昨日は初盆で。
奥様の親戚が集まり読経。浄土真宗でたまたまウチの実家と一緒。
南無阿弥陀仏
それにメロディが入る。
お経をあげて、ご先祖様を家に導くといった意味合い。
大きな白提灯を玄関先に吊るし、道案内。
読経の後は、親戚一同で昼食。
お墓のある離れたところへは、大体夕方16:00には設置型の提灯を持ってお参り。
地域や知り合いの方々がご挨拶的に線香をあげて、一言二言話をする。
本当に仲の良い人が来てくれたら、話し込む。
そんな人間関係の縮図がお墓の前で繰り広げられていく。
私はスーツのズボンにワイシャツで汗だく。
「喉渇いたぁ」といいながら2時間はいた。
そして考える。
「この風習は何処のお墓でもするのか?」と。
webで調べてみると、「浄土真宗の初盆は・・・」とある。
結局、今行っている提灯や読経、迎え火・送り火、親戚での食事、お供え、お墓での2時間などは全て「地元の風習」ということ。
浄土真宗はいつでもどこでも「南無阿弥陀仏」なのだ。「何かをしなければいけない」「こうあるべき」は少ないのだ。
そう考えると、人間関係のしがらみは昔より現代人の方が複雑で形骸化(かたちだけ)しているように感じる。
お盆も「仏教」とは違う風習なのだ。
シルクロードを伝って日本伝来した独自の宗教観なのだ。
かといって、私は否定的ではない。
親戚が「無理矢理でも」集まり、甥っこ・姪っ子や関係性の全くわからない義理の叔父さん・叔母さん、お義父さんの従兄弟と顔を合わす意味はある。
今回は小学生の3姉妹が唯一の子供たちで、
「小学校で“嵐”がスゴイ人気である」こと、
「学校の先生が優しい」こと、
「男子のドッジボールに参加する時はおしゃべりしない!と注意されている」ことなど、
とってもよくしゃべる子が話をしてくれた。
話のところどころで
「オジちゃんは・・・」
と挟む事にチョット
「んっ(゜o゜;;」
とおもいながら、
「確かに完全なるオジちゃんだし間違ってはいないね」
と心で思った。
小さな声で
「お兄ちゃんね」って言ってみたけど
聞こえなかったみたい。
なかなか、ヤるね(;゜0゜)
しかし帰る段階では「あっけないもん」で
次に会うのはいつになるのやら。
もうあんなに話しかけてくれないんだろうね。中学生になったら。
暑い夏の一日でした。