---これは、イーダちゃん内では、大変高レベルな快楽のひとつなのです。
 ま、論より証拠ともいいますし、実際に目で見てその酩酊気分を体感していただきませうか---。


                    
                    


 如何です? 口腔内に生じた、味気ないような、一種のシャリシャリ感を体感していただけたでせうか?(^.^;>
 僕が思うに、その無機的なやるせなげな感触が、恐らく「無常」の味わいなんです。
 僕はここがホントに好きでねえ---ここの空気を吸ってるだけでまったく飽きないの。
 いつきても2時間以上ここでぶらぶらしていくんですよ。
 ぶらぶらしているあいだじゅうずっと、胸底にチリチリと痛がゆい感じがあって。
 最初にここへ来たのは高校の修学旅行のときでしたけど、そのときでさえ背筋に電気が走ったもん。
 このときも、その電気の流れは健在でした。恐らく、次にくるときもきっと……


                                      ◆締めの「亀石」◆

 で、飛鳥行の最後に寄るのはいつもここ、あの勇名な「亀石」なんです---。
 ここ、場所的に、駅に帰る際の、ちょうど要みたいなところにあるんです。
 だから、いっつも最後の「締め」みたいな気分でここに寄るんですが、ほかの場所に感じるような気負いは、この「亀石」に臨む際は、まったくありません。
 だって、この「亀石」、住宅地のまんなかにポカンとあるだけなんですもん。
 裏手は学生アパートとちっちゃな畑だけ---なんて牧歌的な佇まいなんでせうか!
 入場料も拝観料もなーんもなし、ただ、簡略な説明版がちょっとあるばかり---この気負いのないシンプルさって実に飛鳥的だな、と思います。
 そういう意味でいうと、もしかしたらこの「亀石」、もっとも飛鳥的な場所かもしれません。
 石舞台のボランティアおじさんの言によると、だいたい「亀石」のあったあたりが、太古の飛鳥の沼と陸とのちょうど境界だったというんですけど。
 伝説によると、「亀石」は、以前は北を向き、次には東に向いたというんです。
 いま現在は南西面を向いていますが、これが西のほうを向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一面もとの泥の海に返る、と今でもいわれているそうです。
 これは、やっぱり、過去にいちどあった「極ジャンプ」の伝承なんじゃないでせうか?
 極ジャンプっていうのは、地球の自転軸が移動する現象をいいます。
 地球みたいな惑星は、結構この手の回転よろめきを起こすそうなんですよ。
 これが起こると地球はもー大変、サハラ砂漠が一瞬で北極に移動しちゃったり、アラスカがいきなし南半球にもっていかれたりしちゃう。
 シベリアで発見される大量の冷凍マンモスこそ、この「極ジャンプ」の歴史的証拠じゃないか---というのは、かの飛鳥昭雄さんの説なんですが、僕も氏の説には賛成ですね。
 この「亀石」伝承は、かつて地球を襲った大災害である「極ジャンプ」の、うん、日本版の証言だと思います。
 このネタにあわせて、モーゼの紅海割れの奇跡とか、シベリアの冷凍マンモスの詳細とか、キリスト処刑のときに太陽の動きがとまったローマの伝承とかにも話を飛ばしたく思ってもきましたが、あまりにも長くなってきたので今夜はそろそろこのへんで----お休みなさい---(^.-V☆彡


                        



                                                               
 

 



                    
 
 
 
 

 
 
 

徒然その118☆まことの聖地「熊野・大斎原(おおゆのはら)」にて☆

2012-09-13 10:49:57 | ☆パワースポット探訪☆
                  


 少々古い話で恐縮ですが、2008年の11月24日から29日にかけて、イーダちゃんは、熊野の地の探索に赴いておりました。
 第一の目的は、ま、温泉ね。
 熊野には、日本最古の、世界遺産にまでなった、あの湯の峰温泉の「つぼ湯」がありますから。
 ほかにも「川湯温泉」とか「渡瀬温泉」とか、特A級の名湯はいっぱいある。
 温泉フリークであるイーダちゃんにしてみれば、これは、願ってもみない土地柄であります。
 ただ、この旅には、実は、それ以外の第二の目的というのもあったのです。
 それは、パワースポットの探訪というもの---。
 熊野というのは、古来より、ひとが生活を営む平地とは区別された「黄泉の国」として見なされていた、いわば特別な土地だったのです。
 ここの山々を越え、徒歩ではるばると巡礼すれば、心身にたまった垢が落とされ、それまでの罪業も負のカルマも綺麗に洗われ、罪人も病人も宿願の「再生」を果たすことができる、と代々信じられてきたのです。
 そーんな有難い土地は、残念ながら野蛮な東の国(注:イーダちゃんはその関東人です)には、いまだありませんや。
 いろんな歴史書や文芸書、あるいはオカルト文献なんかで、そっち系の知識をしこたま仕入れるのに余念のなかったイーダちゃんにとって、そんな熊野は、まさに憧れの大地であったのです。
 ですから、このときの熊野行は、自分的に凄く盛りあがりましたねえ!
 さて、このときの熊野行にあたって、僕がまず頭をひねったのは、滞在場所の確定でした。
 有名な場所だから、金さえ払えばいくらでもいい部屋には泊まれます。
 でも、せっかくの熊野古道巡礼の旅を、あまりにも俗世的な快適欲で汚しちゃうのもどうも気がひける。
 というようなわけで、イーダちゃんが最終的にセレクトしたのは、あの熊野神宮の宿坊だったのであります。
 ええ、あの熊野神宮の敷地内には、宿坊があったのです。
 その名も「瑞鳳殿(ずいほうでん)」!---なんと、有難くも気高い御名ではないですか。
 一泊の料金、3000円。しかも、駐車場代まで無料とくる。
 こりゃあ経済的じゃないですか。おまけに古道を歩くひとのために、巡礼用の杖まで貸しだしてくれるらしい。
 巡礼の旅人のための至れりつくせりの気遣いに満ちている、この博愛的なシステムを利用しないテはありません。
 で、イーダちゃんは、こちら、熊野神宮の宿坊「瑞鳳殿」さんに3泊することを決めたのでした。


                   
               


