イーダちゃんの「晴れときどき瞑想」♪

美味しい人生、というのが目標。毎日を豊かにする音楽、温泉、本なぞについて、徒然なるままに語っていきたいですねえ(^^;>

徒然その238☆ バックハウスのアンダンテ・カンタービレ ☆

2017-01-28 00:50:43 | ☆ザ・ぐれいとミュージシャン☆



 ドイツ音楽の巨匠ウィルヘルム・バックハウスのことは、前から好きでした。
 僕にとっての最上のピアニスト、ウラディミール・ホロヴィッツは魔界に籍のある特殊なお人ですが、そういった位相とまったくちがう現実の世界で、日常に使うみたいな質実剛健な素朴な語法でもって、自分の信じる音楽を淡々と歌う----このひとの存在を、クラッシック音楽に興味のあるひとが無視なんかできるわけがない。
 聴くたびに圧倒され、いつだって黙りこんできたもんです、彼のピアノには。
 ただ、僕、ベートーベンの音楽ってどっちかというと苦手な口なんですよ。
 夢幻のなかによろめいて倒れこむシューマンとか、ひたすら情緒の海辺で潮騒を聴いているみたいなシューベルトの音楽のほうが圧倒的に好きなの。
 あと、バッハ----グールドやリヒター、イエペスの弾くバッハとかね。
 ま、しかし、西洋クラッシックの支柱は、なんといってもベートンベンですから。
 シンフォニーから後期の弦楽四重奏まで、レコード最初期のアーティストのものから現代の演奏家によるものまで、一通りはまあもれなく聴いてます。
 フルトヴェングラーは、普通に販売されてる正規盤じゃあきたらず、海賊盤のメーカーMYTHOSというところの全集まで神保町の某中古店で購入して聴きまくりました。
 でもねえ、ダメなんだなあ…。
 むろん、聴いてそれなりに感動はするんですけど----。
 ただ、その感動の質がね、どうも自分でもあんまり気持ちよくないんです。
 なんか、ベートーベン一流の理窟っぽい弁論に乗せられて、むりやり感動させられたみたいな、そんな澱みたいな齟齬感が自分内に微妙に残るわけ。
 あのフルトヴェングラーをしてこうだもん。
 オケだったら、シューリヒトの振るベートーベンがいまでもいちばん好きかなあ…。
 およそ20年以上クラッシックは聴きつづけてきましたけど、ベートーベン・ミュージックで聴けるのは、かろうじてピアノのみみたいな現状にいま時点では至ってます。

 そのあたりの仮説は自分なりにいろいろと立ててみました。
 バッハの時代に整地整頓された「平均律」の音楽の行きついた極というか頂きが、ベートーベンなんだ、と。
 一時期、平均律の息苦しさから逃れるための「ゆりもどし」みたいな感じで、古楽がちょっと流行りましたが、あの感じ、分かるんだよなあ。
 ベートーベン・ミュージックは、とてもよくできてる----どんな抜け穴もないほど完璧にできてると思います。
 思考、感情のゆらぎの振幅まできちっと定義され進んでいく、この完璧パック旅行みたいな音楽が、でも、僕には、ときどき耐えがたいほど息苦しいものとして感じられるのもまた事実。
 特に、ブラッックミュージックやブラジリアンミュージックの熱くてルーズな音楽空気にいちど触れちゃうと、あの聞き手まかせの空想力までホストが管理しちゃってるみたいな、あの古典派時代に特有の、背伸びしまくった人間力礼讃の空気が、なんかとてつもなく窮屈に思えてくるの。

-----あのー、ベートーベンさん、もそっと聴き手まかせの空想の余地くらい残してくれてもいいんじゃない…? 

