上のフォトをまずは御覧になってください---これ、なんだと思います?
アンコールワットかどっかの遺跡? アフリカの辺境国の未開部族のお城? なんて意見が、まあ、いちばんかえってきやすいポピュラーな反応なんでせうけど、これ、そんなんじゃないんです。
これは通称「シュヴァルの理想宮」といって、19世紀後半にフランスのオートリーヴという小さな町に住んでいた、フェルディナン・シュヴァルという一郵便配達夫が、日々の仕事のあいまに、なんの報酬も見返りもなしに、給料のほとんどをまかなって買い求めた膨大なコンクリートでもって、34年かけて独力で作りあげた、驚嘆すべき「夢の宮殿」なんです。
そう、これの作者は、ぜんぜん芸術家じゃなかったんです。
一介の郵便配達夫---ええ、43才のとき、仕事帰りにふしぎな形をした小さな石に躓いたシュヴァルは、その石を使って宮殿を作ろうとふいに思い立ちます。
----自然がこんな彫刻を恵んでくれたのだから、自分は建築家になろう。それに誰だって、いくらかは石工なんじゃないだろうか?
といったような啓示ひとつっきりで、彼は、34年がかりの、まったく独学の宮殿作りをおっぱじめるのです。
村中から狂人扱いされ、教会から非難されても、彼は己が宮殿作りをやめません。
おっとろしい男です---そうして、最終的に彼は、自分の意識の暗い底に建っていた壮麗な建築物を、この世に構築することにとうとう成功したってわけ。
この建築のとことんな凄さを、別角度からもどうぞ見てやってください---。
正直、なんじゃ、こら? の世界ですよね。
無意識世界のカオスと前世の記憶とのふしぎな混合。
幻想と怪奇、グロテスクと絶美とがまぜこぜになった、この痙攣するようなアラベスク。
禍々しさと聖性との野蛮な結合が、これほどまでに奔放に見られる見せ物って、ちょっとないのではないのでせうか。
----うん、君は覚えてないかもしれないが、実は我々は、この世に生まれるまえの霊界では、みんな、この城に住んでいたんだよ…。
と誰かから権威者風にいわれれば、思わず「へえ…」と頷いて納得しかねないほどの、強力な説得力と存在感も、この城はともにもちあわせている気がします。
ええ、最近じゃ、こちらオートリーヴ観光の目玉にまでなっているのだとか---ここを訪れる日本人観光客の数は特に多くて、現地には日本語での案内板まででているという話も聴きました。
すっごい人気じゃないですか。でも、考えてみればさもありなん、この「シュヴァルの理想宮」、まじりっけなしに凄いんですもの。
天才の仕事であり、天才の業だとつくづく思います。
まったく欲がなく、私心もなく、名誉心もなく、自分がなんのためにこのような「仕事」をしているかも皆目分からない。しかし、やむにやまれぬ衝動から、彼のこの「仕事」は延々と地道につづけられ、ある日気づいてみたら、自分の「仕事」の跡が、途轍もない作品として結実してるのを見つけてびっくりする---なんだか、未踏ルートでのチョモランマ初登頂を果たしたばかりの孤独なアルピニストといった風情ですけど、うん、天才っていうのは、たしかにこういったモノですよ…。
× × ×
しかし、今回僕が語りたく思っているのは、ありきたりの「天才論」じゃなくて、その彼を彼たらしめていた一本の芯---シュヴァルをシュヴァルとして成り立たせていた、彼の生命の中心線であるところの---ふしぎな力、「聖性」について---なんですよ。
彼を誰よりも彼たらしめていた、その最たる原動力---彼のなかのモーターを休みなく回転させていたその「力」の謎について---しばしウンチクを傾けてみたいと、まあ思っているわけなんです。
