イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その157☆東京高裁カーニバル物語!☆

2013-11-19 23:24:19 | ☆<不正選挙訴訟>の巻☆
              
http://www.dailymotion.com/video/x17d277_%EF%BC%91%EF%BC%90%EF%BC%92%E5%8F%B7%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%83%E3%82%AD%E3%83%BC%E4%B8%8D%E6%AD%A3%E9%81%B8%E6%8C%99%E8%A3%81%E5%88%A4%E5%88%A4%E6%B1%BA-%E6%98%A0%E5%83%8F_news&start=50

 2013年の11月14日午後3:00、東京高裁の第424法廷は、カーニバルになりました。
 齊藤裁判長の女装癖をからかう歌あり、女装しておちょくる原告&傍聴の「青春ガールズ」あり、はてまた、押すな触るなの暴動騒動あり--もー これでサンバさえ流れば、あそこ、法定じゃなくって確実リオでしたよ。
 ええ、あのリオのカーニバルさながらの熱帯盆踊り---!

----では、なぜ、法の神殿であるべき法廷がカーニバルになったのか?

 その答えは、非常にシンプルです。
 正義の発露であるべき東京高裁で、「正義」がまったく行使されなかったから---。
 ひとこと、これに尽きますね。
 厳密に正義が行使される場なら、この日の原告団のひとりであるRK氏にしても、よもやそこで風刺歌をがなろうとはされなかったでせう。
 でも、実際は、上の動画を見てもらえれば一目瞭然と思いますが、あのときの424法廷は、まさに歌と暴動の無法地帯。
 まるで日本じゃないばかりの爆発的荒れ加減でありました。
 みんな、顔を真っ赤にして、怒りの情念に駆られて、風刺歌と「サイトー、売国奴!」のシュプレヒコールをひたすらくりかえしていました。
 しかし、そうなるのは当然だった、と思います。
 裁判自体が、とんでもないイカサマだったからです。
 原告団の提出した不正選挙の有力証拠がひとつも採用されず、さらにはそれらが審議されることもなく、しかも、証拠について審議が行われたかどうかも明らかにされないまま、裁判自体がいきなり却下となってしまったからです---。

----えっ、審議がない? なんじゃ、それ?

 ええ、審議、ありませんでした。
 さらには、審議が行われなかった理由の説明も皆無でした。
 いきなりサイトー裁判長の「原告の訴えを却下します」のひとこと。
 で、それについてのなんらかの解説もなく、それでオシマイ。

----なんじゃろね、これ?(苦笑しつつ)
 
 どこぞの3流大学の法科の学生に聴いても、彼、こんな裁判はあり得ないってきっとそういうよ。
 だって、マジ、ありえないんだもん…。
 この行ケ102号裁判の詳細について知りたい方は、下記のブログをすぐさまご訪問あれ。

    richardkoshimizu's blog

 急げや、急げ!
 今度、時間があいたときに、なんていってると、あっというまに、ここのブログ閉鎖になっちゃうかもよ。
 それくらいこの裁判は、シンボリックな意味あいにおいても重要な裁判でした。
 ずっとあとになって歴史家が過去をふりかえったとき、2013.11.14 のこの瞬間が、ニッポンが「暗黒時代」に突入したとき、と記されるかもしれません。
 恥も外聞も脱ぎ捨てて、国が、あろうことか市民による「不正選挙」の訴訟を全力で潰しにきたのです。
 
 RK氏の提唱した今回の「不正選挙訴訟」は、今年の7・21の参議院議員選挙で、数々の不正が行われたことを国民に知らしめる意味で行われたものでありました。
 そして、その提案に賛成する多くの方々により、過去に例のない、全国的な「同時多発不正選挙訴訟」となったのです。
 しかし----

1.どのマスコミも、ひとつとしてこのニュースを取りあげようとはしませんでした。

 マスコミも政府与党と結託していたのです。
 それはつまり、前選挙で「不正選挙」が行われたという事実そのものの、裏返しの証拠でもあります。
 じゃあ、それら嘘つきマスコミと現政府与党は、我々国民をどこへ連れていこうとしているのか?

 TPPと増税と秘密保護法が支配する、自由も夢も希望もない、前近代的な超・警察国家へ、です。

 そんな糞下らない国にこのニッポンを作りかえて、さらに、そこに徴兵制を敷き、尖閣諸島を口実に、中国と日本との長期の戦争を開戦させる---というのが、そのシナリオです。

 なんのために?

