北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第207回 北京・中鮮魚巷(後) 民間手工芸品”中国結”のある風景

2018-10-18 15:00:00 | 北京・胡同散策
今回は、前回の続きになりますが、その前に中鮮魚巷の名称や形状の
変遷をざっとご紹介させていただきます。

〇清の時代
現在「中鮮魚巷」と呼ばれる路地の南側にあった「南鮮魚巷」
と合わせて「鮮魚巷」という名称でした。


緑色の部分が「鮮魚巷」。地図は2007年4月発行『北京胡同志』(主編段柄仁/北京出版社)所収
「清北京城街巷胡同図乾隆十五年(公元1750年)」より。

〇民国期
同上。


緑色の部分が「鮮魚巷」。地図は上掲書所収「北平旧城街巷胡同図(1949年)」より。

〇新中国成立後
1965年、上に見た「鮮魚巷」が「南鮮魚巷」と改名。
その後、北京駅西街がつくられたため、「南鮮魚巷」が北と南に分割される。
1977年に北側の「南鮮魚巷」が現在の「中鮮魚巷」と改名される。


緑色の部分が「中鮮魚巷」、赤色の部分が「南鮮魚巷」。地図は上掲書所収「建国門地区」より。
なお、赤色の部分である「南鮮魚巷」は現在は残っておりません。


さて、次ぎの写真は、国旗が北からの風にひるがえっていた19号院前から北方向を撮ったもの。



日本語でいえば、“昭和レトロ”感あふれる、年季の入った観音開き扉がありました。
わたし好みの木製で、しかも塗装の剥げ落ち具合に思わず言葉を失うほどなのです。


NHKの朝ドラで見かけるような、やはり昭和レトロ感ムンムンなへアースタイルに
同様な衣装を身につけた、しかも「どうよ、これがトドメだ」と言わんばかりのお
顔立ちそのものがやっぱり昭和レトロ感いっぱいの女優さん演じるヒロインが今に
も扉を開けて出てきて、青空を見上げてニッコリと微笑みそうでした。

ちなみに、かつてのNHKの朝ドラ『おしん』、中国では1985年に中国語吹き替えで
放送されたのですが、聞くところによると、なんと!! 北京では視聴率70パーセント
を軽くこえていたとか。いったい中国全体で何億人の人たちが涙したのでしょうか。

おしん役が音羽信子さんの時、画面にこけし人形が何気なく出ていたのをわたしは
いつまでも忘れられません。あの場面を北京の人たちも観ただろうか。


次ぎの写真、白い建物は「北京国机(機)快捷酒店」の一部。
このホテルは、1974年から営業。住所は後日ご紹介予定の蘇州胡同30号。

ホテルの外壁沿いに、看板が。





「足浴MASSAGE」。日本で言うと、足ツボマッサージ店といったところでしょうか。

矢印が指しているのは、こちら(↓)。



中鮮魚巷17号院内。



ちゃんと「足浴」という札もぶらさがっております。



次はお隣の15号院。

大きな雨どい(横樋)。



出入口からの突き出し具合が立派なので、思わず感心、シャッターを切ってしまいました。



雨水が滝のように流れ落ちる様子は、さぞかし壮観でしょうね。

昭和十六年発行の『北京案内記』(新民印所館)に「雨後の胡同」という、記事が載っていました。
この本は、日本占領下の北京で出版されたもの。いささかの誇張ありかな、と思われますが、
舗装される以前の北京の様子の一端を知る事例として、ご参考までに次に書き抜いてみました。
引用に当り旧漢字は新漢字、旧仮名遣いは新仮名遣いにそれぞれ改めています。

“雨後の北京の道の泥濘は全く言語に絶している。雨が降ると支那人は役所へも出て来ない。
訪問の約束を破っても「その日は雨が降ったから」と云えば、それが立派な理由になる。こ
の泥濘が天気になると急に黄塵に変って濛々と大地を覆うのである。”


道路上に突き出した雨樋の斜め前。
シーツが陽を浴びて気持ちよさそうに干されていました。



そんなシーツも撮影後突然の風にひるがえりました。



一時も同じ表情でいてくれない胡同と同じです。




なぜか同じ色で、やはり同じく新しいドアのお宅が四軒並んでいました。





あと少しで中鮮魚巷も終点です。
次ぎの写真の奥を横切るのは「蘇州胡同」。





灯籠(提灯)のさがるこちらは、雑貨店。





ノドが渇いたのでスポーツドリンクを買いました。



追記10月19日
値段は4元。1元約16円から17円。ちなみに、通州の自宅アパート内のお店では、4.5元です。



次ぎの写真は、蘇州胡同沿いから写した北出入口。





出入口に中国でよく見かける縁起物で装飾品“中国結”がさがっていました。



中国結の歴史などに関して触れておきますと次の通りです。ご興味をお持ちの方はご覧ください。

〇中国結の歴史的移り変わり
その起源は不明ながら、
1、発掘された中国戦国時代(紀元前400年頃)の銅製の壺に縄を結んだ文様がレリーフ状に
施されているのが確認されている。
2、後漢時代(25年から220年)になると、宮廷において結びの色や形状の違いによって身分
を表すものとして取り入れられ、衣服等につけられるようになった。
3、隋から唐時代(581年から907年)は、結び工芸の第1流行期とされ、宮廷工芸のひとつと
して栄えた。
4、宋時代(960年から1279年)の肖像画には、結び工芸で装飾した椅子が描かれており、家具
にも結び工芸を取り入れている様子が確認できる。
5、明時代(1368年から1644年)の後期には、結び工芸が刺繍で施された椅子披が使われている。
6、清時代(1616年から1912年)には、結び工芸の第2流行期を迎え、一般庶民にも結び工芸が
広まった。
7、清滅亡後
1912年の清の滅亡により衰退していくも、陳夏生(後述)が結び工芸を体系づけたことで、
中国結びとして再び中国の生活に取り入れられるようになっていった。

以上は、『中国結の要素を取り入れた生活用品提案のための調査研究』(日本デザイン学会デザイン
学研究 BULLETIN OF JSSD 2014電子版)からほぼそのままの形でお借りしたものです。

〇中国結という名称
上掲書によりますと、「中国結」という名称はもともとはなく、1981年、台湾の日常に根付いていた
中国結を体系的にまとめた陳夏生によって「中国結」という名称がつけられたそうです。

〇基本的結びと変化結び

上掲の『中国結の要素を取り入れた生活用品提案のための調査研究』(日本デザイン学会デザイン学研究
BULLETIN OF JSSD 2014電子版)には、基本的結び17種類や変化結び6種類、そしてそれぞれの結びの
名称やその結びに込められた願いが絵入りで紹介されています。名称を覚えるのも容易ではありませんが、
楽しいです。ご興味をお持ちの方はご覧ください。

URLは次ぎの通り。
www.jstage.jst.go.jp/article/jssd/61/0/61_281/_pdf/-char/en


中国結の写真を撮っていると、この胡同内のホテルにお泊りの女性観光客お二人が
やってきました。



これからお出かけのようです。
一方わたしはといえば、次ぎの「北鮮魚巷」を歩きました。



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