イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その80☆「蛇塚」参りで大金ゲット?☆

2011-08-31 22:42:33 | ☆パワースポット探訪☆
                                


 突然ですが、東京タワーの建っているあの芝公園の近辺って、縄文時代にはどうやら海沿いの土地だったんですってね?
 現在の東京のかなりの土地が埋め立てによって生じた人工の地盤であることは、知識としては知っていましたが、海があのへんまでつづいていたなんて、いま的には---ビルとコンクリートに囲まれた都市としての面影を鑑みれば---いささか想像しにくいものがありますよね。
 あと、徒歩でいってみればよく分かるんですが、あのあたり、墓地がめっさ多いんですよ。
 誇張じゃなしに、1ブロック行けば墓地にあたるの。あれ、いまさっきも見たばかりなのに、と不安が何遍か咽喉元をぎゅっとよぎります。それに、あそこ、水子供養で有名な浄土宗の本山である「増上寺」もあるじゃないですか。
 そう、東京タワー近辺のあの界隈は、実は、「霊地」としての濃い雰囲気を漲らしている土地でもあるんですよね。
 都内で最大級の芝丸山古墳や亀塚古墳なんが、わさわさあるのもたしかあのへんの一角ですし。
 古墳があるのは、その土地に「力」のある証しです。ということは、すなわち、こちら、れっきとしたパワースポットじゃないですか…!
 いわれてみれば、東京タワーのもうひとつの顔---怪談話の類いが異常に多く囁かれる場所としてのあの特殊性---も、なるほど、パワースポットだったからその種のモノを呼びこみやすかったのか、と納得できる感じです。
 稲川淳司で学習してきたひとなんかには、このへんの理屈はすんなり理解できるんじゃないかな。
 ま、このあたりの地形に詳しくない方のために、まずは東京タワー近辺と増上寺のMapをあげておきませうか。

                   


 そうして、この東京タワーの真下すぐにある交番の向かいの坂の途中に、「金運隆盛のご利益がある」といわれている、あの噂の「蛇塚」があるのです---。
 ここ、ちょっとばかり見つけにくいところにあります。公番向かいの森っぽい一角に、あえてすーっと入っちゃう感じというか。木々がこんもりしてて、あのへん、けっこう鬱蒼としてるんですよ。僕はかなり探すのに手間がかかりましたが、公番のお巡りさんに尋ねればすぐに教えてくれるそうです。
 僕がここを訪ねたのは、2010年の6月26日のお午まえのことでした---。
 前の会社を辞めるちょっとまえのころ---僕は当時社内で「ひとり労働組合」みたいなことをやってまして、会社の上層部相手に監査局やユニオンなんかをあいだに挟んだ闘争の日々を送っており、そうすると必然的に現場サイドは上層部の指令通り生意気なイーダちゃん叩きを敢行するわけでして、毎日毎日が非常にギスギスとした心理闘争、社内の仲間のもとからは引きはなされ、イーダちゃんは危険人物との烙印を押され、結果的に孤立して、要するにやることなすことまったく面白くなかったんですよね---これは、いまだからこそいえることなんですが。
 で、プラーヴェートくらいは好きなことに関わってないとやってられないや、と趣味の温泉やパワースポット巡りに、自分的にかなーり力を入れてたんです。
 で、梅雨のさなかのじっとり湿った薄曇りのある日、いつか本で見たこの芝公園界隈に、夜勤明けから直接やってきたという次第。
 きてみたらね---やっぱりここは噂通りの霊地でありました---疲れてくたくたに乾燥したマイ・ハートに、絡みついてくる有象無象のねとねと気配、イーダちゃんはたしかに感知しました。
 まず先に寄った増上寺にびっくらこいた---だって、なんかここ恐山みたいだったんだもの。
 東京のまんなかでこんなものに遭遇しようとは思ってもみなかったイーダちゃんは、まずは先方の先制パンチを喰らってぐらついた形となりました。
 その先制パンチのフォト、ちょっとUPしておきませうね---えい。

                    


 こんな、見事に着飾った水子地蔵の列が、どこまでもつづいているんですから。
 「ウゲッ」とすら思えなかった。ただの無音の「!」ですよ、この地蔵群に僕がやられたときの反応は。
 しかしながら、これは、通常の日本人なら誰でもよろめく光景かと存じます。
 僕もやられました。まだ前菜段階なのに、早くも心が真っ白になっちゃった。実はここでダメージを受けすぎちゃったんですけど、せっくきたんだからと損得の勘定で自分をだましだましして、「蛇塚」探索をその後もなんとか敢行しつづけたんですよ。
 で、ようやくのこと見つけた「蛇塚」は、このような場所でした---木々があって、小さな川に「もみじの滝」なんて名の滝もあって……。

          


 ちなみに、まんなかのお地蔵さんの脇にある玉子パックは、僕が買ってきて御供えしたものです。
 そうしたほうが霊験あらたかだというんで近郊のスーパーからわざわざ買い求めてきたのですけど、きてみたら右手写真の看板が生玉子の御供えは禁止だ、みたいなことを謳ってる---あちゃあ、と思ったんですが、もう持ってきちゃったんで、わるいとは思いつつ、こちら、御供えしてくることにいたしました。
 それから手をあわせて、まあモニョモニョモニョといちおうお祈りもしときます…。
 あまり興が乗っていないように見えるのは、事実その通りなのでありまして、イーダちゃんは常日頃より、宗教の現世利益というモノを嫌っていたんですよ。
 現世利益なんて浅ましいじゃないか、宗教ってのはもっと高貴であるべきだ---というのが、イーダちゃんの立場であったわけ。
 だったら、なんで「金運隆盛」のこんな「蛇塚」なんかにくるのよ? といわれると、ちょい辛いかも。
 このころ、イーダちゃんは、たしかにどうかしてたんですねえ---そう思う---自分で自分が見えていなかったというか---とにかく非日常のものに自分を仮託してないと、内部から崩れそうな気配をなんか感じていたんです。

 ところが---このいい加減な祈りは、どうしたわけかすぐに叶えられたのです---。
 この2週後、唐突に本社に呼びだされたイーダちゃんは、いきなり常務からリストラの案件を聴かされたのです。
 とっさに上記した「蛇塚」写真の映像が、頭のなかにレイドバックしました…。
 本社都合だからということで、退職金をまるまるもらえる運びにはなったのですが、イーダちゃんの胸中は、お察しの通りなかなか複雑なのでありました。
 
 だって、これ、W・W・ジェイコブズのあの有名な怪談「猿の手」みたいなんだもの!

 この英国製の「猿の手」を読まれたことは、どなたかおありでせうか?
 この古典的な怪談、じわーっと怖いんです。
 ある老夫婦のもとに、ある日、なんでも願いをかなえる「猿の手」と呼ばれるブードゥーのまじない道具が持ちこまれるんですよ。で、この老夫婦は、冗談半分に大金を自分たちに与えてください---と一般的な庶民的願いをまあ口にするわけ。

----われに二百ポンドを授けたまえ! ってね。

 すると、祈った瞬間に、この干からびた「猿の手」がピクッと動くんですわ。
 で、その翌朝、息子の勤めていたモー・アンド・メギンス社から、背広姿の使者がふいに訪ねててくるんです。
 お気の毒ですが、今朝、ご子息は機械に挟まれて亡くなりました。会社側としましては、この事故に対していかなる賠償も認めてはおりませんのですけど、日ごろのご子息の精勤ぶりを考慮しまして、その報償として、金一封をさしあげたいと、そのような意向なのです---と彼は淡々というわけです。
 むろん、その金一封というのが二百ポンドきっちりなのは、いうまでもありません。
 衝撃を受ける老夫婦---たしかに二百ポンドは手に入った---しかし、なんという代償か…。
 苦くてやるせない結末---どうしようもない運命に立ちすくむ、傷心の老夫婦……。


                             ×           ×


 で、去年の7月中盤に、イーダちゃんは仕事を失ったんですよ。
 結果的に、このときのリストラと退職金のおかげで、去年の北海道一周旅行なんかも敢行できて、退職期間のあいだ、このブログを立ちあげたり、古武道の稽古をしたり、むかしの趣味の星座占いを再開したり、さらにはまえから望んでいた業界に転職もできたり---結果的にはすべての事象がプラスの方面に転がってくれて万事オッケーとはなったのですが、長く勤めた仕事を失うっていうのはあんまり気持ちのいいモンじゃなかったですし、「蛇塚」というのはやっぱり怖い場所だという印象も、僕的にはもう二度と拭えないような気がします。
 だって、実際の話、効能はあるかもしれんけど、ここの神サマ、怖いんですもん!
 てなわけで僕としては、見ず知らずの方に、金運隆盛の「蛇塚」参りをお薦めすることなど、どないしてもできません。
 どんな代償を払ってでも現金が欲しい、という方のみ、覚悟しておいで下さい。
 ただ、どんなことがあろうと自己責任ですから---僕は、どのようなことが起こっても一切関知しませんのであしからず。

 ご依頼の「蛇塚」に関するイーダちゃんの調査報告は、以上です---。(^^;>
 

 

 

 

 

徒然その79☆グレン・グールド物語☆

2011-08-29 20:16:46 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                        


◆エデンの園が禁じられて以来、地上は人間の生き残りのための、せめぎあいの煉獄と化した。あらゆる藝術はそれらの葛藤の上に咲く花であり、苦痛と辛吟とを故郷にしている。しかし、グールドだけがそうではない。彼の音楽のうちには、あの失われたエデンの清澄な香気が封印されている。琥珀の中に密閉された恐竜時代の太古の空気のように。純潔だったユートピアの遠い記憶。我々がどうしようもなく彼の藝術に魅かれ、いいようのない郷愁を感じるのは、そのためだ。

◆グールドは自宅のレコーディング・スタジオを「わが僧院」と呼んでいました。これは、グレン・グールドという現象の謎を解くための、もっとも重要な証言のひとつだと思います。

◆グールドの音楽は風化しない。音盤から取りだして聴ける音符の1音1音が、腕のいいガラス職人にたったいま磨きだされたばかりのような色艶でもって、夜空の星々のようにきらめいている。いと清らかに。ピアニスト本人は1982年に死んでいるというのに、彼の紡ぎだした音楽の糸はいま活躍中のどのピアニストよりも新しいのだ。50年前の音源が昨日聴いたコンサート・ホールの音楽より新鮮に響くというこのふしぎ。さらに驚かされることには、このような彼の音楽に、地上的な欲望のいかなる片鱗も見出せないことだ。このような純粋さを抱えたまま職業的音楽家を続けてこれたというのは、まさに驚異だ。あらゆる地上的な意志が、グールドにはあのノアの洪水のように、巨大な残酷さを伴なって感じられたに違いない。

◆グールドはひとつの結晶体ではないか。どこでちぎっても、どこで切断しても、凡てのかけらは同じかたちに分断されている。この結晶化の工程を取りしきったのは誰か? 神だろうね。それ以外に考えようがないから。

◆それまで全然クラッシックなんて興味のなかった女子にグールドのバッハを勧めたことがあるんですよ。最初は彼女、「え~」なんて迷惑そうな顔をしてましたが、翌朝には嬉々としていままで聴いたどの音楽よりよかった、と報告のメールをくれました。なんでも、聴きはじめの最初の10秒足らずで魂まで貫かれた気がした、とのことです。

◆友人ピアニストの言葉---Beatlesの初期の音ってさ、Beatles後期の音より、なんか新しく聴こえるんだよ。ずっとあとに録音された70年代の4人のソロの音もそう、Beatlesの初期音源の音より古びた、セピア色の音楽として聴こえる。あらゆる音楽が風化というこの巨大な現象に抗えないのに、初期Beatlesだけがこの流れから勇ましく屹立している。あ。あとグレン・グールドにもそれと同種の匂いを感じるな、と彼は最後にそっと言い添えました。

◆世界ピアニストの最高峰はあのロシア出身の Vladimir Horowitz だったのではないかと思われるのですが、グールドだけはちょっとそういったピアニストの通常枠ではくくりにくい気がしますね。もっと大きな音楽家という枠を新設しても、ひょっとしてそれにも収まりきれないかもしれない。彼の音楽はそれくらい、あらゆる地上の絆から屹立したものなのです。

◆天使グールド、修行僧グールド、恍惚として歌う巡礼者グールド!