 そうして、2008月11月25日の夕遅く、白浜温泉と湯の峰温泉の「つぼ湯」を経由してきたイーダちゃんが、愛車でようやくこちらの「瑞鳳殿」さんにたどりつくと、うわ、思っていたよりずいぶん立派なところではないですか。
 木製の二階建ての、体育館みたいな造りの、古い建物です。
 でも、重い荷物の詰まったリュックをクルマから運びだした僕が、なにより先に感じたのは、建物に刻みこまれた歳月の重みというよりは、建物全体を含むこの土地全体に充満している「気」の厳しさのほうでした。
 ええ、クルマの密室空間から冷たい外気の外にでた途端、襟元がゾクリとしたもん。
 那須の北温泉の駐車場にきたときの空気と、ちょい似てる。
 そう、那須のあそこらへんも、いわゆる修験道の土地でしたから。
 ただ、こちらの場合、その厳しさの「度合い」が、それよりもややキツイ気がする。地霊というか、そういった厳粛な気配がビンビンするの。
 やはり、これは、神社の敷地内に建物が位置しているせいでせうか?
 ずーっとむかし、神代の時代には、神とひととは土地を住み分けて住んでいた、という話を聴いたことがあります。神社の敷地というのは、つまりは「神側」の土地、本来ならひとの住めない特別な神粋なのであって、むりにそこに住もうとしたら「障り」がある---ということは、ほん怖の「魔百合のショックレポート」を読んで学んではいましたが、本で読むのと実際に肌で体験するのとでは大ちがいです。
 ましてや、いま僕がここにこうしている神社は、ただの神社じゃない。
 あの「八咫烏」が創設したという、天下の熊野神宮なんですから。
 これほど濃密な気配に満ちているというのも、それは、ある意味当然かもしれない。

----しっかし、くる…うん、ここ、くるよなー……。

 とボヤキつつ、案内されただだっぴろい部屋内に荷物を広げはじめます。
 でもね、寝ながらビール飲みつつ読もうと思っていたお色気雑誌とかは、どうしてもリュックから取りだせなかった。
 おっかないんです。やりづらいんです。そんなことしたら、どっかの誰かにいまにも怒鳴られそうな気配がするんです。
 非常に厳しい視線に注視され、監視されているような、ふしぎな感覚---。
 この皮膚感覚は、僕がこの宿坊にいるあいだじゅう、ずーっとありましたね。
 だもんで、僕は、自分の精神世界内も清潔にするよう心がけないわけにいかなくて、Hなこともなるたけ考えないようにしてた。
 おかげで「瑞鳳殿」にいるあいだの僕の精神世界は、坊主のごとく清潔だったのです…。(^.^;>

 ただ、この夜の「瑞鳳殿」には、宿泊客は僕ひとりきりしかおらず、一応麩で部屋分けこそされているものの、本来は大広間の宿坊ですからね---麩をちょいとあけると、まっ暗闇の畳のスペースが延々と見えて---しかも、いまいったような峻厳とした「気」の満ちた気配でしょ?---このような部屋でじっとしてるのは、いささか怖くもありました。
 だもんで、暇にまかせて、僕は、「瑞鳳殿」の探検としゃれこんでみたのであります。
 でも、そーっとね---なぜなら、1Fは宿坊だけど、2Fはここ、宿坊勤めの坊さんが眠っているから---なるたけそーっと「瑞鳳殿」の1Fを探索したイーダちゃんが見た光景は、以下の通りです。


                
                


 おーっ! と、ここで、格闘技に興味のある方は、のけぞらなくっちゃいけません。
 僕ものけぞりました。
 だって、なんだってここに、あの植芝盛平先生のポスターがあるのよ---?
 (注:植芝盛平翁というのは、日本の合気道の草分け的存在。メチャメチャに強かった御仁。軍の兵隊と決闘してピストルの弾丸をよけたエピソードとかが目白押しの超巨星。あの「神業」塩田剛三氏の師匠でもあったひと)
 しかも、どう見ても道場みたいな、この畳の間はなーに?
 あとで判明したところによると、合気道の1年に1度の伝統のイベントは、ここ、熊野で必ず行われることになっているのだとか。
 しかも、僕のこの旅のメインの目的である「大斎原」で、それは通常行われる、というのです。
 そうとわかったとき、イーダちゃんは思わず膝を叩いちゃった。
 さっすが合気道、自然の「気」のパワーってのをちゃんと分かってるんだなあ、と嬉しかったですねえ。

 そうして、翌日の早朝訪れた「大斎原(おおゆのはら)」が、こちらです。
 まず、ページ冒頭の上のフォトを見てほしいなあ。
 あの、どう思います、これ?
 僕は、なんというか、この「大斎原」というのは、いままで訪れた夥しいパワスポ系の場所のうち、もっとも好きな場所のひとつなんです。
 だって、ここ、凄いんですモン---まず、ニッポン一の大鳥居ってのが凄い。
 この鳥居、上の部分に3本足の八咫烏の紋章が刻んであってね---下からそれを見上げたときの威容は、なんともたまんないものがある。
 それからねえ---なんと、この「大斎原」には、神社の社殿もなーんもないんです。
 ええ、「大斎原」って、基本的にからっぽの場所なの。
 より正確にいうなら、本来の熊野神宮というのは、長いことこの「大斎原」にあったんですよ。
 すなわち、長い歳月、多くの巡礼者にとっての「蘇りの聖地」でありつづけていたのは、現在の現・熊野神宮ではなく、元・熊野神宮であるところの、ここ「大斎原」だったのであります。
 ただ、明治22年の大洪水で社殿が全部流されちゃって、現在は、石祠が残ってるだけの場所になってしまったという塩梅。
 (「大斎原」の熊野神宮は、熊野川の中洲にあったのでした)
 でもねえ、ぱっとしない石祠のほかにはなんもない、このからっぱの場所が、どういうわけかとてもいいんです。
 僕は、現・熊野神宮の社殿より、はるかにこっちのほうが好きだなあ。
 まあ、論より証拠---次のフォトをどーぞ御覧下さい---。


             
             
          


