イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その106☆ミケランジェリのショパン☆

2012-05-22 09:54:00 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                             


 1920年にイタリアのブレシャに生まれ、1995年にスイスのルガーノに没した、アルトゥーロ・ベネディティ=ミケランジェリは、イタリアという土地が育んだ、あのフェリツッオ・ブゾーニ以来の大ピアニストでした。
 ベネディティ=ミケランジェリというひとをよく知らないひとに---長いので以降はミケランジェリという略称で呼ぶことにします---ここでひとくち解説といきませう。
 ただ、このひとのスーパーぶりを説明しようと思ったら、どのあたりからはじめればいいのか迷ってしまう。
 だって、なんちゅーか、このひと、少女漫画から抜けだしてきたヒーローみたいなおひとなんですよ。
 まず、写真を見れば誰でも分かるような、甘いマスクのイケメンだし…それに---
 その二---出自もこれまた凄いの。このひと、北イタリアの有名な貴族の坊っちゃんなんですよ。(血統的には、ロシアの血が濃ゆいらしい)
 その三---次に、このひと、戦争中、イタリア軍のパイロットだったの。いわゆる戦闘機乗りですね。ナチスに捕まって捕虜をやってたこともあるらしい。
 その四---さらには、このひと、同時にお医者さんでもあって!(ひゅー、スーパーマン!)
 その五---さらにさらに、このひと、趣味がレース。若いころは、自分でレーシングカーを運転して、ヨーロッパの有名なレースに出場したりしてたんです。
 その六---もちろん、このひと、いうまでもなく世界の頂点に立つ、超一流のスター・ピアニストでもありまして、現代のピアノ界の頂点、マルタ・アルゲリッチとマウリツィオ・ポリーニの双方が、なんと、このひとの直接のお弟子さんなのであります。
 いわば、機能的な近代ピアニズムの父とも呼べる人物なのだ、というわけ。
 その七---さらには、このひと、さまざまな伝説に彩られた、たぶん、最期の巨匠だったんじゃないのかな?
 ミケランジェリは、自分の藝術に対して完全主義者だと、つとに有名でした。
 コンサートの直前までしゃにむに本番の練習をつづけ、今日の自分が完璧な「理想の」水準に達していないと感じたら、情け容赦なく当夜のコンサートをキャンセルしちゃう。
 それが、コンサート本番の5分前だろうが、いかなVIPが自分のコンサートを見に訪れていようとお構いなし!
 こんなプロデューサー泣かせは、いまじゃ、ちょっとありえんでせう。
 実際、ミケランジェリも、予定コンサートの突然キャンセルで、何度も裁判沙汰になってます。
 故国イタリアでは、それで財産を差し押さえられたり、はるばるやってきたニッポンでもスポンサーに訴えられ、ピアノを差し押さえられたりしています。
 しかし、彼の偉大なところは、いかに周りの人間が迷惑しようが、そのような俗世の商売上の義理に一切縛られることなく、あくまで自分の藝術に対しての貞節を貫き通した点にあったのではないか、とイーダちゃんは思っています。
 ええ、誰がなんといおうが、当夜の自分の出来がイマイチだと思えば、即、キャンセルしたのです。
 そこに迷いなんか微塵もないの。
 この決断は、誰の顔も立てたがる無難潮流が主流の現代的な見地からいえば、ただの気まぐれか、あるいはトラブルメーカーとしか映らないかもしれませんが、自己の藝術に対しての彼のこの頑なまでのサムライぶりというのは、あたかも19世紀のロマンティシズム精神からの時代を超えたアンチックな贈り物のようで、その妥協のなさ、変人と紙一重の一徹さというのが、中庸の生き方に倦みすぎた僕等の視線を、逆に、どうしようもないくらい魅きつけてしまったという---彼・ミケランジェリというのは、かいつまんでいえば、そのような立ち位置の、非常にミステリアスな巨匠であったのです…。


                  

 自己の藝術に対する異様なまでの「厳しさ」---というのは、彼のピアノ演奏を聴けば、誰にでもすぐ分かる。
 息がつまるほどの緊張とストイシズムが、傍目にも分かるほど音楽に彫刻されてるのですから。
 たとえば、分かりやすいところで、僕がページ冒頭にあげた、彼の71年の grammophon のショパン録音---僕がはじめてこの録音をある知り合いに聴かせたとき、彼は絶句して、いくらかうろたえ気味にこういいました。

----これが、ショパンなんか…? こんなんが…? まいった、ぜんぜんそうは聴こえへん…。

 彼のうろたえぶりは、しかし、案外正確な計量だったと思います。
 実際、ミケランジェリの弾くショパンって、ほとんどショパンに聴こえんのですよ。
 聴いたことのない、ぜんぜん別の音楽みたいに聴こえるの。
 たとえば、仏蘭西のエキセントリック・ピアニスト、サンソン・フランソワの弾くショパンなんかが、僕は、一時代を代表するショパンのイメージをよく表している、と、ときどき思うわけ。
 フランソワの弾くショパンは、憂鬱で、詩人肌のショパンですよね---気まぐれな感興にあわせ、テンポはときに長くなったり、あるいはせっついたようにいきなり駆けだしてみたり---でも、根本のところでは、必ず「歌う」んですよ---うん、とってもよく歌う---いわゆる、プリマ・ドンナとしての大ぶりで華のあるショパンなんです。
 ところが、ミケランジェリのショパンときたら皆目歌わない。
 歌うというより、思索するんです、彼の場合のショパンは。
 彼は、暗い目でじーっと、自分の深いところからショパンのポエジーが湧きだしてくるのを見てる。
 そして、それが湧きだしてきたら、素早い手つきでそれを拾いあげ、そのポエジーの枝葉を瞬時のうちに刈り取り、抒情のしずくだけきゅっと拭きとって、己が鍵盤のうえに整然と並べたててみせる。
 だけど、彼の場合、もっともユニークなのは、そうやって完成された彼流のショパンを聴いてみて、いちばんよく聴こえてくるのは、ショパンそのひとの素朴な詩情というより、彼・ミケランジェリの思索の深さであるという一点なんです。
 そう、ショパンそのひとの歌唱より、この巨匠がショパンという芸術家を見つめていたであろう、長い孤独な時間、その濃密な思索の気配がじかにびんびん聴こえてくるの。
 ある意味、それは、非常に近代的な、批評を宿したアカデミックな精神だ、ということもできるでせう。
 しかし、彼のピアノから素朴なショパンの歌唱を期待していた聴き手は、ここで否応なしに彼の演奏から振りおとされ、己が不満をかこつはめになる。

----なんだよ、これは…? こんな愉悦のない、硬すぎる音楽は、ショパンじゃないよ…。

 かくして、アンチ・ミケランジェリ派の聴き手が、またしてもここに誕生するというわけ。
 実際、アンチ・ミケランジェリ派って、結構多かったんじゃないかな? 有名な批評家でも、自分は断じてこれほど偏ったピアノ藝術を認めることはできない、なんて公言してたひとも、ひとりやふたりじゃなかったような気がする。
 要するに、彼のピアノは、聴くひとを凪ぎさせないんですよ。
 安心なんかさせてくれないの---架空の試験管を両手にもった、このむっつり教官は、気難しいうえに、さらに気難しくて。
 そう、彼のピアノは、聴くひとを超・選ぶのですよ。
 その敷居はめっちゃ高い---僕も、最初に買った彼のショパン・アルバムのよさが分からなくて、翌日にはもう売っちゃってた口でしたねえ---でも、一端このテンションの高いピアノに取りつかれたら、もう逃げ道はありません。

