北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第221回 北京・蘇州胡同(9) 日本占領下の臨時政府とその要人ノート(その四)

2019-03-31 10:36:28 | 北京・胡同散策
紫石旅館の前には、幹から生えた枝のように一本の路地が伸びています。



行ってみたいと思います。



遠目に見た感じでは、こちらの路地には民国風の建物が多いようです。

通れませんの札。



ドアは今風。





でも、造りは民国風。



この手の造りが多いのが、この路地の特徴のようです。




どんどん行きます。



門扉の上の飾りが伝統的なものも。



玄関や外壁などに見られるちょっとしたお洒落。
単なる飾りではなく、道行く人への実に何気ない雄弁な挨拶にもなっているんじゃないか。



行き止まりではなく、左手にはさらに細い路地。



まだまだ行きます。





こちらは、年季の入った、渋い木製の門扉。



見る者の眼差しを拒まない温かみや柔らかさ。
奥から放たれる渋い輝き。年季の入った把手のなんと艶っぽいことか。
そして、把手の非対称の美しさ。
思わず接写。





さらに行きます。





こちらが、この路地の最北端。
やっぱり木製の門扉。






【今から80年ほど前のこと】

1937年12月14日、つつがなく中南海公園居仁堂で成立式を終えた王克敏を中心とした
中華民国臨時政府でしたが、その後、新政府は政府としての力を十分に発揮することが
できなかったようです。

梨本祐平さんの『中国のなかの日本人』は、
「その後の中華臨時政府の運航は決してスムーズではなかった。軍は新政府を育成しよ
としないで、また例によって、いろいろないやがらせに似たことばかりを始めていた」
として、軍部がらみの三つの行政組織をあげています。

〇新民会
“中華臨時政府の成立と同時に、新民会が生れた。新民会は満州の協和会、国民政府の
国民党というように、政府の土台になる勢力であるとして自負して、占領地区の主要
地区に支部を置き、農村工作と称して農民への働きかけを開始した。”

”首脳者はいずれも満州で経験があるという日本人ばかりで、中国人も役員の中に名前
は列ねていたが、人物も三等級ばかりの連中が多く、指導力も発言力も微弱だった。
軍は新民会に肩を入れて、政府を軽蔑するので、地方に出ると、政府の行政機関より
新民会の方が威張っていて、あたかも、二重政治の感を呈した。”

〇宣撫班
“もう一つ、軍機関として「宣撫班」なるものができた。これも満州で経験を持つ八木
沼丈夫(藤原義江がビクター・レコードに吹き込んで、全国に流行した軍歌『どこまで
続くぬかるみぞ、三日二夜は食もなく、雨降りしぶく鉄かぶと・・・』の作詞者)が団
長で、占領地域の宣撫工作をするというので、きわめて強大なる力をもっていた。たと
えば、税金の減免や食糧の徴発などを勝手に行なうなどして、行政機関を悩ませた。”

〇華北合作社総会
“華北に権力を持つ行政機関はこれだけではなかった。興亜院の農政課は、「華北合作
社総会」を組織して、華北に合作社運動を展開しようとしていた。”

上の三つの行政組織について梨本さんはこんな感想をもらしています。
「こんなに二重三重にもの組織に立ちふさがれては、王克敏がいかに努力しようとして
もうまくゆくものではない。王克敏は、華北の経済復興や戦災に悩む農民の救恤に王蔭
泰の手腕を期待しているが、王蔭泰にいかに卓抜の才があるとはいえ、このように掣肘
の多い現況の下で、いったい何ができるだろうか?」、また「特務機関、新民会、宣撫班、
農村合作社等の中間機関にさえぎられて、新政府の行政権などは顧みられもしない。新
政府は北京、天津で空転しているだけである」。

なぜ、軍部は新政府を華北地域を真に統治できる実力を持つ政府に「育成」しようとはしな
かったのか。なぜ軍部は横車を押すようなことをするのか。こんなことでは新政府の育成ど
ころか政府の威信はがた落ちではないか。

この魅力的な疑問に対する詮索はここではひかえ、次に新民会や宣撫班などに対する、王克
敏や王蔭泰の反応を上掲書より書き抜いてみました。確かに王克敏率いる臨時政府は日本に
協力的な親日派の集まりではあったのですが、しかし、そこに軍部の意向に全面的に同調し
ていたわけではない王克敏たちの姿をいささかなりとも垣間見ることができるからなのです。
更にいえば、同じ国民でありながら、かたや抗日を唱え、かたや親日の立場に身を置き、同
じ国民同士が対立しにらみ合わなければならなかった当時の中華民国という国の深い苦悩の
カタチのひとつをそこに見る思いがして仕方がないからなのです。

