イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その103☆暗渠探訪2--失われた<渋谷川>を求めて:玉川上水遡行篇☆

2012-04-18 20:18:09 | ☆パワースポット探訪☆
                               


 さて、失われた<渋谷川>の流れをゆるゆると遡って、東急渋谷駅から宮下公園、原宿キャットストリートから千駄ヶ谷あたりまで徒歩でやってきたイーダちゃんが、最終的にたどりついた場所はこちらでした---新宿区の内藤町---ええ、あの「新宿御苑」さんのお膝元の町並です。
 幻の川を追っているうちに、JR中央線の「千駄ヶ谷」駅の近くまで、いつのまにか歩いてきちゃってたんですね。うーむ、びっくり。
 ちなににJR「千駄ヶ谷」の正確な語源は、「千駄萱」になります。
 かつてのこの場所は、ええ、見渡すかぎりの萱(かや)が鬱蒼と生い茂った、それはもう見事な田園地帯だったのだとか。
 都会的に洗練されたいまからじゃ想像もつきませんが、かつての千駄萱は、まちがいなくそのようなうらぶれた場所だったのです。
 暗渠化された渋谷川は、原宿からここ、千駄ヶ谷の国立競技場のすぐ西脇をかすめるようにして、JR線路の北側の新宿区までずーっとつづいてきていたのでありました。
 新宿区には、あの巨大な「新宿御苑」がありまする。
 そして、どうやら、この「新宿御苑」さんが、暗渠化された渋谷川の大元の水源のようでした。
 いや、このいい方はいささか不正確かも---いいなおしませうか。
 渋谷川の大元の水源は、なるほど、たしかに新宿御苑内の「玉藻池」や「上の池」、「中の池」であることにまちがいはありません。
 これらの「池々」から流れてくる清水が、玉川上水の水路を通り、その流れがやがて原宿キャットストリートの隠田辺りを抜けて渋谷に至り、今度はそこに明治神宮から流れてきた宇田川(注:宇田川は渋谷区宇田川町の名の由来となった川です)と河骨川(注:この川は、童謡「春の小川」のモデルとなった川です)が合流し、渋谷駅の稲荷橋のあたりからようやく地下から姿を現したこの川は、新たな太い流れとなって明治通りと平行してしばらく流れ、やがて「古川」と名を変えていくのです…。
 ええ、それが「渋谷川」という川の生涯の、ごく大まかなクロッキー。
 見える川の流れを遡るのはそれほどロマンチックじゃありませんが、目に見えない、文明開花のために地下に封印された、幻の「渋谷川」を求めて歩くこの旅は、僕的にはもの凄く「ツボ」でした。
 歩きながら、地下からふいに湧きだしてくる「過去」からの玄妙オーラに包まれて、イーダちゃんは何度恍惚としたことか。
 十回じゃ、とてもきかなかったでせうね。
 原宿のキャットストリートを歩いているときもそうでしたが、イーダちゃんがいよいよ本格的にソレにあてられてきたのは、外延西通りを北上して、千駄ヶ谷のJR線の線路を越えたあたりからでした。
 ここには、かつての川の「生」の気配が、ほかの場所より一層濃く刻まれていたのです。
 たとえばこの公園を、ちょい御覧になってくださいな---


          

 こちら「大番児童遊園」という名の、窪地にある、JR脇の、ちっちゃな、細っちい公園なんですけど。
 これは、あくまで臨時で撮った携帯写真にすぎないんだけど、それでも、この写真の公園内に漂っている、一種独特な淋しさの気配は、誰にでも感知可能だと思います。
 如何です---この2枚のフォトにしんと漂っている、いくらか廃墟チックな、夕暮れっぽい、ふしぎな淋しさは?
 特に、右写真の「ぞーさん」遊具の、哀感漂った佇まいをご賞味あれ。
 「児童遊園」と名付けられてはいますが、むろんのこと、こんな場所で遊んでいる子供なんてひとりもいやしません。
 僕がここを訪れたときには、このブランコ脇の固定のベンチで、ホームレスの方が荷物の整理をしてられました。
 それを見て、うん、と僕は思わずうなずいたものでした。