◆宮崎駿の映画「天空の城 ラピュタ」で有名になったスフィストの伝説としてのあのラピュタなんですが、あれ、飛鳥昭雄的にいわせると、どうやら実在するものだというんですよ。先生のいう、その実在するかもしれない「ラピュタ」について考えていたら、ふいにグレン・グールドのピアノを思いだしました。ラピュタとグールド。どう考えてもなんの関連性も見出しにくい両者なのですが、実はどちらにも共通しているところがあったのです。共通項はひとり---ひとりでも奇妙に満ち足りていて、静かな誇りの香気を燐紛のように振り撒きながら、孤独な彗星として、永遠の自転運動をつづけているところ…。

◆グールドって不遜なくらいなんにでも合うのよねえ…。ほら、こんな罪深い姿のいまの私たちにだってしっかり似合ってる……。身体にぴたりと貼りついた本革のボディースーツ、両足には先の尖ったピンヒールを履き、右手でゆっくりと大きく鞭を振りあげて、含み笑いしながらボクの女王サマは言った…。

◆今朝、聖書でマリアの処女受胎の部分を読んでいたら、唐突に頭のなかにグールドの音楽が鳴りわたった。ゴルトベルクの第二変奏のあの駆けだし部分。驚いて聖書を閉じたのだけど、午前中いっぱいグールドのピアノは頭のなかで鳴りつづけた。午すぎのいまも、ほら、まだ少うしだけ鳴っている。

◆グールドの音楽でいちばん好きなのはシベリウスかな?---あのちっちゃなソナチネの第一番。特に三楽章の、窓枠に雪つぶてがカタカタぶつかってくるあたりの部分は何度聴いてもたまらない。あの首筋に少し心地よいような、涼しげな空気のリアルな質感ときたら…。グールドはグリークの血縁だったから、北欧の音楽に親近性があったんじゃないかしら? ああ、あとね、あの片輪走行のせっかちモーツァルトもけっこう好き。

◆グールドの愛犬の名は「ベートーベン」でした。で、愛読書は漱石の「草枕」でした---うーむ、ヘンテコリンでカッコよし。

◆稲垣足穂とグールドは似てると思う。前者は山羊座生まれ、後者は天秤座生まれで、あんまり互いに親和性はないはずなんだけど、どうにも似てる。うそだと思うんなら、ためしにあの「一千一秒物語」を読みながら、BGMにグールドの弾く「ゴルトベルグ」を流してごらん---僕のいうこともあながちホラじゃないよなあ、とあなたも絶対納得できるはず…。

◆1977年に発射された2機のボイジャーには、地球中の音楽を封印したゴールデン・レコードが2枚積まれていました。そのレコード内に、モーツアルトの魔笛の「夜の女王のアリア」なんかとならんで、我等がグールドの奏でる Gouldberg Variations も収められています。この2機の宇宙船が最も地球近くの恒星圏に到着するのは4万年後。4万年のち、このレコードを再生して、グールドのピアノに感銘を受ける最初の異星人は誰でせうか?

◆グールドのあのスーパー・インテリクチャルな文章を真似て、こーんな気取ったページを編んではみたのだけど、あんまり恥ずかしいんで、このページは案外すぐ消しちゃうかもしれません。でも、そうやってこれが幻のページになっちゃえば、かえってグールドっぽいんじゃないかって思えてもくるんですよね---なぜだろう?

                                                                                     ----おしまい.(^.-/☆






徒然その78☆終着駅待合室より--サルスベリ便り☆

2011-08-27 22:16:48 | 身辺雑記
                       


 個人的な話で恐縮なんですが、去年---2010年の夏---に、僕、勤めていた会社でリストラにあいまして、北海道に行ったんです。
 なんちゅうか、自分的には、いままでの悪い運気の大掃除みたいなつもりの大旅行でありました。
 クルマにテントと寝袋と飯盒と固形燃料とを積んでね、8月のまるまるひと月を、北海道各所の温泉巡りの放浪旅行に費やしたわけ。(このときの詳細は nifty温泉さんのイーダちゃんのクチコミに記録してあります。興味ある方はそちらをどーぞ(^.^)デス)
 まっとうな勤め人をやってたら絶対できない長丁場の旅でしたから、そりゃあ、愉しかった。
 朝、起きて、テントの口あけてみたら、えらいいい天気の青空が頭上いっぱいにコーンと見えて、

----おお、いい天気だ。さて、今日は、どこ行くかな…?

 と伸びしながら思った瞬間の、あの一種なんともいいがたい、まぶしいような自由の感触---。 
 ただ、あの心地いい自由の感触って、ちょっと匙加減をまちがえると、気持ちが「だらだら」とか「どうでもいいや」みたいな下り方面に流れていきやすいきらいがあるんですよね。
 そっち方面にいっちゃうと、ちゃんとしたはずの旅が、「逃避」だとか「日常からのマイナス行動」みたいな翳りを帯びてきちゃう。
 そうさせないための道徳律みたいなものを、僕は、このときの旅を通じて学んでいった気がします。
 ええ、きちんとした風来坊をやっていくのにも、実は、コツのようなものが要るんですよ。
 たとえば釧路あたりで早朝、新鮮な海の幸を喰いに市場までいくとするじゃないですか?
 そうすると駅にむかうたくさんのひとたちと、道でまあ必然的にすれちがうわけです。
 すると、ああ、いつもだったら自分も地元で、このひとたちとおなじ流れのなかにいるはずなのになあ、と何気に思う。
 で、その一瞬後、心がどっちを向くか?

----うーん、いい空だ。気持ちいいなあ。みなさん、お仕事、ご苦労さんです。僕はこれから知床のほうに、いい温泉を探しにいってきまーす!

 といったポジティヴ・シンキングのほうに向かえるか、あるいは、

----ああ、いい年してこんなことやってないで、帰ったら早く仕事見つけて、まっとうな暮らしをしなくちゃ…。

 といった先読み心配・現在否定の側に傾くか。

 基本的に旅って楽しいモンですから、大抵の場合は前者の反応でいけるんですが、ときどき、テントのなかで風が強くて眠れない深夜とか---朝起きてみたら霧に閉ざされたイヤーな天気で、自分の体調もうつむき加減の胃弱気味のときなんか---には、どうしても前者の、現状否定のナヨナヨ心配軍団がアタマをもたげてきちゃうときがあるんスよ。

----あれ。俺、なにやってるんだ…?

 これが、僕的には「それ」の合図でしたね。
 テントの外は風の音---。
 テントのチャックをあけて外を見てみると、あたりはまだまっ暗---キャンプ場まわりの電柱灯りの照らす円のなかを、小雨がさーっと降っていて。
 ほかのテントのなかの家族連れは、みんなよーく眠ってる。
 とっても静か。何気にトイレに行ってみようという気になって、サンダル履いて外に出てみると、裸の足指に夜露がとっても冷たくおます。
 無人の炊事場を脇に1ブロックほど向こうにあるトイレに行って、そのとちゅうにハマナスの咲いているとこを通るんですよ、行きと帰りの両方ね。
 で、帰ってきてテントの狭暗い空間のなかに入ると、いまさっき見たばかりのハマナスの「赤」が、なぜだか記憶のなかに強く残ってることを発見するんですよ。
 そんなとき、いまさっきいってた、あれ、俺、こんなとこでなにやってるんだ? といった思いが、ふっと去来するわけ。
 こうなると、夜はとっても長くなる。眠ろうにも眠れない。寝返りうつたびに、ハマナスの「赤」の残像が、いっそう鮮やかにギラギラしてくるの---そうして、その感じに釣られて、いろんな心配事が胸の底からもやもやと湧きあがってくるんです。

----ああ、帰ったら就職どうしよう。40代だし、こんな時勢だし、ちゃんとした仕事なんか見つかるのかな。見つからなかったらどうしよう。金だって、こうしていつまでも貯金や退職金喰いつぶしてくわけにはいかんだろうし。ああ、そういえば、失業保険はいくらぐらい出るのかな…。ああ、弱ったな、困ったな……。

 そうして、心はズンズン闇のなかへと落ちていく---。 
 ま、弱気は肉身の必然ともいいますから、こういった煩悶をゼロにするのはひととして無理なんでせうけど、まるひと月も旅をしてると、途中、このような弱気の虫に捕まえられたこと、幾度かありましたっけね。
 もっとも翌朝が天気になって、冒頭にUPしたフォトみたいな極上の景色に触れられたら、そーんな心配事、うそみたいにぱーっと飛んじゃうんですけど---。
(ちなみに、このフォトは 2010.8.16、別海から知床に向かうとちゅうでの風景です。あんまり綺麗なんで一時駐車して写しました。場所は忘れちゃった。R335の国後国道を北上してるときの景色だと思うんだけど。海は、むろんのことオホーツク!)
 
 と、まあそんな風来坊としての修行旅を終えて、地元に帰ってきたイーダちゃんは、プーとして約半年の充電期間を経たのち、この春、まったく未経験の介護の仕事に就いたわけなんですけど、今回語りたいのはそっち関連の話---。

 
                           ×             ×

 僕の勤めている某施設に、Aさんという方がおられるんですよ---。
 写真を見ると、若いころはそーとーお綺麗だったおひと---いくらか認知の入った女性でね、クルマイス使用。
 この方、元スナックのママをやってられたような方でね、気位が高くて、いつでも凛としてるんです。
 もう認知がケッコー進んじゃってるから、いってることはちょっとおかしいんだけど、そのいつでも自信たっぷりな物腰に、僕は「凄えなあ」と、なんとなく好感をもっていたんですね。
 食事の介助なんかしてると、このAさん、

----その緑のとって! そう、その緑のやつ…!

----緑のって、Aさん、それひょっとして…このグリーンピースのこと?

----そう、それだよ。その緑のちょうだい…!

 で、僕がそれをスプーンで2、3個すくって彼女の口にひょいと入れると、

----緑の、こんなにいっぱい食べちゃった!

 なんていって童女みたいに満面の笑みになるんです…。


                            

 このAさんの部屋のすぐそばにサルスベリの木があって、それがAさんの部屋の窓からよく見えるんですよ。
 Aさん、僕が施設にくるまえは、それがサルスベリの木だって分かって、いえたそうなんです。
 でも、僕がきたときには、もうそれがいえなくなってた…。
 暖かい初夏の昼下がり、食事を終えたAさんをクルマイスで居室に連れ返ると、正面から窓に咲くいっぱいの赤いサルスベリがぱーっと見えるんです。
 特に風のある午後なんかは空の青に花々の赤がよく映えてね、さわさわと風にゆれて、とっても綺麗なんですよ。
 Aさんはもともと花と動物は大変に好きな方なんで、

----ねえ、綺麗だよ…見てごらん、ほら、あれ…!

----あれって…Aさん、窓の外のあのサルスベリの花のこと?

----サル…? なに、それ? 分かんないよ…そうじゃなくって、あたしがいってるのは、あの赤いやつのこと!

----ああ、Aさん、あれはね…サルスベリっていうんだよ…。あの赤い花はね、サルスベリの花なんだ。赤くて、風にゆれて、とっても綺麗だよねえ…。

----ゆらゆらゆれてる…。ねえ、あたしはね、あの赤いのがずいぶん好きだよ…。

----そうだよねえ、Aさんは花が好きですもんねえ…。うん、寝るまえにもうちょっと花を見てようか…?