 デフォルト間近で、いまや瀕死の病人である、斜陽のアメリカ帝国の利益のために---。

 ええ、ただそれだけなんですよ。
 日本は、アメリカのための、特Aクラスの「貢ぐクン」なんですよ。
 そして、そっちの角度からカメラのレンズを向けさえすれば、すべてのうさん臭い政治の謎は、氷解するのです。


 ええ、今回の「不正選挙」ならびに「不正裁判」、それに治安維持法の再来ともいわれているサイアクの「秘密保護法」等を企画立案したのは、斜陽の大国アメリカのトップ1%の、軍産複合体のエリート共なんです。
 別名、CFR---。
 おやまあ、また陰謀論かよ、なんてチンケなマスコミ言辞で茶化すのはやめてくださいね。

 僕がいってるのは陰謀論なんかじゃありません---マスコミ仕様のレッテル張りに誤魔化されたりせずに、どうか直視してください---そして、気づいてください---これは、残酷なくらいシビアな、僕等を取りまいている現実そのものなんですですから…。

 あの天才・永井豪が渾身の一作「デビルマン」のなかで予言してた、デーモン時代の到来です。


               

 客観的にみて、これら権力の暗黒・地獄責めに対応する策は、あんまないと思う。
 権力って、その気になりさえすれば、それこそなんだってやれますから。
 思想犯を量産して反対者を容所送りにするのも、アンチ政府の情報を秘密保持法の名のもとにすべて封殺するのも。
 ただ、これほどまでも「露骨」に、それこそスマートさのかけらもなく、権力の大鎌を野蛮に振りまわさざるを得なかったというのは、それだけ権力側も追いつめられていた苦しみの証じゃないか、とイーダちゃんはここでは読みたいわけ。
 うん、少なくとも「ラクショー」じゃなかったってことですよ、向こうの連中にしてみても。

 その何よりもの証拠が、今ページのトップにあげた、行ケ102号「不正選挙」裁判の、皆のカーニバルの様相です。
 僕にはこれが、活気にあふれた皆のこれらの必死な抵抗だけが、現時点の絶望社会ニッポンに対抗する、僕等サイドの唯一の希望のように感じます。

----うん、大丈夫だ…。

 と、おのおの自分にいい聴かせませう。
 そして、今度は、あちらさんの阿呆で卑しい下僕連中に、しっかりといい含めてやりませう。

----ジャパニーズ・サムライと大和撫子をなめるなよ! と。

 我々は、維新のとき、西欧の本質を野蛮といいきり、中国との連携の未来のヴィジョンを皆に提示した、あの偉大な西郷ドンの子孫ではないですか。
 諦めないかぎり、希望は、絶対ある。

----なすべきことは全てした。私はここに立つ。神よ、我を裁きたまえ…!

 絶対絶命の中世の宗教裁判の暗黒法廷の土壇場で、かつてそう叫んだマルチン・ルターのように、あくまで悔いなく生き、こころもち目線をあげて、美しい星空をいつまでも見上げつづけていきたいなあ、と願う冬の夜のイーダちゃんなのでありました…。(^.-y☆

追記◆僕が原告の行ケ101号裁判の判決は、11月27日水曜の13:30、東京高裁817号法廷です。なお同日は、犬丸かつこ氏が原告の106号裁判の判決日でもあります。(15:00開始。これは、1Fでまた14:30締切の傍聴券出すらしいね。うさん臭ぁ!)これはお得だと思いますよ。ご興味おありの方は御観覧あれ!








  

 


徒然その156☆伊GUN、ベレッタM1934について語ろうか☆

2013-11-12 21:26:43 | エアガン小唄
              


 Hello、元氣にしてはりますかぁ?
 ここのところ、あまりにもハードな記事がつづき、そのストレスで書いてるこっちのほうもどうにかなりそうになってきたので、今回は政治ネタは完全スルー---自身の息抜きとリハビリも兼ねて、だんだん肌寒くなってきた秋の夜長、愛すべきGUNの話を心ゆくまで語りたく存じます。
 まえにも書いたように、もともと僕は政治ネタなんてそう好きじゃないんですよ。
 ただ、不正選挙系はあまりも身近なジャパンの危機だから---いわゆる焦眉の急ってやつですか?---振りかかる火の粉は払わにゃならぬ、みたいなノリでやむなく政治入りしていただけの話であってね。
 でもさ、たとえばの話、貴方がいくら熱烈な John Lennon ファンだからといって、また、プラスチック・オノ・バンドの「ジョンの魂(略してジョンたま)」が疑う余地のない不朽の名作だからといって、毎日毎時あのハードなジョン節ばっかり聴いていたなら、さすがにゲンナリしてくるでせう?
 僕の場合もそれとまったくおなじ、来る日も来る日も裁判記事ばかりあんまり書きすぎて、もー いまちょっと死にそうなのよ。
 だもんで、今回は、純粋な息抜きのつもり---。
 僕的にベストな息抜きといえば、まず温泉なんスけど、いまはなんかスケジュールが押してて、温泉にはちと行けないんですよ。
 ですから、それの代理として、今回のテーマとしてはGUNを選ばしていただきました。
 うん、平和愛好家としちゃあやや不謹慎な題材かなあ、とは自分でも思うのですが、骨がらみで好きなものはしょうがない。
 毒にも薬にもならず、誰の役にも立たない、ただひたすらナンセンスなGUN談義!
 今回の記事でイーダちゃんが目指すのは、それなんであります---ではでは……カムイーン---! 