----そうだ、ホームレスさん、あんたは正しい。ここに似合うのは、たしかに子供よりあんたみたいなホームレスだよ、美学的な視点からいうならね…。

 この公園が細長いのは、むろんのこと、ここの土地の地下を暗渠化された「渋谷川」が流れているせいです。
 暗渠の跡地は、渋谷の宮下公園といい、原宿キャットストリートのジャングルジム公園といい、公園となるケースがどうも多いようです。暗渠は、法律的には「国有地」だそうですから。 
 しかし、イーダちゃんにとっての真の恍惚が待ちうけていたのは、この先の道すじだったのでありました。
 外苑西通りを遡行して、新宿御苑寄りに内藤町の路地を東側へすーっと入りこんだところ、
 入り組んだ路地をくねくねと果てまで行き、アパートの敷地を何気に踏みこんで、超・古い石段を幾段か下ったところ---
 そこには、かつての玉川上水の流れの跡が、そのままの状態でいまも残されていたのです…。


           


 はじめてこの故・玉川上水の流れの跡地に足を踏みいれたとき、僕あ、息がとまるかと思ったな。
 だって、僕が当ページ冒頭に挙げたトップ写真、それに、たったいまUPしたばかりの3枚の写真を、よーく御覧になってくださいよ。
 どーです---これら写真内に封印された、この清浄でうららかなオーラに満ちた空気は?
 ここ、玉川上水の跡地は、ちょうどスミレの花盛りでした。
 その鮮やかな青がちらちらと目に染みます---なによ、これ? あの「赤毛のアン」の物語に出てきた「スミレの谷」みたいじゃないの!---右手の新宿御苑の外柵を意識しつつ、一歩一歩歩みを新たにするごとに、足裏には生い茂った雑草の柔らかな感触が伝わってきます。
 一歩ごとに、春の息吹きを深々と深呼吸して---嗚呼、なんちゅー贅沢でせう---イーダちゃんはパラダイスでしたねえ。


               
      左上:新宿御苑「大木戸門」寄り部分。上水跡を追えるのはここまで。 中:外苑西通りから眺めた上水跡。 右上:外苑西通り下で河川行止り。

 あとね、この河川跡、距離的に結構つづいてたんですよ。
 そう、ゆるゆると数百メートルくらいつづいていたんじゃないのかな?
 どこか遠くの梢で、チチチチって鳥が鳴いてます。
 小刻みにゆれ動く葉影がかつての河川底の水藻のようにゆ~らゆら、そして、陽光はあくまでもさらさらとしてて---。
 この小散歩、ときどき、足元にでっかい松ぼっくりが落ちてたり、栗が落ちてたりするんです。
 げっ、マジ? ここ、ほんとに新宿区? と歩きながら幾度も疑問が兆したりして。
 もう、僕的には、ここ、ほとんど恍惚路でしたね---ロストリバー・ウォーキン・ウィズ・エクスタシーってか? 文法的にこれが合ってるかどうかは保証の限りじゃありませんが、心理的には、僕はまったくそうした状態だったのです。
 ええ、この小散歩のあいだ、イーダちゃんの時計は、完璧とまっていたのでありました…。


                         ×             ×

 その後、イーダちゃんは、この「過去」の跡地からしぶしぶ上がり、一般のひとがそうするように、大木戸門から200円の入場料を払って、新宿御苑内に入場しました。  
 最後に、「渋谷川」の水源たる新宿御苑の「玉藻池」のフォトを、ここにUPしておきませうか。
 

       

