北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第111回 通州の胡同・頭条胡同(その一) 春聯と門神、桃符など。

2016-10-03 10:56:24 | 通州・胡同散歩
今回は前回歩いた「白将軍胡同」から一本南に行った所の「頭条胡同」をご紹介いたします。


(写真は、かつての通州城のメインストリートの一つであった南大街から東方向)

入り口左側。
牛乳販売店。お店のイメージにふさわしく健康的な色使い。



右は理髪店。
一般的に入り口の上に看板がかかっているお店が多いのですが、ここはなし。
お客さんはすべて地元の人たちなので看板をかける必要などない、といったところです。
なお、こちらは純粋混じり気なしの「理髪店」。間違えても「床屋さんかな?」などと
思ってはいけません。



「南街奶站」と書かれた看板が置かれています。「南街」とは南大街の通称。



より良い採光のための工夫がなされたお宅。ガラス部分が多いので開放的な雰囲気を出しています。
ガラスとレンガの取り合わせもなかなか。ガラスもそうですが、ドアもツヤがあり、まだ新しい。
この界隈の胡同ではここ一、二年の間にこのように改築されるお宅が増えているようです。



電信柱。



歩き始めたばかりだというのに、こんなもの↓が目に飛び込んできました。これだから胡同は
油断ができません。



赤地に白で書かれた「通県電信局」のプレート。どこかノスタルジックで、それでいてなぜかモダン。
この「通県電信局」の現在名は「北京市通州区電信局」。新しい電信局は1998年1月7日に成立して
います。

ここで「通州」という地名の変遷を細かい説明は抜きにして新中国成立前後からご紹介。

1949年9月(中華人民共和国成立のほぼ一ヶ月前)
  「通州市」を「通県鎮」に改称。
1950年5月13日
  「県」と「鎮」を合わせて「通鎮」となる。
1951年11月
  「県」と「鎮」が再度分けられ、「通県」「通県鎮」。
1954年4月19日
  「通県鎮」が「通州市」(県級)となる。
1958年4月
  「通州市」と「通県」とが合併し「通州区」となる。
1960年2月
  「通州区」を「通県」と再び改称。
1997年5月
  「通県」が再び「通州区」となる。

前に書きましたように新しい「北京市通州区電信局」の成立は1998年1月7日。この名称変更はおそらく
1997年5月の「通県」から「通州区」への改称と連動したものであったと思われます。

さらに進むと植え込みにオシロイバナの家。





自転車を見送って、胡同正面。



北側の壁が改修されています。ひょっとして以前には窓がいくつかあったのかもしれません。
もしそうだとすると改修時に防寒のため窓を塞いだ可能性があります。
この北側の壁を見て、今から十年ほど前に同じ通州区の農村地帯に行った時のことを思い出しました。
目に映る家という家がすべて南向きで、北側の壁にはどの家にも窓らしきものがいっさいありません。
それは、東京から通州に来た私には北京の冬の厳しい寒さを想像させるにあまりある光景でした。



左側に路地。



路地の先に大きな木が立っています。これほど路地の幅は狭くなかったと思うのですが、いつかどこかで
見たことのあるような、私にはなぜか懐かしい風景。



その懐かしい風景を後にして・・・。



夏の陽を浴びる布団。



「春聯」「横批」の貼られたお宅がありました。






中国には年の瀬になると二枚の赤い紙に吉祥文字を対句(対聯とも)に書いて門の左右に貼る風
習があり、このおめでたい対句を「春聯」と呼んでいます。

春聯というと私などはすぐにおめでたい言葉とともに赤い紙を思い浮かべるのですが、例えば
清末の敦崇『燕京歳時記』(小野勝年訳註)を見ますと「唯だ宮廷及び宗室王公等は白紙を用ふ
るのが常例である。白紙には紅や藍を以て縁をつける。宗室に非ざるものはほしいままに用ふる
ことは出来ない」、その「註」には「普通の家では紅い紙を用ふるが、寺廟では黄紙を用ひて居
る」とあり、身分や職業によって春聯に使用する、あるいは使用が許される紙の色が違っていた
ことが分ります。

それでは、多くの一般庶民と春聯として使用される赤い紙との関係が成立するのはいつ頃なのか?
調べてみたところ残念ながらそれが「赤い紙」であったのかどうかは分らなかったのですが、私
たちが現在「春聯」と呼んでいる対句が門に貼られるようになったのは、どうやら清朝の前の明
の時代からであったようで、断言は出来ませんが、ひょっとしてその時の春聯が赤い紙であった
のかもしれません。

明の陳尚古『簪雲楼雑説』という本には「春聯之設、自明太祖始。帝都金陵、除夕前忽傳旨、公
卿士庶家、門口須加春聯一幅、帝微行時出現。」という一説があるそうで、ここに書かれたことが
事実だとすると、春聯という対句を門に貼るようになったのは明の太祖が金陵(南京)に都を定め
た大晦日に太祖が突然下した命令(「公卿士庶家、門口須加春聯一幅」)以来ということになりそ
うです。朱元璋が応天府(南京)で皇帝に即位し、国号を明と定めたのは1368年(洪武元年)だと
言われていますから、中国の人たちは、なんと、650年ほどの長きに渡って「春聯」を門に貼り続
けてきたわけです。