            ×            ×            ×

 えー、今回のブログのゲストは、イタリアのあの美銃 ベレッタのM1943 であります---。
 ベレッタはベレッタでも現代アメリカの制式銃であるところの、あの重ごっついM92Fじゃないんで、そのあたりは誤解なきよう。
 僕が今回紹介したいのは、1934年にイタリアの制式銃となった、380ACP弾を使用する、全長170mm 7連発弾倉の、アメリカ制式用のそれよりはずーっと古くて小ぶりのタイプの、とってもシックでクラッシックなGUNなんだな、これが。
 ベレッタって、実は、現存する銃器メーカーのなかで、最古残の会社なんです。
 アメリカの制式銃になったM92Fなんか見てるとあまりにもモダンに洗練されすぎてて、そんな歴史の重みなんて露とも浮かんでこないんですが、1934年に開発されたこのM1934なんか見てると、さっすが時代の重み、ヨーロッパの歴史の薫陶みいたものが感じられて、うーむ、ようございますなあ…。
 僕の世代からいくと、このベレッタなんていうのは、結構マイナー筋なGUNだったんじゃないかって思います。
 友人のなかでも、あのベレッタっていいじゃん! なんていってるのは、あまりいなかったかも。
 ま、でも、そりゃそうだ。
 ベレッタ、渋すぎますモン。
 そんじゅそこらの中学生風情に、これほどの大人の味わいなんて分かる道理がない。
 中学生世代の主な好みからいくと、やっぱり当時主流だったのは、マッチョ系のコルト・ガヴァメント属、あるいはインテリ・マッチョの代表格であるワルサーPー38あたり、そんでもって斜め目線のお洒落系が贔屓にしたがるのが、ルガーだとかブローニング系のあっちのタイプだったように記憶しております。
 ま、当時はリボルバーが全盛だったんで、いわゆるダーティーハリーの44マグナムみたいなS&W系に傾く連中も相当数いましたが、僕は、リボルバーがあんま好きじゃないんで、この際そっち系の叙述は外しておきませう。 
 では、当時中学生だった僕が、なぜ、それほどまでにこのベレッタM1943 に入れあげたのか?
 動機は、非常にシンプルです。

----うわあ、このGUN、いいオンナだなあ…。

 そう思ったから。
 うん、このGUN、いい女っスよ。
 全体のコンパクトなプロポーション、スライド上部にあけられた斬新な切り口からのぞいたセクシー銃身、痩せすぎじゃない、中肉中背の大人の肢体、それにグリップの黒衣のくすんだような渋い色加減、さらにはスライド両サイドの、しっとり落ちついた地味系文字群のほどよい並び具合、さらにさらに、グリップ上方のセフティーのぽっちり赤いアクセサリーなんかのアクセントも山椒のようにぴりりとよく効いてます。
 あ。こいつも忘れちゃいけない---グリップ最下部のハイヒール---これがいちばん効いてますよねえ、やっぱ!
 ベレッタのモデル1934はね、別名「ハイヒールを履いたGUN」などとも呼ばれてるんですよ。
 うん、このマガジン下部のハイヒールが、また特に似合ってることったら。
 それに銃全体の印象から感じられる、ツンとすました淑女のような、やや高ビーでなんとも色気のある佇まいときたら、どうです?
 し、渋すぎる…。
 論より証拠といきますかね---ベレッタM1934と僕の愛銃ワルサーとのこの2ショットを、まずは御覧になってください---。


                 
 
 いかがかな?
 ねっ、こうしてふたつ並べて実際見てみると、インテリゲンチャでカッコいいはずの高性能のワルサーのほうが、なんとなく野暮ったい、無芸のでくのぼうっぽく見えてきやしませんか?
 これこそ、ベレッタ・マジック---!
 さすがはお洒落の国イタリア生まれのGUNですよ。
 僕は、銃の機能性という意味では、むろんのことP-38のほうに軍配をあげることに異論はないんですけど、全体から醸しだされる美貌的見地からいうと、むしろこのベレッタのほうに高評価をつけてあげたいなあ。
 そのあたり、贔屓のひき倒しと非難されるかも、ですが、この心情ばかりはどうにも否定できません。
 コンパクトにきりりとまとめあげられた、この無駄のないデザインとシンプルな機能性は、何度見ても痺れちゃう。
 むーっ、いいGUNっスよ…。
 僕的には、白黒映画時代の、あの伝説の名女優デートリッヒなんかに握らせたい銃ですね---。
 マリーナ・デートリッヒ、ご存知ですか?
 彼女が若き日のゲーリー・クーパーと共演した「モロッコ」は名画ですよ---この場にはまったく関係ない話ですけど w
 寄り路ついでに、じゃあ、もう一点、フォト散歩としゃれこんでみませか---。