 左上のフォトが新宿御苑の「玉藻池」、右手の地下に注ぐ水路が、渋谷川暗渠の開始たる地点です。
 もっとも、御苑のほかの池「下の池」、「上の池」などからも、渋谷川(玉川上水)に注ぐ流れは設けられているようでした。
 春先の新宿御苑は、とってもうららかで暖かかったです。
 桜が綺麗でした。
 お客もちょっと多かったかな。
 「玉藻池」のほとりにある大木戸休憩所では、ベンチのところで碁を打ってるひとなんかもいたな。
 地上はいつも通り、すべて世はこともなしって感じです。
 もっとも、僕的にベストだったのは、あくまで故・玉川上水跡の流れを追ってタイムトラベルしている時間帯だったんですけど。
 ええ、多くのひとが行き来する地上にはあんま戻ってきたくなかったんだがなあ、というのが率直な本音です。
 でも、まあ、御苑の花盛りの桜たちはイーダちゃんのそんなひねくれ心理を知ってか知らずか、美しい無数の花びらを惜しげもなく空いっぱいに豪奢にふり撒いて、この世の春を思いきり満喫しながら、季節の讃歌をいつまでも朗々と歌いつづけているのでありました---。 
                                                                               ----fin.



徒然その102☆暗渠探訪--失われた<渋谷川>を求めて!☆

2012-04-02 17:37:53 | ☆パワースポット探訪☆

                        

 あのー 渋谷のあのセンター街の真下の地下を、川が流れてるって、あなた、知ってましたか? 
 僕あ、ぜんぜん知らんかった。
 今月、朝日新聞出版の「HONKOWA」という怪奇漫画雑誌ではじめてその事実を知って、正直仰天しました。 
 うん、2012年の5月号、小林薫さんの「影御前-失われた川-」という漫画です。
 人工的な工事で地下に埋めたてられた川のことを、専門的に「暗渠-あんきょ-」と呼ぶそうです。
 暗渠になった契機は、1964年に開催された「東京オリンピック」にあるようです。
 当時、水量の減っていた渋谷川、宇田川、河骨川(こうほねがわ)は、高度経済成長時代の煽りをうけて、ときどき汚水臭を放つようになっておりまして、たまたまオリンピック選手の集まる選手村がその近くに開設されることになったとき、国の威信と面子を考えた東京都が慌てること慌てまいこと---この川の匂いの対処にアタマを抱え、まっ青になって、もっとも短期間に「臭いモノに蓋」ができる手段としての埋めたて工事でもって、生きた川を生活用水の下水とともに、あっというまに地面の底に封印してしまった、というのがどうやらコトの真相のようです。
 恥ずかしながら、僕はこの事実を微塵も知らんかった。
 だけど、知ってしまうと、もう震えましたねえ…。
 だって、あの若者の街、都内のドまんなかの渋谷の地に、何本もの川が埋めたてられている、そして、彼等は、誰にも見られない暗いコンクリートの底で、いまもひっそりとか細い流れを紡ぎつづけている---なんて、なんだかロマンチックじゃないですか。
 ニンゲン、あいかわらず思いあがった困ったちゃんですねえ。オリンピック当時もいまも変わらず、油ギッシュに傲慢で。
 そして、渋谷川、なんの咎もないのに人間側の勝手な都合で、大事な光と風と自由とを奪われて、暗闇のなかになかば暴力的に封印されちゃって、なんだか哀れで気の毒です…。
 そう思うと、なんか、いても立ってもいられなくなってきて---いま、生活的にはちょっと忙しいんですが、なんとか半日あまり時間をやりくりして、渋谷の街までちょっちスピード調査にいってきました。
 以下はそのレポートであります---いざ!


