---僕はロックフェラーとは全く違うやり方でロックフェラーと闘いたい。自分たちのやり方とあんまり違ってるんで、
彼らがどう反撃していいか分からなくなるような、そんなやり方で…。(by John Lennon )
はじめて宮崎さんの「風の谷のナウシカ」を観たのは、たしか大学の1回生のときだったと思います。
アレを観たら誰でもそうなると思うんだけど、僕も、大きな感銘を受けました。
当時の僕はというと、若気のいたり的な高慢部分も相当あって、フェリーニやエリセ、あるいはトリフォーやノルシュタインじゃなきゃ映画じゃない、みたいに結構突っぱっていたんですけど、いやー、「ナウシカ」はきた、超・きたよー!
視終えてすぐ、胸底まで抉られたみたいなヘヴィーな感動に自分ごと打ちのめされているのを、強く実感せざるを得ませんでした。
そりゃあ、あの天才・宮崎駿の代表作ですから---今、考えると「ウルウルくる」のは、まあ当たり前っちゃあ当たり前なんですけど。
あのー あえて私見をいうなら、僕は、宮崎さんをトルストイ型の作家だと考えているんです。
いわゆる、ドストエフスキー・タイプのひとじゃまったくなくて。
うん、観念のひとじゃない、宮崎さんは、感覚肌の肉体派芸術家なんだ、と思うな。
宮崎さんの映画には、どの作品にも強烈な肉感的感触があって---たとえば「飛ぶ」ということへの凄いこだわりが、彼、あるじゃないですか?
初期作品の「カリオストロの城」では、伯爵のオートジャイロ、それから不二子の使用するハングライダー、さらにはラストシーンでのインターポールの落下傘部隊の降下---。
ナウシカにつづく3作目の「魔女の宅急便」では、そもそも最初から最後まで「飛ぶ」ことがテーマになってました。
満月の夜、はじめて魔女の修行に出かける主人公のキキが、魔法のホウキにまたがって最初に飛翔するシーンの瑞々しいことったら!(ちなみに僕は、勢いのつきすぎたキキが、樹にぶつかって跳ねるシーンが好き)
宮崎さんの作品内での「飛翔」は、ほかのSFアニメの飛行のレベルとはまったく位相がちがってるんです。
ほかのドラマでも、そりゃあ主人公は飛んでみせはしますとも。
けどね、宮崎さんの映画内で「飛ぶ」ということは、それらとは全然意味あいがちがってて、いままさに飛翔してる主人公のほほや前髪にあたる風の筋が、そして、その速度が、映画を観てる僕等の目にも実際にはっきりと「視える」わけ。
視えるどころか、その風の冷たさはおろか、その夜の空の空気の湿り気さえ感じとれそうな気がするの。
いってみればミラクルですよね---奇跡の体現。
宮崎さんの映画でひとが飛べば、僕等はなぜだか無条件にその「飛翔」を体験し、また信じてしまう。
「飛ぶ」という行為への憧れ、そこに内蔵されたファンタジーとリアリズムの総量において、宮崎さんは、空前の巨匠(マエストロ)でせう。
誰ひとりかなわない---あのライト兄弟でも分がわるい---彼とタメを張れる人物はというと、恐らく、無声映画時代の全盛期のチャップリンくらいしかいないんじゃないかなあ?
これほどの力業を見せてくれるひとは、これまで誰もいませんでした。
これほどのひとが、これからもそうそうでてくるとは思えない。
主人公の飛翔とともに背景も動くから、論理的に飛んでることが理解できるとか、そんなお約束済みのありきたり経路で「飛翔」という行為を納得させてくれるんじゃないんです。
「宅急便」のキキがすわっと飛べば、
あるいは、
自分のまわした大独楽のうえに立った「トトロ」の胸に五月とメイが「きゃーっ!」とむしゃぶりつけば、
その瞬間、僕等は映画のなかの主人公同様自分のほほと首筋とに風を感じ、じゃっかんの目眩とめくるめくドキドキののち、そこに空前の「飛翔」が実現しているのを、まざまざとリアルに視るのです---。
----うわー、樹がもうあんな遠く…! ねえ、メイ…あたしたち、飛んでる…!