 そうして二人して、1分くらいうっとりとサルスベリの花に見とれたりしてました…。

 Aさんは、そんなことがあったなんてことも、10分もたったら綺麗サッパリ忘れちゃってるひとなんですが、僕はどうしたわけか、この午後のヒトコマが妙に心にかかって、忘れられなかった。
 だもんで、このブログの黒板に、こんな事実があったってことを書きとめておこう、と思います。
 綺麗サッパリこの事実を忘れちゃってるだろうAさんの記憶の分も含めてね---これを読んだあなたが、僕がそのときAさんと感じたモノを共に感じて「ハッ」としてくれたら、とっても嬉しいんですけど…。(^.^ζ



      ◆追記:サルスベリの花言葉は、「雄弁」「愛敬」「活動」「世話好き」です---◆


                           
 
 

 
 
 
 

徒然その77☆世界$体制の終焉☆

2011-08-23 17:57:19 | ☆むーチャンネル☆
     


----米国は、世界経済に寄生しているようだ。(ウラディミール・プーチン)

 2011年8月8日月曜日---イーダちゃんが高校のころから夢見ていた日が、とうとうやってきました。
 ドル---世界の基軸通貨であったあの米ドルが、その実力と権威と信望とをすべて失い、ただの紙切れになって、どことも知れぬゴーストタウンの街角で、枯葉のように舞い散る日が、いよいよやってきたのです。
 いままでだって持たせてこれたのが、むしろ奇跡だったんです。
 ありとあらゆるトリックと謀略とを駆使して、ここまでやっとこさ持たしてきたんですから---ええ、ベトナム戦争とか東西冷戦とかWTCとかイラク戦争とか311とかね…。
 東西の冷戦は、あれは、西側も東側もどちらのスポンサーも、実はウォール街在住だったという、空前絶後の茶番劇でした。
 ベトナム、イラクの戦争もウォール街のキング連中のいつもながらの戦争商売---アヘン戦争以来の十八番のお家芸でしたしね。
 あと、あの911は、$体制維持のための自作自演の爆破劇---アラモや真珠湾なんかとまったくおんなじ手口のトラップだったということ、このごろようやく鋭いひとたちに知られるようになってきました。
 そして、このあいだの我が国の311も、昭和19年---太平洋戦争末期の12月に、名古屋を襲ったM7.9の地震の再来---日本の軍事工場を見事なまでに破壊しきった地震兵器の、大幅なリニューアル・アップ、ウォール街始発の、$巻き返し巨大プロジェクトの一環だったというわけでして---。
 いやー、まいったまいった隣りの神社…。
 アベリカさん、あなた、実に往生際がわるうおますなあ。
 でも、そんな悪あがきももう終いですね---$の余命は、どう贔屓目に見ても長かない。
 判明してるだけで1京5000兆円以上の借金なんて、これは、1920年の恐慌レベルをはるかに超える数字です。
 $はねえ---もう死期を告知されたと断定してもいいでせう。
 だいたい、皆さん、誤解してはりますよ。盤石基盤の経済体制なんてまったくの幻想です。あのローマだって滅んだんですから。
 今度は、いよいよアベリカ戦争帝国さんの順番がまわってきたってだけの話で---そう、ここらで認識切り替えてみませんか?---$は基軸通貨なんていわれてますけど、実は、アレは、銭とか貨幣とかいうんじゃなくて、より深い視点から見るなら、いま現在の世界体制の象徴そのものなんですよ。
 よりぶっちゃけていうなら、合衆国の軍事力が、いま現在のイスラムやら中国やらヨーロッパ、ニッポンなんかを仕切っているんぜよ、そのへん、くれぐれも肝に銘じておくんなさいよ、というのが$のホントの意味なんです。
 いってみれば、ヤーさんの啖呵、あるいは恫喝ですな、こりゃ…。
 実際、70年代のあのニクソン・ショックのとき、$と金(gold)との兌換が禁止され、$は金の裏付けのない、史上初の、架空の符徴としての「世界基軸通貨」となったわけなのでありまして。
 金の裏付けがないなら何を裏付けにするのよ?
 政治力、しかないですよね---政治力---よりぶっちゃけていうなら、巨大な「軍事力」そのものがバックにいて、世界の趨勢に睨みを効かしていたのが、$というあの紙幣の裏の意味だったんですよ。

----おい、兄ちゃん、この$を使うたびに、誰がこの世界を仕切っているのか、意識して従うようにしてな。なあに、黙っていうこと聞いて、シャバ代払いつづけててくれたら、なんもようせん。ただ、このワシらのルールに歯向かお、なんて考えたら、容赦せえへんで…。

 おっとろし…。でも、$に口がきけたら、たぶん、このようなことをおっしゃったんじゃないんでせうかね?

 さて、ここで、ちょいと復習いきますか。
 あの、世の中には、三つの産業があると、たしか学校時分に習ったと思うんですが、できたらそれをいま思いだしてください。

◆第一次産業---農業、林業、漁業、牧畜業、なんか。
◆第二次産業---まあ、産業革命以来の工業全般かな。
◆第三次産業---情報産業。近代になって生まれた、新たな産業。マスコミ、雑誌、新聞、著作とか、インテリっぽい感じの仕事全般。

 このなかでどれがいちばん大事かというと、いうまでもないけど、それは食料を生産する第一次産業ですわな。
 ニンゲンの食事全般を司ってるんですから---議論の余地なぞない、いちばん大事な産業はコイツです。
 でも、20世紀末期から、この基幹産業が3Kなんていわれて、若者からだんだん疎んじられはじめたんですよね。「辛くて臭くてダサイ」からっていうんです。総じていうなら、ま、カッコわるいってことかな?
 じゃあ、なにがカッコいいのかといえば、第三次産業だっていうんですよ。
 スーツ着てバリッと働けるし、いかにもビジネスマンだってスマートな感じがするからっていうんです。
 僕の友人でもそのような動機で、マスコミ関係しか就職を狙わなかった連中は大勢いましたね---フッ、阿呆めが---!
 けれど、20世紀後半から21世紀にかけて、さらに新しい、第四の産業形態が起こったというのが、イーダちゃんの考えなんです。
 イーダちゃんの考える◆第四次産業---それがデリバティヴ◆という産業形態です。
 いわゆる先物取引---架空の先売株での、ほぼ上限なしの、超・ギャンブル相場でのドトーの賭け勝負!
 これは、仕事というよりは完璧ギャンブルだと思いましたね。
 たしかに当たりゃあスゴイ---天文学的な儲けだって夢じゃありません。
 でも、もしかして外れたら……?
 しかし、額に汗して働くというイメージが嫌いな青白きインテリ層に、この産業は受けました。
 みんなして、働かずに、PCまえで巨額のビッグ・マネーをすいすい動かすスマートな自分---という虚像に夢中になった。
 この産業にいちばん熱中していたのが、いうまでもない、かのアベリカ合衆国さんです。

----額に汗して働くなんてもう古い! というんですから、これは、そーとー奮ってる。

 賢い奴は3Kなんてダサイことは決してやらない。PCと頭脳と10本の指先だけで億万長者の夢人生---というんですから。 ま、はっきりいわせてもらうなら、これ、怠け者のパラダイス幻想でしかないでせうねえ---。
 自分のコネクションを使って、物資を右から左に融資するだけで莫大な利益を生めるんだ、と誇示する暴力団関係者の方の感性と非常に似たものを感じます。
 一時的風潮なら、まあ、そんな流行りすたりもあるかもな、と思わないでもない。
 でも、これが国を挙げてとなるとどうでせうね?
 ちーとヤバイとお思いになりません?
 第一次、二次の産業を捨てて、第三次産業だけになったら国は衰退するといわれてます。
 なのに、第三次よりはるかにヤクザチックな、第四次産業だけで国がいっぱいになっちゃったら、これはいったいどうなるのでせうか?

 こうした政治経済を実践する国が最終的にどういう運命を辿るのか---それを、現実世界でいま、まざまざと見せつけてくれているのが、アベリカ合衆国没落という現象なのだ、と僕は考えます。

 ですから、これは、円高なんかじゃない、進行してるのは「$安」なんです!
 いや、これは甘すぎる表現でしたね、いい直しませう、進行してるのは「$崩壊」、あるいは「$死亡」といった破滅的な現象なんです。
 政治の力でこの事象を必死に隠蔽しようと奮闘中ですが、むりむり、一度はじまった急性アノミーをとめることなんて誰にもできません。
 $が史上初の75円! なんて今朝(8/21)新聞が大騒ぎしてましたが、この$の大崩壊は、75円くんだりでとまるようなレベルのモノではとてもない---$は、最終的には50円割ると僕は思ってます。
 それにしてもねえ…(トため息して)…… 

----この状況を認識して、それを新聞の一面にしないマスコミの存在意義ってなに?

 とイーダちゃんは切に思います。
 だって、まったく意味ないもの! 無意味どころか、存在自体が既に害悪であると思っております。
 これ、明らかに、意図的な隠蔽だもん。
 イエス、マスコミに割りふられている真のお仕事は、真実の隠蔽と大衆の扇動教科です。
 要するに、世界のマスコミ連中は、みーんな、お犬なんですよね---どこかの合衆国サマの指令待ちの。
 世界中がアベリカ・デフォルトで大騒ぎしてるっていうのに、「アベリカはデフォルトを持ちなおした!」と、いきなしコレだもの。デフォルトのなんたるかを知らない庶民層は寝耳に水、そりゃあ「なんだなんだなんだー!?」となりますよ。
 でも、新聞TVにべったりで、政府を信じきってるみんなもわるいんですよ。
 あと、無料のTVが、真実の国際情報を分かりやすーく「教え施してくれる」と考えている、僕等・大衆もわるい。
 そんなわけないじゃないですか---どの世界でも棚ボタ現象はありえません---なんだって、政府や金持ちが、好き好んで文無しの大衆を本気で啓蒙なんかするのよ?
 大衆が利口になったら、彼等の大好きな富の独占、やりにくくなっちゃうじゃないですか。
 大衆はいつの世も阿呆のほうがいいんです、世の支配者にとって。
 で、ナチスがTVを発明したわけ---ローマ以来のあの「パンとサーカス」---国民愚民化政策を実行する、最右翼の道具として。
 このようなことは、何十年もまえから、いろんな方がいいつづけてこられました。
 たとえば、ジョン・レノン、キング牧師、印度のガンジー、我が国では小室直樹先生、副島隆彦氏、リチャード・コシミズ氏等…。
 真実は、考えに考え、物事の裏を推察し、あらゆる書を読み、眠れぬ夜を何晩もすごした者の脳髄しか訪れないんですよ---これは、大むかしからの哲理です。
 でも、みんな、結局こーゆーの、あんま聴いてくれないんですよね。
 それより、お気に入りのキャバクラいって騒いだり、あるいは、家帰ってTV見ながらビールあおったほうが楽しいや、とかいっちゃってね? ま、TVはとにかく、キャバクラとかはたしかに楽しいですよ。それは、まあ否定しない。
 ただね、そっち方面の華やいだ感じの花火めいた楽しさも大事だけど、まわりの社会趨勢を冷静に見極める石橋視点っていうのも、人生上の色艶問題とおなじように大事なモノなんじゃないかなあ、と僕はここで問題提起したいわけなんですよ。
 だって、いま以降もそんな片側車輪オンリーの運転態度とってると、このさきの人生下り坂、まさに地獄だもん。
 脅かすつもりじゃない、これは、もう9割以上見えている、明確無比な未来なんです---。
 その具体例として、8月21日付けの新聞記事いってみませうか。

----日銀 臨時会合も検討 ドル安反転は厳しく(8/21朝日新聞朝刊1面より)

 この記事は、ま、事実といえばたしかに事実なんですが、僕は、この種の記事を、露骨な隠蔽を意図した、論点ずらしのための誘導記事として読みたいですね。
 こうした最近の$関連の記事が意図的に隠蔽してること---それは、いうまでもなく合衆国のデフォルトです。
 そうしたズバリ正面スタンスからの報道は、たぶん、どのマスコミもまだやっていないでせう。
 米本国のデフォルト自体が何よりの一大事のはずなのに、あえてそっち方面からのアナライズを避けて、本質的な$安を円高と称し、本質から外れた末端現象をわざとらしくズームしてみせ、遠からずやってくるアベリカの国家破綻という事態を、大衆に気取られないように隠蔽してるわけ。
 それが、ウォール街に飼われている、マスコミさんの情報隠蔽の一般的なやり口です。
 この朝日さんの記事を読んで、「うわ。大変だ!」とか思うひとは、やっぱりいらっしゃるんでせうかね?
 でも、それ、たぶん反応鈍すぎ---いまさらこんな見え見えの記事、書くほうも書くほうだけど、読むほうも読むほうだ。
 日刊ゲンダイさんなどはまだいい部類なのですが、やはり、見通しがあまりに甘すぎる---というか、どうしてもここまでしか書けない宿命なんでせうね、商業誌一般っていうのは。
 スポンサーの顔色を悪化させることは書けない、そのような情報制限の時代はもう終わりにしなくっちゃ、と思います。
 実際のところは、恐慌は、もうとっくのむかしに始まっているのです。
 いいですか、合衆国が莫大な借金返済を返済することを諦めて、完全無欠の借金大国としての荊の道を転がり落ちはじめたのは、ええ、たしか80年代のあのバブルのころですよ。
 ちょっと真面目に世界経済を見ることのできるニンゲンの眼から見れば、合衆国の崩壊は、もう必然だったのですよ。
 僕も、5月の自分のブログのなかで、アベリカのデフォルトの不可避性について語ってる。
 でも、こんなのは、先見でも予言でもなんでもなくて、ちょっと自分のアタマで考えれば誰でも分かることなんです。