                           *              *

 んじゃあ、まずは渋谷暗渠の地図提示といきますか。
 これが、東京オリンピック開催のために埋めたてられた、渋谷の三本の河川です。


                      

 ちなみに渋谷より原宿にむかって、東北にのびている紫の長いくさびが「渋谷川」、西北にのびている赤いくさびは「宇田川」---宇田川町の語源にもなっている川ですね、センター街の地下を流れているのは、こいつです---さらに、神宮あたりから千駄ヶ谷方面へ、やはり北西に枝葉をのばしている支流が「河骨川(こうほねがわ)」です。
 もっとも、現在はみんな「暗渠」になっちゃってるんですけど…。
 僕が今回のスタート地点に定めたのは、渋谷駅の「暗渠」入口からになります。
 この記事冒頭にUPした写真がそれですね。
 ちょっと御覧になってみてください---これ、渋谷駅南側の「稲荷橋」から恵比寿方面、すなわち川の下流のほうにむけて「渋谷川」を捕えた写真なんですけど、ねえ、なんかすっかり下水化しちゃって、か細い流れで---なんとなくドブ川みたいでせう?
 川に誇りがないでせう? 生き生きしてない。すっかりみじめにショボくれちゃってる。
 これが都市化の功罪なんですね、本来の「渋谷川」はそんな姿じゃなかった。
 それの誰の目にも見える証拠案件として、昭和26年の、まだまだ元気だったころのピチピチな「渋谷川」の写真をここにUPしておきませう。


                     

 これ、東急の百貨店の屋上から、東北側、原宿方面にむけて撮られた写真です。
 右手に見えるのが、オーラ凛凛の「渋谷川」---まんなかの土手は、なんとあの「宮下公園」なんですって。
 そう、暗渠にされた地下の「渋谷川」は、渋谷駅、渋谷駅前東急の地下を経由して、宮下公園の下を脈々と流れていたのです。
 それの証拠がこのフォト2枚、雑な写真ですが、まあ御覧になってください。

  
          

 左写真の左手に見えている、やや高の柵に囲まれた場所が、現在の「宮下公園」---そして、右手駐輪所の細長いラインの下を、暗渠としての「渋谷川」がいまも流れてるってわけ。
 右の写真が、それの証明の立札ね。
 ちなみに、この立札の提示位置は、赤ジャケのお兄ちゃんの歩いてる、むかって右隣りの植木のなかでした。 
 この看板、けっこう重要度高いかと思うんで、面倒ですが文字起こししときませうか。

                                       渋谷川                           渋谷一丁目25号

 この緑道の下には、渋谷川が流れています。この川はもともと新宿御苑や明治神宮の池を水源としていましたが、玉川上水が完成してからはその余水をも流すようになりました。
 昔、上流は余水川、穏田川などとも呼ばれ、下流の天現寺橋からは古川と名を変えて、今も東京湾に注いでいます。
 清らかな水が流れていたころには、鮎や鰻がなどもとれ、また渋谷川とその支流には、いくつも水車がかかっていました。葛飾北斎の富嶽36景にある「穏田の水車」もそのひとつでした。あと灌漑用水としても利用されるなど、付近の人々の生活に深いかかわりをもっていました。
 今では、稲荷橋(JR渋谷駅の南橋)から上流は、すべて暗渠になっています。
                                                                         渋谷区教育委員会
 

 うーむ、如何です?
 なんともやりきれない、都市の発展の裏側の歴史サイドを覗き見ているような、いささか怨念チックでどこか後ろめたいような、一種複雑な読後感が胸底から湧いてきやしませんか。
 足下の川の「生」の鼓動をなるたけ感じようとゆっくりと深呼吸しつつ、この東急前から宮下公園脇の駐輪所の小路をぬけると、わりとすぐ、そのさきにある明治通りにつきあたります。 
 ここはちょいにぎやかな交通の要所、新宿につながっている太い通りです。
 この明治通りを斜めに横切っていくと、やはり東北の、原宿方面にむかっていく通称「キャットストリート」という有名なオシャレ小路があるんですけど、暗渠の「渋谷川」は、その真下をずーっと通っているの。
 ではまあ、そっちのほうへしずしずといってみませうか。


              
   上図:CS入口からまもない所にある公園のJJ。舗装がいかにも埋めたてっぽい感じ。    上図:有名なCS。右手の小路が渋谷川経路。

 平日のお昼前、人気のあまりない原宿のキャットストリートを、失われた渋谷川の面影を追いながら、ぶらぶらと遡って歩いていくのは、なんともいえないふしぎな充実感がありました。

----ほんの50年前には、このあたりは川だったんだよーッ。ねえ、君、知ってる?

