イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その244☆ 岐路においては「鮒鮨」を食す ☆

2017-02-24 00:57:59 | 身辺雑記
                

 Hello、皆さん、お達者かえ?
 今回は、喰いものの話であります。
 僕は裕福じゃないんで、食通を気取るわけにはいきませんが、いわゆる美味いモノには目がありません。
 やうやう考えると、これは、いままでつきあってきた女性らのもたらしてくれた、啓蒙であり好影響なんじゃないのかな?
 感謝してますね、ええ…。
 彼女らがいなければ、僕は恐らく、いまだ似非坊主地獄をさすらう、物知らずでありつづけたことでせう。
 高校生時の僕は、インスタントでもなんでも辛いカレーさえあれば満足で、むしろ「食の如き下賤なものに興味を持つほど落ちぶれちゃいねえ!」的な啖呵が売り物の偏屈小僧でしたから。
 可愛くないったら、ねえ!
 で、まあ、五十路の今日に至るまで、いろんなものを食してきたわけでありますが……
 
 本当の意味で、心の底からの美味絶景に驚愕した経験は、そう多くありません。
 その数少ない幸運な出逢いのひとつとして、印度カリーの体系がまず挙げられますね。
 ありったけの豊穣なスパイスを仏典に見られるあの無限の想像力でもって調合して仕上げた、南風のにおいの香る、あの珠玉の珍味たち---!
 マハラジャのもてなしのための、重厚な王道・スパイスのシンフォニーたる北印度カリー----
 ベジタリアンが多いため、野菜と豆----ツール豆、ムング豆、ロビア豆----なんぞをたんと使う、ややあっさりめの印象のある西印度カリー----
 カルカッタに象徴される、マスタードシードとフェネグリーク(メティ)を多用して、わけても川魚なんかに絶妙な仕上げを見せる、東印度のカリー----
 どこのカリーも素晴らしく、食べるたびにため息がもれるばかりです。
 ただ、僕がいちばん心魅かれるのは、やはり、マドラスに象徴される、「ナン」でなく「ライス」を食すひとたちの住む(南印度の人たち多数は北とはちょい民族もちがうようです)、あのとびきり辛くてフルーティーな、個性豊かな南印度のカリーたちですね。

 嗚呼、ぺしゃぺしゃと水っぽく、しかし、妥協なき激辛の、南の国の裸女のような、あの愛しの米喰いの南印度カリーたち----!

 これは単純な自慢に相当するんでせうが、僕・イーダちゃんは印度料理に関してはそこそこいけるコックでもありまして、
 特にオクラ、キャベツ、カリフラワー等のサブジ類、ラッサム、ムング豆、マスール豆、海老に渡り蟹のカリーなんかやらせたら結構うまいんスよ。
 うん、フルコースの南印度カリーを知己のために調理してる時間ほど、充実した時間ってそう持てないですね。
 いつかパスタ屋をやってる役者の知人に喰わせたら、大変仰天され、さっそく青空食堂の開店話をもちかけられたことなんかもありましたっけねえ…。
 
 いかん、自慢話にスペース割きすぎた----そうじゃない、語りたい道筋はちがうんです。
 印度カリーも浅草の「駒形どぜう」もいいけれど、今回僕が語りたいのは、

         あの近江伝統の発酵食品「鮒鮨(ふなずし)」!

 についてなんですわ……。

 あの国民的漫画「美味しんぼ」でも紹介されたことのあるこの鮒鮨は、滋賀・琵琶湖にのみ生息するニゴロ鮒を何年も漬け樽に漬けこんでなれずしにしたものでして、
 なんちゅうか、一言でいって、とても「臭い」食品なのであります。
 その臭みはあの有名な臭ウマ食品であるクサヤほどではないものの、あれとはまた別種の一種異様な凄味を帯びたものでありまして、
 これに比べたら水戸納豆なんて可愛いもの、滋賀県人のなかでも苦手にしてるひとはいまだ数多く存在しているくらいです。
 現に大垣駅前のスーパーで僕に「鮒鮨」を紹介してくれたレジのお兄さんなんかも(徒然その150☆イーダちゃん、加賀温泉に夢破れ、近江で鮒寿司を喰らい、その仇討ちとす!☆参照)、

----いや~ 他県のひとがうちらの伝統食品に興味を示してくれるのは、本当、嬉しいです…。ただ、お客さん、勧めといてなんですが、わたし、鮒鮨ダメなんですわ。もう、受けつけないっちゅうか…。特に発酵した漬け米のあのツーンとしたにおい、あれが苦手ってひとは鮒鮨党のひとにも案外多くってね……。ですから、鮒鮨の美味しい食べかたとしてお茶漬けにしてっていうのはたしかにアリなんですが、あれ、かえって匂いが際立ちますから、慣れるまではやめたほうがいいですよ……。