----米国の借金は1京3600兆円に膨れ上がり、財政破綻国家に転落、もはや救い難く、FRBもお手上げ、米国債をただの紙切れにし、借金棒引の「チャラ策」しかなさそう。(板垣英憲情報局「マスコミに出ない政治経済の裏話」より)

 誰だってできる。要するに、TVと新聞とを信じなきゃそれでいいんです。
 知性もいらない、フツーのあたりまえの感受性さえあれば、僕は、TVなんて汚らしくて見れないと思うけどなあ。
 実際、イーダちゃんは、高2のときの「ザ・ベストテン」を最後に、自発的にTVを見たことは一度もありません。
 なんで?
 いや、単に「汚らしい」と感じられたから。
 だってねえ、なんというか、タレントだって文化人だってなんだって、極論していうなら、しょせんはスポンサーのご機嫌伺いの太鼓持ちさんばっかじゃないですか。
 そういった金満土俵の内輪から咲く言論に、正しさなんてあるんだろうか、というのが高校生時の僕の立場であったわけ。
 多くの知人からヘンクツといわれ、つきあう女性のすべてに「TVを見る女はキライだ」みたいな無茶をいうものだから、イーダちゃんの女性遍歴は、苦悩と苦労まみれのややビター味のものとなりましたが、ま、その点に関しちゃ後悔はしてないですね。

 というわけで総論入りませうか。 

 実は、アベリカ合衆国というのは、戦争バブル、サブプライムなんかの住宅バブルなんかで持っていた、超・不健全なバブル国家なのでありました。

 先ごろ、低所得者向けのサブプライム・ローンがはじけたことは周知でせうが、今度はいよいよ中間所得者層のためのプライム・ローンまではじけはじめました。
 このプライム・ローンっていうのは、サブプライムとはちがって、アベリカでいちばん層の厚い中産階級のことを意味するわけですから、このひとたちのための住宅バブルがはじけるというのは、これはもう大変な事態です。アベリカから中産階級がいなくなるってことなんですから。つまりは国家崩壊ですわ。
 さあ、米デフォルトに関するニュースのつづきを、駆け足で見ていきませう。
 えーと、全米大学卒業者のなんと80パーセントが就職先がなく、ミネソタ州は早くも破産宣言---その他の州でも、警察以外の公務員をだんだん切りはじめている模様---なにしろ、公務員の給料自体が、もうほとんど滞っているんですから。
 頻発する暴動。
 けど、暴動で怪我しても、一般庶民には医療は高根の花だから、辛抱して自己流に治すしかないうトホホな状況。
 なんたるアベリカン・ドリームか! おかげで、庶民たちがPC上で展開する自虐ギャグの多いこと多いこと。
 マスコミさん、なんだって、こーゆー事実を報道しないんですか---ねえ?
 こういう事実をひとつひとつ捕まえていくと、1ドル=75円っていうのはまだ高いなあ、と思わずにはいれません。
 ええ、僕はね、アベリカ合衆国って国家は、最終的には存在しなくなる、失くなっちゃうだろう、と思ってる。
 まえからいわれていた国家分裂ですか?---$崩壊後にくるのは、たぶん、この世界でせう。

               

----大体、55%くらいの確率でアベリカに分裂が起こると思う。我々ロシア人としては歓喜きわまるところだが、理詰めで考えればこれはロシアにとってもベスト・シナリオとは言えない。ロシアは世界での覇権という見地からはステータスが上がるが、経済的にはアメリカの瓦解はロシアを困窮させるだろう。(元KGBアナリスト、アイゴア・パターソン氏の発言より)

 うん、あまり報道されないことですが、合衆国の各州って意外にみんな独立欲がさかんなんですよ。
 テキサスなんて、もともと歴史的に一国を営んだことがあるし、ことあるごとに連邦政府へ独立の意志があることを訴えてきています---あと、フロリダ、カリフォルニア、ルイジアナなんかもね。
 下手したら、南北戦争みたいな内乱が勃発する可能性すら、けっこうある。
 その日のまえに、あの$につづく第二の通貨、噂の「アメロ」を基軸通貨にもってこようと企んでいるのかもしれませんが、紙幣だけ変えたって国の本質が変わらなけりゃ意味がない、ですから、この案はナンセンスでせう。

 ざっといって、まあ、こんなとこ---アベリカ合衆国の壮大なたそがれが、貴方にもじんわり実感できてきたでせうか?
 僕的には、なるたけ実感してほしいと思うんですよ。
 だって、これは、遠からず起こる「必然の未来」なんですから。
 まあ、そうなったら、当然ニッポンも無傷じゃすまない。
 秋---9月から10月には---さぞかしおっとろしい事態がはじまってることでせうね。
 米資本の企業は全部ヤバイと思ったほうがいい---フ○ツーなんかさしずめその筆頭かも---あそこ、バブルのとき、みんな株をあっちに買われちゃってますから。
 あと、保険ね---アヒルのアフラ○ク、最近CMやってないみたいじゃないですか?---アベリカの保健会社系は、はっきりいってみんな軒並みヤバいっス。
 僕は、アベリカから保健会社という存在が、すべて駆逐されるかも---とまで思ってる。
 笑いますか? ええ、僕もなるたけこれが杞憂に終わればいい、と願ってるひとりなんですがね。
 まあ、こんな未曽有の非常事態、予想しようたってしきれるもんじゃないけど、我が国もこの超ド級・国家崩壊のあおりを喰って、そーとー痛い目を見ることはまず間違いないでせう。
 日本企業は、どこが生き残るのか?
 下請けは大丈夫なのか?
 うーむ、こういった予想は、素人のイーダちゃんじゃとてもムリですね。虚偽情報から目覚めた専門家諸氏の、分析及び予想を待ちませう。

 ただ、どんな危機的な事象にしろ、よい面、明るい方向っていうのは必ずあるものでして…。
 「$の崩壊」というのは、すなわち「$を支えてきたいままでの世界構造」が瓦解するという意味です。
 いわば、これは「世界史の曲がり角」---みんな貧乏になって、自家用車を自由に乗りまわす、なんてことができない世の中が、ひょっとしてすぐにでも到来するのかもしれない。ファミレスで家族そろって、中華、和食、洋食の食事を、同時に、格安で食べられた---なんていうのが、むかし話みたいに語られるような世の中が、もうすでにはじまりつつあるのかもしれません。
 それは分からない---でもね、僕は、それもある意味、いい意味での「禊-みそぎ-」になるんじゃないか、と思わずにはいられんのですよ。
 ここ何十年か---我がニッポン国は、あまりにも「金、金、金!」の、超・物質主義で疾走しすぎてきましたから---。
 僕等、知らないうちに気づいたら、神サマじゃなくって「金」を拝むようになってました。
 自分の家族と子供の進学だけが唯一の心配事で、地域や国の安泰なんかどうでもいいや、みたいなあざとい割り切りかたって、僕は、自分の感情や健康のためにもよくないって思うんですよ。
 かつてのニッポン人が、もし、いまの僕等・子孫の現状が見れたら、どう思うでせうか?
 僕は、彼等がいまの僕等の現状を見て、喜んでくれるとはとても思えない。
 ちょっと眼のはしにこう心持ち小皺を寄せてね---いささか軽蔑の表情を見せるんじゃないのかな…。

----たしかにお銭は大事でせうよ、あなたたちにはあなたたちなりの時代の良識やら規範があって、それにそって暮らしたり考えたりしてるのは分かります、分かりますけど、あなたたちの生き方が、お天道様の道に沿ったものとは、あたしにはあんまり思えませんねえ……。
  
 なんていわれちゃったら、どうします?
 僕だったら、恥ずかしくてうつむくしかないよなあ…。
 だから、この文明崩壊を機に、金にかしずく人間部品同士が争いまくる現行文明とはまったく異種の、もっと暖かくて寛容な方向に文明の舵を切れたらいいのになあ、とイーダちゃんは思ってるわけなんですよ。
 僕だけの夢想かもしれません。
 しかし、これから起こる未来は、まちがいなく、「白人文明の壮大なたそがれ」なんです---。
 千年つづいた白人主導の文明が終る---これは、凄いエポックですよ。
 21世紀は、恐らくアジア主導の時代になるでせう。ただ、いままでの仕返しみたいに「白人お断り」とかそういうんじゃなくて、誰でもが平等に参加できる、平和で間口のひろい、そんな社会がつくれたらいいな、とまじりっけなしにそう思います。
 もっとも、合衆国中枢に潜む「彼等」のそうさせまいという最後の抵抗は、手段を選ばない、そうとうに凄まじい、狡猾で残虐なモノとなるでせうが…。
 君臨するのがあれほど好きな「彼等」が、三度のメシより好きな君臨の快感を、そうそう捨てるわけがない。
 イエローと握手するくらいなら死を選ぶ、みたいな派閥もそうとうあると思います。
 ハルマゲドン計画によって膨大な借金をチャラにしようと蠢く一派もまだまだ健在ですし---彼等、なにしろ世界最大の軍隊を握ってますからね---これはとても侮れませんよ。

 $を発行しているアベリカのFRB(連邦準備制度)は、実は、公的機関ではなくて私企業です。
 なんと、一介の民間人の持ちものたる私企業が、世界通貨基軸たる$を、ドサドサと勝手に印刷して、発行してるわけ。
 リンカーンは、このFRBの通貨発行権を政府に取りかえそうとして殺されたの。
 この情報---どのマスコミも扱いませんから戸惑うかもわかりませんが、事実です---よーくお調べください。
 要するに、このFRBの背後にいる黒幕が、世界の総督なんですわ---これまで多くの世界戦争のシナリオを書き、それらをことごとく実行して儲けてきた、歴史の支配者にしてキングは、ここにいたんです!

 秦の始皇帝みたいな贅沢を楽しんできた彼等の御世にも、しかしながら、ほの暗い翳りが見えはじめました---それが、1980年代。
 翳りはいっそう濃くなり、彼等の拠点である合衆国は、もの凄い借金国家になりました---それが21世紀初頭。
 翳りはとうとう彼等の王国をまるごと呑みこみはじめました---彼等は泡くって、支配を繋ぎとめる術を必死に探してる---手飼いのCIAラインなんかを思いきり駆使してね---あと、ニッポンにも米国債を狂ったように買わせて---少しでも$崩壊の歩みを遅らせようと死力を尽くしてる状態---それがいま…。

 これからさき、世界がどうなるかはだーれも分からない。
 いわゆる神のみぞ知る、というやつですね。
 でも僕はね、こんな風に思ってるんです---。
 かつて、中世のヨーロッパで「教会」の頸木から解き放たれた市民は、新鮮な命のほとばしりのような、あのルネッサンスを歓喜のうちに迎えたものでした。
 アベリカの頸木から解き放たれたニッポンが、いままでとまったくちがう、新たな時代精神を担って進むという可能性も、ひょっとしたらありえないわけじゃない……うむ、これ、あながち白日夢でもないのかもしれません……うん、そうなれば、そうなればいいなあ---!(^.^;>

  

 

徒然その76☆熱海の夜どすえ--「福島屋旅館」より--☆

2011-08-18 21:08:40 | ☆湯けむりほわわん温泉紀行☆

                            