あらたまってこう「聖性」なんていうと、いささか堅苦しく、やや構えたりもしてしまうかもとは思うんですが、僕的には、この力のことは「聖性」と呼ぶよりほかないんです。
イエス、ほかの呼び名はありません---あくまでも「聖性」です…。
ただ、フツーこの言葉を聴いたときに、誰の耳にも響いてくるような心地いい「ほんのり宗教臭」は、この言葉にはまったく香らせたくないの。
ええ、マザー・テレサのような柔和な笑顔のイメージも、ウィーン少年合唱団の天上のハーモニーも、どっちのサブリミナル効果もきっちしキャンセルです。
イーダちゃんは、個人的に、この言葉は非常に恐ろしいコトバだと思ってるんですわ。
ええ、「エロ」よりも「グロ」よりも、このコトバは怖いものだ、という自覚がずーっとまえから背筋近辺にゾゾゾとありました。
なぜなら、もしホンモノの「聖性」というものが、この世に存在するとしたら、それは、あれゆる地上の論理とことごとく対立するはずのものだからです。
この地上を地上としてたらしめている論理は、いうまでもなく個々の「エゴイズム」じゃないですか。
自分より弱い動物を殺してその肉を喰らい、自分より弱い同族の財産をかすめとり、自分と自分の一族郎党だけがどこまでも肥え太っていきたいという、非常に生臭い動物的な生存本能ばかりが跋扈する、弱肉強食のほの暗いデーモン世界---それが、僕等がいままさに籍を置いているこの世界の、正しいデッサンなんじゃないのかな。
キーワードは、「色」と「欲」と「金」との三位一体であって。
ひとことでいって、まあロクな場所じゃないと斬り捨てちゃっていいかもしれないんだけど。
ただ、いちおうは自分を産んでくれた母的世界なわけだし、アタマ始発の綺麗事みたいな理想論だけで斬り捨てるのもじゃっかんためらわれるんですよ。
けれど、毎日報道される戦争とか利権や汚職の話なんて聴いていると、やっぱり無条件に賛美する気にはとってもなれないわけでして---自分を産んでくれた世界に対しての印象が、否定と肯定との中間地点の崖っぷちでよろめき軋むそんな夜---いつもイーダちゃんがすがりつきたくなるのが、さっきもいったこの「聖性」って観念なんですよ。
僕がこの「聖性」の香りを最初に嗅ぎつけたのは、青年期のゴッホの以下の逸話です---。
オランダのあの狂熱の画家フィンセント・ファン・ゴッホは、画家になる以前、実は、牧師になることを志していた時期があったんですね。
1977年の1月から4月、ドルトレヒトの本屋に勤めたけど、まったく身が入らずクビになり、大学で神学を学ぼうと家庭教師についてギリシャ語、ラテン語を学んだものの、これもダメ。
78年の8月、ブリュッセルの伝道師学校に入り、3か月教育を受けるものの、これも挫折。
ゴッホってね、なにをやってもうまくいかない気の毒なひとだったんですよ---で、同年の12月、満を持してベルギーのボリナージュ炭鉱に赴き、悲惨な生活を送る炭鉱夫のあいだで献身的な伝道活動を行うんですね。
でもね---ゴッホの献身的な活動って、なんていうか限度がないんです。
彼は、炭鉱夫の誰かが服がないといえば自分の服を脱いであげちゃうし、炭鉱夫の別の誰かが家の屋根が雨漏りでひどいんだ、といわれれば、じゃあ、この小屋を使いなさい、と自分の伝道小屋をあっさり明け渡し、自分はむしろを巻いて冷たい路上で寝たりするんです。
炭鉱夫たちはそんなゴッホのなかに「聖者」の面影を見ましたが、常識を重んじる伝道師委員会が、こんな異常者に資格の更新を認めるはずがありません。
当然でせう、この決定は。
いま僕はとある介護施設で働いてますけど、介護士志望の新人から自分は老人のために役立ちたいんだ、給料はいらない、寝場所だって必要ない、地面で野宿して出勤してくるから雇ってくれ、といわれたら、そりゃあ引きますもん。