              

 今度ベレッタ嬢をエスコートしてくれたのは、あまりにも有名なあのモーゼル・ミリタリー君であります。
 うむ、でも、ベレッタ嬢の連れ合いとしては、無骨さの極みみたいな、ものごっついモーゼルのほうがワルサーより適任かもね。
 いかにも19世紀的なモーゼル---いまはマウザーと英語読みするのが主流なのかしら?---の堅物的いかつさが、逆に小粋でお洒落なベレッタにちょうどよく釣り合うってるっていうか。
 うーむ、あまりにも美的デカダン寄りに喋りすぎた感もちとありますが、このベレッタ、現実の操作性においてもむろんのこと優れた銃でありまして、故障や装填不良なんかも少なく、ルガーみたく砂塵に弱いなんて弱点もなかったようです。
 戦場において、これは大事な要素だよね。
 耐久性、持ち運びやすさ、あと、誰にでも分解修理しやすいシンプルな構造であること。
 ベレッタは、これら3拍子の鉄則をすべて満たしたGUNなのでありました。
 こうなると当然インターナショナルに人気がでてくるわけで---実際の話、第二次大戦の連合国側の兵士たちのあいだでこのベレッタ、ドイツのワルサー、ルガーなどとも並ぶ凄い人気でね、お土産に故国に持ちかえる兵士も相当数いたという話です。
 そんな彼等の気持ち、僕は、よーく分かるなあ…。
 赤毛の将校さんの軍服に、これほど似合う銃ってほかにないと思うもん。
 毛むくじゃらのごっつい外人さんのぶ厚い掌に握られたとき、ベレッタはそこが自分の安住の地なんだと案外安らいだんじゃないでせうか?
 根拠なんてまるでないんだけど、そのようなことまでつい考えてしまう。
 かようなまでにベレッタM1934というのは、男心をくすぐるツボをよく心得た、ふしぎなふしぎな魔女っこGUNなんでありました---。

 このベレッタに対する僕のイメージは個人的なものなのかなあって思ってたんですが、意外なとこで、さいとうたかお先生が、あの国民的マンガ「ゴルゴ13」のなかで、このベレッタを小道具として実にうまく使ってらっしゃるのを、ついこのあいだ見つけることができました。
 それは、レズの女殺し屋の「キャサワリー(火食鳥)」っていうのが、ゴルゴの暗殺を請け負ってどうこうする、というお話でして。
 むろん、ストーリーの必然として、物語の最後には、彼女、ゴルゴに返り討ちにされちゃうんですが…。
 で、レズのこの美女・殺し屋「キャサワリー」が物語で使用する愛銃が、このベレッタなんですよ。
 流石、さいとうたかお先生!---ベレッタって銃の華がどのあたりにあるかってことを、よく分かってらっしゃる。
 僕はそれまで「ゴルゴ13」のポエジー的側面に目を向けたことなんてなかったんですが、これを目にしてから、先生が自身の裡に脈打っている「詩人」のポエジーを、実に上手にセーヴ節約しながら、あらゆる物語のうえに注意深く霧吹きしている、という「技」をあらためて再発見することができました。
 この点に関しては、ベレッタとさいとう先生---両名に等しく感謝です。
 大家って、やっぱ、凄いっス---ええ、決してナメちゃあいけません…。

                   


◆ベレッタM1934
 タイプ:セミオートマチック・ピストル
 製造国:イタリア
 使用弾薬:380ACP
 全長:150mm
 重量:750g
 装弾数:7発

 このお洒落ガン、あの国本圭一氏の「ウエスタン・アームズ」社がトイガン化しています。
 フィールド・ストッピングこそしないものの、流石老舗のウエスタン・アームズ! と唸るくらいのいい出来です。
 特に、弾倉部のグリップが鉛入りになってて、握りの小指部にズンとくる独自の重量感がなかなか素敵。
 ただ、高いのねえ、コレ---ウエスタン・アームズの商品はみんなそうなんですが、なんでああも高価なのか…。
 僕は、このトイガン、おととしネットで思いっきしの低価格、1万2000円で購入しましたとサ。

                   ×             ×            ×

 今回の暇話は以上です---秋の夜長のあとの残りは、僕は、ウクレレの弦でも張りかえながら過ごすことにしませうか---お休みなさい---(-.-)zzz。
 



 