 先日、ひさびさの連休が取れましたので、ちょっくら温泉旅行に行ってまいりました。
 ま、旅行といっても去年の8月に試みた、北海道一周とはぜんぜんスケールのちがう、近郊・熱海への1泊旅行なんですが。
 しかし、よくよく考えてみれば、去年の8月をまるまる旅行に費やしたりできたのも、それは、あくまでイーダちゃんが失業者という、カタギじゃない、やや特殊な状況だからだったんですよね。
 いまや、残念ながらイーダちゃんはカタギの、どこにでもいる非個性的な会社員となってしまい---この不況下にこんな不謹慎なこといっちゃイカンのですが---したがって休みも限られ、しかも、5月の福嶋での愛車の全損事故のせいでクルマなし、といったトホホ条件もありまして、なんと、珍しくも電車を利用しての近場への1泊2日旅行となったわけなんです。
 でもでもね、前日に台風6号がすぎ去ってくれたおかげもあって、熱海はまたとない晴天日---イーダちゃんは思いもかけぬ最上の旅行を満喫することができたんです。
 1泊2日でもなんでも、温泉って、やっぱ、いいわ---。
 2009年の2月16日に利用させていただいた、超レトロの「福島屋旅館」さんを、今回も訪ねてみました。
 うーん、こちら、熱海銀座の坂のところ---熱海七湯の「風呂の湯」のすぐ下です!---に位置してるんで、熱海駅からはけっこう海側に下ることになるんですけど---超レトロな昭和初期の下宿屋みたいな木造のシックな佇まいと、自家源泉でやっている、掛け流しのとびきりのお風呂とのダブルの魅力には、やっぱりどうしても抗いきれませんでした。
 熱海駅前の「家康の湯」でしばし足湯を楽しんで、それから、駅舞え第一ビルの奥、1F隅にある超マニアな本屋「石垣書店」さん---こちら、チェーン店じゃなく、それほど品揃えもないのに、本のセレクトがすっごくマニアなんでイーダちゃんの愛用店になってるんですよ。伊勢神宮の謎関連本がザラッと1ダースほどあって、あとは日月神示とか先代旧事本、さらにはムーブックスの飛鳥本がドカッとあって、中丸薫やベンジャミン・フルフォードの著作なんかもけっこう揃ってる!---に立ち寄って、しばしの散策---眼にとまったのを2、3冊購入してから、炎天の熱海の町へと繰りだしました。
 ここんとこ、本業の介護のほうが忙しく、なかなか休みも取れなかったんで、こーんなギラギラ夏日の連休なんて、まっことパラダイスの予感です。
 青い空がステキ---。
 サンビーチのいかにも夏めいた遠いにぎわいも、なんか、たまんない---。
 いや~ 海岸をぶらぶらっと散策して、大学二回生のときに「ゴレンジャー・アクションショー」で出演したこともある、熱海後楽園ホテルまで足をのばしてみたりもしました…。

----うお、懐かしい…。でも、ここ、こんなにでっかい立派なホテルだったっけ…?

 どうも、肝心な記憶自体があんまり定かじゃない。むーっ。でも、ムリもないか。たしか2週間くらいの短期バイトだったもんな。
 それから、海岸で見つけた「第一富士丸食堂」ってとこでハマグリの定食を食べて、熱海銀座をトコトコと上り、お馴染みの定宿・最愛の「福島屋旅館」さんへ---。

----こんにちはーっ。予約していた○○でーす!

 ああ、お待ちしてました、いらっしゃいってご主人がさっそく迎えに出てこられて…。
 2階に案内されて、麦茶をいただき、汗がひいたころ階段を下って風呂に向かって---
 真夏の極暑日に入ったこちらのお風呂はサイコーでした。
 おっと。「福島屋旅館」さんの写真、何枚かUPしておきませうねえ---。

         

 えと、写真の注ね---左端のが「福島屋旅館」さんの全景---なお、灯りのついてる2Fの部屋がマイ・ルーム。
 中央写真は、「福島屋旅館」さんの目玉である、なんとも藝術的なお風呂---レトロな雰囲気といい、塩辛くて、ややビターな鉱物臭のする、薫り高い源泉のこちらのお湯は、言葉じゃとっても表しきれない龍宮級、も・スペシャルな素晴らしさ!
 で、右端のフォトは、風呂の着替処を撮ったとこ---このクラッシックな佇まい、ちょっとたまんなくありません?
 ここんところ大好きな温泉とずーっとご無沙汰してたんで、この日の一湯は効きましたねえ---。
 うん、超・効きましたよー…。
 お昼という時間帯のせいか、あるいはうだるような夏日のせいか、お客、僕のほかに誰もいなくって、イーダちゃんは源泉ひとり占めという極楽状態を、なんと、1時間以上も満喫することができたのであります。 
 イかったあ、お蔭でもう身体、背骨の芯までクッタクタ……。(^.^;>
 もう読書どころの騒ぎじゃない、湯あがりにちょっとビールをひっかけたら、買いたて本を読むなんてとてもムリ、あらかじめ敷いておいた万年床に倒れこむやいなや、グーグー爆睡こいちゃいました---。
 で、はっと気がついたら熱海の町はもうたそがれ…。
 夏のたそがれは淋しいですからね---まして観光地の昼寝後のたそがれとなると、これはひとしおのものがある。
 だもんで、こりゃあイカンと駅にいったら、もう家康の足湯は終ってました。
 「あちゃあ」と思って駅ビル内のマニア本屋にいってみたなら、そこももうシャッター降りてます。
 熱海の夜は早いんですよ---慌てて、宿屋近くの酒屋さんに飛びこんで、酒とツマミを確保しようといろいろセレクト、入口近くに重ねてあったプラスチック籠を取ろうと何気に手をのばしたら、

 バサバサバーッ---!

 なんと、その籠からいきなり鳥が飛びたったんです。
 あけっぱなしの店のガラス戸をくぐって、一路、たそがれの兆しかけた海の方角へ!
 びっくりしました---えっ、なんで鳥が? と頭まわらなかった。
 そしたら、年老いた酒屋の店主のご夫婦さんが、

----いやー、お客さん、実はさっき店に鳥が入ってきて、そのまま静かなまんまだったから、うちら、てっきり鳥は勝手に外に行ったもんだとばかり思っていたんですが、まさか、籠のなかにずっとおったとはねえ…。(ウンウンと隣りで奥さんうなずき、うなずき)

----あのー、こんなこと、よくあるんでせうか?

----いやいや、うちらも初めて…。びっくりしてるんですよぉ……。(ウンウンとやはり奥さん、隣りでうなずきつつ)

 で、三人でにこーっと笑っちゃった、というような顛末でして---うーん、でも、この「鳥事件」はよかったですね---うん、イーダちゃん的には、とてもよかった…。
 念のため、この「鳥事件」の舞台の酒屋さんのフォトも挙げておきませうか。
 そのステキなお店は「神戸酒店」といいます---「福島屋旅館」とわりに近くの、おなじ熱海銀座内にあるお店です。

                    

 なんというか、この熱海行は、寝まくりの旅となりました。
 昼、温泉してひと寝りして、夜、温泉してまたひと寝りして…本はあまり読めなかったけど、でも、ほんわか愉しかったです。
 どうも、イーダちゃんはホントに一人旅が好きなようなんですよ---今回、それ、痛感しました---。

 翌朝、またもや朝湯して、いい気分で部屋でまったりしていたら、いきなりご主人が訪ねてきまして、

----お客さん、申しわけありませんが、TVの取材の方が来られて、うちの全景を撮りたいっていうんですよ。で、すみませんが、部屋のカーテンだけ、ほんの2分ほどあけといてもらえませんでしょうか?

----ほう、取材ですか…。いいですけど、ちなみにどこのTV局ですか。

----TBSのひとたちです。

 で、まあ、カーテンはむろんあけたんですが、TBSの取材陣の写真も二階の窓から撮っておきました。
 取材スタッフは、計3人。うーん、TVもいまは縮小してるんですねえ。必然性まったくないんだけど、このフォトもまあUPしときませうか。

                    

 結論。「福島屋旅館」さんは、そう、TVも取材にくる名物宿だってことでどうでせう?
 風呂も風情も一流ですし---ま、建物自体は古くて、かなりオンボロの気味もあるんですけど。
 でも、よき宿ですよ---二階にいっぱいある部屋の数々を、ご主人一家が住居としてあちこち使ってる、なんて所帯じみた点も僕的にはけっこう好き。
 もし、これを読んだ貴方が熱海に訪れた際、この記事をアタマの片隅になんとなく覚えていてくれて、どれ、熱海といえば、あの「福島屋旅館」ってとこにでも行ってみるか、という気になられたらとってもいいんだけどなあ、なんてイーダちゃんは思っています---。(^o-)

徒然その75☆ジョン・レノンの変拍子☆

2011-08-13 22:15:55 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆
                                   

 ポール・マッカートニーって超一流の家具職人みたいだ---と、いつも思っておりました。
 家具なんていうといささか語弊があるかもしれませんが、どんな注文にもすぐさま応じられる、惚れ惚れするくらいの匠の技をもっている、というくらいのニュアンスで解釈しておいてください---だって、Mattha My Dear と Helter Skelter を同時に作っちゃうようなおひとですからね。
 上流階級仕立てがお望みなら、うん、じゃあいまから2階の木工部屋にいって、テーブル部分にエリザベス朝の木彫りを掘ってくるから、ちょっくらそこで待っときな---とパイプをくわえたまま豪快に笑い、
 あるいは、なに? 潮風のたっぷり染みこんだ、リバプールの港町風仕立てがお望みだって? それなら、よし、なるたけシンプルな組立で、木目もそれなりに荒めに仕上げとくが、ま、納品のとき、トゲにあたらないように気をつけてな---とか、もう変幻自在の腕の冴え!
 いずれにしても、ただ者じゃありませんや。
 こうした、ある意味あざといくらいの器用さを持ちあわせているのが、あの太宰さんとおんなじ双子座生まれのせいなのかどうか、むろん、断言なんてできないんですが、ミスター・マッカートニーのそのような才能が、ビートルズのもう片翼、あのジョン・レノンのものとまるでちがったかたちをしていたというのは、これは、衆目の一致したとこと思います。
 ええ、ちょっと聴いてみただけでも、この巨星ふたりの芸風のちがいは充分に聴き分け可能でせう。
 ポールの作品って、常におしゃれで、コンパクトにまとまってるんです。
 きりりとした佇まい---そして、どこをとっても非常にスマート---おしゃれな気配が曲の隅々まで行きわたってる。
 通常の16小節に1小節足りない Yesterday なら、1小節足りない「あれっ?」の部分が、なんともスマートなんですよ。
 いついかなるときにも趣味のよさっていうか、これ以上のラインを踏みはずさないっていう、古典的な英国紳士の横顔を拝ませてくれるっていうか。
 つまるとこ僕は、ポール・マッカートニーというのは、イギリス版のサン・サーンスみたいな存在じゃないかって、まあ思ってるわけなんですよ---。 

 けれど、ジョン・レノンとなると、これがまるきりちがってる…。
 おなじ秤はまったく使えません。ポールが第四コーナーで華麗なターンを決めて、見事なコーナーリングですさーっと駆けていくF1だとすれば、ジョンのクルマを運転してるのはプロじゃない、命知らずのキ○ガイドライバーですね。無茶なスピードで曲がりきれず観客席にクルマごと突っこんで、逃げまどう観客を何人かふっ飛ばしながら、ガギギギギーッとカーヴする Super Big jeep って感じです。
 僕にいわせると、ジョン・レノンっていうのは、とにかくパフォーマーなんですよ。
 根っからのパフォーマー---というかシンガーのなかのシンガー。
 ポールの本質がコンポーザーなら、恐らくジョンは生まれながらのロック・シンガーと分類できると思います。
 だって、努力、いりませんもん---あの声さえあったら……ロイ・オービンソンと井上揚水を足してからさらに5を掛けたような、あの極上のベルベット・ヴォイス---一度聴いたら誰もが忘れられなくなる、あの剃刀みたいな、向こうっ気の強い、鳴りのいい声さえあったなら、ほかになにがいるでせう…?
 その気になってロングトーンのおたけびをあげさえしたら、世界は即レノン色一色に染まって、自分の足元にひざまずいてくるんですから---。
 ジョン・レノンっていうのは、そのような奇跡の声をもっている稀なひとでした。
 ポールからしてみると、「ズルイ」「そりゃあないよ、ジョン」の連続だったと思います。
 歯がゆかったと思うし、造化の神は不公平だ、とずいぶんと悔しい気持ちを味わったろうとも思います。
 でも、そりゃあそうですよ、ジョン・レノンってお客の目線から曲、発想してませんもん。
 自分のいい声をより気持ちよく鳴らしきるために、「曲」という額縁がたまたま必要だったって感じでせうか。
 そう、ここが肝心---声が「主」で、「曲」が従なんです。
 ジョンは詩人としての横顔も有名ですが、その肝心のポエジー世界がかすんじゃうほど、ジョンの声はイカシてる。
 そういった意味で、サッチモやジミ・ヘン(ジミ・ヘンのあのノイジーなギター音を、僕は、彼の「肉声」だと解釈してますので)、オーティスやレディ・デイなんかと共通項をもつひとだったのかもしれない。
 ジョン・レノンのカヴァー曲が、誰に歌われても、いまいちピンとこない感じが常につきまとうのは、そのためです。
 彼の曲を歌いこなすためには、あのとんでもなく「抜け」のいい、きらめきまくる、艶のある声が、どうしても要るのです。
 というわけで僕的にいうならば、ジョン・レノンとは何より「声」のひとなのですが、それにつづく、ジョン・レノンをジョン・レノンたらしめている、第二の不可欠要素といえばなんでせう?
 「Love & Piece」? それとも「Rock and Roll」?
 うん、どっちもたしかにジョン・レノンを構築してる重要な要素だと思いますけど、僕はそういった通り一編の概念的な特徴より、もっと本能的な特徴を選びたいんだなあ。
 僕は、ジョンをジョンたらしめている絶対不可欠な要素とは、さっきから連呼しているように、まず「声」---そして、それにつづいてはジョン独自の、あのファニーな「変拍子」だと思うんですよ。