 ただ、3年前の温泉旅行の際、僕、この鮒鮨はじめて喰べて、即、ハマリました……。

 正直いうと、この鮒鮨、世界一ウマイ喰いものだと思ってます。
 特に、伝統のニゴロ鮒(ほかの鮒で鮒鮨にしちゃう例なんかも残念ながら多いんですわ)で漬けこんだ鮒鮨は、これ、もうホロヴィッツ級の絶品!
 けれども、関東じゃ、このクラスの鮒鮨って、やっぱ手に入りにくいんです。
 だもんで滋賀方面に行く際には、必ず食すようにしてたんですが、つい先週、横浜の高島屋で開催された「味百選」という催しで、なんとこの鮒鮨、扱われてたんですわ。
 メジャーな食種とまじって、こんなクセの強い食品が扱われるなんてね。
 もち、即、入手----で、さきほど食したばかりなんですが、なんでせうかねえ、この極楽美味は(悶えて)……!
 冒頭UPの写真によく目を据えられてください。
 この鮒さん、子持ちなんですよ。いわゆる上等品ってやつ。
 で、骨まで発酵してなれずし状になってるの----噛むとやや硬なんだけど、噛みきれぬほどの硬さじゃなくって、
 しかも、噛みきるとき、鮒鮨ならではの玄妙な、えもいわれぬつーんとした奥深な芳香が口腔内にめいっぱい散りひろがって……
 入れたてのお茶の香とともに、それを噛んで飲みくだすときの悦びときたら、もう、これは表現する術がありません。
 遠いむかしの過去生で、ひょっとして僕は近江人であったことがあるのかなあ、と疑いたくなるほどのこの懐かしい滋味深き味わいときたら……。
 あれから4時間たったいまでも、ボディーの各部がまだ「美味しい、美味しい」と悦びつづけてるのが分かるもん、マジ。
 食通のフランス人に喰わしたら、上等なチーズと同クラスの味わいだと絶賛されたって逸話にもなるほどの納得印です。
 そう、超上等のブルーチーズなんかにも匹敵する、一種別格の、幽玄なまでの繊細さを宿した味わいなんですよ。
 
 ええ、近江の鮒鮨の名をどうかご記憶ください----僕はこれ、世界に誇れる味だと思ってます。


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 ここで話はぜんぜん飛んで、なぜか稲垣足穂の話----。 
 超・傑作「一千一秒物語」と「弥勒」の作者である天才・稲垣足穂氏のことは、ご存知でせうか?
 このひと、川端と同時代人のくせに、まったくそういった感じが香らない、なんというか、金属でできた巨峰のようなイメージさえ浮かぶ、
 時代臭から屹立した、というより時代性というものにまったく無関係な時空の軸に、哲学的かつメルヘンチックな独自すぎる形而上学的文学世界を構築したという----あまりにも孤立した、印度の聖者のような、あるいは夢見るスードラのような、特異極まる天才でありました。
 この稲垣足穂氏が有名になったのは、彼を尊敬し、かつキャリアのあいだずっと崇めつづけていた故・三島由紀夫の後押しが大きかったんです。
 機会があるごと、三島さんは、この先輩であるマイナーな足穂を誉めつづけてましたから。
 ただ、足穂は、三島さんの文学をまったくといっていいほど認めてなかったんですね。
 徹頭徹尾、認めてない。
 僕も三島さんは嫌いですから、そのへん共鳴できる点は多かった。
 あと、足穂はね、やっぱり批評のコトバの切れが通常人とまるきりちがう。

----あなた、いったいどこの宇宙に居住してんのよ? と、ついつい茶々を入れたくなってしまうほど。

 その足穂の、三島自決後の文章をちょっと抜き書きしてみませう。

§ 三島星堕つ 「とこしえのしじまをを出でて/とこしえのしじまに消えし みしま星/いずこに行きし?」

§ 三島の文章は「男系的硬質に貫かれ」てはいるものの、やはり一種の「花飾り屋」にとどまった。

§ ナルシズムは藝術の母胎だが、三島はナルシズムを内面化することができず、外形的に伸び放題にし、三島流ナルシズムは放任に任されて、ついに御本人を滅ぼしてしまった。

§ 彼の書くものには郷愁が欠けている。なつかしいものが少しもない。書けば書くほど作り物になり、こうして特に「金閣寺」以後、彼の作品は荒涼無残な仇花に成り果ててしまった。

§ 三島文学は、初めから見当外れの文学、「空回りの文学」である。こんなニセ物ではどの片隅においてもわれわれを解放してくれることがない。

§ 三島の目は、物に怯えている目である。どうあっても「悪人の目」である。悪人の特徴は、何よりも死を厭うことにある。死などは初めから相手にしなければよいのに、彼らにはそれが出来なくて、いつも死に追い付こうと焦っている。三島由紀夫の場合は、怖さの余りに我から死に飛び付いたようなものだ……。

 恐ろしいですねえ…。
 このひとのコトバ聴いてると、僕、どうしたわけかいつでもあの一休禅師の有名な肖像が脳裏に浮かんでくるのよ。 
 女のあそこは水仙のかほりがする、なんて詩を書いてた、あの破戒僧の一休禅師のね。
 とかくこの世はうそだらけ。
 うそと騙しに疲れた心に、前述した「鮒鮨」といま語った「稲垣足穂」などはまたとない清涼たる御馳走ではないかな、と思って、こんな記事を長々と綴ってみた次第であります。
 おお、あと最近知りあいから教わったテナー奏者のハンク・モブレーってジャズマンもよいよ。
 窓の外で春の夜風がごうごう吠えてます----それでは皆さん、お休みなさい……。