徒然その155☆ <風の谷のナウシカ>に寄せて ☆

2013-11-09 05:22:11 | 身辺雑記
            ---僕はロックフェラーとは全く違うやり方でロックフェラーと闘いたい。自分たちのやり方とあんまり違ってるんで、
              彼らがどう反撃していいか分からなくなるような、そんなやり方で…。(by John Lennon )           
            


 はじめて宮崎さんの「風の谷のナウシカ」を観たのは、たしか大学の1回生のときだったと思います。
 アレを観たら誰でもそうなると思うんだけど、僕も、大きな感銘を受けました。
 当時の僕はというと、若気のいたり的な高慢部分も相当あって、フェリーニやエリセ、あるいはトリフォーやノルシュタインじゃなきゃ映画じゃない、みたいに結構突っぱっていたんですけど、いやー、「ナウシカ」はきた、超・きたよー!
 視終えてすぐ、胸底まで抉られたみたいなヘヴィーな感動に自分ごと打ちのめされているのを、強く実感せざるを得ませんでした。
 そりゃあ、あの天才・宮崎駿の代表作ですから---今、考えると「ウルウルくる」のは、まあ当たり前っちゃあ当たり前なんですけど。
 あのー あえて私見をいうなら、僕は、宮崎さんをトルストイ型の作家だと考えているんです。
 いわゆる、ドストエフスキー・タイプのひとじゃまったくなくて。
 うん、観念のひとじゃない、宮崎さんは、感覚肌の肉体派芸術家なんだ、と思うな。 
 宮崎さんの映画には、どの作品にも強烈な肉感的感触があって---たとえば「飛ぶ」ということへの凄いこだわりが、彼、あるじゃないですか?
 初期作品の「カリオストロの城」では、伯爵のオートジャイロ、それから不二子の使用するハングライダー、さらにはラストシーンでのインターポールの落下傘部隊の降下---。
 ナウシカにつづく3作目の「魔女の宅急便」では、そもそも最初から最後まで「飛ぶ」ことがテーマになってました。
 満月の夜、はじめて魔女の修行に出かける主人公のキキが、魔法のホウキにまたがって最初に飛翔するシーンの瑞々しいことったら!(ちなみに僕は、勢いのつきすぎたキキが、樹にぶつかって跳ねるシーンが好き)
 宮崎さんの作品内での「飛翔」は、ほかのSFアニメの飛行のレベルとはまったく位相がちがってるんです。
 ほかのドラマでも、そりゃあ主人公は飛んでみせはしますとも。
 けどね、宮崎さんの映画内で「飛ぶ」ということは、それらとは全然意味あいがちがってて、いままさに飛翔してる主人公のほほや前髪にあたる風の筋が、そして、その速度が、映画を観てる僕等の目にも実際にはっきりと「視える」わけ。
 視えるどころか、その風の冷たさはおろか、その夜の空の空気の湿り気さえ感じとれそうな気がするの。
 いってみればミラクルですよね---奇跡の体現。
 宮崎さんの映画でひとが飛べば、僕等はなぜだか無条件にその「飛翔」を体験し、また信じてしまう。
 「飛ぶ」という行為への憧れ、そこに内蔵されたファンタジーとリアリズムの総量において、宮崎さんは、空前の巨匠(マエストロ)でせう。
 誰ひとりかなわない---あのライト兄弟でも分がわるい---彼とタメを張れる人物はというと、恐らく、無声映画時代の全盛期のチャップリンくらいしかいないんじゃないかなあ?

 これほどの力業を見せてくれるひとは、これまで誰もいませんでした。
 これほどのひとが、これからもそうそうでてくるとは思えない。
 主人公の飛翔とともに背景も動くから、論理的に飛んでることが理解できるとか、そんなお約束済みのありきたり経路で「飛翔」という行為を納得させてくれるんじゃないんです。
 「宅急便」のキキがすわっと飛べば、
 あるいは、
 自分のまわした大独楽のうえに立った「トトロ」の胸に五月とメイが「きゃーっ!」とむしゃぶりつけば、
 
 その瞬間、僕等は映画のなかの主人公同様自分のほほと首筋とに風を感じ、じゃっかんの目眩とめくるめくドキドキののち、そこに空前の「飛翔」が実現しているのを、まざまざとリアルに視るのです---。

----うわー、樹がもうあんな遠く…! ねえ、メイ…あたしたち、飛んでる…!