もー これは超感覚のサーカスといってしまってもいい、と思う。
むかし、トーキーは、サーカスで上映されていた歴史があるんですよ。
いってみれば、宮崎さんは、そのような映画人としてのもっとも古い血を引いている方なのかもしれません…。
× × ×
で、そのような宝石尽くしの宮崎作品のなかで、僕がやっぱり最高傑作じゃないかと推したいのが、この初期の「風の谷のナウシカ」なんですよ。
個人的には「カリオストロの城」「となりのトトロ」なんかもとっても好きなんですけど、宮崎駿内のカオスが宮崎さんの理性とほどよい釣り合いを保ったまま屹立してるのは、僕は、この時期のこの作品しかないと思うんだよなあ。
徒然その49、50☆ルイス・キャロルのいる風景☆でもこれは書いたんですが、僕は、宮崎さんも「不思議の国のアリス」の作者であるルイス・キャロル同様、非常に強い「魔」を内心に抱えた作家なんじゃないか、と読んでるの。
最初は、宮崎さんもいまほどのビッグネームじゃなかったから、予算やスポンサーの都合を計算しながら、自分のなかの「魔」を抑制しつつ、世間の思惑もじゅうぶん計上したうえで、あえて作品を練っているっていうのが、なんか手に取るように分かるんですよ。
その内心の飢えた「魔」をなんとか飼い慣らしつつ、完璧なバランスをもった娯楽アクションとして結実した最初の作品が、あの「カリオストロの城」っていうノーブル極まりない逸品だったわけ。
ところがね、「ナウシカ」の仕事を境に、宮崎作品での「魔」と「生」との均衡が、微妙に、かつ危うい方向に傾ぎ、崩れはじめるの。
僕がそれいちばん感じたのは、やっぱ「もののけ姫」だったな。
あれ、最後にはダイダラボッチが花咲かじじいだってことになって、ああよかったってハッピーエンドになんとかもつれこんでいくんだけど、あれ観てアナタ、心の底から「よかったなあ」と思えました?
僕あ、思えなかった。
あれは「生」が「魔」に勝利できた作品じゃないですよ。
むしろ、その逆---宮崎さんの内部に巣食っていた膨大な「魔」が、宮崎さんの抑制を破って、いよいよ表に漏れだしてきた作品だと僕は解釈してます。
だって、後味わるいんだモン。
どう贔屓目に見ても、庶民を戦乱に巻きこんでいく必然の歯車のほうが、庶民らの「生」よりも強くリアルに描かれているし。
それに、いろいろなものをつめこみすぎて、見てるほうが結果的にくたびれちゃうって要素も、あの映画のなかにはたしかにある。
でも、観客の心にいくらかの翳りを吹きこんでくる主原因は、恐らくそれじゃない。
古武道的な視点からいわせてもらうなら、あれは、宮崎さん個人の「迷い」のデッサンなんじゃないのかな…。
うん、その「迷い」が、僕等のなかで生じかけた感動を、あえて先回りして摘んじゃってるような気もします。
「ナウシカ」のなかであんなにも豊穣かつ親密に描かれていた、宮崎さんの「生」への讃歌が、ここでは相当数目減りして、なんだかうつむきがちに、ひとことでいってくたびれ果てているように見えるわけ。
これは、衰弱、もしくは退廃っていっちゃってもいいのかもしれない。
宮崎さんが「カリオストロ」や「ナウシカ」で見せたような「生」への純粋な信仰が、なんとも歯切れのわるい、暗い疑いに染められはじめているんです。
ま、広義の意味でいったら、宮崎さんも抒情派作家群に分類できるタイプのひとだから、抒情派作家の宿痾、いわゆる「若いうちが華なのよ」といった宿命的な業をあらかじめ内包してることは、そりゃあまあ理解できますけど。
そういえば、あの抒情の天才・川端康成にしてもノーベル賞受賞作の「雪国」をピークにして、戦後は、見るに耐えない退廃の坂道を転げおちていったことは、衆目の知るところです。
それに、僕の大好きな現代マンガ家の安達哲さんにしても、やっぱり初期作品の「キラキラ!」を超える作品は、いまだ出版されていらっしゃらないし---
さらにさらに、あの大天才フランツ・シューベルトだって、歌曲「美しき水車小屋の乙女」のあと、急速に無明の闇のなかへ失速していきました。
そんでもって、最後の白鳥の歌が、あのまっくろけの絶望づくしの「冬の旅」なんて。
ダメだってば---そんな陰気な幕引きは絶対よくないよー!