 
 

 

徒然その243☆ イーダちゃん、バッテイングセンターでホームランを打つ! ☆

2017-02-17 18:57:04 | 身辺雑記
                           



 ひと月ほどまえから、なぜか近所のバッティングセンターに通ってます----。
 このひと月ほど、なんちゅうか、身体動かしたい衝動にずっと駆られてたんですよ。
 ほんとはボルダリングがやりたかったんだけど、それ用の施設は、ちょっと横浜から離れた町田にしかなくて、
 仕事しながら通うには、いささか便がわるい。
 だもんで、その代理みたいな感じで、前から存在が気になってた、新横駅近くの「ブンブン」ってバッテイングセンターにたまたまいってみた。

 いや~、バッテイングセンターなんてきたのは、正直、25年ぶりくらいです。
 酔って、大阪の解体屋のバイトの仲間といったのが最後だったんじゃないかなあ?
 僕、運動は好きなんですが、球技やチームプレイはどちらかといえば苦手な口でして、
 ま、昭和生まれの「巨人の星」世代のニンゲンだから、人並みに空き地で草野球とはよくしましたが、
 才能は、うーん、まったくなかったっス……!

 いやね、でも、いざやってみると、これが意外に面白いんだわ!
 最初は空振りばっかで、翌々日に二日遅れの全身筋肉痛なんかに見舞われてたりしたんですが、
 2回目、3回目になるとだんだんミートのコツが分かってっていうか思いだしてきてね……
 ヒット性のあたりが徐々に増えて、空振りもへってきて、

 4回目の今日、はじめて念願のホームランを打つことができましたーっ!!(ジャーン:A HardDay's Night イントロ鳴る)

 いや~、下らないけど嬉しかったなあ。
 うん、子供みたく嬉しかった。
 あのね、バッテイングセンターのホームランって、セカンド上空のこのへんにあるんです。


        


 この丸印に打球が命中すると、音楽と姉ちゃんのアナウンスが寒天にドラマチックに流れはじめてね、
 いやー ほんっと、バカバカしいけど個人的に、メッチャ嬉しかったです。
 ティーンのころは僕、あんまパワーなかったけど、30代にウエイトでパワーつけたから、
 ミートがうまくいけば飛ぶんですよ。
 それに、古武道で覚えた「脱力」と「背中で打つ」を意識しながらいけば、
 あらら----これ、格闘技じゃない、球技の野球でも結構使えるではないですか----。

 ちなみにホームラン打つと、コイン6枚(これで千円相当、120球分の6ゲームが行えます)が賞品としてもらえ、
 施設のボードに名前が載ります。
 嬉しいんでフォト撮っちゃいました。下のがそうね。


                     

                     
                      上:賞品の6枚メダル。1枚は使っちゃった。 

 友人に聴いたら、後楽園には、なんでも変化球まで投げてくるバッティングセンターが存在するんだとか……。
 僕の腕じゃまだまだだけど、できたらボクシング観戦のついでなんかで、いつかいってみたいですねえ。
 あと、念願のボルダリングにも近々トライしてみたいなあ、なぞと考えてもいる、梅咲きはじめの季節の夕のイーダちゃんなのでありました……w






                         

                     

                                                




 


徒然その242☆ ドストエフスキーの「悪霊」について ☆

2017-02-13 20:30:32 | ☆文学? はあ、何だって?☆


 音楽狂であるイーダちゃんが心底畏怖してるミュージシャンは、ウラディミール・ホロヴィッツとチャーリー・パーカーとジョン・レノンのたった3人きりなんですが、
 文学の世界においても、やはり、この種の僕内「別格ベストスリー」というのはありまして、
 その面子はね、ドストエフスキー、A・ランボー、柿本人麿の3人なんです----。

 なかでもドストエフスキーには、したたかブチのめされたもんです。
 ただ、ドストエフスキーに出会ったのは、僕、ずいぶん遅かったんですよ。
 大学在学中、露文の有名なY先生の授業とかも受けてたんですが、その当時、僕、あんまり文学に興味もてなくってね…。
 卒業後1年してから先輩の勧めで、はじめてあのぶ厚い本のページを、嫌々めくりはじめたって感じだったんです。
 ロシア文学は、ドストエフスキーにかぎったことじゃないけど、とにかく登場人物の名前が覚えにくい。
 ただでさえ記憶力の性能の欠けている僕にとっては、小説の背景である登場人物のロシアンネームとそれぞれの関係を飲みこめるまでに、
 だいたい百ページあまりが要り用になります。
 それって僕的にいうと、とっても面倒くさい作業なんですよ。
 でも、150ページあまり読み進むにしたがって、先輩の強引な勧めがやがて感謝の念に変わりだし、
 200ページこえるころには、その感謝の念さえ脳裏から綺麗さっぱり消失し、
 怒涛の如く展開する白日夢のようなドストエフスキー・ワールドのなかで、僕、完全な茫然自失状態でした----。