 行き交う見知らぬ若者やゴスロリ少女に、闇雲に語りかけたくなる衝動に、ときおり駆られます。
 川の岸辺に優雅に佇むラルフローレン原宿店やクロックス青山店に対しても、

----ねえねえ、君等はいまそうしてずいぶんお洒落に着飾ってるけど、もとはといえばそこは河原であったわけで、してみると君等のやってる商売っていうのは、むかしながらの「河原乞食」の親類筋ってことになりはしないかい? いや、もともと若者っていうのは、貧乏役者のパワフルな芝居が根っから好きな連中だから、そういう同類の匂いを本能部分で嗅ぎつけて、あえてこの街に集まってきてるのかもしれないねえ。
 
 なんて勝手なことを思ってもみたり…。
 そぞろ歩きそぞろ歩き---歩きながら、心をもっと過去に飛ばしてみます。
 時間遡行の川下り(正確には川上りです)、暖かな春の陽射しを浴びながら。
 すると、幻想の渋谷川のヴィジョンと現実のキャットストリートとの風景が実に妙なぐあいにブレンドされて、ちょーっとふらふら気分になってきました。
 クスリ、なんてまったく使ってないんですけど、うん、これはいい気持ちです…。
 そんな感じでしばらく道沿いにぽーっと歩いていたら、キャットストリートの中間部あたりで、あんま目立たない碑にふと巡りあいました。
 道の中途に小規模なお花畑といっしょにぽつんとあるその碑、それには「穏田橋」と書かれてあり。
 見まわしてみるけど、あたりにそれっぽい橋はありませぬ。
 してみると、これは、過去にはあったけどいまはない、名前だけ残った地名としての橋でせうか。
 この碑のまえに佇み、過去から聴こえてくるものにしばし耳をすましてみました。


               
           上図:CS中途にある「穏田橋」の碑。          上図:CS入口のもうモロ川の形と分かる、中州みたいな公園地形。
 
 このキャットストリート散策、渋谷側の入口は案外人気も少なかったのですが、表参道が近づくにつれ、さすがに人がふえてまきました。
 穏田橋の碑から2分ほどいくと、その表参道にいよいよご到着。
 左手にいけばJR原宿駅と明治神宮、右にいけば青山方面へとむかうこの道は、人通りもクルマ通りもさすがにハンパない---いままでのほんわか散歩とは別世界のようなにぎやかさが急にわっとひらけます。
 じゃっかんのめまいを感じつつ、参道橋の陸橋をわたると、そのまんまえが神宮前交番です。
 その横っちょのはしのところに、あんま目立たないかたちでやっぱり看板が立っています。むかしのむかし、ちょうどこのあたりに川が流れていた歴史を現代に伝えるべく看板。お。今度のは凄いや、これ、葛飾北斎の版画入りなんです。 


             
            上図:表参道の神宮前交番。左手に看板あり。グラサン男性、渋い!    上図:その北斎入りの看板アップなり。  
  
 葛飾北斎のあまりにも有名なあの富嶽36景の1枚、その「穏田の水車」を、ここでちょいご紹介しておきませうね。
 もっとも、これ、携帯写真があまりに映りわるいんで、別口のサイトから引っぱってきたやつですが。


                      