----しかもそのラフマニノフの演奏は、ロシアン・ピアノスクールのピアニストたちの多くが発散する土臭さ暖かさあるいは鈍重さとは一味も二味も違っていた。桁外れな巨きさを感じさせる構成感、透明で感情の抑制のよくきいた完璧な指。それだけならば洗練されて知的でクールな演奏ということになろうが、彼の音質殊に強音での低音の響きには聴いているこちらの心臓がどきんと跳ねあがるような衝撃的なものがあって、それが直接感情をゆさぶった。それは恐ろしいほどこちらのテンションを要求する演奏だった。こんな演奏にひとたびとり憑かれたら、身を誤ってしまうだろう…。
                                                         (中村紘子「ピアニストという蛮族がいる」文春文庫より)

 うーん、うまいなあ…。(^.^;>
 これ、ピアニストの中村紘子さんのエッセイからの引用なんですけど、彼女もそうとうミケさま---これ、ミケランジェリの愛称です---がお好きで、毎日のように入れこんでいた時期がどうもあったようなんですね。(しかし、彼女、もう一方の雄、グルダのことは嫌いなご様子。なんで? あの独特の、やや尊大風のアーテイキュレーションが駄目なのかなあ)
 しかし、ミケランジェリのピアノの低音部の響きに、非常に衝撃的・激情的なものを感じる、という彼女の読みは卓見だと思います。
 うん、ミケランジェリって、たしかにそういうところがあるもの。
 といっても、あのホロヴィッツのように激情にまかせて、ピアノの鍵盤上にたちまちナイアガラ瀑布を創造しちゃう、なんて野蛮なサーカスめいたことはやらない。
 ミケランジェリの音楽は、彼の端正な風貌と同様、一見したところは静かに落ちついています。
 けれど、いくら秘めようとしても、血のなかに脈打つ激情家の面影までは消せやしません。
 僕は、彼が作品を扱うときの、あの超・冷酷なまなざしのうちに、彼本来の激情家の横顔を透かし見ることができる、と思っているんです。
 そう、彼は、俗にいうマッド・サイエンティストの手つきで、彼独自の白衣とピンセットでもって、ショパンやラベル、あるいはガレッピやリストの作品を取り扱うんですよ。
 分析して、思索して、作品の響きを隅から隅まで精密に計量しきって、さらにそれらの結果を何度も追試して、統計をとって……ようやく、それから燕尾服を着てコンサートホールの舞台上に現れてくるわけなんですんね、この特別なマエストロは。
 もう、あんまり多くのことを本番前にやりすぎちゃったんで、いざコンサートの本番のときにはすっかり憔悴しきってしまっていて、一般的なやる気なんてものは、そのときにはほとんど身中に残っていやしないんです。
 だから、観客からの花束を踏み潰したり、舞台上でふいの神経の発作に駆られたりして---新聞ネタになるようなこともときどきやってしまう。
 でも、僕は、それらの彼の奇行の数々は、彼の誠実さの逆の表れだ、といった風に読みたいんですよ。
 ええ---その通り---イーダちゃんは、この風変わりでヘンチクリンなヴィルトゥオーソ、ベネディティ=ミケランジェリのピアノが大好きなんですよ…。


                        ×          ×           ×

 では、そんなミケランジェリの数あるディスクのうち、どれをここで推薦しますかねえ?
 必要不可欠な3枚の1枚目として、このページ冒頭にUPしたショパン・アルバムをまずは挙げておきませうか。
 このディスクには、ミケランジェリが厳選したショパンのマズルカが10曲と、あと、あんま有名じゃないプレリュードが1曲、さらにはスケルツォの2番とバラードの1番とが弾かれています。
 どれも凄い演奏なんだけど、特に僕が押したいのは、ここに収められたマズルカの演奏。
 マズルカってそもそもショパンの故国のポーランドの農民の民謡で、その意味からすると本来大変に土臭い舞曲のはずなんですけど、ミケランジェリが弾くこのマズルカ群には、そんな郷土色の片鱗もない。
 なんというか、これ、ぎりぎりの、崖っぷちのショパンなんですよ。
 ニンゲンの携わるショパン演奏の、ある意味、究極をいくひとつのかたちだと思う。
 超・尖鋭的---人知の極をいくショパン---したがって、通常のショパンらしさみたいな、いわゆる慰安風の、抒情のよろめき的要素は、徹底的に排除されてます。
 
----音楽から抒情性を剥ぎとったあとも、ショパンの音楽は、まだ音楽として成立していられるのだろうか?

 ここでのミケランジェリは、あたかもそんなことを問いかけながら、ピアノと対話する、隠遁中の孤独な錬金術師のようです。
 タロット・カードでいえば9番目の「隠者」あたり?
 しかめっツラのうえにもしかめっツラ---安易な感情流失の身ぶりを徹底的に禁じられたこの斬新なショパンは、最初はえらい窮屈な風に聴こえます。
 うーん、もうちょっとくらいくつろいだり流したりしてもいいのにさ…。
 音楽のどこにも隙がなさすぎる。くつろげないよ、こんなショパンじゃさ…。
 とかなんとか自分内部の俗物軍団がブーブーいったりしてるのも、ま、聴こえてこないわけじゃない。
 このミケランジェリ独特の厳しすぎる世界が最初は耐えがたくて、思わず退廃詩人のフランソワだとか、セピア色にノスタルジックなコルトーのショパンとかに逃避したくなってもきたのですが、しばらく聴いているうち、ありきたりの色彩感覚を徹底的に排除しつくした、彼独自のこの孤高のショパンの引力圏に、だんだんに引きこまれていく自分が強烈に意識されてきたんです。
 ええ、それくらい、このミケランジェリのショパンの放つ磁力には、凄まじいものがある。
 すべてのものを自分内部の「美」のフィルターをくぐらせて透過蒸留させるという彼のやりかたは、自分自身の生理や体調、あるいは運動神経や思想といった要素でさえ、この審美の基準に隷属させるということになるわけで、ある意味、人間の「意志」を極限まで追及した藝術と呼んじゃっていいのかもしれません。
 うん、彼のこのショパンは「魔力」といってもいい、ほとんど黒魔術的な力を獲得している気がします。
 だって、僕、ほとんどコレにとり憑かれちゃいましたから---彼のラフマニノフの4番にかつてとり憑かれたことのある、あの中村紘子女史のように。
 一時期は、ほんと、コレばっかり聴いてましたもん、それこそ、朝から晩まで。
 ミケランジェリのピアノは、徹底的な「人治」の藝術だということができるでせう。
 ただ、この世界的高峰の尾根をずーっと歩いていくと、空に近いあるところで「神」の気配が急速に遠のいていくんですね。
 なんというか、藝術の使徒であるところのこのピアニスト自身が非常に孤独な姿に見えてきて、研ぎ澄まされた彼の音楽の隅々からも、それとおなじざらざらした無神論の気配がすーっとしてくるの。
 敬虔なクリスチャンであったミケランジェリ---彼はときどき周期的に僧院にこもることがありました---の藝術から、なぜに、そのような涜神の香りがしてくるのか?
 それは、分からない…。
 でも、あの吉田秀和氏もたしか似たようなことをどこかでいってられましたね---知的な追及は、必然的に暗さを帯びる、なぜだかは分からないけれどって---。
 ま、それの是非はともかくとして、こいつは傑作ですよ。
 それはたしか---決して、聴きのがしちゃいけません。
 特に、嬰ハ単調の作品45番のプレリュードは、唖然とするほどの出来に仕上がってる…。
 極限までコントロールされた弱音のパレットが、音楽の作りうる世界の限界領域まで、聴き手を導いていってくれる。
 ええ、音楽藝術が辿りついた最高峰のひとつ、彼のベストに数えられる演奏だと思います…。