 いまでも僕、世界文学の最高峰なんて話題があがると、迷わず「カラマーゾフの兄弟」と「白痴(イジオート)」とをあげるもん。
 むろん、我が国の最大叙事詩である「万葉集」、さらには印度・中国圏の古典である多くの仏典「観無量寿経」とか、プラトンの「ソクラテスの弁明」……
 あるいは、20世紀文学の最大の成果と目されているジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」、プルーストの「失われた時を求めて」なんて巨峰もあるにはあるんですが、
 やはり……やはり、最強横綱の称号は、フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーのものでせう。
 これは、ちょっと譲れない。
 「ユリシーズ」、「失われた時を求めて」、あるいはセリーヌの絶望文学の極右「夜の果ての旅」----
 ジャン・ジュネの「泥棒日記」、神々の末裔みたいなランボーも忘れちゃいけない、あと、チリのガルシア・マルケスの「百年の孤独」なんかも、凄い…。
 みな、後世の作品だけあって、モダニズムや心理描写の巧みさなどにおいては、たしかにドストエフスキーも及ばない妙技というか巧みさを有しているかも、とは思います。
 けど、「巧みさ」は、しょせん「巧みさ」でしかないんだよね。
 ボクシングにおいてもそうだけど、テクニックがそのまま強さに結びつくとは、かぎらない。
 たとえば、いまから200年くらいたったのちの世に、なんにも作品当時の世相を知らない未来人がたまたまこれらの本を読んだとします。
 そしたらね----僕、ジョイスよりプルーストより、絶対にドストエフスキーのほうを面白がる、と思うんだ。
 ジョイスもプルーストも、近代人特有の悪徳「分析信仰」ってのに犯されすぎてるっていうのが、僕の私見。
 両人とも高踏派で、非凡極まる博識で、おっかなくなるほど繊細で……。
 でもね、そのぶん古代人のもってた「野蛮さ」というものからあんまり遠去かってしまってる、と僕的には感じます。
 あのね、「物語」っていうのはね、基本「野蛮」なんですよ。
 あかずきんは「残酷」、マッチ売りの少女は「酷薄」、いなばの白ウサギは「皮剥ぎ拷問」。
 三者に共通するのは、「嗚呼、無情」----!
 似非ヒューマニズムが入りこむ隙も、フォローできうるとっかかり自体も、どこにもなくて。
 残酷で救いのない、無情極まりない、乱暴狼藉な「おはなし」----それが、物語ってもののそもそもの骨子だ、と僕は思うわけ。

 その見地からいうと、物語中にやたら精緻な分析がはめこまれているおふたりの作品は、物語の流れをずいぶん滞らせてるようにも感じます。
 というより、そうやって物語の流れを粗相させるほうが、むしろ20世紀的には、お洒落な語り口として受け入れられたのでせう。

----あんな残酷な物語をなんの衒いもなく享受するなんて慎みがなさすぎる。卑しくも文明人なら、思想や分析のオブラートでもって、物語そのものがもつ呪力を一端和らげてから服用すべきだ…。

 なあんて流行が上流階層のうちにあったんじゃないのかなあ? と、思わず疑いたくなるくらい。
 20世紀は、ひたすらの分析を重んじる「客観信仰」の時代でした。
 主体からとにかく距離を置き、客観のルーペで覗いてはじめて「藝術」も「音楽」も「科学」も世にでることができる----そんな風潮がずーっと蔓延してました。
 クラッシック音楽において、この流行は特に顕著に表れていたように思います。
 たとえば20世紀前半に活躍した主観的詩人の代表的ピアニストであった、フランスのアルフレッド・コルトー!
 彼のあのロマンの残り香にむせぶようなルバート満載のピアニズムを破壊すべく現れたのが、あの精密機械のようなイタリーのマウリツッオ・ポリーニだったとは、僕はこれ、非常に象徴的な権力移譲劇として受けとめています。
 抒情の巨匠フルトヴェングラーからアルトゥール・トスカニーニ&カラヤン連合への権力移譲に関しても、ほぼ同様のことがいえるでせう。
 そう、20世紀の中盤において、「藝術」の中核に一種の革命がもたらされた、というのが僕の意見です。
 ここで権力の座を奪還したのが、いわゆる「客観派藝術家」の連合だったのです。
 アメリカの新星トルマン・カポーティー、映画でいうならヌーベルヴァーグのジャン・リュック・ゴダール、日本の文学界なら三島由紀夫----彼等、キラ星のような新しい「分析派」たちが台頭してくる下地は、そこにありました。
 いずれにしても、かつての「抒情」と「ロマン」とを重用する、藝術の伝統はここでいちど途絶えたのです…。

 と僕がこのあたりまで語ると、

----おい、ちょっと待てよ。君はどうやら分析的な芸術が気に喰わないらしいが、君が一押しするドストエフスキーはどうなんだ? 彼の芸術こそ、まさに異様な分析の極地、つまりは彼こそが、抒情殺しの先駆的作家なんじゃないのかい?