                

 もー これは超感覚のサーカスといってしまってもいい、と思う。
 むかし、トーキーは、サーカスで上映されていた歴史があるんですよ。
 いってみれば、宮崎さんは、そのような映画人としてのもっとも古い血を引いている方なのかもしれません…。


                ×            ×            ×

 で、そのような宝石尽くしの宮崎作品のなかで、僕がやっぱり最高傑作じゃないかと推したいのが、この初期の「風の谷のナウシカ」なんですよ。
 個人的には「カリオストロの城」「となりのトトロ」なんかもとっても好きなんですけど、宮崎駿内のカオスが宮崎さんの理性とほどよい釣り合いを保ったまま屹立してるのは、僕は、この時期のこの作品しかないと思うんだよなあ。
 徒然その49、50☆ルイス・キャロルのいる風景☆でもこれは書いたんですが、僕は、宮崎さんも「不思議の国のアリス」の作者であるルイス・キャロル同様、非常に強い「魔」を内心に抱えた作家なんじゃないか、と読んでるの。
 最初は、宮崎さんもいまほどのビッグネームじゃなかったから、予算やスポンサーの都合を計算しながら、自分のなかの「魔」を抑制しつつ、世間の思惑もじゅうぶん計上したうえで、あえて作品を練っているっていうのが、なんか手に取るように分かるんですよ。
 その内心の飢えた「魔」をなんとか飼い慣らしつつ、完璧なバランスをもった娯楽アクションとして結実した最初の作品が、あの「カリオストロの城」っていうノーブル極まりない逸品だったわけ。
 ところがね、「ナウシカ」の仕事を境に、宮崎作品での「魔」と「生」との均衡が、微妙に、かつ危うい方向に傾ぎ、崩れはじめるの。
 僕がそれいちばん感じたのは、やっぱ「もののけ姫」だったな。
 あれ、最後にはダイダラボッチが花咲かじじいだってことになって、ああよかったってハッピーエンドになんとかもつれこんでいくんだけど、あれ観てアナタ、心の底から「よかったなあ」と思えました?
 僕あ、思えなかった。
 あれは「生」が「魔」に勝利できた作品じゃないですよ。
 むしろ、その逆---宮崎さんの内部に巣食っていた膨大な「魔」が、宮崎さんの抑制を破って、いよいよ表に漏れだしてきた作品だと僕は解釈してます。
 だって、後味わるいんだモン。
 どう贔屓目に見ても、庶民を戦乱に巻きこんでいく必然の歯車のほうが、庶民らの「生」よりも強くリアルに描かれているし。
 それに、いろいろなものをつめこみすぎて、見てるほうが結果的にくたびれちゃうって要素も、あの映画のなかにはたしかにある。
 でも、観客の心にいくらかの翳りを吹きこんでくる主原因は、恐らくそれじゃない。

 古武道的な視点からいわせてもらうなら、あれは、宮崎さん個人の「迷い」のデッサンなんじゃないのかな…。
 うん、その「迷い」が、僕等のなかで生じかけた感動を、あえて先回りして摘んじゃってるような気もします。
 
 「ナウシカ」のなかであんなにも豊穣かつ親密に描かれていた、宮崎さんの「生」への讃歌が、ここでは相当数目減りして、なんだかうつむきがちに、ひとことでいってくたびれ果てているように見えるわけ。
 これは、衰弱、もしくは退廃っていっちゃってもいいのかもしれない。
 宮崎さんが「カリオストロ」や「ナウシカ」で見せたような「生」への純粋な信仰が、なんとも歯切れのわるい、暗い疑いに染められはじめているんです。
 ま、広義の意味でいったら、宮崎さんも抒情派作家群に分類できるタイプのひとだから、抒情派作家の宿痾、いわゆる「若いうちが華なのよ」といった宿命的な業をあらかじめ内包してることは、そりゃあまあ理解できますけど。
 そういえば、あの抒情の天才・川端康成にしてもノーベル賞受賞作の「雪国」をピークにして、戦後は、見るに耐えない退廃の坂道を転げおちていったことは、衆目の知るところです。
 それに、僕の大好きな現代マンガ家の安達哲さんにしても、やっぱり初期作品の「キラキラ!」を超える作品は、いまだ出版されていらっしゃらないし---
 さらにさらに、あの大天才フランツ・シューベルトだって、歌曲「美しき水車小屋の乙女」のあと、急速に無明の闇のなかへ失速していきました。
 そんでもって、最後の白鳥の歌が、あのまっくろけの絶望づくしの「冬の旅」なんて。
 ダメだってば---そんな陰気な幕引きは絶対よくないよー!

