Dr. WAKASAGI at HEI-RIVER(閉伊川ワカサギ博士)

森川海をつなぐ学び合いの活動を紹介します

閉伊川と共に生きる 5000年の歴史を刻む小山田人その1

2009-04-12 | 閉伊川調査
閉伊川大学校の一環として,昨年参加した方で,宮古市小山田にお住まいの方に,75年間,閉伊川と共に生きてきた思いを語っていただいた。(本日の水温10.1度,水位は3であるが,先週より増えている。)


数年前,私の畑の周辺で,墓所を造っていた。その時,バックホーンが4mほりさげた。4mの下は畑の土ではなく,海砂だった。のち,そこは,墓所になった。

そこは沢になっていて,「だんこ」(階段状の場所)があった。三浦重機で土を持っていった。その時,「魚」の絵が書いている土器をたくさん発見した。その時,「ははーここは海だったんだ」と思った。

言われてみれば,「こうじやの沢」という沢が小山田にあるが,昔から船着き場があると聞いていた。そこは標高10mで小高いところにある。書くのが出来ないので,言い伝えで伝えられてきたのだあろう。あとでその土器は5000年前のものだと聞いて大変驚いた。

近くには赤沼という水深10mの深い縁があり,渦の中に潜って遊んだ。明治14年生まれのお爺さんは,満潮の時,イワシを捕ったと行っていた。私の小さい頃,「いさば」(「いさば道」からでた)があったのを記憶している。いさばとは加工屋のことだ。

天明時代(1700年代)小山田が流れた。ラサ工業が来る前に,精錬所の前にある場所に,タナゴ岩というタナゴ(ウミタナゴのことだろう)が釣れる岩があった。今でもあるかもしれない。明治28年花輪橋まで津波が行った。桜の瀬という場所(花輪橋の上)や一本松という淵があった。

昭和11年に比べて,小山田橋の付近は3mぐらい水面があがっている。(土砂が堆積したと言うことだろうか?)

アイオン台風のあと,昭和26年赤沼河制工ができたが,アユの産卵する瀬が小山田橋の下にあった。以前は閉伊川は小山田を流れていて,缶詰工場のところにぶつかって流れていた。缶詰工場の下はまるで海のようだった。ラサ工業では,缶詰工場のところに大きな船を止めていた。

サケ止めでアユを捕っていた。瀬がつく時に,70の船が集まってきた。弁当を持って行って父を探すのが大変だった。水位は上がったり下がったりしている。花輪橋の上に「かどかみ」という地名があるが,淵になっていた。小学校2,3年の時にあのあたりまで,親父と魚を捕りに行った。昭和22年に小学校に入ったが,30cmのマハゼを捕って,父親にもらってたべた記憶がある。百姓であるが,魚を捕って売っていた。ハゼは「かどかみ」にいるものだと思っていた。
(続く)