イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その246☆ 碧い眼の李太白 ☆

2017-03-15 23:49:39 | ☆文学? はあ、何だって?☆



 李白、好きです----。
 高校のとき習った(中学だったっけ?)教科書のなかのこの一遍を読んだときから、僕ぁ、もう李白のとりこ……。


       黄鶴樓にて孟浩然の広陵に之くを送る   李白

   故人 西のかた黄鶴樓を辞し
   煙花 三月 揚州に下る
   孤帆の遠影 碧空に尽き
   唯だ見る 長江の天際に流るるを

 だってねえ、スケール雄大な、まさにドラマチックな別れの情景じゃないですか、これは?
 別れの相手が女じゃなくて、友人の詩人である孟浩然である、という一事もいい。
 いまとはちがって、交通機関なんて発達してない古代中国ですからね。
 いちど別れたら、今度はいつ会えるかなんてどっちも分かんない。
 ひょっとしたら永遠の別れとなってしまうかもしれない。
 そのような思いを互いに噛みしめながらの別れを、川べりに咲き誇ったいっぱいの桜が見守ってる。
 やるせない思いで遠去かっていく帆船をじっと見送っていたのだけど、やがてその帆影も空と長江のあいまに見えなくなってしまった……。

 せせこましい島国根性がすっかり精神の一部に染みついちゃった小人物の僕的視点からすれば、これは、なんたるスケールだべや! と呻るしかない規模のワイドスクリーンです。
 でかすぎるよ、何もかも。
 大陸的っていうのは、こういうのをいうのかな?
 帆影が見えなくなるまで見送るって時間的スケールも、また凄い。
 だって、半端じゃないっスよ----長江の彼方に見えなくなるまでって、少なくとも2、3時間は佇んでなくちゃいけない。
 この詩のなかには、うん、現代ニッポンを深く毒している、セコくてマメな経済的時間なんてまるきり流れておらんのですよ。
 まるで太古人が暮らしていたような、悠久の気配がじんじん滲んでる。
 しかも、この語り口ね----企んで編んだ気配が、まったくしていない。
 何気に息をするように言葉を吐いたらたまたまこんな詩になった、みたいな天衣無縫の息吹きがある。
 さすが「詩仙」と呼ばれてるだけのことはありますね。
 ヨーロッパや万葉、あるいはルバイヤートなんかとは、まったくちがう詩世界がここには、ある。
 で、この邂逅以来、僕は、この李白って詩人の大ファンになったようなわけなんです----。

 詩を好きになると、その詩を書いた詩人のことも当然想像しますよね?
 僕も、学はないけど、その語感から自分なりの「李白像」みたいなものを胸中にまあ思い描いてました。
 それは、だいたい下記の水墨画の如きものでありまして……




 古代中国人のイメージでいうと、大抵のひとの「李白像」は、上記墨絵のようなものに帰着することになるだろう、と思うんですけど。
 でもね、それ、ちがってるようなんだわ……。
 僕は、民族的偏見なんかかけらもないからどうでもいいんですが、あの李白氏、実は、西域の非漢民族だったんじゃないか、みたいな研究が、最近ぞくぞくとあがってきてるんです。
 日本の研究者の松浦友久氏なんかが、李白の父が「李客」と呼ばれ正式の漢人名をもった形跡がないこと
 また、後年の李白が科挙の試験を受験しなかったこと 等を根拠にこの説をだしておられます。
 岡田英弘氏と宮脇淳子氏なんかも

----有名な詩人の李白はチュルク系といわれ、杜甫の詩にもアルタイ系の言語的特徴がみられる。

 なあんていってられるし、楊海英氏ときたら、

----そもそも詩仙と呼ばれた李白自身はチュルク系であった可能性が高い。また、詩聖の杜甫の項にも「遊牧民の天幕で酒を飲んで、チュルク風の踊りを楽しむのが大好きだ」という詩があるほどだ。

 とまでいっちゃってる…。
 この件に関して、ネットで面白い記事見つけたんで以下引用します。

           「中国に純粋血統の❛漢族❜は存在しない」
 13億人の中国人の92%を占めるという漢族が、実際には❛遺伝子学的には現存しない血統❜だという調査結果が出てきた。
 「漢族は血統概念ではなく文化的な概念」という通説が学術研究で明らかになったという点で、注目されている。
 中国甘粛省蘭州大学の生命科学学院の謝小東教授が「純粋な血統の漢族は現在いない」という研究結果を最近発表したと、中国メディアが15日報じた。
 謝教授の研究結果は、中国西北地域の少数民族の血液サンプルDNA研究などから出された。
 謝教授は「DNA調査の結果、現代の中国人はさまざまな民族の特質が混ざったもので、いかなる特定民族の特質も顕著には表れてこなかった」と説明した。また「かなり以前から『漢族は中原に暮らしている』と考えられてきたが、これは特定時代の漢族を周辺の他の民族と区別するために作った地域的区分にすぎない」とし、「漢族をこのように地域的に特定して定義することはできない」と指摘した。
 例えばBC12世紀の陝西省西安を首都とした西周は漢族政権に属するが、その後の春秋戦国時代に同じ地域に建てられた秦は少数民族の❛西戎❜が主流だったということだ。 (中略)
 さらに、中国人は自らを「炎帝と黄帝の子孫(炎黄子孫)」と主張するが、研究の結果、黄帝と炎帝の発源地も❛北狄(ほくてき)❜地域だったことが研究の結果から分かった。
 黄帝と炎帝の発源地はともに現在の甘粛省と陝西省にまたがる黄土高原地域で、ともに漢族の本拠地でなく、居住地域でもなかったということだ…。

 また、学校の教科書で一度は拝見したでしょう、だれもが知っている紀元前221年に中国最初の統一王朝秦の初代皇帝となった、始皇帝 政、彼もまた胡人(イラン系白人種)であったとの伝説があり、一説には金髪碧眼であったとも、赤い髪・青い目・高い鼻と白人種の特徴が顕著であったとも謂われています…。
                    (中国大好き 中川隆より抜粋  http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/287.html  )


 メジャーどころでいうと僕の贔屓作家のひとりである、かの加治将一氏が、
     「失われたミカドの秘紋~エルサレムからヤマトへ----「漢字」がすべてを語りだす!(祥伝社)」のなかで、やはり同種の主張をされてます。

「もっと立ち入れば」
 西山が、歩きながらさらなる苦痛を提供した。
「唐の初代皇帝と言っていい李世民ですが、彼は漢民族ではありません」
「漢族の名門貴族、李家の出身ではないと?」
「誤解されやすいのですが、違います」
 きっぱりと言い切った。
「李というのは後付けの名で、出身は鮮卑族。これはもはや学者の間では定説です」
「鮮卑族って、満州族ではないですか?」
    ……(中略)……
「唐がトルコの国……」
 ようやくイメージが湧いてきた。
「トルコ側に史書が今に残っていたら、きっと唐ではなく、あちらの文字で『テング』と書かれていたと思います」
「……」
「唐の広東語の発音はテングです。トルコ語のテング、つまり天可汗の『天』を音写して、『唐』と表記した」
 頭がこんがらがった。それを察した西山が繰り返した。
「新しい連合国家の名を『テング』と呼んだ。それを非遊牧民の受けを狙って漢字で『唐』という一字で表したというわけです」
    ……(中略)…… 
「しかしそれが本当だとすると、ファーストエンペラー秦に始まり、モンゴル系の蒙古、つまり元、それに今お話しした唐、隋、さらにはラスト・エンペラー清に至るまで、有名どころの王朝のほとんどが漢民族でないことになってしまいます」
 望月の頭は、まだイメージの積み残しがあるのか、あしらい切れずに、再び置いてけぼりになっている。
「まだ、だめですか?」
 整えきれない望月に言った。
「漢民族優位政策をとる共産党にとって、騎馬民族の王朝などあってはならない歴史なのです。民族だけは超越できない忌々しき問題で、実は、それこそがこの国の最大の弱点と言っても過言ではありません」
「分かります」
「見え透いた嘘でも有形無形に偽りを流し続ければ、民の思いはそれで固まる。漢族の王朝を次々と置き換え、とにかくそれを教え続ける。そうすれば偽りの中に歴史が固まってゆくのです。一党独裁国家なら、教科書を作り話で固めるのは難しい話ではありません…」
                                         (加治将一「失われたミカドの秘紋」より:祥伝社)




 うーむ、恐ろしい話ですが、これは充分にありうる話だ、と僕は思います。
 そもそも混血してない純粋な民族なんて観念自体が、いまの学問常識ではリアルティーゼロのお伽噺でしかない上に、
 ましてや世界歴史でいちばん戦争が多かった軋轢大陸、地政学でいうところのハートランドの中央に位置するかの大チャイナですもん。
 あの悪名高いジェノサイド「易姓革命」が幾度となくくりかえされた、残酷極まりないお国柄。
 これで民族の混血がおこらなかった、と思うほうがどうかしてる。
 しかも、あらゆる栄誉と富がパンパンに詰まりまくっている、ラピュタみたいな超帝国です。

----あの威張りくさった帝国を落としさえすれば……。

 周辺の持たざる国々やあらゆる飢えた異民族がそんな風に思わないわけがない。
 嫉妬と憧れと怨みの対象でありつづけていたにちがいありません。
 理論的に考えて、混血は当然あったと考えるのが自然でしょう----最新のDNA研究の結果もそれを裏付けているわけだし。
 すると、今度は、歴代の中国王朝は、元、清等の少数の場合をのぞいて、漢民族の王朝であった、という現代の「政治的神話」のほうがゆらぎだす理窟です。
 で、いま先端の学問が追っているのは、そちら側の事実なんですね、つまるところ……。

 そうしたあっち側の「混血」情報としてもっともセンセーショナルなものの第一が、秦の始皇帝の陵墓に置かれた、多数の兵士像として有名なあの「兵馬俑」----
 あれの制作に古代ギリシア人が協力していた可能性がある、ということが英BBCが報道し、中国で話題になりました。

----シルクロードが開かれる前に秦始皇帝時代の中国と西洋の間で密接な接触があった証拠が見つかった。

 独自に文明を発展させたことに誇りを抱いているクラッシックな中国大衆には、これは面白くない話題だったようですが、この視点は結構学問的裏付けのあるもののようです。
 ウィーン大学の教授も最近発見された新たな兵馬俑の像の特徴から、

----ギリシアの彫刻家が中国人に技術指導したかもしれない…。

 と述べています。
 これなどは、「歴代王朝漢民族支配説」を覆す、有力情報の皮切りでしょう。




 さらにはこれね----中国東北部に位置する遼寧省で5500年前の紅山文化の遺跡から発見された 「青い目の女神像」----
 この女神さま、方円形の平たい顔で、頬骨がでてて、目は斜めに吊りあがり、鼻筋は低く短く、鼻孔はやや上に反っている。
 ま、標準的モンゴロイドの典型的なモデルケースでありましょう。
 でもねえ、それには瞳の色が問題なんだな----この女神さま、眼が青いんだわ……。
 鳥越憲三郎の著作より以下引用します。(これも上記、中国大好き 中川隆 よりの引用です)

----少なくとも女神像の目が青いのは、中央アジアの人種の血を受けていることを示している。しかし、容貌は明らかにモンゴロイド人種である。そのことは、混血の女性をモデルにしたといえるが、当時の社会に混血が多く、違和感がなかったからであろう。それだけに混血の時期は遠く遡るものとみてよかろう。中国東北部の女神像の分布からみて、その信仰は広域にわたっていたといえる。しかも地母神としての女神像の信仰が新石器時代早期からみられるので、そのことから中央アジアからこの地への渡来は、その時代まで遡らせる可能性もあるであろう。というのは、女神信仰がメソポタミアに起源し、それが中央アジアに広く波及したからで、アナウ文化に女神像を部屋に祀る習俗がみられるのもそのためである。そこで、コーカソイド種族がこの信仰をもたらしたと考えることもできるだろう……。

 まあ、文章はまずいと思うけど、このセンセイ、いいこといってます。
 ああ、でも、まずは肝心なその女神像のフォトをあげておきましょうかねえ----




 漢民族中国王朝支配説を覆すこのような証拠物件は、いまや次々とでてきてるんですよ。
 してみると、毛沢東のあの闇雲な文化大革命も、この「漢民族」の政治的優位を世界に示すための、異民族の遺跡・痕跡に対する政治的ジェノサイドだったといううがった見方ができないでもない。
 まあ、僕としてはそこまで大局的に話を運ぶつもりはないんだけど。
 李白は、701~762年まで生きた8世紀生まれのひとです。
 彼がもしかしてチュルク系のひとで、さらには金髪碧眼であった可能性があるってだけでも、僕的にはそれ、とても風流な話題だなあって思えるわけで……。
 だって、金髪碧眼、長身の李太白なんて、水墨画風にしみったれた過去の李白イメージよりはるかに「粋」じゃないですか----!
 うん、僕は古典的な漢人・李白より、こっち側の新・蛮族風李白のが好きだなあ……。
 そのような夢想を編み個人的に楽しむためだけに、このような記事を書いてみ申した。
 学問的省察も証拠固めも、したがって大変にいい加減であります。
 でも、いいのよ----学問的正しさより、李白の詩で酔うほうが僕にとってははるかに重大事なんだから。
 またしても長い、勝手な記事となりました----今夜はこのへんでお開きにしたいと思います----最後までつきあってくれてありがとう----もうちょいで午前0時です----それでは皆さん、お休みなさい……。(-o-yzzz







 
 
 


  

徒然その242☆ ドストエフスキーの「悪霊」について ☆

2017-02-13 20:30:32 | ☆文学? はあ、何だって?☆


 音楽狂であるイーダちゃんが心底畏怖してるミュージシャンは、ウラディミール・ホロヴィッツとチャーリー・パーカーとジョン・レノンのたった3人きりなんですが、
 文学の世界においても、やはり、この種の僕内「別格ベストスリー」というのはありまして、
 その面子はね、ドストエフスキー、A・ランボー、柿本人麿の3人なんです----。

 なかでもドストエフスキーには、したたかブチのめされたもんです。
 ただ、ドストエフスキーに出会ったのは、僕、ずいぶん遅かったんですよ。
 大学在学中、露文の有名なY先生の授業とかも受けてたんですが、その当時、僕、あんまり文学に興味もてなくってね…。
 卒業後1年してから先輩の勧めで、はじめてあのぶ厚い本のページを、嫌々めくりはじめたって感じだったんです。
 ロシア文学は、ドストエフスキーにかぎったことじゃないけど、とにかく登場人物の名前が覚えにくい。
 ただでさえ記憶力の性能の欠けている僕にとっては、小説の背景である登場人物のロシアンネームとそれぞれの関係を飲みこめるまでに、
 だいたい百ページあまりが要り用になります。
 それって僕的にいうと、とっても面倒くさい作業なんですよ。
 でも、150ページあまり読み進むにしたがって、先輩の強引な勧めがやがて感謝の念に変わりだし、
 200ページこえるころには、その感謝の念さえ脳裏から綺麗さっぱり消失し、
 怒涛の如く展開する白日夢のようなドストエフスキー・ワールドのなかで、僕、完全な茫然自失状態でした----。