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 そのマエストロ・ミケランジェリの代表作を、いい機会ですので、ここでもう2点ばかり紹介させていただきませうか。
 1枚目は、ロンドン・フィルと演った、57年のラベル・コン(下左)---これは、あのソビエトのリヒテルが、皮肉まじりに、でも、確実に激賞していた録音なんです。
 実際、このラベルのピアノ協奏曲は、ミケランジェリの最高傑作かもしれません。
 僕は、いまだ、これ以上のラベコンを聴いたことがないんだもの。
 音色も、構成も、アイーティキュレーションも、ペダルも、魔法のようなタッチも、なにもかもあまりにもレベルが高すぎて、曲のすべてが桃源郷---特に2楽章のアダージョ・アッサイでは、完璧な異世界が実現しちゃってます。
 ミケランジェリ37才のときの全盛の記録ですね、これは。
 後世に残すべき録音ではないでせうか---後年にチャエリビダッケと演った録音もなかなかいいけど、この曲の決定版となるのは、やはりこの57年の録音でせう---むろん、必聴---。


                   

 で、次に推薦したいのは、フォト右上のブラームス・アルバム---。
 これ、81年の録音なんですけど、僕が薦めたく思っているのは、メインのブラームスじゃなくて、このアルバムに同時に収められている、71年のベートーベンの録音のほうなんですよ。
 ええ、ベートーベンのかなり初期の、青春期ばりばり! 4番のグランド・ソナタ。
 僕は、ミケランジュエリっていうのは、稀有のベートーベン弾きだったんじゃないか、と、まあ個人的に思っているんです。
 あの大ホロヴィッツは、残念ながら病的すぎて、純然たるベートーベン弾きとはとても呼べないタイプでしょ?
 リヒテルも、なんというか、微妙にちがう---彼は、ベートーベンをナポレオンみたいな英雄に「創り」あげすぎちゃう。
 しかし、ミケさまのベートーベンは、その点、ちがうんですよ。
 折り目正しく、誠実で潔癖、背筋がぴんとのびて姿勢のいい、瑞々しい瞳をした、青年ベートーベンの爽やかな「ポエジー」が、鍵盤上の空間に、いつのまにかきりりと立ちあがってくるんです。
 ミケランジェリのベートーベンというと、みんな、突き放しすぎた、酷薄無情なベートーベンを予測するかもしれないけど、ぜんぜんそんな風にはならないの。
 むしろ、瑞々しさという点においては、あのグルダと競うほどのレベルのベートーベンが出来上がるっているんですよ---あの仏頂面からどういうわけか…。
 こういう成果を見せられちゃうと、もうこっちは唸るしかない。
 超・厳格な規則のむすぼれのむこうから、なんで、こんな気持ちいい緑のにおいがしてくるのかしら?
 ふしぎですね---でも、聴いているうちに、そんなことはまったく気にならなくなってくる。
 このソナタには、「恋する乙女」なんて俗称もあるんですよね、ええ、そのくらい皆から親しまれている曲なんです、これは。
 正直にいえば、こっそり秘密にしておきたいくらい素敵なヴァージョンなんですけど、それをやっちゃうと、これは人類への罪として死後のカルマに計上されるんじゃないか、と、いささか怖くなりまして…。
 そのようなわけで、皆さん、イーダちゃんは、芳しい春の日向のかおりのする、ミケランジェリのベートーベン4番のこのスペシャルなソナタを、ここに推薦してみようと思いたったのでありました---。(^.^;>
 

 

 
 

徒然その105☆山野井泰史という生き方☆

2012-05-11 00:24:50 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                        


 山野井泰史(やまのい・やすし)---彼のことを皆さんはご存知でせうか?
 奥さんの妙子さんとともに奥多摩の、家賃2万5千円の古い家屋にひっそりと暮らす彼は、目立ったりするのが嫌いな性格のせいもあって、めったにマスコミに登場することもありません。だから、知名度もそれほどないかもわかんない。
 しかし、実は彼、世界的なアルピニストなんです。
 こんな喩えはうまくないかもしれないけど、それこそ野球のイチロー級の、超・ド級のアスリートといってもまったく過言はないんじゃないか、と思います。
 彼が、どれほど桁ちがいのスーパー・アスリートなのか。
 わかりやすくするために、おおざっぱな氏の経歴を箇条書きにしてみませうか---。

          <山野井泰史>
    ソロクライマー。1965年4月21日東京生まれ。牡牛座。月は魚座。
    高校在学時よりアルパイン・クライミングに傾倒し、卒業後はアメリカのヨセミテなどでフリークライミングに没頭。
    1988年、23才、北極圏のトール西壁を7日間で単独初登。
    1990年、25才、パタゴニア、フィッツロイ(3,441メートル)冬季単独初登。
    1991年、26才、ヒマラヤ、ブロード・ピーク登頂。(小西浩文ら8人による極地法)
    1992年、27才、ヒマラヤ、アマ・ダブラム(6,812メートル)西壁冬季単独初登。
    1994年、29才、オペル冒険賞受賞。
    1998年、33才、ヒマラヤ、クスム・カングル(6,367メートル)東壁単独初登。マナスル北東壁、雪崩により撤退。(妙子夫人と)
    2000年、35才、ヒマラヤ、K2南南東リブ無酸素アルパインスタイルによる単独初登。文化科学賞スポーツ厚労省受賞
    2002年、37才、ヒマラヤ、ギャチュンカン北壁登頂。朝日スポーツ賞・植村直己賞受賞。

 ざーっとこうして書いてみましたが、これでも山野井さんの全業績の3分の1もいいきれていないのです。
 うんとこさはしょってみても、まったく輝きの曇ってこないこの燦然たる異能ぶり---登山のなんたるかを少しでも知っている方がこの業績を見られたら、絶句することほぼ間違いないでせう。
 それほどこれは人間離れした、怪物的な業績なんですよ。
 国内最強という地位はまず揺るがない、世界的に見ても、これは、5本の指に数えられる業績であるといわれているのです。
 えーと、一口に冬山登攀なんていうといくらかスポーティーにも響きますけど、実をいうと、これほど過酷で危険なスポーツってほかにないんじゃないのかな。
 一般に危険といわれているボクシングやF1レースと比較しても、冬山登攀の危険度は桁ちがいですもん。
 一時代を築いた我が国の誇るアルピニストの数多くが、生涯をこめて愛しぬいたおなじ山で亡くなっています。
 日本山岳会のドンだった小西正継さん、その小西さんに岩登りの技術を叩きこまれた、あの冒険家の植村直己さん、クライマーとしての頂点を極めた長谷川恒夫さん、その長谷川さんと競うようなかたちで亡くなった森田勝さん……。
 特に小西正継さんが会長を務めた「日本山岳同士会」においては、82年の段階で、正会員の3割が遭難死していた、という恐るべき死亡率を誇っておりました。
 なんと、死亡率が3割を超える!
 これは、もう正直いってスポーツごときのレベルじゃないですね。
 危険といわれるモータースポーツにしてもこれほどじゃない、これは、もはや戦争における「最前線」と同様の状態だといいきっちゃってもいいと思う。
 実際にいまさっき、僕は調べ物のついでに長野県警の「山岳情報」のページをちょっと覗いてきたのですが、そこには、南アルプスに入山したまま帰らない行方不明者の情報が連ねられていて、その冷酷でシビアすぎる生々しい事実の列挙に、反射的に目をそむけたくなりました。
 過酷とかそんなレベルじゃないですよ、これは。
 これほど「死」に近い業界っていうのは、「仁義なき戦い」のころの広島・呉のヤクザ業界とか、最前線の兵隊さん等以外には、あまりおられないのではないのでせうか---そんな危険極まる業界のなかで孤高のトップを張っていた、ソロクライマーの山野井さんとは、果たしてどんなお方なのか?
 当然、気になりますよね?
 僕もやっぱりこのあたりまでくると、彼の素顔がどんななのか確認したくなってきた。
 まずは、じゃあ、ちょいと失礼して氏のお顔を拝見をば---。


                       


