今回は、場所を少し戻り、次の写真右側に写っている家から始めたいと思います。
この写真には、以前ご紹介した窓がいつも開いているお店が左側に写っているのですが、右側には
出入り口の上に鉄柵のある家。
正面。
私が現在歩いているこの界隈では珍しいのではないかと思います。写真では分りにくいかも知れませんが、
玄関の上にガラスの破片まで付けられています。以前ご紹介した窓がいつも開きっぱなしのお店、しかも
店の中に人がいたためしがないお店と対照的な用心深さと言えないこともありません。鉄柵の錆び具合から
考えますと設置してからだいぶ時が経っているようですが、ひょっとして過去に夜間にでも何かあったの
かも知れません。もしそうだとすると十分に納得。それにしても、鉄柵やガラスの破片とは反対に門扉が
開けっぱなしなのはやはり昼間だからなのでしょうか。
ところで、柵のことを書きましたので、この際ですから、ついでにかつて北京の内城外城にあった柵欄に
ついて取り急ぎ調べてみましたので、簡単に触れておこうと思います。
北京でも指折りの繁華街・大柵欄街の“大柵欄”は有名ですが、あれはかつて北京にあった柵欄の一つ
でありました。
(上の写真はかつての前門外大街。右側に五牌楼が見えます。「北京旧影」人民美術出版社より)
(かつての大柵欄。「北京旧影」人民美術出版社より)
北京で柵欄が設置されたのは、外城が築かれる以前の明の孝宗弘治元年(1488年)にさかのぼります。
(ご覧のように外城のない明の初めから外城が造られた北京の移り変わりを示した図。『北京城市
歴史地理』北京燕山出版社より)
当時北京には夜間の外出などを禁じる“夜禁(宵禁とも)”政策があり、夜間には城門は閉められて
しまうわけですが、同時に盗賊などがその身を隠すのを防ぐため、大小の通りの入口にも木の柵欄が
設けられ、もちろん夜間には閉められてしまいます。
次の清朝もこの明制を受け継ぎ、防盗などのために柵欄を通りに設けています。しかし、理由として
清政府の旗民分治(満漢分治)政策により、それまで住んでいた内城から外城に移住させられてしまい、
政府に不満を抱く漢人たちから治安を守るためであったとも言われています。
(写真は、八旗兵たちが住んでいた区域。旗民分治:内城には満州八旗、蒙古八旗、漢人八旗とその
家族、仏教・道教などの寺院関係者が住み、それ以外の漢人役人や商人、手工業者などは外城に
移住させられたわけですが、雍正以後、この制度は次第に緩和されて行ったようです。地図『北京
胡同志』北京出版社より)
では、かつての北京にはどのくらいの数の柵欄があったのかと言いますと、たとえば手持ちの『北京
地名典』などによりますと、清の雍正七年(1729年)から乾隆年間(1736年~1795年)には1746座あり、
やはり清の光緒年間(1875年から1908年)では1700余の柵欄があったそうです。
ちなみに、清末の朱一新(1846年から1894年)という人の『京师坊巷志稿』という本には、大小の通りが
2077本、その内、「胡同」という名のつくものが978本という記録が見られるようですが、朱一新の生き
た時代が光緒年間と重なることに注目しつつ、2077本という通りの数と1700余という柵欄数とを並べて
計算してみるとどのような結果が出るか、ためしに計算してみるのも一興かもしれません。
(国家図書館蔵。清・朱一新 撰『京师坊巷志稿』。『北京的胡同四合院』北京燕山出版社より)
かつての北京の様子を知るための資料には色々ありますが、その中の重要なものの一つに過去に描か
れた絵があります。例えば『康煕・万寿盛典図』もその一つ。見ると胡同の入口に設けられ
た柵欄はもちろんのこと、四合院住宅と思われる家の中庭、道の真ん中で物を売る商人、大通りの店舗
の看板、井戸とその周りに集まる人々や道行く人々の様子などが分り、見ていると清の時代の北京の
街を歩いているかのような錯覚に陥り、実に楽しくなってしまいます。仮にたとえそうでなくとも、
当時の柵欄がどのようなものであったのかが分かるだけでも十分にお役に立つのではないでしようか。