 いまでも僕、世界文学の最高峰なんて話題があがると、迷わず「カラマーゾフの兄弟」と「白痴(イジオート)」とをあげるもん。
 むろん、我が国の最大叙事詩である「万葉集」、さらには印度・中国圏の古典である多くの仏典「観無量寿経」とか、プラトンの「ソクラテスの弁明」……
 あるいは、20世紀文学の最大の成果と目されているジェームス・ジョイスの「ユリシーズ」、プルーストの「失われた時を求めて」なんて巨峰もあるにはあるんですが、
 やはり……やはり、最強横綱の称号は、フョードル・ミハイロヴィッチ・ドストエフスキーのものでせう。
 これは、ちょっと譲れない。
 「ユリシーズ」、「失われた時を求めて」、あるいはセリーヌの絶望文学の極右「夜の果ての旅」----
 ジャン・ジュネの「泥棒日記」、神々の末裔みたいなランボーも忘れちゃいけない、あと、チリのガルシア・マルケスの「百年の孤独」なんかも、凄い…。
 みな、後世の作品だけあって、モダニズムや心理描写の巧みさなどにおいては、たしかにドストエフスキーも及ばない妙技というか巧みさを有しているかも、とは思います。
 けど、「巧みさ」は、しょせん「巧みさ」でしかないんだよね。
 ボクシングにおいてもそうだけど、テクニックがそのまま強さに結びつくとは、かぎらない。
 たとえば、いまから200年くらいたったのちの世に、なんにも作品当時の世相を知らない未来人がたまたまこれらの本を読んだとします。
 そしたらね----僕、ジョイスよりプルーストより、絶対にドストエフスキーのほうを面白がる、と思うんだ。
 ジョイスもプルーストも、近代人特有の悪徳「分析信仰」ってのに犯されすぎてるっていうのが、僕の私見。
 両人とも高踏派で、非凡極まる博識で、おっかなくなるほど繊細で……。
 でもね、そのぶん古代人のもってた「野蛮さ」というものからあんまり遠去かってしまってる、と僕的には感じます。
 あのね、「物語」っていうのはね、基本「野蛮」なんですよ。
 あかずきんは「残酷」、マッチ売りの少女は「酷薄」、いなばの白ウサギは「皮剥ぎ拷問」。
 三者に共通するのは、「嗚呼、無情」----!
 似非ヒューマニズムが入りこむ隙も、フォローできうるとっかかり自体も、どこにもなくて。
 残酷で救いのない、無情極まりない、乱暴狼藉な「おはなし」----それが、物語ってもののそもそもの骨子だ、と僕は思うわけ。

 その見地からいうと、物語中にやたら精緻な分析がはめこまれているおふたりの作品は、物語の流れをずいぶん滞らせてるようにも感じます。
 というより、そうやって物語の流れを粗相させるほうが、むしろ20世紀的には、お洒落な語り口として受け入れられたのでせう。

----あんな残酷な物語をなんの衒いもなく享受するなんて慎みがなさすぎる。卑しくも文明人なら、思想や分析のオブラートでもって、物語そのものがもつ呪力を一端和らげてから服用すべきだ…。

 なあんて流行が上流階層のうちにあったんじゃないのかなあ? と、思わず疑いたくなるくらい。
 20世紀は、ひたすらの分析を重んじる「客観信仰」の時代でした。
 主体からとにかく距離を置き、客観のルーペで覗いてはじめて「藝術」も「音楽」も「科学」も世にでることができる----そんな風潮がずーっと蔓延してました。
 クラッシック音楽において、この流行は特に顕著に表れていたように思います。
 たとえば20世紀前半に活躍した主観的詩人の代表的ピアニストであった、フランスのアルフレッド・コルトー!
 彼のあのロマンの残り香にむせぶようなルバート満載のピアニズムを破壊すべく現れたのが、あの精密機械のようなイタリーのマウリツッオ・ポリーニだったとは、僕はこれ、非常に象徴的な権力移譲劇として受けとめています。
 抒情の巨匠フルトヴェングラーからアルトゥール・トスカニーニ&カラヤン連合への権力移譲に関しても、ほぼ同様のことがいえるでせう。
 そう、20世紀の中盤において、「藝術」の中核に一種の革命がもたらされた、というのが僕の意見です。
 ここで権力の座を奪還したのが、いわゆる「客観派藝術家」の連合だったのです。
 アメリカの新星トルマン・カポーティー、映画でいうならヌーベルヴァーグのジャン・リュック・ゴダール、日本の文学界なら三島由紀夫----彼等、キラ星のような新しい「分析派」たちが台頭してくる下地は、そこにありました。
 いずれにしても、かつての「抒情」と「ロマン」とを重用する、藝術の伝統はここでいちど途絶えたのです…。

 と僕がこのあたりまで語ると、

----おい、ちょっと待てよ。君はどうやら分析的な芸術が気に喰わないらしいが、君が一押しするドストエフスキーはどうなんだ? 彼の芸術こそ、まさに異様な分析の極地、つまりは彼こそが、抒情殺しの先駆的作家なんじゃないのかい?

 そういわれると反論はとっても難しい。
 たしかにドストエフスキーの小説には、薄気味わるいほど鋭い分析が、物語自体がパンクしかねない質量でもって、圧縮され、ギガ盛りにされています。
 「分析は藝術を破壊する」という古典派藝術のテーぜからいうなら、これほど異端な作家はない。
 そう、ドストエフスキーの場合、あらゆることに度がすぎていました。
 小林秀雄流にいうなら「限度をこえていた」ですか?
 分析も、ほかの作家なら藝術上の流行のモードとして、あるいは自身の感受性の保護壁として外世界の脅威を無力化するために使用するのが常なのに、彼の場合は、なんのための分析か見分けることははなはだ困難です。
 普通なら、分析は、作家の手下であり下僕であるべきです。
 ところがドストエフスキーの小説内では、分析は誰にも仕えていない。
 むしろ分析は、猛り狂って、小説という自らを閉じこめる枠組を破壊して、指揮者である作家自体にまでその凶刃で貫き通そうとしているかのようにも見えてきます。
 神の破壊、観念の破壊、思想の破壊、日常的なあらゆる自己弁護への徹底的な侮蔑と憎悪…。
 最初に彼の小説を体験して僕がまず戦慄したのは、その点です。

----なんだ、こいつ? 悪魔みたいにアタマの切れるオトコだな…。こんな、薄気味わるいくらいアタマの切れるオトコがいるなんて、さっすが露西亜は広大だわ……。

 はじめてポーを読んだときも戦慄したけど、ドストエフスキーとの邂逅はそれ以上のものがありました。
 人知の極限地帯で、ほとんど気化した人間たちが、生命を削りながらバトルしている……。
 ギリシア神話やシェークスピアにも匹敵する、血みどろのドラマツルギーが凶悪な分析と両立しているのです。
 わが国の国民的作家であったあの川端康成、フランスの絶望詩人セリーヌ、僕の大好きな坂口安吾までが彼を別格視するのも当然せう。
 近代作家は、あの「ボヴァリー夫人は私だ!」のフローベルに見られるように、古典ではなしようもなかった繊細さを「分析」という手法で身につけることができましたが、そのかわりに太古の物語にぎっしり詰まっていた、あの「物語」だけがもっていた野蛮かつパワフルな躍動美を失ったのです。
 近代の通弊であるこの「病」からの稀有の例外者として、19世紀帝政ロシアのツンドラの荒野にすっくと屹立したのが、かの天才ドストエフスキーなのでありました……。




 このドストエフスキーがその晩年、「悪霊」って作品を書いてるんですね----。
 僕的にいうなら、こちらの作、「カラマーゾフの兄弟」や「白痴(イジオート)」なんかから比べるとやや落ちると思っているのですが、物語自体にいくらかの破綻は見られるものの、こと現代への予言性という見地に立って眺めるなら、この「悪霊」、ひょっとして前2作より上かもしれません。
 「悪霊」は、ロシア革命前夜の、過激派のセクト闘争の物語です----。
 いまだマルクス主義やコミュニズムの思想がポピュラーになるまえのロシアに、これだけ濃密な「打倒帝政ロシア」や「革命思想」の空気が行きわたっていたという事実に、まずはびっくりさせられます。
 なんちゅうか、もう読んでるだけで、僕等が学んできたうすっぺらな「教科書の歴史」ってなんだったのよ、と呻ること必然。
 箇条書きの歴史知識なら1917年、ボルシェビキにおいてロシア革命勃発という一言でしかないんですが、そんなのはただの紙の上だけの知識。
 それが実現するまで、庶民のリアルな暮らしむきはどうだったのか? 
 当時の庶民は「それ」に対して、いかなる思いをもっていたのか?
 「それ」が待望される世相の空気(ニューマ)に対して、ロシア正教はどんなまなざしを注いでいたのか?
 そのような当時のロシアのインテリゲンチャたちの生きたつぶやきが、ページを繰るごとに次々と読み手に襲いかかってくるのです。
 尋常な小説じゃないですよ、これ----!

 § 革命のために冷血なマキャベリズムを弄する俗物、ピョートル・ヴェルホーヴェンスキー。

 § 特異な人神論をぶち、その思想のために自殺に至る、革命家崩れアレクセイ・ニールイチ・キリーロフ。

 § そして、なんといっても、世界文学史上最大のアンチヒーローともいうべき、人称化した虚無の国の王子ことニコライ・スタヴローギン----!

 このような暗い、陰謀まみれの物語を編みながら、なかんずくドストエフスキーが凄いのは、登場人物の誰ひとりとして理想化して見ていない点でせう。
 登場人物と同様、ドストエフスキーは、若き革命家らが夢に描く「革命」というものに対しても、いささかなりとも幻想をもっていません。
 すべてを酷いくらいに突き放して、もの凄く無慈悲なタッチで綴ってる。
 似たようなテーマを扱った作家に、SFの平井和正氏なんかがいますが----「アダルトウルフガイシリーズ」の後期とか、あの全20巻の「幻魔大戦」とか----彼の場合は、なんちゅーか救いがあるんですよ。
 果てしなくつづく宗教論争と裏切りと寝返りの連続と。
 ですが、彼の場合、小説内世界は、比較的単純な<神vs悪魔>の二元論に還元できるんです。
 だから、陰惨な裏切り合戦も、ゲームみたいなスリラー感覚でもって読みとばせもするの。
 けれども、ドストエフスキーに関して、それはやれません。
 彼の生みだしたキャラクターは、あまりにも造形の深度が深く、ひとりひとりがあるタイプの権化・精髄といっていいほど完成されているからです。
 ゲーム感覚で好きなように操るだなんて、とんでもない。
 作者が気まぐれに、思いつきの恣意でキャラクターのふるまいを変えようとしたら、作品全体が瞬時に瓦解するでせう。
 それに、ドストエフスキーは、人知が編みあげる「政治的な革命」といったものをまるきり信じていません。
 が、だからといって、彼等、革命家予備軍を軽蔑するじゃなく、特に否定しようという腹づもりでもない、
 あげつらったり戯画化してからかったりしてもいいのに、それすらやらない----ただ黙って、無心に、彼等の動向をじーっと見てる。
 その不気味な目線が、物語の後半に入ると、物語の前面にだんだんと表れてきて、それがこの物語のアンチヒーローであるニコライ・スタヴローギンをいよいよ語りはじめるときの不気味さときたら、ちょっと形容する言葉が見当たりません。
 革命の鋳型にあわせてさまざまな自己正当化をはめこんでいく、未熟でわがままな、たとえようがないほど権力志向でエゴイスティックな若者たちと、彼等の織りなす幻想革命劇の勃興と挫折とを、ドストエフスキーは隣人の葬儀でも見ているような、一種独特な陰りをおびたまなざしで、いつまでももの静かに見つづけていきます…。
 物語の終焉まで、このまなざしの質は、なんら変わらない。
 おかげで僕等・読者は、ドストエスキーの目線の高さにあわせて、なんら理想化をほどこされていない、陰惨で残虐な革命ごっこと殺人とに立ちあわされるはめになる。 
 背景は、荒涼とした冬のロシアの片田舎の一角----。
 革命のための殺人も、美しい幻想も、彼等が夢見た幻想の共和国もすべてが潰えて、その上に無情の雪つぶてが平等に降りしきるという恐るべきエンディング……。
 なにより恐ろしいのは、物語が終わっても、作品中に降りしきっていたこのボタ雪が、読後も読者である僕等の胸中に長いこと降りつづくという一事です。
 こーんな後味のわるい小説ってないよ----たぶん、空前絶後じゃないのかな?
 仕上げに、出版の際に道義的見地から切除された「スタヴローギンの告白」の1章を読みあげれば、あなたの「悪霊」旅はそれでようやく完了です。

 川端さんの「散りぬるを」なんかも僕は恐ろしいと思うけど、ロシアの片田舎でおきたネチャーエフ事件をとりあげたドストエフスキーのこの「悪霊」なんぞは、それを超えるくらいの、超・破格の物語として成立しているんじゃないでせうか。
 語られた事件や殺人が陰惨なんじゃなくて、それを見て書いている著者の残酷目線がそれ以上の「地獄」なの。
 ああ、世界は広い、こんな川端級の異常な「眼」をもってるニンゲンが世界にはごろごろいるのか! と体感するためには、ドストエフスキーの「悪霊」、またとない稀有の教材でありませう。
 もっとも、フツーの幸せな暮らしに安住したい方々には、こちら、危険な麻薬みたいな書物かもしれませんが。
 ですから、僕としては、この「悪霊」を無作為に皆さまに薦めるわけにはいきません
 おっとろしい本ですもの!
 ニンゲン間の約束事を嘲笑うために書かれたようなこのアクマの書物を、うし、がっぷり四つに組んでやろうじゃんか! という蛮勇に満ちた方にのみ、お勧めしちゃおうかなあ、と、ほくそ笑みながら思う、相模の国・横浜の冬のきざはしに佇む、如月中旬のやや眠イーダちゃんなのでありました……(-o-)zzz。



                             上図:スタヴローギンが「黄金時代」と呼んだ絵。C・ロラン「アキスとガラティア」
 
 
 



 
 
 

徒然その239☆ リップヴァンウィンクルの恋人 ☆

2017-02-05 00:53:28 | ☆文学? はあ、何だって?☆



 去年のしまいごろ、岩井俊二監督の「リップヴァンウィンクルの恋人」ってのを観ました。
 近所の Tutaya でみんな借りてるから、たぶんいい映画なんだろうなってのが、観た動機。
 岩井俊二氏が「スワロウテイル」や「花とアリス」なんかも撮ってるひとだって知識も、その時点じゃゼロでした。
 僕、どちらも借りて観たことあるんだけど、たしか、どちらも5分ばかり観ただけで、あとはまったく観なかったと思う。