 如何かな---?
 凛として、同時に限りない包容力をも感じさせてくれるような、稀有の自然のオーラを体感していただけたでせうか?
 率直にいっちゃいますと、こちら「大斎原」---僕的基準でいいますと、5本の指に入るほど超・好きなパワースポットのひとつなんです。
 峻厳と寛容とが同居してる。
 張りつめた厳しさと凪いだ微笑とが、おなじひとつところに同時に存在してる。
 もうほとんどマジックですよね? このような場所は、僕は、ほかに知りません。
 ええ、こちら「大斎場」さんは、僕的にいって、伊勢神宮のあの「内宮(ないくう)」さんに富士樹海、あと、長野伊那市の「分抗峠」に北海道の「サロベツ原野」、それから、あの下北半島の「恐山」なんかとおなじような、いわばスペシャルな場所なんですよ。
 あの世とこの世とが交錯して存在しているみたいな、摩訶不思議な異空間---。
 そこにいると、もういるだけでパラダイスといったような、一種の至福酩酊状態にいつのまにかなっちゃうの。
 この朝も、僕、あたりに垂れこめた霧が綺麗に晴れるまで、5時半からおよそ7時すぎまで、この「大斎原(おおゆのはら)」のなかをひたすらぶらついてましたもん。
 うん、あんまりこの地に満ち満ちた「気」の威力が素晴らしくてね---不正確な言葉ですみませんが、これは「気」とでもいうしかないんだなあ---ぶらぶらしたり、ときどき深呼吸してみたりするだけで、もうまったりと愉しいの。
 現世の汚穢に汚れきった細胞のひとつひとつが、じわーっとそろって蘇生してくる悦び、とでもいうんでせうか?
 とにかく、一瞬たりとも退屈なんかしないのよ。
 風が吹いて木の梢がゆれたら、なんかそれが「おお」って感じだし、曇りの雲の隙間から一瞬陽光が漏れてきたら、これまた神示のように「おお、そうか」なんて感じ…。
 かさこそ草を踏みしめて歩く自分の足音まで、なんかいつもより意味深であって…。
 とってもふしぎ、でも、なんだか背骨あたりからじんわりハッピー……。(^.^)☆彡

----ここはとんでもなくすごい。神さんは熊野神宮の境内ではなく、ここにいらっしゃる。鳥肌が立ってきて、金縛りにあったような感覚に襲われた。全国の霊域と呼ばれる場所にはずいぶん行ったが、近畿に関しては、三輪山とここに尽きる。(ある巡礼男性)

 むーっ、僕も同感ですね。
 写真だけ見ると、「なんだ、ただの原っぱじゃん?」と思うかもしれません。
 あーあ、ぜんぜんダサイじゃない、と、がっかりするひとも多いかもわからない。
 たしかに、石碑とかいくつかあるけど、それは、現・熊野神宮の社殿---書きもらしましたが、熊野本宮とこことの距離は、徒歩で10分あまりです---などと比べると、全然大したものじゃないし、物質的には、ここには大したものはないんだ、と、いいきってしまってもまあいいでせう。
 でも、ここはね、いって、実際に足を踏みいれてもらえば、勘のいいひとなら絶対分かるから---。
 なに、特別に勘がよくなくったって大丈夫---霊感も特に必要なし!---日常と非日常の堺の蝶番的部分にいささかなりとも関心のあるひとが行けば、ここ「大斎原」は、絶対に「なにか」を得られるスペシャルランクな場所であると、イーダちゃんは魂の奥底から深ーく確信しているのでおじゃります…。

 最後に、朝靄の煙る熊野川の美しい写真をひとつここに添えさせていただいて、この「大斎原(おおゆのはら)」関連の記事を締めくくりたいなあ、と思う不肖イーダちゃんなのでありました---。m(_ _)m


                                   

       「しかし、いつ見ても空の一角に大鳥居があるっていうのは、どんな感覚なんでしょうね? 地元のひとは違和感とかないのかな?」
       「いやー、僕等は生まれたときからそうだったから。空ってそういうもんだってのが刷りこまれているっていうか…。修学旅行で東京とかに泊まってると、む
      しろ鳥居がなくてなにかが欠けているっていうか、なんか落ちつかなかったですもん」
       「へえ…(ト感心して)」
                -----神宮地元のGS兄ちゃんとの会話より。








                


                         

 

徒然その103☆暗渠探訪2--失われた<渋谷川>を求めて:玉川上水遡行篇☆

2012-04-18 20:18:09 | ☆パワースポット探訪☆
                               


 さて、失われた<渋谷川>の流れをゆるゆると遡って、東急渋谷駅から宮下公園、原宿キャットストリートから千駄ヶ谷あたりまで徒歩でやってきたイーダちゃんが、最終的にたどりついた場所はこちらでした---新宿区の内藤町---ええ、あの「新宿御苑」さんのお膝元の町並です。
 幻の川を追っているうちに、JR中央線の「千駄ヶ谷」駅の近くまで、いつのまにか歩いてきちゃってたんですね。うーむ、びっくり。
 ちなににJR「千駄ヶ谷」の正確な語源は、「千駄萱」になります。
 かつてのこの場所は、ええ、見渡すかぎりの萱(かや)が鬱蒼と生い茂った、それはもう見事な田園地帯だったのだとか。
 都会的に洗練されたいまからじゃ想像もつきませんが、かつての千駄萱は、まちがいなくそのようなうらぶれた場所だったのです。
 暗渠化された渋谷川は、原宿からここ、千駄ヶ谷の国立競技場のすぐ西脇をかすめるようにして、JR線路の北側の新宿区までずーっとつづいてきていたのでありました。
 新宿区には、あの巨大な「新宿御苑」がありまする。
 そして、どうやら、この「新宿御苑」さんが、暗渠化された渋谷川の大元の水源のようでした。
 いや、このいい方はいささか不正確かも---いいなおしませうか。
 渋谷川の大元の水源は、なるほど、たしかに新宿御苑内の「玉藻池」や「上の池」、「中の池」であることにまちがいはありません。
 これらの「池々」から流れてくる清水が、玉川上水の水路を通り、その流れがやがて原宿キャットストリートの隠田辺りを抜けて渋谷に至り、今度はそこに明治神宮から流れてきた宇田川(注:宇田川は渋谷区宇田川町の名の由来となった川です)と河骨川(注:この川は、童謡「春の小川」のモデルとなった川です)が合流し、渋谷駅の稲荷橋のあたりからようやく地下から姿を現したこの川は、新たな太い流れとなって明治通りと平行してしばらく流れ、やがて「古川」と名を変えていくのです…。
 ええ、それが「渋谷川」という川の生涯の、ごく大まかなクロッキー。
 見える川の流れを遡るのはそれほどロマンチックじゃありませんが、目に見えない、文明開花のために地下に封印された、幻の「渋谷川」を求めて歩くこの旅は、僕的にはもの凄く「ツボ」でした。
 歩きながら、地下からふいに湧きだしてくる「過去」からの玄妙オーラに包まれて、イーダちゃんは何度恍惚としたことか。
 十回じゃ、とてもきかなかったでせうね。
 原宿のキャットストリートを歩いているときもそうでしたが、イーダちゃんがいよいよ本格的にソレにあてられてきたのは、外延西通りを北上して、千駄ヶ谷のJR線の線路を越えたあたりからでした。
 ここには、かつての川の「生」の気配が、ほかの場所より一層濃く刻まれていたのです。
 たとえばこの公園を、ちょい御覧になってくださいな---


