北京・胡同窯変

北京。胡同歩きが楽しい。このブログは胡同のあんな事こんな事を拙文と写真で気ままに綴る胡同お散歩日記です。本日も歩きます。

第220回 北京・蘇州胡同(8) 日本占領下の臨時政府とその要人ノート(その三)

2019-03-24 11:25:36 | 北京・胡同散策
来た道を元のところに引き返し、再び東方向に歩き出しました。



左手に見えるのは「中共蘇州社区委員会」ならびに「蘇州社区居民委員会」の
施設です。





上の建物の真向かいには、公共トイレ。





先ほどの「中共蘇州社区委員会」ならびに「蘇州社区居民委員会」のはす向かいには
こんな風景が広がっていました。





この景色、以前見たことがあるような・・・。



「見たことがあるような・・・」ではなく、確かに「紫石旅館」という文字は見たことがある。





そこで帰宅後、写真を探してみると、やはりありました。



撮影は2014年の10月18日。



でも、何かが違う、何かが違うんですよね。

しばらく2014年に撮った写真と今回のものとを比べていると、「紫石旅館」という看板のある
玄関の位置が違っていることが判明。

現在の旅館の看板と玄関は、2014年の場所より、もっと手前にあり、見方を変えていえば、
2014年の時の玄関と看板は、現在の場所より、もっと奥に位置していたのです。

現在の写真で言うと、2014年のときの玄関と看板があったのは、赤い矢印のところ。



そして、この旅館に関して、もう一つ違っているのは、現在、看板のある玄関が、
2014年には、こんな風だったことでした。




【今から80年ほど前のこと】

「旅館」という文字を見つめすぎたためでしょうか、それとも他に原因があったのかは
わからないのですが、日本占領下の蘇州胡同に、「鶴屋ホテル」「南洲屋」という二軒の
日系宿泊施設や「北京みやげ屋」というやはり日系の土産物店があったことを思い出しま
した。(詳しくは「第216回 北京・蘇州胡同(4) 日本占領下、日系おみやげ店や日本旅館
があった。」をごらんください。)

しかし、思い出したのは決してそれだけではありません。

心をよぎったのは『北支那開発株式会社之回顧』(昭和五十六年十月一日発行、編集者/
発行者槐樹会刊行会)という題名の一冊の本でした。

これは、日中戦争当時、北支那開発株式会社(詳しくは後述)の社業に従事していた社員
有志の皆さんが当時のことを書き綴った貴重な記録。その記事の一つに、なんと、当時
の蘇州胡同にまつわる話が載っていたのです。

“その頃(注1)、私は西四(注2)を出て東単蘇州胡同の東方印書館に寄宿していた。
 東方印書館というのは、飯河の父君道雄氏が経営しておられた中国語学習書の出版
社であって、三階建の広い洋館に、飯河が才色兼備の二人の姉君と住んでいたので、
私は〇〇、△△(注3)と共に厄介になったのであった。”
(注1)太平洋戦争末期の頃。(注2)故宮博物院の西側にある繁華街で、当時、開発
会社の独身寮があったようです。(注3)人名が入ります。

まず、気になったのは、残念ながら住所が書かれていないのですが、「三階建の広い洋館」と
いう言葉でした。

「ひょっとしたら、ひょっとするかも・・・」、
そんなことをつぶやきながら、次の洋館を思い浮かべたりしたものの、もちろんこれは
わたしのまったくの妄想でしょう、きっと。



次に気になったのは、その「三階建の広い洋館」が“東方印書館”という出版社であったこと。

この出版社は、記事の中にもあるように飯河道雄という方が経営していたわけですが、出版社
と飯河さんについてもう少し調べてみると、この飯河道雄さんという方は、“冀東防共自治政
府(1935年 - 1938年、河北省東部にあった日本の傀儡政府。長官は殷汝耕、首都は通州ー引
用者)の委嘱を受けて、東亜文化協会をつくり、「中央離脱・防共・善隣」という趣旨に基づく
冀東地区小学校教科書の編纂・出版・配給業務をおこなっていた”ことが判明しました。(引用
は、慶應義塾大学学術情報リポジトリ『新民印書館について』黄漢青、2009、電子版)

また、上掲の黄漢青さんの『新民印書館について』という論文を読んでいて、より一層興味
深く感じたのは、飯河道雄さんという人物が、日本の大手出版社の一つ・平凡社の創業者で
ある下中弥三郎さんが1938年、日本占領下の北京で“新民印書館”という出版社を設立した
際の有力な協力者の一人であったことでした。

この新民印書館の出版物の一つに『北京案内記』(昭和十六年十一月二十日発行)という本がある
のですが、わたしが占領下の蘇州胡同に「鶴屋ホテル」「南洲屋」という二軒の日系宿泊施設や
「北京みやげ屋」というやはり日系の土産物店があったことを知ることが出来たのは、この『北
京案内記』という本のお蔭だったのです。

しかもです。
黄漢青さんの上掲論文によると、新民印書館が教科書出版などの事業を開始するのは1938年6月
からだったそうなのですが、なんと、当時の新民印書館の所在地は「蘇州胡同155号」だったと
いうから驚きではありませんか。


さて、上に東方印書館、その経営者飯河道雄さん、新民印書館、その経営者下中弥三郎さん、北京
案内記、蘇州胡同のそれぞが結びついていることを書きましたが、ここでいよいよ肝心の中華民国
臨時政府の登場です。上掲論文には次のような記事がありました。

“新民印書館が取り扱った様々な業務の中で最も重要なのは、中華民国臨時政府教育部編審会
が編纂した小中学校用「国定」教科書の印刷、販売である。”

どうやら下中さんと中華民国臨時政府の間には二者を結びつける「太いパイプ」があったようで、
そのパイプ役になったのは特務部長喜多誠一と特務部総務課長根本博という二人の人物。

下中さんは、新民印書館設立前に、北京でこの二人に面会しているんですね。上掲論文は下中さん
がこの二人に面会をしたのは「この二人が中華民国臨時政府と深く関わっていたからであろう」と
推測しておられます。

臨時政府と特務部長喜多誠一、特務部総務課長根本博二人の関わりあいについて触れておきますと、
1937年8月創立の北支那派遣軍(司令官寺内寿一大将)は特務部を設置、その時特務部長に選ばれた
のが喜多誠一さんで、その任務はといえば華北地域で新政権を作ることだったと言われています。

喜多さんは新政権のトップを担う人物として最終的に王克敏を起用しようとするのですが、その時、
王克敏さんの説得工作を行ったのが根本博さんだったそうです。中華民国臨時政府設立の背後に
北支那方面軍の存在があったことは知ってはいたものの、そこに根本博という人物がいたことは
今回初めて知りました。


やっと中華民国臨時政府にたどり着くことができました。ここで再び新民印書館の所在地について
触れておきたいと思います。

先に新民印書館の所在地が「蘇州胡同155号」であったことを書きましたが、『北京案内記』の奥付
では、「北京阜成門外北礼士路」(いつ頃この地に移転したのかは不明)となっています。

やはり上掲論文によると「敷地は12000坪、建物は3000坪ほど、敷地内にはテニスコート、野球場、
バレーコート、サッカー場が備えられていた」とのこと。かなり広大な敷地だったんですね。


上の地図の赤い矢印の部分が「新民印書館」の会社と印刷工場。旧北京城の西北部「阜成門外北礼士路」
にありました。私立成達中学校の校舎を借り入れて工場に充てたそうです。戦争終了後の1945年11月、
蔣介石率いる国民政府に接収され、「正中書局北平印刷工場」と改名されています。地図は『北京案内
記』に収められているものの一部。



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