----うわー、たりぃ映画だなあ、これ…。

 で、あくびしながらPC切っちゃって…。
 岩井さんの映画って、なんか、スタートダッシュかけない派じゃないかと思うんですよね。
 この名画「リップヴァンウィンクルの恋人」についても、ほぼ同様なことがいえます。
 最初、黒木華演じる七海がネットで見つけた鉄也と結婚して、物語全体のいわばテーマであるところの里中真白(Coocco)と出会うまでの展開は、僕的にはもうひたすらダルかった。
 ただ、これってもしかしたら、物語のテーマを超・大事に思ってる監督の戦略かもしれない。
 だって、これ、いきなしテーマからはじめたら、この映画、ただのありふれメルヘンになっちゃうかもしれないから。
 そうさせないために、用心に用心を重ね、岩井監督の日常のデッサンは延々つづきます。
 七海が離婚して鉄也家を追ンだされていよいよプーになり、生活のために「なんでも屋」の安室と再び絡むまで、だいたい30分くらいかな?
 そして、この間、僕等は、岩井監督の眼鏡を通して、彼の日常へのウンザリ目線と付きあわされるって仕組みになってるんだけど。
 岩井さん、藝術家ですもん。
 「ボヴァリー夫人はわたしだ!」のフローベルじゃないけど、退屈な日常に対してゲンナリしてないわけがない。
 ま、ゴダールほど日常の市民生活に「侮蔑」の念を塗りたくるわけじゃないんで、また、時事的なネット社会や、そうしたネット社会を通じてはじめて展開できる「なんでも屋」みたいな商売をモダンに言及してもいるんで、そこそこ見れはするんだけど…。 
 しかし、物語がこうした伏線部を経過し、いかにもうさん臭げな「なんでも屋」を通じて、七海がAV女優の里中真白と出会うと物語は急転。
 ここからの展開は、すさまじかった----僕、魅入られちゃいました。

 いや~、岩井俊二監督「リップヴァンウィンクルの恋人」、超・名画です…。

 やられた~、と呻るしかないな、これは。
 このこしゃまっくれてスレ切った、物質主義のゆきついたような平均主義の現代に、こんなにも美しい映画をつくるなんて、なんて凄い監督だ、あんたは、岩井さん!
 で、調べたら、このひと、僕とおない年でした----しかも、誕生日が僕と3日ちがいの水瓶座ときた。
 3日ちがいってことは、たぶん、月の位置は、水瓶あたり----金星の位置は射手座にまちがいないでせう。
 アセンダントは分からないけれど、いずれにしてもいかにも「風」&「風」の配置のひとのつくった映画だなあ、という香りがぷんぷん匂いたつような映画です。
 映画観てないひとにネタバレしちゃうとマズイからいえないけど、この真白ってAV女優は、いかにも破天荒な、危ないキャラとして描かれているんですが、その内面の繊細さと脆さをデッサンするときの岩井監督のまなざしときたら、ちょっと形容するコトバに困るほど優しいの。
 それは、もう破格の優しさ……。
 七海とふたりでウェディングドレスの店を訪れ、そこでで試着する場面…。
 そのウェディングドレスを購入して、それを着たままねぐらである無人の邸宅に帰り、ほとんどレズピアン・ラヴのようなタッチで語られる、真白の童女みたいな舌足らずの告白……。

----あのね、宅配のひとがウチにきて、親切に荷物を部屋のなかまで運んでくれるでしょ?
 そんなとき、あたし、ああ、あたしなんかのためにこのひとこんなことまでしてくれて、なんていいひとだろうっていつも思うの…。
 そうして、あたしにこんな優しさを届けてくれる世界って、なんていい場所だろうって染みこむように思うの…。
 そりゃあ、ちがう、彼等は商売だからそうしてるんであって、その親切はただのサービスなんだっていうひともいるし、あたしだってそのへんのところは分かってる。
 でもね、だからといって、そのひとらの親切がまるきり100%のうそだってことにはならない、と、あたしは思うの。
 そのうちの何パーセントかは、やっぱり真心からの親切だって思えるし、あたしとしてもむしろそっちのほうがいいの…。
 だって、この世のすべてにそんな親切が満ちあふれていたら…、あたし、壊れちゃう……。
 容量がもう、耐えきれない…。
 あのね、七海……、お金っていうのは、みんなわるくいうけど、そんなことない……弱いひとの心を剥きだしの親切からちゃんと守って、役に立ってくれてるの……そう、お金っていうのはね、七海、この世のそうした親切を隠すために、あるんだよ……。
 
 クライマックスの真白のこのとどめのささやきをスクリーン越しに聴いたとき、僕は、不覚にも涙がこぼれちまった。
 映画のクライマックスのこの場面、このセリフを歌わせるために、すべてのシチエーション、すべてのストーリーが入念に編まれていたなんて。
 構造的には、まさに「能」----七海がワキで、真白がシテで----真白にこの純白のアリアを歌わせるためだけに、この映画全体の額縁が必要だったんだなあ、なんて僕はつい思ってしまったよ。
 真白の死後の真白実家での大騒ぎは、まさしく挽歌でせう。
 名もなく、益もなく、世の淵から押し出されていく、小さな、キレイな魂たちにむけられた切なすぎる挽歌……。
 そうした意味で、こちら、非常に深い、近来珍しいタイプの宗教的な映画である、といっちゃってもいいのかもしれません。
 映画観て泣いたのは、僕、ひさしぶりでした。
 まあ映画ですから、好き嫌いとかもいろいろあるでせう。
 平明なタッチで描かれてはいるけど、こちら、とってもクセの強い映画だから嫌うひともそりゃあいるでせう。
 けど、そうした諸事情をあえて踏まえたうえで、僕は、こちら「リップヴァンウィンクルの恋人」を推薦したいと思います----。





 あ。あと僕、去年の師走に神保町を徘徊してとき、偶然、ピエトロ・ジェルミの「刑事」のDVD入手しちゃいました。
 「死ぬほど愛して」の主題歌で有名な、1960年封切りの、むかしむかしのイタリア映画。
 ピエトロ・ジェルミっていったら、あーた、あの「鉄道員」の監督兼主演の伝説男じゃないですか。
 (ただし、イーダちゃんは「鉄道員」にかけては、点が辛いの。あのラスト、甘すぎるってば!)
 あそこから甘さを剥ぎとって、極上のハードボイルドの逸品として仕上がっているのが、この「刑事」なのよ。
 時代の風俗もたまらんし、登場人物の人間臭さもいちいち濃すぎてまいっちゃう。
 「リップヴァンウィンクルの恋人」と並んで、このピエトロ・ジェルミの「刑事」も、この場を借りて推薦しておきたいですねえ----んじゃま、夜も更けたことだし、そろそろ星に帰りますかね?----どすこい、皆さん、お休みなさい……。(^0-y☆彡









  
 

徒然その218☆ 若林稔弥<徒然チルドレン>ってさ!☆

2015-10-14 00:35:48 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                             


 少年マンガなんてもうかれこれ20年以上読んでなかったんですが、今年の5月にパッキャオとメイウェザーの世界戦がありまして、たまたま「はじめの一歩」の森口先生が少年マガジン誌上で、この世紀の対決を事前予測してる号をコンビニで立ち読み中偶然に見つけまして、で、超・ひさびさ買ったんですよ---少年マガジン。
 まあ買ったらもったいないから、電車のなかとかファミレスとかで読みますよね?
 で、僕もそうしたんですけど、読んでみたらびっくりしたの、面白くて---。
 「はじめの一歩」以外はほとんどはじめて読むマンガで、ストーリーもキャラもまったく分かんなかったんですが、なんていうんだろう? 雑誌の見開きにエネルギーがあるんですよ---ピカーッって感じで。
 それまでの僕は、マンガといったらなんといっても少女マンガがいちばんよくて、その次に青年マンガがきて、最後に少年マンガがくる、みたいな図式を無意識に胸中に刻んでいたんですが、その図式、わずか30分でひっくりかえされちゃいました。
 おっと、凄えや、少年マンガ---!

 なにが凄いかというと、雑誌全体とページ全部にみなぎってるパワーがもの凄い。
 作品的に完成されてるとか、詩的情緒に満ちているとか、物語自体のプロットの練り具合が超複雑で、しかも、その完成度が凄まじく高いとか、そういった見地から見ると当然大人むきの青年マンガとか少女マンガのほうに軍配があがるんでせうが、雑誌をひらいた瞬間の瞬時の「掴み」---そのパワーと単純な引きの強さにおいて、少年マンガはあらゆるマンガを凌駕している、と思わざるをえませんでした。
 そうっスね---あえてコトバにするなら、それは、ビートルズの公式曲「ロングトール・サリー」のなかにみなぎってるエネルギーとちょい似てる。
 あれ、イントロ抜きの「あ・ごなテルあんとメーリー」っていうポールの絶唱シャウトでいきなりはじまるじゃないですか?
 もう単刀直入---余分なイントロもMCじみたもんもなんもなく、ぴちっぴちの生きのいい新鮮音楽が、突然目のまえでドカーンと弾けちゃうわけで。
 あれですよ、まさに。
 あれ、元歌は、もうちょっとブルーズくさいロックンロールなんだけど、ビートルズのそれの味わいは極めてポップ。
 うん、この「ポップ」ってとこがミソなんだと思う。
 ほかの遊びに夢中の子供をこっちに振りむかせるには、やっぱりそれだけのものがいるんスよ。
 「パワー」と「オリジナリティー」と、それとこの分かりやすい「ポップ」さと---。

 マンガといえば、つげ義春なんか僕は好きなんですけど、彼のマンガはねえ、どっちかというと「文芸」のノリじゃないですか?
 うん、「文芸」ってそれなりに素敵なんだけど、やっぱりいくらか染みったれてますからねえ---「生活」と「人生」と、あと、つかのまの「沈黙」と。
 こういうノリだと、現代のメジャーな少年マンガの誌面には、どうしても乗りにくい。
 (そういう意味でむかしのマンガ---ジョージ秋山の「あしゅら」とか永井豪の「デビルマン」、あと、とりいかずよしの「トイレット博士」を載せてたころの少年マンガってもの凄かったんだなあ! 感嘆)
 いまの少年マンガには、60年代から70年代にかけて満ち満ちていたような、あのアナーキーな神がかりのパワーはありません。
 社会の暗部やタブーには絶対触れないし、いっちゃんヤバイ部分は小器用にすり抜けていくし、ま、より洗練された形態に進化・特化しているといってもいいでせう。
 このスマートでお利口な「洗練」ってやつが、僕は、ダメなんだなあ---。 
 ドロドロのカオスが大好物なイーダちゃんとしては、どうにも喰いたりないっていうか…。
 僕は、クリームよりは40~50年代のブラック・ブルーズ、70年代ロックよりは、むしろウッドストックを取りたいニンゲンなんです。
 だから、時代に即して「お利口さん」になったマンガと会うのが嫌で、ずーっと敬遠してたって事情なのか。
 でも、パッキャオvsメイフィールド戦が機縁となってひさびさ見てみたなら、凄いっス---少年マンガ誌上は、もう才能の宝庫じゃないですか---!
 クラッシックな「七つの大罪」も、あいかわらずの男の子路線の「デザートイーグル」も、野球マンガの「ツースリー」も、みんなみんな凄い。
 みんながみんな、キラキラしてる。
 それは、作者であるマンガ家さんの悲鳴と引きかえのキラキラかもしれない。
 でも、キラキラはキラキラです---光ってるのはまちがいない。
 ページを繰りながら、僕、呻りましたねえ…。

 で、そのなかでもとりわけ感心したのが、冒頭にUPした若林稔弥(トシヤと読むのかな?)氏の「徒然チルドレン」だったんです。
 これには、やられた---。
 これ、前にでた四コマの名作「あずまんが大王」の進化型みたいなタイプの連作四コマなんですけど、これはいいっスよ。
 僕は、いっぺんでファンになっちゃった。
 なにしろね、これ、キュート---もう・ね---繰るページすべてが漏れなくキュート---!
 か、かわいい‥。

 この「徒然チルドレン」、主人公が複数いまして、その複数の生徒の学校生活における異性との日常的なふれあいを、それこそ素朴なタッチでマンガ的に表現していくんですけど、ねえ、その表現をこの作者にやられると、これがたまらない。
 ねえねえ、たとえばさあ、コレ、見てよ---




 ね・どーよ?(トいきなしヤンキー顔になって)好きなひとからメールが届いたときの、この歓喜の感覚におぼえがないとは、いわさない---。
 こうした、なんでもないちょっとした日常の動作に、作者の思い入れを乗せきる手腕において、この若林さん、巨匠っス。
 まだ新人さんかもしれない---僕はあまりマンガ界に詳しくないんで大きなことはいえないんですが---そういった外面的なキャリアとは無関係に、この作者さん、確実に「詩人の眼」を持っていて---
 僕は、恐らくそれにやられた。
 ええ、すぐに近くの書店に走り、「徒然チルドレン」全3巻を購入してきましたとも!
 コーヒー飲みながらそれ読んで---いやー、いい時間だったなあ。
 僕は、冒頭にUPした生徒会長と亮子ちゃんカップルがフェヴァリアット。
 2巻の「独裁」は、特によかですね~

 あ。あと、ひねくれ七瀬と加賀クンと天文部の絡みもなんか好き---。

 さらにいえば、加奈と千秋のくっつきそうでくっつかない、じれったい恋バナも好き---。

 といっても未読のひとには、なにいってるかサッパリ分かんないよねえ?
 というわけで、貴方もこれを読んだら近くの大きな書店にいき、若林稔弥の「徒然チルドレン(講談社)」を購入しませう---!
 キャッチーで、ほろ苦で、リアルに等身大で、そいでもってチェルシーで……こんなマンガはそうないと思う。
 うん、まちがいなく、これ、近来の傑作です---。(^o-y☆tyu!