 そう、ベートーベン・ミュージックにはすべてがある、というか、ありすぎる。
 彼の問う人間問答が息苦しくて、思わず顔をそむけると、そっちの窓にもベートーベンお手製の空の絵が画いてある、みたいな。
 ただね、ベートーベンの音楽にはね、ひとつだけ欠けているものがあるんですよ。
 それはね、「いい加減」----。
 僕、明日の喰いぶちも分からないニンゲンが歌う、「いい加減」なミュージックがとても好きなのよ。
 だって、なんとも人間臭くてリアルじゃないですか。
 特に、初期の古いブルーズなんか聴いてると、一聴して派手にチューニングが狂ってるのが分かったりすることもわんさかある。
 まあ、平均律埒外の音楽であるからして、そんなのはまあ当然といやあ当然なんですが。
 でもさ、彼等の音楽がだからベートーベンに比べて劣っているかといえば、もちろんそんなことはないんであって、彼等は彼等なりに非常にいい音楽をやってるわけなんですよ。
 たしかにベートーベンは大画面です。誇大妄想みたいな壮烈パワーで人間を歌い人類愛を歌ってる。凄えよ。
 でも、それが盲目の黒人ブルーズマン、スリーピー・ジョン・エステスの「うちの鼠共はひでえ連中だ。主の俺の目の見えないのをいいことに、うちじゅうの食料を喰いちらかしていきやがる…チキショウめ…!」というみじめな愚痴世界より上だってことにはならないんだって。
 僕はベートーベンの音楽の凄さは、むろん認めてます。
 あれは、西洋文明のいきついた頂きのひとつのかたちである、と個人的には認識してる。
 ただ、あの路線というか、作曲家の思い描いたエルドラドを目指し、現場指揮者の号令のもとにオケ全員が一丸となって突き進むという西欧だけに完成したあの独自のスタイルが、のちの産業革命や植民地政策みたいな政治戦争路線にいっちゃった、という類似性はあながち否定できない、と思うな。
 モーツァルトのトルコ行進曲生誕の由来からも分かるように、当時、トルコは脅威でしたから。
 うん、ベートーベンはね、当時のヨーロッパ大衆の集合無意識を、音楽というかたちで掲示した、一種の予言者といっていいひとだった、と思いますね。
 これは、偏見かもしれないけど、僕は、どうしてもベートーベン・シンフォニーから軍隊の匂いを嗅いじゃうの。
 自分の音楽を「管理しきっている」あの巨大な腕力臭が、たぶんダメなんだと思う。
 その意味で、このひとワグナーにちょい似てるかもね。
 うーん、やっぱ、あんまり好きじゃない…。(^0^;>
 でもさ、音楽にいいわるいの区分なんてもともとないんでないかい?
 あるのは、たぶん好き嫌いだけ----市井での対人づきあいとおなじことでせう、とどのつまり。



オスマン・トルコのウィーン包囲図(上図)
 

 そんなこんなでベートーベンとは、まあ他人行儀なつきあいがつづいていたんですよ。
 たまに聴くとしても、ホロヴィッツの全盛期のソニーからでてる3大ピアノソナタ、あと21番の「ワルトシュタイン」、ライブの作品101、あと、amadio からでてるグルダのピアノソナタ全集、ミケランジェリが弾いてるのがいくつかと、ケンプ、リヒテル、グールドなんかのが少々----ええ、イーダちゃんのベートーベン生活といったら、せいぜいがまあこんなとこなの。 
 一般的にいうなら、とてもベートーベンのよい聴き手とはいえないそんな僕が、先日、どうした弾みか、突如としてベートーベン臭いベートーベンが聴きたくなった。
 で、ベートーベン臭さならバックハウスだというわけで、バックハウスのベートーベンの後期のピアノソナタ30番 Op.109をかけてみたわけ。
 そしたらね----もう、ブッ飛んだ!----マジで腰抜かしそうになりました…。
 ウィルヘルム・バックハウス、凄いっス----流石に、伝統あるドイツ音楽の看板をしょうだけの親父だなあ、と思わず居ずまいを正しちゃいました。
 バックハウスのピアノには、いわゆるショーマンシップというやつが、かけらもありません。
 愛想もない。媚びもなくハッタリもない。
 タッチはやたらゴツゴツしてて流麗さはチリほどもないし、プロのピアニストが例外なくやる演奏家としての「見せ場作り」も絶対やらない。
 意固地で頑固な、まあ偏屈職人親父のピアノっていっちゃってもいいのかもしれない。
 ところがね----そんなゴツゴツ・ピアノが、いちいち喰いこんでくるんだなあ、僕の胸の超・深部まで。
 痛い、これはまたなんちゅー痛い演奏だろうか。
 バックハウスの指先が、そのごつごつした感じの無骨なタッチが、ツルハシの一撃みたいに胸中でガンガン響いて渦になる…。
 曲が第1楽章、第2楽章と経過し、いよいよ最終の第3楽章アンダンテ・モルト・カンタービレ・エスプレッシオーネが奏でられたとき、僕の陶酔はほとんど極みに達しました。
 