“「私はあなたが意欲的に政治をやろうとすれば、かならず軍と摩擦は免れない。どうか、
しばらくの間隠忍していただきたい」
と衷心から王蔭泰に自重を求めると同時に、彼を上海から引っぱり出していながら、こ
のような状態のなかに苦しませることは心苦しい、と述べた。すると彼は、
政治は一律ではありません。千変万化するのが政治です。決して心配はいりません。軍
といえども、そのうちには眼が開きます。梨本先生、そんなことを気にする必要はあり
ません。中国の生命は長いのです。私は本質的な中国の建直しを考え、一歩一歩土台を
築いてゆきたいとおもいます」
さすがに、と私は思った。軍の横車を適当にあしらいながら、中国の建設に力を尽くそ
うというのが、彼の意図だ。”

また、

“王克敏や王蔭泰はさすがに動揺しなかった。腹の中で考えていることは別として、じっと
隠忍して、顔に倦怠の色を少しもあらわさない。そんなことは覚悟の上だ、というわけで
あろう。松岡洋右氏はよく、「中国人は日本人と違って、忍耐強いことは驚くほどだ。腹
の中で怒っていることは、絶対に顔にあらわさない」と言っていたが、全くそのとおりだ、
と私は感服した。
王克敏に会っても、王蔭泰に話しても、
「梨本先生、もう少し隠忍して時機を待つより仕様がありません。見ていてご覧なさい。
こんな政治が長くつづくわけがありません。もう少し隠忍すべきです」
と反対に私が慰撫される始末。その確信あり気な言い方には、何か不気味なものを感じさ
せられるほどであった。”

その後、「忍耐強い」王克敏や王蔭泰の意思とはかかわりなく、ある出来事がおこります。
それは臨時政府の息の根を止めてしまうほど大きな出来事だったと言ってよいかもしれません。


【現在のこと】

そのほとんどが民国風建物で占められた路地をあとに、ふたたび東方向へ。



左手に「東城蘇州社区養老服務駅站」という施設。



その並びの外壁に興味深いプレートが貼られていました。



2014年に蘇州胡同を訪れた際、ここが店舗や看板の多い通りであったことは前に
紹介させていただきました。

しかし、今回このプレートを見て、当時あれほど多かった店舗や看板がすっかり姿を
消し、通りの様子が信じられないほどに一変してしまった理由を知り、「なるほど」と
合点がいったしだいです。


プレートには「街巷環境整治提昇公示牌」と書かれています。

その下に「街巷管理“十無”標準」とあり、10の項目が並んでいました。
繁体字と簡体字が混じっている点はお許しください。

1、無違法建設 2、無違規開墙打洞 3、無違規広告牌匾標識 4、無凌空架空线
5、無違法違規経営 6、無車輛乱停乱放 7、無乱堆物料及暴露垃圾 8、無私設地桩地鎖
9、無乱貼乱掛乱画 10、無違規出租転租

さらに、「“文明街巷”創建標準」とあり、5項目が書かれていました。

1、公共環境好 2、社会秩序好 3、道徳風尚好
4、同創共建好 5、宣伝氛围好


道理で様子が変わったわけだ。
商売を営んでいた人たちは、いったいどこへ行ったの?
旧北京城外に移ったとしたら、城内の人口は減少か?

乱雑さをきわめるようにして店舗や看板が立ち並んでいても、そこには
これと名指すことのできない秩序があり、美しさがありました。ただただ
それらの店を眺め歩くだけでもこの上なく楽しかった胡同が一つずつ消え
ていくようです。


さらに行きます。





北京国際職業教育学校。



学校の前には、またまた路地がありました。



路地の奥に洋館らしき屋根が見えるじゃありませんか。







重厚な門扉。
護門鉄もついています。



視線を玄関脇に移すと、金属製のハシゴ。



ハシゴの上にはハト小屋。



決まった時間になると大空に放します。
ハトはもちろんのこと、大空から降ってくるハト笛の音が好きなわたしとしては目が輝いてしま
います。胡同の上空を旋回するハトの群れやハト笛の音は欠かすことのできない北京の風物詩の一
つなんですが、近頃は聴いてないのが残念。







今は使われていない屋台。
かつて露天で何か食べ物を売っていらっしゃったんでしょうね。

東京なんかでも駅の近くには、おでんやラーメンの屋台が出ていたものですが、今はほとんど
見かけなくなりました。

子供の頃には、夜中にチャルメラの音とともに夜鳴きソバ屋さんが屋台を引いていて、
冬の寒い夜、大人のまねをして夜更かししているときなんかには、親にラーメンを食べ
ることを許してもらい、急いで外に飛び出して、
「おじさん、ラーメンちょうだい」
と声をかけたものです。あのアセチレンガスの匂い、立ち昇るあの白い湯気。
寒い冬の夜に食べるラーメンの独特なうま味を引き立てていました。そして、
そのうま味に舌鼓をうち、ちょっと大人になったような気分になったものです。



近づいてきました。



洋館の門前まで来ると、右手にはアパート。



左手には、細い通路。





これが玄関です。



中華風の玄関と洋館との取り合わせが、なんともまぁ、独特の雰囲気を
醸し出していました。

【今から80年ほど前のこと】

◎再び「新民会」「宣撫班」を取り上げてみました。

先に新民会、宣撫班という言葉が登場しました。歴史に疎いわたしは、もう少し知りたいと
思い、手持ちの書籍のページを繰ってみました。幸いにもこの二つの組織についての記述が
あったので、次に掲げておきたいと思います。当時の時代状況を知る上での一助ともなれば
嬉しいです。