ところで、上に書いたように庶民が春聯という対句と付き合い始めた時期はどうやら明の初め頃か
らであったようなのですが、清の梁章鉅『楹聯叢話』には「楹聯之興、肇於五代之桃符。孟蜀、余慶
長春十字、其最古也。」という記事が載っていて、「楹聯(えいれん)」すなわち対句・対聯の興りが
五代の桃符(桃木の板で現在の春聯に当たる)に始まり、五代十国の一つ後蜀(934年~965年)の時の
「余慶長春」などと書いた十字が最も古い例であることがわかります。

ちなみに、この「余慶長春十字」の対句の全容がどんなものであったのかが知りたくて、さらに調べ
てみますと、なんと、「余慶長春十字」なる対句は二種類あり、しかも作者が二人いるという事実、
『楹聯叢話』が最古と記す対句や作者はいったいどちらなのか? という嬉しい「謎」に逢着してしま
いました。

そこで、その二種類の作品と二人の作者名を記すと、一つは「新年納余慶、佳節号長春。」という
十字で、作者は後蜀の第2代皇帝・孟昶(もうちょう・919年~965年)の先生であった辛寅遜。載っ
ているのは宋の楊公文『談苑』。もう一つは「新年納余慶、嘉節号長春。」の十字で、作者はという
と皇帝だった孟昶自身。載っているのは『宋史』。清の梁章鉅はいったいどちらの作品・作者を思い
浮かべて『楹聯叢話』に「其最古也」と書いたのか?

なお、その字数が「十字」ではなく「八字」なのですが、やはり後蜀の時代に書かれ、作品の中に
「余慶」「長春」という言葉が使用されているものが二種類あり、これらも「余慶長春十字」に
かなり近しい位置にありますのでついでに次に挙げておきます。一つは「天垂余慶、地接長春。」で
作者は孟昶の子の孟玄喆。載っているのは宋の『古今詩話』。今一つは「天降余慶、聖祚長春。」で
作者は孟昶 、載っているのは宋の『洛中記導録』。

ここで話しを現在私たちが春聯と呼んでいるものに戻しますが、『燕京歳時記』は「春聯」について
次のように書いています。

“春聯は即ち桃符のことである。”

「桃符」とは『楹聯叢話 』について書いた時に少し触れたのですが、「註」を見ますと「桃木の板
で、古くはこれに門神を描いたり、或は聯語を書いたりし、それを門の旁に懸けて、避邪の意味に
使用した。桃の木が悪鬼を畏れしめると云ふ思想は古代から行はれ、それが門に飾られて桃符となり、
後は唯だ紙を以って代へるに至った」とあり、どうやら春聯の由来を辿るとこの「桃符」に行き着く
ようなのですが、今、先に書いたように孟昶なども対句を書いたという「桃符」についてはさておい
て、以下に上の「註」に見られる、現在も目にし、かつては桃木の板にも描かれたという「門神」に
ついて簡単に触れておきたいと思います。

門神とは、ことわるまでもなく春聯と同じく年の瀬に門扉に貼る護符で、甲冑をつけ、矛を持ち剣
を帯びたいかめしい一対の神様。この二神については「神荼(しんと)と鬱塁(うつりつ)」という二
神だという説や勇名を馳せ、唐の太宗にも仕えた「秦瓊(しんけい)と尉遅敬徳(うつちけいとく)」
だという説など色々あるのですが、先ほどから挙げる『燕京歳時記』の「註」には「神荼・鬱塁」及
び「秦瓊・尉遅敬徳」が門神だと言われるようになった経緯が書かれていて、その内容が実におもし
ろく、ご存知の方も多いかと思いますが次にご紹介。

まずは、『燕京歳時記』の註が挙げる後漢(A.D.25年~A.D219)末の蔡邕(さいよう)『独断』に見
られる「神荼と鬱塁」二神の話。

“海中有度朔之山。上有桃木。蟠居三千里。卑枝東北有鬼門。萬鬼所出入也。神荼與鬱塁二神居其門。
 主閲領諸鬼。其害悪之鬼。執以葦索。食虎。故十二月歳竟。畫荼塁。併懸葦索於門戸。以禦凶也。”
  (拙訳:海中に度朔という山があり、その上に大きな桃の木があった。その木は大きく枝を広げて
   いて、その枝の東北に鬼門があり、さまざまな鬼が出入りするところであった。神荼と鬱塁と
   いう二神がその門にはいて、害をなす鬼を葦縄で捕らえ、虎に食わせていた。それゆえ十二月
   の年の瀬にはこの二神を描き、あわせて葦縄と門戸に懸ける。災いを防ぐためである。)