 そういわれると反論はとっても難しい。
 たしかにドストエフスキーの小説には、薄気味わるいほど鋭い分析が、物語自体がパンクしかねない質量でもって、圧縮され、ギガ盛りにされています。
 「分析は藝術を破壊する」という古典派藝術のテーぜからいうなら、これほど異端な作家はない。
 そう、ドストエフスキーの場合、あらゆることに度がすぎていました。
 小林秀雄流にいうなら「限度をこえていた」ですか?
 分析も、ほかの作家なら藝術上の流行のモードとして、あるいは自身の感受性の保護壁として外世界の脅威を無力化するために使用するのが常なのに、彼の場合は、なんのための分析か見分けることははなはだ困難です。
 普通なら、分析は、作家の手下であり下僕であるべきです。
 ところがドストエフスキーの小説内では、分析は誰にも仕えていない。
 むしろ分析は、猛り狂って、小説という自らを閉じこめる枠組を破壊して、指揮者である作家自体にまでその凶刃で貫き通そうとしているかのようにも見えてきます。
 神の破壊、観念の破壊、思想の破壊、日常的なあらゆる自己弁護への徹底的な侮蔑と憎悪…。
 最初に彼の小説を体験して僕がまず戦慄したのは、その点です。

----なんだ、こいつ? 悪魔みたいにアタマの切れるオトコだな…。こんな、薄気味わるいくらいアタマの切れるオトコがいるなんて、さっすが露西亜は広大だわ……。

 はじめてポーを読んだときも戦慄したけど、ドストエフスキーとの邂逅はそれ以上のものがありました。
 人知の極限地帯で、ほとんど気化した人間たちが、生命を削りながらバトルしている……。
 ギリシア神話やシェークスピアにも匹敵する、血みどろのドラマツルギーが凶悪な分析と両立しているのです。
 わが国の国民的作家であったあの川端康成、フランスの絶望詩人セリーヌ、僕の大好きな坂口安吾までが彼を別格視するのも当然せう。
 近代作家は、あの「ボヴァリー夫人は私だ!」のフローベルに見られるように、古典ではなしようもなかった繊細さを「分析」という手法で身につけることができましたが、そのかわりに太古の物語にぎっしり詰まっていた、あの「物語」だけがもっていた野蛮かつパワフルな躍動美を失ったのです。
 近代の通弊であるこの「病」からの稀有の例外者として、19世紀帝政ロシアのツンドラの荒野にすっくと屹立したのが、かの天才ドストエフスキーなのでありました……。




 このドストエフスキーがその晩年、「悪霊」って作品を書いてるんですね----。
 僕的にいうなら、こちらの作、「カラマーゾフの兄弟」や「白痴(イジオート)」なんかから比べるとやや落ちると思っているのですが、物語自体にいくらかの破綻は見られるものの、こと現代への予言性という見地に立って眺めるなら、この「悪霊」、ひょっとして前2作より上かもしれません。
 「悪霊」は、ロシア革命前夜の、過激派のセクト闘争の物語です----。
 いまだマルクス主義やコミュニズムの思想がポピュラーになるまえのロシアに、これだけ濃密な「打倒帝政ロシア」や「革命思想」の空気が行きわたっていたという事実に、まずはびっくりさせられます。
 なんちゅうか、もう読んでるだけで、僕等が学んできたうすっぺらな「教科書の歴史」ってなんだったのよ、と呻ること必然。
 箇条書きの歴史知識なら1917年、ボルシェビキにおいてロシア革命勃発という一言でしかないんですが、そんなのはただの紙の上だけの知識。
 それが実現するまで、庶民のリアルな暮らしむきはどうだったのか? 
 当時の庶民は「それ」に対して、いかなる思いをもっていたのか?
 「それ」が待望される世相の空気(ニューマ)に対して、ロシア正教はどんなまなざしを注いでいたのか?
 そのような当時のロシアのインテリゲンチャたちの生きたつぶやきが、ページを繰るごとに次々と読み手に襲いかかってくるのです。
 尋常な小説じゃないですよ、これ----!

 § 革命のために冷血なマキャベリズムを弄する俗物、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキー。

 § 特異な人神論をぶち、その思想のために自殺に至る、革命家崩れアレクセイ・ニールイチ・キリーロフ。

 § そして、なんといっても、世界文学史上最大のアンチヒーローともいうべき、人称化した虚無の国の王子ことニコライ・スタヴローギン----!