徒然その211☆ なぜかアガサ・クリスティー ベストテン! ☆

2015-06-24 12:36:17 | ☆文学? はあ、何だって?☆

                            


 Hello、先日、箱根噴火調査に2、3日赴いたんだけど、人工噴火らしい証拠はあげられなくて、ややケションとなっているイーダちゃんです。
 しかし、まあ、それはそれとして、あんだけ人気のない箱根は未体験なんで、アレはある意味壮観でしたよぉ。
 特に早雲山に至るケーブルカーなんて、超・がらっがら。
 中国人の観光客幾組とネパールの坊さんくらいしかお客がいないんで、あれは、箱根を独占してるみたいで、ちょいと愉しかった。
 あと、強羅---地鳴りが、なんちゅーかもの凄かったのよ。
 強羅から大涌谷までは3キロくらいしか離れてないんで、臨場感はハンパないわけ。
 一軒だけあいてた駅裏のお蕎麦屋「手打ち蕎麦 春本」さん---ちなみに、こちらのお蕎麦、絶品でした(-_-;)---で尋ねたら、ゴーッっていう飛行機みたいな地鳴りが連日鳴りつづけてるんだとか…。

            
                 ↑超がらがらの強羅駅。ジェット機みたいな地鳴りがずーっとしてました。

 そりゃあまあ、そうなると家族連れのお客は引くわなあ、と、悄然と語るおじさんの顔を見ながら、僕はつい思ってしまった。
 観光で食ってる人達にしてみると、今回の火山騒動は、相当な打撃なんでせうねえ。
 ただ、問題があまりに大きすぎて、どうしたらいいかは分かりませんでした…。

 でもですね、実は、今回のテーマは、箱根火山じゃないのです。
 この箱根調査で、僕は、箱根湯本の定宿「かっぱ天国」に2泊したんだけど、この宿で僕はなぜかクリスティーに出会ったの。
 ええ、ミステリーの女王、聖書の次に読者をもっているっていう、あのアガサ・クリスティー---。
 「かっぱ天国」の宿泊棟には観光客向けの貸出用の本棚がありまして、僕、夜は湯浴みのあいまに本を借りて、それを流し読みしてたの。 そんなに本気で力入れて読んでるわけじゃなかったんだけど、その借りた本のなかにクリスティーのミステリーがたまたまあって、それがえらい面白かったんだ。 
 読んだのは「ポケットにライ麦を」と「予告殺人」---どっちとも超・面白かった!
 温泉湯治のあいまにミステリーって、いままでやったことなかったんだけど、これ、いいっスねえ。
 僕は、もー ハマってしまった…。
 
 で、それに触発されて、ここ1月ばかりのうちに、クリスティーを25冊、つづけざまに読んだんですよ。
 僕は、少年時から推理小説のファンなんだけど、クリスティーには正直疎かったの。
 あえて告白すると「そして誰もいなくなった」と「アクロイド殺し」と「オリエント急行の殺人」しか読んだことなかったんです。
 それまで、なんとなく彼女の作品って「軽い」なんて風に先入観もってたんですよ。
 なんでだろう? 当時の友人連の影響だろうか?
 そうして実際に読んでみると、彼女の作品が非常によくできてることに気づかされました。
 このひとって「ハズレ」がないのよ。
 どれ読んでもそれなりに面白く読めて、意外な犯人にびっくりさせられる。
 これは、単純に凄いことですってば。
 犯行トリックのバリエーションなんてもう1930年代にすでに出つくしてしまったはずなのに、彼女、共犯者とかいろんな切り口の手口を使って、作品の奥行を「ばぐーん」と広げているんだわ。
 あと、作家としての描写力---僕は、一時アメリカを風靡したヴァン・ダインのペダンチックなあの厭らしい知識の羅列なんかも案外好きなんですが、クリスティーの描写力は彼よりも一段上ですね。
 ヴァン・ダインは、自分の感性の升目に、キャラを閉じこめちゃうんですよね。
 だから、キャラがどっか窮屈げなそぶりで、あんま生き生きしてこない。
 理論派の先鋭みたいにいわれてるけど、僕、このひとは鏡花みたいな感性派だと思います。
 ディクソン・カーは、トリック重視しすぎ---小節全体のバランスがなんかヘン---あと、安っぽい魔術趣味が興をそぐきらいあり。
 エラリイ・クイーンは万能選手だと思うんだけど、あまりにもアメリカアメリカしてて、ちょっとゲーム臭が濃すぎる感じかな?
 そこいくと、クリスティーは進んでる。
 彼女、男性作家にありがちの、自分の世界観にキャラをむりやり閉じこめちゃうっていうアレをしないんだ。
 まずは、すべてのキャラを受容して、まずは彼等に自由にしゃべらせたり行動させたりして、そこから丁寧に物語を紡ぎだしていくわけ。
 ワンマンな指揮者が牽引するんじゃない、どっちかっていうとモダンジャズみたいなノリで物語全般が民主的に進んでいくの。
 むろん、彼女にも彼女なりの時代制約みたいなモノはあるんですが、彼女の場合、読み進めていくうちに、そんな時代臭はあんま感じなくなってきちゃう。
 隣町の友達の事件を見聞きしてるみたいな、なんだか身近なノリになってくるわけ。
 ニンゲンがよく書けてるんせいだと思います、特に会話が素晴らしい。
 会話のリズムっていうのか、そういうのが自然でとっても生き生きしてる。
 これ、若いときピアノ弾き志望だったのが影響してるのかしら?
 クリスティーの師匠筋にあたるイーデン・フィルポッツも、クリスティーのこの会話力は認めてたらしい。
 ただ、師匠のフィルポッツと比べると、やっぱ、クリスティーの作風はちがってますね。 
 フィルポッツの「赤毛のレドメイン家」とか「闇からの声」なんていうのは、僕は、豪華絢爛なオーケストラ・サウンドだと思うんですよ。
 彼、腕力ありますからねえ。
 むちゃくちゃ博識だし、それに追随するデッサン力も、人物造形も、丁々発止の駆け引きの表現も、あの江戸川乱歩が絶賛したように、どれもこれも素晴らしい。
 ただ、なんでだろう?---フィルポッツの作品って、やっぱ、ちょっと古びて感じられるんです。
 僕は、彼を読んでると(といっても読んだのは20年くらいまえだけど)、なんちゅーかスティーブンソンの「宝島」あたりを読んでる気にいつもなってくるの。 
 やっぱり古典のひとなんですよ、フィルポッツ氏は。
 いまいちシェークスピアを振りきれてないっていうか、読んでると、どっかで禁欲的なカトリック世界の過去臭が香ってくるみたいな---そこいくとクリスティーっていうのは、これは、ポップスなんです。
 シンプルでスピーディーで、なんともキャッチーな---。
 バックの和音ひとつにしてもフィルポッツみたいなオケのぶ厚い和音じゃなくて、シンプルなバンド編成だから、こっち的にも気軽に聴けるわけ。
 あと、古いひとのはずなのに、ふしぎなくらいふつんと過去から切れてるの。
 物語の展開も、4分の4拍子とか4ビートじゃなくて、彼女、完璧8ビートしてるしね。
 たしかに軽いよ、それは否定しない、でも、殺人犯の内面を解剖しすぎちゃったらドストエフスキーになってエンターテインメントの矩なんてすぐ越えちゃうし、陰気すぎるとこれまた読んでて息苦しくなっちゃうし、そのへんのバランス感覚っていちばん難しい部分なんじゃないかな?
 クリスティーがなにより秀でてたのはそこだ、と僕は思うのよ。
 推理小説の最高峰は、僕は、いまだエドガー・アラン・ポーしかいない、と思ってる。
 クリスティーは、ポーみたいな神経の塔の頂上を極めた天才じゃない。
 けど、彼女は、それに代わるモノをもってました。
 それは、ジャパニーズ・花板の包丁さばきみたいな、俊敏で、はしこく、華麗でいて極めて実利的・現実的な感覚というか。
 濃厚なロマンティスズムに染まらず・溺れず、あまりに功利的すぎるマキャベリズムにも流されない、ある意味クールな彼女独自の羅針盤のようなものなんです。
 これがあったから、クリスティーの作品は、いまも時のもたらす風化にも耐え、生きのびていられるんじゃないかしら?
 僕はクリスティーのこの感覚って、現代のマンガに通じてる部分も相当あるんじゃないか、と感じてもいます。
 この身軽な佇まいというか、自由でモダンな空気というのが、僕は、彼女の作品世界がかくも世界中で受け入れられている理由だ、と思うんだ。
 この女臭くない、なんとも肌触りのいい女性目線を感知愛好しなきゃ、それは、読書好きとして大損だって。

 ま、前口上はこれくらいにして---では、クリスティー作品のベストテンにいよいよいきますか---


                     <アガサ・クリスティー・ベストテン by イーダちゃん>

             1.そして誰もいなくなった
             2.五匹の子豚
             3.鏡は横にひびわれて
             4.ナイルの死
             5.ポケットにライ麦を
             6.オリエント急行の殺人
             7.ゼロ時間へ
             8.牧師館の殺人
             9.白昼の悪魔
             10. 復讐の女神



★1位の「そして誰もいなくなった」は、クリスティー・マニアからすると「ええ~っ!」と失望溜息モンのセレクトかもしれないけど、ごめんね、これだけはどうにも譲れない。
 赤川次郎もいってるけど、これ、やっぱり凄いっスよ。
 僕は、これ中一のときはじめて読んだけど、読み終えて茫然となったもん。
 小説のかたちはしてるけど、この作品の本質は手品ですよ。
 「アクロイド殺し」はアンフェアだと思っててどうしても認められないけど、これはちがうんじゃないですか?
 コンパクトでシャープに切れて普遍性もある傑作だ、と僕は思います。
 インディアン島に響きわたるマザーグースの歌が、不気味わるくて、もーワクワクもん。
 童謡殺人の先鞭をつけたのは、ヴァン・ダインの「僧正」だけど、この作品、完全に「僧正」を上まわっちゃってる、いわば決定版。
 むろん、必読! あしたのために読むべき比類なき傑作でありまする。
 
★2位の「五匹の子豚」ってのは、これは、僕の趣味セレクト。
 したがって、あんま一般性はないと思う、知名度もほかの夕名作ほどないし。
 でも、これ、傑作---回想の殺人ってジャンルは、ひょっとしてクリスティーの独創じゃないかもしれないんだけど---過去にテイの「時の娘」なんて秀作もありますからねっ---このジャンルをここまで成熟させたのは、やっぱクリスティーの功績でせう。
 僕は、この作品内で殺される、被害者の画家の濃ゆいキャラが、まず大好き。
 あと、当時の事件の関係者に皆手記を書かせて、それで小説を構成させちゃうなんて、なんか現代南米小説のパルガル・リョサの「緑の家」やプイグの「蜘蛛女のキス」みたいでカッコいいじゃないですか。
 それに、超・余韻の残る、クリスティーには珍しい、因果な「人生」の香る名ラスト。
 僕的には、この作品、贔屓筋にして推したいくらいの、とびきりの佳品なんですけど…。

★3位「鏡は横にひびわれて」---これは、完璧少女マンガですね。
 ニッポンに少女マンガってジャンルが誕生するはるか以前の少女マンガ。
 この作品の通奏低音としてたえず流れてる、テニソンの詩がなによりアンティックでいい香り…。
 僕、テニソンの詩は、最初に「赤毛のアン」で知ったのですが、シャルロット姫ごっこで溺れかける、あのアン・シャーリーのキュートな逸話が、どうしてもこの作品中にもこだましてきてしまって、とても客観的には読めなかったな。
 犯人の動機にはもう愕然!---これは、オトコには決して書けない種類の話でせう。
 ラストで自死しちゃったヒロインを、テニソンの詩の花束で見送ってやるのも、完璧少女マンガの見開き2ページのラスト手法をすでに先取りしてて、もうたまらんの…。
 とってもきめ細かい生地の香り高き秀作なり---あ。ちなみにイーダちゃんは、ポワロよりミス・マープルもののが好きであります。

★4位「ナイルに死す」は、誰もが推理小説って聴いたときに脳裏に閃くだろう、推理小説イメージの完成形。
 これぞ横綱って感じの、純正英国印の王道的作品でせう。
 舞台がエジプトっていうのもエキゾチックでよし---僕は「メソポタミアの殺人」も「カリブ海の秘密」なんてのも読んだけど、海外ものでは、これがいちばんいけてる気がします。
 セレブ観光旅行御用達の客船上でおこる密室殺人---これは、推理好きなら誰でも萌えるって(^^ゞ
 たしか、何度か映画化されてもいるはずです。
 トリックの出来もクリスティーものの白眉といっていい---まえから思ってたけど、クリスティーって共犯者の使い方がとても上手いっスねえ?
 あと、一端犯人と目された男の嫌疑が晴れて、新たな真犯人が探されはじめるんだけど、いざ事件が解決してみれば、最初に犯人リストからはずした最初の容疑者が実は真犯人だったみたいな---。
 そのあたりの複雑繊細な騙しの重層テクは何度読んでも凄いや。
 あ。これ、エルキュール・ポアロが大活躍しますんで、彼が好きなひとには特にお勧め。

★5位の「ポケットにライ麦を」は、僕をクリスティー世界に再び誘ってくれた記念碑的作品。
 作品的な出来は、クリスティーからすると平均的水準なのかもしれないけど、僕は、この作品の細部細部がとっても好み。
 庭の毒のあるイチイの美しい木々、ッサイコパスの殺人鬼、そして、クリスティー十八番のマザーグースの童謡…。
 犯人に騙され殺される、ミス・マープルの元女中さんがなんとも憐れでさあ…。
 事件がすべて終わったあとで、死んだ彼女からの遅れた、犯人の写真入りの手紙がミス・マープルのもとに届くどんでんラストが超・泣けました---。

★6位の「オリエント急行」は、中学のとき読みました。
 そのときはもう犯人知ってて読んだものだから、正直まったく面白くなかったの。
 でも、今回再読してみたら、これ、スゲーよくできてるねえ。
 フツーの推理小説の枠を超えようってクリスティーの野心が透かし見える、これ、傑作だ、と思いなおしました。
 ちょっと純文的な領地にまで踏みこんじゃってるお話ですよ、これは。
 雪で立往生したオリエント急行ってシチエーションも密室的に大変グー。
 読後のビターで複雑なな味わいは、クリスティー小説のなかでも白眉なのではないかしら? 

 ま、ね…、だいたいにおいてこんな感じかな?
 あ。「検察側の証人」「ねずみとり」なんて戯曲群も読んだけど、クリスティーの戯曲は、僕は、あまりにマンガチックな気がします。
 登場人物が、デフォルム効きすぎて、その結果あんまりキャラが立ちすぎてて、ちょっとしたギャグマンガみたいに思えてきちゃうのよ。
 最近評価の高い「春にして君を離れ」も一応読んだけど、うーん、これだったら僕はやっぱりジョイスとかガルシア・マルケスなんかのほうを取りますね。
 よくできてるポップスなんだけど、このテーマを扱うのに、ポップスの文脈だけだと、やっぱりなんか足りないのよ。
 ニンゲン内部のドロドロを描くなら、作者自身も地獄の泥をもっと被らなければ…。
 そういった意味での「狂気」が、クリスティーには欠けている、と僕的には感じられます。
 クリスティーってそこまで親切じゃないのよ---登場人物の内面の奥底まで侵入してって、そのまま心中するのも厭わないみたいな、そのような「詩人魂」は彼女のなかにはありません。
 クリスティーは、ランボーやゴーゴリみたいな怪物じゃない、なんちゅーか、もそっと一般人寄りのひとですよね。
 フツー基準に親切で、フツー基準に薄情で…。
 でも、だからこそ現代人の共感をこれほどまでに呼べるのではないでせうか---ねえ?