 ただ、いちばんリアルに伝わるのはやっぱり映像系のメディアじゃないか、と思うんですよ。
 てなわけで、まずは氏に関する映像作品をいくつかここにご紹介---

  DVD「白夜の大岩壁に挑む ~クライマー山野井夫妻~ (NHKエンタープライズ)」

 こちら、もっとも最近の氏の業績を収めたDVDであります。
 このなかで、彼は、グリーンランドの「オルカ」という気の遠くなるような大岩壁を、奥さんの妙子さんといっしょに登ってる。
 つけくわえると、この山野井さんの奥さんの妙子さん、泰史さんより9つ上の年上女房であり、彼女自身、世界的に有名なクライマーなんですよ。
 要するに、彼等はふたりして、超・有能なクラライマー夫婦なんだってこと。
 しかも、妙子さんは、何年かまえの登山の凍症のせいで、両手の指が1本もないの。(足の指だけ2本残ってるということです)
 なのに、岩登りやってんの!---信じられないけど、これは事実---そのへんの詳細は、映像でそれぞれご確認なさってください。
 僕は、このDVD観ながら、いつのまにやら怠惰な腹這いから正座になっちゃってました。
 どうしてか、そうしないではいれなかったの。
 山の素晴らしさを語る彼等ふたりの顔は、そのくらい無垢で、美しく輝いて見えたんですよ。
 ああ、まだまだこの世は捨てたもんじゃない、世の中、偉いひとっているもんなんだなあ---と、なんだか心が洗われるような「清らかな」感触があったんです…。
 冗談いってるんじゃないですよ、イーダちゃんは大マジのつもりでいってます。
 山野井夫妻は超ファンですから、茶化すようなことは、とてもいえない。
 うーむ、さらには you tube で氏に関する動画はいくつかUPされているので、そちらのほうを参照されてもいいかもね。

 文書方面からも、いろんな近づきかたがあるかと思います。
 たとえば、新潮文庫からは沢木耕太郎さんが、この山野井さんをモデルに「凍」という秀逸なドキュメンタリーを書いてます。
 これ、山野井さんが瀕死の状態に陥った、超・過酷なヒマラヤのギャチュンカン登山の、リアルなレポートです。
 これ、フツーのレポートみたいに「客観的な中間位置から」じゃなくて、非常に山野井さんの近くに視点を置いて書かれた、稀有の出来のレポートでありまして、そうとういい線いってます---。
 実際、僕は、この「凍」でもって、山野井泰史というオトコにハマったのですし…。
 ただ、こういった映像や書籍で氏という人間について知っていくと、なにより驚かされるのが、彼等---山野井夫婦---の無欲さと、その質素で素朴な暮らしぶりなんですね。
 なんと、このご夫婦、ふたりあわせて年収が400万ないんですよ。
 ここでこんな下世話なことをいうのはよくないってことくらい、僕も承知してます。でも、あの天下のクライマー・山野井泰史さんがですよ、年収400万いかないってのは、これは、ちょっと…。
 外国じゃ、山野井さんクラスのクライマーなら、みんな王侯貴族みたいな生活してますもん。
 でも、山野井さんは、そんな小さなことに頓着するそぶりはまったくなくて、

----スポンサーとかがつくと、どうしてもそれに拘束されちゃうから…。本当はアタックしたくないのに、面子や義理のために、むりなアタックをかけなくちゃならなかったり---。そういうのは、もうやりたくないんですね。自分で登る山は、登りの決断も、中止の決断も、全部自分で下したい…。だから、自分で稼いだ銭だけで登ります。そのための節制は苦にならないですね…。

 そういってにこにこ笑ってる---家賃2万5千円の奥多摩の貸家の一室で…。
 奥さんの妙子さんにしても同様---両手に一本の指もない、世間的にいえばれっきとした「障害者」だというはずなのに、あっけらかんと明るくて、なーんのハンデ意識も感じさせない。自分たちの貸家の庭に、家庭菜園みたいな野菜畑をつくって、その収穫のために、指のない両手で扱いにくそうに鋏を使うさまは、偏見ぬきで、ひたすら嬉々として楽しそうなんですよ。
 ふたりそろって、生活の目標は、ひたすら「山」しかない。
 それ以外の欲は、せいぜい妙子さんの家庭菜園と料理好きと、山野井さんの虫飼い趣味---あとはふたりして、いまいる奥多摩のような、なるたけ自然に近い環境で暮らしたいという気持ちがあるくらい。
 さきほど述べた2002年の、ヒマラヤのギャチュンカンの登山では、奥さんの妙子さんが両手の10本の指を根元から失ったことは僕も書いたと思うんですが、実は、旦那の山野井さんのほうも、雪崩と凍傷とで、両手の薬指と小指を失っているんです。
 世界的アルピニストにとっての指!---これが、どれくらい重要なものなのか。
 もしかして、それは、ピアニストにとっての指と、おなじくらい重要なものかもしれません。
 実際、山野井さんも、凍傷で指を失ってから、アルピニストとしての自分の能力は過去の十分の一以下に落ちた、なんていってらっしゃる。
 しかし、だからといって、ふたりにこれほどの「貢物」をふっかけてきた運命のギャチュンカンに、山野井さんは、恨みごとのひとこともおっしゃろうとしないんです。

----ギャチュンカンは、うん、いい登山だった…。楽しかったよね?(奥さんの妙子さんのほうをちらと見て) 指を失くしたとか、生死の境をさまよったとか、そんなことは関係なしに、うん、充実してた、ギャチュンカンは…。

 これには、僕、マジでまいってしまった…。
 あまりにも無邪気に山について語る山野井夫婦の姿に接していると、そのうち、なにやら彼等夫婦が、現世のどんな王侯貴族より豊かな存在に見えてきちゃったんです。
 憧れ、賛嘆、そして、ほんのちょっぴりのジェラス…。

 ちっぽけだなあ、と思いました。彼等の輝きと比べて自分という存在があまりにも。
 生物として、このふたりは自分なんかよりはるかな高みにいて、信じられないくらい充実した生命の燃焼を行っている、と、なんか眩しかったりもしました。


       ×              ×              ×

 この山野井さんが、2008年の9月17日、自宅のある奥多摩で事故にあいます。
 それは、トレーニングで林道を走っていたら、いきなり子持ちのクマと遭遇し、襲われる、というとんでもないアクシデントでありました。
 以下は、山野井さんと親しいジャーナリスト、沢木耕太郎氏の著作からの引用です。

----山野井さんは奥多摩に住んでいるが、ある日、トレーニングのために林道を走っていると、曲がり角でクマとバッタリ遭遇してしまった。まずかったのはそのクマが子供を連れた母親だったことである。子供を守ろうと、クマはいきなり襲いかかってきた。山野井さんは勢いがついていたため急に回れ右ができず、クマに押し倒されるように山側の斜面に押さえつけられた。そして、眉間をガブリと咬みつかれてしまった。そのとき、山野井さんは咄嗟に判断したのだという。両手で押しのけると、咬みつかれたまま、額や鼻を持っていかれてしまうだろう。そうすると、復元は不可能だ。そこで、むしろ、クマの頭を片手で抱きかかえるようにして、反対の腕の肘で殴ったのだという。すると、咬んでいた歯を離してくれた。その隙に転がり出た山野井さんは、必死に逃げた。ところがクマも追ってくる。もう少しで追いつかれそうだったが、途中でふっと追ってこなくなった。後に残した子供が心配だったのだろうと、山野井さんは言う。
 なんとか家に戻ったが、奥さんの妙子さんは北海道に行っていて不在である。そこで、山野井さんは隣の住人に救急車を呼んでくれるよう頼んだ。救急車からヘリコプターに移され、青梅の病院に運び込まれると、九十針も縫う大手術をすることになった。その結果、顔面はなんとか復元できた。
 私が見舞いに行くと、山野井さんはこう言って笑った。
「あのクマは運が悪かった」
 自分は野生のクマを抱くという滅多にないことができてよかったけれど、あのクマは自分に出会ったばかりに地元の猟友会の人に追われることになってしまったから、というのだ。そして、さらにこう続けた。
「うまく逃げてくれるといいんだけど……」
                                                           (「ポ-カーフェイス(沢木耕太郎)」より)

 とっさにクマに組敷かれたときのこの冷徹な計算---山野井さんは、そのとき恐怖のあまり叫んだといっていますが---は、幾多の「山」の修羅場を踏んで生き抜いてきた、世界的登山家ならではの判断でせう。
 僕等一般人は、とてもまねできそうにない。
 しかし、さらに驚くべきはその先です。
 自分の顔面を回復不能なまでに壊したかもしれないクマに向かって、

----うまく逃げてくれるといいんだけど…。

 えっ…。ハア---!?