 このような暗い、陰謀まみれの物語を編みながら、なかんずくドストエフスキーが凄いのは、登場人物の誰ひとりとして理想化して見ていない点でせう。
 登場人物と同様、ドストエフスキーは、若き革命家らが夢に描く「革命」というものに対しても、いささかなりとも幻想をもっていません。
 すべてを酷いくらいに突き放して、もの凄く無慈悲なタッチで綴ってる。
 似たようなテーマを扱った作家に、SFの平井和正氏なんかがいますが----「アダルトウルフガイシリーズ」の後期とか、あの全20巻の「幻魔大戦」とか----彼の場合は、なんちゅーか救いがあるんですよ。
 果てしなくつづく宗教論争と裏切りと寝返りの連続と。
 ですが、彼の場合、小説内世界は、比較的単純な<神vs悪魔>の二元論に還元できるんです。
 だから、陰惨な裏切り合戦も、ゲームみたいなスリラー感覚でもって読みとばせもするの。
 けれども、ドストエフスキーに関して、それはやれません。
 彼の生みだしたキャラクターは、あまりにも造形の深度が深く、ひとりひとりがあるタイプの権化・精髄といっていいほど完成されているからです。
 ゲーム感覚で好きなように操るだなんて、とんでもない。
 作者が気まぐれに、思いつきの恣意でキャラクターのふるまいを変えようとしたら、作品全体が瞬時に瓦解するでせう。
 それに、ドストエフスキーは、人知が編みあげる「政治的な革命」といったものをまるきり信じていません。
 が、だからといって、彼等、革命家予備軍を軽蔑するじゃなく、特に否定しようという腹づもりでもない、
 あげつらったり戯画化してからかったりしてもいいのに、それすらやらない----ただ黙って、無心に、彼等の動向をじーっと見てる。
 その不気味な目線が、物語の後半に入ると、物語の前面にだんだんと表れてきて、それがこの物語のアンチヒーローであるニコライ・スタヴローギンをいよいよ語りはじめるときの不気味さときたら、ちょっと形容する言葉が見当たりません。
 革命の鋳型にあわせてさまざまな自己正当化をはめこんでいく、未熟でわがままな、たとえようがないほど権力志向でエゴイスティックな若者たちと、彼等の織りなす幻想革命劇の勃興と挫折とを、ドストエフスキーは隣人の葬儀でも見ているような、一種独特な陰りをおびたまなざしで、いつまでももの静かに見つづけていきます…。
 物語の終焉まで、このまなざしの質は、なんら変わらない。
 おかげで僕等・読者は、ドストエスキーの目線の高さにあわせて、なんら理想化をほどこされていない、陰惨で残虐な革命ごっこと殺人とに立ちあわされるはめになる。 
 背景は、荒涼とした冬のロシアの片田舎の一角----。
 革命のための殺人も、美しい幻想も、彼等が夢見た幻想の共和国もすべてが潰えて、その上に無情の雪つぶてが平等に降りしきるという恐るべきエンディング……。
 なにより恐ろしいのは、物語が終わっても、作品中に降りしきっていたこのボタ雪が、読後も読者である僕等の胸中に長いこと降りつづくという一事です。
 こーんな後味のわるい小説ってないよ----たぶん、空前絶後じゃないのかな?
 仕上げに、出版の際に道義的見地から切除された「スタヴローギンの告白」の1章を読みあげれば、あなたの「悪霊」旅はそれでようやく完了です。

 川端さんの「散りぬるを」なんかも僕は恐ろしいと思うけど、ロシアの片田舎でおきたネチャーエフ事件をとりあげたドストエフスキーのこの「悪霊」なんぞは、それを超えるくらいの、超・破格の物語として成立しているんじゃないでせうか。
 語られた事件や殺人が陰惨なんじゃなくて、それを見て書いている著者の残酷目線がそれ以上の「地獄」なの。
 ああ、世界は広い、こんな川端級の異常な「眼」をもってるニンゲンが世界にはごろごろいるのか! と体感するためには、ドストエフスキーの「悪霊」、またとない稀有の教材でありませう。
 もっとも、フツーの幸せな暮らしに安住したい方々には、こちら、危険な麻薬みたいな書物かもしれませんが。
 ですから、僕としては、この「悪霊」を無作為に皆さまに薦めるわけにはいきません
 おっとろしい本ですもの!
 ニンゲン間の約束事を嘲笑うために書かれたようなこのアクマの書物を、うし、がっぷり四つに組んでやろうじゃんか! という蛮勇に満ちた方にのみ、お勧めしちゃおうかなあ、と、ほくそ笑みながら思う、相模の国・横浜の冬のきざはしに佇む、如月中旬のやや眠イーダちゃんなのでありました……(-o-)zzz。



                             上図:スタヴローギンが「黄金時代」と呼んだ絵。C・ロラン「アキスとガラティア」
 
 
 



 
 
 

徒然その241☆<Spring IN 金沢 (金沢に春がきて)>by イーダちゃん ☆

2017-02-11 18:18:26 | ☆イーダちゃん音楽工房☆



 Hello、音楽熱中時代のイーダちゃんデス----。
 今回またオリジナルあげまっス----ただ、今回のはね、超・ふるい歌。
 たしか17才、高3のときの作だったと思うんだけど。
 僕、諸々の事情で高3の5月に、神奈川から金沢に移ったんです。
 で、かの地で受験の1年をすごしたの。
 その年ものごっつい豪雪でね----いやー、あんだけ毎日雪づくしがつづくとは心底カルチャーショックでありました。
 秋の後半から春まで、快晴の日が一日たりともないんだもん!
 さらに毎朝、まず屋根と玄関の雪おろししないと、外にも出られないんだもん。
 
----なんでこんなとこに、ひとが居住するかねえ…!