 なあんてずいぶん生意気なこといっちゃいましたけど、イーダちゃんは、クリスティー大好きですから、念のため---!
 仕事に疲れはてた寝床前、脇においた挽きたてのコーヒーをときどき飲みつつ、クリスティーのミステリーを読むときのあのパラダイス感覚---あれは、ちょっとほかでは味わえないくらいの、一種とびきりの娯楽なんですよ、僕にとって。
 ですから、クリスティーには感謝してます、とっても。
 最後まで軽やかなフットワークを失わなかった、そんなクリスティー女史にコーヒーカップ一杯分のささやかな感謝の念を捧げつつ、約ひと月ぶりのこの投稿記事もそろそろ閉めることにしたいと思います---お休みなさい---。


     
 

 
 


 


                    
                        


徒然その210☆ 高貴な自閉症児<マグリッド >☆

2015-05-11 23:37:33 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                


 先月と今月、多忙の隙をぬって、六本木の新東京美術館で開催されている「ルネ・マグリッド展」にいってきました。
 絵とはだいぶ離れてる時期ってのが僕にはあって、正直、疎遠の度合いは相当レベルで進んでいたの。
 でも、最近知りあった絵好きのギャルの影響で、そっち系の世界にまた関心もつようになってきた。
 で、そのギャルがいっちゃん好きな画家が、マグリッドなんですよ。
 だから、まあ、マグリットを実際に「体感」しにいってみたわけ---まえのバルデュス展のとき、印刷された絵と実物絵とのあいだに、それこそ数光年の隔たりがあることに気づいて、まさに愕然とした経験がありましたから。
 
 バーチャルじゃない、展覧会という現場で体験した生「マグリッド」は、ふしぎでした…。
 たぶん、このへんなんじゃないのかなあ? なんて僕のさもしい高さ予測を見事なまでに飛びこした、圧倒的なふしぎ感が会場いっぱいにクールに充満してて、その空気にすっかりあてられた僕は、ひさしぶりに日常のごたごたオーラと完璧に切れた、無心の散歩を愉しむことができたんです。
 展示場の角をまがって新しい絵がバンと視野に入るたび、僕、ぷっと吹いちゃった。
 爆笑というんじゃないけど、自然に笑っちゃうの。
 あまりにも生真面目で、突飛で、偏屈で、ひねくれてて、こっちの意表をついて、とにかくユニークなんだもん。
 でも、これは僕だけじゃなく、同行したギャルも、それから、ほかのお客さんらも、結構な確率で笑ってました。
 これ、案外、重要な特徴じゃないか、と僕は思います。
 うん、マグリッドの絵って、笑いを呼ぶんですよ。
 ピカソは?---僕は、笑えない。
 ダリは?---絵にまとわりついてる情念が濃すぎて、やっぱり笑いはでてこない。
 マグリッドって、なんていうか、ちょっと乾いてるんですよ---徹底的に自分を突きはなしてるというか、ものすごーく客観視してるというか。
 極端にいうと、自分自身の感情の動きすら、絵のための実験材料として、ほとんど科学者のような冷徹なまなざしで計量してる風に見える瞬間すらある。
 第3の眼というか、なにか超越的な視座を、肉体の外になんとしてでも設けようとしている動向とでもいうんでせうか。
 このほとんど本能的なまでのマグリッドの体臭隠しの性向が、マグリッドならではの超・個性的な宇宙を構築している主犯なんじゃないか、と今回僕は感じました。

 あとね、マグリッド作品全般に対する先入観として、なんか、このひとのアートってポスターチックだよなあっていうのが、僕的にあったんです。
 だってさあ---



 上の有名な2作品にしても、どっちとも非常に、なんちゅーかポップアート的佇まいじゃないですか。
 キャッチーなコピーを脇に添えれば、そのままどっかの会社の宣伝ポスターとして充分使えそう。
 絵に精魂こめて自らの祈りの世界を編みあげる、みたいな古典的作画姿勢はかけらもなくて、絵の主題自体が、絵そのものよぐーんと目立って見えちゃうというか---そういった姿勢をあえて匂わせているスタンス、というか…。
 あと、このひとの絵って「音」がしませんよね?
 うん、基本的に無音だと思う---マグリッドの提示してくるヴィジョンって。
 たとえば、ダリの絵なんかだと、いろんな音が溢れまくってるんですよね。
 僕は、ダリの絵世界には、古典的芸術家の真摯な感情のさまざまなきしみが、いっぱい盛られてるように感じます。
 だから、そっちの感情面のベクトル側から眺めてみるなら、ダリは、わりと分かりやすい画家なんですよ。
 提示してくる幻想はシュールであっても、それに付随して響いてくる感情の流れは、なんというか素直です。
 たとえば、あのサルバドール氏、ジョン・レノンが好きで、ジョンと会ったとき、とてもはしゃいで「僕はイモムシになっちゃった、イモムシになっちゃったよ~」といって絨毯を這いまわったそうです。
 少々エキセントリックだけど、僕は、こーゆー無邪気なふるまいって結構好き。
 その種の無邪気さって、よく見るとダリの絵世界のなかに、かなり投入されてるんですね。
 だから、僕等は、ダリの絵を見て、逢ったことのないサルバドール・ダリという異国の男の、一種の「人間臭さ」に触れることもできるわけ。
 でも、マグリッドは、そうじゃない。
 彼の絵のなかの時間は、とまってます。
 人間臭い情念の澱も、注意深く入念に漉しとられてる。
 画布と画家とのあいだに距離がある。 
 しかも、その距離は、マグリッド自身が企んだもの。
 マグリッドは、会ったことがないんでなんともいえないんだけど、たぶん、ただの無邪気人じゃない。
 どちらかといえば、複雑繊細な自我をもった、他人との距離感に非常に気を使う、いわゆる典型的な近代人の面影をもったひとだったように思います。
 会場で57年にマグリット自身が撮った家族間のホームビデオを公開してて、たまたま僕はそれを見たんですけど、それを見たかぎりじゃ、彼は、非常に夫婦間の愛情に厚い、ユーモアのある紳士といった印象でした。
 音楽家でいえば、めったにひとをわるくいわないピアニストのルービンシュタインにまでひどく嫌われて、「厭な奴」とまでいわしめたクロード・ドビッシーより、もっとラベル寄りのタイプ---。
「スイスの精密時計」とまでいわれた、あの完璧無比の技をもつ凄腕の音楽職人、あの「ボレロ」のモーリス・ラベルは、ルービンシュタインやホロヴィッツにいわせると、非常に人付きあいのいい、細かい心配りのできるナイスガイだったそうです。
 そんなナイスガイが、張りつめた神経の細糸で編みあげたような、あれほどの完成度の藝術をなぜつくれるのかは謎ですが、僕は、マグリッドの絵を眺めながら、どうしてかラベルの音楽のことを連想せずにはいれませんでした。
 タイプ的には少々異なるキャラのおふたりですが、根本のところでは両者には共通項がある。
 それは、ふたりとも「決して告白しない」芸術家である、という点です---。

 というより、告白しないことを自らの掟にしていたふたりである、といったほうがより正確かな?
 マグリッドもラベルも無類のメチエの冴えを誇った、いわゆる職人肌の芸術家でありました。
 「告白しない」「職人肌」と、こうふたつの特徴をならべてみると、我が国の三島由紀夫なんて方もちょっと思いうかんできますね---僕は、彼の文學は大嫌いなんだけど。
 ま、しかし、そのように自己を告白しようとしない、依怙地な子供がいいんと顔をゆがめた刹那の印象をそのまま形象化したような、彼の諸々の画布と美術館で実際に対面してみますと、なんというか、ゆらめくような凄いインパクトがあったんですね。
 去年、僕は、上野のバルティス展にもいったんだけど、バルティスの場合、絵世界がまだ文学的なんですよ。
 だから、自分がバルティスにやられてゆらめくときのゆらめきの総量が、なんとなく予測できるわけ。
 でも、マグリットは予想できなかった---美術展いってあんなに笑ったのは、僕、初めてです。
 笑うって、実は凄いことなんですよ。
 ギャグで笑うとか漫才で笑うとかはべつとして、あまりにも自分内予測を超えたものに遭遇すると、ひとって自然に笑うんです。
 そういえば全盛期のホロヴィッツの爆裂演奏を聴いたホールの聴衆が、演奏途中でげらげら笑いだした、なんて逸話が残ってますけど、そのときの聴衆のびっくり加減、僕もよく分かるなあ。

 マグリッドの絵には、そのような「笑い」があった。
 とっても淋しくて怖い世界なんだけどね---でも、どうしてか知らず知らず笑えてきちゃう。
 まあ、あんま能書きばかりならべてもしようがないので、美術展のなかで感銘を受けたいくつかをここに紹介しておきませうか----




 左上の絵は「記憶」、右上の絵は「人間の条件」---。
 どっちともネットで画像拾えなかったんで、仕方なしに携帯で絵葉書写してあげたものです。
 当然、画像も荒く、色も汚くて、現物の極上絵と比較できたもんじゃない。
 でもまあ、面影くらいは伝わってくれるんじゃないかな?
 どっちもわりに文学的読みの可能なタイプの絵なんですけど、特に右の「人間の情景」内の、透明なキャンパス越しに見える「木」のなんたる美しさ!
 僕は、この絵自体は知ってたんだけど、印刷写真は現物の絵の美しさをまったくといっていいほど写しきれておらず、この絵のまえに立ったときはマジびっくりした。
 ええ、この木の枝々と緑の葉のかもしだすみずみずしさに、目線を折りとられるようでした…。
 なんだろう、この匂いたつような、胸を締めるつける郷愁の翳りは…?
 けど、たぶん、このネット上の写真じゃ、ほぼ絶対この「感じ」は伝えられないと思う。
 いま自分でこれ見ても、右の絵の木はなんだかもやもやと輪郭がふたしかだし、左のね「記憶」にしたって、背景の荒さばかり目立って見えてきちゃうし。
 でもね、マグリッドの現物はちがうのよ---右絵の木は観察者の眼を痛くするほど鮮やかだし、左絵の曇り空も、幾層にも繊細に塗りわけられた影の感じが、見てるひとの深層心理までゆらすのよ。
 そう、理性にでなく、教養にでもなく、深層心理にむけて語りかけてくる絵なんだな…。
 饒舌か寡黙かというなら、もちろん寡黙のほう。
 というか、寡黙の極致といってもいいかも。
 普通のひとは意識や理性にむけて使う言葉を整備してるから、マグリットの使う言葉には、うまく対処できないし、よく理解もできにくい。
 なにせ、心の奥のそのまた奥にむかって発せられた言葉だから、聴きとめることすら難しいの。
 そもそもの受信回路がないんだから、むりないって。
 でも、彼の寡黙な「ふしぎな言語の響き」にふれると、やっぱり耳をとめて立ちどまるわけ。
 彼の投げかけてくる音のないふしぎな言葉は、それくらい魅力的な響きをさせてました。
 僕が、先月・今月とマグリット展にいって体験したのは、だいたいそんなようなことだったんじゃないか、と自分では思っています---。

       

 で、展覧会から帰って2、3日してから、ふいにその感覚を思いだしたんですね。

----あれ、そういえばあの絵の感覚、どっかで感じたことあったぞぉ…。

 記憶の引き出しをあちこちあけて検討してたら、やっと思いだせた。
 それって、いつか豊島区でひらかれた、自閉症児の展覧会でした。
 僕の仕事はいま福祉系だから、そっちの方面のことには自然興味がいって、そういった催しがあると、なるたけ出向くようにしてたんです。
 そのとき展示されていた自閉症児たちの絵と、マグリットの絵はとてもとく似ていたんです。
 絵のなかの時間がとまったような、あの感じ---。
 凍結した風景のなかで、無表情な子供がじーっと上目遣いでこちらのほうをうかがっているような、奇妙に薄ら寒い、あの独自の対峙感は、たしかにマグリッドの絵世界のもつノリに酷似してました。
 プライバシーとかもあるんで、あいにくのことそのときの展覧会の絵をそのままアップすることはできないんですけど、その代わりにネットで見つけたそれとよく似た香りのする自閉症の子の作品を、ひとつここにあげてみませうか---

                   

 マグリッドの時間を超越した、世界の終わりの情景をデッサンしたような、あの独自の世界の秘密は、僕は、そのあたりにあるんじゃないか、と睨んでる。  
 ひょっとしてマグリッドは、繊細で依怙地で頑なな、そんな自閉症気質の子供のまま、大人になったひとなんじゃないかしら?
 僕は、彼の生涯についてはあんま詳しくないんだけど、その気質から察すると、生きていくうえでの葛藤っていうのはハンパなかった、と思う。
 ホームビデオに見られるいかにも人の好さげな紳士顔のうしろに、これほど繊細深淵な世界を隠しもっていたマグリッド…。
 ただ、素直に「偉いなあ」って思います。
 マグリッドの絵が時代を超えて常に新しいのは、彼が、時代を超えた秘密のお城にひとりぼっちでずっと住みつづけていたためです。
 マグリッドは、生涯そのお城に居住しつづけました。
 そして、そのお城の窓から眺めた世界のありようが、そのまま彼の絵になった。
 彼に奇妙な絵に、ほかのシュールレアリズムの画家のような作為やあざとさが見えないのは、たぶん、そのおかげ。
 彼は、当時流行ったていた「苦悩の芸術家」みたいな仮面を、一度としてかぶりませんでした。
 シェークスピア役者のような大仰な愁嘆場を演じようとしたこともない。
 彼は、いつでも謙虚で、寡黙で、正直でした。
 生涯自分のままでありつづけ、また、そのような自身の宿命に黙って殉じきったのです。
 僕は、そんな風に読みたいなあ---。


×             ×             ×


 後半2つめにUPした絵は「ガラスの鍵」---僕のフェバリアットなマグリッド作品のひとつです。
 これ、今回の展覧会にも出品されているので、ぜひ現物をご覧になって、そのビザールな味わいにめまいしてください。
 僕的には、これ、とっても郷愁を感じる作品なんだけど…。
 今回の展覧会には、総計して10時間くらいいましたかねえ。
 幸い、六本木新国立美術館の「ルネ・マグリッド展」は、6月の中旬までやってます。
 マグリッドの絵に忍んだ「ガラスの鍵」でもって自身の心の鍵をあけ、自分自身もこれまで知らなかった、自分内の秘密の石造りの庭園にでて、ひっそりと午後の野のかおりを深呼吸するのは、人生で味わえる快楽のなかでも最上ランクの歓びのひとつであるか、と存じます…。
 


 

   
 
 
 

 
 
 
 