このお話と同様なものが同じ時代の『風俗通義』『論衡』などにも載っていると「註」にあり、調べて
みたところ、『山海経』からの引用という王充の『論衡』巻二十二「訂鬼篇」に見られる「神荼と鬱塁」
二神の話には『独断』とはほんの少しですが部分的に違っていて、その中の一箇所が私にはとりわけ興
味深く思われました。

“滄海之中、有度朔之山。上有大桃木、其屈蟠三千里、其枝間東北曰鬼門、萬鬼所出入也。
 上有二神人、一曰神荼、一日鬱塁、主閱領萬鬼。悪害之鬼、執以葦索、而以食虎。
 於是黃帝乃作禮、以時驅之、立大桃人、門戶畫神荼鬱塁興虎、懸葦索、以禦凶魅”

文中終わりの方に『独断』には見られない「大桃人」なるものが登場し、門の前か脇か具体的にその場所
は分らないのですが、その大桃人(桃木で作った大きな人形のようなものか?)を中原各族の共通の祖先と
される伝説上の人物・黄帝が立てていて、「大桃人とは何だろう?ひょっとして度朔之山の上にあるとい
う大きな桃の木そのもののことか?」と思ったりするのですが、この大桃人については日を改めて考えてみ
ることとし、ここでは、桃の木で作ったであろう大桃人に関連して、桃の枝を門に挿して魔除けとしてい
たことがあったという話をご紹介しておきます。


尚秉和『歴代社会風俗事物考』(民国27年・1938年刊。引用は秋田成明編訳『中国社会風俗史』)には、
「魔除けに桃の木」を使っている例の一つとして「桃の枝を戸に挿して、葦の灰を下におけば、鬼も畏れる
と考えている」とあり、その出所として注記には『荘子』が挙げられていて、これを読むと鬼退治のための
方法として、神荼などの神様を門に描いたり、神荼などの神様を描いた桃木の板を門に懸けたりする以前に
もっと素朴な形として「桃木」や「桃の枝」自体が使用されていた時代のあったことが推測される次第です。
その時代をあえて書きますと先に見ました蔡邕(さいよう)『独断』が書かれた後漢(A.D.25年~A.D219)
より時代を遡って『荘子』の作者荘子その人が生きたと言われる戦国時代(B.C.403~221年)以前というこ
とになるようです。

話しを神荼と鬱塁に戻しますが、その神荼と鬱塁ついて南朝梁(502年から557年)の宗懍『荊楚歳時記』は
次のように書いています。

“造桃板著戸、謂之仙木。絵二神貼戸左右。左神荼右鬱塁、俗謂之門神。”

神荼と鬱塁は、宗懍の生きた時代には、その配置までがすでに決まっており、しかもこの二神がはっきりと
「門神」と呼ばれていたことが分ります。

さて、『燕京歳時記』の「註」は神荼と鬱塁の話に続き、秦瓊・尉遅敬徳が門神になった経緯を紹介してい
ますが、実在したこの二人が門神だと言われるようになったのは唐代以後のことだそうで、紹介されている
お話は唐の太宗(在位期間626年~649年)にまつわるもの。

“太宗が夜、鬼魅に悩まされて安眠できないので、此二臣を門に立たしめたところ、効験があった。そこで
 遂に画工に命じて彼等の像を描かしめ、これを宮門に懸けた。それを後世沿襲して居るのだと云ふのであ
 る。”

秦瓊・尉遅敬徳が太宗のために鬼を追い払うというお話は『西遊記』に載っていて記憶にもあったのですが、
ここに書かれている話の出所は『西遊記』ではなく他の本のようなので調べてみますと、どうやら道教関係の
『三教捜神大全』という本らしいのですが、残念ながら未見なので書名だけを挙げておきました。

今回は胡同で見かけた「春聯」をきっかけに主に『燕京歳時記』に即しながら春聯や門神、桃符などについて
不備な点、不確かな点が多いことを承知の上で書いてみました。今後これらをめぐってもう少し掘り下げる
ことができればと思っています。

次に春聯と門神について今回書いた範囲内のことをもとにそれらの移り変わりを書いておきます。

〇春聯について

1.桃木が桃符(桃木の板)となる。(年代不明)
2.桃符と呼ぶ板に対句・対聯が書かれる。(後蜀934年~965年頃から)
3.春聯と呼ぶ対句・対聯を門に貼るようになった。(明初1368年以降)

〇門神について

1.桃の枝を門に挿しておく。(戦国時代B.C.403~B.C.221年頃またそれ以前)
2.神荼と鬱塁が描かれ、門に懸けられる(材料は桃符か?)、
 あるいは門戸に描かれる。(後漢A.D25年~A.D.219以降)
3.神荼と鬱塁が桃板(桃符)に描かれ、「門神」と呼ばれている。(南朝梁502年から557年)
4.秦瓊・尉遅敬徳が描かれ、宮門に懸けられ門神となる。(唐太宗の在位期間626年~649年以降)




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