          

 こちら「大番児童遊園」という名の、窪地にある、JR脇の、ちっちゃな、細っちい公園なんですけど。
 これは、あくまで臨時で撮った携帯写真にすぎないんだけど、それでも、この写真の公園内に漂っている、一種独特な淋しさの気配は、誰にでも感知可能だと思います。
 如何です---この2枚のフォトにしんと漂っている、いくらか廃墟チックな、夕暮れっぽい、ふしぎな淋しさは?
 特に、右写真の「ぞーさん」遊具の、哀感漂った佇まいをご賞味あれ。
 「児童遊園」と名付けられてはいますが、むろんのこと、こんな場所で遊んでいる子供なんてひとりもいやしません。
 僕がここを訪れたときには、このブランコ脇の固定のベンチで、ホームレスの方が荷物の整理をしてられました。
 それを見て、うん、と僕は思わずうなずいたものでした。

----そうだ、ホームレスさん、あんたは正しい。ここに似合うのは、たしかに子供よりあんたみたいなホームレスだよ、美学的な視点からいうならね…。

 この公園が細長いのは、むろんのこと、ここの土地の地下を暗渠化された「渋谷川」が流れているせいです。
 暗渠の跡地は、渋谷の宮下公園といい、原宿キャットストリートのジャングルジム公園といい、公園となるケースがどうも多いようです。暗渠は、法律的には「国有地」だそうですから。 
 しかし、イーダちゃんにとっての真の恍惚が待ちうけていたのは、この先の道すじだったのでありました。
 外苑西通りを遡行して、新宿御苑寄りに内藤町の路地を東側へすーっと入りこんだところ、
 入り組んだ路地をくねくねと果てまで行き、アパートの敷地を何気に踏みこんで、超・古い石段を幾段か下ったところ---
 そこには、かつての玉川上水の流れの跡が、そのままの状態でいまも残されていたのです…。


           


 はじめてこの故・玉川上水の流れの跡地に足を踏みいれたとき、僕あ、息がとまるかと思ったな。
 だって、僕が当ページ冒頭に挙げたトップ写真、それに、たったいまUPしたばかりの3枚の写真を、よーく御覧になってくださいよ。
 どーです---これら写真内に封印された、この清浄でうららかなオーラに満ちた空気は?
 ここ、玉川上水の跡地は、ちょうどスミレの花盛りでした。
 その鮮やかな青がちらちらと目に染みます---なによ、これ? あの「赤毛のアン」の物語に出てきた「スミレの谷」みたいじゃないの!---右手の新宿御苑の外柵を意識しつつ、一歩一歩歩みを新たにするごとに、足裏には生い茂った雑草の柔らかな感触が伝わってきます。
 一歩ごとに、春の息吹きを深々と深呼吸して---嗚呼、なんちゅー贅沢でせう---イーダちゃんはパラダイスでしたねえ。


               
      左上:新宿御苑「大木戸門」寄り部分。上水跡を追えるのはここまで。 中:外苑西通りから眺めた上水跡。 右上:外苑西通り下で河川行止り。

 あとね、この河川跡、距離的に結構つづいてたんですよ。
 そう、ゆるゆると数百メートルくらいつづいていたんじゃないのかな?
 どこか遠くの梢で、チチチチって鳥が鳴いてます。
 小刻みにゆれ動く葉影がかつての河川底の水藻のようにゆ~らゆら、そして、陽光はあくまでもさらさらとしてて---。
 この小散歩、ときどき、足元にでっかい松ぼっくりが落ちてたり、栗が落ちてたりするんです。
 げっ、マジ? ここ、ほんとに新宿区? と歩きながら幾度も疑問が兆したりして。
 もう、僕的には、ここ、ほとんど恍惚路でしたね---ロストリバー・ウォーキン・ウィズ・エクスタシーってか? 文法的にこれが合ってるかどうかは保証の限りじゃありませんが、心理的には、僕はまったくそうした状態だったのです。
 ええ、この小散歩のあいだ、イーダちゃんの時計は、完璧とまっていたのでありました…。


                         ×             ×

 その後、イーダちゃんは、この「過去」の跡地からしぶしぶ上がり、一般のひとがそうするように、大木戸門から200円の入場料を払って、新宿御苑内に入場しました。  
 最後に、「渋谷川」の水源たる新宿御苑の「玉藻池」のフォトを、ここにUPしておきませうか。
 

       

 左上のフォトが新宿御苑の「玉藻池」、右手の地下に注ぐ水路が、渋谷川暗渠の開始たる地点です。
 もっとも、御苑のほかの池「下の池」、「上の池」などからも、渋谷川(玉川上水)に注ぐ流れは設けられているようでした。
 春先の新宿御苑は、とってもうららかで暖かかったです。
 桜が綺麗でした。
 お客もちょっと多かったかな。
 「玉藻池」のほとりにある大木戸休憩所では、ベンチのところで碁を打ってるひとなんかもいたな。
 地上はいつも通り、すべて世はこともなしって感じです。
 もっとも、僕的にベストだったのは、あくまで故・玉川上水跡の流れを追ってタイムトラベルしている時間帯だったんですけど。
 ええ、多くのひとが行き来する地上にはあんま戻ってきたくなかったんだがなあ、というのが率直な本音です。
 でも、まあ、御苑の花盛りの桜たちはイーダちゃんのそんなひねくれ心理を知ってか知らずか、美しい無数の花びらを惜しげもなく空いっぱいに豪奢にふり撒いて、この世の春を思いきり満喫しながら、季節の讃歌をいつまでも朗々と歌いつづけているのでありました---。 
                                                                               ----fin.



