9月の某日、金沢の旧友を訪ねた帰りの道のりに、比叡山の「延暦寺」に寄ってきました。
自分的には、間近に控えた高裁での<不正選挙裁判>本番にむけてのゲンかつぎ的意味あいも兼ねた訪問のつもりだったんですが、実際にいって、延暦寺境内の空気にふれていたら、そんなセコイ臆病でビビリンな気持ちはきれいに飛んじゃってたな。
比叡山は、とっても素敵な場所でした。
とりわけ、比叡山の山頂から見下ろせる近江の町の空気感が、たまんない。
比叡山自体の標高がもうちょっと高ければ、この種の絶頂感って下界を見下す傲慢感と重なっちゃう、と思うんですよ。
でも、比叡山にかぎってはそうじゃない。
その種の傲慢感に高さが届きそうになる一歩手前で、実に謙虚でバランシーな均衡をぎりぎり保ってる。
人間の心の弱さをじゅうぶんに知り、その弱さが思いあがりに結びつく危機性もあらかじめ自戒した上で、あえてこの土地を寺院の建設地としてセレクトしたというこの中世の深い「知恵」は、僕は、現代の「科学的認識」なんてものより数段レベルが上なんじゃないか、と思います。
だって、境内のどこを歩いてても、超・気持ちいいんだもん。
気持ちいいというか、うん、身体全体で感じる空気感が、ここ、いちいち「清い」んですよ。
何気にあくびして身体をぐいと伸ばしただけで、それまでごりごりだった背筋がすうっと涼しくなったり---。
あるいは、残暑の暑さにめげかけて、路肩に腰を降ろし、手にしたハンケチを汗を拭いながら、ふっと杉木立の頂きのほうに視線を飛ばしたら、あれ、俺、ずっとむかしにここでおなじようなことをやらなかったけ? みたいなふしぎなデジャヴ感に見舞われたり---。
下界暮らし仕様に閉じていた自分内のあらゆる感覚が、一歩ごとに「めくれていく」感触っていったほうが近いかな?
ほら、霊感のあるひととしじゅう一緒にいると、そのひとにあわせて自分の感覚が「めくれていく」ってよくいうじゃないですか。
あれと同様の、ふしぎと心地よくて、でも、ちょっとばかり怖くもある、一種独特の解放感を、僕は、比叡にいるあいだじゅうずーっと感じておりました。
まえにも一度、クルマで訪ねたことはあったんですけど、今回は僕、金沢帰りだったから電車でいったんですよ。
琵琶湖近郊のおごと温泉駅---ここの温泉入ったんですけど、残念ながら塩素湯だったんで、あいにく紹介はできません!(xox)---からバスに乗り、それから、特別な登山電車に乗りかえて、延暦寺までごとごといくわけです。
で、そのケーブルカー(?)のとちゅうでびっくりしたのが、このケーブルカーの途中駅に、紀貫之のお墓なんてのがあるんです。
紀貫之といえば、徒然の本家のお方じゃないですか。
熊野古道を巡礼したときもいちばんびっくりしたのが、関西という地ならではの、こういった濃ゆい歴史性---。
歴史上の有名人がゴロゴロと、そこいらの道筋に登場するんですから。
遠い東(あずま)の地出身の僕なんかは、それだけの事実でなんだか気圧されてしまう。
うーむ、さっすが千年以上都のあった土地柄だわい、と唸らされるとでもいいますか。
ケーブルカーの本数が少なかったので、今回は紀貫之のお墓訪問は遠慮させてもらったのですが、今度きたときは訪ねてみたいなあ、と思いました。
あ。あと、いちばんびっくりしたのは、このケーブルカーの路線のとちゅうに、膨大な数の無縁佛を供養した洞窟があるってことを知ったときでした。
これ、僕は、ケーブルカー内のアナウンスではじめて知ったんです。
比叡山「延暦寺」は、もともと天台宗の総本家として有名なとこですが、それ以外にもうひとつ、あの信長の焼き打ちにあって、3000人以上の犠牲者を出したお寺としても有名です。
そして、近代に入って、この「延暦寺」を観光地として、下界の庶民たちにもきやすくできるようにと作られたこのケーブルカーの工事の際、こちらの山の土から、誰のものとも分からない、それこそ無数の古ーい無縁さんがごろごろと掘りだされた---と、こちらのケーブルカーのスピーカーは何気におっしゃるわけ。
それ聴いて、僕は、かなりびっくりしました。
----うわーっ、いまだに…? マジかよー、信長ーッ…!