 「変拍子」? イエス、「変拍子」です。
 一般的に「変拍子」というと、貴方は、なにを連想されます?
 ストラヴィンスキー?
 それとも、バリ島のケチャ?
 あるいは、中東のウード音楽の8分の10拍子「ジョルジーナ」とか?
 ストラヴィンスキーを連想したひとは、たぶん、「アタマ」始発の青白きインテリ・タイプ---小節の息苦しい規制から自由になるために試みたストラヴィンスキーの変拍子に、管理社会の重圧からの脱出という自身のテーマを何気に重ねあわてしまう、いわばひっそり型隠れロマンティスト---。
 バリの民族音楽ケチャを連想したひとは、ゴーギャンみたいに積極的に「ゲンダイ文明」を否定したい、いわば脱・現代志向派---タヒチやバリ鳥がほんとにユートピアかどうかは分からないけど、とにかく、そういった憧れの土地に強引な自分の夢を押し重ねてでも、窮屈な小節のくびきから脱出したいひと。
 中東の変拍子「ジョルジーナ」なんてのを連想したひとは---まあ、これはどうでもいいや(笑)。
 ま、「変拍子」と一言で申しましても、かようなまでにいろいろとあるわけですが、ジョン・レノンの用いる「変拍子」は、これらのどれともちがっている気がします。
 どっちかというとバリ鳥のケチャなんかに発生経路は近いかもね?
 とにかくストラヴィンスキー的な、意図的な西欧離脱みたいな路線じゃないことは確実でせう。
 なにより、楽譜を書けなかったジョンからすると、自分が演奏してるリズムが「変拍子」だということすら、なにか意識してなかったみたいなんですよ。
 だから、ジョンの「変拍子」には、ストラヴィンスキーみたいな頭脳始発の「人工臭」がほとんどないの。
 流れ的にも非情に自然で、聴いてて一瞬「ん?」とかは思うけど、そのまま違和感なく聴きすごしちゃうケースが圧倒的に多いんですよ。
 分かりやすいとこで具体例いきませうか---。

 僕がいちばんインパクト受けるのは、あの究極の変拍子曲「Good Morninng,Good Morninng」とかじゃなくて---この曲はむろんのこと凄いんですが---意外や意外、Let it be のなかの名バラード Across The Universe の地味ーな変拍子なんです。
 音楽やってるひとでも、あれ、あんま気づいてないひとが多いんじゃないのかな?
 あの歌のなかで、実は、一箇所だけ変拍子が混入してるんです。
 歌でいうと一番の中途部分、ちょっと歌詞を抜き書きしてみませうか。

----Words are flowing out like endless rain into a paper cup,
They slihter while,they pass,they slip away across the Universe…

 ここ! 上の赤部分の歌詞の語尾が、小節線を完璧オーバーしちゃってるんです。
 したがって、この小節部分だけ4分の5拍子の変拍子になってる。
 たぶん、歌詞が4分の4で歌いきれなかったんで、なんとなく伸ばしてプレイしちゃったんでせうけど、その「なんとなく」がなんとも凄い。結果として、企まざる「?」の小さな波立ちが生まれて、その不規則な一瞬の水のほとばしりが、実に美しい、自然な水の流れみたいな滔々とした風情を曲中に生じさせてる。
 しかも、この曲の変拍子は、1番のここ一箇所オンリー!
 あとの2番3番のこの部分は、みんな通常の4分の4の枠内に、まるーく収まっているんですよ。
 ジョンの変拍子の基本って、まさにこれだと思いますね。 
 秀才的音楽家からすると「変拍子」って一種の高等テクなんですが、ジョンはちがう、自分の使うリズムが「変拍子」だと思ってもいないし、たぶん、あまり意識してもいないのよ---ただ、頭のなかの曲のイメージを追っかけていったら、たまたまリズムが通常とはちがう字余りな感じになった、でも、面白いからコレでいこうか、みたいな奔放な「自由さ」をなにより感じます。
 考えてみれば、ジョンの曲中に「変拍子」の曲ってとっても多いんですよ。
 いま思いつくだけでも「She said She said」「Strawberry Fields Forever」「Don't Let Me Down」「Mean MR.Musterd」「Meat City」「I Don't Want To Be A Solder」「Revolution」「Being For The Benefit of MR.Kite」「Mother」「I'm So Tired」「Yer Blues!」なんかがそうですよねえ。
 あと、「Help!」ラストのアカペラっぽいブレイク部なんかもそうだ。
 ちょっとこの多さは凄いですよね? 大抵の変拍子の舞台裏には作曲家のえっへん顔がひそんでるもんなんですが、ジョンの変拍子には、まるきりそうした作為の跡がない。誇示臭も皆無。自然にやってたら、なんか、こうなっちゃったんだよー、といったような悠々たる懐の広さみたいなモノがかえって感じられるんですよ---いささかモーツァルトチックな野生児風味といいますか---しかも、その過程で生まれた変拍子の切れてること切れてること!---ホント、個人的には、ミスター・変拍子って呼びたいくらいのおひとなんですよ…。
 さて、そんな変拍子の達人ジョン・レノンの曲中で、僕がいちばん敬服してるのが、超名曲「All You Need is Love」のなかの、あの変拍子なんですわ。
 これ、ちょっと重要だと思うんで、手製の楽譜にしてみました---まずは御覧あれ---。

                      
                          (注:最初の2小節を3回繰り返して、3小節以降に進む)

 最初にこれ聴いたとき、僕は中学生だったんですが、もの凄い違和感ありましたねえ---。
 だって、曲が滔々と流れず、フレーズごとにガクッ、ガクッ、と前にのめっていくんですもん。
 そう、それによって曲中に、なんともいえないスリルとスピード感とが生まれてくるんです---いかにもジョンならではの鋭角的な。
 全部通常の4分の4拍子で演奏したら、やってみたらすぐ分かると思うけど、これ、たぶん、それほどの「名曲」じゃなくなっちゃいますよ。
 魔法は消え失せ、ダラーンとした、どこにでもある、ただのありふれ曲のひとつに色褪せちゃう。
 そうした意味でこの曲に生命感を与えているのは、やっぱり、各フレーズ終わりの、のめるような4分の3拍子の---ジョン特有の変拍子なんじゃないか、と思います。
 
 しかし、僕が凄いなと思うのは、レトリックとしての「変拍子」じゃなくて、心の底から湧きでてくる「音楽」をかたちにしていたら、たまたまそれが小節という「矩」を超えてしまった、というジョン・レノンの音楽のもってる根源的なパワーなんですよね、やっぱ。
 現代音楽から枯渇した「生命力」を蘇らせるために「変拍子」という小技を使ってみたのじゃなくて、自らの「音楽」を追っていたらたまたま小節の枠を超えてしまったという、その奔放極まる、ジョンの生命力のきらめき自体!---その眩しさにいつだって魅せられてしまうってこと…。

 さて、そうしたジョンの変拍子作品のとどめともいえる作品が、いまさっきちょっと述べた、あのサージェント・ペパーのなかの「Good Morninng,Good Morning」なのでありますよ。
 僕的にいわせていただけるなら、これ、一曲さえあれば、サージェント・ペパーのアルバムなんかもういらんスよ…。
 これ一曲だけで、サージェント・ペパーのすべての曲を代弁しちゃってる、といってもいいかもしれない。
 それくらい、これ、カッ飛んだ曲なんですわ---。
 僕は過去のマイ・ブログで、ジョンの「I Feel Fine」を絶賛しましたけど、ほとんどそれに迫るくらいの、これは、名曲でせう。
 初めて聴いたとき、曲のどの部分も自分の予想を超えて、きらめきながらザクザクと過激に進むんで---そのあまりの原色の連鎖爆発加減に、びっくりするよりさきに茫然としちゃったことをよく覚えています。
 だって、メロディーを覚えるのが困難なほど、過激ぴちぴちの変拍子ぎっしりの曲なんですもの。
 しかも、こうした曲に常につきまとっている「アタマでっかち感」は、まったくないの。
 次々と目前で繰り拡げられる、音楽の絢爛たるサーカスぶりに視線をすっかりさらわれて、気がついたら魂がどっかに抜かれちゃって茫然自失みたいな、そんな感触……。
 こんな、覚えることも困難みたいな、変拍子の極みみたいな曲を、よくもまあケロッグのCMなんか見ながら、楽々と鼻歌まじりに書いちゃってくれたよなあ、と、なんかその才能のあんまりな異能ぶりが悔しくなってもきたり。
 ホント、ため息がもれるほど、過激で、極彩色で、シュールで異次元なナンバーなんですって。
 手書き楽譜の第二弾として、これの譜面もいってみませうか---ほい。

                          

 これは、もう…なんていっていいのやら……。
 凄いというより、これは、もはやカオスの限界領域にかろうじて踏みとどまってる、鋭敏な感受性の氾濫ですよ。
 ひとことでいうなら、たぶん、「異次元」---ええ、まえからときどき思っていたんだすけど、ジョンの変拍子って、いつもそこはかとなく「異次元」の香りがしてるんですよ。
 「I Feel Fine」然り、この「Good Morning, Good Morning」も然り。
 なんかね、歌の上空のまぶしい青空のなかを、たったいま天狗が横切っていった、みたいな---そんな感じ。
 うん、そう---天狗っていうのがピタリだな---この世ならざるものが、視界のはしをかすめていったわけなんです。
 それで、その目撃体験のあとでも、アタマと心とがクラクラするわけ---。

----えっ、マジ? あの天狗…エエッ! 天狗なんて実在するんだっけ? エエッ…!
 