徒然その102☆暗渠探訪--失われた<渋谷川>を求めて!☆

2012-04-02 17:37:53 | ☆パワースポット探訪☆

                        

 あのー 渋谷のあのセンター街の真下の地下を、川が流れてるって、あなた、知ってましたか? 
 僕あ、ぜんぜん知らんかった。
 今月、朝日新聞出版の「HONKOWA」という怪奇漫画雑誌ではじめてその事実を知って、正直仰天しました。 
 うん、2012年の5月号、小林薫さんの「影御前-失われた川-」という漫画です。
 人工的な工事で地下に埋めたてられた川のことを、専門的に「暗渠-あんきょ-」と呼ぶそうです。
 暗渠になった契機は、1964年に開催された「東京オリンピック」にあるようです。
 当時、水量の減っていた渋谷川、宇田川、河骨川(こうほねがわ)は、高度経済成長時代の煽りをうけて、ときどき汚水臭を放つようになっておりまして、たまたまオリンピック選手の集まる選手村がその近くに開設されることになったとき、国の威信と面子を考えた東京都が慌てること慌てまいこと---この川の匂いの対処にアタマを抱え、まっ青になって、もっとも短期間に「臭いモノに蓋」ができる手段としての埋めたて工事でもって、生きた川を生活用水の下水とともに、あっというまに地面の底に封印してしまった、というのがどうやらコトの真相のようです。
 恥ずかしながら、僕はこの事実を微塵も知らんかった。
 だけど、知ってしまうと、もう震えましたねえ…。
 だって、あの若者の街、都内のドまんなかの渋谷の地に、何本もの川が埋めたてられている、そして、彼等は、誰にも見られない暗いコンクリートの底で、いまもひっそりとか細い流れを紡ぎつづけている---なんて、なんだかロマンチックじゃないですか。
 ニンゲン、あいかわらず思いあがった困ったちゃんですねえ。オリンピック当時もいまも変わらず、油ギッシュに傲慢で。
 そして、渋谷川、なんの咎もないのに人間側の勝手な都合で、大事な光と風と自由とを奪われて、暗闇のなかになかば暴力的に封印されちゃって、なんだか哀れで気の毒です…。
 そう思うと、なんか、いても立ってもいられなくなってきて---いま、生活的にはちょっと忙しいんですが、なんとか半日あまり時間をやりくりして、渋谷の街までちょっちスピード調査にいってきました。
 以下はそのレポートであります---いざ!


                           *              *

 んじゃあ、まずは渋谷暗渠の地図提示といきますか。
 これが、東京オリンピック開催のために埋めたてられた、渋谷の三本の河川です。


                      

 ちなみに渋谷より原宿にむかって、東北にのびている紫の長いくさびが「渋谷川」、西北にのびている赤いくさびは「宇田川」---宇田川町の語源にもなっている川ですね、センター街の地下を流れているのは、こいつです---さらに、神宮あたりから千駄ヶ谷方面へ、やはり北西に枝葉をのばしている支流が「河骨川(こうほねがわ)」です。
 もっとも、現在はみんな「暗渠」になっちゃってるんですけど…。
 僕が今回のスタート地点に定めたのは、渋谷駅の「暗渠」入口からになります。
 この記事冒頭にUPした写真がそれですね。
 ちょっと御覧になってみてください---これ、渋谷駅南側の「稲荷橋」から恵比寿方面、すなわち川の下流のほうにむけて「渋谷川」を捕えた写真なんですけど、ねえ、なんかすっかり下水化しちゃって、か細い流れで---なんとなくドブ川みたいでせう?
 川に誇りがないでせう? 生き生きしてない。すっかりみじめにショボくれちゃってる。
 これが都市化の功罪なんですね、本来の「渋谷川」はそんな姿じゃなかった。
 それの誰の目にも見える証拠案件として、昭和26年の、まだまだ元気だったころのピチピチな「渋谷川」の写真をここにUPしておきませう。


                     

 これ、東急の百貨店の屋上から、東北側、原宿方面にむけて撮られた写真です。
 右手に見えるのが、オーラ凛凛の「渋谷川」---まんなかの土手は、なんとあの「宮下公園」なんですって。
 そう、暗渠にされた地下の「渋谷川」は、渋谷駅、渋谷駅前東急の地下を経由して、宮下公園の下を脈々と流れていたのです。
 それの証拠がこのフォト2枚、雑な写真ですが、まあ御覧になってください。

  
          

 左写真の左手に見えている、やや高の柵に囲まれた場所が、現在の「宮下公園」---そして、右手駐輪所の細長いラインの下を、暗渠としての「渋谷川」がいまも流れてるってわけ。
 右の写真が、それの証明の立札ね。
 ちなみに、この立札の提示位置は、赤ジャケのお兄ちゃんの歩いてる、むかって右隣りの植木のなかでした。 
 この看板、けっこう重要度高いかと思うんで、面倒ですが文字起こししときませうか。

                                       渋谷川                           渋谷一丁目25号

 この緑道の下には、渋谷川が流れています。この川はもともと新宿御苑や明治神宮の池を水源としていましたが、玉川上水が完成してからはその余水をも流すようになりました。
 昔、上流は余水川、穏田川などとも呼ばれ、下流の天現寺橋からは古川と名を変えて、今も東京湾に注いでいます。
 清らかな水が流れていたころには、鮎や鰻がなどもとれ、また渋谷川とその支流には、いくつも水車がかかっていました。葛飾北斎の富嶽36景にある「穏田の水車」もそのひとつでした。あと灌漑用水としても利用されるなど、付近の人々の生活に深いかかわりをもっていました。
 今では、稲荷橋(JR渋谷駅の南橋)から上流は、すべて暗渠になっています。
                                                                         渋谷区教育委員会
 

 うーむ、如何です?
 なんともやりきれない、都市の発展の裏側の歴史サイドを覗き見ているような、いささか怨念チックでどこか後ろめたいような、一種複雑な読後感が胸底から湧いてきやしませんか。
 足下の川の「生」の鼓動をなるたけ感じようとゆっくりと深呼吸しつつ、この東急前から宮下公園脇の駐輪所の小路をぬけると、わりとすぐ、そのさきにある明治通りにつきあたります。 
 ここはちょいにぎやかな交通の要所、新宿につながっている太い通りです。
 この明治通りを斜めに横切っていくと、やはり東北の、原宿方面にむかっていく通称「キャットストリート」という有名なオシャレ小路があるんですけど、暗渠の「渋谷川」は、その真下をずーっと通っているの。
 ではまあ、そっちのほうへしずしずといってみませうか。


              
   上図:CS入口からまもない所にある公園のJJ。舗装がいかにも埋めたてっぽい感じ。    上図:有名なCS。右手の小路が渋谷川経路。

 平日のお昼前、人気のあまりない原宿のキャットストリートを、失われた渋谷川の面影を追いながら、ぶらぶらと遡って歩いていくのは、なんともいえないふしぎな充実感がありました。

----ほんの50年前には、このあたりは川だったんだよーッ。ねえ、君、知ってる?