徒然その207☆ 恋は雨上がりのように ☆

2015-04-21 16:15:33 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                      


 時代の最先端をいくのは少女マンガだ---と、ずっと思ってました。

 ひとむかしまえには、ストーンズとかジャニスなんかのロック勢が最先端きってた時代もあったんですよ。
 でも、いまじゃ誰もロックが最先端だなんて思ってないでしょ?
 僕も思ってない。 
 ええ、いまやロックは---ていうか、ロックってジャンル自体まだ残ってるのかな?---あっちサイドの音楽。
 反体制のスタンスを売りにしてる音楽はいまもあるけど、そっちのカラーを売りにしてる打算のほうがどうも濃厚ですよねえ。
 かつてのロックの精神をマジで継承してたと僕が思うのは、RC の故・キヨシローさんぐらいかなあ。
 うん、あんだけハチャメチャでピュアだったロックもね、時とともに牙を抜かれ、青春期をすぎ成熟(?)して、いつのまにか物わかりのいい、座りのいい、保守的な大人の音楽になっちまったんですよ(トここでため息ひとつ)…。
 ロックンロール・パパのひとりである、偉大なるチャック・ベリーはかつて「大人になるな」といいました。
 でも、ロックは、その「掟」破っちゃったんだなあ---成功、金、女、栄華なんか諸々の媚薬にやられてね。
 僕にいわせると、奴、「堕ちた」んですよ。
 ですから、僕は、いまのロックには、まったく魅かれません。
 ロックはもう、凄くない…。
 凄いといったら、メジャーになって時代のプロデュースだとかやたらほざきたがる、そっち系の男性理念=いわゆる妄想企画症候群からまったく離れた周辺に、独自のスタンスでもって存在しつづけている、少女マンガのほうがよっぽど凄いって---。

 マジ凄いスよ、少女マンガって。
 どこが凄いか---それはね、男性マンガの屹立する世界が、いつも出世だとか闘争だとか(スポーツものも当然これに∩)の、いわゆる「社会的」なしがらみからどうしても離れられない息苦しい宿命を感じさせざるをえないものであるのに対して、少女マンガは、それとはまったくちがう恒星まわりを自転周回している、完璧に異種の惑星だってとこでせう。
 ええ、少女マンガって実はとびきりエゴなんです---社会とか義理とかそんなモンはどうでもいいの。
 大事なのは、ただひとつ---自分内の「胸キュン」だけ…。
 この「割り切り」加減って、僕等男性陣からすると、もの凄えアナーキーな姿勢に見える。
 だって、野蛮すぎじゃないですか、社会的通念をこれほど足蹴にする視点って。
 でもね、逆にいうと、とっても新鮮で魅力的…。

 僕は、15の春に、妹に借りた「りぼん」か「ひまわり」だかで(詳細不明、覚えてないの)まず「キャンディキャンディ」と一条センセイの「砂の城」、陸奥A子の乙女チック路線、あと、清原なつのセンセイのポエジー世界(そのへんの詳細は 徒然その19☆清原なつのによろめいて☆ で特集してます)にずっぷりハマり、つづいて、大学で借りた「ガラスの仮面」「吉祥天女」「四月の庭の子供たち」「なんて素敵なジャパネスク」、青池センセイの「エロイカより愛をこめて」等にハマり、年がら年中そればっか読みこんでたわけじゃないんですが、これらの作品の面白さにすっかり魅せられ、そのようなわけで少女マンガ界隈には、いつもアンテナ立ててたんですよ---。

 そしたら、今年の4月、桜前線とともに、きたきたやってきましたー!
 それが、この眉月じゅんさんの「恋は雨上がりのように(小学館)」だったんです。
 雑誌見て知ったんじゃない、地元の本屋で表紙見て、なんかピンときたの。
 で、会社行くとちゅうのファミレス店内でささっと読んじゃったんですけど、いいっスわ、これ。
 僕、ひさびさ魅せられましたねえ…。
 ま、ストーリー自体は、非常に単純なんですよ、この作品。
 17才の無表情JKが、バイト先のファミレスのバツイチ・45才店長に恋をするっていう、いってみればそんだけの話。
 奇をてらったり、ポエジーを全開にして、作品全体が歪んじゃう、みたいなカルトな手法も使ってなくて、ま、バランスのとれた、クラッシックな正当路線の書き方だといえるんじゃないかな。
 絵も、この眉月さんは正統派---あ。このひと、線、綺麗ですねえ!---だけども、読みすすめていくうちに、いつしかこの17才ヒロイン・橘あきらの恋心に、なぜだかぐんぐん引きこまれていっちゃうの。
 橘ちゃんが店長から電話がかかってきて、嬉しくてつい脚をバタバタさせたり、雨でずぶ濡れになったまま超・ストレートに「あなたのことが好きです」と告白したり、そのあたりのシーンのみずみずしさと内包された胸キュン・パーセンテージは、ちょっと文章じゃ表現しきれない。

----うん、わかるわかる…。恋愛初期のアレって、たしかにそうだったよなあ…。

 橘ちゃんのまっすぐな目線につられて、記憶の底にあったほろ苦い記憶の数々が、いつしか呼びさまされてきたり…。
 葬ったはずのそれらの記憶が蘇るのは、さぞ厭だろうと本能的に忌避してたんだけど、出戻ってきたそれらの過去とこうして対面してみると、案外、このシチエーションって不快じゃないんですよ。
 それどころか物語を読みすすめながら、僕は、このほろ苦い再会を結構楽しんでいる自分に気づいたりもしたんだな。
 橘ちゃんに惚れられるこのラッキーな店長さん、どうやら隠れ文学好きらしいんです。
 で、作者は、この店長さんに、橘ちゃんとの初デートのあとでこんな風にモノローグさせてる、

----ハハ…やっぱつまんなかったか。当たり前だ、こんなオッサンと。

 自嘲に慣れたひと特有の、人生に対して斜に構えたあの独自の猫背目線で。
 けれども、そうやってことあるごとに実生活のニヒリズムに帰りたがる、そんな店長のくたびれきった心情を、17才の橘ちゃんが、もちまえの純な目線と表情と言動とでもって、そのたびに感動に満ちた別位相の人生ロードに強引に引きもどしちゃうわけ。
 店長は、そんな橘ちゃんの若さと純な恋心とについ見惚れてしまう。
 そして、同時に、橘ちゃんが、自分を連れていってしまうかもしれない「場所」をひそかに予感し、恐れてもいる。 

----しきりに、胸が締めつけられるのは…その若さと純粋さ。そして、もう若くはない自分へのいたたまれなさ。周りの目だけが理由なんじゃない。なにより俺が、傷つきたくないんだ…。(2巻:店長モノローグより)

 冴えない中年族である店長は、橘ちゃんの放つ眩しいオーラから、どうしても目が離せないんです。
 いいっスねえ--惧れと期待との繊細な相克…。 
 橘ちゃんが最初の告白のあとの雨の宵、バイト先の「ガーデン」の事務所で、店長に自分の告白の返事を迫るくだりなんかは、特にたまんない。

----あと店長、あの日あたしが言ったこと本気ですから。あたし店長のこと好きなんです。店長はあたしのことどう思いますか? 返事を、きかせてください…。

 なんちゅーストレートさ! 打算も計略もなんもない、無心の彼女のこの再告白は、読者の目線を強引に絡めとります。
 この物語のなかには、そんな純粋な「きらきら」感が、ええ、まさに雨上がりのように横溢してるんですね。
 彼女が好きになる店長の45才って年齢も、物語的に凄く効いてる。
 世間を知って、ちょっとばかしすり切れてもいる、店長のいくらか引いた、翳りのあるこの視点があるからこそ、ヒロインの橘ちゃんの恋路の「純さ」が、余計に浮かびあがってまぶしく見えてくる構造っていうか---。
 よくある少女マンガなんかだと、世間的目線をあえて排除したうえで、自分たちだけの、手狭だけど純粋な恋愛ポエジー空間を構築して、そのなかでなんとなく自己充実しちゃう、なんてパターンがわりかし多いわけ。
 でも、「雨上がり」はちがうね---ちゃんと、大人側の視点も組みこんだまま、この恋愛をていねいにデッサンしていこうとしてる。
 店長と橘ちゃんとのそれぞれの「今」を、リアルに、かつ、ポエジーにも溺れず、真正面のアングルから見つめながら。
 僕が特に好きな場面は、そうだな、バイト中、スマホを忘れてチャリで店をでたお客を、橘ちゃんが元・陸上部の俊足でもって追いかけるこのシーン---


                       

 これ、物語中のふたりのキャラを、象徴的に総括しちゃってるシーンなんですってば。
 恋になんの迷いも躊躇もなく、心のままにまっすぐダッシュをかけちゃう17才の若い橘ちゃんと---
 彼女のそんな若さがまぶしくて、愕きとかすかな惧れとに同時に引き裂かれる思いの店長と…。
 いいなあ---ほんの1ページのシーンに、これだけていねいにいろんな思いがパッケージされてるなんて。
 語り部のこの誠実でまじめな梱包姿勢に、イーダちゃんはとっても魅かれるものを感じます…。
 
 
                          ×             ×             ×
 
 ここでヘンな分析は、僕はなるたけ慎みたいんだけど、これ、ひとむかしまえの「高校教師」とか「幸せの時間」だとかでさんざん退廃の円弧を巡ってきた、ここ3、40年ばかりの恋愛の流行が、ようやくのこと一巡して、あの「伊豆の踊子」みたいな純愛路線に回帰しようとしている、いわゆる先駆けの作品なんじゃないかなあ。
 まえから僕ずっと思ってたんだけど、いちばんHなのってやっぱ「純愛」ですよ。
 どんな不倫ものより、乱交・変態ものより、「純愛」のほうが絶対H---。
 肉の交換はどこまでいっても所詮それだけのものだもん---恋の基本は、やっぱ、目線の交換、そこから相手の気持ちをそれとなく探り、想像し、相手のたったひとつの言葉で、あるいは目線で、途端に幸せになったり不幸になったり…。
 このドラマチックな展開こそ、2000年来つづいてきた恋の王道ですよ。
 退廃も、乱交も、変態ものも、SMも、ま、それなりにいいけど---僕は、クラッシックな純愛ものがいちばん好きです。
 ほかのものはいざ知らず、やっぱりさ、恋愛だけは、きらきらしていなくっちゃ!


 で、いきなし話飛ぶんだけど、この「恋は雨上がりのように」に出会うまえは、僕、魚喃キリコさんに凝っていたんです。
 彼女の作品、みんないいんだけど、ベストをあげろっていわれたら、やっぱ「blue(マガジンハウス)」かなあ…

       

 キリコさんは、眉月さんとちがって完璧詩人タイプのマンガ家さん。
 セリフも絵もコマわりも線も、なにからなにまで痛いひとでして。 
 ものすごーく繊細で優しいんだけど、その優しさって、なんか見てるのが辛いタイプの優しさなのよ。
 ちょっとレズっぽくもある、中二病的要素も加わる恋愛模様を、これ、描いたものなんだけど、ここまでポエジーが溢れまくっていると、もう読んでるだけで辛く息苦しくなっちゃうから、アンチ・キリコのひとなんかもたちまちでてきそう。
 僕は、このひと、超・大好きなんですけど…。
 ただ、ネットに作者の顔写真がでてたんで見てみたら、あんまりフツーの美人さんなんでびっくり!
 僕は、てっきり、あのシャンソンのブリジット・フォンティーンみたいなひと想像してたんだけど、こんな一般美人の顔でもって、こんなに痛い作品を生みだせるもんなんですねえ。
 天は2物を与えたのかあ(ズルイ、とややひがみつつ)…チッ。

 結論として、「恋は雨上がりのように」---傑作です。
 僕は、2日でもう5回くらいこれ読みました。
 でも、飽きない---傑作ってそうなのよ。
 店長と橘ちゃんの幸多き今後を祈りつつ、今夜はこのへんで筆をおこうと思います---では、Bye!(^0-y☆彡


追記:ただ、この作者さん、男性だって可能性もちょいありますね。僕はあんま調べないで書いちゃったんだけど。 
 掲載雑誌も月刊スピリッツという青年雑誌(?)だというし、厳密にいうと、少女マンガとはちがうのかもしれません。
 視点もときどき男性目線感じるし。作者さんの性別を御存じの方がおられたら、ご教授されたし曼珠沙華。m(_ _)m



◆本日、「恋は雨上がりのように」3巻でてたんで買いました。おっそろしい展開! それに、なんてリアルな話の膨らませかた! この作者さん、才能凄いわぁ。僕の予想をこえたレベルの展開です。メルヘンチックだったストーリーに、ふいに往年のイタリア映画が混入してきた感じ。橘ちゃんはどうなる? 下人は盗人になれるのか? 緊急展開4巻やハリー!

 


 

徒然その197☆ 川端康成にナンパされた女性の話 ☆

2015-01-05 18:00:19 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                                 


 前略、あけましておめでとうございます---。m(_ _)m
 突然ですが、ロシア、中国、インド、トルコ、アルゼンチン等の国々がいよい悪貨$での取引をとりやめ、美輪明宏、大橋巨泉、室田明、サザンの桑田佳祐氏等の著名芸能人らが名指しでそろって阿部軍事政権を批判しはじめ、敬愛するサイエンス・エンターテイナーの飛鳥昭雄、医療ジャーナリストの船瀬俊介、さらにはあの副島隆彦氏等もようやく我が国のタブー「不正選挙」に言及しはじめ---うーむ、なんか、いい傾向っスよね?
 これまでは「不正選挙」だの「人工地震」だの「MK機を落としたのはアメリカ」なんていっても誰も聴いてくれなかったもん。
 でもね、そんなこれまでのことなかれの世界潮流、たしかに変わってきています。
 歴史の水の流れがビミューに澄んできてる、これまでは泥とゴミと産業廃棄物まみれの超・汚い濁流でしかなかったのに。
 期待するとがっかりするんであんまはしゃぎすぎないように自制してはいるんですが、今年はいい年になりそうだなあ、なんてほのかが予感が、いま胸のあたりに燭灯のようにほんのりと兆しています…。

 と、まあ枕はこのへんにしといて、今回はまったく政治的じゃない、川端康成のお話---。
 実は僕、哲学者の梅原猛先生とおなじく、熱烈な川端文学ファンでありまして、まあ出てる作品はほぼ読んでて、生前の逸話なんかにも結構詳しいんス。
 徒然その142☆イーダちゃん、湯ヶ島をウロつく!☆では、「伊豆の踊子」の舞台になった伊豆・湯ヶ島の湯本館までいき、湯本館のすぐ目の前にある、川端さんがよく訪ねたという古い雑貨屋さんで、活字になっていない、生前の氏のいくつかの貴重なエピソードを仕入れることができました。
 ただ、あくまでそれは間接的なご縁でしかないわけで、僕の人生と川端さんの実人生とが、なんらかの意味で交錯したわけじゃない。
 文学という接点はたしかにあるんでせうが、僕的には、もっとリアルティーのある、より肉感的な接点が欲しかったの。
 で、川端ファンになって以来、僕は、その種の接点を探しつづけてきたんですね。
 私事ですが、僕、鎌倉生まれでして、川端さんが晩年居を定めていたのもおなじ鎌倉じゃないですか?