 とボヤキながら、スコップと長靴で雪下ろしにいそしんでいた記憶があります。
 しかも、こちとら雪国は素人だかんね、気をつけてないと滑ってひさしから落ちるのよ。
 さらに、雪おろし中に屋根から転落して、雪とともに埋もれたせいで発見されず凍死しちゃって、翌春になってやっと発見されるひとが、毎年必ず何人かいるんだわ、これが。
 いや~ まいったまいった隣りの神社…!
 これ、そのときにつくった曲であります----モロ、ド・フォークだし、いかにも拓郎節なんだけど、僕ぁ、この歌けっこう気に入ってんの。


            youtube iidatyann
           <Spring IN 金沢>by イーダちゃん


 この歌をかの地に生息してる旧友、かつ介護の仕事の大先輩でもある MITOMI 氏とその娘さんに捧げたく思います。
 いや~、ほんと、長いこと陸上生活お疲れさまでした。m(_ _)m
 陸上とかのスポーツは、アートとちがって結果が数字でバッチリでるからね。
 甘えの介在できない、厳しい世界なんじゃないかな----もっとも、そのぶんやり甲斐はあるんだろうけど。

 2013年に僕、ひさびさかの地を訪れ、香林坊でこのM氏とじっくり飲みました。
 なあ、MITOMI、あれ、もう4年前だってさ。
 光陰矢の如し、とは、古人もうまいよなあ。
 と、つい話が内輪話に流れましたが、それはそれ----聴いてくれたら嬉しいデス!(^0-y☆彡




徒然その240☆ <キッチュなぶきっちょラヴソング❤>by イーダちゃん ☆

2017-02-08 21:49:20 | ☆イーダちゃん音楽工房☆



 Hello、皆さん----あっという間にやってきた如月の風すさぶなか、いかがおすごしでせうか?
 今回、また曲つくりましたんで、よかったら聴いてください。
 曲のモチーフ自体は非常に古いオリジナルで、これ、なんと学生時代の作品なの。
 うん、結構人気とかもあったんだけど----内山、元気かぁ!?----
 ヴォイシングとかコード展開があんま難しすぎて、当時の技術じゃ、僕、弾けなかったんですね。
 で、歌詞も、メロも、コード展開も、ヴォイシングも大改造して新たに仕上げたのがこれ----

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      <キッチュなぶきっちょラヴソング❤>by イーダちゃん


 えらいナンパな雰囲気の曲調なんだけど、なんちゅうか、思ってたよりずっとビターな曲になっちまいました。
 去年1年で経験したいろんなことが、つい曲に染みついちゃったのかなあ?
 
 ま、能書きはこんくらいでいいか?
 曲は曲にして語らしめよ----Key は B----変則のテンションコードいっぱい使ってる。
 Gee、Dear friend、聴いてくれたら嬉しいデス----(^0-y☆彡
 






徒然その239☆ リップヴァンウィンクルの恋人 ☆

2017-02-05 00:53:28 | ☆文学? はあ、何だって?☆



 去年のしまいごろ、岩井俊二監督の「リップヴァンウィンクルの恋人」ってのを観ました。
 近所の Tutaya でみんな借りてるから、たぶんいい映画なんだろうなってのが、観た動機。
 岩井俊二氏が「スワロウテイル」や「花とアリス」なんかも撮ってるひとだって知識も、その時点じゃゼロでした。
 僕、どちらも借りて観たことあるんだけど、たしか、どちらも5分ばかり観ただけで、あとはまったく観なかったと思う。

----うわー、たりぃ映画だなあ、これ…。

 で、あくびしながらPC切っちゃって…。
 岩井さんの映画って、なんか、スタートダッシュかけない派じゃないかと思うんですよね。
 この名画「リップヴァンウィンクルの恋人」についても、ほぼ同様なことがいえます。
 最初、黒木華演じる七海がネットで見つけた鉄也と結婚して、物語全体のいわばテーマであるところの里中真白(Coocco)と出会うまでの展開は、僕的にはもうひたすらダルかった。
 ただ、これってもしかしたら、物語のテーマを超・大事に思ってる監督の戦略かもしれない。
 だって、これ、いきなしテーマからはじめたら、この映画、ただのありふれメルヘンになっちゃうかもしれないから。
 そうさせないために、用心に用心を重ね、岩井監督の日常のデッサンは延々つづきます。
 七海が離婚して鉄也家を追ンだされていよいよプーになり、生活のために「なんでも屋」の安室と再び絡むまで、だいたい30分くらいかな?
 そして、この間、僕等は、岩井監督の眼鏡を通して、彼の日常へのウンザリ目線と付きあわされるって仕組みになってるんだけど。
 岩井さん、藝術家ですもん。
 「ボヴァリー夫人はわたしだ!」のフローベルじゃないけど、退屈な日常に対してゲンナリしてないわけがない。
 ま、ゴダールほど日常の市民生活に「侮蔑」の念を塗りたくるわけじゃないんで、また、時事的なネット社会や、そうしたネット社会を通じてはじめて展開できる「なんでも屋」みたいな商売をモダンに言及してもいるんで、そこそこ見れはするんだけど…。 
 しかし、物語がこうした伏線部を経過し、いかにもうさん臭げな「なんでも屋」を通じて、七海がAV女優の里中真白と出会うと物語は急転。
 ここからの展開は、すさまじかった----僕、魅入られちゃいました。