 行き交う見知らぬ若者やゴスロリ少女に、闇雲に語りかけたくなる衝動に、ときおり駆られます。
 川の岸辺に優雅に佇むラルフローレン原宿店やクロックス青山店に対しても、

----ねえねえ、君等はいまそうしてずいぶんお洒落に着飾ってるけど、もとはといえばそこは河原であったわけで、してみると君等のやってる商売っていうのは、むかしながらの「河原乞食」の親類筋ってことになりはしないかい? いや、もともと若者っていうのは、貧乏役者のパワフルな芝居が根っから好きな連中だから、そういう同類の匂いを本能部分で嗅ぎつけて、あえてこの街に集まってきてるのかもしれないねえ。
 
 なんて勝手なことを思ってもみたり…。
 そぞろ歩きそぞろ歩き---歩きながら、心をもっと過去に飛ばしてみます。
 時間遡行の川下り(正確には川上りです)、暖かな春の陽射しを浴びながら。
 すると、幻想の渋谷川のヴィジョンと現実のキャットストリートとの風景が実に妙なぐあいにブレンドされて、ちょーっとふらふら気分になってきました。
 クスリ、なんてまったく使ってないんですけど、うん、これはいい気持ちです…。
 そんな感じでしばらく道沿いにぽーっと歩いていたら、キャットストリートの中間部あたりで、あんま目立たない碑にふと巡りあいました。
 道の中途に小規模なお花畑といっしょにぽつんとあるその碑、それには「穏田橋」と書かれてあり。
 見まわしてみるけど、あたりにそれっぽい橋はありませぬ。
 してみると、これは、過去にはあったけどいまはない、名前だけ残った地名としての橋でせうか。
 この碑のまえに佇み、過去から聴こえてくるものにしばし耳をすましてみました。


               
           上図:CS中途にある「穏田橋」の碑。          上図:CS入口のもうモロ川の形と分かる、中州みたいな公園地形。
 
 このキャットストリート散策、渋谷側の入口は案外人気も少なかったのですが、表参道が近づくにつれ、さすがに人がふえてまきました。
 穏田橋の碑から2分ほどいくと、その表参道にいよいよご到着。
 左手にいけばJR原宿駅と明治神宮、右にいけば青山方面へとむかうこの道は、人通りもクルマ通りもさすがにハンパない---いままでのほんわか散歩とは別世界のようなにぎやかさが急にわっとひらけます。
 じゃっかんのめまいを感じつつ、参道橋の陸橋をわたると、そのまんまえが神宮前交番です。
 その横っちょのはしのところに、あんま目立たないかたちでやっぱり看板が立っています。むかしのむかし、ちょうどこのあたりに川が流れていた歴史を現代に伝えるべく看板。お。今度のは凄いや、これ、葛飾北斎の版画入りなんです。 


             
            上図:表参道の神宮前交番。左手に看板あり。グラサン男性、渋い!    上図:その北斎入りの看板アップなり。  
  
 葛飾北斎のあまりにも有名なあの富嶽36景の1枚、その「穏田の水車」を、ここでちょいご紹介しておきませうね。
 もっとも、これ、携帯写真があまりに映りわるいんで、別口のサイトから引っぱってきたやつですが。


                      


 いまじゃ世界的に有名なこの北斎は、1760年生まれの18世紀人---うーむ、驚いた。彼は、あのモーツァルトなんかといっしょの同時代人だったんですね。
 その彼が壮年期に描いたこの風景画が、なんと、当時の江戸・原宿村近郊の風景だったのです。
 さきほど僕がフォトをUPした穏田橋の碑、ちょうどあのあたりにはこの北斎画にあるような水車がいっぱいあって、日夜、精米の仕事のためにくるくると忙しく回転していたにちがいありません。
 むろん、水車をまわすための川も健在でした。
 渋谷川も、宇田川も、河骨川も、その清らかな流れに住んでいる鮎も鰻も、虫も鳥も、みんなみんな健在でした。
 ですが、いま、彼等の姿は、どこにもありません…。
 水車も、河川も、その住人たる鮎も鰻も、彼等を住まわせていた田園の風景も、ここにはなにひとつ残っていません。
 250年後の現在、彼等のいた地を乾いたコンクリートで覆いつくしたのは、「東京」という名の、彼等のまったく預かり知らぬ、新しい形態の大都市でした。
 ここの住人は大変エネルギッシュで、よく働き、この「東京」という都市を、世界的な経済的繁栄へと導いてくれました。
 この繁栄のおこぼれをもらって、僕等、一般の庶民もまあまあ豊かになった。
 少なくとも、喰えなくて、自分らの娘を娼家に売りにだす、なんてことはやらずに済むようになった。
 3度のメシにしても、まあそれなりに喰ってはゆける。
 しかし、北斎の描いたあの版画のなかの住人たちは?
 彼等は、何処にいったのでせうか---?