----こりゃあ、きっとなんか探せばつながり、きっとあるぞ---赤ん坊時分にたまたま同じ電車に乗りあわせたことがあるとか、そんなことくらいなら結構ありそうじゃん…。

 とばかりに調べつづけたんだけど、いまさらそんなこと調べようがないのは自明です。
 だもんで、まあ諦めかけてた---そんな矢先の去年末のこと---懇意にしてる知りあいの、ひとまわり以上年上の女性のI さんと話していたら、彼女の口から何気にこんな言葉がまろびでてきたのです。

----あら、あたし、川端康成にナンパされたことあるわよ…。

----!?(びっくりして息を飲んで)

----むかし、十代のころ…。鎌倉のね、邪宗門って有名な喫茶店で…。

----マジ! えーっ、それ、マジっすかあ…!?

 その女性は若いころ結構美人さんであって---ウホン、いまでも華やかなオーラを撒き撒きする綺麗な方です!---当時、住んでいるヨコハマからよく近郊の鎌倉まで遊びにいっていたというのです。
 で、鎌倉でウロウロしてたら、背広姿でよくそのあたりに出没していた川端さんに声をかけられた。

----ねえ、お嬢さん、これから僕と遊びにいきませんか?

 と川端さん、あの独自に甲高い、関西なまりのイントネーション声でもって、若い女性とみると、誰彼かまわずニコニコと声をかけまくってたそうです。

----あの先生、エッチなのよ…。若いキレイなコがいると、すぐに声かけてくるの。ニコニコしてたけど、おっきな眼がちょっと怖かったわ…。

 当時といえば、川端さんがノーベル文学賞をとったあと、いわば名声の絶頂にいたころ、だのに、なにやってんだか、この先生は?
 しかし、富やコネや権威を利用すればいくらでも女性なんか調達できたろう大物である川端さんが、こんなフェアなナンパに明け暮れていたなんて、ちょっと好感がもてなくもないですね。
 邪宗門っていう喫茶店はいったことないんだけど、どうも調べてみると、寺山修司と天井桟敷が関係してた店のようです。
 2013年に残念ながら鎌倉店は閉店しちゃったようだけど、そのつながりでいくと、たしかに晩年の川端さんが訪れてもふしぎじゃない。
 なーるほど、川端センセイ、あなた、栄華の絶頂にいたにもかかわらず、淋しくて淋しくて、素人の女性とふれあいたくて仕方なかったんですねえ?
 でも、金と地位をひけらかさない、その素朴なナンパの姿勢は立派っス。
 I さんは、邪宗門で川端さんと2度会って、2度目に彼氏といたときには、ふたりして川端さんからお昼をおごってもらったそうです---。
 川端さんが自室で岡本かの子の原稿を執筆中に急に外出し、逗子アリーナで例の自死を遂げたのは、その1週後だったとか…。
 

 僕は、自死だきゃあどうにも認められない。
 日頃から生きたくっても生きられず亡くなっていくひとを大勢見てますし。
 Honkowaの霊能者・寺尾玲子さんもみっちゃんも自死はいかんといってる。
 ただ、川端康成さんの場合だけは、どうにも仕方なかったのかなあ、と思います。
 あの異常に繊細すぎる感性を運びつづけるには、あれが、限界だったような気もちょっとはするんだけどね…。


                 
                           <鎌倉の邪宗門:上図>


 つい先日、僕も大切な友人を亡くしまして、久々になんとなく川端さんの著作をあたったりしてたら、やっぱりいいですねえ、川端さんって。
 もう染みた。厭になるくらい染みたんだ、これが。
 いま、これほど浸透性のある文章を書けるひとって、いないんじゃないんでせうか。
 切れる文章、はっとさせる文章、水飴みたいに自在に伸び縮みするサーカスみたいな文章、思わず立ちあがりたくなるインパクトと密度のある文章を書くひとならわんさかといますけど、静かに、なんの気張りも気負いもなしに、読むひとの心深くにしんと染み入ってくる、こんなふしぎな文章を書くひとは、僕は、川端さんのほか知りません。
 その川端さんがまだ若い時分、親友の作家・横光利一が亡くなったとき、実にいい弔辞を書いてる。
 その一部を抜粋して、今回のこの記事の結びにしたく思います----


横光利一弔辞

 横光君
 ここに君とも、まことに君とも、生と死とに別れる時に遭った。君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして、僕に長生きせよと言ふ。これも君が情愛の聲と僕の骨に染みる。国破れてこのかた一入木枯にさらされる僕の骨は、君といふ支えさへ奪われて、寒天に砕けるやうである。
 君の名に傍へて僕の名の呼ばれる習はしも、かへりみればすでに二十五年を越えた。君の作家生涯のほとんど最初から最後まで續いた。その年月、君は常に僕の心の無二の友人であったばかりでなく、菊池さんと共に僕の二人の恩人であった。恩人としての顔を君は見せたためしは無かったが、喜びにつけ悲しみにつけ、君の徳が僕を潤すのをひそかに僕は感じた。その恩瀬は君の死によって絶えるものではない。僕は君を愛載する人々の心にとまり、後の人々も君の文學につれて僕を伝えてくれることは最早疑ひなく、僕は君と生きた縁を幸とする。生きている僕は所詮君の死をまことには知りがたいが、君の文學は長く生き、それに隋って僕の滅びぬ時もやがて来るであらうか…
 …中略…
 君に残された僕のさびしさは君が知ってくれるであらう。君と最後に会った時、生死の境にたゆたふような君の目差の無限のなつかしさに、僕は生きて二度とほかでめぐりあへるであらうか。さびしさの分る齢を迎えたころ、最もさびしい事は来るものとみえる。年来の友人の次々と去りゆくにつれて僕の生も消えてゆくのをどうとも出来ないとは、なんといふ事なのであらうか。また今日、文学の真中の柱ともいふべき君を、この国の天寒く年暮るる波濤の中に仆す我等の痛手は大きいが、ただもう知友の愛の集まりを棺とした君の霊に、雨過ぎて洗える如き山の姿を祈って、僕の弔辞とするほかはないであらうか。
 横光君
 僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。幸ひ君の遺族に後の憂ひはない。
 昭和二十三年一月三日


 なんという見事な音楽でせうか…。
 この文章につけくわえるコトバは一言もありません---お休みなさい---。(^.-y☆

徒然その190☆ フィリップ・K・ディック日和 ☆

2014-11-22 21:03:52 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                                  


 Hello、みなさん---!
 なんか最近、仕事・プライヴェート・その他で超・多忙な日々がつづき---その内実はそのうち当ブログで発信できるかもしれません---厳密な休みというのがまずなかったここ最近のイーダちゃんだったのですが、たまたま先日、一日の予定がぽこっと空きまして、身体中疲労でカピカピだったんで珍しくどこにも出ず、部屋にこもって寝転がったままずーっと本を読んでたんですよ。(DVDとか観る元気もなかったの)
 なぜか、品目は、SFの巨匠、フィリップ・K・ディック!
 うん、僕、ディックはずいぶん好きなんですよ…。
 ただ、長編読む元気はなかったから、ディックの短編集から「変種第2号」ってフェヴァリアットの短編を、まあ再読してみたわけですよ。
 そしたら、これが面白い---記憶以上にキレてたの。
 あんまり面白かったんで、その勢いにのって、創元SF文庫の長編「虚空の眼」まで読みはじめちゃった…。
 
 ここで、ディックを知らない方のためにまえもって説明しておきますと、ディックってね、なんだかカフカ的な香りの匂いたつ作家さんなんですよ。
 SFならでの小道具、念動力者、予知能力者(プレコグ)だとか、その能力をとめうる不活性者だとかが安売りみたいにやたらとボコボコでてきて、SF部外者からしてみれば、とってもウサンくさい、3流ペーパーバックライターじみた、まあ活劇というか一種漫画ライクな展開が売りなひとなわけ。 
 僕も最初はディックのこのいかにも安手SFっててノリについていけなかったひとり。

----プレコグ? なによ、それ? もー うさんくせえったら…。

 けど、贔屓筋のスタニスラフ・レムだとか日本のSF作家たちも軒並み手放しで誉めちぎってるんで、こりゃあちょっとは読んどかなきゃなって読みはじめたのが、デッックと僕との最初の機縁だったように思います。
 でもね、モロ安手SFチックな状況を辛抱しいしい読んでいくと、だんだん感触が変わってくるの。
 ていうか、体臭、かな?
 どんな巧妙なストーリーや緻密な展開をでつちあげても、語り部である作家の体臭ってどうにも隠せないじゃないですか。
 フィリップ・K・ディックそのひとの、なんともいいようのない、ひととしての体臭---もしくはリアルティー。
 それに自分が徐々に打ちのめされていく過程が、なんか、モロにこう「見えて」くるわけ。
 ええ、ディックは、凄い…。
 一生活者としては、ほぼ落伍者に近い、麻薬まみれでコンプレックスの塊みたいな---ディックってたぶんそのような素顔の男だったんでせうが、彼が、息もたえだえになって、己の信じることを訥々と述べる、ほとんど遺言みたいなコトバの羅列には、なんというか異様なリアルティーと説得力とがあるんです。
 僕は、どっちかというと正常部類の一般人ですから、地獄の淵から息もたえだえみたいな調子で語りかけてくるディックのそんなメッセージなんて、体調によっては聴きたくもない宵なんかもままあるわけですよ。
 ディックの語りかけてくる世界---どこか地獄のにおいのする、不健康でダウナーな彼のコトバは、24時間フリー体制で聴くにはあまりにヘビーすぎますもん。
 ねえ、いくらゴヤが好きだからって、晩年ゴヤが暮らしていた、壁中悪魔の絵だらけの、あの「つんぼの家」で暮らしたいって思うようなひとはそうそういないでしょ?
 絶対発狂しちゃうもん---デイックにしてもおなじことですよ。
 そうした彼の特徴がよくでている名刺代わりの短編として、まず彼の傑作「変種第二号」のあらすじをここのあげておきませうか---

----近未来。核戦争後の荒廃した地球では、まだ米ソの戦争がつづいている。
 米ソは、核につづく次世代の兵器として、人間型のロボット兵士を開発していた。
 このロボット兵器群は、すでに自己増殖の機能を獲得していて、生き残りの人間のコロニーを遅いはじめていた。
 そして、生き残った人間たちには、このロボット族の暴走をとめる力はすでになく、戦争は「米ソ戦」というよりは「生き残り人類VSロボット兵士」といった構図になりつつあった。
 人間側には、まだ銃も爆弾もあった。
 しかし、厄介なのは、このロボット兵士というのが、どう見ても兵士に見えない点にあった。
 たとえばロボット兵士の「変種第一号」というのは、傷痍兵型をしていて、言葉もしゃべるし笑いながらジョークもいう。
 その憐れな風貌と愛嬌でもってコロニーの包囲網を突破して、いちど一体が潜入すれば、彼が同種の仲間を何百とそのコロニーに潜入させるのだ---生き残りの人間兵士を殲滅するために。
 多くのコロニーが彼等の手にかかり滅び、人間たちは絶滅の危機に見舞われていた。
 コロニーのなかでは、生き残りの兵士たちが、人間らしいフリをしているが、実は、あいつが新しい変種ロボットなんじゃないか、と疑心暗鬼の日々を送っていた。
 仲間割れ、猜疑による口論、撃ちあいにより、ロボットでない、真正の人間である多くの仲間が死んでいった。
 変種第一号は、傷痍兵型だということが分かったから、もう恐ろしくはない。
 それを見つけたら、すかさず銃撃してしまえば、ことは足りる。
 多くの犠牲を経て、変種第三号というのが、ぬいぐるみを抱いた男児ロボットであるというのも判明した。
 第一号と第三号は、もう怖くない。
 しかし、変種第二号っていうのは、どんな奴なんだ…?
 コロニー内では、恐怖と猜疑の視線が飛び交い、休む間もない。
 あいつが変種第二号かもしれない…。
 証拠はないが、先に殺らなきゃ、まちがいなくこっちが殺される…。
 どういう口実で撃ちあいにもっていく罠をしかけようか…? それとも、罠なんかかけずに、振りむきざまにズドンと撃っちまえば…
 誰もがそう思い、本心を偽りの笑顔で隠し、寝床でもトイレでも銃を手放さない---そんなある日………

 ねっ、なかなかの悪夢的展開でせう?
 レムなんかがこういうのを書くと、どっちかっていうと視線がいつのまにか客観的かつ哲学的になっちまって、怖いっていうより、なんか形而上学的な香りを帯びた深遠な話になっていきかねないと思うんですけど、ディックがこういうの書くとねえ、人間の弱いもっともダメダメな部分が、これがもの凄ーくリアルな迫真性を帯びてギラギラと輝いてきちゃうんだな、なぜか。
 ディックって、こと人間のダメダメ部分を書くことにかけては、天才の技をもってました。
 だから、ある意味、めっちゃ文学的なわけ---ディックのインパクトって。
 とてつもなく厭らしいんだけど、ディックの突きつけてくる「現実」って、あまりにも真に迫って突きぬけてるんで、どうしてもそこから目が離せなくなってしまう…。
 弱音というか、愚痴というか、フツーだったらそんなモンばかり書きつらねたら、ベタベタしてとても見れないものになっちゃうはずなのに、ことディックがこれをやると、どうゆうわけかその轍を踏まない。
 無能でダウナーな登場人物たちの行動に踏みきれない臆病と嘆きと絶望とが、いつのまにかより高いものへの純な「希求」にマジックのごとくすりかわっちゃってる…。
 私見によれば、フィリップ・K・ディックっていうのは、そのような得なキャラの作家さんなのでありました---。

 そんなふしぎ作家のディックの諸作品のなかで、僕がいちばんよく出来ていると思うのは、やっぱりこれは「虚空の眼(創元SF文庫)」ですね。
 これは、ちょっと譲れないっス。
 あの筒井康隆氏も当然絶賛!---だってね、これ、説明不要級にもう面白いんだもん。
 デイックって体質的に哲学趣味があって、なにかというとそっちの深遠・衒学に話が流れだして---多元宇宙なんて思考実験的なこだわりも、僕は、彼のなかの衒学趣味の一面だと思ってる---物語がやたらぬめぬめと胃もたれを起こすケースが多いんだけど、この作品にかぎっては、娯楽小説のかたちが奇跡的にまったく崩れてないの。
 要するに、娯楽小説として一級、SFドラマとして一級、スウラー・アクション・ノベルとして読んでもこれまた一級ってスーパー小説に仕上がっちゃってるわけ。
 ディック独特の、二日酔い的なあの足取りの乱れもほとんど見られず、物語の展開はスピーディーだし、テーマの扱いも極めてタイト。
 無駄話なし。寄り道的駄法螺もいつもよりずっと節約してる。
 僕は、ディックのほかの傑作たち---「ユービック」とか「火星のタイムスリップ」「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」なんてのも非常に好きなんだけど、無駄と踏みはずしのないシンプルな面白さって見地からいったら、この「虚空の眼」がやっぱ最高峰なんじゃないか、と思います。