 猟友会よ、自分の顔をこんなにしたクマを撃ち殺し、仇をとってくれ---とか、フツーならそっち方面的な、復讐譚コースについ気持ちが流れていきそうになるもんじゃないですか?
 ところが、この山野井泰史という男のなかでは、感情は、そのようなありきたりな、コルシカン・マフィア=コースを辿らないのです。

----うまく逃げてくれるといいんだけど。

 この何気なセリフは、ほんの一瞬で、僕の内部の深い部分まで貫きました。
 以来、僕は、このグレートな登山家・山野井泰史の引力圏内に、ずーっと囚われっぱなしの捕囚状態ってわけ。


                                                 

 山野井泰史さんは、凄いです。
 予測不能の引き出しが、あっちにもこっちにもやたらあって。
 そのどこを開けても、ピカピカな山野井さんが、マトリョーシカみたいにいくらでもまろびでてくるんですから。
 驕りを知らない、謙虚で、勇敢な冒険家、山野井泰史の名を、どうかご記憶ください。
 この雑文が、貴方と山野井泰史さんとを結びつけるなんらかの契機にでもなってくれれば、僕にとってそれ以上の喜びはありません---。(^.^;>





 

 
    

 

徒然その104☆推理小説 Best 10☆

2012-05-07 01:30:25 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                          
                ----朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足、これ、なーんだ?(スフィンクスの問い)


 謎って素敵だな、と思うんですよ。
 謎は、単調で退屈モードな生活に、きりりとした色取りを添えてくれます。
 まあるく凪ぎすぎた日常のダレを、ちょっとだけ尖らせ、締めてくれる。
 いわば、スパイス---もしくは、燻製におけるチップのような存在ですか。
 かつてヨーロッパでは、この香辛料欲しさのために、国をあげての大艦隊まで繰りだしたものでした。
 この故事からも学べるように、人類にとって「謎」というのは、重大事であったのです。
 僕は過去形で語りましたが、現在でもそのへんの事情はいっしょでせう。
 うん、たぶん、時代はあんま関係ない。
 人間の心と「謎」とは、もともと共鳴しやすいようにできているんです。
 造化の神がそんな風に創造されたんですね---人間の心と「謎」とのあいだの空間にあらかじめ磁力を張って。
 もしかすると謎って、人間にとって小さな宝石のようなものかもしれない。
 僕等の生活のなかでは、ささやかな「謎」たちが小さな衛星のようにくるくると、たえず忙しく自転しています---たとえば以下のごとく。

 「彼女は僕のことをどう思ってるのだろうか?」
 「なぜ、この女は笑うとき目尻がきゅっとあがるの?」
 「あの二重帳簿のファイルを管理してるのは、本当に部長なのかな?」
 「彼にはまちがい電話だととっさにいったけど、実のところ彼は、浮気相手からの電話と勘づいていたのではないかしら?」

 僕等の日常を彩る、それら、ささやかな「謎」たちからは、秘密の香りがかすかに洩れでてきています。
 僕等は、ごく微量のそれを嗅ぎわける。
 その香りはちょっぴり淫媚で、エロティックです。
 でも、とーっても魅力的---ええ、佇まい的にね、どことなく秘密の宝石みたいな趣きがあるんです。
 誰だって、この香りを嗅いだら、この「謎」の内訳を知りたくなるに決まってます。
 というより、「謎」を見つけたらその結ぼれを解きたくなるのは、もはやニンゲンとしての本能なのかもしれません。
 本能には抗えませんからね---僕等は、僕等の正面にまわった「謎」をまっすぐに見つめなおします。
 そして、真剣極まりないまなざしで、彼女の衣装のほつれを探しはじめる…。

 ひょっとして、ねえ、僕等は「謎」そのものを愛しているのかもしれません---。
 
 僕は、ときどき、そんな風に感じます。
 すると、いまのニンゲンの文化に、「推理小説」というジャンルがあることの理由もするすると解けてくる。
 なーるほど、人間は謎好き、パズル好きの動物だったんだなって。
 人間の心だって煎じつめれば複雑に錯綜したパズルみたいなもの、ともいえるしね。
 そんなわけで、このブログで語るのは正直はじめてなんですけど、実は、イーダちゃんには、長~い推理小説マニアのキャリア歴があるんです。
 僕が、いわゆる推理小説の類いにハマったのは、小学校の5年生のとき。
 自分んちにたまたま世界文学全集みたいなのがあって、それのなかの「シャーロック・ホームズ短編集」みたいな編集本を読んで、その面白さにたちまち感化されたみたいな印象です。
 当時TVでやってたいかなる刑事モノより面白いと思った。
 なかでも「赤毛連盟」、それに「まだらの紐」あたりの面白さには、モロKOを喰らいましたっけ。
 これに味をしめて、学校の図書館のホームズものなんかもまあ読み漁りはじめたわけなんですけど。
 しばらくは狭義のにわかシャーロキアンみたいになっちゃって、ほかのモノはまったく受けつけなかったんですけど、ある日ちょっと浮気して、世界の推理小説シリーズっていうドイル本以外の作家にも手を伸ばしてみたら…。
 そしたら、それ、偶然ポーの小説集だったんですよ。
 推理小説の始祖にして発明者---アル中の名編集者にして著名な米人作家でもある、あのポー---日本の江戸川乱歩がその才能に感嘆、あやかりたさのあまり自身のペンネームにしたほどの才人、エドガー・アラン・ポーの。
 「黒猫」、そして、あの「黄金虫」…。
 一読して、震えあがりました。
 マジ、歯の根があわないほどびっくりしたんです。
 なんだ、これは? 想像もつかない人知の尖塔の最頂部で、まるでゲームのように嬉々として「謎」と遊び戯れる男が、そこにいたんですから。
 すわ、天才だ、こいつ。ええ、ドイルの昼の世界とはまったくちがうのよ---ドイルの世界もそれなりによくできてはいたんですけど、ホームズって基本祖国を愛しているし、貴族も敬うし、警察にもまあほどほど協力的、いわば根っこのとこがほんのり俗物なんですよ。
 しかし、このポーっていうのはちがう、そんなこの世の「理」も便宜的なものとして渋々認めてはいるけれど、根っこのところでは、どんな「理」もしょせん人間都合の架空の約束事でしかないじゃないか、と鼻先でふふんと嘲笑っているような、どこか虚無的な風情が行間のそこかしこに漂っていたんです。
 その投げやりな香気は、不謹慎ないいかたになりますが、とってもセクシーで貴族的でした。
 そして、それは、彼の好む「夜」のイメージと共鳴して、なんともこの世ならぬ、不可思議な思弁空間を構築しておりました。僕には、それが、人間の「知恵」をいちばん尖らしたかたちとして見えたんです。
 うん、正直に告白するなら、いまもそう見えてます---というわけで、イーダちゃんが選ぶ、推理小説ベストテンのナンバーワン作品は……


      ◆NO.1作品:「黄金虫」(エドガー・アラン・ポー)