                             *             *

 そんなことを考えていたら、春の陽射しのうららかな神宮交番前で、イーダちゃんは「無常」の念のあまり、しばし愕然となっちゃいました。
 なんたる膨大な喪失でせうか…。
 歴史っていうのはそもそもそうしたものなのかもしれませんが、失われたモノたちの「生」について思いを寄せるたび、胸底に兆してくるこの望郷と悔恨の調べを取りのけることがどうにもできません。
 生きのびたものが歴史を作り、過去はすべて忘れ去られていく、All Thigs must Pass、ジョージ・ハリソンもそういってたろ? それが、歴史というもの本質なのだから---という意見には僕も同調しますし、解答がそれしかないことも理屈では分かっているつもりなんだけど。
 でも、しかし---そのときの僕は、胸底からこみあげてくるきりきりした「痛み」を、どうしても制御できなかったのです。
 よろめくように歩いたキャットストリートの帰り道、渋谷側から次々と新たに流れこんでくる若者たちの群れが、僕にはいつもよりずいぶんとゆらめいた、ふしぎな光景のように見えました…。


                                 *            *

 最後にひとつ、このページは僕の独創ではありません。
 暗渠研究にはたくさんの先駆者がおり、興味深い優れた発表がさまざまなメディアでなされています。
 参考までに、僕が閲覧したいくつかの優れたHPやブログをここに書き抜いておきませう。 

  第四章・第一節/渋谷川の源流を訪ねる - 加瀬竜哉.com : no river, no life www.kasetatsuya.com/.../noriver_nolife_04_01.html

 東京暗渠 - 廃墟徒然草 -Sweet Melancholly-blog.goo.ne.jp/.../b99a6938b674031bd8dd38b3ca39da60

 <「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史(田原光秦、之湖(コレジオ)>

 <「春の小川」の消えた街・渋谷--川が映し出す地域史-->(白根記念渋谷区郷戸博物館・文学館)明治神宮ウェブサイド

 いまになって考えてみると、僕がこんなページを編んだりしたいちばん大きな要因というのは、結局のところ「鎮魂」のためだったんだなあ、と思いあたります。
 そう、僕は、僕なりの「渋谷川へのレクイエム」というものを、このページで歌ってみたかったのです。
 「鎮魂」っていうのは、僕にとって、いつのまにかそれだけ大きなテーマとなっていたのですねえ。
 暗渠化された「渋谷川」に捧げるために、このページは編まれました。
 いってみれば「流し雛」のブログ版といったところでせうか。
 「鎮魂、そして、レクイエム」、このテーマは自分的にもとても気に入っているものなので、時間ができたら失われた「宇田川」や「河骨川」についても、いずれまた特集を組んでみたいなあ、と思っています---。(^.^;>












 



        
       

  


    

徒然その101☆なんかふしぎな熱海旅--来宮神社の「大楠」を訪ねて--☆

2012-03-28 00:58:19 | ☆パワースポット探訪☆
                            


 ひさびさの休みがとれたんで、腰の養生もかねて、この3月20日、近場の熱海に1泊2日の湯治としゃれこんでみました。
 なぜ、いま熱海なのか?
 去年の愛車全損事故により足なし状態がつづいていて、電車での遠出がだんだん面倒になってきたため---というのが第一の理由かな?
 で、第二には、新しく就いたいまの仕事では連休がなかなか取りづらいから---といった理由もありでせうか。
 そのような規制事項を踏まえたうえでの1泊2日の熱海旅だったのですが、いやー、それがなんともいえずふしぎな旅となったんですよ、今回は…。
 熱海駅への到着は、お昼すぎでした。ええ、いつもの常宿である「福島屋旅館」さんにまず荷物をおかせてもらって、昼間のさなかから閑散とした---うん、今回の熱海旅、休日前日で、かつ格好の青天という絶好の観光日和だというのに、観光客、恐ろしいほど少なかったんですよ---そんな閑散とした、人気のない、いい日和の熱海の町をぷらぷらと気ままに、まあさすらっていたと思ってください。

                
                       
                          上図:祝日前の晴天日だというのに閑散と静まった熱海銀座の光景

 具体的にいきませう。荷物をおいた「福島屋旅館」さんのそばには、源泉の「風呂の湯」ってのがあるんです。その源泉をちょい上ったさきに、熱海櫻が一本見事に花をつけてるのを見つけたんですよ。

----おおっ、凄っ。満開だ、こりゃ…。と、目を細めて携帯写真をぱちぱち撮っていたら。

 そしたら、上りの坂のところでそんな僕の様子を見ていたおばあさんが、いきなり話しかけてきたんです。

----ねえ、とってもきれいに咲いてますね…、って。

 これが、なんといっても第一のふしぎ事象かと存じます。
 ふりかえると、そこにいたのは上から下まで黒衣に身を包んだ、歯のない70代(推定)のおばあさん。
 僕はこのおばあさんの言葉にこくんとうなずいて、

----ええ、満開、いまが盛りって感じですよね…、とにっこり返しまして。

 それから、その櫻の木の下で、ふたりして延々おしゃべりしちゃいました。
 このおばあさん、聴けば、20年前にヨコハマの保土ヶ谷から移住されてきた方だとか。
 ええ、当時はいまとちがってまだ熱海は景気もよかったころですから、ヤクザ屋さんもいまよりうんと多かったんですよ。そのころの熱海を仕切っていたのは稲川会の系列でね…、

----えっ。稲川会といったらヨコハマじゃないんですか?

 そりゃあ、本家はヨコハマのほうかもしれませんが…、こっちの熱海でも稲川さんの勢いは凄かったんですよ…。もっとも、観光客がこんなに減っちゃってからは、稼ぎもなくなってきて、皆、ヨコハマのほうに移っていっちゃいましたけど、むかしのここいらはホント景気がよかったんですよ。ほら、その証拠に、この坂を上っていった梅園のすぐさきには、稲川さんの豪邸、いまもありますから…。

----へえ、豪邸ですか…。

 あなたと同じ年くらいの私の息子も、若い頃いちどヤクザになりたい、なんて馬鹿なことをいいだしましてね、あたしはヤクザなんてそんなに甘い稼業じゃないんだ、ということを教えてやりたくて、稲川さんの屋敷に息子をでっちにいかせたことがあるんですよ。毎朝タクシーでお屋敷まで送りとどけてやってね…、そうですねえ、2週間くらい頑張ったかしら? 掃除に洗濯に用足しに…それでようやく息子もげんなりして折れてくれまして……

 はらはらと櫻の花びらの舞う、春萌え坂のとちゅうで、遠いむかしの稲川会の興隆話を拝聴するのは、なんというか非常に浮き世離れした、ふしぎな味わいがありました。
 青空と、いまが盛りの熱海櫻と、いい匂いのするむかし話と、春霞のかかった遠くの海と…。
 これが、この日僕が体験した、ふしぎエピソードその1ですね---。


                           