ええ、抒情派の作家さんってね、人生の青春期のピークのあと、なぜだか必ず堕ちるんです。
それが、抒情派の宿命---もしくはカルマ。
宿命ならば、仕方ない---でも、「千と千尋」は、僕、観れなかったな。
あれは、宮崎さんが内心の抑制装置をあえて解除して、自らの「魔」の勢いにすべてを委ねちゃった作品ですよ。
天才ならでのはデッサンがそこかしこに溢れ、その幻想的な画面はどこをとってもシャガール級の美しさを宿してはいるんですが、あれはやっぱり退廃の路への下り坂じゃないか、と僕はつい感じちゃう。
だから、川の精だというニニギのなんとかっていうボブのあんちゃんにしても、それから、千尋という少女のキャラの設定にしても、イマイチ人間としての彫刻に乏しく、感情移入がしにくいんです。
千尋がブタに変えられた両親を人間にもどせても、「へえ、そうなの。それで?」といった醒めた気持ちからどうにも自分を切り離せない。
そりゃあ、宮崎さんの天才の魔手にはいつもながら魅了されるんですよ---けれども、それがどうしても感動に結びつかないの。
だいたい、あれは、そもそもがハッピーエンドで終えれる類いの作品じゃないよ。
夢オチにしてちょちょいと片付けるには、悪夢のほうのリアルティーがあんまりありすぎる。
へたしたらこっちの現実世界よりリアルティーありそうなんだもの---四面四角のハッピーエンドの小箱のなかに、これを全部最後に押しこめちゃえばって発想自体にむりがあるんだって。
宮崎さんは、この陥穽に気づいていたと思いますよ。
でも、自分じゃどうにもならなくて、あえて自分内の「魔」の氾濫に委ねるしかなかったんでせう。
そのような作品内のどことなくヤケッパチな気配も、僕の嫌悪感を誘う要因のひとつです。
うん、後期の宮崎駿は、僕は好きじゃない---これは、はっきりといいきれますね---。
× × ×
でも、「風の谷のナウシカ」には、そのような不安の要素は見られません。
ナウシカの挙動も、感興も、時とともにうつろっていくどんな表情も、そのひとつひとつが深い意味と確信とに裏打ちされ、この上もなくキラキラとよく生きている---。
宮崎さんの若さが、その若さの実りである純粋さが、あらゆる場面に結晶化して、恐らく宮崎さんの計算をもこえた、信じがたいくらいに瑞々しくて繊細な隈取りを作品全体に与えているの。
宮崎さん自身は内面のカオスをもっと吐露したかったんだろうな、と何気に思います。
実際、ご本人はこの作品の出来に不満をもってらして、もっと書きこみたかったんだけど、時間枠の都合上削らなくちゃいけない部分が多すぎて、結果的にただの神話になっちゃった、なんていってられるのを、なんかの紙面で見かけた記憶があります。
でもね、この作品にかぎっていえば、その偶然が与えた制限って、むしろ作品構成のうえで「吉」のほうに働いたんじゃないのかな。
結果、「風の谷のナウシカ」は、完璧な作品として仕上がった。
僕のいとこの姉妹はね、幼少時にふたりともこの「ナウシカ」の全シーンを暗記してしまって、どの部分のどんなセリフでもすぐさま楽々と暗唱することができたんですよ。
でもね、これとおなじことをやれる少年少女は、たぶん、いまの日本には腐るほどいると思う。
それはつまり、この「ナウシカ」が、あのモーツァルトの Eine Kline Nachtmusik なんかとおなじように完璧無比な、無類の作品であるというなによりの証左です。
シンプルで、うそがなく、真情と想像力にあふれ、優しく、なおかつ気高い作品じゃないと、そんなことはやれっこない。
ええ、僕、これが宮崎さんの最高傑作だってずーっと思ってるんですよ…。
で、フェリーニの「道化師」やエリセの「ミツバチのささやき」、ノルシュタインの「話の話」なんかとならんで、僕の最愛の作品の最右翼であるところのこの「風の谷のナウシカ」のなかで、僕がいちばん好きな場面のひとつが、当記事の最冒頭にアップしたフォトなんです。
ええ、王蟲の子を餌にして王蟲の軍団を誘導するベジテの気球をとめようとして、徒手空拳で凶悪な機銃掃射に向かいたつ真摯なナウシカのこの姿ほど胸を打つものはありません…。
それにねえ、このシーンって、まるであの天安門事件の際、素手で命がけの通せんぼを敢行して、巨大な戦車の突撃をとめてみせた、あの中国の無名の若者みたいじゃないですか---!(残念ながら彼はすでに死去したそうですが)
僕は、このシーンを見るたびに、いつも身体ごと溶けそうにウルウルしてきちゃう。
だって、超・偉いんですもん、このナウシカったら…。
しかも、彼女がこのときこうした気持って、身につまされるようによく分かるじゃないですか。
彼女みたいに身軽じゃないから、グライダーのうえでこんな風に立ったら、僕なんか2秒くらいで「あーれー」と地表に落下していっちゃうんでせうけど、おなじような状況に自分が遭遇してしまったら、やっぱり僕もナウシカとおなじように、このグライダー上の通せんぼをきっと敢行していたことでせう。
僕だけじゃない、いま現在当ブログを読んでくれているそこの貴女だって、きっとおなじ風に感じ、おなじアクションをとってくれるだろう、と僕はほとんど確信してる。
だって、そうしないでいられます?