 ひとことでいって、もう超えちゃってるんですよ---なにを超えちゃってるのかというのは、どうも定かじゃないんですが。
 うん、限定できない。でも、この「超えちゃってる感」は、確実にジョンの音楽のなかに偏在してますね。
 無心になってじーっと聴いてたら、この「超えちゃってる感」は誰でも味わえると思う。
 ジョンの音楽って、それっくらい高度でパワフルなんですよ。
 どことも知れないまぶしい高所から吹いてくる、異界の風のひとっ吹き---なんて中学生みたいに大仰な表現を使うと笑われちゃうかもしれないけど---ジョン・レノンの究極的なイメージって、僕には、いつでもそんな風なんですよね。

----仕事に行く、行きたくない、気分はローダウン
  家に帰りがけにぶらぶらして、ふと気づくと君は町のなか
  なんにもやってないことはみんな知ってる
  どこもかしこも廃墟みたいにみんな閉まってる
  見かけるひとはみんな半分眠ってる
  そして、君はひとりぼっちで道端にぽつんと立っている……
             (Beatles「Good Morning,Good Morning」より)

 ジョン・レノンは、法律に違反することなく味わえる、最上級のドラッグです。
 適用量はひとによってさまざまだけど、それによるトリップの上質さはもう保障付き---まばたきするあいだに世界を七周半巡ることだって可能です。
 こんな嘘と欺瞞まみれのからくり世の中に食傷されてるナイーヴな貴方なぞは、ぜひにもお試しください。
 運がよければ、この世の領域外の異界の青空をいままさに高速で闊歩中の、天狗の後ろ姿を拝むことができるやもしれません…。(^.^;>
 
 
 

徒然その74☆三柱鳥居についての随想☆

2011-08-06 11:49:23 | 日猶同祖論入門、なんちって☆彡
                       

 ちょっと日が遡るんですが、先々月の6月の28日、イーダちゃんは前々から気になっていた、噂の三柱鳥居を見にいってきました。
 それは、かんかん照り以上のかんかん照り、猛暑の盛りの殺人太陽がぎらぎらと照りつける熱波の日でありまして、気温も楽々34度超え、外出にはいささか不向きかなあ、とも思われたのですが、少ない休日を有効に使うためには、これは、行くっきゃないっでせう。
 というわけで電車でガーッといってまいりました---墨田区向島にある三囲神社(注:これは、ミメグリジンジャと読むそうです)へ!
 ここには、いまでは日本に六つばかりしか残っていない、超・希少な三柱鳥居があるのです---。                       
 三柱鳥居って、you see?
 それは、名前の通り、柱が三本ある、摩訶不思議なかたちをした、謎の鳥居なんです。
 現在、これがある神社は、非常に限られていて、いちばん有名なのは、たぶん、京都・太秦にある木嶋神社、通称「蚕の社」あたりのものでせうか。
 つづいて、奈良の桜井市・大神教会のもの。
 さらに、岐阜県関市洞戸奥胴戸、栗原底津丸山山頂にある、穂積のもの。
 おなじく岐阜、大和町にあるもの。
 それから、長崎の対馬、和多都美神社のもの。
 あと、徳島、名西群の神山町にあるもの。
 そして、関東では、この墨田区向島にある、この三囲神社の三柱鳥居…。
 いずれにしても、これらの鳥居が---もし、これが通常の意味での鳥居と呼べるものでしたら---非常に希少で、珍しい存在であることに変わりはありません。

----しかし、誰が、いつ、なんのためにこんなモノを建立したのか?

 というような疑問が当然、誰の頭にも閃くでせうが、なんと、これの答えを知ってるひとは誰もいないのです。
 神社自身もむかしからあったという説明をくりかえすばかりで、明確な答えをもっているわけではなさそうなんでして。
 いいや、もしかしたら本当の由来はちゃんとあって、ただ、それが一般に公開されてないってことなのかもしれない、そっちの推察のほうが的を得てるっぽいんですけど、でも、まあ、いってみるならミステリー---答の出にくいミステリーであることには変わりはないって感じでせうか。
 僕的にいうなら、三柱---神道では神さまを1柱2柱の柱として数えたりしますよね?---そんな点から推理して、これは、はるけくむかし日本にやってきた古代ユダヤ人であるところの秦氏が、神道というかたちで我が国に持ちこんだ原始キリスト教「景教」の教え・三位一体の思想を、シンボリックに表現したモノじゃないか---と、まあ睨んでるわけなんですが。
 でもね、やっぱり論より証拠---百の推論よりひとつの実行というわけで、このミステリーの牙城に踏み入らんと、イーダちゃんも実際にいってみたということなんですよ。
 都営浅草線の「本所吾妻駅」という駅でまず降りまして、市営のバスで「向島2丁目」というとこで下車し、徒歩での散策しばし---すると、下町っぽい住宅地の一角スペースに「おっ!」というような緑の濃い、街あいの隙間みたいなってる一街区を発見---それが、目的の三囲神社なのでありました。

----へえ、ここなんだ…!

 と立ちどまって、携帯のカメラをパチリとやってみます。

               

 表門のすぐ向こうに、スカイツリーがばーんと見えているのが、いとおかし---。

        近代といにしえの鳥居が並び立つ三囲神社の夏の一景

 超古代の面影と近代最先端のテクノロジーとの奇妙な交錯が、なんだかこそばゆいような、なんともいえないふしぎな風情をかもしだしております。
 神社の敷地は案外広め---最初の鳥居をくぐるととたんに蝉しぐれが降ってきて---いままでの下町歩きと全然別のステージの「異界」にやってきたって実感、ちょっとしましたね。
 ま、そのあたりの僕の心もちは、以下の写真で察してくれたら、と思います。

      

 いかがです? 僕の鼻梁が当日吸いこんだ空気の冷涼さを、あなたもこれで感知してくれたでせうか? 
 ねえ、左の写真が、神社の正面をぐーっといったところ---この石畳をまっすぐいくとおキツネさまの社にいき、右手の道をいくと「老翁女嫗の石造」というお地蔵さま(右手の写真がそのアップです)にいくのですが、見てわかるように、この一組のお地蔵さま、なんとなしに怖いんですよ。
 日差しの色合から読めるように、外はカンカンの酷暑なんですが、このお地蔵さまのある一角は、まわりとちがう空気が張りつめている気配がしましたね。なんというか、そのあたりだけ体感温度がひやりと低めなんです。
 
----うーむ、やっぱり、凄い神社なんだな……。

 なんて思いつつ、三柱鳥居を探したんだけど、目的のそれはなかなか見つかんない。
 神社の敷地を2、3周して、あれ、ひょっとして三柱鳥居もう撤去されちゃった? と思いかけたとき、ふいにそれが見つかりました。それは、意外なことに、神社の敷地内で、あまり空気が冷涼としていない場所のほうの、どちらかといえば「外れた」一角に、ぽつんと目立たない風に建てられてました。
 左上の写真でいえば、僕が携帯写真のレンズを向けてるほうの、こっち側。
 ただ、ほんとに目立たない。ここに三柱鳥居があるって知識がないと、初参拝のひとは、たぶん、ほとんど見つけられらないんじゃないか、といったような微妙な場所に、わざわざあえて建立されてる感じ。 

----あー なんだ、こんなところにあったんだ…。

 もっと神秘めかした佇まいをしてるのかとも思ったんだけど、ぜんぜんそんなんじゃなくて、むしろあっけらかんとしてて、なんの作為も効果計算もなく、ただ空いたスペースがあったから、たまたまここにこうして建ててみたんです、みたいな朴訥な雰囲気でしたねえ。
 ページ冒頭のUP写真とは別口のそれ写真を、じゃあ、2枚ほど挙げておきませうか。はい。

           

 
 あ。右上写真は、ページ頭のUP写真の柵に掛かっていた説明書のアップです。
 ええ、僕が以前徒然その61、70、71の☆What is 伊勢神宮?☆シリーズで特集した、京都・太秦(うずまさ)がやっぱりここにも出てきてる。太秦は、謎の古代豪族・秦氏の、いわば本拠地ですからね。しかも、現代の財閥・三井家との絡みまで匂わせてるこの文章はどうです?
 そうなんです、江戸期に勃興したあの三井家は、実は、例の秦氏の末裔じゃないかといまもいわれているんですよね。
 秦氏のなかには、一族の財務を司る氏族がいて、それがあの三井家なんだって---。
 その三井家が、自身の邸宅の庭に、代々この三柱鳥居を建てて参拝していたというのですから…。
 これは、もう驚き以外の何物でもない、この「事実」の意味あいは、そうとうに深いと思います。
 三柱鳥居と三井家と秦氏との絡みを考えるともなく考えていたら、茶道の蓋置きのなかに三柱鳥居と同形の「三ツ鳥居」というものがあったことを思いだしました。
 参考までに、そのフォトも挙げておきませう。

                    

 ねえ、ちょっと珍しいでせう、こういうの?
 茶道といえば、創始者である千利休の存在がいつも頭をよぎるのですが、彼もやはり例の「秦氏」の末裔のひとりであり、そのために自身の創設した茶道のなかに、原始キリスト教の暗喩のような小道具をところどころ忍ばせているのですよ。
 この「三ツ鳥居」なんて、それのいい代表例なんじゃないかしら?
 僕は、これ、まちがいなく千利休からの血のメッセージだと解釈してますけど---。
 彼、恐らく、秦氏のなかでもそうとうの立場にいたひとなんじゃないのかなあ。自身の表明できない信仰---原始キリスト教---への熱い思いが、このちっぽけな茶器の遊びのような蓋置きのなかに、もうめいっぱい、累々と結晶化して封じこめられているように感じます。
 とても茶会の席で安易に使えるようなもんじゃありませんや、こめられた思いがあんまり重すぎて…。

 平日の午後、そんなことを考えながら、三囲神社のなかをぷらぷらとあてどなくさすらうのは、ようおました。
 他人から見たらただのぷらぷら馬鹿かもしれないけど、こういう時間ってイーダちゃんにとって温泉同様の極上タイムなんですよねえ。
 思いっきり散策も空想も堪能できて、心身ともにひさびさリフレッシュできたのでありました。

 あ。興味をもって訪れたいひとのために、ここの情報、挙げておきますね---。

      〒131-0033
    東京都墨田区向島2-5-17
    三囲神社(みめぐりじんじゃ)
    03-3622-2676

 スカイツリーを見学された帰りなんかに寄ってみたら、ちょっといいかもしれません---。(^.^;>
 
 
 
 
 

            


徒然その73☆追悼・小松左京さん☆

2011-08-02 00:35:25 | ☆文学? はあ、何だって?☆
                                     

 中学のときからずっと愛読してきた、敬愛するSF作家・小松左京氏が先日亡くなりました。
 夜勤帰りのコンビニの新聞でその記事を見て、僕、心臓が文字通り「ドキン」となっちゃって…。
 いよいよくるべきときがきたか、と思いましたね。
 というのは、それまで亡くなった作家さんっていうのは、なんというか、大好きであっても同時代の方じゃなかったんですよ。
 むろん、小松さんにしても、僕よりはるか年輩の方であって、全盛期は恐らくわりと初期の、ほら、小松さんがテーマ委員を勤めた万博開催のころにあたっていたんでせうけど、でも、新作がでるたびに書店で購入して---初期じゃないですよ、「氷の下の暗い顔」とか「ゴルディアスの結び目」とか「さらばジュピター」とか70年代の末期のあのあたり---カウンターで店員さんに本カバーをかけてもらいながらワクワクしていた、なんて体験があるのは、僕には、ホント、小松さんだけですね。
 だから、今回の訃報は、とてもショックでした。
 思えば、僕、大学で小松さんの講義を受けたこともあったんだよなあ、むかしむかしの話だけど。
 そういうわけで氏の冥福を胸深く祈りつつ、311のおかげでUPすることをやめていた「幻の徒然その57☆」を加筆して、ここに公開することにいたします---。

            
               ×             ×              ×

 むかしむかし、ニッポンSF界には、3大巨匠ってのがいたんですよ。
 そうですね、ドイツ人がよくいうとこころの3大B---Bach、Beethoven、Brahms みたいなもんでせうか。いわゆる御三家みたいなやつ。 
 その3大巨匠と呼ばれていたのが、
 ショートショートの旗手・星新一さんであり---
 ハードSFから恋愛、怪談本まで、広範で異常な知識量を誇る「日本沈没」の怪物・小松左京さんであり---
 スラプステック・コメディで異様な世界を築きつつあった、新鋭・筒井康隆さん---なのでありました。
 当時は、まだ日本SFのなかで、スペース・ファンタジーは主流じゃなかったんですよ。
 よく読まれていたのは「百億の昼と千億の夜」の光瀬龍さんとか、「謎の転校生」の眉村卓さんとか、あとウルフガイ・シリーズの平井和正さんとかあのあたり---いや、懐かしいな…。
 栗本薫さんのグイン・サーガとか新井素子さんなんかがでてきたのは、だいたいこのあとの、80'S間際だったように記憶してます。中学の同級の読書好きの女の子なんかが一斉に読みだしまして、僕も仲のいいコに借りて読んだりしたんですけど、スペース・ファンタジーは正直あまり馴染めませんでしたね。
 イーダちゃん的にはやっぱり、どこか70年代的な熱い香りのするお話が好きなんです、どうしても。
 そうして、70'S ジャパンSFといえば、やっぱり小松さんなんですよね。
 そりゃあ、星さんの技も筒井さんの超絶ギャグも双方捨てがたいものがありますが、小松さんはまわりから「親分」といわれるくらいの重鎮であり、膨大な知識量を誇る<歩く図書館>ともいわれていましたし、なにより当時のSF界全般のシンボルでしたから。
 ただ、小松左京というと、皆さん、「日本沈没」とか「さよならジュピター」とか「復活の日」などを反射的に連想するかと思うんですが、いやいや、小松さんとは大変に奥深い方であられまして、そういった一般的知名度のあるスペクタクル物以外に、まだまだ見えない沼底の秘宝をたんと隠しもってらっしゃるんです。
 今回、このページで僕が紹介したいと思っているのは、氏のそういった知られざる沼底秘宝についてなんですよ。
 だって、凄いんですもの---これを知らぬまま死んじゃったらきっと後悔する! 僕としては、そんな無情なことはなるたけやりたくないんですよ、ひととして---というわけで小松さんの「女シリーズ」の紹介、そろそろいかしてもらいませう。