 いまじゃ世界的に有名なこの北斎は、1760年生まれの18世紀人---うーむ、驚いた。彼は、あのモーツァルトなんかといっしょの同時代人だったんですね。
 その彼が壮年期に描いたこの風景画が、なんと、当時の江戸・原宿村近郊の風景だったのです。
 さきほど僕がフォトをUPした穏田橋の碑、ちょうどあのあたりにはこの北斎画にあるような水車がいっぱいあって、日夜、精米の仕事のためにくるくると忙しく回転していたにちがいありません。
 むろん、水車をまわすための川も健在でした。
 渋谷川も、宇田川も、河骨川も、その清らかな流れに住んでいる鮎も鰻も、虫も鳥も、みんなみんな健在でした。
 ですが、いま、彼等の姿は、どこにもありません…。
 水車も、河川も、その住人たる鮎も鰻も、彼等を住まわせていた田園の風景も、ここにはなにひとつ残っていません。
 250年後の現在、彼等のいた地を乾いたコンクリートで覆いつくしたのは、「東京」という名の、彼等のまったく預かり知らぬ、新しい形態の大都市でした。
 ここの住人は大変エネルギッシュで、よく働き、この「東京」という都市を、世界的な経済的繁栄へと導いてくれました。
 この繁栄のおこぼれをもらって、僕等、一般の庶民もまあまあ豊かになった。
 少なくとも、喰えなくて、自分らの娘を娼家に売りにだす、なんてことはやらずに済むようになった。
 3度のメシにしても、まあそれなりに喰ってはゆける。
 しかし、北斎の描いたあの版画のなかの住人たちは?
 彼等は、何処にいったのでせうか---?


                             *             *

 そんなことを考えていたら、春の陽射しのうららかな神宮交番前で、イーダちゃんは「無常」の念のあまり、しばし愕然となっちゃいました。
 なんたる膨大な喪失でせうか…。
 歴史っていうのはそもそもそうしたものなのかもしれませんが、失われたモノたちの「生」について思いを寄せるたび、胸底に兆してくるこの望郷と悔恨の調べを取りのけることがどうにもできません。
 生きのびたものが歴史を作り、過去はすべて忘れ去られていく、All Thigs must Pass、ジョージ・ハリソンもそういってたろ? それが、歴史というもの本質なのだから---という意見には僕も同調しますし、解答がそれしかないことも理屈では分かっているつもりなんだけど。
 でも、しかし---そのときの僕は、胸底からこみあげてくるきりきりした「痛み」を、どうしても制御できなかったのです。
 よろめくように歩いたキャットストリートの帰り道、渋谷側から次々と新たに流れこんでくる若者たちの群れが、僕にはいつもよりずいぶんとゆらめいた、ふしぎな光景のように見えました…。


                                 *            *

 最後にひとつ、このページは僕の独創ではありません。
 暗渠研究にはたくさんの先駆者がおり、興味深い優れた発表がさまざまなメディアでなされています。
 参考までに、僕が閲覧したいくつかの優れたHPやブログをここに書き抜いておきませう。 

  第四章・第一節/渋谷川の源流を訪ねる - 加瀬竜哉.com : no river, no life www.kasetatsuya.com/.../noriver_nolife_04_01.html

 東京暗渠 - 廃墟徒然草 -Sweet Melancholly-blog.goo.ne.jp/.../b99a6938b674031bd8dd38b3ca39da60

 <「春の小川」はなぜ消えたか 渋谷川にみる都市河川の歴史(田原光秦、之湖(コレジオ)>

 <「春の小川」の消えた街・渋谷--川が映し出す地域史-->(白根記念渋谷区郷戸博物館・文学館)明治神宮ウェブサイド

 いまになって考えてみると、僕がこんなページを編んだりしたいちばん大きな要因というのは、結局のところ「鎮魂」のためだったんだなあ、と思いあたります。
 そう、僕は、僕なりの「渋谷川へのレクイエム」というものを、このページで歌ってみたかったのです。
 「鎮魂」っていうのは、僕にとって、いつのまにかそれだけ大きなテーマとなっていたのですねえ。
 暗渠化された「渋谷川」に捧げるために、このページは編まれました。
 いってみれば「流し雛」のブログ版といったところでせうか。
 「鎮魂、そして、レクイエム」、このテーマは自分的にもとても気に入っているものなので、時間ができたら失われた「宇田川」や「河骨川」についても、いずれまた特集を組んでみたいなあ、と思っています---。(^.^;>