 これ、短編なんですけど、ナンバーワン作品はこれに決まり! ゆらぎませんねえ。
 僕的にはこれ以外にはナンバーワンはもうないの、これ、世界最強の推理小説だと思います。
 なにしろポーは、推理小説というジャンルの発明者であり、始祖でもあるんですから。
 推理小説における3大トリック「密室トリック」「暗号トリック」「心理トリック」---これらのことごとくをたったひとりの頭脳で開発して、自身の作品として定着させちゃったおひとなんスから。
 この「黄金虫」は、その推理小説における「暗号トリック」ものの、記念すべき第一号です。(拍手;うわーい、ぱちぱちぱち!)
 しかも、この作品内で、ポーは、凡庸な語り部「ワトソン役」が、天才探偵ホームズの非凡な推理手腕を、脇から見つつ語るっていうスタイルを、もうここで完成させちゃっているんですね、驚くべきことに!
 いま現在の推理小説でも、ポーの創造したこのスタイルは、いろんな作家によって使われつづけています。
 というか、機知でびっくりさせるっていうこの種の手品には、どうしても読者目線の凡庸な道化が要り用なんですわ。
 天才探偵の機知の非凡さ、閃光のようなシャープさをより際立たせるために、ポーは影絵のような「わたし」という凡庸な引き立て役---能でいうところのシテとワキなら、ワキのほうですか?---を小説内にあえて置いたわけ。
 この意地悪だけど効果的な着想だけでも天才的なのに、ポーの場合は、小説の出来自体ももう天才。
 この作品のそこかしこから溢れでてくる、したたるように深い、この濃密な夜の気配はいったいなに? 
 この記事を書くためにひさびさ読みかえしたら、僕、またしてもこの作品に魅了されちゃいました。
 客観的に、あえて距離をおくことを意識して読みすすめているつもりだったのに、気がつくと、ポーの天才と圧倒的なポエジーに酔わされ、茫然自失のクラクラ状態にいつのまにか落ちこんじゃってるの---。
 だって、凄いんだもの、このひとってやっぱ。
 この小説の舞台はアメリカ、南カロライナ州のサリヴァンという孤島。
 ゆえあってそこに隠遁している人嫌いのレグランド---彼は、黒人の召使い「ジュピター」とふたりきりで、この島の東端に小屋う建てて住んでいるんですが、ある日、その小屋に「わたし」が訪ねていくんです。
 それが、物語のことはじめ---。
 で、その滞在の期間中、主人のレグランドと召使のジュピターが散歩のとちゅう、大きな黄金虫を見つけるんですね。
 レグランドがそれを捕まえるとき、たまたま近くの砂に埋まっていた、古い、羊皮紙を使ったら---
 それ、実は、炙りだしの技法で、ある暗号が書きこまれていた、特別な羊皮紙だったんです。
 聡明な主人・レグランドは、この島近辺に残された「海賊キッド」の伝説から、この羊皮紙が、かつての大海賊キッドが、この島に自身の財宝を隠したときの、所在の暗号書じゃないか、と見当をつけます。
 そうして、拾った「黄金虫」を弄ぶことを片時もやめない奇矯な主人・レグランドと黒人の召使ジュピター、それに傍観者であり物語の証人でもあるところのと「わたし」---この3人による三つ巴の---海賊のお宝探しの奇怪な旅がいよいよはじまるわけ---。

----よき眼鏡僧正の宿屋にて悪魔の座にて---41度13分---北東微北---本幹第7の枝東側---髑髏の左眼より射て---直接樹より弾を通して50フィート外方に---(「黄金虫」本文より)

 いま、こうして抜き書きしてるだけでゾクゾクと震えてきちゃいそう。
 超・クラッシックなこの種の物語設定と出だしとに、いま「引きかかってる」そこの貴方!---うん、そこの貴方のことよ---ああ、まだダメ---引かないで、引かないで!---一読しさえすれば、この「黄金虫」の凄さは絶対分かるから---。
 なにせ、このポーというのは、あの仏蘭西の退廃詩人ボードレールが「我が師匠」と呼び、あの元ビートルズのジョン・レノンがディランと共に「サージェェント・ペパー」のジャケットに乗せたほどの男です。たしか、Walrus の歌詞にも登場してきたんじゃなかったっけな? ドイルは心酔しきってるし、江戸川乱歩は名前ごと強奪しちゃうくらい憧れていたわけだし---要するに、ただの並作家であるはずがない。
 いわば、一種の怪物---?
 ええ、ポーの短編は別格仕立て、現代のいかなる小説より斬れてます---ジョイスよりバロウズよりパルガル・リョサより---それはもう保障付き。
 どうか騙されたと思って、この特別な天才のめまいがするような研ぎまくり作品を体感してくれればなあ、と思います…。


       ◆NO.2作品:「盗まれた手紙」(エドガー・アラン・ポー)

 ランキングNO.2の推理小説がまたしてもポーの作品となると、おいおい、ふざけるなよ、という批判の声も聴こえてきそうなんですが、やむを得ない、それだけの実力があるんだから、これは、どうしてもセレクトしないわけにはいかんですね。
 ポーの名短編「盗まれた手紙」---これは、推理小説というジャンルを離れた、世界名短編ベスト20なんて企画をどかこでやったと仮定したとしても、そのランキングの範疇に確実に喰いこめるだけの作品でせう。
 ひとことでいって、超・逸品---まるで奇跡のような神品なんです、こいつったら。
 たしかにナリは小柄な短編ですけどね、後世のいかなる本格推理小説の傑作長編群とならべてみても、目劣りしないどころか総合点においては凌駕するだけの深みをもっています。
 でも、ストーリーはしごく単純。
 フランスのD※※大臣が、王宮のある貴婦人の手紙を盗みとった。
 それは、その貴婦人が綴った、いわば秘密のラブレターで、表沙汰にはできない類いの手紙だった。
 D※※大臣には、恐喝者としての顔もある。
 そうはさせじと貴婦人側は、警察力をフルに稼働し、ありとあらゆる手段でD※※の身辺を徹底的に調査したが(強盗を雇って独り身のときに襲わせるような真似までした)、問題の手紙は一向に出てこない。
 大臣の部屋の壁紙をすべて剥がし、床板もすべて剥がして探索したが、成果はさっぱりあがらない。
 責めあぐねて疲労困憊した警視総監は、著名な素人探偵デュパンのアパルトメントを訪ねることにした……。

 ----といった塩梅ですかね。
 のちにドイルはこのシチエーションをそのまま使って、シャーロック・ホームズ・シリーズの「ボヘミアの醜聞」を書きあげています。
 ストーリーも状況設定も、「ボヘミアの醜聞」はモロ「盗まれた手紙」をコピーしているんです。
 ええ、ドイルは、非常に先人のポーのことを尊敬していたそうです。
 もっとも、作品としての出来は、圧倒的に「手紙」が「醜聞」を凌駕してますけど。
 ネタバレするからからくりは明かせないけど、これ、名品中の名品だと思いますね。
 ひょっとしたら先に挙げた「黄金虫」より、こっちのほうが純粋推理小説としては格上かもね。
 どうしたらこれだけシャープな小説を削りだせるのか、作者の頭のなかを解剖調査したくなるほどの出来ですわ。
 推理小説において、最初の「心理トリック」が駆使されたのは、ポーのこの小説内においてなんです。
 イエス---推理小説という形式は、ポーが発明したんですよ。
 たったひとりの独力で…。(汗)
 ここまで斬れまくっていたら、それは、作家というよりはマジシャンですよね、もはや。
 アンビリーボー!---これを読んで、その人間離れした機知の七色サーカスを、どうぞたんと味わってみてください。
 推理好きなら、まんず後悔するようなこたぁねえ---と思います。


        ◆NO.3作品:「そして誰もいなくなった」(アガサ・クリスティー)