愛する友人と最愛の家族らに危機が迫っていて、その危機を阻止するのがたまたまそのとき、そこの貴方しかいなかったとしたら?
それこそ幕末の志士たちのように、身体を張ってそれを阻止しようとするしかないじゃないですか…。
優れた作品は未来を予言するとはよくいわれることですが、僕は、この作品こそ現代の僕等の糞詰まり的危機状況を、厭になるくらい克明に予言した先鋭作品になっている、と感じます。
そう、ホンモノの詩人が霊感を通じて彼の時代を透視した場合、その視線は時代の見せかけの表層をつき抜けて、時代の本質をのみ観てしまうものなのです。
で? その宮崎さんの視た世界の実相とは、どんなものだったのか?
「腐海」とはなにか?
それは、なんのために生まれ、なんのためにニンゲンの居住区を次々と喰いつくしていくのか?
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「風の谷のナウシカ」は、神話じゃありません。
映画のなかだけに存在するお伽の国なんかじゃ、断じてない。
あれは、いま現在の僕等の話であり、僕等の現状そのままの寓話的デッサンです。
そう、いま現在の僕等はみんな、「風の谷」の住人であり村人なんです。
そして、僕等の「風の谷」を包囲してる巨大な「腐海」というのは、まさに、いま現在の僕等を取りまいている世界情勢そのもの。
今年9月にはじまった100件をこえる全国規模での不正選挙訴訟の事実を、まったく報じようとしない異常なマスコミも、筆舌に尽くしがたい不正裁判を恥ずかしげもなく乱発している未開な高裁も、本来ならどこの領土でもいいはずの尖閣問題を針小棒大に拡大して、それをネタになんとか日中戦争を喚起しようと蠢く現政府与党も、破産寸前の合衆国にTPPと増税という前代未聞の超・売国奴政策でもって、ニッポンの富をさらにさらに貢ぎまくろうとしている思いあがった保身官僚勢力も---みんながみんな、この巨大な「腐海」の構成因子です。
超・巨大な勢力ですってば!
はなから勝てる道理がない---権力も財力もなんもない僕なんかからすると、この巨大な王蟲連中とがっぷり四つに組みあうなんて、ほとんど不可能事に見えるときもままあります。
でもね、時代は、確実に動いているの。
いま、アメリカで凄い反響を呼んでいる「ウェブポット・プロジェクト」と呼ばれている、未来予測のデータがあるんですよ。
これは、インターネットの掲示板などに言語収集用のソフトウェアを忍ばせ、人々の言葉を解析し、その膨大なデータから人々の無意識の感情値までを帰納し、それらの総合的解析により近未来の実像を推理しようとする方法論です。
こういうとなんだか掴みどころのない感じなんですが、これ、未来予測の手法として案外高い的中率を誇ってるんです。
ここでちょっと、そのデータをいくつか紹介しておきませううか---
◆ドルの死や、通貨を取引する為替市場の崩壊は、影の支配勢力を恐怖させる。しかしそれだけではない、影の支配勢力に対する民衆の蜂起と革命とがやがて始まり、これまで数世紀にわたる彼等の行状に対する復讐が始まる。これにより、影の支配勢力の血統に属する多くのエリートが殺害され始める。
◆多くの製薬会社が危機的な状況に陥る。それというのも、豚インフルエンザの満延に伴い、ワクチンの強制接種が実施され、それに世界中の民衆が抵抗し抗議運動を起こすからである。人々は自分や自分の子供にワクチンが接種されることに強く抵抗する。この抵抗は大変強く、革命のレベルまで達する。
◆また恐怖の波は、影の支配勢力が民衆に広めるプロパガンダとしての側面も持っている。
しかし、これはうまくいかない。民衆が集合的にパラダイムシフトの時期を迎え、考え方が根本から変化してしまうからである。
これっていささか豪気な予想だなって思いません?---うん、僕的には非常に嬉しい予測なんですけど w
ま、一般庶民にできることなんて現実的に限られてるとは思うんですが、故ジョン・レノンのいった愛と平和のネットワークを、僕等なりに一目一目地道に編みあげていきませうよ---この小さな無数のパッチワークが、やがて大きな一面の平和の絨毯になることを願って---。
ジョンの歌った「Imagine」は彼だけの夢じゃありません。
僕等の作りだしたこの「腐海」のごときエゴ世界を、いかに清浄の地に近づけるか?
それが、20世紀の後半にたまたま生を受けた、僕等の今生の課題であり、宿題なんじゃないのかな。
現代に生きる僕等のひとりひとりがみんな「風の谷のナウシカ」なんだ、とイーダちゃんは思います…。 (^.-y☆