 だけども、わくわくするほど面白いっていうのと、感涙にむせぶほど感動的っていうのはあくまで別モノ。
 僕がここで今日紹介したいと思ってるのは、そっち系の正当SFの傑作側じゃなくて、ディック的胃もたれと愚痴と優柔不断の極致である、
  

      「暗闇のスキャナー(創元SF文庫)」

 のほうなんですね、実は---。(記事のアタマにUPしたのがそれ)
 私見でいえば、この小説、アメリカのひと嫌いの才人・サリンジャーのあの名作「ライ麦畑でつかまえて」をも凌駕してる、と思うな。
 ただ、ストーリー的には、この「スキャナー」ってあんまりSF的じゃないのよ。
 時間遡行もプレコグも念動力者も多元宇宙もてんででてこない。
 覆面麻薬捜査官が一般人のジャンキーたちのなかに潜入して、それぞれ少量の麻薬を服用しながら(そうしないとジャンキーたちの輪のなかに入れないから)麻薬の捜査をつづけるっていう、プロットとしては、まあ、かなりシンプルでありがちのストーリー設定。
 すなわち、SF的な「オチ」を使ってない小説なんですよ、これ。
 テンポでぎいぐいひっぱっていくいくタイプの小説じゃない、ひょっとしたらこれ純文学じゃないかって思えるくらい、細部にたっぷり思い入れをこめて、極めて朴訥なテンポでもって珠玉のエピソードが粛々と語られていくの。
 作者であるディックが人生のある時期、友人だったダメダメジャンキ-たちの切なくて悲しい、いくつものイカレたエピソードが本の冒頭からラストまでぎっちり…。
 日に日に壊れていく彼等を見守るディックの目線は、ときには厳しく、ときには泣きたくなるほど優しくて---。
 サリンジャーのあの一人称語りの小説は、割れたレコードを喜んで受けとるフィービーの逸話だとか、ラストの雨のメリーゴーランドでの挿話だとか、無垢にきらめいてるシーンがところどころとっても美しいんだけど、ディックのこの「スキャナー」のなかにも、おなじ程度現実の深さを見すえたような優れた描写がいくつか見つけられます。
 個人的に僕がもっとも魅きつけられるシーンは、ここですね。
 覆面捜査の職務上服用した物質Dにやられて廃人になりかかった主人公のボブ・アークターが、ひそかに思いを寄せている女友達のドナと語るラスト近くの部分----

…「ほら、わかるでしょ」秘密を打ち明けるその声は、やわらかかった。このボブ・アークターが友達で、信用できるから明かしてくれているのだ。「いつか現れるはずの、あたしの理想の人よ。どんな人かも見当つくな---アストン・マーチンに乗ってる人で、それに乗せて北に連れてってくれるんだ。それでそこに、あたしの小さな家が雪に包まれてんの。そこの北のどこかで」間をおいて、彼女は言った。「雪って素敵なんでしょ?」
「知らないの?」
「雪のあるところなんて、行ったことないもん。前に一度、サン・ベルドーの山は行ったけど、そんときのは溶けかかってて泥んこで、もう転んじゃったわよ。そんな雪じゃなくてホンモノの雪のこと…」
 いささか重い心を抱えながら、ボブ・アークターは言った。「それ、全部本気? ホントにそうなるって思うの?」
「絶対そうなるって! あたしの宿命だもの」
 それから二人は黙って歩き続けた。ドナの家に戻って、MGを出すのだ。ドナは自分の夢や計画にくるまって、ボブは---ボブはバリスを想い、ラックマンとハンスと安全なアパートを想い、そしてフレッドを想った。
「ねえ、俺も君といっしょにオレゴンに行っていい? 出発いつ?」
 ドナはボブに微笑みかけた。隠やかに、痛いほどの優しさをこめて、ノーと告げた。
 これまでのつきあいから、それが本気なのはわかった。しかも気を変えることはあるまい。ボブは身震いした。
「寒い?」
「うん。凄く寒い」
「MGにちゃんとヒーター入れといたから。ドライブインで使おうと思って……そこであったまるといいよ」ドナはボブの手を取り、ぎゅっと握りしめ、それからいきなり、それを放した。
 でも、ドナの手の感触は、ボブの心のなかにとどまり続けた。それだけが残った。この先一生、ドナなしで過ごす長い年月、彼女に会うこともなく、手紙をもらうこともなく、生きているのか幸せなのか、死んだのかどうかさえわからない長い年月のあいだ、この感触は彼のなかに封じこめられ、封印されて、絶対に消え去らなかった。ドナのたった一度の手の感触だけが…。
                                             (P・K・ディック「暗闇のスキャナー(創元SF文庫)」)

 ヤバイ、書き写してるだけですでに泣けてきた…!
 なんちゅー、才能か---これこそ、ビターでかつ限りなく優しい、そして、超・思い入れたっぷりの歴史的名シーンじゃないですか。
 特に、ドナがボブ手をふいにぎゅっと握り、すぐ放すあたりの機微が、もー たまんない。
 恋愛の、特にハードボイルドな修羅場を何度も経験したひとじゃないと絶対書けない、一期一会の、この滋味あふれまくりのブルージーなまなざし交換。
 身を切るようなポエジーが、この短い文章の節々に息づいいているのを、ぜひ体感されてください。
 これ、僕の敬愛する短編の名手レイモンド・カーヴァーの世界の深みまで、まちがいなく届いてますよ…。

 なるほど、ディックは、私生活ではなかなか認められず、多くの苦渋をなめたひとかもしれません。
 でも、作家としては、彼、真正の天才でした。
 上記にあげた文章のなかにも、彼の天才は、まちがいなくキラキラと照り輝いてます。
 
 貴方の目には、それ、見えるでせうか---?

 見えてほしいなって想います。
 それが見えるひとは、うん、無条件に僕の友達です。
 世知辛くうそのはびこるこの世ですが、そんなひととなら、いつかお気に入りの店の窓際のテーブルにむかいあって座って、時間を忘れてディック談義したいものだなあ、なんて想ったりもする、突発性難聴回復期の、冬の日のイーダちゃんなのでありました---。


 


  

 
 




徒然その172☆バルテュス、バルテュス!☆

2014-05-25 02:50:49 | ☆文学? はあ、何だって?☆
            


 先日、知りあいの絵好きの女の子と、上野の東京都美術館で開催されている「バルテュス展」にいってきました。
 バルテュスは前々から気になる画家さんだったんですが、いやー 想像を超えて凄かった。
 会場の角を曲がるたびに、次の絵が与えてくれるだろう衝撃を予測して自然に息がつまってくる展覧会なんて、僕は、ひさしぶりでした。
 バルテュスは、繊細で、神秘的で、かつ、ちょっと淫媚であり、もう素晴らしかった。
 僕の評価は、どっちかというとリルケ寄りの立場です。
 ええ、ピカソより、はるかにバルテュスのほうがいいと思う。
 ただ、僕、まえから思ってるんですが、絵の印刷ってテクノロジー的にまだダメなんじゃないですかね?
 ええ、音楽の再生のほうが、テクノロジーとしては、絵の再生よりよほどうまくいってるように感じます。
 対して、印刷技術のほうは、だいぶ遅れをとってるんじゃないのかな?
 バルテュスの絵のどんな紹介写真も、実際の作品の、あの形容を絶するような、異様に繊細な色彩の調和と光の錬金術とを伝えきれてない、と僕はまず感じちゃいました。
 うん、冒頭にあげたのはバルテュスの有名な「美しい日々」という絵なんですけど、写真集で見るかぎり、それほど凄い絵じゃないよなあ、と正直僕はタカをくくっていた部分も少々あったんですよ。
 ですけど、実際に実物のこのバルテュス絵と対面してみると、 

----えっ? これがあの絵なの? うそ…?

 と、もう息を呑んじゃった…。

 写真の再生、ぜんぜんうまくいってないっスよ。
 というか、それとこれとはまったくの別モノだっていっちゃったほうが、むしろ正しいかもしれない。
 冒頭にあげたフォトは、ネットで拾ってきたなかでは比較的解析度もいいほうの部類なんですが、実際の絵にいちどでも生で触れちゃうと、正直、まともに比較しようって気すらなくなってきますねえ。
 まず、色調の繊細さがぜんぜんちがう。
 冒頭のフォトだと、バックの色もわりかし単調でべたっとしたモノトーンめいた気配が濃いめなんですが、実物絵は、まったくそんなもんじゃなかった。
 暖炉の炎の光はある部分ではもっと鮮烈かつ強烈だったし、また、別の部分ではもっと微妙な淡い陰影が、幾十層もの複雑な諧調を伴なって、絵全体の深みを途方もなく深いものにしていました。
 冒頭フォトの「美しい日々」から分かりやすい具体例をあげるなら、このモチーフの少女、いるじゃないですか?
 この子の両脚---それが、実物と上記写真とじゃ、もう彼岸と地獄ほどのひらきがあるの。
 上記写真で見ると、この少女の両脚、質感がちょっと陶器じみて見えてもくるじゃないですか。
 でもね、実際のバルテュス絵で見ると、陶器なんてとんでもない、この子の左足のほうの膝頭の照り加減で、ほんのそこだけの肌の色合いで、この少女の年齢まで読めちゃうんですよ。

----うわー、若い肌だなあって…。

 バルテュス、そんな風な描き方をしてるんですよ---しかも、画面内のすべての空間のあらゆる細部にわたって。
 This is 神業。
 これ、僕の独断じゃないの、だって、同行した連れの子まで僕とまるきりおなじことをいってたもん。
 恐ろしかひとです、バルテュス…。
 写真だとあまり目にもとめない床の表現にしてもご同様---それは、恐るべき複雑な質感と色彩とを重ねもった、バルティス特製の無限の光の階層が幾重にも細密に織りこまれた、奇跡の床であり表現でした。
 うん、両手をちょっと広げたくらいのキャンパスという小さな四角い布地から、途轍もなく広大で深遠な光の世界が広がっているのが覗けるんだから。
 だからね、展覧会の絵を見ていくごとに、なんだか次の絵が肩越しに見えてくるのが、だんだん怖くなっていくような心境だったんだな、僕は。

----いまの絵だけでもほとんどめいっぱいなのに、この次もこんなレベルのが待ち受けていたらどうしよう…?

 なんというおっかない覗きからくりか---!
 覗き眼鏡に近ずくたびに胸に脈打つ小さなおののきと、それと相反する新たな恍惚への予感…。
 炎のほむらが揺れるたびに少女の脚に照りつける光の刻々とした「ゆれ具合」まで、バルテュスは写しとっているようでした。
 絵はフィルムとはちがうから、時間の推移を写しとることは原理的にできないはずなんです。
 でも、実物のバルテュス絵を見てると、炎のほむらの反射が少女の脚で踊っているしばしの時間の流れまで、なんかこう、まざまざと「見える」わけ。
 こうなるともう単なる絵というよりは、ほとんど魔術だよね。
 ま、こんなドキドキを与えてくれるような展覧会なんてそうないだろうから、たぶん、これ、僕にとっちゃ幸福な展覧会だったんでせう。
 ただ、全体的印象でいうなら、ちょっとばかし内容ありすぎたかも。
 僕はねえ、絵って、1枚の絵と1時間くらいかけてじっくり「付きあう」のがいちばんの理想じゃないかって、このごろよく思うんですよ。
 その意味でいくと、このバルテュス展は、あまりにもハードで、疲れすぎちゃった。
 ま、幸福な疲労だった、とは、忘れずに言い添えておきたいとこですけど---。


 
               ×             ×             ×


 というわけで2枚目、いきますか---これは、バルテュス後期の風景画「樹のある大きな風景」って絵です---。 


        


 僕的には自信たっぷりに紹介したつもりだけど、でも、これ見た瞬間、貴方はきっと、

----なんだ、大したことないじゃん…。

 と、思ったでしょ?
 いいや、隠したってダメよ、僕だって、いきなりこの解析度の低い写真見せられたら、絶対そう思ったにちがいないもん。

----なんだ、セザンヌの亜流みたいじゃない、大した絵じゃねえな…、みたいな……。

 けどね、この実物絵も実はもの凄かったの---この地味な絵に封じこめられた光の魔法は、バルテュスのほかの大作と比較したら、たしかにかなり地味めなのかもしれないけど、それらの絵のかもしだすパワーの総量とじゅうんぶんタメを張れるだけの、超・繊細な光の機微の織りなす手品は、まさに眼福モノの極めつけ…。
 僕等ふたり、この絵のまえで茫然としちゃって、展覧会の街区をひとついってはまたこの絵のまえに舞いもどり、いってはまた舞いもどりのリアクションを何度も何度もくりかえしていたものねえ…。

 というわけで最後のとどめとまいりませう---。
 これ、僕がバルテュスというひとに興味をもった最初の作品です。
 天才バルテュスの代表作のひとつといってもいいんじゃないかな?
 題名は「地中海の猫」---この写真が生バルティスの百分の一の微量パワーしか有していないことをあらかじめ計量した上で、御覧になって下さいな---では、どーぞ!


       



 結論---上野、東京都美術館の「バルテュス展」にいこう、の一言ですね。
 バルテュス展、幸いにも6月22日までやってます。
 絵好きなら、これは絶対見逃しちゃいけない、と僕は思うなあ。
 ただ、よくいわれるバルテュスのスキャンダル性っていうのは---彼は、ロリータ好きでモデルの割れ目まで克明に絵のなかに画きこんだりしてたので、生前よくスキャンダルを巻きおこしていたんですよ---僕は、ほとんど感じなかった。
 ロリータは、頭のいいバルテュスがあえて世間の目を意識して投げた、挑発のための「撒き餌」じゃないか、と思うな。
 バルティス藝術の奥義はスキャンダルなんかじゃない、あくまで淡い色彩の織りなす繊細極まる光の錬金術---イーダちゃん的にいうなら「バルテュス内真相の夕映えエクスタシーに至るためだけに編まれた、繊細で禁欲的なメチエ」---晩秋の夕暮れの窓際で編物に熱中しているご婦人の美しい無心の一瞬のような---そんな刹那と永遠とがむつみあう一瞬を見つめつづけるまなざしこそ、彼の藝術の本領だったんじゃないか、と僕は何度でもくりかえしいいたいですね…。


                        ×             ×             ×



 
◆後記:この展覧会のあと、生命力を削られてへとへとになった僕等は、すぐ隣りの上野動物園に寄り、はしゃぎまくるることでパワーの再充電を図りましたとさ。
 入場料600円は安いっス---アジア象が可愛かった。
 ラストにその写真、ちょっちあげておきませう---お休みなさい…。(^o^)/


         

                アストロロジャー各氏へ伝言:バルテュス氏は魚座産まれです…。月は、山羊か水瓶のどっちか…。