----なんという説得力! なんて無口な雄弁! また、なんという深みだろうか、これは…。
 
 バックハウスが愛奏したピアノは一般的なスタンウェイではなく、ややローカルなベーゼルドルファーというメーカーのピアノ。
 そのベーゼルドルファーの通常より鍵盤数の多い、深い響きのピアノが、ゆるやかに語る言葉少なげな、どちらかといえば寡黙な音楽が、いや、語ること語ること…。
 ゴドフスキー編曲のショパンの練習曲に比べたらはるかに音数も少ない、難易度も低い音楽なのよ----けど、聴き手をぶちのめす音楽的パワーは、もう比べものになんないの。
 聴き終わってから、僕、ほとんど口もきけなかったもん…。
 ええ、僕、バックハウスのピアノには、ほとんどジミヘン・クラスの音楽パワーが宿ってるって思います。
 グルダも僕は大好きなんだけど、その贔屓のグルダも吹き飛んだ。
 ケンプも飛んだ。
 リヒテルも飛んだ。
 ポリーニは最初から飛んでる。
 ベートーベンならバックハウスという箴言は、たぶん、いまも正しいじゃないのかな?
 魔神ホロヴィッツのベートーベンもたしかに凄いけど、ホロヴィッツのベートーベンっていうのは、やっぱりベートーベンよりそれを弾くホロヴィッツ自身のほうが結果的に「売り」になっちゃいますもんね?

 「楽譜に忠実に」
 「芸もなく、ひたすら誠実に」
 「真面目に、地味に、寡黙に」

 現代的視点からいうとある意味ダサいとさえいえる、お洒落さを欠いた老バッハウスのごつごつピアノが、なんでこんなにまでいいのか?
 僕は資質的にはどちらかというとラテン系でして、ブラックミュージックやブルーズ、ロックンロール命みたいなタイプなんですが、
 バックハウスのピアノを聴くと、ほぼ例外なく心をゆさぶられ、感動にむせいでしまう。
 マジ、どうしてでせうね----?
 ベートーベン、嫌いなんだけどなあ…。
 これは、イーダちゃんにかけられた謎です。
 時間かけてもいいから、そのうちこの謎、解明しなくちゃね---Bye!(^0-y☆彡       
                                              fin.





 

徒然その237☆ <獅子座はダメ ♥>by イーダちゃん ☆

2017-01-22 11:06:59 | ☆イーダちゃん音楽工房☆



 Hello、皆さん、凍るような大寒のさなか、元気におすごしでせうか?
 いろいろあるけど、僕は元気。
 今朝方は、例の突発性難聴の症状がでてて、耳の聞こえがこもってますが、まあ僕の場合は耳管の狭さ所以の聴力低下だからほぼ心配ナッシング。
 さて、僕の周辺にはやたら占星術の関係者が多いんですが、そういえばいままで占星術の歌つくったことなかったなあと思って、今回はその勤めを果たすべく奮戦してみました。
 下敷きは、あの「うる星やつら」のテーマソング----あれに僕流にいろいろ手を入れてみた。
 ま、いいたいことはホントは山ほどあるんだけど、それは歌のほうに語ってもらいませうか。
 たぶん、そっちのほうが雄弁だから。
 ただ、獅子座っていうのはあくまで譬えなんで、実際の獅子座生れを攻撃したわけじゃないんで、そのへんくれぐれもヨロシク。
 これは、あくまで一種の寓話でありまする。
 僕あね、正直者が好きなんですよ。
 カチカチ山じゃないけどね、不正直者がのさばるのは太古より歴史の必然。
 そのような不埒な天由来のカルマに対する、これは、僕流のロックンロールなのですよ、うん----(^0-y☆彡