ご興味のある方は、ぜひご遊覧ください。
この写真には、以前ご紹介した窓がいつも開いているお店が左側に写っているのですが、右側には
出入り口の上に鉄柵のある家。
正面。
私が現在歩いているこの界隈では珍しいのではないかと思います。写真では分りにくいかも知れませんが、
玄関の上にガラスの破片まで付けられています。以前ご紹介した窓がいつも開きっぱなしのお店、しかも
店の中に人がいたためしがないお店と対照的な用心深さと言えないこともありません。鉄柵の錆び具合から
考えますと設置してからだいぶ時が経っているようですが、ひょっとして過去に夜間にでも何かあったの
かも知れません。もしそうだとすると十分に納得。それにしても、鉄柵やガラスの破片とは反対に門扉が
開けっぱなしなのはやはり昼間だからなのでしょうか。
ところで、柵のことを書きましたので、この際ですから、ついでにかつて北京の内城外城にあった柵欄に
ついて取り急ぎ調べてみましたので、簡単に触れておこうと思います。
北京でも指折りの繁華街・大柵欄街の“大柵欄”は有名ですが、あれはかつて北京にあった柵欄の一つ
でありました。
(上の写真はかつての前門外大街。右側に五牌楼が見えます。「北京旧影」人民美術出版社より)
(かつての大柵欄。「北京旧影」人民美術出版社より)
北京で柵欄が設置されたのは、外城が築かれる以前の明の孝宗弘治元年(1488年)にさかのぼります。
(ご覧のように外城のない明の初めから外城が造られた北京の移り変わりを示した図。『北京城市
歴史地理』北京燕山出版社より)
当時北京には夜間の外出などを禁じる“夜禁(宵禁とも)”政策があり、夜間には城門は閉められて
しまうわけですが、同時に盗賊などがその身を隠すのを防ぐため、大小の通りの入口にも木の柵欄が
設けられ、もちろん夜間には閉められてしまいます。
次の清朝もこの明制を受け継ぎ、防盗などのために柵欄を通りに設けています。しかし、理由として
清政府の旗民分治(満漢分治)政策により、それまで住んでいた内城から外城に移住させられてしまい、
政府に不満を抱く漢人たちから治安を守るためであったとも言われています。
(写真は、八旗兵たちが住んでいた区域。旗民分治:内城には満州八旗、蒙古八旗、漢人八旗とその
家族、仏教・道教などの寺院関係者が住み、それ以外の漢人役人や商人、手工業者などは外城に
移住させられたわけですが、雍正以後、この制度は次第に緩和されて行ったようです。地図『北京
胡同志』北京出版社より)
では、かつての北京にはどのくらいの数の柵欄があったのかと言いますと、たとえば手持ちの『北京
地名典』などによりますと、清の雍正七年(1729年)から乾隆年間(1736年~1795年)には1746座あり、
やはり清の光緒年間(1875年から1908年)では1700余の柵欄があったそうです。
ちなみに、清末の朱一新(1846年から1894年)という人の『京师坊巷志稿』という本には、大小の通りが
2077本、その内、「胡同」という名のつくものが978本という記録が見られるようですが、朱一新の生き
た時代が光緒年間と重なることに注目しつつ、2077本という通りの数と1700余という柵欄数とを並べて
計算してみるとどのような結果が出るか、ためしに計算してみるのも一興かもしれません。
(国家図書館蔵。清・朱一新 撰『京师坊巷志稿』。『北京的胡同四合院』北京燕山出版社より)
かつての北京の様子を知るための資料には色々ありますが、その中の重要なものの一つに過去に描か
れた絵があります。例えば『康煕・万寿盛典図』もその一つ。見ると胡同の入口に設けられ
た柵欄はもちろんのこと、四合院住宅と思われる家の中庭、道の真ん中で物を売る商人、大通りの店舗
の看板、井戸とその周りに集まる人々や道行く人々の様子などが分り、見ていると清の時代の北京の
街を歩いているかのような錯覚に陥り、実に楽しくなってしまいます。仮にたとえそうでなくとも、
当時の柵欄がどのようなものであったのかが分かるだけでも十分にお役に立つのではないでしようか。
ご興味のある方は、ぜひご遊覧ください。