 でもって、次には第二のふしぎ事象のご紹介---
 このおばあさんとお別れして、僕は、もそっと海沿いの、糸川橋の付近をぷらぷらと散策してたんですよね。
 なんか、急に美味しいものが食べたくなっちゃって。
 クルマの旅なら、ふだんは食べ物は思いきり節約節制しちゃうのですが、今回はお金のかからない電車旅ですから、めいっぱい美味しいものを食べちゃおうかなって思いまして。
 で、さんざん食べ物屋さんを何往復もして吟味して、とうとう跳びこんだこちら、


                     

 イタリア料理店「Termale-テルマーレ-」さん---まったくの本能で選んだこちらの店の料理が、なんとも絶品でした。
 あとからネットで調べたら、こちら、けっこう有名なお店だったんですねえ。
 僕は1300円くらいの「ツナクリーム・パスタ」と赤のグラスワインとを頼んだんですが、ここのパスタのソースはマジ美味でした。
 で、そのことを伝えて、お勘定をすませて、さあ、お店を出ようとしたとき、こちらのご主人が、

----あ。お客さん、さっき食事するまえ、カウンターで諸星大二郎の特集、読んでらしたでしょう?

----ええ、まあ読んでましたけど…、と僕はやや戸惑いながら。

 こちらのお店のカウンターには数冊の本が置かれてて、そのセレクトがなんというか、とってもユニークだったんですよ。
 本好きのイーダちゃんは、そのなかに諸星大二郎を特集した「ユリイカ」の増刊号があるのを見つけて、びっくりして、かなり熱心に目を通していたんです。ご主人は、きっとその様子をよく見てられたんですね。

----いやー、そうとう熱心に読んでおられたから、諸星さんのこと、好きなのかなって、そう思ったんですよ。

----ええ、たしかに。諸星さんは、ずいぶん好きですけど…。

----なら、その本、差しあげますよ。どうぞ、それ、持って帰られてください…。

----えっ!?

----いえね、店にただ置いておくより、そっちのほうが本にとってよさそうだ、と思ったもんですから。ほんとにどうぞ、ご遠慮なく…。

 と、こちらのご主人はあくまでにこやかに---そうして、イーダちゃんは、気まぐれで入った一見さんの熱海のイタリアン・レストランで、なぜだか諸星大二郎本を一冊、貰い受けてしまったのでありました…。<(_ _)> ←メルシーマーク。

 で、腹がくちて、「うーん、これからどうしようかな?」と伸びをしたときに思いだしたのが、熱海の巨樹情報。
 ここでふいにこんな巨樹のことを思いだしたっていうのを、僕的には第三のふしぎ事象に指定したいわけ。
 イーダちゃんは巨樹が非常に好きでして、機会があれば必ず見るようにしてるんですけど、熱海にもよくTVのパワスポ系の特集なんかで取りあげられるような、有名な巨樹があることは知っていたんです。
 さっそく通りがかりのジモティーっぽいおばちゃんに聴いてみます。
 すると、それ、来宮神社にある二千歳の「大楠」だということが分かりました。
 だとしたら、善は急げ、さっそく徒歩で来宮神社を目指しました。
 岡本ホテルのある坂を上って、ぐーんとまっすぐ---20分ほど歩いたら、目指す来宮神社が見えてきた。


                        

 こちらの建物の左側の坂をのぼったさきに、目的の、その樹齢二千歳の「大楠」はありました。

----うおーっ、でっかいなあ…。

 マジに太くて大きい…。
 それに、なんたる威厳でせうか。
 なんともいえない歴史の香りが、はるかな高みにある枝々から、しんしんと降りそそいできます。

           
               
 
 なんか、巨大なオームを目あげたときの「風の谷のナウシカ」の心境とでもいいませうか?
 あのときのナウシカってきっとこんな心境だったんだと思うな。もうね、心ごとすさーっと吸いあげられる感じ。
 そして、その吸われる感触が、とっても心地いいの。
 自分の呼吸も、いつのまにか巨樹にあわさるように、深くゆっくりになってきて。
 イーダちゃんは、この「大楠」さんのまわりを、見上げながら、ゆーっくり何周かしましたねえ。
 許可もらって---もちろん、巨樹さんに直接です---写真を何枚か撮らしてもらって、またしても何周かくーるくる。
 あとからきたカップルや観光客が木をあとにしても、イーダちゃんはまだ飽きもせず、「大楠」さんのオーラ圏内に停泊しておりました。
 もの凄い長い年月、存在しつづけてきた生き物だけがもてる、静かだけど、独自の威厳に満ちた、涼しげで居心地のいい「悟り」のオーラ---その空間にひたっていれるのは、極上の温泉に入っているのと同様の、ふしぎな恍惚感がありました…。


                      ×            ×

 でもって、常宿の「福島屋旅館」さんにもどって、イーダちゃんはまた一風呂浴びたんですわ。
 阿呆ですねえ、いい温泉に入ってると、ホント、それだけで満足しちゃうんです。
 うーむ、気持ちいいなあって---ニンゲンカンケーの気苦労とか、浮き世のしがらみとか、人工地震勢力への怒りだとか憤懣とかもいろいろあるけど、まあ、いいか、この世はすべてこともなしってことで…、みたいな即席の「ゆるゆる坊主」になっちゃうっていうか(笑)。


               

 あ。最後に追記ね---こちらのお宿のご主人が、「福島屋旅館」さんのHPを開設されました。

   昭和の熱海が生きている温泉宿 - 熱海温泉 福島屋旅館 HP www.atamispa.jp/

 ちなみに、こちらのご主人、非常に気合いの入った鉄オタさんでもありまして、お話が大変おもしろいの。
 特に、天皇が伊東から東京に帰られるって情報を入手したとき、鉄道のダイヤから熱海駅に寄られる時間をとっさに推理して、礼服を着て町の仲間と熱海駅まで陛下を歓迎にいった(もっとも、このとき天皇は下車されず、ホームから電車内への歓迎となったようですが)エピソードなぞは、松本清張の「点と線」のアリバイ崩しの話を聴いているようで、大変興味深く、手に汗握る思いで聴いてしまいました。
 というわけで、温泉とレトロと巨樹と鉄オタとに興味ある方がおられたら、ぜひにも熱海の、この「福島屋旅館」さんを訪ねたらいいよ、という宣伝をひとくさりやって今回のレポートの幕にしようか、と目論んでみたイーダちゃんなのでありました---。(^.^;>