    youtube iidatyann    <獅子座はダメ♥>by イーダちゃん



徒然その236☆ ひさびさ関西・南紀白浜温泉紀行! ☆

2017-01-11 17:23:27 | ☆湯けむりほわわん温泉紀行☆


 あけおめ、皆さん---!
 2017年の1月4日から6日にかけて、僕・イーダちゃんは、ひさびさ関西の温泉ツアーに行ってきました。
 僕の温泉行っていうのは、基本ひとり旅なんですが、今回は珍しく大阪の友人であるYと。
 ま、激動の2016年、いろんな裏切りやら手痛い傷心、幻滅やらをどんすか経験して、それらの厄払いみたいな意味をこめた温泉行だったんですけど、
 和歌山・南紀白浜の今回の湯は、なんかとりわけ染みたなあ…。、
 なんだかんだで僕、学生時代をふくめて白浜の地に赴くのはこれで5度目なんスけど、
 いままでのなかで、この旅が、たぶんいちばん印象深かったように思います。
 うーんと、僕、万葉集が好きでね----これ、僕は、日本最大の叙事詩だと考えているんだけど----そのなかでも人麿を別格とすれば、
 有馬の皇子が好きなのよ。
 万葉の時代には、こちら、白浜じゃなくって「牟婁の湯」と呼ばれてたようなんだけど、
 潮騒の響きを聴きながら、ここの湯に浸かっていると、僕の胸にはいつも彼の歌がほのかにこだましてきます。

-----岩城の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあれば また帰り来む…。

 ご承知の通り、有馬の皇子はここに生きて帰ってはこれなかったんだけど…。
 敬愛するフェブリアット女流漫画家の清原なつのさんも有馬の皇子のファンだったらしく、彼を主人公に作品を仕上げてられるんで、
 今回は参考までに、それ、ひとつ挙げておきませうか---ホイ。




 これ、「飛鳥昔語り」っていう1970年代中期の作品。
 30年以上前の作品なのに、いまだに読み継がれてるんだから、その魅力は推して知るべし。
 ちなみに清原センセは、獅子座生まれね。
 僕のいちばん尊敬するヴァイオリニストのジョルジュ・エネスコも獅子座生まれだし、バンド仲間のK氏も獅子座だし、
 例の彼もやっぱり太陽・獅子座だし…僕の火星も獅子宮の20度だしね----サビアンで読むと、ここ、実はヤバイんだわ----どうも獅子座宮に縁が深いような気もします。

 それはそうと今回の旅行が実現したのは、実は、地元に激安レンタカーを見つけたからなんですよ。
 フツーのレンタカーでクルマ3日くらい借りたら3、4万はすぐいっちゃいますが、
 僕が地元で見つけたここ「ガッツレンタカー」は、なんと1週間借りて1万1千円!
 まあ、アクセルベタ踏みして登りで100キロがギリの、年期入った軽なんだけど、それにしても安いっしょ?
 この場を借りて、ひとつ「ガッツレンタカー」の宣伝、入れちゃいますか?




 てなわけで<ヨコハマ--大阪>間を軽でばびゅーんと飛ばしていってきたんです。
 天候に恵まれて、とちゅうの富士が信じられないくらい綺麗だった。
 あ。ちなみに大阪の友人というのは、以前、僕の過去記事で紹介したこともある、古書「うんたらた」のご主人。
 ほんとは着いた当日から旅行にでかける手筈だったんだけど、僕、会社でひきこんだ風邪がだいぶ悪化してて、
 運転中も鼻ばっかりでるし、しかも、高速の乗り換えまちがえて最初滝谷不動じゃなくって神戸くんだりまでいっちゃったりして、
 大阪の彼のとこ着いたらもう午後の6時まわっててすっかり日も落ちてたんで、
 その夜は彼の家に泊めていただくことにあいなりました。