 ええ、抒情派の作家さんってね、人生の青春期のピークのあと、なぜだか必ず堕ちるんです。
 それが、抒情派の宿命---もしくはカルマ。
 宿命ならば、仕方ない---でも、「千と千尋」は、僕、観れなかったな。
 あれは、宮崎さんが内心の抑制装置をあえて解除して、自らの「魔」の勢いにすべてを委ねちゃった作品ですよ。
 天才ならでのはデッサンがそこかしこに溢れ、その幻想的な画面はどこをとってもシャガール級の美しさを宿してはいるんですが、あれはやっぱり退廃の路への下り坂じゃないか、と僕はつい感じちゃう。
 だから、川の精だというニニギのなんとかっていうボブのあんちゃんにしても、それから、千尋という少女のキャラの設定にしても、イマイチ人間としての彫刻に乏しく、感情移入がしにくいんです。
 千尋がブタに変えられた両親を人間にもどせても、「へえ、そうなの。それで?」といった醒めた気持ちからどうにも自分を切り離せない。
 そりゃあ、宮崎さんの天才の魔手にはいつもながら魅了されるんですよ---けれども、それがどうしても感動に結びつかないの。
 だいたい、あれは、そもそもがハッピーエンドで終えれる類いの作品じゃないよ。
 夢オチにしてちょちょいと片付けるには、悪夢のほうのリアルティーがあんまりありすぎる。
 へたしたらこっちの現実世界よりリアルティーありそうなんだもの---四面四角のハッピーエンドの小箱のなかに、これを全部最後に押しこめちゃえばって発想自体にむりがあるんだって。
 宮崎さんは、この陥穽に気づいていたと思いますよ。
 でも、自分じゃどうにもならなくて、あえて自分内の「魔」の氾濫に委ねるしかなかったんでせう。
 そのような作品内のどことなくヤケッパチな気配も、僕の嫌悪感を誘う要因のひとつです。
 うん、後期の宮崎駿は、僕は好きじゃない---これは、はっきりといいきれますね---。


                ×            ×            ×
 
 でも、「風の谷のナウシカ」には、そのような不安の要素は見られません。
 ナウシカの挙動も、感興も、時とともにうつろっていくどんな表情も、そのひとつひとつが深い意味と確信とに裏打ちされ、この上もなくキラキラとよく生きている---。
 宮崎さんの若さが、その若さの実りである純粋さが、あらゆる場面に結晶化して、恐らく宮崎さんの計算をもこえた、信じがたいくらいに瑞々しくて繊細な隈取りを作品全体に与えているの。
 宮崎さん自身は内面のカオスをもっと吐露したかったんだろうな、と何気に思います。
 実際、ご本人はこの作品の出来に不満をもってらして、もっと書きこみたかったんだけど、時間枠の都合上削らなくちゃいけない部分が多すぎて、結果的にただの神話になっちゃった、なんていってられるのを、なんかの紙面で見かけた記憶があります。
 でもね、この作品にかぎっていえば、その偶然が与えた制限って、むしろ作品構成のうえで「吉」のほうに働いたんじゃないのかな。
 結果、「風の谷のナウシカ」は、完璧な作品として仕上がった。
 僕のいとこの姉妹はね、幼少時にふたりともこの「ナウシカ」の全シーンを暗記してしまって、どの部分のどんなセリフでもすぐさま楽々と暗唱することができたんですよ。
 でもね、これとおなじことをやれる少年少女は、たぶん、いまの日本には腐るほどいると思う。
 それはつまり、この「ナウシカ」が、あのモーツァルトの Eine Kline Nachtmusik なんかとおなじように完璧無比な、無類の作品であるというなによりの証左です。
 シンプルで、うそがなく、真情と想像力にあふれ、優しく、なおかつ気高い作品じゃないと、そんなことはやれっこない。
 ええ、僕、これが宮崎さんの最高傑作だってずーっと思ってるんですよ…。


             

 で、フェリーニの「道化師」やエリセの「ミツバチのささやき」、ノルシュタインの「話の話」なんかとならんで、僕の最愛の作品の最右翼であるところのこの「風の谷のナウシカ」のなかで、僕がいちばん好きな場面のひとつが、当記事の最冒頭にアップしたフォトなんです。
 ええ、王蟲の子を餌にして王蟲の軍団を誘導するベジテの気球をとめようとして、徒手空拳で凶悪な機銃掃射に向かいたつ真摯なナウシカのこの姿ほど胸を打つものはありません…。
 それにねえ、このシーンって、まるであの天安門事件の際、素手で命がけの通せんぼを敢行して、巨大な戦車の突撃をとめてみせた、あの中国の無名の若者みたいじゃないですか---!(残念ながら彼はすでに死去したそうですが)
 僕は、このシーンを見るたびに、いつも身体ごと溶けそうにウルウルしてきちゃう。
 だって、超・偉いんですもん、このナウシカったら…。
 しかも、彼女がこのときこうした気持って、身につまされるようによく分かるじゃないですか。
 彼女みたいに身軽じゃないから、グライダーのうえでこんな風に立ったら、僕なんか2秒くらいで「あーれー」と地表に落下していっちゃうんでせうけど、おなじような状況に自分が遭遇してしまったら、やっぱり僕もナウシカとおなじように、このグライダー上の通せんぼをきっと敢行していたことでせう。
 僕だけじゃない、いま現在当ブログを読んでくれているそこの貴女だって、きっとおなじ風に感じ、おなじアクションをとってくれるだろう、と僕はほとんど確信してる。
 だって、そうしないでいられます?
 愛する友人と最愛の家族らに危機が迫っていて、その危機を阻止するのがたまたまそのとき、そこの貴方しかいなかったとしたら?
 それこそ幕末の志士たちのように、身体を張ってそれを阻止しようとするしかないじゃないですか…。
 