〇新民会について

引用は昭和十六年十一月二十日発行、同十七年三月一日八版『北京案内記』(新民印書館)。
引用に当り、旧漢字を新漢字に改めています。

“新民会は新民主義を奉じて政府と表裏一体の華北民衆団体であって、中日満の共栄
並びに共産党の撲滅を期し、世界和平に貢献するを以て目的とするものである。
  
会長 王揖唐(現政務委員会委員長)(注を参照)
  副会長 安藤紀三郎、殷同

その綱領とするところは次の如くである。
新民会綱領
 一、新民精神を発揚し王道を表現す
 二、反共を実行し文化を復興し平和を確立す
 三、産業を振興し人民生活を改善す
 四、善隣締盟以て東亜新秩序を建設す

而してその事業として思想、教化、厚生の三大工作に分れて都市に農村に新民精神
の普及、剿共滅共運動、日満華提携の思想戦を展開し、青年層の教育、訓練を主
眼として訓練所設立、青少年、婦女団に対して働きかけている。
次に合作社、労工協会に力を注ぎ民衆の厚生、医療工作に輝きしき成果を挙げつつ
ある。
その出版物としては、外郭機関紙としての「新民報」があり、新民会会報、新民主
義、新民精神、新民週刊、新民小叢書、青年首都画報等を出している。”
(注)「政務委員会」。1940年(昭和15年)3月30日、日本の協力の下、蔣介石の政
府に対抗する形で王兆銘の国民政府が南京に成立すると同時に中華民国臨時政
   府はその傘下に入り、その名称を「華北政務委員会」と改めています。出典の
『北京案内記』の発行が昭和16年であるため「政務委員会」となっています。

〇宣撫班

引用は『日本人にとっての中国像』(竹内実、1992年8月20日発行、同時代ライブラ
リー、岩波書店)。

“宣撫班は平和・人道の戦士として、皇軍部隊(注)に従属し戦火の跡、生々しき地域
に於て、戦火に怯え敗敵の掠奪放火に周章狼狽して、帰属するところを知らざる民
衆に対し、皇軍出師の真精神を教え、(1)民心を安定せしめ、(2)治安の速かなる
恢復及び維持、(3)共産抗日思想の一掃、(4)産業、経済、交通、文化の復興・建設
に対する指導、(5)明朗北支建設に対する協力、を為すものであって、宣撫班は占領
地域の凡ゆる文化的復興及び建設の前衛的使命を双肩に担うものである。”

上の(1)から(4)の各項について、さらに次のように書かれています。

“ (1)宣撫班の使命及び目的が「民心の安定」と「治安の恢復」にあるため、宣撫班
は常に皇軍部隊に従って戦線地区に活躍する。即ち宣撫班が皇軍に次で占領地区
に入れば、先ず宣撫班の来りたる旨を最も有効なる方法を以て民衆に知らしめ、
皇軍部隊、県公署(大多数は潰滅している)、公安局(同上)、商務会、等凡ゆる機
関及び地方有力者と連絡し、有効適切なる工作を、戦禍生々しき地に展開する。
イ、離散民衆の帰来工作 ロ、民衆の鎮定安撫 ハ、自衛団の組織及び訓練
二、民心の獲得
(2)戦争直後の民衆の動揺が安定して来ると、難民救済等、社会政策的工作に着手す
る。
   イ、難民の救恤 ロ、施療、施薬 ハ、問事処の開設 二、小新聞の発行
ホ、不在家財の安全保管 ヘ、良民財産の保護 ト、篤行者の表彰
   チ、戦争に因る死傷者の慰撫
(3)以上の諸工作と相俟って、地方都市、農村の可及的速かなる経済復興を計るべ
き諸工作を開始するが、それを具体的に示すと、
イ、金票、準備銀行券の流通促進 ロ、農作物刈取促進 ハ、市場の開設
二、農作物の売買、物資購入の斡旋
(4)イ、抗日、共産主義教育の撲滅 ロ、日本語の普及 ハ、日本の実情紹介 その外
鉄道愛護村の結成とか、愛路青少年隊の育成指導等。”
  (注)皇軍について。ある本によると“満州事変勃発(1931年9月18日ー引用者)の頃
までの陸軍の自称は「国軍」だった”とのこと。軍隊が「天皇親率の軍隊=皇軍」
であるという自己認識が強調されるようになったのは、軍部が政治に介入する
ようになってからで、介入が本格化するのは、精神主義的で皇室至上主義的で
あった「皇道派」の有力メンバーのひとり、荒木貞夫中将が1931年12月、陸軍
大臣に就任後のことで、荒木さんは32年、33年にかけて皇軍意識の重要性を盛ん
に「鼓吹」するようになったそうです。(参照、引用『日本の軍隊ー兵士たちの
近代史ー』吉田裕著、2002年12月発行、岩波新書)



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