 NO.3作品の選考は、けっこう迷いました。
 3つめあたりからは、そろそろ本格物をセレクトしてみたいなあ、と思って、クイーンの「Yの悲劇」だとか、ベントリーの「トレント最後の事件」だとか、あるいはチェスタトンの「ブラウン神父」もの、「赤毛のレドメイン家」なんかのクラッシック作品にもいろいろと触手を伸ばしてみたんです。
 なかでもエラリー・クイーンのあの有名な「Yの悲劇」なんかは、現代の推理小説でもナンバーワンに選出される実力派小説であり、僕的にいっても人知の極までいっちゃってると思うんですけど。
 錯綜した重層トリックの、なんて見事な手際!
 それに、小説全体に垂れこめた、異常な一家の屋敷内怪奇ムードがよく書けていることったら。
 人物設定も、小説としての構造も、ストーリー展開も、なんというか、ほぼ完璧---。
 まして、あの完全犯罪のわずかなほころびになる、マンドリンという奇怪な凶器の使用理由ときたら絶句モノ……(汗)
 もの凄い作品です。最初は僕も「Y」にしようかと思ったの。
 でも、正直にいわせてもらうと、イーダちゃんは、クイーンのこのシリーズ物で主役に設定されてる、元シェークスピア役者のドルリー・レインっていうのが、どうしても好きになれないんですよ。
 なんか、アメリカの作家が英文学を衒うときによくある「やりすぎ」というか---偽イングランド旅情篇みたいな過剰さが、読み進めるごとに鼻についてきて、どうも素直に小説世界に入りこめないんですよね。
 うん、僕的な視点からすると、なんとなく全体が「あざとく」見えちゃうんですよ、「Yの悲劇」って作品は---。
 というわけで、もそっと素直に楽しめる作品がないかと思って探してみたら、やっぱ、逢着しちゃいました、失踪の才女・アガサ女史の作品世界へ。
 クリスティー作品は、本格派からはあんま評判よくないんですよね---いわく「軽すぎる」とか「トリックがあんまり現実離れしている」とかの理由で。
 僕も正直いって、「アクロイド殺し」と「オリエント急行」はあんま推奨できない。
 でもね、クリスティーの傑作「そして誰もいなくなった」だけは別格じゃないかなあ?
 この作品のトリックの切れ味は、ちょっとスペシャル・ランクです。
 あまりにも水際立ったトリックと奇抜な物語設定とに騙された僕等一般読者は、この作品の読了後、

----うわー、そーかあ、やられたあ…!

 と思わず天を仰ぐことになる。
 でもね、クリスティーのこの作品の場合、そうやって見上げた読後の青空が、なんというかとっても爽やかなんですよ…。
 スポーティーでいて、スコーンと抜けた、超・気持ちいい、こんな快活指数90パーセントの青空の下に読後連れていってくれるのは、推理小説界広しといえどもクリスティーのこの作品だけでせう。
 ストーリーは、これもしごく単純---。
 イギリス、デヴォン州の沖にあるインディアン島に、見知らぬ男女10人がオーエンという男からの招待状で集められるんです。だけど、招待主のオーエン氏は姿を見せない。おかしいな、と訝る最初の晩餐の席で、突然、10人の過去の犯罪を暴く声が聴こえ、それとともにマザーグースの不気味わるい童謡が流れだすんです。

----10人のインディアンの子供、ご飯を食べにいく
  ひとりがのどをつまらせて、9人になった

  9人のインディアンの子供、とても夜更かし
  ひとりがぐうぐう寝すごして、8人になった……

 そうして、ひとり、またひとり、このマザーグース童謡とおンなじ状況で見えない犯人に殺されていくんです。
 疑心暗鬼に駆られてパニクる人々---その心理的葛藤とそれぞれのサバイバル---。
 これ、いわゆる「童謡殺人」モノの最高峰でせうね。
 「童謡殺人」というジャンルにおいて、この作品を超える作品は、今後も恐らく出ないでせう。
 「童謡殺人」の元祖は、恐らくクリスティーの先輩のヴァン・ダインの「グリーン家」や「僧正殺人事件」なんかのほうなんでせうが、語り口の見事さと、スピーディーで素直なキビキビ展開において、後輩のクリスティーのほうが、はるかに先達のヴァン・ダインを凌駕しちゃってるように僕なんかは感じます。
 この作品以降、「童謡殺人」のジャンルは、完全に推理小説界に定着したといってもいいでせう。
 我が国の横溝正史の「獄門島」や「悪魔の手毬唄」なんて有名どころも、皆、この系譜です。
 

                      


       ◆NO.4作品:「点と線」(松本清張)

 えー、NO.4が「点と線」!?
 という嘆声がいまにも聴こえてきそうなんですが、いやいや、我らが松本清張センセを舐めちゃあいけません。
 僕は、日本に推理小説というジャンルを定着させたのは、この清張さんが最初だったと思っているんです。
 そりゃあ、清張センセ以前の時代にも、江戸川乱歩の二十面相とか、横溝正史の怪奇ものとか、あるいは坂口安吾の「不連続殺人事件」とか、多くの探偵小説的な試みはありました。
 しかし、それらはどう見ても、外国産の探偵小説の模倣というか、舶来趣味の枠から出るものではなかったような気もします。
 安吾なんて、探偵小説は完全に遊びとして割りきってましたもん。
 当時の探偵小説というのは、いわゆる舶来物の高級煙草みたいなイメージが、どうもあったようなんですよ。 
 要するに、まだ日本の風土と緊密に結びついていなかった、そして、その生活感のなさ、根のない花、中空にうかんだ花だけの花のような、一種ピカピカな「あでやかさ」こそが、多くのモダンボーイたちの心を惹きつけていた正体だったんじゃないか、と僕なんかは思ってるんですね。
 つまるところ、当時の探偵小説というのは、知識人ボーイズのあいだで、一種の秘密基地みたいな、小ユートピアの役を果たしていたのにちがいないんです。
 うむ、僕はそう睨むな…。
 ところが、この浮世離れしたところが元来の魅了であった舶来物のパズルゲームに、遊戯性のてんで欠落した、超マジなリアリズムのドラマを乗っけてくる野暮天男が現れたの。
 それが、かの清張センセだったんですよ、僕的にいわせてもらうなら---。
 清張センセの出現以降、探偵小説は推理小説と呼称されるようになり、その内容も以前とはだいぶ変わったものになっていったんです。
 御大ポーが、現実のドロドロ社会からていねいに抽出した純粋な「論理の王国」に、またしても「ニンゲンの情念」やら「嫁姑論争」を持ちこんだのが、いわゆる清張氏のお仕事だったのです。
 まあ、本格推理小説の視点から彼の立ち位置を規定するなら、「足で調べる」クロフツ---代表作「樽」や「クロイドン発12時30分」で有名---の路線の推理作家ということになるんでせうけど。
 要するに、ひとことでいっちゃうと、清張センセの世界は、重いんです---重くて、うっとうしい。
 出てくるひと出てくるひと、すべからく悪人ばっかだし、野心家揃いだから、裏切り、汚職は日常茶飯なんですね。
 もー 完璧「性悪説」の世界。 
 とても、日常からの優雅な離脱だなんて気取っていられない。
 しかし、この清張氏の作品は、売れたんです。高度経済成長途上のニッポンで、超・バカスカ売れまくった---84年ごろには古本屋が清張作品を買ってくれませんでしたもん!---それくらい、日本国民の誰もが清張本を所有し、よく読んでいたのです。
 その彼の代表作というと、なんでせうね?
 「ゼロの焦点」、あるいは「砂の器」、さらには穴狙いで「わるいやつら」とか…。
 貴方はなにを選びたいですか?
 僕? 僕はねえ、圧倒的に初期の傑作「点と線」---これ以外にないですね。
 ここに出てくる東京駅での証人目撃のトリックときたら!---もう、天才的な冴えというしかないですよ。
 これ、推理小説史上に残る、素晴らしいトリックだと思います。
 これの読後、僕、時刻表を買いに近所の本屋に走りましたもん。
 あと、僕はね、この作品ではじめて官僚というモノに触れたの。
 それまでは、その存在すら知らなかった。(イーダちゃんは、中一のとき、この作品を読みました)
 その面白さに歓喜して、ほかの清張作品もあれこれ読み漁ったんですけど、「ゼロの焦点」も「砂の器」も僕的にはどうもダメでしたねえ。
 「点と線」クラスの感動は、ほかの作品からは、結局いちども得ることができませんでした。
 ええ、「ゼロの焦点」は情事臭が濃すぎるし、「砂の器」は、犯人幼少時の放浪の書き方が不十分なのでは、という印象がいまだに強く残ってますね。
 自分的には、それだけ「点と線」という作品が、バランス感覚に優れていたせいじゃないか、と思っています。
 その秀いでた光が、逆にほかの作品のアラの部分を照らして、結果、よく見えないようにしちゃってるのかなって。
 うん、この「点と線]はそれくらい非凡なんですわ---アンチ天才主義で貫かれた、リアリズム重視の推理ドラマであり、作者の筆も日常のラインを踏みこえて抽象的な推理世界に踏み入るようなことはいちどもないのですが、物語全体の外貌は、まれに見るほどの完成度に達しているのです。
 天才探偵も超絶推理もまったく物語表面には出てこないけど、作品自体の総完成度が天才的なんだ、とでもいっておきませうか。
 むろん必読---こちら、イーダちゃんお薦め図書のひとつでありまする。