女性の介護士さんもみんな気味わるがるだろうな。
さらに彼がそのようなことをいいつづけていたら、場合によっては、警察に通報みたいな事態にもなりかねないでせうねえ。
ゴッホには限度がなく、「ほどほど」という匙加減がなく、まわりとうまくやろうという気遣いも、分別もありませんでした。
行くとなったら、ひたすら前進あるのみ---あの花形さんやホロヴィッツにちょっとばかり似てるかもしれない---ええ、濃ゆいアウトサイダー特有の香りがツンとしてくるの、ひとことでいうならキ○ガイですかね?---もそっとまろやかな表現を用いるなら、ものすごーく迷惑千万な、超・アブナイ独身男ってあたりですか。
でもね、どちらのサイドに本物の「聖性」の光が差しているのか、あえてセレクトさせてもらえるなら---より多くの「聖性」がひそんでいるのは、やっぱりゴッホのサイドじゃないかな---とイーダちゃんは感じるんです。
うむ、「聖性」っていうのは、まさにそのようなパワーだと思います。
世間とうまくやっていこうとか、ほどほどのところで受けを狙いつつ「実利的利得」をゆるゆると吸収していこうとか---そういったある意味世知辛い「常識的見解」からいちばん遠い場所にあるコトバのひとつなのではないでせうか。
ええ、とても素朴でいて同時にどっか凶暴な、とてもおっかない言葉ですよ、これは。
だって、自制とか「ほどほど」とか塵ほども配慮しないんだもん。
----生か死か。正しいか間違いか。真実か嘘か。
彼のなかの秤は、恐ろしく単純なんですよ。
中間地点の小狡いダークゾーンなんててんでない、本質的に過激派なんです、彼は。
この言葉をいちばん体現していた典型的人物として考えられる、あのイエス・キリストにしてもそうでした。
彼のなかに巣食う「聖性」は、結局、彼の生命を守りつづけるためにはまったく機能しませんでした。
自分の生命ですら、この厳正な秤に掛けて冷酷に計量してしまうなんて、なんという見栄坊なダンディズムなんだろう!
凄いと思いますね---言葉そのままの意味で純粋に痺れます。
宗教的な意味じゃなく、神学上の定義もすべて取っぱらったうえで、塵芥から生じた一介のニンゲンとしての器量のすべてをこめて、イーダちゃんは思いっきり彼のことを尊敬しちゃいますね。
ええ、大好きでなんですよ、ジーザス・クライスト!
あと、ソクラテスもね---後年、僕は、プラトン著の「ソクラテスの弁明」のなかにも、この種の「聖者」を見つけて爆笑しちゃったことがありました。
だって、ウルトラ正直なんですもん。
ギリシャの彼の理解者たちは、裁判の休止のごと、窮地に陥った彼を助けようと、しきりに助言するんですよ。
かたちの上だけでもソクラテスは自分の非を認めるようなことをひとこと言えばよかった。そうすれば、助かったんです。
彼を告発したがわにもこの種の隠れ支持者はいて、やはり窮地のソクラテスにそれとなく援助の手を差しのべようとするのですが、その全部をソクラテスはきっぱりと退けたのです。
----しかしもう去るべき時が来た---私は死ぬために、諸君は生きながらえるために。もっとも我ら両者のうちのいずれがいっそう良き運命に出逢うか、それは神より外に誰も知る者がない…。(プラトン「ソクラテスの弁明」久保勉、訳。岩波文庫より)
もう風通しがいいったらないの---このハンパない愛すべき人々---超・カッコいい…。
でもね、こういった「聖者」的な後光を発散している人物って、近代のなかでも探してみたら、あちこちに見つけられるんですよね。
たとえば60年代ロックの象徴でもあった、あのジミ・ヘンドリックス---