 いつもながらの無計画----でも、僕、この無計画っていうのがとっても好きなの。
 計画で人生管理しちゃうとそりゃあ楽だけど、それをしないほうが人生の苦さや甘さやアクシデントとより深く付きあえるってのが、僕の持論。
 今回の旅では、この持論が、皆「吉」のほうにむけ働いてくれましたねえ。

 で、翌日の5日、有馬にいこうか白浜にいこうか、ちょっと迷ったんですが、僕等、ノリで南紀白浜のほうをセレクトし、そっち方面にむかったと思いねえ。
 岸和田を経由して、和歌山の白浜到着は、PMの15時くらい。
 白浜にきたのは2008年の11月の熊野行のとちゅうに立ち寄りして以来です。
 なんか、ぜんぜん変わってない。
 な、懐かしいゾ、おい---!
 天気はよかったんだけど、海風が強く、白波が騒いで、めっちゃ寒かったですね。
 白浜にきたら、イのいちに行くお湯は、当然こちらです。
 あの中大兄皇子も天智天皇も噂の持統天皇も浸かったという、海際の歴史的名湯「崎の湯」---!






 あいかわらず素晴らしかったです、「崎の湯」…。
 友人のYが温泉初心者だったんで、掛け湯のこと教えたりして、いつものひとり沈殿入浴とはいくらか勝手がちがっていたんですが、
 なに、それはそれ、彼も予想を上回る「崎の湯」の凄さに瞠目している気配が伝わってきました。
 分かるよ、Yチャン----だって、ここ湯力凄いもん…。
 関西系にやや多い塩素投入もないし、ここ、海辺ならではの熱海みたいなよくあったまる塩辛湯でしょ?----しかも、底のほうにかすかな硫黄臭を伴ったこの湯の浸透力ときたらないもんなあ。
 しかも、たったいま湯舟に注がれたばかりの、このお湯の鮮度---!
 さらにさらに、この目のまえの海原の息吹きときたらどうよ?
 それにこの横殴りの海風---薄っぺらな言葉を交わす余裕と暇なんてなかったですね、正直いって。
 あれえ、空ってこんなに高かったっけ…?
 風が吹いて、湯気が流れて、淡い硫黄の香りがあたりにぱーっと散りひろがって、
 僕等ふたり、俗世の言葉なんかすっかろ失念して、青いあおーい空の下----
 それこそ太古の二匹の猿みたいに、無心のからっぽになりきって、いつまでも「崎の湯」にぷかぷかと浸かっていたんです…。






 夕飯後には、前々から入りたいと思ってた上記の「牟婁の湯」にも入ることができて、まさに宿願達成。
 こちら、いつも白浜にくるたび「入りたい入りたい」と想いつつ、いっつも白浜の顔である露天の「崎の湯」にさきに入って、
 エネルギー使い果たしちゃってたんで、なかなか行くことできなかったんですよねえ。
 でも、今回は、こちらの湯にも入ることができてよかった----やっぱ、こちら、噂通りの凄玉湯でありました。
 旅は、やっぱ、泊まりがいいよねえ---。

 泊まりはまったく予定立ててなかったんで、看板で見つけた素泊り4000円の民宿をとって、そこで巣ごもり。
 話すことがありすぎて、もう熱っぽくて体調わるかったけど、いやあ、Yチャン、楽しかったよなあ!
 俺は俺で東京でのゴタゴタを全部話しきれたし、
 君にしてもあんなに酔っぱらって、あれほど思いのたけをブチ撒けてくれるとはねえ…。

 最後に仏蘭西の問題作家、L・F・セリーヌの一説を引用して、この個人的すぎる記事にケリつけることにいたしませうか。

----旅に出るのはたしかに有益だ。
  旅は想像力を働かせる…。
  それ以外はすべて骨折り損のくたびれ儲け。
  それにこれは誰にだってできることだ---目を閉じさえすればいい。
  すると人生の向こう側だ……。


 うーん、視線、ややひねくれているかもだけど、セリーヌはやっぱいいっスねえ----じゃ、そういうことで今夜はここらでお休みなさい…グッナイッ…!(^o-y☆彡