 いや~、岩井俊二監督「リップヴァンウィンクルの恋人」、超・名画です…。

 やられた~、と呻るしかないな、これは。
 このこしゃまっくれてスレ切った、物質主義のゆきついたような平均主義の現代に、こんなにも美しい映画をつくるなんて、なんて凄い監督だ、あんたは、岩井さん!
 で、調べたら、このひと、僕とおない年でした----しかも、誕生日が僕と3日ちがいの水瓶座ときた。
 3日ちがいってことは、たぶん、月の位置は、水瓶あたり----金星の位置は射手座にまちがいないでせう。
 アセンダントは分からないけれど、いずれにしてもいかにも「風」&「風」の配置のひとのつくった映画だなあ、という香りがぷんぷん匂いたつような映画です。
 映画観てないひとにネタバレしちゃうとマズイからいえないけど、この真白ってAV女優は、いかにも破天荒な、危ないキャラとして描かれているんですが、その内面の繊細さと脆さをデッサンするときの岩井監督のまなざしときたら、ちょっと形容するコトバに困るほど優しいの。
 それは、もう破格の優しさ……。
 七海とふたりでウェディングドレスの店を訪れ、そこでで試着する場面…。
 そのウェディングドレスを購入して、それを着たままねぐらである無人の邸宅に帰り、ほとんどレズピアン・ラヴのようなタッチで語られる、真白の童女みたいな舌足らずの告白……。

----あのね、宅配のひとがウチにきて、親切に荷物を部屋のなかまで運んでくれるでしょ?
 そんなとき、あたし、ああ、あたしなんかのためにこのひとこんなことまでしてくれて、なんていいひとだろうっていつも思うの…。
 そうして、あたしにこんな優しさを届けてくれる世界って、なんていい場所だろうって染みこむように思うの…。
 そりゃあ、ちがう、彼等は商売だからそうしてるんであって、その親切はただのサービスなんだっていうひともいるし、あたしだってそのへんのところは分かってる。
 でもね、だからといって、そのひとらの親切がまるきり100%のうそだってことにはならない、と、あたしは思うの。
 そのうちの何パーセントかは、やっぱり真心からの親切だって思えるし、あたしとしてもむしろそっちのほうがいいの…。
 だって、この世のすべてにそんな親切が満ちあふれていたら…、あたし、壊れちゃう……。
 容量がもう、耐えきれない…。
 あのね、七海……、お金っていうのは、みんなわるくいうけど、そんなことない……弱いひとの心を剥きだしの親切からちゃんと守って、役に立ってくれてるの……そう、お金っていうのはね、七海、この世のそうした親切を隠すために、あるんだよ……。
 
 クライマックスの真白のこのとどめのささやきをスクリーン越しに聴いたとき、僕は、不覚にも涙がこぼれちまった。
 映画のクライマックスのこの場面、このセリフを歌わせるために、すべてのシチエーション、すべてのストーリーが入念に編まれていたなんて。
 構造的には、まさに「能」----七海がワキで、真白がシテで----真白にこの純白のアリアを歌わせるためだけに、この映画全体の額縁が必要だったんだなあ、なんて僕はつい思ってしまったよ。
 真白の死後の真白実家での大騒ぎは、まさしく挽歌でせう。
 名もなく、益もなく、世の淵から押し出されていく、小さな、キレイな魂たちにむけられた切なすぎる挽歌……。
 そうした意味で、こちら、非常に深い、近来珍しいタイプの宗教的な映画である、といっちゃってもいいのかもしれません。
 映画観て泣いたのは、僕、ひさしぶりでした。
 まあ映画ですから、好き嫌いとかもいろいろあるでせう。
 平明なタッチで描かれてはいるけど、こちら、とってもクセの強い映画だから嫌うひともそりゃあいるでせう。
 けど、そうした諸事情をあえて踏まえたうえで、僕は、こちら「リップヴァンウィンクルの恋人」を推薦したいと思います----。





 あ。あと僕、去年の師走に神保町を徘徊してとき、偶然、ピエトロ・ジェルミの「刑事」のDVD入手しちゃいました。
 「死ぬほど愛して」の主題歌で有名な、1960年封切りの、むかしむかしのイタリア映画。
 ピエトロ・ジェルミっていったら、あーた、あの「鉄道員」の監督兼主演の伝説男じゃないですか。
 (ただし、イーダちゃんは「鉄道員」にかけては、点が辛いの。あのラスト、甘すぎるってば!)
 あそこから甘さを剥ぎとって、極上のハードボイルドの逸品として仕上がっているのが、この「刑事」なのよ。
 時代の風俗もたまらんし、登場人物の人間臭さもいちいち濃すぎてまいっちゃう。
 「リップヴァンウィンクルの恋人」と並んで、このピエトロ・ジェルミの「刑事」も、この場を借りて推薦しておきたいですねえ----んじゃま、夜も更けたことだし、そろそろ星に帰りますかね?----どすこい、皆さん、お休みなさい……。(^0-y☆彡