 優れた作品は未来を予言するとはよくいわれることですが、僕は、この作品こそ現代の僕等の糞詰まり的危機状況を、厭になるくらい克明に予言した先鋭作品になっている、と感じます。
 そう、ホンモノの詩人が霊感を通じて彼の時代を透視した場合、その視線は時代の見せかけの表層をつき抜けて、時代の本質をのみ観てしまうものなのです。
 で? その宮崎さんの視た世界の実相とは、どんなものだったのか?
 「腐海」とはなにか?
 それは、なんのために生まれ、なんのためにニンゲンの居住区を次々と喰いつくしていくのか?

        ………………………………
 
 「風の谷のナウシカ」は、神話じゃありません。
 映画のなかだけに存在するお伽の国なんかじゃ、断じてない。
 あれは、いま現在の僕等の話であり、僕等の現状そのままの寓話的デッサンです。
 そう、いま現在の僕等はみんな、「風の谷」の住人であり村人なんです。
 そして、僕等の「風の谷」を包囲してる巨大な「腐海」というのは、まさに、いま現在の僕等を取りまいている世界情勢そのもの。
 今年9月にはじまった100件をこえる全国規模での不正選挙訴訟の事実を、まったく報じようとしない異常なマスコミも、筆舌に尽くしがたい不正裁判を恥ずかしげもなく乱発している未開な高裁も、本来ならどこの領土でもいいはずの尖閣問題を針小棒大に拡大して、それをネタになんとか日中戦争を喚起しようと蠢く現政府与党も、破産寸前の合衆国にTPPと増税という前代未聞の超・売国奴政策でもって、ニッポンの富をさらにさらに貢ぎまくろうとしている思いあがった保身官僚勢力も---みんながみんな、この巨大な「腐海」の構成因子です。
 超・巨大な勢力ですってば!
 はなから勝てる道理がない---権力も財力もなんもない僕なんかからすると、この巨大な王蟲連中とがっぷり四つに組みあうなんて、ほとんど不可能事に見えるときもままあります。
 でもね、時代は、確実に動いているの。
 いま、アメリカで凄い反響を呼んでいる「ウェブポット・プロジェクト」と呼ばれている、未来予測のデータがあるんですよ。
 これは、インターネットの掲示板などに言語収集用のソフトウェアを忍ばせ、人々の言葉を解析し、その膨大なデータから人々の無意識の感情値までを帰納し、それらの総合的解析により近未来の実像を推理しようとする方法論です。
 こういうとなんだか掴みどころのない感じなんですが、これ、未来予測の手法として案外高い的中率を誇ってるんです。
 ここでちょっと、そのデータをいくつか紹介しておきませううか---

◆ドルの死や、通貨を取引する為替市場の崩壊は、影の支配勢力を恐怖させる。しかしそれだけではない、影の支配勢力に対する民衆の蜂起と革命とがやがて始まり、これまで数世紀にわたる彼等の行状に対する復讐が始まる。これにより、影の支配勢力の血統に属する多くのエリートが殺害され始める。

◆多くの製薬会社が危機的な状況に陥る。それというのも、豚インフルエンザの満延に伴い、ワクチンの強制接種が実施され、それに世界中の民衆が抵抗し抗議運動を起こすからである。人々は自分や自分の子供にワクチンが接種されることに強く抵抗する。この抵抗は大変強く、革命のレベルまで達する。

◆また恐怖の波は、影の支配勢力が民衆に広めるプロパガンダとしての側面も持っている。しかし、これはうまくいかない。民衆が集合的にパラダイムシフトの時期を迎え、考え方が根本から変化してしまうからである。

 これっていささか豪気な予想だなって思いません?---うん、僕的には非常に嬉しい予測なんですけど w

 ま、一般庶民にできることなんて現実的に限られてるとは思うんですが、故ジョン・レノンのいった愛と平和のネットワークを、僕等なりに一目一目地道に編みあげていきませうよ---この小さな無数のパッチワークが、やがて大きな一面の平和の絨毯になることを願って---。
 ジョンの歌った「Imagine」は彼だけの夢じゃありません。
 僕等の作りだしたこの「腐海」のごときエゴ世界を、いかに清浄の地に近づけるか?
 それが、20世紀の後半にたまたま生を受けた、僕等の今生の課題であり、宿題なんじゃないのかな。
 現代に生きる僕等のひとりひとりがみんな「風の谷のナウシカ」なんだ、とイーダちゃんは思います…。 (^.-y☆