聴くたびに圧倒される天才ジミヘンの音楽は、前述した「シュヴァルの理想宮」のように壮麗で、ひたすら神秘的です。
あと、ひどくエロティックなのね---即興で綴られるどのフレーズもいうにいわれぬ恍惚の色艶を帯びている、という一点がちがっているのかな?---これに比べると、シュヴァルの世界はいくらか散文的で静的なものといえるかもしれない。
ジミヘンの音楽のクライマックスで、僕はいつも「法悦」という単語を自然に連想してしまうのですが、これ、あながち根拠のない妄言でもないと思ってます。
モンタレーのステージででギターを燃やしたというのが、いま思えば、ジミヘンの音楽そのものの象徴的行為になっていたんですねえ。
だって、自分の生命を焼身自殺みたいに煌煌と燃えあがらせながら、自由と愛を高らかに歌い、呻りまくる、というのがジミヘンの音楽の真骨頂だったんですから。
僕は、彼の音楽を聴いていると、いつでも聖書時代の預言者のモーセとかヨハネのことを思いだすんですね。
ああ、歴代の預言者っていうのは、きっとこんなジミヘンみたいな人物だったんだろうな、これくらい生命を燃やしながら話したから、みんな彼の話に聴き入り、心をゆり動かされ、その結果として彼等はこんなに語り継がれ、現在の歴史にまで残ることになったんだろうなって…。
× × ×
今回は時間がなくて師走の特集ページが編めなかったんだけど、あの元ビートルズの故ジョン・レノンなんかも、かの一族の末裔といっていいひとなんじゃないか、と思います。
しかし、いま、こうして冷静に「聖性族」の後追いをしていってみると、彼等のほとんどが人生のあるポイントでもって、例外なく破滅、もしくは夭折している、といった事実に改めて驚かされるものがあります。
ロック史上最強の歌姫ジャニス・ジョップリンなんかもそうでした。
二十歳で死んだ詩人のレーモン・ラディゲなんかもそう。
ブルーズの神サマ、ロバート・ジョンソンも然り。
アメリカの歌手サム・クックなんかも若くして撃ち殺されたりしてるし…エトセトラ、エトセトラ……。
----待てよ。してみると、ひょっとして「聖性」というものは、現実社会においての繁栄というものと共存できないような宿命をあらかじめ帯びているのではなかろうか?
なーんて疑問がついぶくぶくと湧いてきちゃったりね。
ぶるぶるぶるっ---おっかなー!
しかし、イーダちゃんとしては、彼等「天使族」の後追い業務をやっていくよりほかに、生きていく支えってあんまりないんですよね、ぶっちゃけていうと。
彼等が滅びていくときに振りまいてくれた豪奢な光の記憶があるから、こーんな闇夜のようながらくた世間のなかでも、なんとかアクティヴに、よりよく生きていこうって思いつづけることができるんであって---。
しかしながら、彼等の振りまいた光に触れられるのは、純粋なヨロコビです。
僕が所有している彼等のCD、画集、本がすべて僕の手元から去るときがきても、僕は決して彼等の光が自分を照らしてくれたときの暖かい感触を忘れることはないでせう…。
× × ×
2011年は大変な年でした…。
でも、皆さん、頑張りませうね。
僕の勤める施設でも、お年寄りはかなりのペースで亡くなっていきますが、皆さん、最期の一刻まで生きる努力を怠ることはありません。
コンノケンイチ氏のいわれるように、この世は煉獄かもしれない。
けど、だとしたら、それでもいいじゃないですか。
イーダちゃんは煉獄の窓からも青空の一角を見上げつづけていたいなあ、と今日も思います。
願わくば、そんな自分の隣りに、気の合う仲間がひとりでもいてくれたら、これに勝るヨロコビはありません。
またもや超・長いページとなっちゃいました---読み通してくれてありがとう---よいお年を!---m(_ _)m