でも、ケーブルカーの速度はかなり早く、行きのときはその洞窟の写真撮りそこねちゃったんで、帰りにもういちどトライして撮ったのがこの写真です---はい。
ただ、こちらの地にケーブルカーの最寄り駅はまったくなく、従って一般公開されているわけではないようです。
実際、かなりの急斜面にこの洞窟はありますので、登山の用意とかしてこないと、こちらへは辿りつけないように思います---ここに至る路なんかも、そういえばなさげな感じでありました。
で、この洞窟を通りすぎながら携帯のカメラのシャッターを押した瞬間---
どういうわけか背中にざわーって鳥肌が立ったの。
殺気、のようなモノが、ケーブルカーで逃げる僕の背をさくっと刺してきたのです。
無念の情の塊、みたいなものといったほうがいいのかな?
とにかくその尋常じゃない濃い情念のうねうねした蠕動のなかに、自分ごと取りこまれたようなヤバイ感触があったんですよ。
----エッ? と思った。
でも、あえて振りかえって見るのは、なんか怖いわけ。
いいようのない見えないプレッシャーがぐいぐい募ってくる感じなんです。
で、躊躇してるうち、ケーブルカーは下界の駅に着いっちゃったって顛末なんですけど…。
なんだったんだろうね、アレは?
ケーブルカーから降りたら、Tシャツの両脇が汗でぐっしょり濡れてました。
こんなことって、あんまりないんですよ---僕は、はっきりいって「霊界は実在する!」説をゴリ押しするタイプのニンゲンじゃないんですが、このときばかりは「霊界からの語りかけ」を肯定する気になりました。
だって、マジ、コワかったんだもん---降りてからも首筋がずもーって不自然に重かったしね…。
ただ、山頂の延暦寺の境内の空気は、そんな血みどろの歴史がすぐ下の山麓でくりひろげられたなんかぜんぜん知らないかのように、見事に「凪いで」いましたねえ。
東院の外れのほうを歩いていても、根本中堂のあたりをウロついてても、一種ふしぎなその充実感はいつも僕の近辺にありました。
静謐。そして、厳かな神秘感---。
足をとめて深呼吸するたび、僕は、自分の体内に明るいエネルギーがチャージされていく感触を感じてました。
こういう形容って、たぶん「非科学的」なんでせうねえ。
でも、このリアルな感じだけは、どうにも否定できません。
比叡山にいるあいだ、僕は、ニンゲンとして、あるいは一生物として、かなり幸せだったんじゃないか、と思います。
延暦寺のメインには、あの有名な根本中堂があります。
ここには、あの最澄法師が灯して以来1200年間、一度も消されたことのない「不滅の法灯」というのが灯りつづけています。
最澄自身が掘ったという貴重な仏像もここにある。
こちら、撮影は禁じられているんですが、あまりにもこの根本中堂にたゆたっている「空気感」が素晴らしかったので、入口部分だけ携帯のシャッターをこっそり押させていただきました。
記事冒頭部のフォトとこれがそうですね----
いかが?---ちょっといいっしょ、これ?
このフォトを撮ったとき、イーダちゃんは、ここの廊下にごろりとなって、発作的に昼寝を打ちたい誘惑を強烈に感じたことを、いまここに告白しておきます。
うん、いま見ても、これ、涎モンの写真だよ。
ここにごろりとなって、床に頬を滑らせながら連続寝返りをしたら、どんなに気持ちいいだろう?
敬虔な比叡山信者さんにこんなこといったら怒られるかもね。
でも、この日このとき、僕が比叡山をそう感知したというのは、まぎれもない事実。
いとおかし---とにもかくにも比叡山「延暦寺」というのは、僕にとってそのような立ち位置を意識させる、なんともふしぎなパワーウポットなのでありました…。(^.^;>