         ◆NO.5作品:「カイジ・人喰いパチンコ」(福本伸行)

 あのー NO.5の作品、本格の「トレント最後の事件」にしようか、ドラマ・刑事コロンボの「二枚のドガの絵」にしようか、それとも、この福本氏の国民的漫画「カイジ」にしようか、と、さんざん迷ったのですが、迷ったすえ、こっちの「カイジ」のほうに軍配をあげることにいたしました。
 知らないひとのとめに申しそえておくと、この「カイジ」っていうのは漫画なんですね。
 青年向けの、いわゆる賭博漫画。
 大衆向けの定食屋にいくと、よくTVの下の雑誌ラックあたりに、成人向けの麻雀漫画雑誌とかが置かれていることが多いじゃないですか。
 漫画最前線の少年漫画とくらべると、絵も物語も洗練されていず、大抵の場合は下手糞なマイナー路線のB級漫画なんですが、そのような路線の雑誌を好む読者の層も、これは確実にいるのです。
 で、そちらの土壌で長いこと仕事してられたこの福本先生が、はじめて麻雀専門誌以外の一般青年誌に連載しはじめた漫画が、この「カイジ」だったのです。
 これ、編集の英断だったと思います---つくづくね---反対意見もそーとーあったことでせう。
 しかし、結果は大正解。大当たりでした。
 ギャンブルが心底嫌いな男なんてまずいませんからね。
 まして、この「カイジ」は、エンターテイナメントとしても非常に優れていました。
 まず物語の根底になるのは、いつの場合も、この漫画の主人公カイジの、絶望的な借金なんです。
 ええ、この物語は、必ず借金からはじまるのです。
 返すあてのない絶望的な借金---それによる困窮と無為の日々---そんなカイジのもとに、ある日、闇金の業者からの仲介で、一晩エスポワールという名のギャンブル船に乗ってみないか、という提案がとどけられるんです。
 うまくすれば、お前の借金は、一晩でチャラになる。
 ただし、もしその船上ギャンブルで負けたなら、処遇がどうなるかは分からない。
 その場合、人間としての権利もすべて剥奪された、奴隷的環境に何年も閉じこめられる、ということだけまあ明かしておこうか。
 さて、カイジ君、そこでだが、君はどうするかね…?

 薄っ気味わるい提案ですよね?
 でも、カイジはこの提案を受け入れ、明日の生命すら確実じゃない、誰も聴いたことのない、ギャンブルの大海にひとり漕ぎだしていくのです…。 

 で、その「カイジ」ものはいくつかのシリーズになっていて、「限定ジャンケン」編だとか「地獄チンチロ」編とか、カイジが体験したギャンブルによって多くの部門に分けられているんですけど、ここで僕が推薦したく思っているのは、裏カジノの「人喰いパチンコ」編という部門なんですわ。
 えー、ギャンブルの負けから夥しい借金をこさえたカイジは、闇金の大手企業、帝愛グループが闇経営するところの地下の強制労働施設で日々働かされているんです。
 カイジの借金は960万---この金額の借金だと、地下施設での労働期間はざっと15年になるわけ。
 陽の光の届かない暗い地下現場での、15年の絶望的な奴隷生活…。
 ただ、この地下労働施設のギャンブル・チンチロで勝った金で、カイジは特別に地上に20日だけ戻れる、いわゆる外出権をたまたま買うことができたんですよね。
 地上にいれるその期間中に、地下で勝った資金を元手になんらかのギャンブルで大勝すれば、地下で稼ぐぶんの借金分の金をすべて支払って、地下の労働奴隷という境遇からひょっとしてオサラバできるかもしれない---というのがカイジの夢であり、目論見です。
 そして、地上の、勝算の見えそうな裏カジノをあちこち下見したカイジが、これはいけるかもしれないと考えたのが、とある裏カジノで見つけた、一発4000円の裏パチンコ台の帝王「人喰い沼」だったんですよ。
 この「人喰い沼」ってのはね、一発台なんです。
 めったに当たらないけど、当たったならば、出玉はまず7億は下らないという特殊台!(うわー、凄い話だなー)
 これを攻略しようとして、このカイジが使う手段がちょっと凄いんです。
 カジノの上の階の喚起口から電磁石を垂らして、釘調整のゲージ棒を吊りあげ、ゲージ棒の頭を実際より大きいものにすりかえてみたり、仲間の板崎という親父と芝居を打って、玉のブロックを行う遠隔操作の羽根の部分を打ち壊し---もっとも、この時点でカイジらは闇カジノの人間に手痛いリンチを喰らうのですが---その羽根部分を自分たちの用意したものにすりかえてみたり…。
 ま、これらは、僕等でも結構思いつけそうな小技系なんですが、僕がいちばんびっくりしたのは、この難攻不落の「人喰い沼」を攻略するために、カイジが取ったある裏技だったのです。
 それは、パチンコ台の傾斜の角度を変えるために、カジノのあるビル全体を傾けてしまう、という戦略でした。
 これには、マジ、驚かされました。 
 また、それをするにあたっては、そのビルがもともと地盤沈下の激しい土地柄に建てられたビルであって、いま現在修復工事が行われているんだ、とかいう伏線情報に助けられた面もそうとうあるんですが、実際にビルを傾けるためにカイジが取った手段というのは---物語読みのための障害となりそうなので、その手口をここで公開することはちょっとできかねるのですが---これは、冴えてるーっ、たしかに天才的だと呻らざるを得ないものがありました…。 
 うん、いま思いかえしても、これは、秀逸、頭抜けたアイデアだと思いますね。
 なんのこっちゃ分からんよ、とおっしゃる方が大半なんでせうが、この「カイジ」のパチンコ編は、ホント、いいですよ。よく書けてる。
 一般的にいう推理小説のイメージとはかけはなれているかもしれないけど、ある目的の実現のために奇想天外の奇手を凝らす、というその精神の中核において、この「カイジ・人喰いパチンコ編」というのは、過去から連綿と受け継がれてきている、推理小説の正当な伝統を紡いでいるものと考え、あえてここに選出させてもらった次第です---。

 前編はこれにてfinね。 でも、後編を書くかどうかはまだ未定であります---(^.^;>