 小松左京さんは、1979年に「女シリーズ」と呼ばれる一連の連作を、角川文庫から出版してるんですね。
 表題は「旅する女」でした---ページ頭にUPしたのがそれです。
 小松フリークだった僕は、店舗にそれが並ぶやいなや購入して、家帰ってすぐ読んで……正直にいいますと、実はがっかりしたんです…。
 当時高校生だった僕は、この小説、題名からタイムトラベラーの話にちがいない、と頭からなんか決めこんじゃってたんですよ。
 さぞかし派手な活劇やら冒険やらあっと驚くようなドンデン返しとかが、話のなかにいっぱい盛りこまれてるにちがいないって。ヒロインがタイムトラベルしたさきの世界が、実は、現実の1枚裏手すぐのパラレルワールドで、ヒロインはそこにいるもうひとりの自分ときっと出会ったりしちゃうんだ、みたいな予測を自分内で勝手にたてていたりしたのですが…。
 ところがページをくってもくっても、そんなファンタジーがさっぱりひらけてこないんですよ。
 というより、なんというか、これ、すでにSFじゃないんじゃないの?
 ええ、純文学だったんですよ---この小松さんの「旅する女」って---。
 なんだよ、と失望して放りなげて…たしか、1、2年はそのままだったんじゃないかな? 2年後くらいの大学生活のときに偶然この本をひらいたら---そうしたら、もうとりこになりました…。

 日本の純文って基本的にカラーが女々しいじゃないですか?
 繊細はたしかに繊細なんだけど、自分の繊細さに酔ってしまうようなところが多分にある。そうして、自分の感受性の触手のとどく限りの小さなスペースに作品世界も限定されちゃって---なんというか、繊細ではあるけれど箱庭的な小宇宙、みたいな作品があんまり生産多過になっちゃう傾向っていうか。
 要するに、情事は書けても政治は書けない、とか---
 恋のかけひきの描写があざといくらい上手いのに、いざ世界構造の説明になると、教科書丸写しみたいな、気のぬけた棒読み文がだらだらと流れだすおひととか---。
 でも、ここでの小松さんは、まったくちがっていたんです。
 いつもだったら世界構造をまっすぐに直視する小松さんの理知的すぎるまなざしが、ここでは珍しくその視線の鋭さを和らげて、「女」を描こうとしゃにむになってる。
 しゃにむになって、多元宇宙や、時間遡行を追求するのとおなじあのまなざしで、自分の記憶の倉庫から、あらゆる「女」のデータをピックアップしてきて、作品のキャンパスに次から次へと塗りつけていく、そのタッチの正確で力強いこと!
 こういうデッサンの手法はそれまで見たことがありませんでした。
 あくまで理知的にデッサンされた「女」なのに、主情的に書かれた作家のどんな「女」より、はるかに女女してるんですよ…。
 むせかえるほど濃い情と---年下の恋人に対する残酷なくらいシビアな、値踏みの目線---。
 うーむ、なにをいってるか、たぶん、これじゃ分からんちんですよね?
 それではやっぱりなんですので、このあたりで作品内より抜き書きをちょい失礼させていただきませう。

----男は、たくみにかわしつづける彼女のあしらいに口説きつかれたのか、大きな溜息をつくと、がっかりしたような口調で、あなたには愛人でもいるのか、ときいた。----彼女が答えないと、いらいらした口調で、いったいあなたには、愛というものがわかっているのか? あなたには、何か愛するものがあるのか? とかさねてきいた。----彼女は、あとの問いに、ある、と答えて、ちょっと間をおいてぽつりと言った。
 「小さな犬……」
 男が背後で絶句する気配がした。----彼も、その言葉に、と胸をつかれて、思わずはっと体をかたくした。----彼はその時はじめて、彼女の魂が属している世界、ある種の荒涼さが感じられる世界と、そこに住む彼女の魂の孤独さを垣間見たような気がした。“……a little dog……”----かすかにハスキーがかった、独自のやわらかいアルトで言われたその言葉は、その後も長い間彼の耳底にこびりつき、彼女とわかれてからしばらくの間、折にふれてよみがえって来た。----どういうわけか、その声がよみがえると、同時にしょうしょうたる風のわたる音がきこえるような気がし、のちには逆に、夜半、空をわたっていく風音をきくと、ふとその風音の底に、彼女の声をきくような気がした。
----“……a little dog……”
                                                                       (小松左京「旅する女」角川文庫より)

 ちなみこれ、同棲している年上の「彼女」が、本命らしい外人の見知らぬ男と、喫茶店で話しこんでいるところを偶然見つけた主人公の「彼」が、すぐ後ろの席に陣取って、彼等の会話を盗み聴きしてるときの描写なんですよね。
 で、彼女のハスキーヴォイスがいった“……a little dog……”というのが、その「彼」のことなんです。
 ああ、自分は「彼女」にとって、愛玩用の小さな犬でしかないんだ、という残酷な啓示。
 けれども、その言葉にこめられた断絶の気配よりも、そうしたストイックで厳しい道をあえて選びとった「彼女」の宿命的な孤独の相のほうに、はっと胸をつかれる「彼」…。
 このときの言葉が別れたあとまで耳に残って、折りにふれ蘇るなんて、なんとも苦いリアルじゃないですか。
 肉感的で、美しいひとりの年上の女。あらゆるモノを残酷に突きはなしているくせに、心の奥底にはあふれんばかりの愛を抱えている、色白の、いつでも自分より少し先の人生の道を歩みつづけている、不器用な、中年まじかの、孤独な女……。
 うーむ、いま読んでも、これはそうとう効くよなあ…。
 学生のときに付きあったこの年上の「彼女」の面影を求めて、この「彼」は世界中を旅するんですよね。
 そうして、二十幾年かたったある日、ハワイのワイキキで、あの「彼女」と似た翳りを帯びた、日本人の「女」の旅行者と巡りあうんです。
 どうにも魅かれて、酒に誘って話してみると、その中年の「女」も「彼」と同様に旅をしてることが分かってきて---。

----「誤解しないで……。主人はまだ生きているのよ。愛人がいる事はわかっているけど、別に離婚もしてないわ。私が旅をつづけられるのも主人のおかげだし、かえる所といえば、主人のもとしかないの……」夫人は、窓の外の、暗い海を見た。「四年前---子供を失くしたの。男の子……もし生きていれば、十六になるわ」
 「病気は何だったんですか?」
 「そうじゃないの---行方不明になったの。パリで……」
    (中略)
 「一年たって、私、自分で子供を探そうと思って、旅に出たの……」と夫人はいった。
 「警察がだめでも、母親の執念で、必ずさがし出して見せると思って……どんな所にでも行ったわ。伝染病患者がうじゃうじゃしているような所でも---命の危険のあるような所でも……だけど、ふと気がついたら、子供を探して旅をつづけているのか、子供を失った悲しみをまぎらすために、旅をしているのか、わからなくなっていたわ……」

 ねえ---みんなの思ってる「大柄な」小松さんのイメージとまるきりちがうでせう?
 なんというか、文と文との隙間に、思いもかけない仏師の眼がひそんでる、と僕はこれを読むたびに感じます。
 目線の運びが、通常の作家とまったくちがってるの。恋愛の成就だとか、人生上の成功だとか、そんなものをまったく視野に入れていない、この作家独自の繊細な感性と強くしなやかな思弁とが、いままで誰も見たことのない物語の終結に、読者をぐいぐい導いていくんです。その剛腕には、ちょっと無類のものがある。
 オアフ島のハナウマ湾---そこにまた偶然現れたあの「女」---そして、謡曲「隅田川」を引用した、むせび泣くような衝撃のラストが訪れるんです……。
 
 この「旅する女」は、まちがいなく日本文学が誇るべき傑作だ、とイーダちゃんは思うておりまする…。
 僕、これを最初に読んだとき、滂沱と泣いたもん---「アルジャーノン」を読んだときよりずーっとね---哀しくて、痛くって、でも、それと同時に、なんだか有難いような独自の読後感がありまして。
 深さ的にいえば、ええ、裕に川端級の限界ラインまで達してるんじゃないかなあ。
 ただ、川端さんの場合は「尖らした感性」をノミにして己が作品を彫っていったのに対し、小松さんは「理知と慈愛」でもって自分の世界を彫りぬいていってるんですね。
 それでいて作品が同じくらいのレベルに達しているっていうのは、これは、凄いことっスよ。
 ええ、本当の小松左京を知らない貴方のために、是非にも推薦させていただきます。
 小松さんのナンバーワンは、絶対コレ、「旅する女」ですよって!
 あの筒井康隆センセイだってこういってられる、

----「秋の女」が発表された頃のこと、ある編集者が口ごもりながらいった。「小松さんの『女シリーズ』というのは、あれはもしかすると、大変なものなのではないのですか」
 ぼくはとびあがり、あんた今時分何を言うてるんですかと叫んだものだ。
                                                                       (「小松左京論」筒井康隆)

 というわけで、イーダちゃんの小松左京一押しの作品は、高校のころからいままで、この「旅する女」でありつづけているんです。ええ、いまに至るまで微動だにしていません---。(^o-)r


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 ただ、小松さんはあくまでSF作家ですからね---SF作品もセレクトしておかないと片手落ちになっちゃう。
 ということで苦吟して選んでみたのは、昭和57年に角川さんからでた「氷の下の暗い顔」あたりでせうか。
 これ、四つの短編集からなっている一冊でして、なかでも「劇場」と「雨と、風と、夕映えの彼方へ」っていうのが、とっても絶品。
 大学のとき、僕、この両編のとりこになって、寮の部屋の枕の下に毎晩入れて読んでましたもんねえ。
 宇宙版・萩原朔太郎みたいな、暗い情緒がたまんない一編です---超・お薦め! 

 あ。あと、小松作品で忘れちゃいけないのが、実は、怪談なんですよ。
 「保護鳥」なんて、これがでたとき、出版界が静かな騒ぎになったとかいういい伝えが残ってるくらいの出来。
 最後に地元の森でクルマが故障しちゃって、歩きはじめた「彼」のまわりにアルプ鳥が何羽も、歓喜の声をあげて集まってくるあたり---これは、マジ怖いです---。
 あと、短編になるけど、「霧が晴れた時」とかね---これ、マリー・セレストに絡めた話なんだけど、このハイキング先での消失話がコワイことコワイこと…。お茶屋でいなくなった奥さんと娘の声が、霧のむこうからいつまでもおぼろに聴こえてくるような禍々した感覚が、読後も確実に残ります。

 有名どころでは、あの伝説の怪物・件(くだん)を扱った「くだんのはは」とかね---。
 これは、実は、関西某市で戦後ずっと語り継がれてきた、実話怪談の伝聞ともいわれている、ある特殊なお話でして……。
 あの「新耳袋」の木原・中山さんの例のコンビも、たしか作品中でこの小松さんの話をこわごわ取りあげていたように思うんだけど。

 ほかにも佳品は目白押し---精神病者の夢のなかをいくエクソシストの話「ゴルディアスの結び目」なんか、もう大好き。
 「牙の時代」「神への長い道」「怨霊の国」なんてのもよかったな。




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 小松さんがこれからも大作家として語り継がれていくかどうかは、はっきりいって僕には分かりません。
 ただ、青春期の貴重な一時期に、氏からかけがえのないモノを多量にいただいた、というのは動かしがたい事実なんですよ、僕にとって。
 そういう意味で、小松さんは恩人、感謝してもしきれないひとなんですよね。
 小松左京さん---人間の空想の自由さを謳った、極上のお伽話をあんなに提供してくれて、いままでホントに有難う!<(_ _)>